甲龍歴416年。
ブエナ村を包む風に、冬の足音が混じり始めていた。
グレイ・カーティスは、九歳を迎えていた。
この数年でぐっと背が伸び、肩幅も一回り大きくなった。毎日握りしめてきた木剣のおかげで、両手には硬いまめができ、引き締まった身体には年相応以上の力強さが備わりつつある。
机の上の羊皮紙を片付け、鉛筆を置く。午前中の課題だった読み書きと算術を終えると、グレイは自室の壁に立てかけてあった稽古用の木剣を手に取った。
「母さん、行ってきます」
「ええ、気をつけてね。パウロさんに迷惑かけちゃダメよ」
台所から声をかけてくる母親に短く応え、木剣を肩に担いで玄関の扉を開ける。
肌を刺す風が頬を掠めた。 いつもの見慣れたブエナ村の風景。整然と並ぶ畑、遠くに見える森、のどかな静けさ。
変わったことといえば、少し離れたグレイラット家がここ最近ずっと騒がしかったことくらいだ。パウロ師匠の浮気騒動に、ルディが家庭教師として遠くのボレアス家へ引き取られていったこと。
ルディと友達になってから、シルフィとも顔を合わせるようになった。
(……最初はなんでか、ルディが頑なに紹介するのを嫌がってたけどな。結局理由は分からずじまいだ)
ふと歩きながら、グレイは空いている左手のひらを握ったり開いたりした。 魔術の鍛錬は、今も続けている。 ルディのように綺麗な水の球を作るのは最後までしっくりこなかったが、足下の土や泥をこねる感覚なら、驚くほど自然に身体が反応してくれた。
言葉を唱えずとも、掌の上に拳大の土塊がぬっと持ち上がる。
「それだけでも十分すごいよ」と笑ってくれたルディの顔が浮かぶ。だが、ありとあらゆる系統の魔術を言葉なしで軽々と扱ってみせるあいつの領域には、まだまだ届きそうにない。
足元で枯れ葉を踏み鳴らしながら歩を進めると、やがて見慣れたグレイラット家の門が見えてきた。
「あっ! グレイお兄ちゃんー!」
敷地に入った瞬間、小走りで駆け寄ってくる小さな影があった。ルディの妹のアイシャだ。その後ろから、まだ足元の覚束ないノルンも懸命についてきている。
「っと……走ると転ぶぞ、アイシャ」
「へへー! グレイにいちゃん、見て見て!」
グレイが膝を折って目線を合わせると、アイシャは自慢げに両手を突き出してみせた。その手にはめられていたのは、少し不揃いな網目の手編みの手袋だった。
生まれたばかりの頃、母さんに「赤ん坊が自分の爪で顔を傷つけないように」と教えてもらい、一緒に作ったのが始まりだった。
それ以来、二人の成長に合わせて、寒くなる季節には新しい手袋を渡すのがグレイの習慣になっていた。
「今年もぴったり! すごくあったかいよ!」
「そうか。ちゃんと使ってくれて嬉しいよ」
アイシャの頭を撫でると、隣に追いついたノルンも、少し恥ずかしそうに自分の両手を差し出してきた。グレイの視線に気づくと、そっと手袋をはめた指先を見せてくる。
「ノルンも、あったかいか?」
「……うん。あったかい。ありがとう、グレイお兄ちゃん」
ノルンの頭も撫でて2人を見て
「よし、寒くなってきたし中に入ろう」
「うん! 早く入ろう!」
アイシャが勢いよくグレイの指を掴んで引っ張る。ノルンも慌てて反対側の袖口をギュッと握りしめた。グレイはふたつの小さな温もりを握り返し、自然と口元を緩めた。
「わかった、わかったから引っ張るなよ」
◆
庭の隅。冬枯れの木々に囲まれた空き地に立つと、柔らかな空気は一変する。
「ふっ!」
グレイの踏み込みと同時に、乾いた土が弾けた。 低く抑えた姿勢から、一直線に放たれる突き。パウロはそれに応じるように身を滑らせ、木剣の腹で滑らかに軌道を逸らした。水神流の受けだ。
だが、グレイの手首はすでに返っていた。 流された勢いを殺さず、回転の軸をずらしてパウロの死角へと滑り込む。木剣がパウロの肌をかすめるギリギリの軌道で翻った。
「ほっと……!」
パウロの目が鋭く光る。一瞬で上段へ構え直すと、頭上から叩き落とすような一撃を放った。 直撃すれば木剣ごと叩き伏せられる重圧。グレイは受けることを放棄し、首を大きく横に折ってその一撃を紙一重でかわした。
パウロの剣が風を切り、地面に届く──その直前。 パウロの肘の筋肉が、跳ねるように収縮した。上段を囮にした、下からの急速な切り上げ。
避けたはずの視界の端で、木剣の先端が跳ね上がる。 完璧な打ちごろ。逃げ場のないタイミング。
次の瞬間、背筋にぞくりとした感覚が走った。グレイは考えるよりも早く、両膝の力を抜いた。
上体を真後ろへ倒し、倒れ込むようにして背中を地面スレスレまで滑らせる。同時に、右手に残していた木剣を、地を這うような角度からパウロの足元へ跳ね上げた。
「っ!」
パウロは息を漏らし、切り上げた勢いのまま後方へ大きく躍り出た。 空を切ったグレイの木剣が虚空を揺らし、そのまま地面へ背中から倒れ込む。
「……ふぅーっ……っ……」
荒い息を吐きながら、グレイは土の匂いを吸い込んだ。
「……よし、そこまでだ」
肩に木剣を担いだパウロが、ざっ、ざっ、と土を踏みしめて歩み寄ってくる。グレイを見下ろすその顔には、苦笑いとどこか不機嫌そうな色が混ざっていた。
「よく今の2撃目が分かったな。予備動作なんて、ほとんど見せなかったはずだが」
肘の泥を払いながら、グレイはゆっくりと体を起こした。
「……んー、なんていうか……勘、ですかね」
「勘ぁ?」
「一撃目をかわしたあと、なんか嫌な感じがしたんです。パウロ師匠の右足の踏み込みが、いつもより深かったから……」
グレイは自分の首筋を擦りながら、落ちていた木剣を拾い上げた。 パウロはそれ以上何も言わず、ただ鼻の頭をポリポリと掻いた。
(……足の踏み込みの深さだと? 殺気と、ほんのわずかな違和感だけで次の一手を嗅ぎつけやがったのか。ルディといい、グレイといい……この世代のガキどもは、揃いも揃って化け物じみてやがる)
◆
その日の夜。グレイラット家の食卓。
「かぁーっ!」
パウロが木製のジョッキをテーブルに叩きつけ、豪快に酒を煽る。隣で料理を並べていたゼニスが、呆れたような、けれど温かい眼差しを夫に向けた。
「あなた、今日もずいぶん疲れているみたいね」
「まあな! グレイのやつ、日に日に気味が悪いくらい強くなってやがる」
「ふふ、あなたがグレイ君と同じ歳の頃と比べてどうなの?」
「っ……! そ、そりゃあ流石に俺の方が強かったに決まってんだろ!」
むきになって言い返す夫に、ゼニスはくすくすと笑いを漏らした。 パウロはジョッキの縁を指でなぞりながら、少しだけ真面目な顔になって吐き捨てるように言った。
「……それにしても、あの直感は厄介だな。グレイのやつは、殺気や気配、体のちょっとした動きから全部を予測して動いてやがるんだ」
「まあ……。あんなに小さいのに、そんなことまで考えて剣を振っているの?」
「考えてるってのとは違うな。体に染み付いた野性の勘だ。……あんまり認めて調子に乗らせたくないが、このまま成長されたら、数年後にはマジで俺が食われるかもしれん」
腕を組み、本気で眉をひそめるパウロ。 そんな夫の姿を面白そうに見つめていたゼニスは、少し意地悪な笑みを浮かべて囁いた。
「そんな弱気なこと言っていると、いつの間にかアイシャやノルンがグレイ君のところにお嫁にいっちゃうわよ?」
「……はっ!? そ、それは絶対に認めんぞ!! アイシャもノルンも、あんな可愛げのない剣バカにはやらん!!」
夜の静かな屋敷に、父親の情けない叫び声が虚しく響き渡るのだった。