道場の中央。静寂を切り裂くように、二つの気配が激しく衝突していた。
ジノは腰を低く落とし、柄に指をかけた居合の構え。対するグレイは重心を深く落とし、いつでも地を蹴れる体勢で木剣を構えている。
剣の聖地に足を踏み入れてから、すでに三年が過ぎていた。
ほぼ同時期に聖級へと昇格し、ガルの直弟子として名を連ねるようになってから、道場の空気は少しずつ変わり始めていた。
少年の頃のような単純な切磋琢磨ではない。歳を重ねるにつれ、二人を取り巻く環境や視線の交差に、言葉にしがたい複雑な感情が生まれ始めていた。
交差する視線。
床を叩く微かな足音すら途絶え、互いの息遣いと、肌を刺すような闘気だけがその場に満ちていた。
双方が相手の動き出す瞬間を見極めようと、静かに機をうかがっている。
張り詰めた緊迫感が頂点に達し——次の瞬間、両者の爪先が同時に床を蹴った。
踏み込みの速度は、ほんのわずかにグレイが速い。
だが、空気を切り裂く二本の木剣が交差した直後、鈍い衝突音が道場に重く響き渡った。
グレイの手から木剣が弾き飛ばされ、板張りの床を転がっていく。
グレイは膝をつき、打ち据えられた腕を押さえながら荒い息を吐き出した。
「そこまで」
上座で見守っていたガルの声が響き、張り詰めていた空気が緩む。
「……また負けたか」
拭いきれない敗北感とともにグレイが低く呟くと、正面から手が差し伸べられた。
見上げると、木剣を収めたジノが立っている。
「たまたまだよ」
差し出された手と声には、いつもの気遣いが残っていた。
だが、その瞳はまっすぐグレイを見つめることを避け、わずかに斜め下へと泳いでいる。一瞬だけ引きつった口元と、固く握り締められた反対の拳。
勝ち誇るでもなく、さりとて昔のように屈託なく笑うでもない。その微妙な間合いに、二人の間に生じた小さな歪みが静かに浮かんでいた。
「……いや、だいぶ差をつけられたな」
ジノの手を借りずに立ち上がるグレイの横で、ガル・ファリオンが無造作に鼻を鳴らした。
「聖級に上がってから、負けが込んでるな、グレイ」
ガルの眼光は厳しかった。
かつて同じ『光の太刀』を習得したあの日、直弟子として先を行っていたのはグレイだった。
しかし、二人が直弟子となって以降の模擬戦では、ジノに敗北する頻度が明らかに増えていた。
追われる立場だったグレイは今、ジノの背中を追いかける形になっている。
「ジノの成長は目覚ましい。元々は空っぽの奴だと思ってたが……環境が変われば化けるもんだ」
ガルはジノの肩を一度叩くと、視線をグレイへと向けた。
そこには以前のような期待の熱はなく、どこか突き放したような冷淡さがあった。
「このままじゃ期待外れだぞ、グレイ。お前に何が足りねえのか、てめえの頭で考えろ。……直弟子としての価値を、自分で証明してみせろ」
ガルの言葉が重く胸に突き刺さる。
グレイは拳を強く握り直すと、低く答えた。
「……はい、先生」
深夜の食堂。
照明の落とされた暗がりの中で、グレイは一人、机に向かい深く考え込んでいた。
昼間の敗北の感触が、打ち据えられた手首の鈍痛とともに残っている。
最近の伸び悩み。その原因を、グレイは考え続けていた。
ジノの放つ『光の太刀』に対する、決定的な対策——『光返し』。
剣神流において、光の太刀に対抗する手段として、これ以上の最適解はない。基本であり、王道。
だが、ジノの『光の太刀』は速すぎる。
肉体のキレも、初動の踏み込みも、自分の方がわずかに早いはずだった。
相手の身体の軸、滑らかな闘気の起こり、そしてジノが踏み込んでくる「その瞬間」すらも正確に予測できている。
なのに、負ける。
(……なぜだ? 初動を読めていて、自分の方が先に動いているのに、届かない)
光返しをいくら磨こうと、結果としてジノの剣が届く速度に追いつけないのであれば、何の意味もない。
「最近、深夜になるとずっとそうしているわね」
暗闇の中からふいに声をかけられ、グレイは視線を上げた。
食堂の入り口に立っていたのはニナだった。
ニナはゆっくりと歩み寄り、椅子の背もたれに手を置いて、グレイの顔を静かに覗き込む。
普段のグレイなら、ニナとの距離感に少しは戸惑いを見せていたかもしれない。だが今のグレイにはそんな余裕すらなく、ただ力なく息を吐き出した。
「あぁ……ニナか」
「相当悩んでいるのね。ジノに負け続けているのが、そんなに堪えているの?」
「……そりゃな。直弟子になってからのジノの伸び方を見ていると、本当にこのままでアイシャを守り抜けるのか不安になる」
「私もジノと手合わせしたけど、あの『光の太刀』を真っ向から受けるのは不可能よ。光返しを仕掛ける隙なんてどこにもないわ」
「そうなんだよ。勝つ場面が想像できなくなってる」
グレイが固く目を閉じると、ニナは腕を組み、彼の顔を静かに見つめた。
「ねえ……なんだか最近のグレイって、どこか変わったわよね」
「変わった? 昔より体も出来上がってきたし、技術を磨いて聖級にも上がれた。成長はしているはずだけど……」
「そういう目に見える階級や技術の話じゃないわ」
ニナは視線を少し落とし、少しだけ寂しげな声を落とした。
「ここに来たばかりの頃のあなたは……、余裕なんてなくて、生き残るために必死だった。それが……すごく輝いて見えたわ。今のあなたは、なんだか綺麗にまとまろうとしすぎている気がするの」
ニナは組んでいた腕を解き、グレイの座る椅子の背もたれにそっと手を置いた。
「私じゃ、あなたの本当の悩みを解決してあげられないかもしれないけれど……あなたの剣を、私はずっと見てるから。だから、あまり自分を追い詰めないで」
一瞬だけグレイに視線を向けると、ニナは名残惜しそうに手を離し、ゆっくりと廊下へ消えていった。
彼女が去ったあとも、グレイの胸にはその言葉が残っていた。
(綺麗にまとまろうとしてる、か)
頭の中に小さな引っかかりを残したまま、グレイは自室へと戻った。
部屋の中は静まり返っていた。
寝台では、アイシャが毛布にくるまり、穏やかな寝息を立てていた。
グレイは起こさないよう足音を忍ばせ、そっと彼女の顔を覗き込む。
頬にかかった髪を指先で払い、その小さな頬を優しく撫でた。
「……んぅ」
アイシャの唇がわずかに動く。
「グレイお兄ちゃん……」
寝言だった。
けれど、その声を聞いた瞬間、ニナの言葉がアイシャの寝顔と重なり、グレイの中で一つの答えへと変わった。
(……そうだ。俺は、何のために剣を振るっていた?)
あの雪山で、凍えそうになりながら剣を振るっていた理由は単純だった。
アイシャを守るため。傷つけないため。二度と泣かせないため。
雪山に連れ出してしまった彼女を、何としてでも家族のもとへ届ける——ただそれだけの一心で、泥を貪るようにして生き延びてきたはずだった。
それなのに、今はどうだ。
聖級に上がり、ガル・ファリオンの直弟子になり、剣神流の正攻法でジノに勝ちたいなどと、いつの間にか道場の論理に自分を押し込めていた。
(綺麗に勝とうとしてたのか、俺は……。そんなもの、何の役にも立たない)
聖地で身につけた技術も、洗練された身体の使い方も、すべてはアイシャのためだった。
彼女を無事に家族のもとへ帰すために必要な手段として、強さを求めたに過ぎない。
綺麗に勝つ必要なんてない。
ここで身につけた技術と、あの雪山で培った生の執念——すべてをぶつければいい。
グレイはもう一度、アイシャの寝顔を優しく見つめた。
いつも楽しそうに笑う、幼い彼女の姿。
(お前の笑顔を守るためなら、俺はどんな泥だって貪ってみせる)
翌日。
本堂の中央には、昨日とまったく同じ二人の姿があった。
居合の構えで深く沈み込むジノ。対するグレイは、重心を落とした低い構えでじっと相手の起こりを見据えている。
(『光返し』を無理に狙う必要はない。起こりが予測できるなら——)
グレイの思考は澄み渡っていた。
型通りに受けて返す必要なんて最初からない。ジノの『光の太刀』の間合いは、これまでの無数の敗北によって完璧に脳裏へ叩き込まれている。
交差する視線。
張り詰めた緊迫感が頂点に達したその瞬間、ジノの足元から闘気の爆発が起きた。
一瞬で世界が跳ぶ。
踏み込んできたジノの剣が鞘を走る——まさにその瞬間、グレイは意識的に一歩だけ後退した。
完璧に把握した間合いの外へ。ほんの数センチのバックステップ。
絶大な破壊力を持つジノの『光の太刀』は、グレイの肌をかすめることなく空を切った。
(取った——!)
振り抜いた反動で生じる、ジノの一瞬の隙。
間合いを外したグレイは、すかさず地を蹴り、上段から渾身の一撃を振り下ろす。
勝利を確信した瞬間だった。
乾いた打撃音が道場に響き渡る。
グレイの木剣を受け止めたのは、振り抜かれたはずのジノの剣だった。
ジノは振り抜いた勢いを殺さず、瞬時に剣を逆手へと持ち替えることで、グレイの上段斬りを寸分の狂いもなく受け止めていたのだ。
「——っ!?」
目を見開くグレイ。すぐさま地を蹴って距離を取り、再び構え直す。
「そこまで」
上座からガル・ファリオンの声が響き、二人の動きがピタリと止まった。
互いに荒い息を吐き出しながら、木剣を下ろす。
ガルは上座で腕を組み、口元を歪めてグレイを見つめた。
「やっと型から抜け出したか、グレイ」
「……はい」
「初めは型にはまっていくお前を見て、直弟子に選んだのは失敗だったかと思ったがな。時間はかかったが、自分で修正してきたのは褒めてやる」
ガルは無造作に鼻を鳴らすと、視線をジノへと向けた。
その瞳には明らかな賞賛の色が混ざっている。
「ジノ、流石だ。あの逆手への持ち替えでの防御、よくグレイの攻撃を見抜いたな」
「ありがとうございます、剣神様」
ジノは頭を下げてガルの言葉を受け取ると、どこか淡々とした様子で言葉を続けた。
「……今日はもういいですか?」
「あぁ、かまわねえ」
ジノはガルへ一礼すると、一度もグレイと目を合わせることなく、静かな足取りで道場を後にした。
残されたグレイは、離れていくジノの背中をただじっと見つめていた。
(間合いの取り方も、反撃のタイミングも完璧だった。間違いなくジノの虚を突けたはずだ……なのに、防がれた)
冷や汗が背中を伝う。
型の呪縛から抜け出し、泥臭い実戦の勘を取り戻したはずなのに、それでも届かない。
(あいつは……ジノは、一体どこまで見えているんだ?)
遠ざかる背中を見つめながら、グレイの胸の中に新たな戦慄と底知れぬ焦燥が広がっていくのだった。
◆
そこは、上下の感覚さえ曖昧になるような、果てしなく白い空間だった。
その中に、ジノとヒトガミの姿がある。
目の前に立つ白い衣の男を、ジノは静かに見つめていた。
『やぁジノ、どうだった? 僕の助言は役に立ったかな?』
ジノは淡々と返した。
「……あれくらいなら、助言なんてなくても大丈夫でしたよ。神様」
『ははっ、つれないなぁ! でも結果としてガル・ファリオンは君を褒めてくれたし、グレイだって君の底知れなさに驚いていたろ?』
「……それに何の意味があるんですか?」
ジノの声には勝利の余韻もなく、どこか冷ややかな響きだけが漂っていた。
ヒトガミは、さも心配するふりをして言葉を重ねる。
『こういうのは積み重ねなんだよ。いいかい、ジノ? ガル・ファリオンは、グレイという才能の光に目を焼かれているんだ。だからあいつは、君に負け続けているグレイを直弟子から外さない。ガルに君の本当の価値を認めさせたいなら、常にグレイより上に立ち続けて示すしかないんだよ』
ヒトガミは一拍置き、心を揺さぶるように囁いた。
『それに——あのグレイに見下されるのも嫌だろう?』
「……グレイは、そんな奴じゃないですよ」
即座に遮ったジノの言葉には、昔からの友人に対する確かな信頼が残っていた。
だが、その声は以前のような屈託のない明るさを失い、どこか冷たく硬い。
『人は立場が変わればどうなるか分からないよ? だから僕の言う通りにしておけば間違いないのさ』
「……俺は、そんなに不甲斐ないですか? 神様」
自問するようにぽつりと漏らしたジノの言葉に、ヒトガミは甘く笑った。
『そんなこと思い詰める必要はないよ! 君の才能は誰よりも僕が知っている。なんたって君は、この僕に選ばれた人間なんだからね』
脳内に響く声は、まるでジノを労わるかのように優しく、しかし確実にその心を縛りつけていく。
『君はいずれ剣神になり、欲しいもの全てを手に入れる。……そのためにもね、ジノ。それまでは絶対に、グレイより常に前を行くんだよ』
「……わかりました」
短く答えたジノの姿を、ヒトガミは満足げに見つめていた。
完全に歪みきったわけではない。
けれど、友達への思いと神の誘導との間で揺れるその心には、かつてなかった冷たい影が静かに落ち始めていた。