トントン、と父親の寝室の扉を叩く。
「お父さん、朝だよー」
「ん……ああ、グレイか。はいはい、起きているよ」
中から少し擦れた、けれど穏やかな声が返ってきた。パタパタと足音が近づき、扉が開くと、着替えを済ませた父親が少し眠そうに目を細めながら顔を出した。
「おはよう、グレイ。起こしに来てくれてありがとう」
「うん、おはようお父さん。お母さんがスープできたって」
「そうか、すぐにいくよ」
父の頭をぽんとなでる手に引かれるようにして、二人は居間へと向かった。
居間へ足を踏み入れると、朝のブエナ村の長閑な風景が大きな窓越しに広がっていた。
大国アスラ王国の東端に位置するこの村は、広大な農地と緑豊かな森に囲まれた静かな地だ。
朝靄がゆっくりと晴れていく中、遠くからは畑仕事へ向かう村人たちの作業音や、放牧された家畜の鳴き声がかすかに聞こえてくる。爽やかな朝の風が木々の葉を揺らし、土と草の匂いを運んでくる。どこまでも平穏で、変わらない日常がここにはあった。
食卓には、母親が作ってくれたあたたかい野菜スープと、香ばしく焼き上げられたパンが並んでいる。
「二人とも、そろそろ冷めちゃうわよ」
「すまない、少し寝坊してしまったね」
父親が椅子を引き、家族三人で食卓を囲む。温かいスープを口に含むと、野菜の甘みが広がって体がじんわりと温まった。行商で家を空けることも多い父親だが、こうして家にいる朝は、いつも穏やかで満ち足りた時間が流れていた。
朝食を終え、母親が食器を片付け始めると、父親は思い出したように立ち上がり、壁際に置いてあった革の旅鞄へ向かった。
「そういえばグレイ。今回の行商で、お前に土産があってね」
「お土産?」
父親が鞄から取り出したのは、
羊皮紙を紐で束ねただけの粗末な小冊子で、中をめくると手書きの文字と拙い挿絵が並んでいる。
居間のテーブルに腰掛け、それをグレイの前へと置く。
「本……? お父さん、これなあに?」
「今回の行商先でね、取引相手の商人と世間話をしたんだ。『うちにも今年で4歳になる男の子がいてね』と話したら、向こうの主人が急に乗り出してきてね……」
父親は苦笑いを浮かべながら、その時の様子を語り始めた。
「『男の子なら剣術の一覧くらい嗜んでおくべきだ! 剣が振れなきゃ男がすたる!』なんて熱弁されてね。私は『うちの子はまだ幼いですし、剣術なんて……』と一度は断ろうとしたんだよ。だが向こうも引き下がらずにね、『安くしておくから持っていけ、読めなくても文字の練習くらいにはなる!』と強引に押し切られてしまってね」
「えぇ……お父さん、断れなかったの?」
「はは、商売人としては情けないがね、あの勢いには抗えなかったよ。だが、これも何かの縁だと思って持ち帰ってきたんだ」
父親は知的で優しい目を細め、グレイの頭を優しく撫でた。
「『剣神流指南書』……。世界で広く知られる大きな三つの流派のうちのひとつだね。まあ、お前が興味を持てそうなら読んでみるといい。もし読み方の分からない文字があったら、いつでも聞きに来なさい」
「うん……ありがとう、お父さん」
グレイは両手でその重みを受け止めた。
行商人の息子として、グレイは日頃から父親に読み書きを教えてもらっている最中だった。自分専用の本をもらえたこと自体はどこか誇らしく、グレイは本を大切に胸に抱えると、自分の部屋へと階段を駆け上がっていった。
◆
自室のベッドに腰掛け、グレイは窓から差し込む陽光の中でページを開いた。
羊皮紙の独特の匂いと、古びたインクの匂いが鼻腔をくすぐる。指先で文字をなぞりながら、つっかえつっかえ、覚えたての言葉を口に出して追っていく。
「……『剣神流とは……相手より早く……剣を振り……一撃で……切り伏せる……流派なり』……」
まだ習っていない難しい文字も混ざっていたが、前後の脈絡や父親から習った知識を総動員して読み進めていく。
「……『構えとは……神速の一撃を……繰り出すための……溜めなり。余計な力は……捨て……ただ……刃の軌道に……全霊を……注ぐべし』……」
文字の意味を頭の中で必死に噛み砕こうとするが、まだ4歳の幼いグレイには、理屈としてはよく理解できない。
「余計な力を捨てる」「神速の一撃」といった言葉が、ただ感覚として頭の隅に引っかかるだけだ。
けれど──なぜだろうか。
本に記された武骨な図解や、刃の軌線を描いた挿絵を見つめていると、胸の奥がじんわりと熱くなるような、不思議な高鳴りを覚えた。
「一撃で……切る……」
グレイは本を膝の上に置くと、自分の小さな手のひらを見つめた。
まだ剣など握ったこともない、小さくて柔らかい手。
そのまま日の沈む夕方まで、グレイは自室で何度も何度も本を読み返し、穴が開くほど挿絵を見つめ続けた。
◆
翌日。
すっかり晴れ渡った自宅の庭で、グレイは足元に落ちていた手頃な太さと長さの木の枝を拾い上げた。
表面は少しゴツゴツしているが、小さな両手で握りしめるにはちょうどいい塩梅だった。
昨日、自室で何度も読んだ指南書のページが頭に浮かぶ。
「……余計な力は……捨てる……?」
首をかしげつつ、グレイは両手でしっかりと枝を握り、本に描かれていた図解の真似をして正面に構えてみた。
足の幅を広げ、視線を前方へ向ける。
そして、大きく枝を振り上げ、まっすぐに振り下ろしてみる。
──ぶん。
小さな風切り音が鳴った。
「……んん?」
なんだかしっくりこない。手に力が入っている気がするし、本の挿絵にあったような「まっすぐな軌道」には遠く及ばない気がした。
「もっと……力抜いて……早く……?」
もう一度、息を整えて構え直す。
本に書かれていた言葉を頭の中で反唱しながら、足の立ち位置を微調整し、余分な肩の力を抜いてみる。
──ぶんっ!
さっきよりも少しだけ鋭い音が響いた。
「あ……」
何か、かすかな手応えのようなものを感じた。
グレイは夢中になって、何度も、何度も枝を振り続けた。
上から下へ。ただ愚直に、真っ直ぐに。
最初はぎこちなく、枝が左右にブレていた動きも、振れば振るほどに無駄な力みが抜け、少しずつ鋭さを増していく。
頭の中にある「どうしてこう振るんだろう?」という疑問は解消されないままだ。理屈など何も分かっていない。
だが、枝を振るという行為そのものが、自分の身体と不思議なほどしっくりと噛み合っていく感覚があった。
汗が額を伝い、小さな足が庭の土をしっかりと踏みしめる。
気づけば、空は茜色の見事な夕焼けに染まっていた。
周囲の景色がオレンジ色に溶けていく中で、グレイはなおも集中を切らさず、黙々と枝を振り下ろし続けていた。
「グレイー! もうすぐ夕ご飯よー!」
母親の呼ぶ声が聞こえ、ハッと我に返ったグレイは、その場に立ち尽くした。
握りしめていた枝から手を離すと、掌は泥と木の皮で真っ黒に汚れ、じんと熱を持っていた。
その日の夕食時、母親が温かい料理を配りながら、嬉しそうに父親へ話しかけた。
「あなた、聞いてちょうだい。グレイったら今日、一日中お庭でずっと枝を振っていたのよ。声をかけるのも気引けるくらい熱心な顔をしていてねぇ」
「ほう、あの指南書が気に入ったのかい? 強引に渡された時はどうしようかと思ったけれど、興味を持てたなら良かったよ」
父親が穏やかな笑顔でグレイを見る。
「グレイ、剣術は面白かったかい?」
「うん……なんだか、面白かった。よく分からないけど……ずっと振ってたくなる」
グレイは少し照れくさそうに微笑み、温かいスープを一口口に運んだ。
その夜。
自分の部屋の布団に入り、暗闇の中でグレイはゆっくりと両手を天井に向かってかざした。
一日中木の枝を握り締めていた小さな手は、泥を綺麗に洗い流したあとも少しだけ重く、心地よい痺れと熱が残っている。
かざした自分の手を見つめながら、小さな口からぽつりと呟きがこぼれた。
「……剣術、か……」
その小さな呟きは静かな夜の部屋に溶けて消え、グレイは満足感に包まれながら、深い深い眠りへと落ちていった。
誤字・脱字などございましたら、ご報告いただけるとありがたいです。
また、「原作ではこんな設定だよ」など、気になる点やお気づきのことがありましたら、ぜひ教えていただけると嬉しいです。
まだまだ至らないところも多いですが、楽しんでいただければ幸いです。
よろしくお願いします。