小鈴と阿求は、それを前にして、まず何を信じるべきかを考えることになります。
紙に書かれたことは、起こるのか。
起こると知った時、人はそれを変えられるのか。
第二話です。
朝の光は、鈴奈庵の土間を斜めに横切っていた。
開け放たれた引戸から差し込むそれは、板張りの床に残った細かな砂粒を白く照らし、帳場の端に積まれた返却本の背表紙を、どこか他人の所有物のように浮かび上がらせている。
原稿用紙は、その光の中にあった。
二枚。
ただの二枚の四百字詰め原稿用紙。
一枚は表を向き、もう一枚は少しだけ斜めになっている。白い和紙と、黒い墨。それだけならば、鈴奈庵へ持ち込まれる無数の原稿や写本の下書きと、何一つ変わらない。
けれど、その紙には、本居小鈴という一人の人間が今朝、どんな寒さに愚痴を言い、どの段で足を滑らせ、どの箪笥の角へ小指をぶつけ、そしてその責任を、どれほど見事に魔理沙と霊夢へ転嫁したかが、あまりにも端正な字で書かれていた。
「……小鈴?」
阿求は、土間へ落ちた原稿を一枚ずつ拾い上げながら、改めて親友の顔を見た。
「あなた、本当に大丈夫?」
「大丈夫に見える?」
「見えないわね」
「じゃあ聞かないでよ」
小鈴は帳場の脇に立ったまま、両腕を抱えていた。
右足の小指は、まだじくじくと痛い。さっき涙目になってた事を阿求に見られなかっただけでも、多少は運が良かったと思うべきなのかもしれない。
しかし原稿に書かれているのは、小指の件だけではない。
冷えた布団に対する愚痴、木製階段への理不尽な怒り。
魔理沙が昨日、店の空気を箒でかき回したせいで箪笥まで敵意を持ったのだ、という、冷静に考えれば相当ひどい理屈。
誰にも話していない。
いや、話したくもない。
それらが、整いすぎた筆跡で、紙の上へ残されている。
「これ、私が書いたんじゃないからね」
「ええ」
阿求は一枚目へ視線を落とした。
「筆跡が違うもの」
「即答ね」
「あなたの筆は、もっと勢いで誤魔化す癖があるわ。止めと払いの間に、ほんの少しだけ迷いが出る」
「褒めているの?」
「観察よ」
「今のところ、少しも嬉しくないわ」
阿求は返事をせず、紙面を朝の光へかざした。
和紙の繊維が、光を薄く通す。
紙の端は真新しい白ではなく、わずかに黄みを帯びている。長く引き出しの奥で眠っていた紙のようでもあり、何度も人の指に触れられて、角が柔らかくなった紙のようでもあった。
しかし墨は、紙の古さと釣り合わない。
一枚目の墨は乾いている。指で触れても移らない。けれど、光の角度を変えると、文字の一部だけが黒く艶めき、紙の上に置かれた時間が均一ではないことを示していた。
「紙は古いわね」
「古い?」
「ええ。今朝、文具屋で買った紙ではない。繊維が空気を吸って落ち着いているし、端に細かな毛羽立ちもある」
「でも墨は乾いているんでしょう?」
「一枚目はね」
阿求は二枚目を持ち上げた。
「こちらは少し違う」
小鈴は、原稿を見たくなかった。
見たくないのに、阿求が何を見ているのか気になる。
自分の朝を勝手に覗かれた紙に、これ以上興味を持つのは負けた気がした。それでも、阿求が眉を寄せると、どうしてもそちらへ目が向く。
「何が違うの?」
「墨の沈み方。筆を置いた時のためらい。それから筆圧」
「筆圧だけで、書いた人が寝不足だったとか、お腹が空いていたとかまで分かるの?」
「そこまでは分からないわ」
「よかった」
「ただ、ここは分かる」
阿求の指先が、二枚目の下の方で止まった。
「ほら。ここ」
小鈴は、恐る恐る近づいた。
阿求が示したのは、彼女の来訪が書かれている段落より少し上だった。
そこには、一本の二重線が引かれている。
細く、真っ直ぐな線。
しかし、ただの取り消し線ではなかった。書き手は、下の文字を消し去るつもりだったらしい。黒い線は二度、三度と重ねられ、和紙の繊維へ深く沈み込んでいる。
それでも、紙が薄い。
消された文字は、完全には消えない。
水の底に沈んだ石のように、黒い線の奥で形だけを残している。
「書き損じ、かしら」
小鈴が言うと、阿求はすぐには答えなかった。
「書き損じなら、普通はこうは消さないわ」
「じゃあ何?」
「書き直し」
「同じじゃないの?」
「違うわ。字を間違えた時に消すのが書き損じ。書いた内容そのものを変える時に消すのが書き直しよ」
「でも、わざわざこんなにぐちゃぐちゃに消さなくても」
「書いた人にとって、消す必要のある文章だったのでしょう」
小鈴は、二重線の下に残る影を見た。
読めそうで、読めない。
黒い線の奥には、確かに文字がある。
だが、目を凝らすほど意味は遠ざかる。文字は紙の繊維の中へ沈み、意味のない傷のように見えてくる。
「……読めないわ」
小鈴は呟いた。
「読めると思ったの?」
「分からない。でも私、文字なら大抵は読めるから」
あらゆる文字を読む程度の能力。
古い本の崩し字、妖怪が残した奇妙な記号、外の世界から紛れ込んだ異国の言葉。
小鈴は、それらを意味として受け取ることができる。
しかし、二重線の下にある文字は、意味を拒んでいた。
文字ではある。
文字だったはずだ。
けれど今は、誰かが「読ませない」と決めた文字のようだった。
「無理に読まなくていいわ」
阿求は静かに言った。
「今は、紙の状態を見ているだけ」
「今は、って何よ」
「後で必要になれば読むでしょう」
「必要にならないでほしいわ」
「私もそう思う」
阿求の声は落ち着いていた。
だが、小鈴には分かる。
阿求が落ち着いた声を出す時は、大抵、本当は落ち着いていない。
小鈴は、朝餉の残りを思い出した。
食卓には、半分ほどの味噌汁と、少し冷めた白米が残っている。小指をぶつけなければ、帳場へ来る前に、もう少しだけゆっくり食べていたかもしれない。
胃の奥は縮んでいる。
けれど、空腹は消えていなかった。
「……阿求」
「何?」
「私、朝ご飯を食べ直してもいい?」
阿求は紙面から目を上げた。
「今?」
「今」
「この状況で?」
「この状況だからよ。朝から階段で死にかけて、小指をぶつけて、知らない人に心の中まで読まれているの。食べないと、怖がる体力がなくなるでしょう」
「怖がるための体力、という概念は初めて聞いたわ」
「私は右足の小指を怪我しているのよ」
「左足は?」
「精神的に痛いわ」
阿求は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「分かった。食べなさい」
「阿求も食べる?」
「朝餉は済ませてきたわ」
「早いわね」
「あなたが普段より遅いのよ」
「今日は日曜日だから」
「店主に休日はないでしょう」
「あるわよ。心の中には」
「便利な休日ね」
小鈴は原稿から目を逸らし、居住スペースへ戻った。
阿求も、原稿用紙を持ったまま後をついてくる。
「……ついてくるの?」
「これを一人で置いておける?」
「置いておきたくはないけど、食卓へ持ち込むのも嫌よ」
「では、私が持っているわ」
「それもなんだか嫌」
「小鈴、今日はずいぶん嫌がるわね」
「朝から嫌なものばかり増えているんだもの」
居住スペースの食卓には、朝の残りがそのまま置かれていた。
白米の湯気はもうほとんど消えている。味噌汁の表面には薄い膜が張りかけ、漬物は小皿の隅で少し乾いていた。
小鈴は椀を引き寄せ、畳へ座る。
右足の小指が畳へ触れないよう、少しだけ足を浮かせた。
阿求は向かいへ座らず、食卓の脇に立ったまま原稿を見ている。
「座れば?」
「あなたの食事を眺める趣味はないわ」
「じゃあ、何で立っているのよ」
「この紙から目を離したくないの」
「紙が逃げるの?」
「分からないでしょう。足が生えて走って逃げるかもしれない」
小鈴は箸を持ち、冷めた白米を口へ運んだ。
朝一番に食べた時より、米は少し固くなっていた。しかし噛むと、冷えた粒の中にはまだ甘みが残っている。
その甘みが、妙に現実的だった。
原稿は怖い。
阿求は本気で不安そうだ。
けれど、米は米の味がする。
味噌汁は少し冷めている。
小指は痛い。
そういうものまで、誰かが勝手に書いているわけではない。
そう思いたかった。
「阿求」
「何?」
「これ、誰かの悪戯じゃない?」
「悪戯にしては、随分と手が込んでいるわね」
「私を驚かせたい誰かが、昨日からこっそり店に隠れていたとか」
「あなたの寝室、炊事場、階段、店先、全部に?」
「うん」
「さらに、私が予定を変えて今朝早く来ることも知っていた?」
「……うん」
「その人は、あなたの心も読める?」
「うん」
小鈴は箸を止めた。
「……うん、じゃないわね」
「そうね」
阿求は原稿を膝の上へ置いた。
「私は今朝、予定より二時間早く家を出たの」
「どうして?」
「昨日、あなたへ頼んだ写本を早く受け取って、午前のうちに屋敷へ戻るつもりだったのよ。午後には、里の古い記録を確認する仕事があったから」
「それを、誰にも言っていない?」
「使用人には、出る直前に伝えたわ」
「じゃあ、その使用人が――」
「私の予定を聞いて、あなたの心の声を盗み見て、二枚の原稿を鈴奈庵へ置いた?」
阿求は、わずかに首を傾げた。
「可能性としては、なくはない。でも、そう考えるには説明が足りなすぎるわ」
「説明が足りないのは、いつも阿求の話よ」
「何ですって?」
「だって、阿求はいつも最後に『分からないけれど不気味ね』って言うじゃない」
「今は本当に分からないのよ」
「阿求が分からないって言うと、本当に怖くなるからやめて」
阿求は少しだけ黙った。
その沈黙が、小鈴には返事より怖かった。
やがて阿求は二枚目の中ほどを指で押さえた。
「……続きがあるわ」
「え?」
「あなたがさっき読んだのは、私が来るまでの部分でしょう」
「うん。怖くて、その先は読めなかった」
「読まない方がいい、とは言えないわね」
「言ってよ。今は言ってほしいわ」
「でも、ここには、これから起きることが書かれているかもしれない」
「だから嫌なのよ」
「嫌だからこそ、読むの」
阿求は紙面へ目を落とした。
背筋は真っ直ぐで、紙を持つ指先も整っている。
けれど、声だけが少し硬かった。
「……読むわ」
「待って」
小鈴は箸を置いた。
「声に出して?」
「聞いた方がいいでしょう」
「私、聞きたくない」
「でも、一人で聞くのも嫌よ」
「じゃあ、二人とも聞かない」
「それで、知らないまま起きたら?」
小鈴は答えられなかった。
阿求はほんの少しだけ呼吸を整える。
「よく聞いて」
そして、原稿に書かれた文章を読み上げた。
『――不可解な紙片を前に、本居小鈴は、張り詰めた空気を和らげるため、稗田阿求へ煎茶を淹れることを思いつく。その茶は、阿求が受け取るはずだった写本へ降り注ぎ、墨書の多くを失わせることとなる。』
食卓の上から、音が消えた。
小鈴は阿求を見た。
阿求も原稿から目を上げた。
それから、食卓の隅に置かれた写本を見た。
阿求が今日受け取るはずだった写本。
昨日、小鈴が夜遅くまでかけて書き写し、今朝、棚から出しておいたものだ。
薄い油紙で包まれ、糸で簡単に綴じられた、まだ新しい写本。
その中には、阿求が調べている里の古い記録がある。
「……お茶」
小鈴が、かすれた声で言った。
「私が淹れるの?」
「そう書いてあるわね」
「写本が濡れるの?」
「そう書いてある」
「嫌よ」
「私も嫌よ」
「じゃあ淹れない」
「そうね」
阿求はほとんど即答した。
小鈴は少しだけ安心しかけた。
しかし阿求は、すぐに続けた。
「でも、それでは、この原稿が何なのか分からないままだわ」
「分からないままでいいわよ」
「次に、もっと悪いことが書かれていたら?」
「その時は、その時に考える」
「小鈴」
阿求の声が、少し低くなった。
「この紙は、あなたの朝を正確に書いた。私が来ることも書いた。次もその通りになるなら、私たちは今後、何が起きるのか知るために、この紙を読まなければならない」
「でも、読んだせいで起きるかもしれないじゃない」
小鈴は、自分でも驚くほど強い声を出した。
「読まなかったら、私はお茶を淹れなかったかもしれない。写本も濡れなかったかもしれない。でも、読んだから怖くなって、今から何か変なことをして、それで結局濡らすかもしれない」
阿求は、すぐに反論しなかった。
小鈴は続けた。
「この紙、私たちが読むところまで書いているんじゃないの?」
阿求の瞳が、わずかに揺れた。
原稿は、小鈴が阿求へ茶を淹れると思いつく、と書いている。
今、二人はその文章を読んだ。
読んだから、小鈴は茶を淹れたくないと思った。
しかし、もし原稿を読まなければ、小鈴は朝の客として来た阿求へ、いつものように茶を出していたかもしれない。
「……鋭いわね」
「今だけね」
「いつも鋭くありなさい」
「今は褒められても嬉しくないわ」
阿求は写本へ目を向けた。
小鈴も見た。
写本は、食卓の隅に置かれている。
今までただの紙の束だったものが、急に、火薬でも包んでいるように見えた。
「まず、写本をしまいましょう」
阿求が言った。
「油紙を二重にして、桐箱へ入れる。鍵付き棚の奥へ」
「お茶は?」
「淹れない」
「さっき、分からなくなるって言ったじゃない」
「分からないまま写本を濡らすよりは、守る方が先よ」
「……阿求、たまにまともなこと言うわね」
「たまにではないでしょう」
二人は立ち上がった。
小鈴は右足を庇いながら、写本を持つ。
油紙で包まれた写本は、朝の光を受けて淡く光る。
昨夜、自分で書いた文字が中にある。
一字ずつ、阿求のために写した。
だからこそ、茶などで濡らしたくない。
居住スペースの奥には、小鈴しか使わない鍵付き棚がある。妖魔本ほど危険ではないが、客へ見せたくない帳簿、店の金、湿気を避けたい紙類を保管する、小さく深い棚だった。
小鈴は帯の内側から鍵を取り出す。
鍵穴へ差し込み、ゆっくり回す。
古い金具が、かちりと鳴った。
「油紙だけでは足りないわね」
阿求が言った。
「桐箱に入れましょう」
「そこまで?」
「そこまで」
小鈴は棚の奥から、小さな桐箱を取り出した。
箱の中には、以前、湿気に弱い本を保管した時の乾いた紙が敷かれている。
写本を油紙ごと入れ、上からさらに薄い布を重ねる。
蓋を閉める。
小鈴は、一度だけ手を止めた。
「……これで大丈夫よね」
「普通ならね」
「普通って言わないで」
「ごめんなさい」
阿求は素直に謝った。
それがかえって不安だった。
桐箱を棚へ戻し、鍵をかける。
小鈴は鍵を抜き、帯の内側へしまった。
「これで、写本は濡れない」
「ええ」
「お茶も淹れない」
「ええ」
「今日は一日、阿求にお茶を出さない」
「少し寂しいけれど、仕方ないわ」
「寂しいの?」
「あなたの茶はそこまで悪くないもの」
「今、少し嬉しかったのに、すぐ不吉になったわ」
「原稿に書かれた日常の中で、茶を褒められる機会は貴重でしょう」
「阿求、慰め方が下手ね」
「歴史編纂者は、慰めより記録が得意なの」
「今は記録しないで」
「努力するわ」
「努力じゃなくて絶対に」
「人間に絶対を求めるものではないわ」
「今は求めるの」
小鈴は棚の前から離れた。
二人は居住スペースの中央に戻る。
阿求は原稿を食卓の上へ置いた。
小鈴は、茶葉の缶を見た。
朝から何度も見たその缶が、急に怪しく見えた。
「……阿求」
「何?」
「原稿が外れたかどうか、確かめるだけなら、お茶を淹れる必要があるんじゃない?」
阿求は、少しだけ目を細めた。
「そうね」
「茶を淹れないで写本が濡れなかったとしても、原稿が外れたのか、ただ条件を作らなかっただけなのか分からない」
「その通りよ」
「でも、茶を淹れたら怖い」
「私も怖いわ」
「じゃあ、どうするの?」
阿求は、少し考えた。
「茶を淹れる。ただし、写本は棚の中。急須は台所の調理台から動かさない。盆も湯呑みも使わない」
「私は畳を通らない」
「ええ」
「阿求も、急須に近づかない」
「ええ」
「袖も広げない」
「またそれ?」
「大事よ」
「私は霊夢ではないわ。袖を振っただけで異変が解決するほど便利な人間ではない」
「霊夢だって、袖を振る前に札を投げるでしょう」
「それはそうね」
「じゃあ阿求も、袖を帯へ挟んで」
「なぜ結論がそこへ戻るのよ」
「安全のため」
「分かったわ。今日の私は、稗田阿求ではなく、帯に袖を固定された人形になるのね」
「文に見つかったら、明日の新聞の一面になりそう」
「『稗田家当主、貸本屋で拘束される』かしら」
「『本居小鈴、友人を茶事故から守るため帯へ固定』よ」
「どちらにしても、里へ出られないわね」
阿求はため息をつきながらも、両袖を帯の間へ慎重に挟んだ。
小鈴は台所へ向かう。
炭はまだ赤く残っている。
鉄鍋の中では、朝に足した湯がぬるく温まっていた。
小鈴は急須を取り出す。
茶葉の缶を開けると、乾いた葉の香りが立った。
いつもなら、胸の奥を少し落ち着かせる匂いだった。
今日は、妙に鋭い。
小鈴は匙で茶葉をすくい、急須へ入れた。
湯を沸かす。
湯気が細く立ち上る。
湯が急須へ注がれる。
茶葉は湯の中でゆっくりほどけ、淡い緑が湯へ滲んでいく。
小鈴は急須を調理台の中央へ置いた。
湯呑みは出さない。
盆も使わない。
茶を運ばない。
写本は鍵の向こう側。
「これでいいでしょう」
小鈴は、阿求へ言った。
「私は茶を淹れた。写本は棚の中。急須は台所。あなたは帯に袖を固定されている。原稿に書かれたことは、何一つ起きていないわ」
「まだ起きていないだけかもしれない」
「そういうこと言わないで」
「ごめんなさい」
そして二人は、待った。
一分経過後に火鉢の炭が、小さく割れた。
二分後表通りを、荷車の車輪が遠ざかる。
三分が経過し店先の暖簾が、風もないのに一度だけ揺れた。
四分。
何も落ちない。
誰も転ばない。
茶は調理台の上で、ただ淡い湯気を立てている。
五分。
小鈴は、右足をそっと畳へ下ろした。
「……ねえ、阿求」
「何?」
「これ、もう外れたんじゃない?」
阿求は、すぐには答えなかった。
原稿と、鍵付き棚と、台所の急須を順に見る。
「原稿には、あなたが茶を淹れ、その茶が写本へかかるとある。あなたは茶を淹れた。けれど写本は棚の中。急須は動いていない」
「じゃあ?」
「少なくとも、原稿に書かれた経路は崩れているわ」
「未来は変えられる?」
「まだ一度では断定できない。でも、可能性はある」
小鈴の肩から、少しだけ力が抜けた。
「よかった……」
「安心するのは早いわ」
「阿求」
「何?」
「今くらい、素直に喜んでよ」
「喜んでいるわ。ただ、歴史には『一度うまくいったので、もう大丈夫だと思った』人の失敗が多すぎるの」
「今、私を歴史上の愚かな人みたいに言った?」
「言っていないわ。小鈴はもっと可愛らしい種類の失敗をするもの」
「褒めていないでしょう」
「観察よ」
「今日二回目よ、それ」
阿求は、原稿の二重線へ目を落とした。
しばらく、紙面の上で指を動かす。
「……小鈴」
「何?」
「ここに、写本と似た文字がある」
「さっき読めないって言っていたでしょう」
「二重線の下に、題名ではなく、写本の冒頭にある文句と似た形が残っているのかもしれない」
「写本の冒頭?」
「外側の控えでは照合できない。実際の本文と比べなければ」
小鈴は、鍵付き棚を見た。
「でも、原稿が外れたんでしょう?」
「そう考えていいと思うわ」
「じゃあ、出しても大丈夫?」
「絶対とは言えない」
「またそれ?」
「でも、さっきまで待っても何も起きなかった。危険な予言が外れたなら、次はなぜ原稿が写本へ触れようとしたのか調べるべきよ」
「怖いから見ない、は調査じゃないって言うつもり?」
「言うつもりだったわ」
「阿求って、そういうところ、京極堂みたいね」
「誰?」
「外の本に出てくる、何でも理屈で片づける人」
「では、私はその人ほど偉そうではないわ」
「今の時点で、だいぶ偉そうよ」
「小鈴」
阿求は、少しだけ真剣な顔になった。
「私も怖い。だから、分からないものを箱の中へ閉じ込めたままにはしたくないの」
小鈴は、阿求の顔を見た。
こういう時の阿求は、霊夢が異変の中へ飛び込む時と似ている。
勝てると思っている顔ではない。
分からないものを放置する方が、もっと嫌だと考えている顔だ。
「……分かった」
小鈴は帯の内側から鍵を取り出した。
「でも、写本はすぐに戻すからね。照合するだけ。開かない。読むのも必要なところだけ」
「ええ」
「急須は?」
「原稿が外れたのだから、湯呑みに注いでもいいのでは?」
「阿求」
「冗談よ」
小鈴は、茶を捨てるのも惜しくなっていた。
原稿が外れたと考えたことで、先ほどまで怪物に見えた急須が、ただの急須へ戻りかけている。
せっかく淹れた茶だ。
阿求は今日、朝から来ている。
少しくらい、いつものことをしてもいいのではないか。
「……じゃあ、急須だけ持っていく」
「湯呑みは?」
「まだ出さない」
「小鈴」
「原稿が外れたと言っても、私の心はまだ外れていないの」
「分かるわ」
小鈴は急須を持ち、食卓の端に置いた。
原稿とは反対側。
写本を広げる場所から、手を伸ばしても届かない距離。
それを確かめてから、鍵付き棚を開ける。
桐箱を取り出す。
箱の蓋を開ける。
油紙の中の写本は、まだ乾いている。
小鈴は、少しだけ息を吐いた。
「ほら。無事」
「ええ」
写本を乾いた布の上へ置く。
阿求は原稿を隣へ寄せた。
二人は並んで、二重線の下の文字と写本の冒頭を見比べる。
阿求は記憶している文字の形を口にし、小鈴は写本の崩し字を読んでいく。
「この字は『里』ではないわね」
「『理』かもしれない」
「いいえ。右側の払いが違う」
「あなた、こういう時だけ妙に楽しそうね」
「文字は裏切らないもの」
「今日の紙は、かなり裏切っているように見えるけれど」
「紙が悪いんじゃないわ。書いた人が悪いの」
「それはそうね」
その時だった。
表の引戸が、控えめに鳴った。
「小鈴さん、いる?」
寺子屋帰りらしい少年の声だった。
小鈴は顔を上げた。
「あ、いるわよ。どうぞ」
少年は引戸を開ける。
外の風が、店内へ入った。
山から下りる風ではない。昼の通りを歩いてきた、乾いた風だ。紙の匂い、土の匂い、誰かの家の焼き魚の匂いを一緒に連れている。
風は卓の上を撫でた。
原稿用紙の端が浮く。
「あっ」
阿求が手を伸ばす。
原稿が床へ落ちる前に押さえようと、反射的に身体を傾ける。
帯へ挟んだ袖は動かない。
だが、阿求の肘が、卓の端に置かれた急須の柄へ触れた。
急須が、わずかに傾く。
「阿求!」
小鈴が声を上げる。
急須は倒れた。
熱い煎茶が、食卓の上を茶色く走る。
写本へ向かって。
小鈴は手を伸ばした。
阿求も、原稿を押さえたまま、もう片方の手を伸ばす。
間に合わない。
煎茶は、写本の中央へ降り注いだ。
油紙はない。
桐箱もない。
乾いた布は、一瞬で茶を吸い、写本の下へ湿り気を送る。
墨が滲む。
小鈴が昨夜、一字ずつ書いた文字が、茶色い水分の中で輪郭を失っていく。
静かだった。
あまりに静かだった。
急須が倒れる音、少年の驚いた息、阿求の着物が畳を擦る音。
それらはあった。
それでも、写本の文字が濡れていく瞬間には、世界全体が息を止めたようだった。
「……嘘」
小鈴の声は、ほとんど音にならなかった。
寺子屋の少年は、入口で固まっている。
「ご、ごめんなさい。俺、急に開けたから――」
「あなたのせいじゃないわ」
阿求が、すぐに言った。
声は震えていたが、少年へ向ける口調は柔らかかった。
「本を返しに来てくれてありがとう。今日は、もう帰っていいわ」
少年は、何度も頭を下げ、本を帳場へ置くと、逃げるように店を出ていった。
引戸が閉じると同時に、風も、通りの音も、外へ置いていかれた。
小鈴は写本を見た。
阿求は原稿を見た。
二枚目の中ほど。
さっきまで読めた文章が、黒い二重線で消されている。
『本居小鈴は、稗田阿求へ煎茶を淹れる。その茶は、阿求が受け取るはずだった写本へ降り注ぎ、墨書の多くを失わせることとなる。』
その下には、最初からそこにあったはずの別の文章が、二重線の奥から浮かび上がっていた。
新しい文字が余白へ生まれたわけではない。
書かれていた文章が、今起きた現実によって選ばれたように、黒い線の下から読めるようになったのだ。
『本居小鈴は転倒を免れる。しかし、返却客の開けた引戸から入った風に原稿が煽られ、稗田阿求がそれを押さえようとしたため、急須は傾く。小鈴が淹れた煎茶は、卓上に取り出された写本へ降り注ぐこととなる。』
小鈴は、息を止めた。
「……書き直されてる」
阿求は答えなかった。
答えられないようだった。
最初に書かれていた未来は、細部までその通りには起きなかった。
小鈴は転ばなかった。
畳のささくれも、湯呑みも、盆も出てこなかった。
それでも、小鈴が淹れた茶は写本へかかった。
原稿は、細かな手順を捨てた。
写本が濡れるという結果だけを残し、現実に合うよう、そこへ至る道を選び直した。
「阿求」
「……何」
「私たち、さっき、外れたって思ったのよね」
「ええ」
「五分も待って、何も起きなかったから」
「ええ」
「だから、写本を出した」
「そうね」
「じゃあ、これは……私たちが油断したせい?」
阿求は、濡れた写本を見た。
それから小鈴を見た。
「違うわ」
「でも」
「あなたは店主として、返却客を迎えた。私は原稿を守ろうとした。少年は本を返しに来た。それだけよ」
「でも、結果は」
「結果だけが、残ったの」
阿求は、まだ乾かない二重線へ目を落とした。
「この紙は、細かい手順を追っているわけではないのかもしれない」
「じゃあ何を追っているの?」
「分からない」
「また分からない」
「でも、今度の“分からない”は、さっきまでより少し形があるわ」
阿求は、紙面を指した。
「小鈴が茶を淹れる。写本が茶で濡れる。その二つだけは、最初から最後まで消えていない」
「私が茶を淹れたから?」
「あるいは、写本を濡らすために、あなたが茶を淹れる必要があったから」
「どっちも嫌な言い方ね」
「ごめんなさい」
「阿求」
「何?」
「今は、謝らないで」
阿求は少しだけ目を見開いた。
「謝られると、私だけが悪いみたいになる」
「あなた一人が悪いわけではない」
「分かっている。でも、私も開けた。私もお茶を持ってきた。私も、外れたと思った」
「私もよ」
阿求は言った。
「私も、外れたと思った。だから写本を出そうと言った。原稿を拾おうとした。急須に触れた」
二人は、濡れた写本を見た。
どちらが悪いかを数え始めれば、いくらでも数えられる。
けれど今は、数えたところで、写本の文字は戻らない。
「……ねえ」
小鈴は、涙が出そうになるのを堪えながら言った。
「今日は、もうお茶を飲まない」
「分かるわ」
「明日も、飲まないかもしれない」
「それも分かる」
「でも、阿求が来た時に何も出さないのは、やっぱり少し変よね」
「私は、水でいいわ」
「水も怖い」
「では、しばらくは何も出さなくていい」
「それはそれで、阿求が客としてかわいそう」
「私は客ではないでしょう」
「じゃあ何?」
阿求は少しだけ考えた。
「……写本を濡らした共犯者?」
小鈴は、思わず阿求を見た。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「それは、あまり嬉しくない関係ね」
「私も、もっと上品な言い方を探したいわ」
「例えば?」
「共同研究者」
「急に格好よくなった」
「では、共同研究者として、濡れた写本を乾かしましょう」
「阿求」
「何?」
「やっぱり慰め方が下手」
「歴史編纂者は、慰めより記録が得意なの」
「今は、記録しないで」
「……努力するわ」
鈴奈庵の午後は、まだ長かった。
卓の上には、茶に濡れた写本と、黒い二重線を増やした二枚の原稿用紙が残っている。
店の外では、何も知らない人間の里が、いつもの昼を続けていた。
誰かが笑い、誰かが本を借り、誰かが湯を沸かす。
小鈴は、濡れた写本の端へそっと触れた。紙は、まだ温かかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第二話は、原稿を前にした小鈴と阿求のやり取りを中心に書きました。
二人が何を確認し、何を確認できなかったのか。
その違いも含めて、楽しんでいただけましたら幸いです。
次回もよろしくお願いします。