形骸たる頁の啓示   作:角筈律

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前話では、小鈴と阿求が永遠亭で療養することになりました。
けれど、二人は早くも退院を望みます。
今回は、永遠亭を後にして、里へ帰る道中を描きます。
それでは、どうぞ。


第十話:消えた碑文

翌朝になっても、景綱が持ってきたあの焼き菓子の箱は、寝台の脇の卓の上に置かれたまま、静かに沈黙していた。

 薄い紙包みの上には、永遠亭の静閑な朝の光が斜めに鋭く差し込んでいる。その上質な包み紙の折り目には、昨日、景綱が大きな手で丁寧に結んだという麻紐の影が、まるで日時計の針のようにくっきりと落ちていた。

 箱そのものは、ごく小さい。

 怪我を負った娘二人で少しずつ分け合って食べれば、あっという間になくなってしまう程度の、ささやかな量に過ぎなかった。

 それなのに、小鈴も阿求も、あれほど昨日まで食べ物の話で騒いでいたくせに、今朝は一切その箱へ手をつけようとはしなかった。

 食べる暇がなかったわけでは、決してない。

 鈴仙が湯気の立つ朝食を運んできた後にも、いつも通り顔をしかめて苦い薬を飲み干した後にも、二人が痛む身体を横たえて少し安静にしてからも、その小さな箱はずっと同じ場所で、二人の視線を受け止め続けていた。

 小鈴は、何度かその箱を見た。

 隣の寝台の阿求も、やはり何度かその箱を見た。

 しかし、どちらも「さあ、お菓子を食べましょう」とは、頑なに口にしようとはしなかった。

 二人の手を止めさせていたきっかけは、朝食のすぐ後に、どちらからともなく始まった重苦しい会話のせいだった。

 それは最初、それほどたいした話ではなかったはずだった。

 龍神景綱という人間の里の有力者が、自分たちのことを一体どこまで深く疑っているのか。

 あの凄惨な事故が起きる直前に、なぜピンポイントで現場へ向かっていたのかという致命的な不自然さを、今後どのように取り繕って説明するべきか。

 そして何より、このすべての元凶である、あの白い布の下の原稿用紙を、これから博麗の巫女か誰かに見せるべきなのか、それとも徹底的に秘匿して見せないべきなのか。

 小鈴としての結論は、極めて単純明快だった。景綱に対しては、どこまでも「何も知らなかった、ただの不運な偶然の重なりだ」と言い切ってしまえばよい。ただそれだけのことだと思っていた。

 もちろん、あの鋭い景綱が、そんな子供騙しの言い訳で簡単に納得するとは微塵も思っていない。

 だが、今の自分たちにとって、あの有力者にわざわざ納得してもらう必要なんて、どこにもないはずだった。

景綱は自分たち二人の友人ではあるけれど、あの不気味な原稿のことを知るまっとうな義務があるわけではない。むしろ、下手に真実を話したところで、彼を余計な危険な深淵へ巻き込んでしまうだけだ。

「だからね、昨日の対応はあれで正解だったのよ」

 小鈴は、布団の端を少しだけ整えながらそう言った。自分でも、最初はただの軽い感想のつもりだったのだ。

「景綱さんへ余計なことを言わなかった。原稿のことも、事故のことも、あの石碑のこともね。私たちが余計な説明を一切しなかったから、これ以上不必要に話が広がらずに済んだのよ」

「広がらずに済んだ、というその表現は論理的に正確ではないわね」

 阿求は、高く積まれた枕へ背を預けたまま、天井を見つめて冷徹に答えた。

「景綱さんの私たちに対する疑念は、何一つとして解消されていないもの」

「でも、昨日はこれ以上しつこく聞かれずに、大人しく帰ってくれたでしょう?」

「それはね、小鈴。景綱さんが怪我人である私たちに対して、ただ大人の遠慮をしてくれただけよ」

「なら、せっかく遠慮してくれるまっとうな人へ、こちらからわざわざ不穏な話を増やす必要なんてどこにもないでしょう」

「小鈴」

 阿求は、ほんの少しだけ眉を寄せ、鋭い目線を隣へと向けた。

「あなたは今、問題が根本的に解決していないことと、その場の会話がとりあえず終わったことを、都合よく混同しているわ」

「混同なんてしていないわよ。私はね、今は無理に解決しなくてもいいと言っているの」

「どうしてそんなふうに後回しにするのよ」

「私たち、絶賛大怪我をしているからよ」

「……それは、思考を放棄する理由にはなっていないでしょう」

「十分な理由よ! 両足の小指に綺麗なひびが入っている怪我人へ、それ以上複雑な里の問題を持ち込まないで頂戴」

「あなたはね、小鈴。怪我をしていようがいまいが、いつだって複雑な問題を本能的に避けるでしょう」

「避けるのではなくて、生きるためのまっとうな順番を決めているの!」

「あなたの言うその順番では、食事、睡眠、読書、昼寝、そしてまた食事の順になるでしょう?」

「非の打ち所がないほど、人間らしい素晴らしい順番じゃないの」

「人間らしくあっても、目の前の怪異を解決するための順番ではないわ」

「人間はねえ、阿求。二十四時間いつでも問題を解決するためだけに生きているわけではないでしょう?」

「ええ。でもね、迫り来る問題をただ怠惰に放置するために生きているわけでもないわ」

 最初は些細な意見のズレだったはずの会話は、そこから先、お互いの譲れない一線に触れて、少しずつ、けれど確実に熱が上がっていった。

小鈴は、阿求がどんな些細な事態であっても、すべて「記録」や「確認」、あるいは「調査」という冷徹な言葉へと即座に置き換えてしまうことに、どうしようもない腹立たしさを覚えていた。

 対する阿求は、小鈴が「今は考えなくていい」などともっともらしい言い訳を並べ立てて、目の前にある厄介な現実の難問をただただ先送りしようとすることに、激しい苛立ちを募らせていた。

 龍神景綱という有力者に対する、今後のまっとうな説明の仕方はどうするべきか。

 この不気味な原稿用紙を、本当にこのまま誰の目にも触れさせずに隠し通しておいてよいのか。

 里の広場にあるあの名もない石碑を確かめに行くよりも前に、一昨日のあの古書店の事故現場をもう一度厳密に再調査するべきではないのか。

 もしも、あの恐ろしい看板崩落がただの偶然ではなく、本当に「誰かの作為的な意図」によるものだったのだとしたら。――今、景綱へ何も話さないという二人の選択は、はたして本当に正しいと言い切れるのだろうか。

 すべてを正直に話してしまえば、景綱をさらに深い怪異の危険へと巻き込むことになってしまう。

 しかし、だからと言ってこのまま何も話さずに秘匿し続ければ、次にどこかで起きるであろう最悪の事故を、二度と止められなくなってしまうのではないか。

 生身の頭脳で考えれば考えるほど、歪な分岐の「答え」だけが無秩序に増えていった。

 そして、その答えが増えれば増えるほど、目指すべきまっとうな結論は、霧の向こうへと遠ざかっていくのだった。

 熱くなりかけた沈黙の末、やがて小鈴は、寝台の脇の卓の上にぽつんと置かれた、あの焼き菓子の箱へと力なく目を向けた。

「……もう、このお菓子は、今日は食べないことにしましょう」

 小鈴が、諦めたように、けれど静かに語気を落として言った。

 阿求は、あれほど食欲を最優先にしていた友人のその言葉に、少しだけ意外そうな、驚いた目を向けた。

「急にどうしたのよ」

「どうしたも何も、朝からずっと二人で不毛な話を続けているでしょう」

「それと景綱さんの焼き菓子を食べることに、一体何の関係があるというの?」

「落とし所よ、落とし所」

「……食べないことが、落とし所だと言うの?」

「ええ、そうよ。だって昨日の夕方までは、景綱さんから貰ったお見舞いを、今朝二人で仲良く食べる予定だったでしょうに」

「そんな予定、私は一言も認めていないわ」

「でも、絶対にそういう空気だったじゃないの」

「私はね、それを食べるとは一度だって口にしていないわよ」

「でも、さっきから何度もその箱をチラチラと見ていたでしょう?」

「あなただって、同じように見ていたではないの」

「だからよ。二人とも、本当は食べたかったのよ」

「勘違いしないでちょうだい。私はただ、あの箱の材質と、人里の菓子屋特有の几帳面な包み方を観察していただけよ」

「阿求、あなたって人は、焼き菓子を美味しく食べる前にわざわざ包装紙の学術的な観察から入るの?」

「人から頂いた大切な贈答品なら、その包み方から相手の意図を汲み取るくらい、至極当然の配慮でしょう」

「普通はね、中身が美味しいかどうかを見るのよ!」

「あなたは、すべての現実の基準をみずからの食欲に置き換えすぎだわ」

「阿求こそ、この世の何でもかんでもを稗田家の記録を基準にして考えすぎよ!」

 そこでまた、跳ね上がった会話の熱量がぴたりと行き場をなくし、気まずい沈黙が滑り込みかけた。

 小鈴は、このまま不毛な言い合いをダラダラと続ければ、お目当ての焼き菓子に指一本触れられないまま、先に永遠亭の退屈な昼食の時間が来てしまうと本能的に悟った。

 隣の寝台の阿求も、おそらくその極めて現実的なタイムリミットについて、全く同じことを考えていたのかもしれない。

「だから、今日はもう食べない」

 小鈴は、自分自身の食欲に無理やり蓋をするようにして、改めて宣言した。

「このややこしい議論にちゃんとした結論が出るまでは、美味しい甘いものは一切なしよ」

「それは……私に対する、あるいはあなた自身に対する何らかの罰のつもり?」

「違うわよ。さっきも言ったでしょう、これは私たちの『落とし所』よ」

「ずいぶん奇妙で、非論理的な落とし所ね」

「阿求が、いつまで経っても私が納得できるようなマシな妥協案を出さないからでしょうが」

「あなただって、私が納得できるような現実的な案を一つも出していないわよ」

「でもね、阿求。今この瞬間、あの焼き菓子を『食べない』ということに関してだけは、あなたも私も完全に納得して一致しているでしょう?」

 阿求は、言われてハッとしたように卓の上の小さな箱を見つめた。

 それから、ゆっくりと視線を巡らせて、ベッドの上の小鈴の顔をじっと見つめ返した。

「……ええ。今日は、本当に食べないことにしましょう」

 阿求は、ようやく降伏するように静かに言った。

「でしょう? 私の言った通りだわ」

「ただしね、小鈴。明日までこれがこのまま残っていたら、その時は私も容赦なく食べるわよ」

「明日まで残るに決まっているでしょう。この病室には私たち二人しかいないんだから」

「見回りに来る鈴仙や、永琳へ少しお裾分けして分けるという、美しく高尚な選択肢だってあるわ」

「……それは絶対に嫌」

「どうしてよ」

「これはね、景綱さんが私たちのためにわざわざ持ってきてくれた、大切なお見舞いの品よ。食べるなら、持ってきてくれた本人の気持ちを真っ正面から受け取った、私たち二人が責任を持って食べるべきでしょう?」

「あなた、急にそういうところだけ妙に美しい筋を通すのね」

「失礼ね、私はいつだって万事において筋が通っているわよ」

「ええ、みずからの底知れない食欲を満たすための筋ならね」

「阿求」

「何かしら」

「とにかく、今日は本当に食べないわよ。約束だからね」

「ええ、分かったわ。約束ね」

 こうして、あの小さな焼き菓子の箱は丸一日、緊迫した二人の寝台の間に静かに置かれることになった。

 食べないと固く決めたことで、平行線を辿っていた二人の熱い会話は、ようやく別の穏やかな方向へと流れ始めていった。

 しかし小鈴の胸の中には、今朝目覚めた瞬間から、もう一つどうしても喉に刺さった骨のように引っかかり続けている重大なことがあった。

 昨夜の深い闇の中で、あの格子窓の向こうに確かに目撃した、あの「細長い人影」のことだ。

 小鈴は、それを阿求へ正直に話そうかどうか、朝から何度も何度も頭の中で迷っては思いとどまっていた。

 もし今、ここで話してしまえば、一度目にしたものを絶対に忘れない阿求のことだ、間違いなく目を輝かせて容赦のない質問を浴びせてくるに違いない。

 あの異形は、具体的に竹林のどこに立っていたのか。

 閉め切られた窓から、どれくらいの距離だけ離れていたのか。

 その背丈は、普通の人間と比べてどの程度だったのか。

 不気味に傾いていた角度は、左右ともに同じ均等さだったのか。

 カサカサという乾いた音は、合計で何回聞こえたのか。

 人影を見たその瞬間、夜空の月はどの正確な位置にあったのか。

 小鈴が微かに覚えている限りの記憶のディテールを、阿求は一つずつ剥ぎ取るように聞いてくるだろう。

 しかも、小鈴の記憶が曖昧で答えられない部分があれば、彼女はそれを決して曖昧なままにはしておかない。

 曖昧なら曖昧であるという、その「理由」の分岐をさらに深く考え始めるのだ。

 ただの不注意による記憶違いか。

 薬がもたらした深い眠気の影響か。

 それとも、月明かりが窓ガラスに反射しただけの悪戯か。

 青竹の複雑な配置が引き起こした、ただの脳の錯視か。

 あるいは、竹林に棲む何かの野生の生き物が、偶然二本足で立っていた可能性は。

 永遠亭の使用人や因幡の兎たちが、夜間に巡回ルートを歩いていた可能性は。

 そして――あの細長い人影は、本当に部屋の中の小鈴を「見て」いたのか。

 小鈴が偶然そちらへ視線を向けたことで、世界の因果が噛み合い、初めてあの影が「形」を持ったのではないか。

 阿求の問い詰めは、きっとそこまで際限なく広がっていく。

 そしてその長い論理の果てに、彼女は決まっていつもの涼しい顔で、こう言い放つはずなのだ。

『とても興味深いわ。小鈴、今夜、もう一度あの窓の外を厳密に確認してみましょう』

 小鈴は、そこまで最悪な未来の対話を頭の中で完璧に想像してしまい、すっかり阿求に話す気を失くしてしまった。

ただの見間違いかもしれない曖昧なものを、わざわざ大層な怪異として大事にする必要なんてどこにもない。

 昨夜の自分は、信じられないほどに眠かった。

 包帯に包まれた両足は、ズキズキと酷く痛んでいた。

 病室の明かりは完全に消えていて、あたりは真っ暗だった。

 おまけに風が完全に死に絶えていたせいで、迷いの竹林特有のあの冷徹な静けさが、普段よりも何倍も強く感じられていただけなのだ。

 そんな奇妙な悪条件がいくつも重なってしまえば、夜の闇に沈む遠くの竹の幹や木の影を、怪しい人影と見間違えてしまったところで、医学的にも論理的にも何一つ不思議ではない。

 小鈴は、頭の中でそう自分を納得させるように強引に結論づけた。

 ――いや、正確に言えば、そう結論づけたことにしたのだ。

 そうやって無理にでも脳みそを騙して現実的な逃げ道を作っておかなければ、今夜の不気味な夜をとてもじゃないけれど恐怖で一秒も眠れない気がしたからだ。

「小鈴」

 不意に、隣の寝台から降ってきた阿求の静かな声に、小鈴はハッと現実へ引き戻されて顔を上げた。

「……な、何よ」

「あなた、さっきから無意識のうちに、全く同じところを何度も何度も、数分の間に三回は見ているわよ」

「どこをよ。私、別にどこも見てないわ」

「格子窓よ」

 小鈴は、その言葉に弾かれたように、反射的に窓の方へと目を向けてしまった。

 窓の外には、燦々と陽光が降り注ぐ、いつも通りの昼の竹林がただ広がっていた。朝の明るい光をいっぱいに受けて、青々とした竹の葉がサラサラと心地よさそうに揺れている。昨夜のおぞましい静寂とは全く違い、今は風が通る自然の音もはっきりと聞こえた。どこか遠くの茂みで鳥が朗らかに鳴き、廊下の向こうからは、見回りをしている兎たちの規則正しい足音すら聞こえてくる。

「……見ていないわよ、そんなの」

「ほら、今この瞬間も、私の目の前でしっかりと視線を泳がせて見たでしょう?」

「これは……これはただ、窓の外の安全を確認しただけよ」

「一体、何があるかどうかを確認したというの?」

「……竹があるかどうか、よ」

「迷いの竹林の真ん中にある病院なのですから、窓の外に竹があるのは歴史の必然でしょうに」

「だって、昨日の夜、その竹の影が……なんだか怪しい人影みたいに、不気味に見えた気がしたから……」

 小鈴はそこまで一気に捲し立ててから、ハッと息を呑み、慌てて両手で口を閉ざした。

 時、すでに遅し。隣の寝台の阿求の聡明な瞳が、獲物を見つけた狩人のように、じわりとわずかに細められる。

「……昨日の、夜?」

 ――しまった。

 小鈴は、脳の奥底で最悪な冷や汗がドッと噴き出すのを感じた。

「……いや、昨日の夜は、ただ竹がね」

「竹がどうしたの?」

「何でもないわよ、本当に」

「何でもない話を、どうしてそんなふうに怯えた顔で途中でやめるの?」

「阿求、今のはただの言葉の流れよ。深い意味なんてないわ」

「言葉の流れで、昨日の夜に竹がどうしたというの?」

「夜にも、竹が……そこにあったのよ」

「それは昼もあるでしょう」

「夜にも……あったのよ!」

「小鈴」

 阿求の声が、すっと一段低くなった。

 小鈴は、布団の中で足の指を絶対に動かさないように全身を硬直させた。痛みが出るからではない。動揺していることを、これ以上目の前の友人に悟られたくなかったからだ。

 阿求は、じっとこちらを見つめている。

 その目は、相手の言葉のわずかな引っかかりを決して見逃さない。

 九代にわたって『一度目にしたものを絶対に忘れない能力』を持つということは、単に世間の記憶力がよいということではないのだ。

 一度見たもの。

 一度聞いた言葉。

 一度感じた違和感。

 それらのすべてが、本人の意思に関係なく、消えない石碑の文字のように脳裏に残り続けるということだ。

 阿求にとって、他者との会話は流れて消えていくものではない。発した言葉は、すべてどこかへ厳密に積み重なっていく。

 だからこそ、小鈴は迂闊なことを言いたくなかった。しかし、この稗田阿求を誤魔化し通すのは、至難の業だった。

「……昨夜ね、少しだけ夜中に目が覚めたのよ」

「何時頃かしら?」

「分からないわ。時計なんて見ていないもの」

「窓から見えた月の位置は?」

「見ていないわよ」

「窓の外の竹林を見たのではなかったの?」

「見たけれど、わざわざ月の位置まで正確に確認していないわ」

「――人影は?」

 阿求は、何の脈絡もなく、すぐにそう聞いた。

 小鈴の背中に、ぞっとするような薄い寒気が走った。

 問い方が、あまりにも早すぎた。

 まるで、彼女は最初からそこへ向かって質問の罠を仕掛けていたかのような、恐ろしい踏み込み方だった。

「……人影なんて、見ていないわ」

 小鈴は即座に答えた。

 明確な嘘だった。

 けれど、ただの見間違いかもしれない曖昧なものを「見た」と正直に打ち明けるのは、やはり無駄な大騒ぎを引き起こすだけに思えた。

 阿求は、黙って小鈴の顔を見つめていた。

 その嘘の機微を完全に見抜いたのか。

 それとも、別の論理を頭の中で組み立てているだけなのか。

 小鈴には、その冷徹な瞳の奥をどうしても読み取ることができない。

「そう」

 阿求は、しばらくの間を置いてから、ぽつりと言った。

「なら、見ていないのね」

「ええ、そうよ」

「分かったわ」

 その返事は、拍子抜けするほど、あまりにも素直なものだった。

 いつもなら執念深く言葉の端々を追い詰めてくるはずなのに、あっさりと引き下がられたせいで、小鈴はかえって心細い不安に駆られた。

「……本当に?」

「何がかしら」

「それ以上、何も深く聞かないの?」

「あなた自身が見ていないと言い切ったのだから、見ていないのでしょう。それ以上の事実はないわ」

「阿求にしては、ずいぶんと珍しい物分かりの良さね」

「私だって、大切な友人の言葉をそのまま信じることくらいあるわよ」

「普段は私のことを何一つ信じていないみたいな言い方ね」

「信じているわよ。ただ、相手を『信じること』と、そこに横たわる事実を『確認すること』は、論理的に全くの別問題でしょう?」

「……やっぱり、本当は根掘り葉掘り聞く気満々だったんじゃないの」

「今夜、あなたがまた『怖くて眠れなかった』と泣き言を言い出したら、その時は徹底的に聞くわ」

「勝手に私の未来の行動に、不吉な尋問の条件を設けないで頂戴」

「では、今この瞬間に聞く?」

「……絶対に聞かないで」

「分かったわ」

 阿求はフッと小さく笑うと、今度こそ追及を諦めたように、静かに窓の外の竹林へと目を向けた。

 小鈴は、布団の中でようやく胸の奥の冷たい息を小さく吐き出した。

 ――話さなくて、本当によかった。

 心の底から、そう思った。

もしもすべてを正直に話してしまえば、阿求はきっとあの原稿用紙を取り出して、昨夜の怪異を徹底的に「記録」しようとしただろう。

 そして、白紙のどこかにあの人影のことがすでに書かれているかを確認する。

 もし書かれていなければ、なぜこの紙はあの恐怖を記述しなかったのかを考える。

 もし書かれていれば、一体いつの間にあの不吉な一文が書き足されていたのかを考える。

 ――どちらに転んだとしても、この穏やかな午前中が跡形もなく吹き飛んでいたことは確実だった。

 小鈴は、現実へ意識を繋ぎ止めるように、机の脇に置かれた焼き菓子の箱へと視線を向けた。

 上品な紙に包まれた箱は、昨日と全く同じ場所で、静かに朝の光を浴びている。

「そういえば、景綱さんから頂いたあのお菓子だけれど」

 不意に、阿求が寝台の上から声をかけてきた。

「絶対に食べないわよ、今日は」

 小鈴が、先回りしてきっぱりと言い放つ。

「私はまだ、今日食べるかどうかなんて一言も言っていないでしょう」

「どうせ、今日食べるか明日まで我慢するかっていう、意地悪な質問をするつもりだったんでしょう?」

「あなたがそんなふうに自分から先に口にするということは、本当は頭の中で猛烈に気にしている証拠ね」

「これっぽっちも気にしていないわよ!」

「本当に気にしていない人はね、わざわざ自分から『気にしていない』なんて強く主張しないものよ」

「それは、九代にわたる稗田家の立派な経験則かしら?」

「いいえ。ただの、あなたの行動に対する客観的な『観察』よ」

「またその言葉ね。本当に都合のいい便利な言葉だわ」

「ええ。万事においてこれほど便利な言葉は他にないわね」

「何でもかんでも『観察』の一言で済ませられるからでしょう?」

「ええ、その通りよ」

「ではね、阿求。私が今からあなたのその積まれた枕を強引に奪い取ろうとしている企みも、正確に観察できるかしら?」

「今のあなたは両足の小指にひびが入っていて一歩も動かせないのだから、物理的に私の枕を奪うことは不可能よ」

「……本当に、そういう物理的にぐうの音も出ないところだけは、異常に正確なのよね」

「歴史の記録者だから、当然だわ」

「自分で偉そうに自称しないで頂戴」

「自称ではなく、ただの厳然たる事実でしょう?」

 二人はそれからしばらくの間、あの忌々しい原稿とは何の関係もない、他愛のない世間話を続けた。

 永遠亭の運んでくる食事が、昨日と今日でどこまで細かく献立が違っているか。

 鈴仙が薬の包みを卓に置く時、いつも必ず私たちの右側から置くのは、単に彼女の利き手の都合なのか、それとも医療的な配慮なのか。

 廊下をせわしなく掃除しているあの迷いの竹林の兎たちは、一体誰の指示であの時間に動いているのか。

 そして、景綱が持ってきてくれたあの焼き菓子は、人里のどこの店で買い求めたものなのか。

 もしそれが人里の有名な菓子屋なのだとしたら、貸本屋である鈴奈庵から歩いていけるほど近い場所にあるのか。

 もし近いのだとしたら、無事にここを退院した後に、小鈴の足で歩いて買いに行けるようになるのか。

 ――そして、そこまで足のひびが回復するには、ここからあと何日かかるのか。

 二人が一生懸命に紡いだそうした会話は、どれもこれも、今の幻想郷の危機に比べれば何一つとして重要なことではなかった。

しかし、その重要ではない他愛のない話に興じることができる時間こそが、今の二人にとっては、正気を繋ぎ止めるために何よりも大切な盾だったのだ。

 自分たちの現実を侵食する、あの不気味な原稿のこと。

 一昨日の古書店の前で起きた、凄惨な看板崩落事故のこと。

 三日後の未来に待ち受けているという、里の広場の名もない石碑のこと。

 自分たちを静かに、けれど確実に疑いはじめている龍神景綱の冷徹な眼差し。

 そして、昨夜の凍りついた竹林の奥で目撃した、あの細長く揺らめく不気味な人影。

 ほんの少しでも思考の足を踏み入れてしまえば、一瞬にして世界が重く暗く塗り潰されてしまうような狂気の話題なら、そこら中にいくらでも転がっている。だからこそ、二人はあえて、意識のすべてをどうでもよい日々の雑談へと注ぎ込んだ。

 どうでもよい話を選ぶことは、決して怪異からの卑怯な逃避なんかじゃない。少なくとも小鈴は、頑なにそう思いたかった。

 昼前の眩しい光が、少しずつ、穏やかに病室の中へと広がっていく。

 寝台の脇の卓の上に置かれた、景綱の見舞いの焼き菓子の箱にも、うららかな明るい陽光が当たった。

 小鈴は、その箱をじっと見つめた。

 光を浴びた上品な紙の包みが、心なしか少しだけ温かく、愛おしいものに見える。

「……ねえ、阿求。やっぱりあのお菓子、明日は食べることにしましょうか」

 小鈴が、我慢できずにぽつりと言った。

「明日、ねえ?」

「だって、今日は絶対に食べないと固く決めたんだもの」

「その妙なルールを勝手に決めたのは、他ならぬあなたでしょう」

「阿求だって、ちゃんと納得して同意したじゃないの」

「私はね、小鈴。あなたのあの長引きそうな不毛な議論を今すぐ終わらせるために、仕方なく大人の同意を貸してあげただけよ」

「それでも同意は同意よ!覆しようのない事実だわ」

「もし万が一、明日になってもこのややこしい議論が長引いていたら?」

「その時は……その時は、また明日も我慢して食べないわよ」

「では、私たちの論理が噛み合わない限り、いつまで経ってもあの焼き菓子は食べられないわね」

「阿求が、もっと私の分かりやすい話に合わせて、議論をスマートに短く終わらせればいいのよ」

「あなたが最初から、思考を放棄したような余計な屁理屈を並べ立てなければいいでしょう」

「失礼ね、私の発言に余計なものなんて、一文字だって含まれていないわよ」

「今まさに口にした、その傲慢な発言もかしら?」

「もちろんよ、大真面目だわ」

「なら、あの焼き菓子は永遠に食べられないわね」

「ふふ、永遠亭だけに?」

 小鈴が、ここぞとばかりにドヤ顔で言った。

「……小鈴。その致命的にセンスのない駄洒落は、お菓子を口に運ぶ前に、今すぐ窓から外へ投げ捨ててきた方がいいわよ」

「ちょっと阿求、今の返しはかなり上手かったでしょうに!」

「一体どこがかしら」

「だって、永遠亭で、永遠に食べられないよ?完璧じゃない」

「自分の放った冗談の解説をみずから始めた時点で、それはユーモアとして完全な失敗作よ」

 小鈴は、そのいつもの手厳しい返しが可笑しくて、思わず吹き出しそうになった。

 ――その時だった。

 静かな襖の向こう側の廊下から、トツン、トツンと、硬い足音が響いてきた。

 それは、午前中何度も耳にしてきた、いつもの鈴仙・優曇華院・イナバの足音では決してなかった。鈴仙が歩く時は、どこか医療の仕事で急いでいるような独特の軽やかさがある。薬や食事を運ぶルーティンが多いせいか、彼女の足音は常に小さく、寸分の狂いもなく一定しているのだ。

 今、襖の外に聞こえてくる足音は、それよりも遥かに遅く、重かった。

 一歩、踏み出すごとに、永遠亭の古い床板の強度をじっくりと確かめるような、妙に威厳のある足音。

 小鈴は、弾かれたように阿求の顔を見た。

 阿求もまた、いつの間にか口元の笑みを完全に消し去り、厳しい表情で襖の方へと顔を向けていた。

「入るわよ」

 低く、すべてを見透かすような、凛とした声が響いた。

 やはり鈴仙ではない。この声の主は永遠亭の最高責任者であり、月の賢者でもある、八意永琳だった。

「どうぞ、お入りください」

 阿求が、背筋を正して凛と答える。

 スゥと襖が滑らかに開き、白衣の裾をわずかに揺らしながら、永琳が静かに病室へと入ってきた。

 その高貴な顔には、いつもと変わらない、穏やかで優しい微笑みが浮かんでいる。

 しかし怪異に対して直感が人一倍鋭い小鈴の目には、その永琳の微笑みが、どういうわけかいつもより「少しだけ薄く」、張り詰めたものに見えて仕方がなかった。

 永琳は入室するなり、底の知れない深い瞳で、病室の中を一撫でするようにぐるりと一度見回した。

 寝台に横たわる小鈴と阿求。

 卓の脇に置かれた、景綱の焼き菓子の箱。

 ――そして、昨夜から鈴仙の白い布をかけられたまま、壁際の机の上に置かれている、あの原稿用紙。

 最後に、二人の顔。

 その流れるような冷徹な視線が、机の上の白い布の膨らみのところで、ほんの一瞬だけピタリと静止した。

 小鈴は、心臓の鼓動が急激に跳ね上がるのを感じながら、無意識のうちにベッドの上で背筋をピンと伸ばした。

 隣の阿求もまた、自らの右肩の痛みを堪えるように、わずかに居住まいを正した。静寂の病室に、一昨日、あの古書店の看板の真下に立った時のような、逃げ場のない冷たい緊迫感が再びじわじわと満ち始めていた。

「お加減はいかがかしら?」

 永琳が、二人の顔を穏やかに見つめながら尋ねた。

「おかげさまで、良好ですわ」

 阿求が、いつもの隙のない声音で答える。

「小鈴さんは?」

「まだズキズキとした痛みはありますが、昨日よりは幾分かましです」

「それは結構。では、経過を少し詳しく診せてもらいましょうか」

 永琳は静かに白衣の裾を翻し、二人の並んだ寝台へと近づいてきた。

 その声はどこまでも落ち着いていて、名医としての包容力に満ちていた。

 けれど、小鈴の直感は確かに告げていた。八意永琳は、ただのまっとうな定期診察のためにここへ来たわけではない。彼女は今、医学の枠を超えた「何か」を冷徹に確かめに来ているのだ、と。

 それが一体何なのかは、まだ小鈴には分からなかった。

 小鈴は、格子窓の外へと一瞬だけ目を向けた。

 昼の竹林は、眩しいほどに明るかった。

 心地よい風が通り抜け、青々とした竹の葉がサラサラと音を立てて揺れている。昨夜の、あの生きた世界から切り離されたような不気味な人影など、どこを探しても影も形もない。

 それなのに、小鈴の胸の奥には、しつこい泥のように嫌な胸騒ぎがべっとりとこびりついて離れなかった。

 永琳がこのお昼前の妙なタイミングで病室へ入ってきたことと、昨夜の窓の外のあの細長い影が、直接関係しているとは到底思えない。思えないのに、なぜかそれらは最初から決まっていた同じ一日のシナリオの中にある出来事として、頭の中でぴったりと隣り合っていた。

 小鈴は、その逃げ出したいような不吉な感覚を強引に振り払うように、永琳へ向かって生白く細い手を差し出した。

「……お願いします」

「ええ。では、ゆっくりと力を抜いて、息を吸ってちょうだい」

 静まり返った病室に、永琳の凪いだ声が響く。

 小鈴は言われた通りに、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。

 ――その時だった。

 卓の脇にぽつんと置かれた、あの龍神景綱が持ってきた焼き菓子の箱の中で、何かが小さく、乾いた音を立てた。

 カサ、と。

 小鈴は、反射的にそちらへと視線を飛ばした。

 菓子箱は動いていない。薄い上質な紙包みも、景綱が丁寧に結んだ麻紐も、朝の光の中で昨日と全く同じ形をして静止している。

 永琳は、その微かなノイズに何も気づいていないかのように、淡々と触診を続けている。阿求もまた、硬い横顔のまま窓の外の竹林を見つめていた。

 小鈴は、今のはただの自分の哀れな聞き間違いだと思った。いや、必死にそう思おうとした。

 けれど、昨夜の「地面を引きずるような音」と酷くよく似たその乾いた響き、胸の奥に爪を立てるように残った小さな違和感だけは、どうしても消えてはくれなかった。

 永琳は、小鈴の足元に巻かれた包帯を細やかに確認しながら、ギプスの位置を冷たい指先で慎重に確かめていた。

 その触れ方は、医者らしく極めて丁寧だった。

 けれど、丁寧であるということと、生身のひびが入った骨が痛まないということとは、全くの別問題だった。

「少しだけ、骨の按配を押しますね」

「少しって、具体的にどのくらいですか?」

「小鈴さんが、痛みのあまり顔をしかめるくらいよ」

「それは、少しではなく、かなりではないですか?」

「では、少しだけかなり、押してみましょうか」

「永琳先生、大怪我を負った可哀想な患者の身体で遊ばないでください」

「遊んでいるつもりは毛頭ないわ。あなたの肉体の正直な反応を見ているのよ」

 永琳は淡々と落ち着いた声で答えながら、小鈴の赤黒く腫れた足先を慎重に確認していった。

 ギプスなどの固定具が、寝返りの拍子にずれていないか。

 骨の周囲の腫れが、昨日よりもひどくなっていないか。

 巻かれた包帯が、必要以上に鬱血を招くほど締まっていないか。

 小鈴は、自分の足元をめぐる永琳の迷いのない手元を、ただじっと眺めていた。

 医者というものは、つくづく気の遠くなるような大変な職業だと思う。

 患者が痛みに耐えかねて痛がれば痛がるほど、医者の側はどこまでも冷徹で冷静でいなければならない。

 患者が強がりや遠慮で「大丈夫」と言えば、その言葉の表層をそのまま真に受けて信じるわけにはいかない。

 患者が「少し痛い」と言えば、その少しという曖昧な主観が、客観的にどの程度のものであるのかを徹底的に確認しなければならない。

 ――そして、患者が診察の最中だというのに、寝台の脇に置かれた焼き菓子の箱へ何度も何度も不自然に目を向けていても、何事もなかったかのように診察を続けなければならないのだ。

 小鈴は、どうしても気になる胸騒ぎに抗えず、再び机の脇に置かれたあの箱へ視線を移した。

 上質な薄い和紙で丁寧に包まれ、景綱の武骨な手によって紐で硬く結ばれた小さな箱。

 昨日、龍神景綱が自分たちの命の恩人への正式なお見舞いの品として、わざわざ懐から取り出して持ってきたものだ。

 小鈴も阿求も、これが人里のどこの菓子屋のものなのかは知らない。景綱はただ、「人里で今朝一番に買ってきた焼き菓子です」と短く言っただけだった。

 そのため、小鈴は包み紙の隙間から漂うわずかな甘い匂いから、中身の味をあれこれと想像するしかなかった。

 箱を開けさえすれば、その正体はすぐに分かる。

 しかし、昨日の二人は結局、これに手をつけなかった。

 そして今日もまた、議論の落とし所として「絶対に食べない」と心に決めていた。

 ――他ならぬ、小鈴自身が、みずからの食欲に蓋をして言い出したルールだった。

朝から景綱が抱いた疑念の正体について深く話し合い、あの不気味な原稿用紙の処遇をどうするか激しく議論し、挙句の果てには三日後の名もない石碑の未来のことまで考えているうちに、焼き菓子を美味しく食べるだけの精神的な余裕など、二人の世界からは完全に失われていた。

 だからこそ、小鈴はみずからの食欲に蓋をして、いったんの落とし所を決めたのだ。

 ――今日は絶対に食べない。

 この話は、これで終わり。

 そのはずだった。完璧な防衛線を敷いたはずだった。

 なのに、永琳の細い指先が触診を終え、その底の知れない瞳がふっと卓の上の箱へ向けられたまさにその瞬間、小鈴の視線もまるで磁石に吸い寄せられるかのように、そちらへ強引に引き摺り戻されてしまった。

「その箱は、一体かしら?」

 永琳が、何気ない声音で尋ねた。

 小鈴はハッとして、慌てて視線をベッドの上へと戻した。

「……箱、ですか?」

「ええ。昨日いらした龍神の景綱さんが、お見舞いの品として持ってきたものかしら」

「そうですわ」

 隣の寝台から、阿求が静かに答えた。

「昨日、私たちのためにと直々にいただきましたの。中身は人里の焼き菓子だそうですわ」

「どこの菓子屋の店のものか、具体的な名前は聞いたの?」

「名前までは聞いていません。景綱さんからはただ、今朝一番に人里で買ったものだとしか」

 今度は小鈴が、言葉を補うようにして答えた。

 永琳は、薄い和紙で包まれた小さな箱の形状を、興味深そうにしばらく眺めていた。

「ああ……。この独特な包み方の形なら、最近人間の里で、にわかに評判になっている新しい菓子屋の店のものかもしれないわね」

「……評判に、なっているんですか?」

 小鈴の声のトーンが、美味しい噂の響きに思わずわずかにパッと明るくなった。

「ええ、そのようね。ここしばらくのあいだ、里の店の前には毎日大勢の人間が列をなして並んでいると、薬売りの兎たちから聞いたわ。何でも、薄く繊細に焼き上げた香ばしい生地の中に、上品な餡をたっぷりと包んだ菓子だそうで、味の種類もいくつか豊富にあるそうよ」

「味の種類も、いくつか……」

 小鈴の目が、完全に、抗えない重力によって再び小さな箱へと向けられた。

 今度は、隣で見守っていた阿求の目にもはっきりと一目瞭然で分かった。その小鈴の瞳は、単にそこに物質として箱が存在していることを確認しているだけの冷淡な目では決してない。

 その包み紙の奥にある、まだ見ぬ極上の餡の味を、生々しく想像して鼻の下を伸ばしている目だった。

 小鈴の視線が、美しい和紙の包み紙の上をじっと滑っていく。

 中の餡は、一体何だろう。

 まっとうな小豆の粒餡だろうか。

 それとも、この季節らしい贅沢な栗餡だろうか。

 甘い芋餡という可能性も大いにある。

 もしかすると、一つの箱の中にそれらの味が何種類か綺麗に詰め合わされて入っているのかもしれない――。

「……ま、まあ、今日は絶対に食べないって決めたから、食べないけれどね」

 小鈴は、こみ上げる涎を飲み込むようにして、自分に言い聞かせるように呟いた。

 阿求は、そのあまりにも未練がましすぎる友人の様子に、呆れと慈しみの混ざった複雑な眼差しをゆっくりと向けた。

「そう決めたのは、他ならぬあなたでしょう」

「そうよ、私が言い出しっぺよ」

「では、どうして今、誰の目から見ても食べる気満々の顔をしているの?」

「満々ではないわよ。ただの健康的な興味よ」

「あなたの目はね、小鈴。すでにその箱を開けて中身を貪り食っているわ」

「いくら私の目力が優れていたって、目で箱の紐を解いて中身を開けることなんてできないでしょう」

「今にもみずからの手で開けそうな、あさましい目をしている、という意味よ」

 小鈴は、必死になってその誘惑の箱から目を離そうとした。

 しかし、先ほどの永琳の魅力的な説明がどうしても頭から離れてくれない。

 里で今まさに大人気の一等店。

 毎日、人間の大行列ができる。

 薄く焼き上げられた香ばしい生地。

 その中にたっぷりと包まれた上品な餡。

 しかも、味の種類がいくつも豊富にある――。

 想像しただけで、小鈴の口の中には、じわりと少しだけ甘い唾液が溜まっていった。

「……でもね、やっぱり、今日は絶対に食べないと固く決めたんだから」

「ついさっき医師から聞いたばかりの美味しい情報一つで、自ら敷いたはずの鉄の決意をあっさりと撤回しようとしているように見えるけれど」

 阿求が、容赦なくそこを突いた。

「撤回なんかじゃないわよ。これは状況に合わせた論理的な『再検討』よ」

「一体、何が違うというの?」

「新しい情報が増えたのだから、それに基づいて最初の判断を柔軟に改めるのよ」

「あなたはね、ただ単にその焼き菓子の店が世間で人気だと知っただけで、先ほどまであれほど熱弁していた高尚な結論をゴミ箱へ捨てるのね」

「だって、それほど人気なら、生き物として一度は食べてみたいと思うのが人情でしょう?」

「私は、あなたほどそこまでの熱意は持てないわね」

 阿求はそう冷淡に言い放ちながら、しかし、その視線を卓の上の箱へとそっと向けた。

 小鈴ほど露骨で、あからさまなものでは決してない。ただの偶然を装って、ほんの一瞬だけ、紙包みの折り目の上へと素早く視線を落としただけだった。

 しかし、すべてを見透かす月の賢者は、その一瞬の機微を絶対に見逃さなかった。

「あら。阿求さんも、本当は少しだけ興味があるのではないかしら?」

「……ただの、里の最新の食文化の確認には、多少の関心がありますわ」

 阿求は、何事もなかったかのように落ち着き払って答えた。

「地上では、それをシンプルに『食べたい』と言うのではないかしらね?」

「稗田家としての、重要な歴史の記録に必要な実地確認よ」

「記録のためなら、美味しく食べるのね?」

「……論理的な必要性があればね」

「では、今まさに必要なのね!」

「小鈴、どさくさに紛れて私の言葉の揚げ足を都合よく取らないで頂戴」

「阿求だって、本当は食べたいなら素直に食べたいって言えばいいじゃないの!」

「私はね、あなたほど自分の野性的な食欲に対して、無防備に正直ではないのよ」

「それって、私が異常に正直すぎるという意味?」

「あなたの場合ね、脳で思考して言葉を発するよりも先に、その食欲が口より先に喋り出しているのよ」

 八意永琳は、いつものように繰り広げられる二人のキレのあるやり取りを、ただ静かに聞いていた。

 やがて、何か面白い事実に気づいたかのように、ふっとその美しい口元へと白い手を添えるのだった。

「ふふ、ごめんなさいね」

 永琳は、おかしそうに低く笑った。

「永琳先生?」

「いいえ。阿求さんのその頑なな言い回しが、少しばかり面白くてね」

「永琳先生まで阿求の味方をするんですか? 酷いわ!」

「味方というよりはね、私もただ、あなたたちのことを興味深く『観察』しているだけよ」

「あ、それ、阿求がさっきから好んで使っている十八番の言葉です!」

「そうね。万事において、これほど便利で都合の良い言葉は他にないもの」

「お願いだから、二人揃って寄ってたかって私を観察対象にしないでください!」

 阿求は小鈴の抗議を柳に風と受け流しながら、卓の上の箱へともう一度だけ目を向けた。

 今度は小鈴に絶対に気づかれないよう、極めて自然に、睫毛の動きだけで視線を走らせるつもりだった。

 しかし、すべてを見透かす月の賢者の眼を誤魔化すことなどできなかった。

 永琳には、はっきりと分かっていた。この頑固な御阿礼の子も、本当は少しだけあの焼き菓子を食べたそうにしているということが。

 ただし、小鈴のように野生的な食欲で視線が箱へダイレクトに引き寄せられるわけではない。箱に強い興味を持っているという生身の欲求を、自分の中で「味の確認」や「里の流行の記録」という極めて知的で無機質な言葉へと変換し、自らのプライドを守っているだけなのだ。

「……よし、やっぱり明日は絶対に食べるわ!」

 小鈴が、これ以上の生殺しに耐えかねたように急に大きな声で宣言した。

「今日はもう意地でも食べない。明日、無事にここを退院してから、鈴奈庵に戻って一番に食べるの」

「退院してから、ねえ?」

 阿求が、その極端な方向転換に不審げな目を向けた。

「ええ、そうよ。今日ここで下手に手をつけちゃうと、さっき自分で決めたルールをあっさりと破ったみたいで格好悪いでしょう?」

「つい数分前まで、全力でそのルールを自ら破ろうと再検討を並べていたくせに」

「今はもう、絶対に破らないって新しく固く決意したの!」

「ずいぶんと、インスタントで展開の早い決意ね」

「決意というものはね、思い立ったら早い方がいいのよ」

「あなたの弱点はね、小鈴。決意をするまでのスピードが遅いのではなく、決意したルールをまっとうに守り通す持続時間が致命的に短すぎることよ」

「明日は絶対に食べるんだから!」

「そんなふうに意気込んでいるけれど、明日にはその箱ごと、忽然とどこかへ消えていそうね」

「ちょっと、どういう不吉な意味よ、それ!」

 小鈴は、思わずベッドの上で声を荒らげた。

「私が美味しく食べる前に、誰かが泥棒みたいに勝手に食べちゃうとでも言うの?」

「誰かが食べるとは一言も言っていないわ」

「では、どうして箱ごと消えるなんていう不吉な予言をするのよ」

「あなたが今夜あたり夜中に待ちきれなくなって、その箱ごと抱えて、病室のどこかへ不審に隠し持つのではないかしら、と推測しただけよ」

「私は、阿求にとってそんなに信用がない人間なの!?」

「ええ。こと食べ物の誘惑に関しては、歴史的に見てもあまり信用はおけないわね」

 阿求は、一切の淀みなく即答した。

 小鈴は、顔を真っ赤にして今度こそ烈火のごとく言い返そうとした。

 しかし――あまりにも過去の自分の行いに心当たりがありすぎて、次の言葉がどうしても出てこなかった。

思い返してみれば、阿求の言う通りだったかもしれないと小鈴は密かに自省した。

 朝餉や昼食の話になると、自分はいつだって異常なほど饒舌になっていた。

 運ばれてきたお粥の滑らかな柔らかさ。

 お味噌汁の絶妙な濃さ。

 白米の完璧な炊き方。

 大根の漬物のぱりりとした心地よい歯触り。

 永遠亭で出された食事のディテールについて、頼まれもしないのに阿求に向かって事細かに熱弁していたのは自分だ。食後の薬を飲む時でさえ、苦いだの匂いが嫌だのと子供のように文句を口にしていた。

 景綱がこの焼き菓子を持ってきた時だって、まだ包み紙を開けて箱の形を確認してすらいない段階なのに、すでに網膜が焼き切れるほど何度も視線を向けてしまっていた。

 そして極めつけは今だ。永琳から「里で評判の行列店」という最新の流行を聞かされただけで、あれほど朝から頑固に主張していた「今日は絶対に食べない」という自分の決意を、あっさりと改変して破ろうとしていたのだ。

「……」

 小鈴は、恨めしそうに卓の上の箱を見た。

「私……本当に、そんなに食べ物の前では信用がない人間なのね」

「ほら、今まさにその自省のセリフを口にしながら、五秒以上もその箱を熱心に見つめているわよ」

「いちいち秒数まで細かく数えないで頂戴!」

 永琳は、とうとう声を立てて楽しそうに笑った。

 月の賢者としての威厳を損なわない、決して大きすぎる笑いではなかったけれど、先ほどまでのどこか張り詰めていた微笑みに比べれば、明らかに心からの楽しそうな響きを帯びていた。

「阿求さん、あなたの放つ皮肉のメスは、なかなかどうして鋭くて見事ね」

「永琳先生、お願いですからその最低な皮肉を気に入って調子に乗らせないでください」

「どうしてかしら?」

「これ以上褒めると、あやつの天狗の鼻がさらに調子に乗るからです」

「あら、私は最初からもう十分に調子に乗っているわよ」

 阿求が、澄ました顔で言った。

「乗っていないわよ!」

「今、私の指摘に対して即座に大声で自分で否定したでしょう?」

「それは調子に乗っているのではなくて、あなたの歪んだ観察に対する歴史的な事実の訂正よ」

「永琳先生、今のも実に完成度の高い、素晴らしい皮肉ですわ」

「もう二人揃ってやめてください!」

 小鈴は、悔し紛れに布団の上へ両手をついた。

 骨にひびの入った両足を些細な振動でも動かさないように注意しているため、ただ上半身を強く起こすというだけの動作であっても、今の彼女にとっては少しばかり余計な筋力が必要だった。

 永琳は小鈴のその不自然な身体の強張りを鋭く見咎めると、瞬時にいつもの冷徹な名医の表情へと戻った。

「無理にそんなふうに起き上がらなくていいわよ、小鈴さん」

「でも、今のまま寝そべっていたら、私だけがこの病室で一方的に攻撃されてサンドバッグでしょう!」

「大丈夫よ、あなただって十分にその生意気な口で反撃しているわよ」

「阿求には、私の反撃がちっとも効いていませんもの」

「いいえ、十分に効いているわよ」

 阿求が、寝台の上から静かに答えた。

「ただ、その効いたという事実を、私のプライドが表に出していないだけよ」

「それは医療の世界では、効いていないのと全く同じでしょうに」

「違うわ。本当に胸の奥に深く効いた言葉ほど、人間というものは後になってから何度も何度も思い出すものよ」

「へえー。ではね、阿求。あなた、今朝からのこの不毛な会話を全部完璧に覚えているっていうの?」

「ええ、もちろんよ」

「じゃあ、あの焼き菓子の味の妄想の話も?」

「最初からすべてね」

「私がその箱を、これまでに合計で何度チラチラと見たかも?」

「流石に、そこまでの正確な回数まではいちいち数えていないわ」

 その阿求の呆れたような、けれどどこか安心させるような答えを聞いて、小鈴は胸の奥で、少しだけ張り詰めていた糸を緩めてホッとした。

「本当に? 本当にそれ以上は数えていないのね?」

「ただ、確実に四回以上なのは確かね」

「やっぱり増えているじゃない!」

 その隙のない畳み掛けに、永琳がまた楽しそうに低く笑った。小鈴は流石に顔を真っ赤にして恥ずかしさを覚えた。けれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

 永遠亭へ来てから、鈴仙には何度も身の回りの世話をしてもらっている。だが、最高責任者である八意永琳と、こうして私生活の雑談で長く話す機会はこれまで少なかった。

 永琳はいつだって穏やかで、落ち着いていて、医療に必要な最低限のことだけを口にする。何を考えているのか分かりにくい、超越的なところがある。その月の賢者が、今はただの人里の焼き菓子の話で、娘のように笑っているのだ。自分がいいように笑われているのだとしても、病室の重苦しい空気が少しでも軽くなったことは、今の小鈴にとって決して悪くはなかった。

「では、今度は阿求さんの診察に移りましょうか」

 永琳が、笑みの残る顔のまま言った。

「はい。よろしくお願いいたします」

 阿求は、三角巾で吊られた右肩を慎重に庇いながら、寝台の上でゆっくりと身体の向きを変えた。永琳は手際よく固定具の具合を確認し、肉の裂けた背中の傷の経過についていくつか質問を重ねていく。

「昨夜は、ちゃんと眠れたかしら?」

「ええ、それなりに」

「途中で、傷の痛みで目が覚めたりした?」

「……一度だけ、ありましたわ」

「それ以外には?」

「特に、何の問題もありませんでした」

 阿求は、御阿礼の子らしくいつも通り簡潔に、淀みなく答えた。

 小鈴は隣のベッドで阿求のその完璧な受け答えを聞きながら、昨夜の凍りついた暗闇のことを、嫌でも思い出していた。

 ――自分は夜中に、不自然に目を覚ました。

 窓の外を見た。

 あの時、迷いの竹林は、生きた世界とは思えないほど異様な静けさに沈んでいた。

 そして――白骨のような竹林の遠くに、あの細長い、正体不明の人影が確かに立っていたのだ。

 小鈴は、こみ上げる不吉な記憶を、胸の奥底へと無理やり力ずくで押し込めた。

 今ここで阿求へ話してしまえば、またあの執拗な質問攻めが始まってしまう。話さなくたって、今この眩しい昼間の時間において、何一つ困ることはないのだ。あれはただの睡眠不足が見せた、哀れな見間違いだった。そう思うことにしたのだから、これでいい。

「……阿求さん?」

 不意に、永琳が怪訝そうに呼びかけた。

「はい、何でしょう」

「少し、意識がぼんやりしているようだけれど……もしかして、私が思っているよりも痛みが強いの?」

「いいえ、そんなことはありませんわ。ただ、今後の稗田家の仕事について、少しだけ考え事をしていただけです」

「そう。けれど、決して無理はしないでね」

 永琳は、阿求の崩れかけた包帯を優しく、的確に整えた。

「それからお二人とも、今ここで真剣に聞いておいてほしいことがあります」

 小鈴は、永琳の紡ぐ声のトーンが、一瞬にして劇的に変わったことに気づいた。

 先ほどまで焼き菓子の味や駄洒落で無邪気に笑っていた時よりも、遥かに低く、落ち着いていて、どこか底の知れない冷徹さを孕んでいる。

「ここに来た最初にも少し話したけれど……あの『原稿』についてよ」

 小鈴と阿求の視線が、示し合わせたように同時に机の脇の隙間へと向いた。阿求の手によって、白い布ごと雑に押し込まれたあの原稿用紙が、シーツの端から不気味に顔を覗かせている。

 八意永琳は、あの原稿が鈴奈庵や里で起こしたという一連の超常的な出来事を、自らの目で直接目撃したわけではない。ただ、二人が何を見て、何を恐れ、どうしてあの古書店の事故現場へ向かう羽目になったのかという経緯を、医師としての問診である程度は知っているというだけだ。

 それでも、論理の化身である永琳は、あの原稿の超常性を未だに本気で信じているわけではなかった。

 自分の見ていない曖昧なものを、内容の一致だけで簡単に信じるほど、この月の賢者は軽率でもなければ愚かでもない。だからこそ、彼女はこれから二人に告げるべき言葉を、極めて慎重に、冷徹に選んでいるのだった。

「私はね、その原稿用紙が本当に未来を予知して書いているのかどうか、未だに何一つ判断を下してはいないわ」

 永琳は、並んだ二人の寝台を冷徹に見つめた。

「何度も言うけれど、あなたたちが嘘をついて狂言を起こしていると言っているわけではないのよ。現実に、あなたたち二人がその目で目撃し、恐怖した『何か』が確かにそこにあるのでしょうね」

 小鈴は、その言葉の重みに無意識に背筋をぴしりと正した。

「けれどね。その原稿が一体何であるのか、その正体が全く分からないままで、その文章を執拗に読み続ける行為は、極めて危険よ」

「……危険、と申しますと?」

 阿求が、その真意を探るように低い声で尋ねた。

「ええ。もし万が一、あの原稿が本当に覆しようのない未来を記しているのだとしたら、それを読むたびにあなたたちの心には不必要な恐怖や不安が際限なく増幅していくわ。もしその未来が人間の力では決して変えられない絶対の運命なのだとしたら、読み進めるほどに、あなたたちはただ深い無力感に叩き落とされることになるでしょう」

 永琳は、二人があえて目を背けていた、あの壁際の机の上へと静かに視線を向けた。

「逆にね、もしあれが超常の予言などではなく、ただの拙い文章や、誰かが仕掛けた卑怯な異変の一部に過ぎないのだとしたら、それを本物の現実の根拠として扱い続けることで、あなたたちのまっとうな判断力が、都合よく歪んで偏ってしまう可能性があるわ」

 小鈴は、反論する言葉も見つからずに、ただ黙って月の賢者の宣告を聞いていた。

「だからね、しばらくのあいだ、あの原稿を一切読まないようにしなさい」

 永琳は、医者としての明確な拒絶を込めて、はっきりと言い放った。

「あの紙を今すぐ捨てろとは言わないわ。未練が残るなら、燃やして消し去れとも言わない。ただ常にあれを見つめ続けたり、そこに書かれた拙い一文字一文字に対して、過剰な意味を求めようとするのは今すぐ止めなさい」

「……ですが、現にそこには、景綱様のあの凄惨な事故のことが……」

 阿求が、納得のいかない様子で珍しく食い下がろうと言いかける。

「分かっているわ」

 けれど、永琳はその言葉を慈悲深く、完璧に遮った。

「あの看板事故について、あなたたちがあの原稿から事前に何か不穏な情報を察知していたことは、すでに優曇華院の問診から聞いているわよ。……それでもね、今はもう読まない方がいいと言っているのよ」

「それは……一体、どうしてですか」

「あなたたち二人の心身へ与える『毒』の影響が、いくら何でも大きすぎるからよ」

 永琳は、三角巾で吊られた少女の姿を、まっすぐに見据えた。

「阿求さん。あなた、九代にわたって『一度目にしたものを絶対に忘れない宿命』を背負っているのでしょう?」

「……ええ、その通りですわ」

「なら、なおさらよ。そんな危険な肉体を持ったあなたが何度もあの呪われた文章を読めば、その悍ましい文字列が、生涯にわたってあなたの頭の中へ強固に残り続けることになるわ。眠っている間も、美味しい食事を摂っている間も、書かれていた破滅の内容が本当に現実になるのか、次の一文には一体何が起こるのかを、死ぬまで脳髄のどこかで考え続けなければならなくなるのよ」

 阿求は、ぐうの音も出なくなったように、わずかに長い睫毛を伏せた。

 医者の放ったその冷徹な言葉の刃は、他ならぬ阿求自身にとって、あまりにも生々しく思い当たるところがありすぎたのだ。

 ――昨夜、阿求は傷の痛みなどではなく、脳裏に焼き付いた原稿の記述に縛られて、文字通りほとんど一秒も眠れていなかったのだから。

阿求は目を閉じても、あの呪われた原稿の文字が脳裏に鮮明に浮かび上がっていた。

 無惨に崩落する看板事故の場面。

 小鈴の足の怪我。

 紙に執拗に書き連ねられた悍ましい文章。

 そして恐ろしい速度で現実へと追いつき、因果を書き換えていく記述の数々。

 一度目にしたものを絶対に忘れないということは、裏を返せば、決して忘れられないという底知れぬ地獄でもあった。自分で記録したはずの破滅のシナリオを、自らの頭の中から消し去ることなど、彼女の宿命が許さなかった。

「……小鈴さんもよ」

 永琳は静かに視線を巡らせ、今度は小鈴へ目を向けた。

「あなたは阿求さんほど強固に記憶に焼き付くわけではないかもしれないわ。けれどね、頭の中でその恐怖を何度も何度も思い返して反芻していれば、当然、生身の身体は休まらないわよ」

「……はい」

「特に大怪我をしている時はそうなの。肉体が必死に回復しようとエネルギーを使っているのに、頭の側だけが次の危険を探し求めて過覚醒を続ければ、身体の痛みも精神の不安も、通常より何倍も強く敏感に感じやすくなってしまうわ」

 永琳はどこまでも冷徹に、名医として忠告を重ねていた。

 原稿が本物の超常の力を持っていると、認めているわけでは決してない。むしろその逆。本物か偽物かも判然としない、そんな得体の知れない代物だからこそ、今は絶対に物質的な距離を置けと言っているのだ。

「私はね、あの原稿用紙が本当に幻想郷の現実を書き換えているとは、未だにこれっぽっちも思ってはいないわ」

 永琳は、諭すように穏やかに言葉を続けた。

「ただね、あなたたちがあの原稿を目にしてから、事故の起きる前よりも明らかに異常な緊張状態に陥っている。その精神的な緊張が、あなたたちの心身に最悪な悪影響を及ぼしていることだけは、医者として見過ごせない事実よ」

「……ですが、もし私たちが次の原稿を読まなければ、次に里で何が起きるか、誰が犠牲になるか、本当に何も分からないままになってしまうかもしれません」

 阿求が、掠れた声で必死に食い下がった。

「物事の先が分からないということが、必ずしも生き物にとって悪いこととは限らないわよ」

 医者の答えは、恐ろしいほどに静かだった。

「先の悲劇なんて知らない方が、人間はよっぽど普通に、健やかに生活できることもあるの。少なくともね、あなたたちは自分たちの身体にひびが入り、肉体が裂けている間くらいは、あの原稿のシナリオではなく、自分自身の生身の身体を最優先にしなさい」

 阿求は、それきり深い沈黙へ沈み、しばらく何も言わなかった。

 小鈴は、シーツの隙間に隠されたあの白い布の膨らみを見つめた。

 読まない。

 見ない。

 これ以上、意味を考えない。

 それは、意識して努力すれば、今の自分たちにもできるような気が一瞬だけした。

 しかしあの原稿は、確かに今もそこに実在しているのだ。

 見ないように、考えないようにと必死に抵抗すればするほど、かえってその隠された「存在」だけが、暗闇の中で脈打つように、二人の世界の中心へと嫌に意識されていくのだった。

「……検討させていたします」

 阿求が、敗北を認めるように静かに言った。

「検討ではなく、完璧に実行してちょうだい」

 永琳は、今度こそ逃げ道を塞ぐように少しだけ厳しい目を向けた。

「あの原稿を生涯読むなと言っているのではないわ。少なくとも、ここを退院してあなたたちの身体が完全に落ち着くまでは、指一本触れないこと」

「……分かりました」

 阿求は、悔しそうに目を伏せて答えた。小鈴もそれに合わせるように小さく頷く。

「私も、できるだけ見ないようにします」

「できるだけではなく、絶対に見ないのよ」

「はい……」

 小鈴は、消え入るような声で答えた。自分でも、この底知れない知的好奇心の誘惑をどこまで守り通せるかは全く分からなかった。しかし、この圧倒的な威厳には、どうしても逆らいにくかった。永琳が完全にはあの原稿の超常性を信じていないことも、同時に、心から自分たちの身を心配して厳しい忠告をしてくれていることも、痛いほど分かっていたからだ。

「では、中断していた診察を続けましょうか」

 永琳は、再び元の優しい医者の顔に戻り、小鈴の包帯でがちがちに固められた足元へ視線を戻した。一通りの念入りな検査と触診が終わった後、永琳は白衣のポケットからカルテを取り出し、二人が最も気連ねていた「退院」についての診断を口にした。

「本当ならね、あと二日から三日は、この永遠亭で大人しく安静に過ごしてもらいたいところだわ」

 小鈴は、その想定外の長い拘束に、思わず派手に眉を下げて顔をしかめた。

「ええっ、そんなにですか!?」

「そうよ。特に小鈴さん、あなたは退院して里へ戻った瞬間に、私の目の届かないところで派手に動き回る可能性が極めて高いでしょう?」

「私は、そんなに無鉄砲な無茶はしませんよ!」

 すかさず、隣の寝台から冷ややかな声が飛んでくる。

「『景綱さんのお菓子は絶対に食べない』という自分で敷いた鉄の決定を、永琳先生から里の人気店だと聞いた直後に、あっさりと破って再検討しようとした人がそれを言っても、全く説得力というものが存在しないわね」

「ちょっと! 食べ物の話と、自分の怪我の身体を動かす話は、論理的に全くの別問題よ!」

「いいえ。あなたの中ではね、どちらも『目の前のご馳走を我慢できない』という意味において、完璧に同じカテゴリーに分類されているわ」

「阿求――ッ!」

 小鈴が真っ赤になって睨みつけると、阿求はまるで小悪魔のように、何事もなかったかのような涼しい顔をして、可愛らしく小首を傾げてみせた。小鈴は、その確信犯的な友人の仕草に、たまらず呆れたような深いため息を吐き出すしかなかった。

「永琳先生、お願いですから、あやつをこれ以上気に入って甘やかして褒めないでください」

「ふふ、まだそんな子供みたいなことを言っているの?」

 永琳は、二人のいつも通りの微笑ましい意地の張り合いを、どこまでも穏やかに見つめながら、楽しそうに笑うのだった。

「ただ、あなたたちがどうしても早く里へ帰りたいというのなら、条件付きで今日の退院を許可してもいいわ」

「本当ですか!?」

 小鈴の顔が、暗闇に灯がともったようにパッと明るくなる。

「ただし、いくつかの条件があります」

 永琳は、白く細い人差し指を一本、厳かに立ててみせた。

「無理に身体を動かさないこと。絶対に走らないこと。急いで歩かないこと。鈴奈庵の二階への階段を駆け上がらないこと」

「はい、すべて厳守いたしますわ」

 阿求が、代表して神妙に答える。

「小鈴さんは、その両足の包帯を少なくともあと一日は巻いたままにして、自宅へ戻ったら大人しく横になっていなさい」

「一日だけでいいんですか?」

「最低でも一日よ。状態の経過を見て、その後ギプスをどうするかを私が決めるわ」

「お布団の中で、本を読むのは?」

「横になって静かに読むだけなら構わないわ」

「お店の、簡単な雑巾がけや掃除は?」

「絶対にしないで」

「返却された本を、高い棚へ戻すのは?」

「しないで」

「阿求の屋敷へ遊びに行くのは?」

「医療的な必要性がなければ、しないでちょうだい」

「じゃあ……里の広場にある、あの石碑を見に行くのは?」

 小鈴の口から、美味しいお菓子の誘惑のときのように、思わず本音の言葉がポロリとこぼれ落ちてしまった。

 隣の寝台から、阿求の鋭い視線が突き刺さる。小鈴は、自分がまたしても最悪な失言をしてしまったことに、その瞬間にハッと気づいた。

 当然、永琳の深い知性を湛えた瞳も、怪訝そうに並んだ二人へと向けられていた。

「……石碑? 一体何のことかしら」

「……人間の里の広場に古くからある、ただの古い石碑のことでございますわ、永琳先生」

 阿求が、完璧なポーカーフェイスで言葉を補うようにして静かに答えた。

「あの原稿の記述に関連して、どうしても私たちの目で一度確認しておきたい場所がある、というだけですの」

 永琳は、どこまでも思慮深く二人の顔を見比べた。

「その不気味な原稿に関連しているというのなら、なおさら退院直後の万全ではない身体で行くべきではないわね。大人しくしていなさい」

「はい、仰る通りです」

 阿求は、非の打ち所のない素直さで綺麗に頭を下げた。

「しっかりと身体が治ってから、日を改めて調べることにいたします」

「本当に信じていいのかしら?」

「ええ、もちろん。誓って」

 阿求は、ほんの一瞬だけ目線だけで小鈴を見た。

「少なくとも、今日明日中にあの石碑へ行くつもりはありません」

 小鈴は、ベッドの上でその阿求の独特な言い回しが、どうしようもなく引っかかって気になっていた。

 彼女は決して、「危ないからもう行きません」とは言わなかったのだ。

 わざわざ『今日明日には行かない』という、極めて限定的な時間の条件を設けて言い方を変えた。

 そこには、痛みが引いて動けるようになりさえすれば、あの原稿の予言を暴くために、何が何でも石碑を確かめに行くという御阿礼の子としての強固な意志が、生々しく残されているのだった。

「この処方した薬をきちんと飲んだり、お出しする塗り薬を毎日使ったりしていけば、一か月ほどで骨も傷の痕もかなり状態は良くなるでしょう」

 永琳は、机の上の薬の包みを器用に指先で整理しながら、落ち着いた声で言った。

「ただし、自分でもう良くなったと感じたとしても、すぐに以前と全く同じ生活へ戻そうとはしないこと。痛みが消えてなくなることと、組織が完全に治癒することは、医学的に全くの別問題だからね」

「はい、分かりました」

 小鈴は、神妙な顔で答えた。

 永琳は、並んだ二人へとそれぞれ一か月分の大量の薬を手渡した。毎日の飲み薬に、匂いの強い塗り薬、包帯の替え、そして固定具を補助するための分厚い布。

 それらを一つずつ両手で受け取るたびに、ようやくこの薄暗い病室から退院できるという純粋な喜びと、人間の里に戻ってからもまだ長く治療が続くのだという重い現実が、同時に胸の奥へと押し寄せてくる。

 やがて戻ってきた鈴仙が、算盤を弾いて二人の入院費と薬代を細かく計算した。二人はそれぞれの懐から必要な金子を支払うと、処方された薬と自分たちの私物の荷物をまとめた。

 その中で、小鈴が自らの手で大事そうに抱え込んだのは、龍神景綱からもらったあの例の焼き菓子の箱だけだった。残りの重い荷物は、すべて阿求が左手で持つか、あるいは後で稗田家の使用人に運ばせる手はずになっていた。

「小鈴さん、本当に、ご自身の荷物はその小さなお箱だけでいいんですか?」

 鈴仙が、薬草籠を片手に不思議そうに尋ねる。

「ええ。これは私が責任を持って、直々に持ちます」

 小鈴が、胸に箱を抱きしめるようにして答えた。すると、隣の阿求がすかさず横から余計な言葉を挟んできた。

「鈴仙さん、鈴奈庵へ帰り着くまでの道中、その箱を絶対に勝手に開けないことも、私と固く約束していますわ」

「ちょっと阿求! どうしてわざわざそんな私のプライベートな約束を、鈴仙さんにまでいちいち報告するのよ!」

「周囲の見張りの目が少しでも多い方が、あなたのその浅ましい食欲を、道中でより強固に自制できるでしょう?」

「私は、あなたたちにとってそんなに信用がない人間なの!?」

「ええ。何度も言うけれど、本と食べ物の誘惑に関しては、あまり信用はおけないわね」

 小鈴は顔を真っ赤にして猛烈に反論しようとした。

 しかしやはり、次の言葉がどうしても出てこなかった。

 目の前の永琳も、鈴仙も、そして阿求も、誰もが「まあ、それはそうね」とばかりに、少しだけ深く納得したような顔で自分を見つめていたからだ。

「……とにかく、お家に帰ってから、美味しく食べるわよ!」

「あら。今日は絶対に食べないのではなかったかしら?」

 阿求が、その矛盾を意地悪く尋ねる。

「今日はね、私たちがこの永遠亭をめでたく出るハレのひでしょう?」

「それは、つまり、人間の里に帰り着いた瞬間に食べるという意味?」

「ええ、そうよ! 永遠亭の病室を出て、自宅に帰ってから食べるのなら、さっき病室の中で決めた『今日は食べない』っていう決定の文脈には、一文字も反しないわ!」

「……ふふ、じつに見事な、都合の良い屁理屈の解釈ね」

「私の、完璧な『落とし所』よ」

「たかが人里の焼き菓子一つに対して、そこまで必死になって高度な『落とし所』を適用する人間、私は歴史上でも初めて見たわよ」

 永琳は、二人の相変わらずのやり取りに、また小さく声を立てて穏やかに笑った。

 そうして二人は、お世話になった医師たちに礼を述べ、永遠亭の重厚な玄関を静かに出た。

 眩しい昼の光が満ちる迷いの竹林には、心地よい自然の風が吹き抜けていた。青竹の葉がサラサラと瑞々しく揺れ、茂みの奥からは朗らかな鳥の声がはっきりと聞こえてくる。

 昨夜の、あの世界のすべての音が死に絶えていた、あの悍ましい静けさとは、何もかもが違っていた。

 小鈴は、白く光る竹林の小道を歩きながら、後ろ髪を引かれるようにして何度も何度も永遠亭の建物を振り返った。

 薄緑色の服を着た鈴仙が、玄関先で二人の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振って見送ってくれている。

 けれど、あのすべてを見透かすような瞳を持った八意永琳の姿は、もうとっくに建物の奥の、暗い闇の中へと戻ってしまっていた。

しかし、里へ向かう足を動かしながらも、小鈴の胸の奥には、去り際に永琳が遺したあの低い声がずっと残り続けていた。

 原稿を、これ以上読まないこと。

 なによりもまず、傷ついた身体を休めること。

 そして、分からない謎を、無理にすぐ確かめようとしないこと。

 それは、あの不気味な原稿用紙の怪異に関する的確な医療の忠告であると同時に、一度気になったらどこまでも無鉄砲に突っ走ってしまう、自分たち二人の「危うい性格」に対する静かな警告でもあったのだ。

「小鈴」

 うっそうとした竹の影を踏み分けながら、不意に阿求が隣から呼びかけた。

「……何よ、急に」

「その大事そうに抱えているお菓子の箱、絶対に途中で落とさないでちょうだいね」

「落とさないわよ、これっぽっちも。私の命の次に大切な糖分なんだから」

「当然、里に着くまでの道中で、勝手に紐を解いて開けないこと」

「分かっているわよ、しつこいわね」

「本当に食べるのは?」

「もちろん、鈴奈庵の家に帰り着いてからよ」

「もう、その自分に都合の良いシナリオで頭の中を完全に決めたのね」

「だって、あの永琳先生が『毎日大行列ができる里で一番の人気店だ』なんて言うんだもの。そんなの、食べない方が生き物としてどうかしているわ」

「それで、今朝あれほど熱弁していた『甘いものは一切なし』という鉄の決定を、あっさりと撤回するの?」

「だから、あれは撤回なんかじゃなくて再検討よ。今日の決定の本当の意味はね、『永遠亭の病室の中では絶対に食べない』という意味だったのよ」

「あなた、さっきの議論の最中に、そんな都合の良い限定の条件を一文字でも口にしていたかしら?」

「……心の中では、ちゃんと一字一句つけていたわよ」

「完全なる後付けのへ理屈でしょう、それは」

「なによ、そういう阿求だって、さっき永琳先生の話を聞いている時、もの凄く食べたそうな顔をして箱をチラチラと見ていたじゃないの」

 その小鈴の容赦のない指摘に、前を歩いていた阿求の優雅な足が、一瞬だけピタリと止まった。

「……一体、何の話かしら」

「とぼけないで頂戴、景綱さんの焼き菓子の話よ」

「何度も言うけれど、私はただの、里の最新の食文化における味の確認に学術的な興味があるだけよ」

「地上ではね、それをシンプルに『食べたい』って言うのよ、阿求」

「私は、あなたほど自分の野性的な欲望に対して、分かりやすく鼻の下を伸ばしたりはしないわ」

「分かりにくいだけで、本当は私と同じくらい食べたいのね?」

 阿求は、しばらく格子窓から漏れる昼の光に目を細めるようにして、ぐっと言葉を詰まらせた。

「……帰ってから、本当にただの確認として、半分だけなら、いただいてもよくてよ」

 長い沈黙の末、阿求がこれ以上ないほど小さく不満げに呟いた。

 小鈴は、その友人のあまりにも往生際の悪い降伏ぶりに、思わず声を上げて快活に笑った。

「あはは! ほら見なさい、阿求だって本当はもの凄く食べたかったんじゃないの!」

「お願いだから、あなたの一緒くたな野生の食欲と同列にしないで頂戴」

「でも、私の家で仲良く半分ずつ食べるんでしょう?」

「……ただの、実地確認よ」

「はいはい、分かりました。高度な歴史の味の確認ね」

 二人は、そうやっていつものように他愛のない皮肉を言い合いながら、ゆっくりと一歩ずつ、静かな竹林の小道を前へと進んでいった。

 振り返れば、あの月の賢者が佇む永遠亭の巨大な屋敷は、重なる竹の青い影の向こうへと、少しずつ、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。

 小鈴は、腕の中の小さな焼き菓子の箱を、愛おしそうにきゅっと抱え直した。

 ようやく、この不気味な病院から退院できる。

 懐かしい、自分の愛する鈴奈庵の店へと戻れる。

 そして、身体のひびが完全に治り、動けるようになりさえすれば……あの原稿に不吉に書き遺されていた、里の広場にある名もない石碑の真実を、今度こそ二人で確かめに行く。

 永琳にきつく止められたそのはずの「禁断の未来の予定」が、小鈴の胸の奥底に、消えない小さな重みとして強固に残り続けていた。

 やがて、うっそうと茂っていた青竹の重なりに隙間が生じ、迷いの竹林の出口が少しずつ近づいてくる。木々の狭い間から、人間の里へと真っ直ぐに続く、眩しい表通りの明るい光が見え始めていた。

 小鈴は、その見慣れた光の眩しさに、ようやく自分たちのまっとうな日常へ帰れるのだと、心から安堵の息を漏らした。

 ――しかし、その安堵が二人の胸を満たした、まさにその瞬間のことだった。

 まばゆい光の射す道のその先に、朝霧を切り裂くような、鮮やかな赤と白の衣服の姿がぽつんと佇んでいるのが見えた。

 お馴染みの、紅白の巫女服。

 博麗神社の巫女、博麗霊夢がいつになく厳しい表情をしていたのだった。

霊夢は、竹林の出口付近でこちらへ背を向けてぽつんと立っていた。

 片手を口元へ当てている。

 咳をしたのかもしれない。

 けれど、遠目に見る限りは、いつもの気の抜けた博麗の巫女と何一つ変わらなかった。

 小鈴の歩みが、おぼつかない足取りのままぴたりと止まる。

 阿求もまた、その赤と白の鮮烈な姿に気づき、鋭い視線を向けた。

 竹林の出口の向こうから、気配を察した霊夢がゆっくりと振り返る。

 燦々と降り注ぐ昼の光の中で、霊夢の顔はいつも通りだった。

 少し面倒くさそうで、少し眠そうで。

 しかしその瞳の奥には、どこか普段とは違う、ひどく疲れているような陰が微かに見えた。

 霊夢は、並んで満身創痍な状態の二人を見て、少し意外そうに太い眉を上げた。

「……あら。小鈴と阿求じゃない。こんなところで何をやっているのよ」

 その声は、聞き慣れたいつもの霊夢のものだった。

 面倒そうで、少し眠そうで、それでいて相手のわずかな異変を決して見逃さない、不思議な重みを持った声。

「霊夢こそ、どうしてこんな竹林の入り口にいるの?」

 阿求が、怪我をした右肩を庇いながら尋ねた。

「見れば分かるでしょう。永遠亭にちょっとした用があるのよ」

 霊夢はそう言うと、再び片手を口元へ添えた。

 その直後、ケホ、と小さく咳をする。

 けれど、その不穏な咳は一度きりだった。霊夢は何でもなかったかのように、すぐにその手を下ろす。

「どうやら、ただの風邪をひいたみたいなの。喉が妙に痛いし、少し熱っぽいから、永琳のところへマシな薬をもらいに来たのよ」

「霊夢が風邪をひくなんて、ずいぶんと珍しいわね」

 小鈴が、腕の中の菓子箱を抱え直しながら言った。

「失礼ね、私だって人間なんだから風邪くらいひくわよ」

「博麗の巫女という生き物はね、どんな季節であっても風邪なんて絶対にひかない超人染みたものだと思っていたわ」

「そんな神社への勝手な幻想を持たないで頂戴。巫女だって生身の人間なんだから、風邪もひくし、疲れもするし、普通に寝坊だってするわよ」

「寝坊に関しては、怪異に関係なくいつものことでしょうに」

「普段からほぼ毎日のように寝坊をしている人間に、風邪をひいた時だけ寝坊を特別に指摘されるのは、どうにも論理的に納得がいかないわね」

 阿求が、病人相手でも容赦のない調子で言った。

「ちょっと、今のは病人に対するまっとうな言葉かしら?」

「病人だからこそ、普段の日常との違いをこうして厳密に確認しているのよ」

 霊夢は、口元を押さえたまま阿求をジロリと見てから、次に小鈴の姿へ目を向けた。

「それで、あんたたちは一体全体どうしたのよ、その格好は」

「私たちはね、ついさっきまで永遠亭の病室で大人しく治療を受けていたのよ」

 小鈴が、腕の中の箱を落とさないように答えた。

「治療……?」

 霊夢の鋭い視線が、小鈴のがちがちに固定された足元と、阿求の三角巾で吊られた右肩へと怪訝そうに移る。

「ちょっと、二人とも揃って派手に怪我をしているじゃない」

「ええ。少し、油断しただけよ」

 阿求が、何事もなかったかのように澄ました顔で言った。

「油断?」

「そう。私たちのただの不注意で、自分たちで勝手に怪我をしたの」

「……二人そろって同時に、不注意でそんな大怪我を負うわけ?」

 霊夢の声に、わずかな不審の疑いが混じった。

 小鈴は、たまらず腕の中の箱をきゅっと抱え直した。

 この上質な焼き菓子の箱の下には、あの悍ましい原稿用紙が隠されている。正確に言えば、原稿用紙を白い布で包んだものを、鈴仙が気を利かせて私物荷物の一番下へと隠すように入れてくれていた。

 今、小鈴が剥き出しの手に持っているのはただの焼き菓子の箱だけだった。しかし、霊夢の目がその小さな箱をじっと見据えた瞬間、小鈴は妙に落ち着かない嫌な心地になった。原稿の存在をひた隠しにしているという後ろめたさが、箱の重さを通して、博麗の巫女の鋭い勘に伝わってしまいそうな気がしてならなかったのだ。

「私がね、派手につまずいて転びそうになって、それを阿求が必死に助けようとしてくれて……それで、お互いに少しね」

 小鈴は、霊夢の疑念を逸らすためにとっさに嘘を交えて説明した。

「ふうん、少し、ねえ……」

 霊夢は、小鈴の足袋の上からのぞく分厚い包帯をじっと見つめた。

「それで、どうして両方の足がそんなことになっているのよ」

「左右の、小指だけよ。大したことないわ」

「小指であっても、両方同時にやられているなら、まっとうに歩くのだって相当に不自由でしょう?」

「だから、こうしてこれ以上ないほどゆっくりと慎重に歩いているのよ」

 小鈴は、これ以上の追及を避けるように足元へ目を落とした。

「永琳先生からもね、走るな、急ぐな、絶対に無理をするなと、耳にタコができるくらい何度も何度も念を押されたわ」

「あの永琳がそこまでしつこく念を押して制限するっていうなら、あんたたち、ただの不注意にしてはかなり無茶なことをやらかしたわね」

「ほんの、少しだけよ」

 阿求が、重ねて静かに言い放った。

「あなたまで小鈴の真似をして、不自然な言い訳を並べないでちょうだい」

「私は、ただ客観的な事実を述べているだけよ」

「……その、いかにも何かを企んでいそうな顔で?」

「私の顔に、世界のすべての事実が出るとは限らないでしょう」

「でもねえ、あんたたちは二人揃って、何かしら重大な隠し事をしている顔をしているわよ」

 霊夢は、感情を排して淡々と言い放った。

 その瞬間、小鈴の胸の奥で心臓がひとつ、爆ぜたように大きく跳ね上がった。

 霊夢はあの原稿のことなんて、何一つ知っているわけではない。知っているはずがないのだ。

 それなのに、いつものように理不尽なほどに勘が鋭い。博麗の巫女として、この幻想郷に漂う異変や怪異の不穏な気配を、本能的に見逃さないのだ。そんな霊夢の射抜くような眼差しの前で、あの原稿をひた隠しにしていることが、急にたまらなく後ろめたく、恐ろしく感じられて仕方がなかった。

「何も隠してなどおりませんわ、霊夢」

 阿求が、氷の笑顔のまま静かに答える。

「ただの不注意による怪我と、永遠亭から持ち帰る退院の荷物があるだけよ」

「……ふうん、そう」

 霊夢はそれ以上、それ以上の執拗な追及をしてこようとはしなかった。けれど、二人の言葉に完全に納得したようにも、決して見えなかった。

「それよりも、霊夢の方は本当に、ただの普通の風邪だけなの?」

 阿求が、声音の温度を一つ落として尋ねた。

「風邪だけよ。喉が酷く痛んで、少しだけ身体が重くてだるいだけ」

「胸の、具合は?」

 阿求が、真っ直ぐに聞いた。

 小鈴は、その質問に少しだけ驚いた。

 阿求は、霊夢が先ほど竹林の入り口で不自然に口元へ手を添えていた仕草を、あの完璧な網膜で正確に見ていたのだろうか。それとも、単なる医者代わりに尋ねただけなのだろうか。

「胸、ですか?」

「ええ。呼吸が浅くなったり、嫌な息苦しさがあったりはしないのかしら」

「ないわよ、そんなの。ただ少し歩くのが面倒なだけ」

「それは風邪のせいではなく、普段の日常からでは?」

「……本当に、病人に対する態度が劣悪ね、阿求」

「ふふ、霊夢にだけは、絶対にそんなことを言われたくはないでしょうね」

 小鈴が横から口を挟むと、霊夢は少しだけ、いつものように呆れたように笑った。

 しかし、笑ったその直後だった。

 霊夢はまた、喉の奥から小さく、乾いた咳を漏らした。

 今度は、先ほどのように一度きりでは終わらなかった。

 ケホ、ケホと、短く苦しげな咳が二つ、三つと不自然に続く。

 霊夢はたまらず、自らの細い喉を片手で強く押さえ、その凛とした眉を不快そうに深くひそめた。

「大丈夫?」

 小鈴が、痛む足先を気遣いながら心配そうに尋ねた。

「大丈夫よ。ただ、少し喉の奥から咳が出るだけ」

「やっぱり、今すぐ永琳先生にちゃんと診てもらった方がいいわ」

「だから、そのためにわざわざここまで来たのよ」

「なら、一刻も早く行った方がいいでしょうに」

「そうね、分かっているわよ」

 霊夢はそう言いながら、鬱蒼とした竹林の奥へと気怠げに目を向けた。

「でもねえ、永遠亭って、あの屋敷に辿り着くまでが本当に面倒なのよ。竹林は勝手に迷うようにできているし、道筋は分かりにくいし、その辺にいる兎たちはこっちをじっと見ているだけで、ちっとも案内してくれないんだもの」

「鈴仙なら、見つければちゃんと案内してくれるでしょう?」

「その鈴仙がわざわざ入り口まで迎えに来てくれればの話よ。私はね、一人でここまで歩いてきたの」

「それなら、余計に体力を消耗する前に早く診てもらうべきね」

 阿求が、淡々と言った。

「ちょっと阿求、それってさっき私が霊夢に言った言葉をそっくりそのまま横取りしたでしょう!」

 小鈴がすぐさま不満げに言い返すと、阿求は「何の話かしら」とばかりに、何も覚えていないかのような涼しい顔でぷいとそっぽを向いた。小悪魔のようなその不器用なとぼけ方に、小鈴はまたため息を吐きそうになる。

「あんたたちは、自分たちが退院したばかりの怪我人のくせに、ずいぶんと他人の心配をするのね」

 霊夢が、呆れたように二人を見た。

「自分たちのこれからの生活のことを考えていたら、霊夢が突然目の前に現れたんだもの」

 小鈴が答えた。

「見つけちゃった以上、心配するわよ。友人なんだから」

「小鈴は、昔からそういうところがあるわよね」

 霊夢は、眩しそうに少しだけ目を細めた。

「自分がどれだけ危ない目に遭っていようとも、平然と他人の心配を優先する」

「……それ、絶対に霊夢にだけは言われたくないわよ」

「私は自分の身体のことくらい、いつでもちゃんと考えているわよ」

「本当に?」

 阿求が、その言葉の信憑性を疑うように冷たく尋ねる。

「これだけの酷い風邪をひいているのに、一人きりで迷いの竹林を歩いてきたというのに?」

「歩ける程度の、ただの軽い風邪だもの」

「地上ではね、それを『無理をしている』と言うのよ」

「阿求、あなた、さっきからさぞ名医気取りだけれど、永琳の言葉を気にしすぎじゃないかしら?」

「医者のまっとうな言葉は、患者として気にするべきでしょう」

「自分の怪我の時は、ちっとも言うことを聞かなかったくせにね」

 霊夢が、フンと鼻を鳴らして核心を突いた。

 阿求は言い返せず、わずかにきゅっと口を閉ざした。

 小鈴は、あの完璧な稗田阿求が本日二度目の撃沈を喫したその反応を見て、胸の奥で少しだけ愉快そうに笑った。

「霊夢、よくそんな過去の細かい失態まで正確に覚えているわね」

「他人の見苦しい失敗を忘れるほど、私はまだそこまで歳は取っていないのよ」

「阿求は一度見た歴史的な出来事を忘れないけれど、霊夢は他人の不面目な失敗を決して忘れないのね」

「酷く嫌な特殊能力ね、それは」

「でもね、異変の解決には何かと便利よ」

 霊夢はそう嘯きながら、再び小さく、乾いた咳をした。

 今度は、先ほどのようにすぐに言葉を繋ぐことはせず、咳の後に少しだけ時間をかけて息を整えていた。ほんの数秒。本当にそれだけのことだった。

 けれど、小鈴の優れた直感はその一瞬のノイズを確かに捉えていた。

 霊夢の呼吸が、ほんの刹那だけ、酷く浅くなった。

 霊夢本人は、自らの肉体のそんな変化に全く気づいていないのだろうか。あるいは、気づいていながらも、博麗の巫女としての意地で他人にそれを見せないように押し隠しているのだろうか。小鈴には、そのどちらなのかどうしても判断がつかなかった。

「……本当に、冗談抜きで少しどこかで休んだ方がいいんじゃない?」

 小鈴は、胸に走った嫌な予感を抑えながら言った。

「永遠亭の屋敷へ行って、永琳からよく効く薬をもらったら、嫌でも寝て休むわよ」

「でも、そこから博麗神社へ戻るまでの山道が、病人にとっては一番大変でしょう?」

「帰るだけなら、這ってでも何とかなるわよ」

「霊夢」

 阿求の声が、これまでになく少し強く、鋭くなった。

「今日はね、薬をもらったら、大人しく誰かに神社の麓まで送ってもらいなさい」

「誰かって、一体誰に送らせるのよ」

「鈴仙さんでも、あの迷いの竹林の兎でもいいでしょう」

「博麗の巫女ともあろう者が、永遠亭の兎にわざわざ付き添われて送らせるっていうの?」

「あそこには、余るほどの人手はあるでしょうに」

「私はね、ただの兎に運ばれなきゃ歩けないほど、そこまで弱っちゃいないわよ」

「運ばれるとは一言も言っていないわ。ただ隣に付き添ってもらうだけよ」

「医療の目から見れば、そんなのどっちも大差ないでしょう」

「いいえ、大差あるわよ。プライドの問題だわ」

 二人の譲らない論理の会話を横で聞きながら、小鈴はただじっと霊夢の横顔を見つめていた。

 朝の光を浴びるその顔色は、言われてみれば、普段よりも少しだけ白く、青褪めているようにも見える。けれど、それは単に昼の強い陽光の加減のせいかもしれない。

 確かに酷く疲れているようにも見える。しかし、これまでに何度も過酷な異変を解決してきた後の博麗霊夢なら、この程度に心身が疲弊していても、何一つ不思議ではないはずだった。霊夢はいつだって、自分の身体を顧みずに無茶をする。大きな異変が起きれば真っ先に出向き、凶悪な妖怪を容赦なく退治し、何事もなかったかのように神社へ戻って、またいつもの退屈な私生活へ戻る。

 どれほど身体が悲鳴を上げて疲れていようとも、それを絶対に周囲の顔に出したりはしないのだ。

 だから小鈴は、それ以上は深く考えないことにした。

 永琳の『分からないことを、すぐに確かめようとしないこと』という忠告に従うように、無理やりに考えないようにしたのだ。

「それじゃあ、私たちはこのまま人間の里へ戻るわね」

 阿求が、これ以上の無駄な引き止めは無意味だと判断したように、静かにそう告げた。

「ええ。私はこのまま永遠亭へ行くわ」

「永琳先生に薬をもらったら、今度こそきちんと横になって休んでね」

「分かっているわよ、しつこいわね」

「本当に信じていいの?」

 小鈴が、なおも心配そうに尋ねた。

「ちょっと、あんたたち二人して私のことをそんなに信用していないわけ?」

「少なくとも、今日の霊夢はれっきとした病人でしょう」

「たかが風邪くらいで、大袈裟に病人扱いしないで頂戴」

「風邪をひいているなら、医学的には立派な病人よ」

「じゃあ、小鈴。あなただって正真正銘の怪我人じゃない」

「私はね、両足の小指をやられている正真正銘の怪我人よ!」

「だったら、私だって正真正銘の病人でいいじゃないの」

「霊夢の風邪の方が、私よりよっぽど症状が軽そうでしょう?」

「小指の小さな骨にひびが入るのと、喉が焼けるように痛む風邪なら、世間一般では風邪の方がよっぽど軽いものよ」

「……そのような不毛な悲劇の比較、今ここでするものではないわ」

 二人の言い合いを横で聞いていた阿求が、溜め息混じりに割って入った。

「生身の怪我であれ、突然の病気であれ、本人が肉体的なつらさを感じているのなら、等しく同じ苦痛でしょうに」

 その阿求の静かで含みのある言葉に、霊夢はほんの少しだけ、何かを探るような目で阿求の横顔を見つめた。

「……珍しく、素直で優しいことを言うじゃない」

 霊夢が、意外そうな声を漏らした。

「私はいつでも誰に対しても優しいわよ、失礼ね」

「小鈴へ対しても、かしら?」

「相手が小鈴だからこそ、表現として必要な形が違うだけよ」

「ちょっと、それ一体どういう意味よ」

 小鈴が横から口を尖らせる。

「あなたという人間にはね、下手に甘やかすよりも、正面から手厳しく止めるブレーキの方がよっぽど必要なのよ」

「霊夢、今の聞いた!? 阿求が私のことを冷たく突き放して甘やかさないって、公然と宣言したわよ!」

「まあ、小鈴は少しでも甘やかすと、すぐに調子に乗って無鉄砲に突っ走るから、阿求の言う通りでしょうね」

「もう、霊夢まで私の味方をしてくれないなんて!」

 霊夢は、可笑しそうに少しだけ声を立てて笑った。

 その笑顔は、いつもの見慣れた博麗の巫女のものだった。

 けれど笑い終えたまさにその瞬間、霊夢は無意識のうちに、一度だけみずからの胸元へきゅっと強く手を当てた。

 小鈴の目は、その決定的な仕草を確かに見逃さなかった。

 霊夢もまた、自分が思わず胸を抑えてしまったことに気づいたのか、ハッとしたように、すぐに何事もなかったかのように手を下ろす。

「……ねえ、霊夢?」

「何よ、藪から棒に」

「今、明らかに胸のあたりを苦しそうに……」

「気のせいよ。ただ竹林の奥の空気が、少しだけ冷たくて喉に障っただけよ」

 霊夢は、そう突き放すように言って、強引に誤魔化した。

 小鈴は、納得がいかずになおも何か言葉を続けようとした。

 しかし、その瞬間に隣の阿求が、小鈴の方へと向けてわずかに短く首を横に振った。

 今はこれ以上、彼女のプライドを傷つけて追及するべきではない。

 御阿礼の子の瞳は、静かにそう語っていた。

「それじゃあね。用が済んだら、また人間の里で」

 霊夢が、いつも通りの気怠げな調子で言った。

「ええ。また里で会いましょう」

 阿求が、静かに答える。

「小鈴も、その両足の不格好な怪我、せいぜい大事にしなさいよ」

「霊夢こそ、その珍しい風邪、これ以上ないほど大事にして頂戴ね」

「風邪を大事にするって、一体どういう意味よ。不吉ね」

「永琳先生の言うことを聞いて、大人しくお薬を飲んで、お布団の中で死んだように寝ることよ!」

「分かっているわよ」

 霊夢は、並んで立つ二人へようやく大きな背を向けた。

 そのまま、昼なお薄暗い迷いの竹林の奥へと、一歩ずつ戻っていく。

 数歩ほど進んだところで、霊夢は一度だけ、何かに気づいたように足を止めた。

 こちらを振り返ることは、最後までなかった。

 ただ、白くて細い右手を、頭上へ向けてひらひらと軽く掲げてみせた。

 二人へ向けた、彼女なりのぶっきらぼうな別れの合図だった。

 小鈴もまた、その背中に向けて笑顔で手を振り返そうとした。

 しかし、その両腕には、景綱から贈られたあの焼き菓子の箱を大事に抱え込んでいるため、片手しか空いていない。小鈴が不器用に手を上げるよりも前に、霊夢の赤と白の姿は、幾重にも重なる青竹の向こう側へと、完全に滑り込むようにして消え去ってしまった。

 白と赤の鮮烈な残像が、竹の狭い隙間から完全に視界の外へと見えなくなる。

 ガサリと、冷たい夜の名残を孕んだ風が通り抜け、竹の葉を波のように激しく揺らした。

 博麗霊夢の、床を確かめるような重たい足音が、青い深淵の奥へ、奥へと、少しずつ遠ざかっていく。

「行ったわね」

 小鈴がぽつりと言った。

「ええ」

「本当に、ただの風邪だけかしら」

「少なくとも、今の短い様子だけで何かしらの異変だと判断するのは難しいわね」

 阿求は、霊夢の赤と白の残像が消え去った竹林の奥を、未だにじっと見つめていた。

「でも、少しだけ変だったでしょう?」

 小鈴が、重い空気を振り払うように尋ねる。

「何がかしら」

「咳をした後、必死に息を整えていたわ。それに、自分でも無意識のうちに胸を強く押さえていたもの」

「……よく見ていたのね、小鈴」

「ええ。あなただって、本当は気づいていたでしょう?」

「気づいていたわよ」

 阿求は、視線を正面に戻して短く答えた。

「でもね、霊夢がこれから向かうのは永遠亭よ。あの八意永琳様が直々に診察なさるのだから、私たちがここで邪推するよりもよっぽど確実だわ」

「そうね。それはそうだけど」

「私たちは、永琳先生の仰る通り、まずは自分たちの傷ついた身体の心配をするべきよ」

「ええ、散々耳にタコができるくらい言われたものね」

「そうよ。原稿を読まない。無理をしない。そして寄り道をしないこと」

 阿求は、最後のその一言を、ほんの少しだけ引き摺るように強調して口にした。

 小鈴の胸の奥に、最悪な嫌な予感が走った。

「……寄り道を、しない?」

「そうよ」

「それって…人間の里へ、脇目も振らずに真っ直ぐ帰るという意味よね?」

「そうとも言うわね」

「阿求」

「何かしら」

「その、相手に含みを持たせるような言い方は、頭の中で何か全く別の『不穏な予定』を企んでいる時の言い方よ」

「ではね、小鈴。里へ真っ直ぐ帰る前に、ほんの少しだけ遠回りをして行きましょう」

 阿求は、何事もなかったかのように平然と言い放った。

 小鈴は、たまらず阿求の鉄の顔を睨みつけた。

 阿求の視線は、霊夢の消え去った竹林の奥ではなく、すでに人間の里へと続く表通りの、そのすぐ脇に佇む「あの場所」へと正確に向けられていた。

薄暗い竹林をようやく抜け出たその先には、のどかな田んぼの風景がいくつか広がっていた。

 そこから人間の里の中心地へと向かう道筋は、網の目のようにいくつかに分かれている。

 貸本屋へ最も早く帰り着く、最短の道。

 人通りが多くて最も安全な、人家の多い道。

 そして少しだけ寂しげで、遠回りになる、古い道。

 その、古い道の先にこそ、あの不気味な原稿に書き遺されていた「三日後の名もない石碑」が佇んでいるのだ。

「……結局、あの石碑へ行くのね、阿求」

 小鈴は、腕の中の菓子箱をもう一度きゅっと強く抱え直して言った。

「私は、石碑へ行くとは一言も言っていないわよ」

「言っているのと同じでしょうが!」

「ただね、少しばかり遠回りをして、まっとうな里の地形の実地確認をすると言っただけよ」

「それが阿求の言う『少し遠回り』で、普通の人間の『不吉な石碑を今すぐガッツリ確認しに行く』という意味なのよ!」

「私たちは、退院したらあの石碑を確かめに行こうと、病室の中で固く約束したでしょう?」

「退院直後は絶対に無理をしないで行かないって、さっき永琳先生に対して誓ったでしょうが!」

「今日明日には行かないと言ったのは、あくまで永琳先生の『安静にしなさい』という忠告に対する方便よ」

「今日は今日でしょう!永琳先生との約束を破るつもり?」

「だから、今日のうちに『絶対に』行くかどうかは、あの場では別に確定させて決めていないわ」

「今まさに、そっちの古い道へ行こうと足を向けているじゃないの!」

「だから、ただ目で見て『確認する』だけよ」

 小鈴は、たまらず深くため息を吐き出した。

 ギプスで固められた両足の爪先が、歩く振動のたびにズキズキと酷く痛む。まだ永遠亭の玄関を出て退院したばかりの、れっきとした怪我人なのだ。月の賢者からは、走るな、急ぐな、絶対に無理をするなと、あれほどきつくお説教されたばかりだった。

 あの古い道へ立ち寄ることは、はたして永琳の言う「無茶な無理」にあたるのだろうか。

 小鈴は、どこまでも続く道の先をじっと見つめた。

 田んぼの畔の向こう側に、ひっそりと古い道が伸びている。そこをただいつも通りゆっくり歩きさえすれば、あの石碑へと着いてしまう。距離そのものは、ここからそれほど遠くはなかった。

 走る必要は、どこにもない。

 急いで歩く必要だって、全くない。

 ただのんびりと、そこに佇む古い石碑の様子を見て、何も異変が起きていなければ、そのまま大人しく鈴奈庵へ戻ればいい。それだけのことなら、医療の世界の「無茶」にはあたらないのではないか。

 むしろ、永琳や鈴仙が病室で言っていた通り、あの原稿用紙が幻想郷を操る呪いなどではなく、ただの頭のいい誰かが仕掛けた悪趣味な悪戯で、現実の事故や不運がたまたま重なっただけなのだとしたら――。

 この足でそこへ行き、石碑に何一つおかしなことが起きていない事実をこの目で直に確認する、これ以上ない絶好の機会になるのではないか。

 石碑に何も起きていなければ、自分たちはただの不気味な紙切れを過剰に恐れていただけだったと、すべてが綺麗に解決する。

 昨夜のあの窓の外の恐ろしい人影も、ただの寝不足による哀れな見間違い。

 あの古書店の凄惨な看板事故も、完全にただの確率の偶然。

 あの原稿用紙は、心理学や人間の里の行動習慣を巧妙に利用して作られた、ただの悪趣味な人間によるトリック。

 そう考えさえすれば、永琳の言う通り、すべての怪異に現実的な説明が完璧につくのだ。

 小鈴は、自分の胸の奥の恐怖を必死に宥めるようにして、脳内でひとり、その都合の良い合理的な説明をいくつも熱心に並べ立てていた。

小鈴が頭の中で都合の良い合理的な言い訳を必死に並べ立てている間、阿求はただ黙ってその場に佇み、待っていた。

 早くしろと急かすわけでもなければ、小鈴のへ理屈に反対するわけでもない。ただ、古い道の先の石碑がある方向を、静かに見据えている。

 その頑なな横顔を見ているだけで、小鈴には痛いほど理解できた。阿求は、もうとっくにそこへ行くと決めているのだ。

 稗田阿求という少女は、一度決めたことを決して変えない。正確には、それを変える時には、それ相応の「新しい論理的な理由」を必要とする。けれど、あの不気味な予言の原稿に抗うために石碑を確認するという目的は、すでに彼女の中で覆しようのない歴史的決定事項として刻まれているのだった。

 小鈴は、本日何度目になるか分からないため息を深くついた。

「……ほんの、少しだけだからね」

「ええ、もちろんよ」

「本当に、ただ目で見て異常がないか確認するだけよ」

「分かっているわ」

「もし少しでもおかしなことがあったら、その場ですぐに里へ戻ること」

「ええ、その通りね」

「途中で私の足が痛くなって一歩も動けなくなったら、阿求、あなたが私を背負って担ぐこと」

「……私が、あなたを?」

「そうよ。怪我人同士の助け合いでしょう」

「あなた、忘れているかもしれないけれど、私は右肩と背中を派手に痛めているのよ。そんな重たいあなたを担いだりしたら、私の肩の挫傷が致命的に悪化して、今度こそ永琳先生に三日三晩眠らされるわ」

「じゃあ、その時は大声を出して誰かを呼ぶわ」

「人里にはもう十分に近いですから、通行人に助けを求める方がよっぽど早くて合理的でしょうね」

「よし、決まりね」

「一体、何がかしら」

「その古い道を通って、石碑を見に行くことよ」

 阿求は、呆れたようにつむいだ唇をふっと少しだけ緩めて笑った。

「……最初から、あなたは私に付いて行くつもりだったでしょう?」

「失礼ね!私はね、ただ目で見て確かめるだけなら、永琳先生の言う『無茶な無理』にはあたらないと論理的に判断したのよ」

「それを『最初から行くつもりだった』と表現するのよ」

「違うわよ。増えた情報に基づいて、可能性を柔軟に再検討しただけだわ」

「あなた、本当に私の都合の良い言葉遣いだけは、異常なほど正確に覚えているわね」

「毎日一緒にいる、阿求の最悪な影響よ」

 二人は並んで、のどかな田んぼの畔へと続く古い小道へ向かって歩き始めた。

 小鈴は、これ以上阿求に弱みを見せないよう、なるべく足を引きずらない不自然な歩き方にならないよう、細心の注意を払って地を踏み締めた。

 しかし生身の肉体の痛みという現実は、あまりにも容赦なく、すぐにその牙を剥いた。

 一歩、二歩と土の道を歩くたびに、右足の小指の根元から、ズキズキとした重い鈍痛が焼き付くように現れる。

 小鈴はたまらずそれを庇おうとしたが、そうすれば当然、もう片方の左足全体へと不自然な体重の負担がすべてかかってしまう。

 遅れて、今度は左足の小指の奥からも、じわりじわりと、油が染み出すような嫌な激痛が広がっていった。

「……痛む?」

 歩調が目に見えて落ちた小鈴を気遣い、阿求が横から尋ねた。

「ほんの、少しだけよ」

「永琳先生の去り際の言葉を、もう一度よく思い出しなさい」

「『無理に身体を動くな』、でしょう?」

「ええ、その通りよ」

「でもね、阿求。『古い道を自分の足で歩くな』とまでは、あの賢者様も一言も言っていなかったわ」

「……見事な後付けの屁理屈ね」

「いいえ、患者としての至極まっとうな医学的解釈よ」

「あなたが大層に医学の理屈を語り出すと、隣にいてもの凄く不安になるわね」

「大丈夫よ、さっき永琳先生の特製のよく効くお薬を飲んだばかりなんだから」

「お薬を飲んで一時的に痛みが引いているからと言って、その不吉な石碑へ向かって歩き回っていいという論理的な結論には、到底ならないでしょうが」

「だって、今こうして歩いている段階では、まだこれっぽっちも悪化していないもの」

「……今は、ね」

「石碑の様子をただ目で見るだけなら、本当に一瞬で、すぐ終わるわよ」

「その、あなたの言う『すぐ』という時間の定義が、あなたと私とでは致命的に違うのよ、小鈴」

「ちょっと、阿求。あなた、あの石碑の前でまさか何時間も足を止めて不審に考え込むつもりなの?」

「もし万が一、あの石碑の表面に古い擦り切れた文字がまだ強固に残っているのだとしたら、御阿礼の子として徹底的に調べる必要があるでしょう?」

「残っていれば……?」

 小鈴は、阿求の口から出たその奇妙な仮定の言葉に、網膜の端でピクリと引っかかった。

 阿求は、ハッとしたように少しだけ静かに口を閉ざした。

「……何でもないわ、聞き流して」

「今、明らかに何かしらの不穏な含みがあったでしょう」

「あなたの重度の睡眠不足による、ただの考えすぎよ」

「阿求がそうやって他人の考えすぎだって突き放す時はね、頭の中で誰よりも深刻なことを企んで考えている時よ」

「ふふ。あなたは、本当に私の裏の裏のことまでよく分かっているのね」

「物心ついた頃からの、長すぎる付き合いなんだから当然よ」

 二人は、のどかな田んぼの脇に伸びる古い土の道を一歩ずつ進んでいった。

 黄金色に実った稲穂が、昼の乾いた風に揺られてザワザワと音を立てている。細い水路の張られた場所には、どこまでも高い幻想郷の秋の空の色が、鏡のように美しく映り込んでいた。

 行く手に、人間の里のひしめき合う家々が、少しずつ、少しずつ近づいてくる。

 閉ざされた迷いの竹林を完全に脱出したことで、周囲の空気が一気に広く、優しくなったように感じられた。

 それなのに、小鈴の胸の奥底には、どうしても実体のない鉛のような落ち着かないものが、頑固に残り続けていた。

 体調を崩していた、あの霊夢の不自然な咳。

 自分たちの現実をジワジワと書き換えていく、あの悍ましい原稿。

 これから目指す、古い道の先にある名もない石碑。

 そして去り際に八意永琳から『絶対に原稿を読まないこと』と、あれほどきつく言いつけられたこと。

 永琳の言う通り、あの原稿をもう二度と読まなければ、次に里で何が起きるかという恐怖をあらかじめ知ることはない。しかし、だからと言って読まなければ、次の一文に仕組まれた最悪のシナリオに、何一つ備えることもできずにただ日常を蹂躙されるのを待つだけになる。

 読むべきか、読まざるべきか。どちらの選択肢を選んだとしても、底知れぬ不安だけが強固に残る。

「ねえ、阿求」

「何かしら」

「もし……もし本当に、これから行くあの石碑に、何一つおかしなことが起きていなくて、何もなかったらどうする?」

「石碑に、何も異変がなかったら、かしら?」

「ええ、そうよ」

「何もないなら、それはただの何もない平穏な現実でしょう」

「じゃあ、あの原稿は……?」

「ただの、頭のいい誰かが仕掛けた、質の悪い悪戯よ」

「本当に……? 本当にそう割り切れる?」

「客観的な可能性としては、十分にあり得る話よ」

「永琳先生も、病室でそういう意味のことを言っていたわね」

「ええ。誰かが私たちの行動の癖や心理の隙を巧妙に利用して、現実の『不運』と『偶然』を意図的に重ねているだけかもしれないわ」

「……私が、朝から足の小指を二本とも順番にぶつけることまで、心理学で誘導できるっていうの?」

「人間という生き物はね、頭の中に特定の『文字列』を強く意識させられると、無意識のうちに行動のパターンが変わってしまうものよ。普段なら絶対に避けるはずの、棚の角や階段の踏み板へ、自ら無防備に身体を接触させてしまうことだって、確率的には何一つ不思議ではないわ」

「それで……あの原稿に書かれた通りに、世界が綺麗に回るの?」

「すべてがただの偶然だとは、今の私にも言い切れないわ。でもね、現時点においては、これを幻想郷の理を揺るがす大異変だと断定するための『論理的な証拠』も、どこを探しても見当たらないのよ」

「阿求にしては、ずいぶんと弱気で、慎重な姿勢を崩さないのね」

「慎重でなければ、ただの自分の主観的な『恐怖』を、何でもかんでも大層な『異変』と呼び換えて里を混乱させることになるわ。それは記録者として最もあってはならないことよ」

 小鈴は歩みを緩め、阿求の冷徹で、けれどどこか張り詰めきった横顔をじっと見つめた。

「……阿求。本当の本当は、その知性の奥で、一体何を思っているの?」

 阿求は、すぐには答えなかった。ただ、土を踏み締める草履の音だけが、のどかな畔道に虚しく響く。

「私はね、小鈴。あの原稿用紙が、単なる人間の浅知恵による『悪戯』だとは、本当はこれっぽっちも思ってはいないわ」

 やがて、阿求は世界の温度をすべて吸い込むような低い声で、ぽつりとそう本音を溢らした。

「でもね、これが幻想郷を脅かす大異変だとも、未だにこれっぽっちも断定したくはないのよ」

「……どうして? 悪戯じゃないなら、異変でしょうに」

「異変だと完全に認めてしまえば、博麗の巫女がその命を懸けて解決しに向かわなければならなくなるでしょう?」

「それで?」

「霊夢が万全なら、私たちは今すぐにでもこの原稿を差し出して相談できたわ。けれどね、小鈴。あの霊夢は今、酷い風邪をひいて、息を弾ませながら永遠亭へ向かったばかりなのよ。そんな満身創痍な状態の彼女へ、私たちですら客観的に説明できない怪異の現象を持ち込むのは、記録者としても友人としても、決して適切ではないわ」

「霊夢なら、たとえ高熱で倒れそうであっても、異変の報せを聞けば絶対に怒りながら解決しに行くでしょうね」

「だからこそ、今は絶対に相談したくないのよ」

「どうしてよ」

「……ただの病人に、これ以上無駄な仕事を増やしたくないからよ」

 阿求は、感情を隠すように短くぶっきらぼうに答えた。

 小鈴は、その頑固な横顔を少しだけ意外な想いで見つめていた。阿求は、原稿の謎を解き明かすためなら、稗田家の権威を使ってでも誰彼構わず即座に助けを求める冷徹さを持っていると思っていたのだ。

 しかし、彼女は霊夢へ相談することを、今この瞬間、明確に避けている。

 それは、他ならぬ博麗霊夢という一人の不器用な友人の体調を、彼女なりに深く気遣っているからに他ならなかった。

「……阿求ってば、やっぱりそういう妙に素直じゃない、優しいところがあるのね」

「何度も言うけれど、私は最初からいつだって誰に対しても優しいわよ」

「永琳先生の診察室の前でも、全く同じ誇らしげなセリフを言っていたわね」

「客観的な事実だからよ」

「そういうのをね、自分で堂々と大声で言っちゃうと、あまり優しく見えないから損をしているわよ」

「他ならぬあなたにだけは、絶対に言われたくないわね」

 二人は、そうやっていつもの調子で静かに言葉を交わしながら、しばらくのあいだ古い土の道を歩き続けた。

 やがて、目的の古い道の脇に、ぽつんと名もない石碑の姿が見えてきた。

 のどかな田んぼの畔と、薄暗い雑木林が交わる、その寂しげな境界線。

 里の人々の賑やかな往来からは、完全に少し外れた孤独な場所に、それは静かに立っていた。

 間近で見る石碑は、小鈴が事前に思っていたよりもずっと小さく、華奢なものだった。

 大人の胸ほどの高さ。

 その表面は、長い年月、里の激しい風雨に晒され続けたせいで、ところどころが無残に欠け落ちてしまっている。

 青々とした苔が下半分をびっしりと覆い尽くしており、その重みに耐えかねたかのように、土台の古い石は少しだけ不自然に斜めへと傾いていた。

 しかし、そのあまりにも古い佇まいのわりに、石碑の周囲の空間だけは、まるで誰かが最近になって丁寧に手入れをしたかのような、奇妙な生々しさが残されていた。

 石碑を隠すように生い茂っていたはずの周囲の雑草が、鎌か何かできれいに刈り取られているのだ。

 そして何より、その傾いた土台の足元にはみずみずしい、小さな野の花が、たった一輪だけ静かに置かれていた。

「……ねえ、阿求。これ?」

 小鈴が、腕の中の菓子箱を強く抱きしめながら尋ねた。

「ええ、間違いないわ。あの三枚目の原稿に書かれていた、位置とディテールが完璧に一致しているわね」

 阿求は、息を詰めて一歩、その石碑へと近づいた。

 小鈴もまた、左右の小指のズキズキとした痛みを必死にかばいながら、その背中へと続くようにして足を進めた。

石碑の正面には、深い煤にまみれた文字が確かに刻まれていた。

 長い歳月によって風化し、角の丸くなった古い字体。

 ところどころが激しく擦れ、欠け落ちてしまっている。

 けれど、読むことは、できた。

 小鈴は、その石のひび割れに刻まれた文字列へ向けて、じっと目を細めた。

「……何て、書いてあるのかしら」

 阿求が、その横顔を覗き込むようにして静かに尋ねる。

「……」

 小鈴は、息を詰めて石碑の文字を頭から順番に読んだ。

 それは、現代の里の人間には到底馴染みのない、ひどく難解な古い言葉だった。しかし、本居小鈴という少女が持つ『あらゆる書物を読める程度の能力』は、どれほど古びた未知の言語であっても、そこに込められた書き手の意味を完璧に理解し、脳内へ直接翻訳してみせる。

「『見えぬものほど、先に在り』」

 小鈴が、一文字ずつ確かめるように声に出して読んだ。

「その、すぐ下の行は?」

「『在るものほど、後に見ゆ』」

 阿求は、苔むした石碑の表面を食い入るように見つめた。

「……奇妙ね。酷く、奇妙な碑文だわ」

「何がよ。古い時代の言葉なんて、だいたいこんなふうに回りくどいものじゃない?」

「いいえ、文章の構造として、あまりにも不自然だわ」

「ただの古い時代の石碑だからじゃないの?」

「ええ。それにね、これほど上質な石を使いながら、誰が一体何の目的のために建てたのか、稗田家のどの記録を繰っても一切記載がないのよ」

「でも、現にこうして文字は綺麗に読めるでしょう?」

「小鈴。文字が記号として読めるということと、その文字列が持つ本当の『意味』が論理的に理解できるということは、全くの別問題よ」

 阿求は、細い指先を石碑の冷たい表面へと、ゆっくり近づけていった。

 しかし、実際にその肌が石のざらつきに触れる直前で、ハッとしたようにその手をぴたりと止める。

「……あの三枚目の原稿に書かれていた不吉な場所は、間違いなくこの名もない石碑なのね」

「ええ、たぶんね」

「紙面と照らし合わせて、何か今の現実に変化は?」

「ううん。今のところは、何も起きていないわよ」

 小鈴は、痛む足を庇いながら、石碑の周囲の空間をぐるりと見回した。

 碑文の文字は、消えることなく強固に石に刻まれたままだ。

 石碑の周りの土や雑木林にも、奇妙な影や不審な細工は何一つ見当たらない。

 肌を撫でる空気の匂いも、至極普通ののどかな里の匂いだ。

 心地よい風が吹き抜け、青菜の茂みからは鳥の囀りが聞こえる。

 遥か遠くの畔道では、クワを担いで田んぼをのんびりと歩く里の農人の姿すら見えていた。

「何も起きないわね、本当に」

 小鈴が、張り詰めていた肩の力をふっと抜いて言った。

「ええ、そのようね」

「原稿だって、何の変化も起きていないでしょう?」

 阿求は、不器用に左手を使って、荷物の底から布に包まれたままの原稿用紙を引っ張り出して確認した。

 静かに包まれたままの、ただの四角い紙。

 その表面に、新たな血のような墨の文字が浮き上がる様子はどこにもない。

 紙が生き物のように不自然に動くことも、呪われた妖魔本のように勝手に頁がめくれることもなかった。

 阿求は、胸の奥の焦燥を外へと逃がすように、少しだけ深く息を吐いた。

「……何もないわ。ただの、古い紙だわね」

「ええ」

 小鈴もまた、昨日から胸の中に重く溜まり続けていた冷たい塊をすべて吐き出すように、大きく息を吐き出した。

「やっぱり……永琳先生たちが言う通り、全部私たちのただの酷い思い込みだったのよ」

「そうかもしれないわね」

「あの古書店の事故も、不気味な原稿も、この古い石碑も、全部が一本の呪いの糸で繋がっているんだとばかり思っていたけれど」

「原稿は、ただの悪趣味な誰かの悪戯」

「石碑は、里のどこにでもある、ただの古い名もない石碑」

「私たちは……凄惨な事故を目の当たりにした後で、あまりにも神経質になりすぎていたのよ」

「そうよ、絶対にそうだわ」

 小鈴は、自らの正気を取り戻すように、何度も何度も強く頷いた。

 八意永琳の言葉は、完璧に正しかったのだ。

 自分たちは不慮の怪我を負い、連日の異変のせいで精神的にも肉体的にも極限まで疲弊しきっていた。そこへ、忽然と不可解な小説風の原稿が現れた。そこに書かれていた内容が、現実の凄惨な事故とたまたま確率的に当たってしまった。

 いや、当たったように自分たちの怯えた脳が勝手に見せていただけかもしれない。

 卓越した誰かが二人の日々の行動を綿密に観察していた。心理学や人間の行動の癖、里の届け出を利用し、最も起こりやすい不運な出来事をあらかじめ予言のように書いていただけなのだ。相次ぐ事故や不運が重なったがために、自分たちはそのただの文字列へ、ありもしない悍ましい意味を過剰に求めすぎていただけだった。

 そう現実的に考えさえすれば、地上におけるすべての怪異に、完璧な説明がつく。

「さあ、今度こそ鈴奈庵へ帰りましょうか」

 阿求が、憑き物が落ちたような静かな声で言った。

「そうね。帰ってお菓子を食べましょう」

 二人は並んで、ようやく古い石碑の前から離れようと足を一歩踏み出した。

 小鈴は、本当にすべてが終わったのだと確信したくて、未練がましくもう一度だけ、その小さな石碑の方を振り返った。

 文字は、まだそこにある。

 確かに、朝の光を浴びてそこに存在している。

 青々とした苔に覆われた冷たい石の表面に、さっき自分が脳内で読み解いた、あの古い文字がくっきりと刻まれている。

 小鈴は、その変わらない平穏な現実を、網膜の奥できちんと確認した。

 そして、前を歩き出そうとする阿求の方へ、安心しきった笑顔で向き直る。

「阿求、やっぱり私たちの取り越し苦労――」

 そう言いながら、小鈴は何気なく、本当に何気なく、三度その背後の石碑へと視線を戻した。

 文字が消えていた。

 小鈴は、開いた口が塞がらないまま、次の言葉のすべてを失ってその場に凍りついた。

石碑の表面は、まるで最初からそこには一文字たりとも刻まれていなかったかのように、冷たく滑らかだった。

 青々とした苔の質感と、長い年月風雨に削り取られてきた石の剥き出しの肌色だけが、そこにある。

 つい数秒前まで確かに存在していたはずの古い文字が、一つ残らず、煙のように綺麗に消え去っている。

 小鈴は、肺の中の呼吸を完全に忘れてその場に立ち尽くした。

「……あっ、阿求」

 喉の奥が引き攣って、まともな声がうまく出てこない。

「どうしたのよ、そんな酷い顔をして」

「文字が……文字が、ないのよ……!」

 阿求が、小鈴の怯えきった視線を静かに追い、再びその瞳を石碑へと向けた。

 その瞬間、御阿礼の子の端正な表情が、恐怖でカチリと完全に固まった。

「……」

 石碑には、本当に何も書かれていなかった。

 けれど、先ほどまで確かにここには古い言葉が書かれていたのだ。

 小鈴がその隠された能力で直に読んだ。

 阿求もまた、その完璧な網膜でそれをじっと見つめていた。

 二人で並んで、その不自然な碑文の構造について熱心に話し合った。

 それなのに今は何もない。

「……文字が、消えた、というの?」

 阿求が、信じられないといった面持ちでぽつりと呟いた。

「ええ……そうよ。消えちゃったのよ…」

「一体、いつの間に?」

「分からないわよ、そんなの。私が……私が阿求の方を向いて、ほんの一瞬だけ目を逸らしている間のことよ」

「――そう。他ならぬ私もまた、完全にその一瞬、あの石から目を逸らしていたわね」

「ええ、そうね」

 阿求は、弾かれたように再び石碑の目の前へと、その不格好な足取りのまま近づいていった。

 足元の泥や生い茂る草に細心の注意を払いながら、左手をそっと伸ばす。

 彼女の細い指先が、さっきまで確かに碑文が刻まれていたはずの、その冷たい中心の場所へと恐る恐る触れた。

 ――何もない。

 爪先が引っかかるような線の跡もなければ、文字を強引に削り取ったかのような新しい削り屑の跡すらも、どこを探しても見当たらない。

 これは、文字が上から物理的に消されたというよりも……。

 この世界が始まったその最初から、ここには一切の文字が刻まれていなかった、と表現する方がよっぽど正しいほどの、完璧な滑らかさだった。

「……そんな、あり得ないわ」

 一度目にしたものを絶対に忘れない阿求の、その誇り高き声が、出会ってから初めて明確な戦慄で震えていた。

 小鈴は、涙を堪えるようにして、白く滑らかになった石碑を凝視した。

 文字は、確かにあったのだ。

 間違いなく、そこに刻まれていた。

 永琳が心配していたような、過労によるただの見間違いなどではない。悪夢の残痕でもない。自分と阿求という、全く異なる二人の生身の人間が、同じ瞬間に全く同じ文字列をこの網膜に捉え、その意味を共有したのだ。

 その決定的な現実が、ほんの一瞬、ほんの瞬きほどの間に世界の表層から消え去ってしまった。

 あり得ない。絶対にあり得ないはずのバグが、今まさに二人の目の前で静かに起きている。

「ねえ、阿求」

「……何かしら」

「私たち……永琳先生の言っていた通り、本当に、頭が同時におかしくなってしまったのかしら」

 阿求は、すぐには答えなかった。

 石碑に触れていた冷たい左手を、まるで生気を吸い取られたかのようにゆっくりと下ろす。

「分からないわ……」

「でも、あなたも確かに見たでしょう!?」

「ええ、見たわ」

「そこに『見えぬものほど、先に在り』って、確かに書いてあったでしょう!?」

「ええ、書いてあったわ」

「それなのに、どうして今は、こんなただののっぺらぼうな石になってるのよ!」

「……ええ」

 阿求は、人形のように同じ肯定の言葉を繰り返すことしかできなかった。あらゆる歴史の記録を統べる御阿礼の子の知性をもってしても、今この目の前の因果の崩壊に対しては、それしか言えないようだった。

 小鈴はこみ上げる狂気から逃れるように、周囲ののどかな風景を見回した。

 すぐそこの田んぼの畔道を、一人の農人の男性がのんびりと歩いている。

 誰かに、第三者に聞けば、この底知れぬ恐怖の正体が判明するかもしれない。

 この古い石碑は、元から何も刻まれていないただののっぺらぼうな石だったのか。それとも、つい数秒前まで確かに文字があって、今この瞬間にだけ、怪異によって消え去っているのか。

 小鈴は、抱えていた焼き菓子の箱を落とさないよう、激痛の走る両足の爪先を強引に引きずりながら、ゆっくりと近くを歩いていた男性へと向けて声をかけた。

「あの、すみません、少しお伺いしたいのですが」

 小鈴の声に、農人の男性が「おや」と足を止めて振り返った。

「何かね? 本居の娘御と、稗田の……阿求様ではございませんか。こんなところでどうされました」

「あの、この古い石碑のことなのですが」

 小鈴は、白くのっぺらぼうになった石の表面を震える指先で指し示した。

「この石碑……もしかして、最初から何も書かれていなかったんですか?」

 男性は、促されるままにぽつんと立つ石碑を見つめた。それから、ひどく奇妙なものを見るような目で、並んだ小鈴と阿求の顔を見比べた。

「最初から、とは……どういう意味かね?」

「はい。実は、ほんのさっきまで、ここに古い文字がはっきりと刻まれて書かれていたんです」

「文字?」

 男性は、不思議そうに太い眉をひそめた。

「この、ただの何もない石にかい?」

「ええ、そうです!」

「いやあ……文字なんて、昔から何一つ書かれていなかったと思うがねえ」

「思う、ではなくて、本当に一度も見たことがないんですか?」

「少なくとも、俺が知る限りの何十年もの間、ここには最初から何もありゃしないよ。むしろね、これをここに設置して管理している人には、一体何のための石なのか分からないから『早く何か文字でも彫ってくれ』と、里の連中で文句を言っているくらいなんだから」

 小鈴の背中に、ぞっとするような冷水が一本、一気に流れ落ちた。

「……これを、管理している人がいるんですか?」

「いるとも。ただの石っころだけがここに置いてあっても、何のための由来のものか誰にも分からないだろう? 昔から、近いうちに何か由来の碑文を書くと言っているんだが、あやつの腰が重いのか、なかなか作業が進まないらしいんだ」

「では……では、本当に文字は……」

「ないよ。少なくとも、俺は一度だって見たことがない」

 男性は、顔を青ざめさせて硬直している二人の様子を心配そうに見つめ直した。

「お二人とも……揃って何か、光の加減で見間違えたんじゃないかね? 疲れているようだし」

「……ええ。お恥ずかしい限りですが、どうやらそのよう、かもしれませんわ」

 阿求が、いつもの稗田家としての落ち着いた声音をどうにか作って答えた。

 声は驚くほどに凪いでいた。しかし、その表情はまるで死人のように強張って凍りついている。

 小鈴は、これ以上感情が零れ出ないよう、必死に男性へ向かって深く頭を下げた。

「お忙しいところ、ありがとうございました」

「いや、まあいいけどね。お二人とも揃って派手に怪我をしているようだから、余計なところへ寄り道せんで、気をつけて早く里へ帰りなさいよ」

「はい……」

 男性は不思議そうに首を傾げながらも、そのままのどかな田んぼの畔道の方へと歩いていった。

 小鈴は、自分の世界が根底から崩壊していくような感覚に襲われながら、しばらくの間、遠ざかっていくその背中をただぼんやりと見つめ続けていた。

 隣では、阿求がただ一点文字が消え失せ、最初から存在しなかった歴史へと書き換わってしまった、あの滑らかな石碑の表面を、憎しみを込めるようにして見つめ続けていた。

何も刻まれていない石碑。

 ただの、冷たくのっぺらぼうな石の塊。

 里の人々が、これから早く由来の文字を書いてほしいと、呑気に願っている未完成の石碑。

 しかし自分たち二人は、確かに、先ほどその灰色の表面に刻まれた古い言葉を読んだのだ。一字一句、間違いなく、この網膜に焼き付けるようにして見た。

「阿求」

 小鈴は、こみ上げる理不尽な恐怖に耐えかねて、隣に立ち尽くす阿求の吊られた右肩へ、そっと片手を触れた。

 触れられた阿求の身体が、電流を流されたかのように、びくりと小さく跳ね上がった。

「……小鈴?」

「戻りましょう、今すぐ鈴奈庵へ」

「ええ。そうね」

「ここにこれ以上佇んでいるのは……何だか、もの凄くよくない気がするわ」

 阿求は、それでもまだ石碑からその視線を完全に離すことができずにいた。

「私…私のこの完璧な記憶は、とうとう狂って、おかしくなってしまったのかしら」

「阿求、あなたが?」

「だって、私たち二人が確かに目撃したはずの現実が、世界(だれか)にしか見えていないのよ。あの男性には、歴史上最初から存在すらしていないのよ」

「でもね、阿求。私もあなたと全く同じ文字を、その目で読んだわよ」

「だからよ。だから、他ならぬあなたも同時に、私と一緒に頭がおかしくなってしまったのかもしれないわ」

「……それ、この状況でちっとも慰めになっていないわよ」

「慰めを言っているのではないわ。事実の可能性を検証しているのよ」

「私だってね、自分自身が本当に怪異のせいで狂ってしまったのかもしれないって、さっきからずっと怖くて堪らないんだから」

 阿求は、その言葉にハッとしたように小鈴の顔をまっすぐに見つめた。

 じっと見つめ合ううちに、彼女の瞳の奥に、いつもの切れ味の鋭い冷静さが、じわじわと奇跡的に戻りつつあるのが分かった。

 しかしそれは決して、心からの平静を取り戻したわけではなかった。生身を襲う圧倒的な恐怖を脳髄の底で無理やりに抑え込むために、自らの最も得意な領域である『冷徹な思考』へと必死に逃げ込もうとしている、痛々しい防衛の目だった。

「……あの原稿用紙は、永琳様の言うような、単なる誰かの浅知恵による悪戯なんかでは絶対にないわ」

 阿求が、凍りついた空気を切り裂くような確信に満ちた声で言った。

「ええ、その通りね。私も心の底から、そう思うわ」

「石碑に確かに文字が存在して、私たちがその意味を読み取った。なのに、視線を外したほんの一瞬の間に、跡形もなく消え去った。さらに周囲の人間は、歴史上最初からそんな文字など一度もなかったと証言する」

「ええ」

「これは、永琳先生の言うような、心理学や人の不注意を利用した現実の悪戯なんかでは、到底説明がつかないわ」

「ええ、その通りね」

「異変よ」

 阿求は、今度こそ逃げ場のない声を響かせて、はっきりと言い切った。

「間違いなく、これは幻想郷の理を歪める大異変だわ」

 小鈴は、縋るようにして周囲ののどかな風景を再び見回した。

 黄金色の田んぼは昼の風に優しく揺れ、人里の方からは物売りの声や、いつもの人間の活気ある生活の音がかすかに聞こえてくる。世界は、何も変わっていないように見える。日常は何一つとして崩壊していない。

 なのに、自分たちの目の前にあるこの石碑だけが、世界の常識ではあり得ない歪な形で、確かに変化してしまっているのだった。

「……霊夢に、今すぐすべてを相談する?」

 小鈴が、声を潜めて尋ねた。

 阿求は、すぐには答えず、しばらくの間じっと深く考え込んだ。

「……あの、酷い体調の霊夢へ、かしら?」

「やっぱり、風邪をひいているから?」

「それだけではないわよ、小鈴」

「他にも、何か理由があるの?」

「そもそも……今の私たちが見た事実を、彼女に対して客観的に何一つ説明できないでしょう」

 阿求は、のっぺらぼうになった石碑へ、一度だけ冷徹な目を向けた。

「私たちは確かに古い文字を見た。けれど、視線を外したら消えた。近くにいた農人の男性は、最初からそんなものは存在しないと言い切った。……このあまりにも不確かな記憶を今の霊夢へそのまま話して、一体彼女にどうしてほしいというのよ」

「異変かどうかを、博麗の巫女として正しく判断してもらうのよ」

「霊夢はね、私たちの話を聞いてまずこの石碑を見るでしょう。そして、何も彫られていない滑らかな表面を確認して、ただの怪我人の見間違いだ、何もない、と言うでしょうね」

「でも、私たちは二人で同時に見たわよ! 嘘なんかじゃない!」

「ええ。だからこそ、今は絶対に彼女に相談しない方がいいのよ」

「霊夢が風邪だから、という理由以外にも?」

「それもあるわ。酷い熱に浮かされている病人の元へ、証拠が一つもない説明不可能な怪異の話を持ち込むべきではないわ。それにね、もし霊夢がその鋭い勘でこれを本物の異変だと判断してしまったら、あやつは自分の身体の限界などすべて無視して、無理をしてでも絶対に解決へと動いてしまうでしょう」

 阿求は、そう言って真っ直ぐに小鈴の顔を見つめた。その瞳の奥には、友人の無鉄砲な優しさを誰よりも理解しているからこその、深い苦悩が滲んでいた。

「……今の霊夢にはね、これ以上余計な仕事を増やしたくはないのよ」

 小鈴は、霊夢が眩しい朝霧を切り裂いて竹林の奥へと入っていった、その静かな方角を見つめた。

 霊夢は、少し風邪をひいていた。

 ケホ、ケホと、いつもと違う乾いた咳をしていた。

 そしてほんの一瞬だけ、苦しそうに自らの胸元を強く押さえていた。

 それでも、薬を貰うためだけに、あの迷いやすい永遠亭へと一人で真っ直ぐ向かったのだ。

 そんな満身創痍な状態の彼女へ、自分たちですら客観的な理屈で説明のできない、おぞましい異変の話を持ち込む。確かに、阿求の言う通り、今は絶対に避けた方が賢明なのかもしれない。

「じゃあ……これから、どうするの?」

「私たち自身の手で、徹底的に調べるわ」

「……私たちだけで、やるっていうの?」

「ええ、そうよ」

 阿求は、痛む右肩を庇いながらも、静かに、けれど強固に深く頷いてみせた。

「少なくとも、今この幻想郷の理の裏で一体何が起きているのかを、論理的に整理するまではね」

「石碑の文字が、私たちの目の前で煙みたいに消え去ったことを?」

「あの不気味な原稿が直接関係しているのか。それとも、この古い石碑そのものが怪異の因果の中心なのか。……あるいは、私たち二人の脳の認識の側に、重大な問題が発生しているのか」

「三つ目の可能性は、いくら何でもあんまり考えたくはないわね」

「でもね、客観的な記録者として、それを最初から除外することは不可能なのよ」

「阿求、あなた、本当に私たち自身の頭がおかしくなってしまった可能性まで、大真面目に調べるつもり?」

「ええ、調べるわ」

「……私も、含まれているのね?」

「当然、あなたもよ」

「阿求、それって本当に、大切な友人へ向かって言うべきまっとうな言葉ではないわよ」

「大切な友人だからこそ、私はこうして妥協なく厳密に確認するのよ」

「確認される側の怪我人の心細い気持ちも、少しは考えて頂戴」

「これ以上ないほど考えているからこそ、私は今こうして、あなたのすぐ隣に立っているのよ」

 小鈴は、ベッドから降りて土を踏み締める阿求の硬い横顔を見つめた。

 彼女の白い顔は、冷や汗でひどく青ざめている。固定された右肩も、歩く微細な振動のたびに猛烈に痛んでいるはずだ。

 それでも彼女は、この底知れぬ恐怖を一人で抱え込もうとせず、のっぺらぼうの石碑からゆっくりと離れながら、自分へとすべてを正直に話してくれている。

 小鈴は、その厳然たる事実の温もりに、胸の奥で少しだけ安心した。

「……今日はもう、大人しく鈴奈庵へ帰りましょう」

 小鈴が、言い聞かせるように優しい声音で言った。

「ええ、そうね」

「永琳先生に何度も耳にタコができるくらい言われた通り、絶対にこれ以上の無理はしないこと」

「そうね。異論はないわ」

「明日になったら、お互いに一番落ち着ける安心な場所で、これからのことをじっくり話し合うのよ」

「ええ、稗田家の書斎で、これまでの記録をすべて取りながらね」

「……でも、あの原稿はしばらく読まないって、永琳先生と約束したでしょう?」

 阿求は、その言葉にほんの一瞬だけ、静かに口を閉ざした。

「……直接読まずにね、昨日までの頭の中にある内容だけで、一度すべてを綺麗に整理するわ」

「ちゃんと、永琳先生との約束を守るのね?」

「少なくとも、今日のうちだけはね」

「今日だけって……ちょっと、どういうことよ」

「明日以降は、事態の推移と、記録者としての論理的な必要性をその都度判断するわ」

「阿求!」

「分かっているわよ。私のプライドにかけても、できるだけ不必要には読まないわ」

「できるだけじゃなくて、『絶対に見ない』のよ」

「あなた……さっきから、永琳先生のあの手厳しい言い方をそのままそっくり真似しているでしょう?」

「だってあの言葉、あなたに対して一番効き目がありそうだったんだもの」

 阿求は、その小鈴の小生意気なお返しに、今度こそ少しだけ、いつものように口元を緩めて可笑しそうに笑った。

 しかし、その柔らかい笑みは、うららかな陽光の中であっても、決して長くは続かなかった。

 二人は、のっぺらぼうになったあの名もない石碑の前から、ゆっくりと離れていった。

 小鈴は、歩きながら後ろ髪を引かれるようにして、何度も何度も後ろの石碑を振り返りたくなった。

 もしかしたら、もう一度振り返れば、さっきの古い文字が何事もなかったかのように再び鮮明に浮かび上がっているかもしれない。あるいは、あの石碑そのものが、自分の知らない全く別の禍々しい姿へと変貌してしまっているかもしれない。

 しかし、小鈴は最後まで、決して後ろを振り返ろうとはしなかった。

 本当の現実を見てしまうのが、今の自分には、ただただ猛烈に怖かったのだ。

 そこに何一つおかしなことが起きていない「圧倒的な普通さ」を確かめることも。

 あるいは、取り返しのつかない何かが確かに起きている「異変の事実」を確かめることも。

 どちらの分岐に転んだとしても、今の小鈴にとっては、心臓が止まるほどに等しく恐ろしかった。

 隣を歩く阿求もまた、頑なにあの石碑を二度と振り返ろうとはしなかった。

 二人はただ、のどかな田んぼの脇に伸びる土の道を、一歩一歩ゆっくりと静かに歩き続けた。

 固定された足には、ズキズキとした確かな痛みがある。

 吊られた肩にも、重い鈍痛が絶え間なく走っている。

 けれど、それらの物理的な負傷以上に、二人の頭の中は、鉛を詰め込まれたようなどうしようもない重苦しさに支配されていた。

 あの古い碑文の文字列は、確かに、あの瞬間にあそこに存在していたのだ。

 しかし、今は客観的に、歴史上最初から存在すらしていない。

 あの預けられた原稿用紙の文字も、あの瞬間に不自然に変化したりはしなかった。

 あの石碑の文字も、誰の手にも触れられずに残ることはなかった。

 それでも、自分たち二人は、確かに全く同じ異常を目撃し、全く同じ恐怖のバグを経験したのだ。

 その、世界で二人だけしか共有していない強固な「事実」だけが、並んで歩く二人の間に、目に見えない糸のように確かに残り続けていた。

「小鈴」

「何かしら、阿求」

「明日、人間の里にある稗田邸へ、必ず来てちょうだい」

「ええ、分かっているわよ」

「その代わり……あの原稿用紙だけは、絶対に私の家へは持ってこないでね」

「原稿なら、阿求の私物荷物の底にあなたが持っているでしょう?」

「私は、これからの移動中、自分の部屋へは一切持っていかないわよ。鈴奈庵のあなたの手元で保管しなさい」

「本当に? 信じていいのね?」

「ええ、約束するわ」

「でも……もし明日、話し合いの最中にどうしてもあの記述が必要になったら?」

「その時は……その時になってから、また論理的に考えるわ」

「それって、結局は私に『持ってきて』って頼む可能性がいくらか残っているという意味でしょう」

「小鈴」

「なによ」

「今日はもう、これ以上余計な怪異のことを頭の中で考えない方が、お互いの心身のために賢明よ」

「ふん、それこそ永琳先生の受け売りの言葉じゃないの」

「ええ、その通りよ。一番効き目がありそうだから使ったわ」

 小鈴は、悔しそうに口を尖らせながら、少しだけ高くなった幻想郷の秋の空を見上げた。

 昼の青空は、どこまでも澄み切っていて、どこまでもただ青かった。

 世界のどこを見渡しても、何一つ大きな異変など起きていないように綺麗に見える。

 博麗霊夢が風邪をひいて永遠亭へ向かい、自分たちが不穏な古い道の先で名もない石碑を見つけ、その表面の文字が煙のように忽然と消え去った。

 客観的な歴史の記録として並べれば、ただそれだけの、里の些細な出来事に過ぎない。

 それなのに、小鈴の直感は、世界のどこか重要な歯車が、ほんの一筋だけ、元には戻らない角度でずれてしまったような、底知れぬ歪みを確かに感じていた。

「ねえ、阿求」

「何かしら」

「もし……もしも明日、あの石碑の場所に、消えた古い文字が勝てに戻っていたら、私たちどうする?」

「……その時は、何が起きたのかをもう一度厳密に確認するわ」

「じゃあ、明日になっても、文字が何も戻っていなかったら?」

「それも全く同じよ。何もないというその厳然たる現実を、客観的に確認するわ」

「結局、どちらの結末に転んだって、阿求はとことん調べるのを止めないのね」

「ええ。それが御阿礼の子としての、私の宿命だもの」

「本当に、あなたらしいわね」

「……あなただって、最後には必ず私と一緒に来るでしょう?」

「……ええ、そうね。だって昨日、あなたの寝室のベッドの上で、ちゃんと半分ずつ半分ずつ、一緒に確かめるって約束したものね」

 小鈴は、腕の中に抱えていたあの龍神景綱のお見舞いの菓子箱を、これ以上ないほど大切にぎゅっと抱え直した。

 箱の中の焼き菓子は、まだ指一本触れておらず、食べていない。

 本当なら、鈴奈庵の我が家に帰り着いたその瞬間に、真っ先に包みを解いて貪り食うつもりだったのだ。

 しかし今の小鈴の胸の内には、甘い極上の糖分を美味しく食べたいという無邪気な食欲よりも、一刻も早く、自分の愛する見慣れた日常へと戻りたいという切実な願いの方が、遥かに強く勝っていた。

 それでも、明日になったら、この小さな箱を開けて阿求と仲良く半分ずつ食べるのだ。

 その、他愛のない小さくて愛おしい日常の予定だけは、何が何でも手放したくはなかった。

 それこそが、怪異に侵食されていない自分たちの「まっとうな現実」なのだと、自らの怯える心へと言い聞かせるために。

 二人は、朝霧の完全に晴れ渡った、人間の里へと真っ直ぐに続く大通りを、互いの痛む身体を気遣うようにしてゆっくり、ゆっくりと歩いていった。

 背後に置き去りにされたあの古い道の名もない石碑は、生い茂る木々の影に隠れて、もう二人の視界からは完全に見えなくなっていた。

 今の石碑の表面には、文字通り、何一つとして書かれてはいない。

 少なくとも、そこを偶然通りかかるだけの、何も知らないただの里の人間にとっては。

 そして、二人の確かな視線から完全に外れ、世界からあらゆる観測の目が完全に失われた、まさにその刹那のことだった。

 誰もいない寂しげな境界線の上で、のっぺらぼうだったはずの石碑の灰色の表面に、ぽつんと、ひとつだけ不自然に細い線が浮かび上がった。

 それは、現実のノミで削り出された傷などでは決してない。

 まるで、あの原稿用紙の紙面の上で、誰かが拙い手つきで新しいプロットを書き加えるかのような、どろりと生々しい、墨のような漆黒の細い線。

 その不気味な黒い線は、誰もいない静寂の中で、生き物のようにずるずるとゆっくり蠢きながら伸びていき、冷たい石の肌の上へ文字を成すための、決定的な「一画」を、おぞましく深く刻み込んだ。

 しかし。歩みを進める小鈴も阿求も、今はもう、決して後ろを振り返ることはなかった。

 現実を侵食し始めたその「新しく書き足された一画」が、自分たち二人の未来にとって、そしてこれから永遠亭へと向かうあの博麗霊夢の運命にとって、一体どれほど最悪な破滅を意味しているのかを。

 未だに二人は、何一つとして知る由もなかった。




ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
小鈴は原稿を怖がり、阿求は記録しようとし、二人で慎重に確かめることになりました。
ただ、慎重に進めたつもりでも、物事はなかなか思い通りにはいかないものです。
次回も、二人の会話と原稿の行方を見守っていただけましたら嬉しいです。
毎週木曜日・日曜日 午後7時更新予定です。
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