純白の空間だった。
上下も左右も分からぬ無の世界に、ペラペラの影のような男が浮かんでいる。
『やあ、初めまして。僕の名前はヒトガミ』
グレイ・カーティスは、漂う思考の中で冷やかにその影を見つめていた。うさんくさい。直感がそう告げている。だが同時に、なぜか信頼できるとも思えてしまう。相反するふたつの感情が、同時に胸の中で渦巻いていた。
『急な転移で災難だったね。自由にしていいよ、僕は君の味方だよ』
グレイは声を出さなかった。口を開く気すら起きない。ただ無言で、相手の出方を伺うように薄く目を細める。
『親切ついでに助言をしてあげる。少し駆け足でごめんね、もう一人気になる子がいるからさ。君の方が早く目覚めるから、先に声をかけたんだ。……目覚めたら、とにかく北を目指しなよ。そうすれば君の望む“平穏”に繋がる場所へ辿り着けるからさ』
「……なんでそんな事が分かるんだ?」
グレイの低い問いかけに、影は悪びれもせず肩をすくめて見せた。
『ほんの少しだけ未来が見えるんだよ』
「なら、巻き込まれる前に助言できただろ?」
『僕もこの転移は想定外だったんだ。それに、あまり干渉はできないんだよ』
「そうか」
グレイが短く切って捨てると、影は手をひらひらと振った。
『それじゃあね、頑張ってね』
影が急速に薄くなっていく。意識が現実へと引き戻されていく強烈な浮浮感。
その直後── 全身を猛烈な激痛が襲った。
「ぐ……っ!?」
肺の中の空気が無理やり絞り出され、視界が一気に白く染まる。
激痛と極寒。凍てつく風が皮膚を焼き、ナイフのように鼻腔と喉を刺した。転移の衝撃で体中が叫びを上げている。骨の数本にいっているかもしれなかった。
だが、グレイの思考はパニックに陥る直前で、鋭く研ぎ澄まされた。
まずは呼吸を整える。足は動く。動くなら、まだ戦える。 ……そして、一番大切なものの姿を探す。
アイシャの姿がない。
自分の体の激痛など、頭の隅へ放り投げた。転移の直前、光に包まれた瞬間に咄嗟に抱きかかえたはずの幼い身体がないのだ。
グレイは猛吹雪の雪山に泥臭く膝をつき、感覚の麻痺しつつある指先で、直感だけを頼りに周囲の積雪をむさぼるように掘り返した。
「……あ」
深く積もった雪の下から、小さな手袋と衣類の端が見えた。引きずり出したアイシャの身体は、氷のように冷え切っていた。胸の上下はあるが、息は途切れ途切れで恐ろしく浅い。このままでは三十分と持たずに凍死してしまう。
周囲を見渡すも、荒れ狂う白銀の地獄だ。視界はわずか数メートル先すら遮られ、吹雪を遮る岩陰ひとつ見当たらなかった。
泣いてる暇も、愚痴ってる暇もなかった。 グレイは歯が砕けんばかりに食いしばり、痛む体に鞭打って両膝を雪に押し当てた。
雪面を鋭く見据え、右手を深く突き入れる。手のひらから魔力を流し込み、雪の奥へと意識を向ける。
土魔術で骨組みを作り、周囲の雪も泥や土の延長として力ずくで固める。風を遮る空間──何がなんでも頑丈なかまくらを作る。
やがて、グレイとアイシャの二人分がすっぽりと収まるほどの、分厚く堅固な雪の避難壕が形成された。
アイシャの身体を大事に抱きかかえて中に滑り込み、入口を最低限の隙間と上部の小さな換気孔だけ残して土と雪で塞ぐ。さらに、かざした手のひらにぽっと小さな火の玉を灯した。ゆらゆらと揺れる小さな熱源が、密閉された狭い空間をわずかに温めていく。
「ふぅ……っ、ハぁ……っ……」
壁に背を預け、荒い息を吐きながら、グレイは自分の震える膝を強く抱え込んだ。
体の痛みのせいだけではない。指先と膝の震えが、どうしても止まらなかった。 どれだけ剣の稽古を積もうと、どれだけ魔術を使えようと、自分はまだ十歳の子供に過ぎないのだ。
ついさっきまで、暖かな家で父さんと母さんがいて、自分に会いに来てくれたアイシャと手袋の話をして笑い合っていたはずだった。
父さんと母さん、グレイラット家のみんなは、どこにいるのだろう。
「……父さん……っ、母さん……っ」
見知らぬ極寒の雪山。吹雪の音だけが響く暗闇。自分と、ぐったりとしたアイシャのふたりきり。
思わず口から漏れ出た呼び声は、激しい風の音にかき消されて誰にも届かない。圧倒的な孤独と恐怖が巨大な波となって押し寄せ、胸を押し潰しそうになる。視界がじわじわと涙で滲みそうになり、グレイはぎゅっと瞼を閉じて、血が滲むほど唇を噛み締めた。
ここで泣いて、弱音を吐くわけにはいかない。自分が折れてしまえば、この幼い子を誰が守るというのだ。
胸の奥から湧き上がる絶望を力ずくで押し殺し、さっきの胡散臭い男の言葉を必死に手繰り寄せる。
助かりたいなら北へ行け、とあの影は言った。言うのは簡単だが、今の自分たちには目印すら見えない。
グレイは狭いかまくらの天井を見上げ、震える声が漏れ出ないよう、低く低く呟いた。
「……この吹雪で、どっちが北なんだよ……」
その時──腕の中で抱きしめていたアイシャが、かすかに身じろぎをして小さく息を漏らした。
「んっ……ふ……」
グレイの肩が跳ねた。即座に自分の涙を袖口で乱暴に拭い去ると、表情を頼れるお兄ちゃんのものへと必死に作り替える。
「アイシャ!」
グレイは咄嗟にその小さな両手を包み込み、さするようにして温めた。
「グレイ……お兄ちゃん……?」
「よかった……っ、本当によかった……!」
手足の震えは完全には止まっていない。けれど、愛くるしい瞳が開いたことへの安堵で、胸の奥が熱くなった。
「グレイお兄ちゃん……ここ、どこ……? お家じゃないの……?」
アイシャが不安そうに周囲の白い壁を見回した。グレイが毎年プレゼントしてきた手袋をはめた小さな手で、ぎゅっとグレイの指を握り返してくる。その手がかすかに震えているのを感じて、グレイは俺がしっかりしなきゃ絶対にダメだと自分を強く叱咤した。
「いいか、落ち着いて聞いてくれ。原因は分からないが……俺たちは今、どこかの遠い雪山に飛ばされたみたいなんだ」
「……え……? 嘘……お母さんは? お父さんは?」
「近くにはいなかった。……たぶん、別の場所に転移したんだと思う」
「帰れないの……? お家へ……帰れないの……?」
アイシャの瞳にポロポロと大きな涙が溜まり、急激な不安と恐怖が小さな身体を支配していくのが伝わってくる。
グレイはアイシャの目線を正面から真っ直ぐに見つめ、自分自身の恐怖を完全に押し殺して、噛み締めるように力強く言った。
「絶対に連れて帰る。俺が、絶対にだ」
「……でも、どこに向かうの? どっちに行けばお家に帰れるの……?」
「とりあえず『北』に向かう。だが……この猛吹雪じゃ、どちらが北なのか確かめる術がないんだ」
すると、アイシャは手袋をはめた手で涙を拭い、少し考えながら首を傾げて尋ねてきた。
「グレイお兄ちゃん……お外の風は、どっちから吹いてるの? それに、壁の外側のお雪って、どんな風についてるの……?」
「え? 風と雪のつき方……?」
グレイは立ち上がり、入口を塞いでいる雪の隙間へそっと顔を近づけた。隙間から吹き込んでくる猛烈な風の向きと音を確かめ、外の壁面にうっすらとこびりついている氷の結晶を手で触って確認する。
「風は……俺たちが滑り込んできた穴の斜め右上から、ずっと同じ強さで叩きつけてきてる。壁の表面も、その風が当たる側だけカチカチに凍りついてるな」
その言葉を聞いたアイシャの瞳が、ハッと見開かれた。
「……グレイお兄ちゃん。北は、その風が吹いてくる方向だよ!」
「え……? 分かるのか?」
「うん! ルディお兄ちゃんの本で読みました。北方の極寒地帯では、特有の魔力を含んだ風がいつも同じ方角から吹くって。……風が当たる側の氷の凍りつき方と風の吹き方で、どっちが北か分かるんです」
こんな極限状態にあっても、自分が伝えた状況から知識を引き出し、見事に分析してみせた幼い少女。
グレイは少しだけ目を見開き、不安で硬く強張っていた頬をゆるめて、頼もしそうに口元を破顔させた。
「……助かった。お前、本当に賢いな」
その素直で温かい称賛に、アイシャの瞳が小さく揺れ、ほんの少しだけ安心したような表情を見せた。
グレイは手の中の火を静かに消す。途端にかまくらの中を冷気が満たしたが、もう彼の足から迷いや震えは消え去っていた。アイシャに背中を向け、低くしゃがみ込む。
「背中に乗って。……いいか、絶対に手を離すなよ。何があっても、俺がアイシャを守るから」
「……うんっ!」
アイシャがぎゅっと首に腕を回し、おんぶの体勢になったのを確認すると、グレイは痛む足と腰に渾身の力を込めて立ち上がった。
腰に下げた、父さんから十歳の誕生日に贈られた鉄の剣。その冷たい鞘の感触が、掌を通じて全身に伝わってくる。
あの日、父さんの目の前で交わした誓いが脳裏を駆け抜けた。
──必ず、生きて帰る。
かまくらの入り口を蹴り崩し、再び白銀の猛吹雪が吹き荒れる極寒の世界へ。
グレイは背中のあたたかな温もりと、鞘に込めた固い誓いを胸に抱き、果てしない北への第一歩を力強く踏み出した。