小鈴が長く守ってきた一冊の本。
阿求と共に調べた星図。
そして、いつも通りに店へ来る魔理沙。
いつもの昼が、いつも通りに終わるとは限りません。
写本を乾かす作業には、ひどく静かな忍耐がいる。
濡れた紙を急いで剥がせば、紙の繊維は破れる。火鉢へ近づけすぎれば、急に乾いた部分と湿った部分との縮み方が違い、頁は波打ち、書かれていた文字はさらに歪む。重しを軽くすれば紙は反り、重くすれば墨がまだらに押し潰される。
だから阿求は、濡れた写本の頁を一枚ずつ、ほとんど呼吸を止めるように剥がしていた。
小鈴が持ってきた細い竹べらを、紙と紙の境目へ差し込む。
刃物ではない。
刃物なら、濡れた和紙はあまりに簡単に傷つく。
竹の薄い先端を、頁の端にそっと入れ、茶を吸った紙同士が張りついた箇所を、ゆっくり離していく。阿求の白い指先は、普段よりわずかに強張っていた。
小鈴は食卓の脇に立ち、その手元を見ていた。
見ているだけだった。
手伝いたい。
けれど自分が触れば、また何かを悪くしてしまう気がする。
その感覚は、朝からずっと小鈴の胸の奥に残っていた。
食卓には、薄い吸い取り紙、清潔な布、重しに使うための平たい木箱、湯を拭いた後の布巾が並んでいる。写本は一枚ずつ吸い取り紙へ挟まれ、木箱の下へ移されていく。
茶と墨の匂いが混ざっていた。
普段ならば、小鈴はどちらの匂いも嫌いではない。
煎茶の香りは、客が来た時に店の空気を少しだけ整えてくれる。墨の匂いは、帳簿を書いた時や、写本を終えた時の静かな達成感と結びついている。
だが、今は違う。
二つの匂いが混ざることで、昨夜の努力がゆっくり崩れていくように思えた。
「……ここは、まだ読めるわ」
阿求が、低く言った。
彼女の手元には、写本の前半の頁がある。
墨は少し滲んでいるが、文字は辛うじて輪郭を保っている。
「でも、中央より後ろは厳しい」
「どれくらい?」
「どれくらい、というのは難しいわね」
阿求は頁を光へ透かした。
和紙の繊維には、茶色い水分がまだ薄く残っている。墨はその水分へ引かれ、縦の線と横の線を曖昧な雲のように広げていた。
「文章として読める部分は、半分も残らないかもしれない」
小鈴は、返事をしなかった。
台所の洗い桶には、茶色く濁った水が溜まっている。
その水を見ていると、自分の中にある何かまで、同じように濁っていく気がした。
小鈴は雑巾を水へ浸した。
絞る。
水が、指の間からぽたり、ぽたりと落ちる。
「ごめんね」
阿求は、すぐには答えなかった。
濡れた頁へ新しい吸い取り紙を重ね、そっと木箱の下へ置く。
それから、ようやく小鈴を見た。
「あなた一人のせいではないわ」
「でも、私が急須を置いた」
「私が原稿を拾おうとした」
「私が写本を出した」
「私が照合しようと言った」
「私が、原稿が外れたと思った」
「私もよ」
阿求は、静かに言った。
二人の間に、少しだけ沈黙が落ちる。
どちらが悪いかを数え始めれば、いくらでも数えられる。
小鈴は急須を置いた。
阿求は原稿を押さえようとした。
返却客は引戸を開けた。
風は紙を煽った。
写本は、棚から出されていた。
そのどれか一つがなければ、茶はかからなかったかもしれない。
だが、どれも誰かが悪意で選んだ行動ではなかった。
「でも、読まなければよかったかもしれない」
小鈴は、絞った雑巾を桶の縁へ置きながら言った。
「原稿を。最初から、阿求が来るところまでしか読まなければ。お茶のことを知らなければ。私は普通にお茶を出して、普通にこぼしたかもしれないけれど、少なくとも、こんなふうに考えすぎなかったかもしれない」
「それは違うわ」
阿求の声は、思ったよりはっきりしていた。
小鈴は顔を上げる。
「どうして?」
「あなたは、原稿を読まなかったとしても、私へお茶を出したでしょう。私は写本を卓に置いていた。いつものように話をし、いつものようにあなたの茶を飲んでいた」
「でも、こぼさなかったかもしれない」
「こぼしたかもしれない」
「阿求」
「分からないことを、都合よく片方だけ選んではいけないわ」
阿求は、写本の端をそっと撫でた。
「読んだから事故が起きたのか。読まなくても起きたのか。私たちには、まだ分からない。だからこそ、あなたが読んだことだけを悪い行為にするのは、あまりに乱暴よ」
「でも、私が読んだから」
「小鈴」
阿求は一度、息を置いた。
「あなたは、読めるから読んだの。そこに文字があって、それがあなたのことを書いていて、しかも私の来訪まで当てた。そんなものを前にして、読まないでいる方が難しいでしょう」
「……難しいわ」
「ええ」
「すごく難しい」
「私も、見たら読みたくなると思う」
小鈴は、阿求の手元の写本を見た。
茶に濡れた紙。
滲んだ墨。
昨夜、自分が一字ずつ、阿求のために書いたもの。
「もう、お茶を淹れるのは嫌」
小鈴は小さく言った。
「分かるわ」
「阿求に出すのも嫌」
「それは少し傷つくわね」
「阿求が悪いんじゃない」
「分かっている」
「湯呑みを見ると、何か起きそうで嫌なの」
「それも分かる」
阿求は、重しの下へ最後の頁を置いた。
それから、少しだけ姿勢を崩し、食卓の脇へ座った。
「しばらくは、何も出さなくていいわ」
「水も?」
「水も」
「お菓子は?」
「お菓子は乾いているから、比較的安全かもしれない」
「阿求」
「冗談よ」
「今の、少しだけ本気だったでしょう」
「小鈴が空腹そうだったから」
小鈴は、思わず笑いそうになった。
笑うほどのことではない。
写本は濡れている。
原稿は卓にある。
朝から何度も、普通ではないことが起きている。
それでも、阿求が「乾いているから安全かもしれない」と言ったことで、胸の底にこびりついていた重さが、ほんの少しだけ動いた。
「阿求って、たまにすごく変な慰め方をするわね」
「歴史編纂者は、慰めより記録の方が得意なの」
「今は記録しないで」
「努力するわ」
「努力じゃなくて、絶対に」
「人間に絶対を求めるものではないわ」
「今は求めるの」
阿求は、少しだけ笑った。
その笑いは長く続かなかった。
卓の上に置かれた原稿用紙へ目が向いたからだ。
二枚目の原稿は、茶をかぶったことで中央の文字が読めなくなっていた。
しかし下端だけは、辛うじて濡れずに残っている。
阿求は、重しの下へ写本を置き終えると、布で手を拭き、原稿を持ち上げた。
紙の端へ残る文字は、朝の光を受けても、以前ほど白く見えない。
何かが起きた後の紙には、紙そのものが知っていることを増やしたような嫌な気配があった。
「……続きがあるわ」
阿求が言った。
小鈴は、すぐには近づかなかった。
「まだ?」
「ええ」
「今日は二枚しかないのに、ずいぶん長いわね」
「紙の大きさに対して、記録する内容が多すぎる」
「記録って言わないで」
「では、文章」
「それも嫌」
「小鈴」
「何?」
「あなた、今日は紙に対してずいぶん感情的ね」
「紙が私に対して感情的なのよ」
阿求は返事をしなかった。
下端に残る文字を、一行ずつ追う。
そして、顔を上げた。
「昼を過ぎる頃、魔理沙が来る」
小鈴の肩が、わずかに強張った。
「……魔理沙が?」
「ええ」
「何しに?」
「そこまでは、はっきり書かれていない」
阿求は紙面を示す。
小鈴は近づき、残った文字を読む。
『――昼を過ぎる頃、霧雨魔理沙は鈴奈庵を訪れる。本居小鈴は、奥の棚に保管していたはずの非売品を、彼女の手に見ることとなる。』
小鈴は、原稿から目を離した。
奥の棚。
非売品。
思い当たる本は、一冊しかない。
「……あの本」
「何の本?」
「昔からある妖魔本よ」
小鈴は、店の一番奥にある鍵付き棚を見た。
昼の光は、その棚まで届かない。
店の中央にある卓や帳場には光が当たっているのに、奥の棚だけは、いつも薄い影の中に置かれている。
「私が小さい頃から、ずっとあそこにあったの」
小鈴は、ゆっくり言った。
「父さんも母さんも、あの本だけは売らなかった。客には見せるな。値札もつけるな。棚から出す時は手を洗えって。それだけ言われていたわ」
「中身は?」
「星図みたいなもの。普通の人には読めない記号。古い文章。途中から文字の形が変わるから、私でも一度に意味をつなげられないところがある」
小鈴は、少しだけ笑った。
「阿求と一緒に調べていたでしょう」
阿求の目が、わずかに細くなった。
「覚えているわ」
「去年の冬。夜が長い時期に。阿求が稗田家の古い記録を持ってきて、私は本の星図を読んで」
「あなたは、星の並びが里の昔話と似ているかもしれないと言った」
「阿求は、その昔話の写本が百年以上前のものだって言った」
「あなたは、百年前でも星は逃げないでしょう、と言った」
「阿求は、星が逃げなくても、それを見る人は間違えるって言った」
「そして、二人とも何も分からなかった」
「お茶だけ冷めた」
「冷めたわね」
小鈴は、奥の棚を見たまま続けた。
「でも、また調べようって言ったでしょう」
「ええ」
「何も分からなかったけれど、次は春に。春に分からなかったら夏に。夏に分からなかったら、秋にそして冬に」
そこまで言って、小鈴は止まった。
原稿には、魔理沙がその本を手に持つと書かれている。
どうして、いつから。
小鈴は、急に胸の奥が冷たくなった。
「先に棚を見ましょう」
阿求が言った。
「本当にあるかどうか、確かめる」
小鈴は頷いた。
奥の棚へ近づく。
歩くたび、右足の小指が痛む。
それでも今は、その痛みがありがたかった。
足が痛いということは、まだ自分が自分の身体にいる証拠のように思えた。
棚の鍵を開ける。
かちり、と金具が鳴った。
小鈴は扉を開いた。
最初に目に入ったのは、いつもの古書だった。
虫食いのある妖怪図鑑。
折り目のついた旅の記録。
誰も借りたがらない、分厚い仏教書。
その隣にあるはずの、本の形をした空間。
小鈴は、息を止めた。
そこには、本がなかった。
「……ない」
声が掠れた。
棚の奥には、長いあいだ置かれていた本の形に沿って、埃が薄く残っている。
その空いた場所だけが、妙に白く見えた。
小鈴は手を伸ばす。
棚の奥へ。
触れるはずだった革表紙を探す。
金箔のざらつき。
角の形。
紙の冷たさ。
しかし、何もない。
「ない……」
小鈴は、もう一度言った。
今度は、声が少し大きかった。
阿求が横から棚の中を覗き込む。
「いつからないの?」
「分からない」
「昨日はあった?」
「……あった、はず」
「はず?」
「数日前、魔理沙が来る前には、絶対にあったわ」
小鈴は、あの午後を思い出した。
阿求へ渡す写本の元になる記録を探すため、棚を開けた。
妖魔本は確かにあった。
二本の角。
魚の尾のような獣。
鈍い金箔の星。
小鈴はその本を少しだけ手前へずらし、隣の記録を取り出した。
その時、魔理沙は店の別の棚を見ていた。
小鈴は帳場へ戻った。
戻った時、棚の扉は閉じていた。
鍵もかかっていた。
(私が閉めた?)
そう思っていた。
そう思い込んでいた。
「魔理沙」
小鈴は低い声で言った。
「魔理沙が持っていったの?」
「まだ決めるのは早いわ」
「でも、原稿には魔理沙の手にあるって」
「原稿が正しいとも限らない」
「阿求」
小鈴は振り返った。
「原稿は、今まで全部当たっているわ」
阿求は答えなかった。
その沈黙が、肯定のように聞こえた。
小鈴は棚の扉を閉めた。
鍵をかける。
もう中には、守るべき本がない。
鍵の音は、いつもよりひどく空虚だった。
店の中央の卓へ戻ると、阿求は原稿の二重線へ目を落とした。
魔理沙の名が書かれた段落のすぐ上。
そこにも、細い二重線が残っている。
「小鈴」
「何」
「ここ、読める?」
小鈴は紙の前へ座った。
初めて、意識して二重線の下へ目を凝らす。
ただ見ようとするのではない。
文字として受け取ろうとする。
黒い線の向こう側には、細く潰れた文字がある。
最初は、何も読めなかった。
しかし、しばらくすると、その黒の中から、一つずつ意味が浮かび上がってくる。
霧雨。
魔理沙。
数日前。
店主の目を盗み。
奥の棚。
一冊。
「…なんとか…読める」
小鈴の声が震えた。
阿求は身を乗り出した。
「何て書いてあるの?」
「『数日前、霧雨魔理沙は、店主の目を盗み、奥の棚から一冊の本を抜き取った』」
阿求の表情が固まった。
「続きは?」
「『彼女は、それを借りたものと考え、返す時を先延ばしにする』……」
小鈴は、そこで言葉を止めた。
「借りた?」
阿求の声は冷たかった。
「無断で?」
「魔理沙だから」
「それは理由にならないわ」
「分かっている」
「あなた、怒っているの?」
「怒っているわよ」
小鈴は、原稿を睨んだ。
「でも、魔理沙に怒るのと、この紙に怒るのが、今は混ざっているの」
阿求は、少しだけ口を閉じた。
それから、二重線の下にある文字を、自分の記憶へ刻み込むように見つめた。
「原稿は、未来だけを書いているわけではない」
「過去も知っている」
「私たちが知らなかった過去を、ね」
「だったら、魔理沙が来る前に本を隠しても意味がなかった」
「そもそも、本はもう店にない」
「……最初から、私たちが負けていたみたい」
「まだ、そう決めるには早いわ」
阿求は、珍しく少し強い声で言った。
「本が返ってくる可能性はある。原稿が書いたのは、魔理沙が本を手にして来る、ということだけよ。なら、まずは返してもらう」
「返してもらっても、もし傷ついていたら?」
「その時は」
阿求は、少しだけ息を吐いた。
「その時は、魔理沙に責任を取らせましょう」
小鈴は、少しだけ笑いそうになった。
「阿求、怖い」
「当然でしょう。あなたの大事な本でしょう」
「阿求にとっても、研究していた本よ」
「だから、二人分の責任を取らせるの」
「二人分」
阿求は、ほんの少しだけ顎を上げた。
「逃げられると思わないことね、霧雨魔理沙」
昼が過ぎる頃、鈴奈庵の表にはいつもの陽が差していた。
朝の騒ぎを知らない客が、二人ほど本を借りに来た。
一人は寺子屋帰りの少年で、前に借りた妖怪の昔話を返し、今度は剣豪の話が読みたいと言った。
小鈴はいつものように棚へ案内し、背表紙を見せ、読めない字があったら持ってくるように言った。
もう一人は近所に住む年配の女で、娘が嫁に行く前に読んでいた恋愛小説の続きを探していた。
小鈴は帳場で貸出帳を開き、いつもの筆で名前を書いた。
手は動く。
声も出る。
店主としての仕事は、まだできる。
けれど、店の奥にある空の棚が、ずっと視界の端に残っていた。
阿求は中央の卓に座り、濡れた原稿を布の上へ置いている。
客には、古い研究資料を見ているのだと説明した。
誰も疑わなかった。
人間の里では、阿求が難しい顔で紙を見ていることは、それほど珍しいことではない。
やがて、表の引戸が勢いよく開いた。
ガラガラ、と。
「よお小鈴!いるか?」
聞き慣れた声。
黒い三角帽子。
背には箒。
霧雨魔理沙が、昼の光を背負って鈴奈庵へ入ってきた。
小鈴の背中が、ぴんと固まった。
阿求も、原稿から目を上げる。
魔理沙は二人の空気に気づかず、いつもの調子で笑った。
「お、阿求もいるのか。珍しいな」
「あら、魔理沙」
阿求の声は、驚くほど穏やかだった。
「ちょうどいいところに来たわ」
「何だよ。その言い方、妙に怖いぜ」
「気のせいよ」
「阿求が気のせいって言う時は、大抵気のせいじゃないんだよな」
魔理沙は、店の中を見回した。
小鈴は、できるだけ自然な顔を作った。
自然な顔とは、どんな顔だっただろう。
客へ本を薦める時の顔か。
返却期限を過ぎた客を問い詰める時の顔か。
大切な本を無断で持ち出したかもしれない相手を見ている時の顔か。
最後のものは、普段あまり使わない。
「あら魔理沙、いらっしゃい」
小鈴は言った。
声が少しだけ高かった。
「……何か飲む?」
言った直後、自分で凍った。
阿求も、ほんの少しだけ眉を動かした。
魔理沙は気づかない。
「お、珍しいな。じゃあ茶でも」
「駄目」
小鈴の声が、店内に響いた。
魔理沙が瞬きをする。
「え?」
「今日は、茶は駄目なの」
「どういう日だよ」
「…いろいろあったの」
「そんな日あるのか?」
「あるのよ」
「小鈴」
阿求が、柔らかく言った。
「魔理沙に水を出してあげたら?」
「水も駄目」
「何ならいいの?」
魔理沙が本気で怪訝そうな顔をした。
小鈴は答えに詰まった時、阿求が助け舟を出す。
「今日は店の中で、少し水をこぼしたのよ。小鈴が過敏になっているだけ」
「そうそう。水も茶も、今日は危ないの」
「何があったんだ?」
「…後で話すわ」
魔理沙は、しばらく二人を見た。
「……何か、お前ら怖いぞ」
「気のせいよ」
阿求は、先ほどと同じ言葉を使った。
魔理沙はますます疑わしそうな顔をした。
「で、今日は何しに来たの?」
小鈴が訊く。
「何しにって、本を返しに」
魔理沙は答えた。
小鈴と阿求の間に、見えない緊張が走る。
「何の本?」
小鈴の声は、思ったより低かった。
「ああ、ちょっと前に借りたやつ」
「どこから?」
「どこからって、鈴奈庵からだよ」
「どの棚から?」
「何だよ、取り調べか?」
「答えて」
魔理沙は、少しだけ顔をしかめた。
「奥の方の棚だったと思うぜ。お前が帳場で何か書いていた時にな」
小鈴の指先が、冷たくなった。
「鍵は?」
「何の鍵?」
「奥の棚、鍵がかかっていたでしょう」
魔理沙は一瞬、言葉を止めた。
「……ああ。あれか」
「どうやって開けたの?」
「開いていたぜ」
「開いていた?」
「お前が何か探してた時、開けたままだったんじゃないか?」
小鈴は、数日前の午後を思い出す。
阿求へ渡す写本の元になる記録を探すため、棚を開けた。
妖魔本を少し動かし、隣の本を取り出した。
その時、魔理沙は店内の別の棚を見ていた。
小鈴は帳場へ戻った。
鍵をかけたと思っていた。
思っていただけかもしれない。
「……借りたって、私に言った?」
「言ってないな」
「じゃあ、借りたんじゃなくて、持っていっただけでしょう!」
「返しに来たんだから、今から借りたことになるだろ」
「ならないわよ!」
「なるぜ」
「ならない!」
「なる!」
「二人とも、そこまでにしなさい」
阿求の声が割って入った。
魔理沙は口を閉じた。
小鈴はまだ怒っていた。
「魔理沙。返す本を見せて」
阿求は、静かに言った。
魔理沙は、二人の顔を見比べた。
「……何だよ。そんなに大事な本だったのか?」
「見せて」
阿求の声は変わらない。
しかし、魔理沙は少しだけ後ずさった。
「分かったよ」
魔理沙は背に負った鞄ではなく、着物の内側へ手を入れた。
小鈴の心臓が、嫌な音を立てた。
魔理沙が取り出したのは、一冊の古い本だった。
厚い革表紙。
二本の細長い角。
下半身は魚の尾のように捻れた獣。
そして、金箔で刻まれていたはずの星図。
「あ」
小鈴の声が、喉の奥で止まった。
それは、間違いなく鈴奈庵の妖魔本だった。
幼い頃から奥の棚にあった本。
両親から、売ってはいけないと言われた本。
阿求と何度も頁を繰り、分からない星図を見つめた本。
魔理沙の手の中にあるその本は、しかし、小鈴の知っている姿とは少し違っていた。
表紙は湿っていた。
金箔の星図には、細かなひびが走っている。
頁の間からは、かすかに薬草とも腐った草ともつかない、甘く苦い匂いが漏れていた。
「……それ」
小鈴は、やっと言った。
「それ、どうしたの」
魔理沙は、少し困ったように頭を掻いた。
「いや、ちょっと魔法の森で調べてたんだよ。中の星図が、魔法陣の配置に使えそうでさ」
「森へ持って行ったの?」
「少しだけ」
「少しだけ?」
「まあ、数日」
「数日!?」
「返そうと思っていたんだぜ」
「返すつもりなら、最初から持っていかないでよ!」
「それはそうなんだけど」
魔理沙は、本の頁の間を見た。
「それでさ。途中で、キノコの抽出液を作っていたんだ。こいつが星の光に反応するか見たくて」
阿求の顔色が変わった。
「本と薬液を、同じ鞄へ入れたの?」
「入れた」
「瓶の蓋は?」
「閉めた」
「確実に?」
「……多分」
「魔理沙」
阿求の声は静かだった。
だからこそ、魔理沙は少しだけ後ずさった。
「何だよ」
「その『多分』という言葉を、今すぐ別の言葉へ書き直せるなら、そうしてほしいわ」
「できないけど」
「そう」
阿求は、目を細めた。
魔理沙は急いで続けた。
「でも、ほんの少し染みた程度だぜ。頁が少しベタついているだけで、中身は大丈夫だと思う。見た目もそんなに変わってないし」
「見せて」
小鈴は言った。
「中を見せて」
「待て、小鈴」
阿求が止めた。
「今は開かない方がいい」
「でも、確認しないと」
「薬液が何か分からない」
「だからこそ確認するのよ」
小鈴の声は、震えていた。
魔理沙は本を差し出し、小鈴はそれを受け取る。
革表紙は、昔から少しだけ冷たかった。
何度も触ったことがある。
幼い頃から鈴奈庵にあり、両親から触れるなと言われていた本だった。阿求と二人で星図を調べたこともある。
小鈴は、表紙の二本の角へ指を触れた。
ひびの入った金箔が、指先にかすかにざらつく。
「小鈴、駄目」
阿求の声が、少し遠く聞こえた。
「本当に、開かないで」
「少しだけ」
小鈴は答えた。
「少しだけ、中を見るだけ」
表紙を開く。
その瞬間だった。
――パリ。
乾いた、細い音がした。
頁の間から、紫色の火花が散った。
「え?」
小鈴の手の中で、本が震えた。
薬液の匂いが、急に強くなる。
甘く、苦く、湿った土のような匂い。
頁の隙間に染み込んでいた液体が、空気へ触れた。
そして、小鈴が文字を読むために本へ向けた、微かな力へ反応した。
チリチリ、と紫の光が走る。
「閉じて!」
阿求が叫んだ。
小鈴は表紙を閉じようとした。
しかし、頁が内側から膨らんだ。
後半の紙が、黒い液体へ変わり始める。
墨で書かれた文字は、紙から剥がれるように浮き上がり、そのまま黒い染みへ溶け込んでいった。
「あ……」
小鈴の声が消える。
表紙の金箔が、ひびの間から剥がれた。
星が一つ、二つと落ちる。
二本の角の周囲に刻まれていた星の並びは、金色の粉となって、畳へ散った。
小鈴は、溶けていく頁を見た。
見たくなかった。
だが、読める。
読めてしまう。
文字が失われる、その瞬間だけ。
意味が、彼女の中へ流れ込んでくる。
二本の角。南へ沈む星。冬の空。石の門。地を這うもの。
そして、そのすべての奥に、名前ではない何かがあった。
けれど、それを掴む前に、後半の頁は黒い液体となって崩れた。
「嫌……」
小鈴は、本を抱えたまま固まった。
頁が、指の間から落ちる。
黒い液体が畳へ垂れる。
魔理沙が、顔を青くして後ずさった。
「わ、悪い。こんな反応するとは思わなかったんだ」
小鈴は返事をしなかった。
できなかった。
阿求が急いで布を持ってきて、畳へ落ちる黒い液体を受ける。
その手は動いていた。
しかし、阿求の顔も白かった。
「……後半の頁が全部、読めなくなった」
阿求の声は低かった。
「星図も」
小鈴は、表紙を見た。
金箔の大半は失われていた。
星の位置は、もう分からない。
残っているのは、二本の角を持つ獣の輪郭と、その角の間に、剥がれ落ちずに残った小さな金の点だけだった。
それが星なのか、傷なのか、小鈴には分からなかった。
ただ、その一点だけが、妙に鈍く光っていた。
「……これ」
小鈴は、かすれた声で言った。
「小さい頃から、ずっとあった本なのよ」
魔理沙は動かなかった。
阿求も、黒い液体を拭う手を止めた。
「父さんも母さんも、売るなって言っていた。客には見せるなって。何が書いてあるか分からなくても、これは鈴奈庵に置いておく本なんだって」
小鈴の目に、涙が溜まった。
「私、店を継いでから、阿求と一緒に調べていたのよ」
阿求は、何も言わなかった。
小鈴は、溶けた頁を見たまま話した。
「阿求が持ってきた古い記録と比べて。星の並びが似ているとか、記号の形が違うとか、全然分からないことばっかり言って。でも、いつか読めるかもしれないって思っていた」
涙が、一滴だけ頬を落ちた。
「分からないままでも、ずっとそこにあればいいって思っていたの。いつか時間ができたら、また阿求と開いて。今度こそ何か分かるかもしれないって」
鈴奈庵の中が、気まずいほど静かになった。
魔理沙は、帽子のつばを押さえたまま、何も言えない。
普段なら、何か軽口を叩く。
言い訳をする。
笑って誤魔化す。
けれど今は、そのどれもできないようだった。
「……悪かった」
魔理沙が、やっと言った。
声は小さかった。
「借りるって言わなかったのも。森へ持って行ったのも。薬を一緒に入れたのも。全部、悪かった」
小鈴は答えなかった。
怒鳴ることもできなかった。
怒りより先に、何かが胸の奥で沈んでいた。
阿求が、静かに立ち上がる。
「魔理沙」
「……何だよ」
「今日は帰りなさい」
阿求の声は、冷たかった。
「この本のことも、薬液の成分も、あなたが何をしたかも。後で改めて聞くわ」
「分かった」
「逃げないで」
「逃げない」
「本当に?」
「……逃げない」
魔理沙は、小鈴を見た。
小鈴は、まだ表紙を抱えている。
魔理沙は何か言おうとした。
けれど、結局何も言わなかった。
「悪かった」
もう一度だけ言って、魔理沙は引戸へ向かった。
箒を背負い直す動作まで、いつもより遅かった。
引戸が開く。
昼の光が一度、店の中へ強く入る。
そして魔理沙の姿が消えると、鈴奈庵には、薬液の匂いと、濡れた紙の匂いだけが残った。
小鈴は、畳の上に座り込んでいた。
表紙だけが残った妖魔本を、膝の上に置いている。
後半の頁は、黒い染みと、形を失った紙の塊になっていた。阿求が一枚でも救えないかと試したが、紙は触れただけで崩れた。
「……ごめんね」
小鈴は、誰に言うでもなく呟いた。
阿求が、隣へ座る。
「小鈴」
「私が開いたから」
「違うわ」
「でも、私が開かなければ」
「それは、まだ分からない」
「でも」
「分からないことを、全部あなたのせいにしてはいけない」
阿求は、表紙の金箔が剥がれた跡を見た。
「魔理沙が持ち出した。本を森へ運んだ。薬液を染み込ませた。あなたは、それを確かめようとしただけよ」
「でも、開いた」
「あなたは、読む人だから」
阿求の声は、静かだった。
「読まなければならない時に、読もうとした。それは罪ではないわ」
小鈴は、唇を噛んだ。
「でも、読んだ結果、消えた」
「消える前に、あなたは何か読んだでしょう」
小鈴は、目を閉じた。
二本の角。南へ沈む星。冬の空。石の門。地を這うもの。
「……分からない」
「断片でもいいわ」
「角。星。冬。門。そんなもの」
阿求は、すぐに懐から紙と筆を取り出した。
墨を磨る時間はない。
筆先へ残っていた墨を使い、紙へ書きつける。
・二本の角
・南へ沈む星
・冬の空
・石の門
・地を這うもの
「それだけ?」
「それだけ」
「星の位置は?」
「見えたけど、覚えられない。金箔が剥がれるのが早すぎた」
「私が、少しだけ覚えている」
阿求は、表紙へ顔を近づけた。
「完全ではないけれど。角の間にあった星は、他より少し低かった。右側の星が三つ、左側が二つ。……いえ、違う。左側は、もっと下に一つ」
阿求は紙へ、歪な点を打っていく。
それは星図とは呼べない。
ただ、失われたものの痕跡だった。
「阿求」
「何?」
「それ、意味があるの?」
「今は分からない」
「また分からない」
「でも、残すことはできる」
阿求は紙へ目を落とした。
「分からないものでも、残しておけば、後で分かるかもしれない」
小鈴は、少しだけ表紙を撫でた。
二本の角の間に、小さな金の点が残っている。
星なのか、傷なのか、分からない。
けれど、それだけが、まだ失われていなかった。
卓の上では、濡れた原稿用紙が、昼の光を受けていた。
阿求はふと、その紙へ目を向ける。
二枚目の下端。
魔理沙の来訪を記した段落の下。
そこには、さっきまで見覚えのなかった二重線があった。
ただし、新しい文字は増えていない。
余白に何かが浮かんだわけでもない。
書かれていた文章の一部が、黒い線で消されているだけだった。
「小鈴」
「何?」
「ここ」
阿求は原稿を指した。
小鈴は、ゆっくりと立ち上がり、卓へ近づく。
二重線の下には、かすかに読める文字がある。
小鈴は目を凝らした。
魔理沙。
返却。
妖魔本。
そして、その後に続く一文。
「……『本居小鈴は、失われた頁の中から、後に道標となるものを読むこととなる』」
小鈴の声が、わずかに震えた。
「でも、私、何も読めなかった」
「断片は読んだでしょう」
「角と星と門だけよ」
「それで十分かもしれない」
「何が十分なのよ」
阿求は答えなかった。
原稿の二重線は、すでに乾いている。
新しい文字はない。
ただ、そこには確かに、書き手が一度書いた未来を消した跡がある。
小鈴は、表紙だけになった妖魔本を見た。
阿求は、紙へ写した不完全な星図を見た。
魔理沙は、もう店にはいない。
昼の里は、何も知らないまま、いつものように動いている。
小鈴は、胸の奥に残った重さを抱えながら、静かに呟いた。
「……あの本、いつか元に戻せるかな」
阿求は、すぐには答えなかった。
けれど、少ししてから、はっきりと言った。
「戻す方法を探しましょう」
「分からないのに?」
「分からないからよ」
阿求は、小鈴の方を見た。
「あなたが読む。私が残す。二人で調べる。それは、あの本を開いた時から、ずっとそうだったでしょう」
小鈴は、泣きそうな顔のまま、少しだけ笑った。
「……うん」
鈴奈庵の午後は、長かった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第三話では、小鈴にとって大切なものが失われました。
けれど、失われたものの中に、まだ残っているものもあります。
小鈴が読み、阿求が残す。二人で調べる。
その関係は、これからも物語の中心になります。
次回もよろしくお願いします。