夜の剣の聖地。
本堂の奥にあるガルの自室では、二人の人影が向かい合っていた。
椅子に腰掛けるガルと、その正面に座るニナ。
ニナの表情には、わずかな緊張が浮かんでいる。
「で、話ってなんだ? ニナ」
ガルに尋ねられ、ニナは一度視線を落とした。
頭の中では、ここに来るまでに何度も考えた言葉が巡っている。
けれど、こういう時に迷っていても仕方がない。
ニナは顔を上げた。
「グレイがここを出る時、一緒について行き——」
「ダメだ」
ニナの言葉を遮るように、ガルは即座に言い放った。
あまりに即答だったため、ニナは一瞬言葉を失う。
「……理由を聞いてもいいですか?」
「はぁ、理由ねぇ。分からねえか」
ガルは大きく息を吐き、呆れたようにニナを見た。
「グレイがここに来て最初の一年ほどは良かった。お前も外から来たグレイに警戒心はあったが、剣の腕は認めていた。自分にないものを見つけりゃ、予測の立て方や体の運び方まで、積極的に聞いて取り入れようとしていた」
それは、ニナ自身にも覚えがあった。
グレイの剣は、自分とは違っていた。
相手の動きを読む感覚も、無駄のない体の運びも、学ぶべきものが多かった。
だからこそ、最初は純粋に興味を持っていたのだ。
「でもな、最近のお前はダメだ」
ガルの目が細くなる。
「グレイに向ける目が変わっちまった。剣士に向ける目じゃねえ。女が男に向ける目だ」
「っ……!」
ニナの頬が見る間に赤くなる。
そんな反応を見て、ガルの口調はいっそう厳しくなった。
「剣を見ずに、グレイを追っている。ジノも似たようなもんだが、あいつはグレイに負けねえように剣を磨いてる。少し危ういところもあるが、実力は格段に上がった」
そこでガルは、ニナを真っすぐに見据えた。
「対してお前はどうだ。グレイとギレーヌの試合、何か掴んだか?」
「それは……」
「何も学んでねえだろ。ただ、すごいとしか思わなかったんじゃねえのか?」
「っ……!」
図星だった。
あの試合を見て、確かにグレイの強さには目を奪われた。
けれど、そこから何かを学ぼうとはしていなかった。
ただ、グレイを見ていた。
「ジノ、グレイ、ニナ。お前らは共に剣を学んできたんだろ。それがどうだ。俺様の娘のお前が、グレイに腑抜けてどうする。お前は何がしたいんだ?」
ニナの視線が、ゆっくりと下がっていく。
「グレイと一緒にここを出て、あいつに守られたいのか?」
返す言葉はなかった。
「嬢ちゃんは違うぞ」
ガルは話を続けた。
「ここに来てから、自分で考えてグレイのために動いている。料理も治癒もそうだ。最近じゃ冒険者上がりの剣士に、冒険者としての心構えや危険についても教わってる。ここを出た後のことまで考えて、自分にできることを増やそうとしてる」
アイシャが日々努力していることは、ニナも知っていた。
幼いながらも、できることを探しては学び、グレイのために動いている。
「だから、ここの連中も嬢ちゃんを認めて助けてやってる。お前だって、あいつに優しくしてるだろ?」
ニナは答えなかった。
アイシャが頑張っていることは分かっている。
それを認めていることも、自分の中では間違いない。
けれど、だからこそ考えてしまう。
自分はどうなのだろう。
剣の腕で差をつけられ、そんな自分を仕方がないと思い始めている。
「色恋をするなとは言わねえ。そこは自由だ。だがな……」
ガルは椅子の背もたれに体を預け、面倒そうに頭を掻いた。
「俺様の、剣神の娘がこのままでいいのか? このままじゃ、エリスにすぐ抜かれるぞ」
その言葉に、ニナの肩がわずかに揺れた。
「お前の価値を示せ、ニナ」
それきり、ガルは口を閉ざした。
ニナはしばらく俯いていたが、やがて椅子から立ち上がった。
「……失礼します」
父親の顔を見ることなく、部屋を出ていく。
その表情は、とても人に見せられるようなものではなかった。
扉が閉じると、ガルは深く息を吐いた。
「はぁ……なんで俺様が娘の色恋のアドバイスなんかしてんだよ」
グレイがここに来てから、剣の聖地には新しい風が吹いた。
ジノもニナも強くなった。
特にジノの成長は、異常と呼べるほどだった。
だが、ニナは違う。
剣に向けていたはずの視線が、いつの間にか別のものを追うようになっていた。
父親として、そして剣神として。
ガルには、それが見過ごせなかった。
「……まあ、嬢ちゃんに酒のつまみでも作ってもらうか。絶品だからな」
そう呟くと、ガルは腰を上げた。
グレイと一緒にいるであろう、小さな少女のもとへ向かうことにした。
◆
夜の剣の聖地。
通路に設けられた縁側に、ニナは一人腰を下ろしていた。
外には、月明かりに照らされた静かな庭が広がっている。
最近の自分は、きちんと剣に向き合えていただろうか。
グレイがここを立つと聞いた時、真っ先に浮かんだのは、離れたくないという気持ちだった。
だから父親に相談した。
けれど、返ってきたのは自分の現状を突きつける言葉ばかりだった。
「私、みんなより年上なのに……何も考えてないじゃない」
膝の上で握った手に、少し力が入る。
頭の中には、いくつもの考えが浮かんでは消えていった。
グレイのことを諦めるべきなのか。
自分では隣に立つ資格がないのではないか。
そんな考えばかりが浮かんでくる。
それでも、好きだという気持ちに蓋をするのは嫌だった。
「ニナさん?」
声をかけられ、ニナは顔を上げた。
通路の向こうから、お盆を持ったアイシャが歩いてくる。
「アイシャ。こんな時間にどうしたの?」
「ガル様がおつまみを作ってほしいと部屋に来たんです。グレイお兄ちゃんが、こんな時間に何を食べるんだって文句を言ったら、今度はお酒の相手をさせられてるんですけど」
アイシャは少し困ったように笑った。
その様子に、ニナもわずかに表情を緩める。
「そうなのね」
「それより、ニナさん。どうしたんですか?」
アイシャはニナの顔を覗き込んだ。
「なんだか、ひどい顔をしてますよ?」
「……そう?」
「はい」
アイシャの素直な返事に、ニナは小さく息を吐いた。
「アイシャはすごいわよね」
「え?」
「グレイのために色んなことを考えて、学んで。私は……」
そこまで言って、ニナは口を閉じた。
こんなことを、遥かに年下の少女に話してどうするのだろう。
けれど、アイシャは何も言わず、ニナの隣に腰を下ろした。
「私は、グレイお兄ちゃんのためにできることは少ないと思ってます。だからこそ、色々学んでいるんです」
「少ないって……」
「本当は、剣術も学ぼうと思ったんですよ。でも、今から学んでもグレイお兄ちゃんの隣には立てません」
アイシャは自分の手元に目を落とした。
剣を握れば、少しは近づけるのかもしれない。
けれど、自分が今から剣を学んだところで、グレイのようにはなれない。
それは、幼いながらに分かっていた。
ニナは黙って話を聞いていた。
この子は本当に、グレイのことを考えている。
自分にできることを探して、少しずつ前に進んでいる。
そんなニナの様子を見て、アイシャは顔を向けた。
「だから、ニナさんには期待してるんです」
「……私に?」
「はい。ニナさんがグレイお兄ちゃんのことを好きなの、分かってますから」
思いがけない言葉に、ニナは目を見開いた。
「初めは嫌でした」
アイシャは、少しだけ視線を落とした。
「グレイお兄ちゃんの隣にいるのは、私がいいって思ってましたから」
その言葉に嘘はなかった。
今だって、そう思っている。
グレイの隣にいたい。
誰よりも近くで、彼のことを見ていたい。
けれど、アイシャはゆっくりと顔を上げた。
「でも、私はグレイお兄ちゃんに守られてばかりです。雪山に転移した時だって、そうでした」
あの雪山でのことを思い出す。
自分はただ、グレイに手を引かれていた。
寒さに震え、傷つき、歩くことさえままならない自分を、彼は守り続けてくれた。
その手の温もりは、今でも忘れられない。
「だから、グレイお兄ちゃんの隣で、グレイお兄ちゃんを守ってくれる人がいてくれたらって思うんです」
ニナの顔が上がる。
アイシャと目が合った。
「それが、グレイお兄ちゃんを大切に思ってくれる人なら、私は嬉しいです」
アイシャは穏やかに微笑んだ。
「だから、ニナさん。そんな顔しないでください」
その言葉を聞きながら、ニナはアイシャの横顔を見つめていた。
この子は、どれだけグレイのことを考えているのだろう。
自分よりもずっと幼いのに。
けれど、アイシャの言葉には、どこか寂しさが混じっているようにも見えた。
それでも、彼女は笑っていた。
アイシャは再び外へと視線を向ける。
ニナも、その隣で庭を眺めた。
(私は、私なら……グレイの隣で)
剣を握る理由は、誰かに勝つためだけではない。
グレイに追いつくためだけでもない。
自分にできることを、自分の手で掴み取るために。
少しずつ、胸の奥にあった迷いが晴れていく。
アイシャと同じ場所で、グレイを見なくてもいい。
自分には、自分の道がある。
「アイシャ」
遠くから声が聞こえた。
二人が振り返ると、グレイがこちらへ歩いてくるところだった。
「あ、グレイお兄ちゃん。ガル様は?」
「なんか今日は酒のペースが早くて、酔い潰れて寝ちゃったよ」
グレイは呆れたように肩をすくめ、それからニナに目を向けた。
「ニナ、こんな時間にどうしたの?」
ニナはグレイの顔を見つめた。
いつもと変わらない、彼の顔。
少し前までなら、その姿を見ているだけで胸がいっぱいになっていたかもしれない。
けれど、今は違った。
ニナは縁側から立ち上がる。
「私! 頑張るから!」
グレイが目を瞬かせる。
「グレイの隣に立てるように!」
そう言い切ったニナの表情には、もう先ほどまでの曇りはなかった。
ニナは二人に背を向け、歩き出す。
その足取りは軽く、晴れやかなものだった。
残されたグレイは、しばらくその背中を見送っていた。
「……なんかあった?」
隣にいるアイシャへと尋ねる。
アイシャはニナが去っていった方を眺めながら、少しだけ笑った。
「女の決断ってやつだよ、お兄ちゃん」
グレイは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
やがてアイシャは、そっとグレイの手を握った。
グレイが視線を向けると、アイシャは少しだけ顔を上げる。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「今日は、一緒に寝てもいいですか?」
いつもより少しだけ甘えるような声だった。
グレイは一瞬きょとんとした後、穏やかに頷いた。
「ああ、いいよ」
「えへへ」
アイシャは握った手に、ほんの少しだけ力を込めた。