形骸たる頁の啓示   作:角筈律

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はじめまして。
または、お久しぶりです。
本居小鈴と稗田阿求を中心に、幻想郷で起こる小さな異変を書いていきます。
第一話は、鈴奈庵のいつも通りの朝から始まります。
ただ、その朝、小鈴のもとへ届いたものだけは、いつも通りではありませんでした。
それでは、どうぞ。


第一話:朝の原稿用紙

東の国の山深く、外界から隔絶された幻想郷。その片隅にある人間の里では、朝というものが、概ね律儀に訪れる。

 

夜のあいだ瓦へ降りた露は、日が高くなるより先に薄い光へ溶けてゆく。朝餉の支度を始めた家からは、米を研ぐ水の音が流れ、味噌を溶く匂いが戸の隙間から路地へ逃げる。寺子屋へ行く子どもたちは、まだ眠気の残る顔で草履を履かされ、畑へ向かう者たちは、朝霧のなかへ鍬を担いで消えていく。

 

人間の里にある古びた貸本屋『鈴奈庵』にも、その朝はいつも通りに訪れていた。

ただし、その日の主人である本居小鈴は、朝というものを、あまり好意的には迎えていなかった。

 

「……寒い」

 

 声は、布団の中で情けなく潰れた。

 

 鈴奈庵の一階、店の奥にある居住用の部屋には、夜明け前の冷えがまだ薄く残っている。木綿の布団は、眠っているあいだに人の身体から出た熱と湿気をわずかに吸い、頬を押しつけると、乾き切らない布特有の冷たさを返してきた。

 

 勝手口の脇にある小窓は、いつものように、指二本分ほど半開きになっていた。

 

 小鈴は眠る前、必ず一つだけ、その窓を少し開ける。

 

 完全に閉め切れば、部屋には古い木材、綴じ糸、紙、本、寝具、そして人間一人が眠った後の熱と湿気が溜まる。朝になれば、空気は妙に重くなり、息を吸うたび、鼻の奥へ古い書庫のような匂いがまとわりつく。

 

 しかし、窓を大きく開ければ、山から下りてくる夜明け前の冷気が床を這い、布団の隙間へ潜り込み、足首から容赦なく体温を奪っていく。

 

 だから小鈴は、閉めることも開けることも決められない者のように、いつも窓を少しだけ開けて眠るのだった。

 

(閉めれば蒸れる。開ければ寒い。どうして世の中には、ちょうどいいという加減がないのよ)

 

 布団の中で片足を縮め、もう一度だけ目を閉じる。

 

 あと少し眠れば、きっと今日は上手くいく。

その希望には、特に根拠がなかった。

 

 すると、壁の向こうから朝の里を告げる音がした。

桶へ水を汲む音。

どこかの家の引戸が開く音。

遠くで、鶏が一度だけ、妙に使命感に溢れた声で鳴いた。

 

小鈴は眉間に皺を寄せた。

 

(あの鶏、毎朝あんなに張り切って鳴いているけれど、何がそんなに嬉しいのかしら)

 

起きなければならない。

鈴奈庵は、ただ本を置いているだけの店ではない。人間の里で本を借りる者には、それぞれの理由がある。昔話を読みたい子ども。昔の旅の記録を探す老人。寺子屋で習った字を復習するための読本が欲しい者。薬草の知識を求める者。暇を持て余し、恋愛小説の続きを待ちきれない者。

 

それに、返却期限を大幅に過ぎても、本を返さない者。

 

小鈴にとって、最後の一点だけでも、朝を始めるに足る理由だった。

 

「……魔理沙」

 

眠気の残る声で、その名を呟く。

 

昨日の午後、霧雨魔理沙は鈴奈庵へ来た。

 

本を借りに来たのではない。本を返しに来たのでもない。ただ店の棚を眺め、興味のある本を勝手に引き抜き、興味のない本を勝手に戻し、店の狭い土間へ箒を横たえたまま、たいして急ぎでもない話を延々と続けていった。

 

小鈴はその間に、二度本棚の角へぶつかり、三度ほど店先の客へ道を譲り、最後には魔理沙の箒をまたいで帳場へ戻った。

 

帰り際、魔理沙は笑って言った。

 

「前に借りた本?ああ、今度返すぜ」

 

今度。

 

小鈴は、その言葉を思い出すたび、胸の底へ小さな黒いものが沈むのを感じる。

 

(今度って、いつよ。今日?明日?一年後?魔法使いの時間感覚って、本当に信用ならないんだから)

 

小鈴は布団を跳ね除け、ようやく上体を起こした。

 

寝室の隅には、昨夜脱いだ寝間着がきちんと畳まれている。畳んだのは小鈴自身だ。彼女は生活の中で物が散らかることを嫌う。帳場の筆は決まった位置にあり、硯は洗われ、貸出帳は必ず紐で閉じられていなければならない。本棚も、借り手の年齢や好みを考えながら、少しずつ手を入れている。

 

もっとも、魔理沙が一度来れば、その整頓は半日で台無しになるのだが。

 

小鈴は寝間着を脱ぎ、肌着の上からいつもの着物へ袖を通した。

 

朝の着物は、夜のものより少しだけ重い。帯を締めると、眠気に曖昧だった身体が、否応なく一日の形へ収まっていく。

 

鏡台の前へ座り、長い髪を櫛で梳く。

 

櫛の歯が髪を通るたび、細い音がした。

 

鏡の中には、まだ眠そうな自分の顔があった。目の端には寝ぼけた赤みが残り、頬には枕の跡が薄くついている。

 

「……ひどい顔」

 

小鈴は鏡へ言った。

 

鏡の中の小鈴は、もちろん何も答えない。

 

「まあ、朝から綺麗にしていたら、それはそれで何か企んでいるみたいだし」

 

小鈴は小さく頷き、勝手に納得した。

 

寝室を出ると、居住スペースの板張りの床が、足袋越しに朝の冷たさを返した。

 

店の二階へ続く木製階段は、居住スペースの奥にある。

 

鈴奈庵の階段は急だった。

 

長年、家人や客が上り下りしたため、踏み板の中央だけが妙に滑らかに摩耗している。乾いた木肌には無数の細かな傷が走り、手摺りには、何代もの人間が掴んだ掌の油が深く染み込んでいた。

 

小鈴は片手で着物の裾を軽く持ち上げ、もう一方の手を手摺りへ添えた。

 

一段、二段。

三段目へ足をかけた時だった。

木肌が、足袋の裏をするりと逃げた。

 

「――っ!?」

 

身体が前へ傾いた。

 

視界の中で、階段の角が急に近くなる。

 

手摺りを掴んだ指が、ざらついた木へ強く擦れる。掌にじりじりと熱が走る。片足は一瞬だけ宙に浮き、着物の裾が膝へ絡んだ。

 

小鈴は、ほとんど反射だけで手摺りへしがみついた。

 

ぎし、と古い階段が鳴る。

 

それ以上、何も起こらなかった。

 

小鈴は、数秒間、動けなかった。

心臓が速い。

喉が乾く。

 

 掌には、木のささくれが擦れた、ひりつくような感触が残っていた。

 

「……死ぬかと思った」

 

 声は小さかった。

 

(なんで朝からこんな目に遭うのよ。まだ何も悪いことしていないのに)

 

 小鈴は、しばらくしてから慎重に息を吐いた。

 

(違う。私が寝ぼけていたからじゃないわ。階段が悪いのよ。あの階段、何年使っていると思っているの。もっと人間の足に協力する気持ちを持ってほしいわ)

 

 当然、階段に人間の足へ協力する気持ちがあるはずもない。

 

 小鈴はそれを承知で、責任をきしむ木製階段へ押しつけた。

 

 何事もなかったような顔を作り、残りの段をゆっくりと降りる。

 

 勝手口の脇の小窓から、細い光が斜めに差していた。光の筋の中には、夜のあいだに浮いた埃が漂っている。紙の繊維のような白いものが、ゆっくりと上下していた。

 

 小鈴は窓へ近づき、開いた隙間を見た。

 

 いつも通り、指二本分。

 

 昨夜、自分でそうした。

 

 外から誰かが覗き込めるほどではない。猫なら鼻先を押し込めるかもしれないが、人間が入るには小さすぎる。風も強くなかったらしく、窓枠の周りに砂や落ち葉は溜まっていなかった。

 

「今日は、そのままでいいか」

 

 小鈴は窓を閉めず、そのまま台所へ向かった。

 

 炊事場には、昨日の夕方に洗って伏せておいた椀と皿が並んでいる。鉄鍋の蓋には、夜の湿り気が薄く浮いていた。

 

 火鉢の灰を掻き分け、残っていた炭を探す。

 

 黒く脆い炭を火箸でつまむと、その先端が少し崩れた。小鈴は新しい炭を足し、火種を移す。ほどなくして、炭は赤く息をし始めた。

 

 米を研ぐ。

 

 桶の水へ指を入れると、朝の水は思ったより冷たかった。

 

 指先が痺れるような冷たさの中で、米粒を手のひらへ押しつけ、ゆっくりと回す。最初は透明だった水が、米の表面から落ちた糠で白く濁る。

 

 三度目の水を捨てる頃には、外の里もすっかり目を覚ましていた。

 

 店先の通りから、野菜売りの声が聞こえる。

 

「大根だよ、葉まで青い大根だよ!」

 

 その声に続いて、どこかの家の子どもが泣く声。

 

 さらに少し離れたところで、鍋の蓋が落ちる音。

 

 鈴奈庵の中では、米の炊ける匂いがゆっくりと広がっていく。

 

 小鈴は大根を刻み、残っていた味噌で汁を作った。

 

 朝餉は質素だった。白米、味噌汁、昨日の残りの漬物。

 

 けれど小鈴は、炊きたての米だけは少し多めに椀へよそった。

 

 一人で食べる食事には、一人で食べるための加減がある。

 

 誰かに遠慮して量を減らす必要もない。

 

 もっとも小鈴は、そのことを「寂しくないから」と言い換えるほど、素直ではなかった。

 

「いただきます」

 

手を合わせ、箸を取る。

米は、少しだけ柔らかかった。

 

(火が強かったかしら。でも、昨日の疲れを考えれば、これくらい柔らかい方が胃には優しいわよね)

 

 誰に聞かせるでもなく、心の中で言い訳をする。

 

 味噌汁をすすり、大根を噛む。

 

少し硬かった大根を食べながら、小鈴は無意識に次に何をすべきかを考えていた。

 

 朝餉を終えた後、小鈴は椀を洗い、布巾で水気を拭き取る。

 

 いつもなら、それから店の掃除へ移る。

 

 だがその朝は、火鉢にかけていた湯の量が少ないことに気づいた。昼前に客が来た時、茶を出すには足りない。

 

「……もう少し沸かしておこう」

 

独り言を言い、鉄鍋へ水を足す。

火の勢いを見ながら、小鈴はついでに大根の残りを刻み、昼に使う分だけ小皿へ移した。

そして調理台から半歩、後ろへ下がった。

 

その時だった。

 

右足の小指が、年季の入った水屋箪笥の角へ、容赦なく激突した。

 

「う、うあぁ……っ!!ぬ、ううううっっっ!!」

 

声にならない絶叫が、喉の奥でひしゃげた。

 

小鈴は片足を抱え込むようにして、その場へしゃがみ込んだ。

 

箪笥の角は、別に尖っていたわけではない。むしろ、長年の使用で少し丸くなっている。

 

それでも小指にだけは、十分すぎるほどの硬さだった。

 

 痛みは足先から脛へ駆け上がり、膝の裏を通り、頭の奥へ白い光を打ち上げた。

 

 小鈴は目を閉じた。

 

 閉じても痛い。

 

 息を吸っても痛い。

 

 声を出そうとしても痛い。

 

「うぅ……っ、痛い……」

 

 ようやく絞り出した声は、情けないほど細かった。

 

 目の端に涙が溜まる。

 

 小鈴は、涙が落ちる前に、誰かのせいにしなければならないと思った。

 

(これは私が悪いんじゃないわ)

 

 まず、心の中で結論を置く。

 

(そう。昨日、魔理沙が店の中で箒を振り回したせいよ。あの子が狭い店内の空気を変にかき回したから、棚も箪笥も、少しずつ私に敵意を持つようになったんだわ)

 

 もちろん、箒が空気をかき回したからといって、箪笥が小鈴の小指を狙うようになる理屈はない。

 

 しかし、痛みの只中にいる者へ、理屈はそれほど役に立たない。

 

(それか霊夢よ。博麗神社で、また適当にお祓いか何かして、悪いものを里へ飛ばしたんじゃないの。あの巫女ならやりかねないわ)

 

 小鈴は、今この瞬間に最も関係のない二人へ、心の中で責任を押しつけた。

 

 少しだけ落ち着いた。

 

 もちろん、足はまったく痛いままだった。

 

 しばらくしてから、小鈴は水屋箪笥を恨めしそうに睨んだ。

 

「……今度、脚に布を巻いてやる」

 

 箪笥へ言った。

 

 箪笥は、もちろん返事をしない。

 

 小鈴は涙を指で拭い、右足を庇いながら、ようやく食卓へ戻った。

 

椅子に座るや否や小指の状態を確かめた。

 

警告を示す様に赤くなっていた。

時よりじんわりと痛みが走った。

 

 その時、時計の針がもう店を開けなければならない時間になっていた。

 

小鈴はため息を吐きながらも、居住スペースを簡単に片づけると、痛みを忘れさせる様、小鈴はようやく店を開けるために表へ出た。

 

 鈴奈庵の土間は、居住用の床より一段低い。

 

 引戸の内側には帳場があり、その奥には貸出帳、筆、硯、返却された本を置くための籠がある。左右の壁には天井近くまで本棚が並び、背の低い子どもが手を届かせられる棚には絵入りの昔話、少し奥には寺子屋用の読本、さらに奥には説話や旅の記録、古い仏教書が収められていた。

 

 そして一番奥、店主しか簡単に手を届かせない棚には、普通の客へ貸すべきではない古書や、妖魔本と呼ばれる本が置かれている。

 

 小鈴は引戸を少し開けた。

 

 朝の光が、土間の床へ差し込む。

 

 引戸が木枠を擦る音は、毎朝同じだ。

 

 ガラガラ、と低く鳴る。

 

 小鈴は箒を持ち、店先から入ってきた細かな砂を掃いた。砂の中には、昨日の客が落としたらしい乾いた草の葉が一枚混じっていた。

 

魔理沙の靴底かもしれない。

 

霊夢が来た時のものかもしれない。

 

あるいは、里の誰かが持ち込んだものかもしれない。

 

小鈴はそれを箒の先で集めながら、ふと笑った。

 

(草の葉一枚で犯人探しを始めたら、阿求みたいになっちゃうわね)

 

阿求は、物事をよく覚えている。

 

人の顔も、本の表紙も、昨日の天気も、誰がどの時刻にどんな言葉を言ったかも。小鈴が忘れてしまうようなことまで、彼女は忘れない。

 

それが羨ましいと思うこともある。

 

しかし、小鈴には時々、その能力が少し怖かった。

 

忘れられるからこそ、朝が朝としてやって来ることもある。

 

昨日の失敗を全部覚えていたら、人は毎日、ちゃんと起きられるのだろうか。

 

「……まあ、阿求なら起きるんでしょうけど」

 

 小鈴は箒を立てかけ、帳場へ座った。

 

 貸出帳を開く。

 

 紙は何度もめくられ、端が丸く柔らかくなっている。墨で書かれた名前の中には、返却済みの印がついたものもあれば、期限を大きく過ぎているものもある。

 

 霧雨魔理沙。

 

 その名前の横には、返却予定日から三本も線が引かれていた。

 

 小鈴は筆を取り、さらに小さく一本、線を足した。

 

「はい。これで四本目」

 

 帳簿へ言った。

 

「次に来たら、ちゃんと返してもらうからね」

 

 帳簿は、もちろん返事をしない。

 

 店の外では、朝の里がすでに動き始めている。

 

 子どもたちが寺子屋へ向かう足音。

 

 野菜売りが遠ざかる声。

 

 向かいの家の戸が開き、誰かが桶の水を捨てる音。

 

 小鈴は、開店の札を表へ出そうと立ち上がった。

 

 その時だった。

 

 とん。

 

 何かが、土間へ落ちた音がした。

 

 小鈴は顔を上げる。

 

「いらっしゃいま――」

 

 言いかけて、声が止まった。

 

 表の引戸は半分ほど開いている。

 

 朝の光は、さっきと同じ角度で土間へ差している。

 

 けれど、その光の中に人影はなかった。

 

 ただ、小さな包みが一つ、土間の中央に置かれていた。

 

 白い紙で包まれ、細い紐で十字に結ばれている。

 

 雨に濡れた様子はない。

 

 泥もついていない。

 

 誰かが持ってきたにしては、あまりに静かに、あまりにきちんと置かれていた。

 

 小鈴は、しばらく動かなかった。

 

 店先の通りを覗く。

 

 朝の里には、何人かの人影がある。

 

 寺子屋へ向かう子ども。

 

 野菜籠を抱えた女。

 

 向こう側の路地へ消える老人。

 

 けれど、誰も鈴奈庵を見ていない。

 

「……誰かの忘れ物?」

 

 小鈴は帳場を出て、包みへ近づいた。

 

 土間の板は、朝の光を受けて白く乾いている。

 

 包みの表には、筆で一行だけ書かれていた。

 

『本居小鈴様』

 

その文字を見た瞬間、小鈴は、ほんのわずかに息を止めた。

整った筆跡だった。整っているだけではない。

文字の形が、妙に静かだった。

 

書き手の手が震えず、迷わず、けれど急いでもいないことが、墨の入り方だけで伝わる。

 

小鈴の帳簿の文字とも違う。

 

阿求の端正な筆跡とも違う。

 

寺子屋の先生の、少し力の入った文字とも違う。

 

小鈴は包みを持ち上げた。

 

軽い。

本ではない。布でも、食べ物でもない。

 

紙に近い重さだった。

 

「……何よ、これ」

 

包みを帳場へ運び、紐を解く。

 

紐は新品ではなかった。何度か結び直された跡があり、繊維は少しだけ毛羽立っている。

 

包み紙を開く。

 

中に入っていたのは、四百字詰めの原稿用紙が二枚だった。

 

端は少しだけめくれ、紙の色は真新しい白ではない。誰かの机の引き出しに長く眠っていた紙のように、わずかに黄みを帯びている。

 

 小鈴は一枚目を手に取った。

 

 紙の表面には、墨の匂いがあった。

 

 しかし、その墨は乾いている。

 

 指先へ移るような湿りはない。

 

「原稿用紙……?」

 

 鈴奈庵には、本を書きたい者や、写本を頼みたい者が、ときどき文章を持ち込む。

 

 だから原稿用紙を見ること自体は、珍しくない。

 

 珍しくないはずだった。

 

 一枚目の最上段に、墨で書かれた文字を読むまでは。

 

『――人間の里にある古びた貸本屋『鈴奈庵』にも、その朝はいつも通りに訪れていた。』

 

小鈴の指が、止まった。

しばらく、その一文の意味が分からなかった。

分からないまま、続きを読む。

 

『ただし、その日の主人である本居小鈴は、朝というものを、あまり好意的には迎えていなかった。』

 

「……え?」

 

喉の奥が、乾く。

 

小鈴は二行目へ目を落とした。

 

『彼女は、閉め切れば空気が淀み、開け放てば明け方の冷気が寝具へ忍び込むことを知っていた。そのため、毎夜、窓を完全には閉めない。』

 

三行目。

 

『その朝も、小鈴は布団の中で「寒い」と呟いた。』

 

「……」

 

小鈴は、原稿用紙を見つめた。

 

『朝の光は、帳場の端まで伸びている。

外では、子どもたちの足音が遠ざかっていく。』

 

鈴奈庵の中には、自分一人しかいない。

 

それなのに、紙の上には、まだ誰にも話していない自分の朝が書かれている。

 

小鈴は、原稿を置こうとした。

 

だが、指が離れない。

 

次の行を読む。

 

『彼女は、寝惚け眼のまま木製階段を下り、三段目で足を滑らせる。危ういところで手摺りにしがみつき、転落だけは免れたものの、掌には木のささくれが擦れた熱を残すこととなる。』

 

「な……」

 

小鈴は思わず、自分の掌を見た。

 

朝、手摺りを掴んだ右手。

 

まだ薄く、じりじりとした痛みが残っている。

 

紙へ目を戻す。

 

『その後、彼女は階段の老朽化へ責任を転嫁し、人間の足へ協力する意思を持たない木材を、心の中で責める。』

 

「そこまで書かなくていいでしょう…!」

 

顔が熱くなる。

 

怖い。

怖いが、それ以上に、誰にも見せていないものを勝手に書かれた恥ずかしさがあった。

 

小鈴は二枚目へ目を移した。

 

そこには、炊事場で大根を刻み、湯を足し、水屋箪笥の角へ右足の小指を打ちつけたことが書かれていた。

 

『本居小鈴は、調理台から半歩後ろへ退いた拍子に、右足の小指を水屋箪笥の角へ強く打ちつける。彼女は声にならない声を上げ、涙を溜めたまま床へしゃがみ込むこととなる。』

 

小鈴は、紙面から目を離せなかった。

 

『彼女は、痛みの責任を自らの不注意に求めず、前日に来訪した霧雨魔理沙と、博麗神社の巫女へ順に転嫁する。魔理沙が狭い店内で箒を振り回したため、棚や箪笥が自分へ敵意を持つようになったのだと、小鈴は考える。』

 

「ちょ、ちょっと待ってよ」

 

小鈴は思わず、原稿用紙へ抗議した。

 

「私、そこまで変なこと考えていないわよ!」

 

考えていた。

正確には、その通りのことを考えていた。

 

小鈴は紙を裏返した。

 

何もない。

 

再び表へ返す。

 

そこには、本来なら四百字詰めの二枚へ収まりきらない量の文章が続いていた。

 

升目は、確かに四百しかない。

 

けれど、行と行の間にある余白にびっしりと書かれていた。

 

「……これ、何なの」

 

小鈴は紙の端を強く握った。

 

紙は冷たかった。

 

和紙とは思えないほど、冷たかった。

 

その時だった。

 

引戸の外で、足音が止まった。

小鈴は顔を上げる。

今度は、影があった。

 

朝の光を背に、引戸の向こうへ一人の少女が立っている。

 

「小鈴。おはよう」

 

聞き慣れた、澄んだ声だった。

 

「少し早いけれど、頼んでいた写本はできているかしら?」

 

小鈴の視線は、ゆっくりと手元の原稿へ戻った。

 

紙面の一番下。

 

さっきまで、何もなかったはずの余白に、新しい一文が浮かんだように見えた。

 

『理解を超えた紙片を前に、本居小鈴が言葉を失っていた時、鈴奈庵の引戸を開け、稗田阿求がいつもより早く姿を現す。小鈴は、原稿に書かれた未来が、目の前で現実となったことを理解し、魂を抜かれたような驚きの声を上げることとなる。』

 

「ひゃああああああああっっ!!」

 

 小鈴は、肺の中にあった空気をすべて吐き出すような叫び声を上げた。

 

驚愕のあまり、手から滑り落ちた二枚の原稿用紙が、朝の光の差す土間へ、ひらりと舞い落ちる。

 

「……小鈴?」

 

引戸を開けた阿求は、店の中央で固まっている親友を見て、わずかに眉をひそめた。

 

「どうしたの。朝からずいぶん賑やかね」

 

小鈴は答えられなかった。

 

土間に落ちた原稿用紙を指差すことしかできない。

 

 阿求は小鈴の指先と、その先の白い紙を見比べた。

 

「これ?」

 

 阿求は着物の裾を汚さぬよう注意しながら、土間へ落ちた原稿用紙を拾い上げる。

 

「……ずいぶん端のめくれた原稿用紙ね。新刊の持ち込みかしら」

 

「感心してないで、読んで!」

 

「あなた、今朝から何に怯えているの?」

 

「いいから、一番上から!」

 

 小鈴に急かされ、阿求は仕方なさそうに一枚目へ視線を落とした。

 

「……『本居小鈴が微睡みの底から意識を浮き上がらせたとき、勝手口の脇にある小窓は、指二本分だけ開いていた』」

 

阿求の声が、途中でわずかに止まった。

しかし続けて読む。

 

「『彼女は、閉め切れば空気が淀み、開け放てば明け方の冷気が寝具へ忍び込むことを知っていた。そのため、毎夜、窓を完全には閉めない』……」

 

阿求は、紙から目を上げた。

 

「小鈴。これは、あなたが書いたの?」

 

「書くわけないでしょう!」

 

「でも、あなたの生活をよく知っている」

 

「それが怖いのよ!」

 

阿求は再び紙面を読む。

 

木製階段。小鈴の転倒未遂。水屋箪笥の角。右足の小指。魔理沙と霊夢への責任転嫁。

 

行を追うごとに、阿求の顔から、いつもの軽いからかいの色が消えていった。

 

「……これは」

 

阿求は二枚目の最後へ目を落とす。

 

そこには、自分の名があった。

 

『その直後、稗田阿求が鈴奈庵を訪れることとなる。』

 

鈴奈庵の中に、静かな沈黙が落ちた。

 

店の外では、いつもの里の朝が続いている。

 

行商人の声、子どもたちの足音、遠くで鳴く鶏。

 

そのどれもが、急に、ひどく遠いもののように聞こえた。

阿求は、原稿用紙を朝の光へかざした。

 

「……妙ね」

 

「何が?」

 

「この紙」

 

阿求の指が、紙面の下の方で止まった。

 

「ここに、一度書かれた文章を消した跡がある」

 

小鈴は息を呑んだ。

 

阿求が示した箇所には、墨の上から細い二重線が引かれていた。

 

その下の文字は、かすかに歪み、読めそうで読めない。

 

「書き損じ?」

 

「分からないわ」

 

阿求は、いつものように冷静な声を作ろうとしていた。

 

しかし、その声は、ほんの少しだけ硬かった。

 

「でも、もしこれが誰かの悪戯なら——ずいぶん手が込んでいる」

 

小鈴は、土間に差す朝の光を見た。

 

二枚の原稿用紙。

 

まだ乾いた墨。

 

自分しか知らない朝の独白。

 

そして、目の前にいる、原稿に書かれていた通りの阿求。

 

小鈴は、朝から二度目の冷たい汗を背中に感じた。

今度の汗は、寒さのせいではなかった。




ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
記念すべき第一話でした。
今回は、鈴奈庵の朝と小鈴の日常を描きながら、物語の始まりとなる原稿を登場させました。小鈴らしい騒がしさと、阿求が現れた時の空気の変化を楽しんでいただけたなら嬉しいです。
これから、小鈴と阿求はこの原稿をめぐる出来事に関わっていくことになります。
次回も、どうぞよろしくお願いします。
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