甲龍歴411年、冬。
秋の残暑がすっかり消え去り、北風が頬を刺す季節が訪れていた。 カーティス家の周囲に立つ木々はすっかり葉を落とし、朝方には庭の草むらに真っ白な霜が降りるようになっている。
今年で4歳になったグレイの「剣術の練習」は、非常にゆっくりとした歩みで続けられていた。
それもそのはずで、グレイには父親との間に固い約束があったからだ。
『剣の練習をするのは、その日の算術と文字の読み書きの勉強を終えてからにする事』
行商人である父親は、何よりも教養を重んじていた。剣の練習に夢中になるのは良いが、文字も読めず計算もできない大人になってしまっては困る。グレイもその約束を真面目に守り、毎日昼下がりまでは机に向かって必死に羊皮紙と睨めっこをし、父親から出された問題をこなしてから庭へと飛び出していくのが日課となっていた。
だが、冬の訪れとともに新たな課題が立ちはだかる。
寒さが本格化し、空からちらちらと白い雪が舞い降りてくる日が増えると、流石に一日中外で枝を振るわけにはいかない。 そんな日は自室にこもり、暖炉の火にあたりながら『剣神流指南書』とひたすらに睨めっこをすることになる。
(……やっぱり、ここがよく分からないな……)
自室のベッドの上で膝を抱え、グレイは手書きの文字と拙い挿絵が並ぶ羊皮紙をじっと見つめていた。
本に書かれている挿絵の通りに足を開き、上段に構え、まっすぐに振り下ろす。 外でできる日は何度もその型を試してみたが、どうにもしっくりこないのだ。
枝を振り下ろすたびに、肩や腕に無駄な力みが生じている、手に残る手応えはどこか鈍く、本に書かれている「神速の一撃」や「余計な力を捨てる」という境地には程遠い。
(型通りにやってるつもりなんだけどな……。本を読むだけじゃ、これが正しいのかどうかも分からないや)
どれだけ独学で考え抜いても、幼いグレイの頭の中には疑問が浮かぶばかりだった。 本という知識の限界と、指導者がいない独学の壁に、4歳の少年は静かに行き詰まりを感じていた。
◆
そんな冬のある日。
ブエナ村を包む寒気が一段と強まり、静かな午後の光がリビングに差し込んでいた時間のことだった。
トントン、と軽快なノックの音が玄関から響いた。
居間で帳簿を付けていた父親が席を立ち、重い木製の扉を開ける。
そこに立っていたのは、頑丈な革の鎧を身に纏い、腰に剣を差した背の高い男だった。ブエナ村の駐在騎士、パウロ・グレイラットだ。
「これは、お久しぶりですパウロさん」
父親が丁寧にお辞儀をすると、パウロは気さくに笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、カーティスさん。いやぁ、すっかり寒くなりましたね。こないだ頼んでおいた品、助かりましたよ。わざわざ持ってきてもらっちゃって」
「いえいえ、パウロさんには日頃からこの村の治安を守っていただいていますからね。お安い御用ですよ」
冬の時期は街道が雪で閉ざされることも多く、ブエナ村を拠点に行商人の仕事をしている父も休みが増える。 二人は暖炉のそばで温かいお茶を飲みながら、世間話を始めた。
そんな話をしながら、ふとパウロが居間の大きな窓から外の庭へと目を向けた。 寒空の下、庭の真ん中で一人の小さな少年が、寒さで息を白く吐き出しながら熱心に木の棒を振り下ろしている姿が目に入った。
パウロは少し意外そうに目を細め、問いかけた。
「……ん? あそこにいるのは、息子さんですか?」
「ええ、グレイです」
父親は苦笑いを浮かべた。
「数ヶ月前、行商先で付き合いで買い取らされた『剣神流の指南書』を持ち帰ってみたらあの調子でしてね。毎日の勉強が終わると、ずっとその冊子と睨めっこをしながら枝を振っているんですよ」
「へぇ……あんなに小さいのに、大した熱心さですね。剣に興味があるんですか」
パウロが感心したように頷くと、父親は思いついたようにパウロに向き直った。
「そういえばパウロさん……もしよろしければ、あの子に少しだけアドバイスをお願いできませんでしょうか? どうやら最近、自分の振り方に納得がいっていないようでしてね。独学で行き詰まっているようなんです」
父親の頼みに、パウロはニヤリと自信ありげな笑みを浮かべ、己の胸を軽く叩いた。
「ハハッ、なんだそんなことですか! お安い御用ですよ。ちょっと見てやってあげましょう」
◆
「よっと……」
パウロが雪を踏みしめて庭に出てくる。 枝を構えていたグレイは気配に気づいて動きを止め、振り返った。
腰に本物の剣を二本も差した大きな大人。グレイは少し気圧されながら言った。
「……こんにちは」
「おう、こんにちは! 今お前の親父さんに頼まれてさ。ちょっとだけ見てやろうと思って来たんだよ」
グレイは目を丸くした。
「おじさん、剣使えるの? 剣神流使える?」
「おじさんじゃなくてお兄さんだ。使えるぞ。一応、剣神流は上級だからな!」
「上級!? すごい!」
「俺は剣神流だけじゃなく、水神流も北神流も上級だからな!」
パウロは少し誇らしげに鼻を鳴らした。
「どれ、一回構えてみろ」
「うん!」
グレイは拾ってきた枝を両手で握り締め、上段に構えた。 本の通り、まっすぐ頭上に掲げる。
パウロは腕を組んでグレイの周りをぐるりと回った。
「ふむ……本を真似してるにしちゃ悪くない。だが……」
パウロはグレイの背後に回り、ポンと肩を叩いた。
「肩に力入りすぎだ。そんな力んでたら素早く振れねえぞ。あと足幅だな。もうちょっと狭めて……膝を軽く曲げる。腕はこうだ」
パウロの手で身体の位置を直される。 肩の力を抜き、足を微調整しただけなのに、構えた瞬間に体がびっくりするほど楽になった。
「よし。そのまま思い切って振ってみろ!」
「はいっ!」
グレイは息を吐き、一気に枝を振り下ろした。
──シュッ!
今までと全然違う、軽くて鋭い風切り音が庭に響いた。
手元に残ったのは、無駄な力みが抜けた心地よい手応え。 自分の力がそのまま枝の先まで伝わった感触だった。
(……これだ……!)
頭の中の違和感が一瞬で吹き飛んだ。 本を読むだけじゃ分からなかった正しい体の使い方が、たった一回でしっくりきた。
「すごい! おじさん、すごいよ!」
グレイは飛び跳ねてはしゃいだ。
「さっきと全然違う! すごく振りやすい!」
「ハハッ、だろ? 剣なんてのは力任せに振るもんじゃねえんだよ。無駄な力を抜くのが一番大事だ」
グレイは目を輝かせてパウロの服を引っ張った。
「もっと教えて! おじさん、もっと教えてよ!」
「うおっと……おいおい、俺も駐在騎士の仕事があるんだよ。毎日毎日は来れねえって」
困り顔のパウロを見て、父親が家から出てきた。
「パウロさん。もしよろしければ、あの子に正式に剣をご指導していただけないでしょうか? もちろん、お礼はお支払いいたします」
「うーん、いやぁ、お金っていうよりは体の問題でしてね」
パウロは頭をかき、グレイの小さな肩をぽんと叩いた。
「まだ4歳になったばかりの子供に、いきなり毎日の本格的な稽古をつけるのは体が追いつかねえですよ。骨や筋肉もまだ出来上がってねえですしね。それに……実はうちの息子のルーデウスも、ちょうど4歳になったばかりでしてね」
「……そうでしたか」
「まあでも……待てよ?」
パウロはニシシと悪戯っぽく笑った。
「同じ4歳か。よし、じゃあこうしましょう! 次の晴れた日にうちに連れてきてください。うちのルディ、魔術ばっかりやってて同年代の友達がいねえから、まずは顔合わせだ。それと、グレイには正しい素振りの型を教えておきます。それを来年まで毎日コツコツ家で続けさせるってのはどうです?」
「来年、ですか?」
「ええ。5歳になって体もしっかりしてきたら、うちのルディと一緒に毎日本格的な稽古をつけてやりますよ。それまでは巡回のついでにたまに庭でチェックしてやる程度になっちゃいますが……どうです?」
「本当ですか! 巡回のついでだなんて、こちらとしては願ってもないお話です。ありがとうございます、パウロさん」
父親が深々とお辞儀をし、グレイも嬉しさのあまり大声を上げた。
「本当!? ありがとう、おじさん!」
「だからお兄さんだっての……たく。じゃあ次の晴れた日にうちにこい。ルーデウスに紹介してやるからな」
パウロはグレイの頭をガシガシと雑に撫でた。
「うん! よろしくお願いします!」
グレイは元気に返事をし、握りしめた枝にぎゅっと力をこめた。
こうして、独学で行き詰まっていたグレイは、初めての師となるパウロとの出会いを果たした。
正しい型の宿題をもらい、毎日の素振りを積み重ねる日々が始まる。
そして数日後、グレイはパウロの屋敷へと向かうことになる。
同じ4歳だという、パウロの息子「ルーデウス」に会うために──。
キャラの口調を掴むのが難しく試行錯誤の連続でしたが、少しでも雰囲気を感じていただけたら幸いです。