パウロとの出会いから数日後。冬の晴れ間が広がり、風は冷たいものの気持ちよく晴れ渡った午後のことだった。
グレイは母親に手を引かれ、ブエナ村の小道を歩いていた。
普段のグレイは、家で父親から出された算術や読み書きの課題をこなし、庭でひたすら木剣を振り下ろすという生活を送っている。
村の他の子供たちと遊ぶ機会はめったになく、こうしてどこかの家を訪問すること自体が、彼にとっては生まれて初めての経験だった。
自分の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれる母親の横で、グレイは無意識に繋いだ手をきゅっと握りしめていた。
「グレイ、少し緊張してる?」
母親が立ち止まり、グレイの顔を覗き込んで柔らかく微笑んだ。
「……うん。ちょっとだけ」
グレイは正直に小さく頷いた。
家で一人、机に向かったり枝を振ったりしている時は平気なのに、見知らぬ家へ向かっている今は、胸の奥が少しそわそわとして落ち着かない。
「ふふ、そうね。グレイはいつもお家でお勉強と剣の練習ばかりだものね。同年代のお友達に会うのは、これが初めてだもの。緊張して当たり前よ」
母親はグレイの頭を優しく撫で、目線を合わせるように屈んだ。
「でも大丈夫よ。パウロさんのお家には、グレイと同じ4歳の男の子がいるの。パウロさんも楽しみにしてくださっているわ」
「……うん。パウロさんとの約束、楽しみ」
前回のあの一瞬の手ほどきで、自分の振る枝の風切り音が劇的に変わったあの感覚。それを思い出すと、緊張の裏側からワクワクとした期待感がじわりと湧き上がってきた。
やがて視界が開け、ブエナ村の中でも一際立派な木造の二階建ての屋敷が見えてきた。
駐在騎士であるパウロ・グレイラットの家だ。
敷地の柵をくぐり、大きな木製の玄関扉の前へ立つと、母親がトントンと静かにノックした。
◆
「はいはい、どなたかなー!」
中からバタバタと足音が近づき、重いドアが開いた。
顔を出したのは、私服姿のパウロだった。パウロはグレイたちの顔を見ると、ぱっと表情を明るくした。
「おお、カーティスさん! いらっしゃい! グレイ君もよく来たな!」
「お邪魔します、パウロさん。先日は主人が大変お世話になりました」
「いえいえ! さあ、中へ入ってください。外は寒いでしょう」
親同士の短い挨拶やお礼のやり取りを済ませ、居間に通される。暖炉の火が薪をパチパチと爆ぜさせ、心地よい温もりが部屋全体を満たしていた。
パウロは居間のソファに腰掛けさせると、奥の部屋に向かって大きな声を張り上げた。
「ルディ! ちょっと来い! お客さんだぞー!」
「……はい、父様」
奥の部屋から、控えめな返声が聞こえた。
パタパタと小さな足音が近づいてきて、部屋の入り口から一人の少年が姿を現した。
グレイと同じくらいの背丈。綺麗に切り揃えられた栗色の髪と、端正な顔立ちをした少年だ。
彼こそが、パウロの息子──ルーデウス・グレイラットだった。
しかし、ルーデウスは部屋に入るなり、見知らぬ大人の女性(グレイの母)と、自分と同い年くらいの見たことのない少年(グレイ)が座っているのを目にすると、ぴたりと足を止めた。
ルーデウスの眉がわずかに下がり、視線が泳いだ。両手で服の裾をぎゅっと握りしめている。家族以外の人間を前に、どう振る舞えばいいのか分からず、緊張しているようだった。
(なんだか……すごくソワソワしてる……?)
グレイは素朴にそう感じた。
だが同時に、ルーデウスの佇まいには、4歳の子供特有の落ち着きのなさや無邪気さとは異なる、妙に静かで整った空気が漂っているようにも思えた。どこか、自分より少し年上のお兄さんと対峙しているような、不思議な感覚だ。
パウロがルーデウスの背中をポンと軽く叩いた。
「ルディ、挨拶しな。こっちはカーティスさんの奥さんと、息子のグレイ君だ」
背中を押されたルーデウスは、一瞬だけ緊張に肩を強張らせたが、すぐに意を決したように小さく息を吐き、深々とお辞儀をした。
「……初めまして。僕はルーデウス・グレイラットです。よろしくお願いします」
その声は少し固く、慎重だったが、立ち振る舞いは驚くほど礼儀正しかった。
グレイもソファから降り、ペコリとお辞儀を返した。
「僕はグレイ・カーティス。よろしくね、ルーデウス君」
「……はい」
ルーデウスは静かに頷き、視線を少しだけ下げた。
会話は途切れ、部屋に一瞬のぎこちない沈黙が流れる。お互いにまだ手探りで、どのような距離感で接すればいいのか分からない様子だった。
と、そこへ奥の廊下から、もう一人小さな人影が歩いてきた。
頭に大きな尖がり帽子をかぶった、青い髪の小柄な女性だ。
「ルディ、何かありましたか……?」
「あ、師匠。こちら、今日父様のお客さんで来られたカーティスさんと、グレイ君です」
ルーデウスが振り向き、少し安堵したような表情でその女性を紹介した。
「それからグレイ君。こちらは僕の魔術の師匠の、ロキシーさんです」
紹介された青髪の女性──ロキシー・ミグルディアは、グレイたちに向かって丁寧に頭を下げる。
「初めまして、ロキシー・ミグルディアと申します」
「あ……初めまして! グレイ・カーティスです。よろしくお願いします、ロキシーさん」
グレイは少し驚きながら挨拶を返した。
(ルディ君の……師匠……? こんなに小さな女の子なのに、先生なのかな……?)
大人か子供か判別のつきにくいロキシーの姿に戸惑いつつも、ルーデウスが「師匠」と呼ぶその存在に、グレイは自然と小さな敬意を抱いた。
ロキシーは帽子を少し直しながら、ルーデウスとグレイの様子を静かに観察していた。
いつも家族や自分とばかり接しているルーデウスが、同年代の男の子を前にして緊張しながらも、一生懸命に会話を成立させようとしている。ロキシーの口元が、帽子のかげでほんの少しだけ微笑ましそうに緩んでいた。
◆
「よし! それじゃあルディ、ちょっと庭に出るぞ」
パウロが立ち上がり、二人の少年に声をかけた。
「父様、それで今日は何かあるんですか?」
ルーデウスが首をかしげて尋ねると、パウロはニシシと笑ってグレイの肩を抱いた。
「なに、来年お前たちが5歳になったらな、二人まとめて俺が剣の稽古をつけてやろうと思ってさ。今日はその顔合わせと、グレイ君の素振りのチェックだ」
「剣の稽古……ですか」
ルーデウスの視線が、グレイが大切そうに手に持っていた一本の木剣へ向けられた。
グレイはその視線に気づき、どこか誇らしいような、けれど少し恥ずかしいような気持ちになり、無意識に背筋をピンと伸ばした。
パウロはルーデウスの視線を見逃さず、ニヤリと笑った。
「なんだルディ、お前も剣に興味が出たか? いつも魔術ばかりやってるが、来年からはグレイと一緒に剣も振ってみるか?」
ルーデウスは一瞬引きつったような顔をしかけた。正直、痛いのも疲れるのも嫌だし、剣の稽古からは逃げ出したいのが本音だ。だが、グレイの真っ直ぐな目と使い込まれた木剣を見て、少しだけ思い直す。
ルーデウスは苦笑いを浮かべつつ、静かに頷いた。
「……はい。グレイ君と一緒なら、頑張ってみます」
その一言を聞いて、グレイの胸がぽっと温かくなった。
自分だけが一方的にパウロに習いに来たのではなく、目の前のルーデウスもまた、自分との稽古に前向きになってくれていることが嬉しかった。
「改めて、よろしくね。ルーデウス君」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
まだお互いの言葉にはどこか余計な硬さが残っていたが、これから「一緒に汗を流す仲間」としての第一歩が、確かに踏み出された瞬間だった。
◆
寒空の下、庭に出た3人。
「よしグレイ君、こないだ教えた基本構え、やってみろ」
「はい!」
グレイは庭の真ん中に立ち、足を開いて木剣を構えた。
前回パウロに直された通り、肩の力を抜き、肘の角度を微調整し、膝を軽く曲げる。
「ふむふむ……うん、ちゃんと残ってるな。よし、そのまま5回、真っ直ぐ振り下ろしてみろ」
「はいっ!」
グレイは息を吸い込み、正面に向かって木剣を振り下ろした。
──シュッ!
──シュッ!
庭に澄んだ風切り音が連続して響く。
一振りごとに、無駄な力みが抜け、パウロに教わった型が身体に馴染んでいく。独学で迷っていた頃の重苦しさはどこにもなく、愚直に反復してきた成果が澄んだ風切り音となって庭に響いていた。
パウロは腕を組み、「ほう、ちゃんと家で振ってきたな」と満足そうに頷いている。
そして──その横で、ルーデウスが目を見開いてグレイの動きをじっと凝視していた。
(……おいおい、マジかよ。あいつ本当に4歳か……?)
ルーデウスの目には、グレイの振る木剣の勢いが回を追うごとに増しているのが見えた。力任せではなく、振るたびに無駄な動きが削ぎ落とされていくような、妙に綺麗な軌道。前世の知識があるルーデウスから見ても、明らかに「素質がある人間の振り方」だった。
「……最初より、風の音が大きくなってる」
ルーデウスの口から、ポツリと小さな呟きがこぼれた。
グレイは素振りを止め、ハッと振り返った。
「……え? 分かるの、ルーデウス君?」
「うん。なんだか、すごく格好いいなって。僕もあんなふうに振れるようになるかな」
ルーデウスは少し照れくさそうに視線を泳がせた。前世では運動から逃げ続けていた自分だが、目の前で同い年の子供が真っ直ぐに努力している姿には、純粋な感嘆を抱かざるを得なかった。
グレイは嬉しくなり、手に持った木剣をぎゅっと握り直した。
「よし、今日はここまで! 基礎の型を崩さないように、家でも毎日素振りを続けろよ」
パウロの指導が一区切りつき、パウロが「冷えたからお茶でも飲んでくる」と居間へ戻っていくと、庭にはグレイとルーデウスの二人が残された。
少し火照った体を冷ますように、二人は縁側に並んで腰掛けた。
静かな冬の空気を吸い込みながら、グレイはふと思い出したようにルーデウスへ話しかけた。
「ねえ、ルーデウス君って、名前ちょっと長いね」
「あ……うん。そうだね」
「お家の人とかは、なんて呼んでるの?」
「父様も母様も、僕のことは『ルディ』って呼ぶよ」
「ルディ……」
グレイはその響きを口の中で確かめるように呟き、パッと顔を輝かせた。
「じゃあ、僕もルディって呼んでいい?」
急な提案に、ルーデウスは一瞬目を見開いて固まった。
家族以外からそんな気安く愛称で呼ばれたことなど、この世界に来てから一度もない。少しだけ恥ずかしそうに、けれど嫌そうな様子もなく、ルーデウスは小さく頷いた。
「……うん。いいよ、グレイ君」
「やった! よろしくね、ルディ!
僕の事もグレイって呼んでね!」
呼び方が変わったことで、二人の間にあった見えない壁が、ほんの少しだけ薄くなった気がした。
グレイは膝の上に置いた自分の手を見つめ、ずっと気になっていた疑問を口にした。
「ねぇ、ルディ。ルディはロキシーさんに魔術を習ってるんだよね? 魔術ってお水とか出せたりするの?」
自分の得意分野について尋ねられたルーデウスは、少しだけ緊張がほぐれたように、声のトーンを滑らかにした。
「うん、出せるよ。水だけじゃなくて、火も、風も、土も出せるんだ」
「すごい……! 本当に何もないところからお水が出るの?」
「うん。呪文を唱えたり、魔力を操作すればね」
「すごいなぁ……僕も勉強したら、使えるようになるかな?」
グレイの純粋な眼差しに、ルーデウスは少し考えながら答えた。
「ちゃんと勉強して練習すれば、誰でも使えるようになると思うよ。……グレイも、魔術に興味があるの?」
ルーデウスは、剣術にあれほど熱心なグレイがなぜ魔術に興味を持つのか少し不思議だった。「強くなりたいから」とか「格好いいから」という答えが返ってくると思っていた。
だが、グレイから返ってきたのは、予想外の答えだった。
「うん。もしね……お父さんの行商についていって、どこかで迷子になっちゃったり、誰もいないところで遭難しちゃったりした時、お水が出せたら困らないでしょう?」
「……え?」
「ご飯がなくても、お水があればしばらく生きられるってお父さんが言ってたから。魔術でお水が出せたら便利だなって」
グレイの瞳には、何の飾り気もない真っ直ぐな「実用主義」が宿っていた。
格好良さや強い力への憧れではなく、「もしもの時に生き延びるため」「困った時に自分や誰かを助けるため」という、極めて現実的な生存の視点。
行商人の父親から旅の厳しさを聞かされて育ったグレイにとって、技術とはすべて「生きるための道具」だった。
ルーデウスは一瞬ぽかんと口を開けたあと、
何かに気づいたように目を見開いた。
(……4歳で、そんなサバイバル的な発想をするのか……?)
「その考え、とても素晴らしいと思いますよ」
突然、背後から穏やかな声が響いた。
振り返ると、縁側の引き戸を開けてロキシーが立っていた。温かいお茶の入った湯呑みを手に持っている。
「ロキシーさん」
「師匠……」
ロキシーは二人の隣まで歩いてくると、グレイに向かって優しく頷いた。
「グレイ君の言った通りです。魔術は戦うためだけのものではありません。旅先での水分の確保や、火を起こすこと、怪我の手当てなど、生き延びるための知識の一つです。実際、一流の冒険者や剣士でも、遭難対策として初級の生活魔術だけは嗜んでいる人がたくさんいますから」
「本当に!? 」
グレイはパッと顔を明るくした。自分の思いつきが、本物の魔術師であるロキシーに認められたことが嬉しくてたまらない。
ロキシーは微笑み、ルーデウスの肩にそっと手を置いた。
「ルディ。もしよかったら、今度グレイ君に簡単な水魔術の仕組みを教えてあげたらどうですか? 人に教えるということは、自分自身の魔術の理解を深める一番の勉強になりますよ」
「僕が……グレイに……?」
ルーデウスは驚いて自分とグレイを交互に見つめた。
人に何かを教えるなんて経験は、前世を含めてもほとんどない。戸惑いが胸をかすめたが、隣に座るグレイが、まるで宝物を見つけた子供のような目を輝かせて自分を見つめている。
「ルディ、本当!? 魔術、教えてくれるの!?」
「……うん。僕でよければ、教えてあげるよ。そんなに難しいことじゃないし」
ルーデウスが恥ずかしそうに視線を逸らしながら頷くと、グレイは弾けたような笑顔を見せた。
「本当!? ありがとう、ルディ! すごく楽しみ!」
「う、うん……」
ルーデウスは戸惑いつつも、自分の知識や技術が誰かの役に立ち、期待されているという事実に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
◆
日が傾き始め、空が淡い茜色に染まり始めた頃。
カーティス家の母親がパウロたちにお礼を言い、帰宅の準備を整えた。玄関先で、パウロがグレイの頭をガシガシと撫で回す。
「俺も巡回があるから毎日は見てやれねえけどな、素振りで分からんことがあったらいつでも来い」
そして、パウロは少し離れたところに立っていたルーデウスの背中をポンと叩いた。
「俺がいない時でも、ルディと遊んでやってくれや」
グレイは元気に頷いた。
「うん! パウロさん、また来てもいい?」
「もちろんだ。いつでも来い」
グレイは向き直し、ルーデウスに向かって小さく手を振った。
「ルディ、また来てもいい?」
ルーデウスは少しだけぎこちなく、けれどしっかりとグレイの目を見て答えた。
「うん、もちろん。また遊びに来てよ」
「うん! また来るね! 今度はルディの魔術見せてね!」
「分かった。グレイも……また剣の腕を見せてね」
「うん!」
パウロは二人のやり取りを見て、満足そうにニシシと笑った。
「ハハッ、来年からは二人で死ぬほど稽古するんだ。今のうちにしっかり仲良くなっておけよ!」
母親に手を引かれ、夕暮れのブエナ村の道を歩きながら、グレイは何度も振り返って手を振った。ルーデウスもまた、玄関先で小さく手を振り返してくれていた。
帰り道、足裏に伝わる地面の感触が、行きよりもずっと軽やかに感じられた。
パウロから教わった新しい素振りの感覚。
初めてできた、同い年の「ルディ」という友達。
そして、これから教えてもらえるという「魔術」への期待。
4歳のグレイ・カーティスの日常に、新しく色鮮やかなページが開かれた一日となった。
「ねぇお母さん、僕、剣術はじめて良かった!」
「どうして?」
「だって、初めてお友達できたから。」
ゆっくりとした進行ですが、ブエナ村編はもう少し続きます。