あれから、数ヶ月の月日が流れた。
厳しい冬の寒さは少しずつ和らぎ、ブエナ村の草木が柔らかい芽を吹き始めていた。
この数ヶ月、グレイの毎日は決まった足取りで刻まれていた。
午前中の読み書きと算術。それが終わると庭に出て、パウロに命じられた姿勢のまま、ひたすら木剣を振り下ろす。肘の角度、膝の曲げ伸ばし、地面を踏みしめる足裏の感触。同じ動作を何百回と繰り返す。
そして、パウロが巡回に出ていない午後は、一人でグレイラット家へと足を運んでいた。
「ルディ〜!」
庭の木陰で本を開いていたルーデウスが、声を追って顔を上げる。
「あ、グレイ」
ルーデウスは挟んでいた栞をページに静かに挟み、本を閉じた。玄関前まで歩み寄る足取りには、以前のような迷いや踏みとどまるような間はない。
「こんにちは。……今日の素振り、もう終わったの?」
「うん。パウロさんに言われたことは、やってきた」
グレイは手に持った木剣を立てかけ、自分の手のひらを見つめた。まめが少しずつ硬くなり始めた小さな手だ。そのまま勢いよく頭を下げた。
「ルディ、今日もよろしくね」
「……うん。じゃあ、いつもの場所へ行こう」
二人は庭の隅にある空き地へと歩き出した。
◆
「それじゃあ、今日は初級水魔術の『ウォーターボール』をやってみよう」
ルーデウスは地面に置いた空き瓶を指さした。
「まずは自分の身体の中にある『魔力』を探すんだ。んー……お腹の奥の方に、小さくて温かい固まりがある感じ。それを、息を吸いながら手まで引っ張ってくるイメージ」
「お腹の、温かいやつ……」
グレイは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
お腹に手を当て、じっと動かない。
十数秒が過ぎる。風が庭の草を揺らす音だけが響く。
「……んー……なんにも、温かくないや」
目を開けたグレイは、困ったように首を傾げた。剣を振るときに背中に走る緊張感や、脚に溜まる重みとは、まるで違う。自分の身体の中なのに、どこを探せばいいのかさっぱり分からなかった。
「最初はそんなもんだよ。僕も最初は、身体の中の空気を追いかける感じから始めたんだ」
それから、グレイラット家に通うたびに同じ時間が繰り返された。
素振りを終え、汗を拭ったあと、庭の隅で静かに目を閉じる。
ルーデウスに「走ったあとに心臓がトクトク言うでしょ? あれのもっと奥だよ」と言われ、胸やお腹に手を当てて呼吸を整える。
失敗するたびに、グレイは無言で自分の手を見つめ、何度も握り直した。
そして──通い始めて一ヶ月が過ぎた、ある日のことだった。
じっとお腹に手を当てていたグレイの肩が、微かに跳ねた。
「……あ」
「……グレイ?」
「なんか……温かい」
グレイは両目を開けた。その瞳が、自分の手元をまっすぐに見つめている。
「お腹の真ん中に、温かい何かが……ある」
「本当……!? それだよ! それが魔力!」
ルーデウスが身を乗り出した。グレイは教えられた通りの言葉を、途切れ途切れに口にした。
「っ……『汝の求める所に、大いなる水の加護あらん。清涼なるせせらぎの流れを、今ここに──ウォーターボール!』」
グレイが両手を空き瓶へ突き出す。
お腹の奥の暖かい感覚が、腕を通り、手のひらへと押し出されていく感覚。
──ぽちゃん。
小さな音が響いた。
空き瓶の底に、指先ほどの大きさの水滴が落ち、揺れていた。
グレイは突き出した手のひらと、瓶の底の小さな水滴を交互に見つめた。息が止まっていた。やがて、喉から引きつったような声が漏れる。
「……出た」
「……ううん、ちゃんと水だよ。グレイ、すごいじゃないか!」
グレイは瓶を両手で包み込むように持ち上げ、底に溜まった水滴を食い入るように覗き込んだ。自分の手から、何の道具もなく水が生まれた。その事実だけで、胸の奥が熱く震えた。
「出たよ……ルディ、すごーい!」
「うん、一ヶ月でここまで来られたなら大したものだよ」
はしゃぐグレイの隣で、ルーデウスは腕を組み、小さく息を吐いた。その表情には、教えていたことが形になった安堵と、かすかな誇らしさが混ざっていた。
だが、グレイは水滴を見つめたまま、ふと手を止めた。
「……ねぇ、ルディ」
「ん?」
「ルディって、さっきの長い言葉……言ってないよね?」
ルーデウスの眉が、ピクリと動いた。
「え?」
「ルディが前にお水とか火を出したとき、そんな言葉言ってなかった」
ルーデウスは一瞬言葉を詰まらせ、それから咳払いを一つして、手のひらをグレイの前にかざす。
言葉はなく、ただ一瞬の間。
掌の上に、すっと親指ほどの小さな水球が浮かび上がった。そして、何事もなかったかのように消える。
グレイの目が丸くなった。
「おぉ〜すごい!」
「これは……『無詠唱魔術』って言ってね。呪文を言わずに、頭の中のイメージだけで魔力を出すんだ」
「『無詠唱』……! ルディ、それどうやるの!? 僕にも教えて!」
身を乗り出してきたグレイに対し、ルーデウスは小さく後ずさりした。指先で鼻の下を擦りながら、言葉を選びあぐねる。
(……『無詠唱』か。正直、俺にとっては生まれたときから勝手にやってたことだしな……。ロキシーだって『私にはできません』って驚いてたくらいだ。いくらグレイでも……)
ルーデウスは喉を鳴らし、できるだけ簡単な言葉に噛み砕いて口を開いた。
「呪文はね、『お水になれ』って魔法にお願いする決まり文句なんだ。でも、言葉を使わないで、頭の中で『水がこうやって丸くなって、ここに出てくる』って絵を完璧に描ければ……言葉はいらないんだよ」
「頭の中で……絵を描く……」
グレイは自分の両手をじっと見つめた。
「そう。魔力を動かしながら、水そのものの形を頭の中に浮かべるんだ」
「んー……」
グレイは真剣な顔つきになり、両手を前に突き出した。お腹の奥の温かい感覚を手先に集めようとする。
『水になれ……冷たくて丸いお水……』
必死に頭の中で形を描き、押し出そうとする。
だが──手先まで集まった魔力は、形を結ぶことなく、パチンと湿った風となって弾けた。
「……っ」
グレイの手が力なく落ちる。
ルーデウスはそっと胸を撫で下ろした。どこかホッとしたような、申し訳ないような顔で苦笑いを浮かべる。
「ハハ……まあ、そう簡単にはいかないよ。ロキシー師匠だって『できない』って言ってたんだから。まずはさっきの呪文から練習して──」
「ううん」
グレイは首を振った。地面に落ちた自分の手を見つめたまま、静かに言葉を吐き出す。
「ルディができるなら、やり方はあるんだよね」
「……え?」
「言葉じゃなくて、絵。イメージが大事なんだよね」
グレイは顔を上げ、ルーデウスの目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、諦めや落胆はなく、ただ新しい課題を見つけた時と同じ、静かな光が宿っていた。
「ルディ、ありがとう。僕、もっと練習してみる」
「……うん。がんばって」
グレイはもう一度、自分の手のひらを見つめた。
無詠唱魔術。まだまだ難しそうだけど、ルディができるなら、きっと自分にもできるはずだ。
……それはそれとして。
「ねえ、ルディ!」
「ん?」
「せっかくお水が出せるようになったんだし、水遊びしようよ!」
「えっ、今から!?」
「うん! ほら、ルディも!」
グレイはルーデウスの手を引っ張った。
「ちょ、ちょっと待ってよ、グレイ!」
庭に二人の声が響く。
ルーデウスは困ったように笑いながらも、結局、グレイに引っ張られるまま立ち上がった。