怖い思いもあれば、悲しい思いもありました。
けれど、二人はまだ一緒にいます。
今回も、紙に書かれたことが現実になるのかどうか、二人のやり取りを見守っていただけましたら嬉しいです。
それでは、どうぞ。
霧雨魔理沙が鈴奈庵を去った後、店の中には、妙に広い静けさが残った。
引戸が閉じる音は、いつもなら客が帰ったことを知らせるだけの、ありふれた木の音にすぎない。
しかしその日は違った。
箒の風を残して去った魔法使いの背中とともに、店の中から何かまで持ち去られたように思えた。あるいは逆に、魔理沙が置いていった薬液の甘い腐臭と、黒く溶けた頁の残骸が、鈴奈庵の隅々へ根を張り始めたようにも思えた。
小鈴はしばらく、畳の上へ座り込んだままだった。
膝の上には、表紙だけが残った妖魔本がある。
二本の細長い角。
魚の尾のように捻れた獣。
剥がれた金箔の跡。
そして、角の間に残った小さな金の点。
それは星なのか、傷なのか、小鈴には分からなかった。
けれど、そこにまだ何かが残っているという事実だけが、今は痛かった。
阿求は、畳へ落ちた黒い液体を布で受けていた。
薬液と、溶けた羊皮紙と、読めなくなった文字の残骸が混じったものは、ただの汚れには見えない。布が吸い取るたび、その黒は少しだけ茶色に薄まり、しかし匂いだけは消えずに残った。
湿った土のような臭い。
焦げた薬草のような苦い臭い。
そして、紙が長いあいだ水分を吸った時にだけ出す、古く甘い臭い。
小鈴は、それを嗅ぐたびに、胸の奥が冷たくなった。
「……阿求」
「何?」
「それ、取れる?」
阿求は黒い染みを見た。
布を裏返し、まだ白い面で畳を押さえる。
「完全には難しいでしょうね」
「畳も?」
「畳も」
「本も?」
阿求の手が、止まった。
「……本も」
小鈴は、表紙を抱え直した。
返事を聞きたかったわけではない。
聞けば、何か違う答えが返ってくると思ったわけでもない。
ただ、誰かに言わせなければ、自分の中で起きたことが本当になってしまう気がした。
妖魔本の後半頁は、もう戻らない。
星図の大半は、金の粉になって畳へ落ちた。
阿求と何度も広げた、意味の分からない記号たちは、黒い液体となって布へ吸い取られた。
「朝から、何なのよ……本当に」
小鈴は、誰にともなく言い、表紙の金の点を指で撫でた。
「何なのよ、本当に」
阿求は答えなかった。
いや、答えられなかった。
原稿用紙は、店の中央の卓に置かれている。
二枚の紙は、茶に濡れた箇所と、乾いた箇所と、二重線で塗り潰された箇所を抱え、昼の終わりへ近づく光を吸っていた。
紙は何も言わない。
そこにあるだけだ。
それが、小鈴には腹立たしかった。
夕刻まで、小鈴は店を閉めなかった。
閉める理由を、見つけられなかった。
客が来るかもしれない。
本を返す者がいるかもしれない。
いつものように引戸を閉め、札を裏返し、帳簿を片づける。その当たり前の手順を止めてしまえば、今日という日が、原稿に書かれた怪異のためだけに存在したことになってしまう気がした。
だから小鈴は、いつも通りに振る舞おうとした。
畳を拭き、帳場を拭く。
黒い薬液が染みた布を洗う。
水を替え、また洗う。
桶の水は何度替えても、どこかに黒さを残した。
小鈴は、洗い桶の水面を見ていた。
水面には、夕方の光が揺れている。
その光の下に、墨のような黒が薄く沈む。黒いものは、どれだけ水を替えても、すぐには消えない。
小鈴はそれを見て、急に、妖魔本の頁が自分の手の中で溶けた瞬間を思い出した。
慌てて目を逸らす。
店の本棚へ向かった。
返却された本を元の位置へ戻す。
背表紙を撫で、順番を整え、棚の端に寄っていた巻物を奥へ押し込む。
いつもの作業だった。
小鈴が鈴奈庵を継いでから、何度も繰り返してきた作業。
本を棚へ戻す時、小鈴はいつも、どこへ置くべきか迷わない。
昔話は昔話の隣。
旅の記録は旅の記録の隣。
恋愛小説は、借りる者が多いので、取り出しやすい高さ。
寺子屋の読本は、子どもでも届く棚。
それぞれの本には居場所がある。
だから、本がなくなった棚だけは、どうしても見ないようにした。
奥の鍵付き棚。
あの妖魔本があった場所。
小鈴はそこへ背を向けたまま、表の引戸を閉めた。
ガラガラ、と木枠が鳴る。
夕方の光が、戸の隙間から細くなっていく。
店の中は、少しずつ暗くなる。
いつもなら、灯火をつける前のこの時間が小鈴は嫌いではなかった。本棚の影が深くなり、昼間とは違う本の顔が見える。客のいなくなった店に、紙と木と古い綴じ糸の匂いだけが残る。
けれど今日は、棚の影がどれも何かを隠しているように見えた。
阿求は、夕方になる少し前に帰った。
濡れた写本のうち、辛うじて読める頁だけを、重しと吸い取り紙に挟んだまま持ち帰った。妖魔本の残骸は小鈴のもとへ残した。
「明日、また来るわ」
阿求はそう言った。
小鈴も「うん」と答えた。
それだけだった。
普段なら、帰り際に次に調べる本の話をする。
阿求が里の記録を持ってくると言い、小鈴が店にある本を探しておくと言う。
今日は、次の話ができなかった。
次に何を調べればいいのか、二人ともまだ分からなかった。
日が完全に落ちた頃、小鈴はようやく居住スペースへ戻った。
腹は空いていた。
昼からまともに何も食べていない。
だが、食卓へ座っても、何を作るべきかすぐには思いつかなかった。
台所には、朝の残りの冷や飯がある。
漬物が少し。
昨日の惣菜の残り。
火鉢の炭は、昼に使ったまま、灰の中で弱く赤い。
小鈴は、それらを見た。
何か、温かいものを食べた方がいい。
そう思った。
温かい汁物。炊きたての米。煮物。
いつもなら、そういうものを作る。
しかし今日は、湯を沸かす音が少し怖い。
急須の蓋が傾く光景が、頭の奥に残っている。
「……今日は、冷や飯でいいわ」
小鈴は自分へ言った。
冷や飯を椀へよそい、漬物と残りの惣菜を並べる。
いつもより少し多めに、米を盛った。
昼から続く心労を、米で埋められるとは思わない。
けれど、腹が減ったままでは、考えることすらできない。
小鈴は、食卓へ座った。
右足の小指は、まだ痛い。
足袋を脱いで見ると、少し赤くなっていた。
「……明日は絶対、足袋を厚くする」
誰もいない台所で言う。
箸を持つ。
冷や飯を口へ運ぶ。
米は固い。
漬物は塩辛い。
残りの惣菜は、油が冷えて白くなっていた。
それでも、食べられないほどではない。
小鈴は、ゆっくり噛んだ。
噛むたび、頭の中にいろいろなものが浮かんでくる。
黒く溶けた頁。
魔理沙の「借りたんだぜ」という声。
阿求が紙へ書いた不完全な星図。
原稿の二重線。
そこに残されていた「道標」という言葉。
道標。
何の道標なのか。
どこへ向かう道なのか。
妖魔本は、何を示していたのか。
小鈴は考えすぎて、箸を持ったまま動かなくなった。
そして、食卓から半歩だけ後ろへ下がった。
左足の小指が、水屋箪笥の角へ激突した。
「う、うあぁ……っ!!ぬ、ううううっっっ!!」
声にならない悲鳴が、台所へ響いた。
小鈴は、右足の時とほとんど同じ姿勢で、その場へ崩れ落ちた。
ただし今度は、左足を抱え込んでいる。
左右の小指が、申し合わせたように脈打っていた。
小鈴は片方の足を押さえながら、もう片方の足まで庇うという、どうにも格好のつかない姿勢で床へ座り込んだ。
目の端に涙が溜まる。
「な、何なのよ……!」
怒りが、痛みより先に出た。
(今日は何なのよ、本当に!私が何をしたっていうの!)
朝から階段で死にかけた。
右足の小指をぶつけた。
写本を濡らした。
妖魔本を失った。
今度は、左足の小指。
(これはもう、偶然じゃないわ。幻想郷全体が、私の小指を狙っているのよ)
小鈴は、涙目のまま台所を睨んだ。
(魔理沙が悪い。幻想郷全ての厄を背負って、ここに来て本を溶かした。霊夢も悪い。博麗神社で、何か適当なお祓いをして、余った厄を里へ落としたに違いないわ)
そこで、一瞬だけ、八雲紫の顔も浮かんだ。
(あと紫。あの人なら、理由もなく人の足元に箪笥を置きそう)
水屋箪笥は、昨日も今日も、同じ場所にある。
小鈴も、それを知っている。
それでも痛い時には、理屈より先に犯人が必要だった。
「……なんていう厄日よ」
小鈴は、声を震わせながら言った。
「厄日以外の何物でもないわ」
左足を引きずりながら食卓へ戻る。
椀の前へ座る。
左右の足を、できるだけ畳へ触れないように浮かせる。
それは食事の姿勢としてあまりに不自然だったが、今の小鈴には、体裁を気にする余裕がなかった。
「いただきます」
誰もいない食卓へ言う。
冷や飯を、少し乱暴に口へ運ぶ。
漬物を噛む。
「今日は、食べてやる」
何に向かって宣言しているのか、小鈴自身にも分からなかった。
原稿か。
厄日か。
箪笥か。
それとも、今日という一日そのものか。
食事を終えると、小鈴は風呂へ入った。
湯船の中で、左右の小指を見た。
右は少し赤く、左も少し赤い。
湯の中で見ると、二つの小指は、何かの罰を受けたように見えた。
「……絶対に認めないんだから」
小鈴は湯気の中で呟いた。
何を認めないのか、自分でもはっきりしない。
原稿が不気味なこと。
妖魔本が失われたこと。
魔理沙が悪かったこと。
今日が厄日だったこと。
あるいは、自分が怖がっていること。
風呂から上がり、新しい寝間着へ着替える。
髪を軽く拭く。
屋根裏部屋へ上がる。
木製階段は、朝に足を滑らせた場所だった。
小鈴は、片手で手摺りを掴み、左右の足元を睨みながら、一段ずつ上がった。
「今日は、もう何もしないで」
階段へ言う。
階段は、もちろん返事をしない。
屋根裏の布団へ潜り込む。
枕を叩く。
左右の足を布団の外へ少し出す。
そして、小鈴は、逃げるように目を閉じた。
原稿のことを考えない。
妖魔本のことも考えない。
阿求の顔も、魔理沙の顔も、金の一点も、黒い頁も考えない。
そう決めた。
決めたが、眠りへ落ちる直前まで、黒い二重線だけが瞼の裏に残っていた。
阿求が稗田邸へ戻った時、里はすでに夕方の色をしていた。
人間の里の夕暮れは、昼よりも多くの音を抱えている。
店を閉める引戸の音。
夕餉の支度をする包丁の音。
子どもを呼ぶ母親の声。
帰りを急ぐ者の草履。
どこかで犬が鳴き、遠くで寺の鐘が鳴る。
阿求は、それらを一つずつ聞いた。
一度聞いたものを忘れない能力は、時に便利で、時に残酷だった。
いつもなら、里の夕方は阿求にとって記録すべきものだった。
どの店が早く閉まるか。
どの家から新しい子どもの声がするか。
どの通りに荷車の轍が増えたか。
そういう細かな変化を知っていることは、御阿礼の子としての仕事に繋がる。
しかし今日は、何も記録したくなかった。
夕日の色も。
薬液の匂いも。
小鈴が涙をこらえながら妖魔本の表紙を抱えていた姿も。
魔理沙が帽子のつばを押さえ、何も言えなくなった横顔も。
すべて、忘れられるなら忘れたかった。
けれど阿求の記憶は、忘れることを許さない。
稗田邸の門をくぐる。
使用人が出迎える。
「お帰りなさいませ、阿求様。ずいぶんお疲れのようですが」
「少し、長居をしてしまっただけよ」
「夕餉は、すぐにお持ちしますか?」
「ええ」
阿求は、いつも通りに答えた。
いつも通りに歩く。
いつも通りに着物の裾を整える。
いつも通りに、使用人へ礼を言う。
けれど、袂に入れた原稿用紙が、歩くたびに脇腹へ触れる。
二枚の紙は、薄い。
薄いのに、石でも入れているように重かった。
夕餉は、稗田家らしく整っていた。
白米。
季節の野菜を使った薄味の汁物。
丁寧に焼かれた川魚。
小さな皿に盛られた煮物。
朝、小鈴が食べていた冷や飯と漬物とは違う。
だが阿求は、味をほとんど感じなかった。
箸を上げる。
魚をほぐす。
米を口へ運ぶ。
身体は、長く覚えた所作を正確に繰り返す。
しかし、口の中へ入ったものが、何の味をしているのかは分からない。
「阿求様」
控えていた使用人が、慎重に声をかけた。
「お加減が優れませんか?」
「いいえ。少し眠りが浅かっただけよ」
「昨夜は、お休みになれなかったのですか?」
阿求は、少しだけ箸を止めた。
「眠ったわ」
それは嘘ではなかった。
ほんのわずかな時間だけ、眠った。
しかし目を閉じるたび、原稿の二重線が瞼の裏へ浮かんだ。
眠りへ落ちる直前、あの黒い線だけが、誰かの爪痕のように濃くなる。
阿求は何度も目を開けた。
目を開ければ天井がある。
閉じれば原稿がある。
どちらにも、休める場所はなかった。
「ご心配には及ばないわ」
阿求は、使用人へ微笑んだ。
その微笑みは、鏡で練習したものと同じ形をしていた。
翌朝。
稗田邸の庭には、まだ朝霧が残っていた。
庭木の葉先には露が溜まり、石畳の隙間には夜の湿り気が残っている。庭の端にある池は薄い白を抱え、鯉の影だけが、水の底でゆっくり動いていた。
阿求は、障子の向こうの白さで目を覚ました。
昨夜よりも早く目が開いた。
眠れたわけではない。
眠りの浅い底を、何度も浮き沈みしていただけだった。
「阿求様。お目覚めですか」
寝所の外から、使用人の声がした。
「ええ」
阿求は答えた。
声は、自分で思ったより普通だった。
使用人が障子を開ける。
朝の光が、部屋へ入る。
阿求は布団から起き上がり、寝間着の裾を整えた。
鏡の前へ座る。
鏡の中には、いつもの阿求がいる。
髪は少し乱れている。
目の下には、わずかな隈がある。
顔色は、昨日より少し白い。
阿求は鏡の中の自分を見た。
その顔が、昨日の鈴奈庵で原稿を見ていた顔と重なる。
すぐに目を逸らした。
使用人が、今日の着物をいくつか差し出す。
藤色、紫、淡い青。
阿求は、いつもの深い藤色の着物を選んだ。
袖を通す。
帯を締める。
長い髪を梳かしてもらう。
櫛の歯が髪を通る音は、規則正しかった。
その規則正しさが、阿求には少しだけ救いだった。
着替えを終え、朝餉を取る。
昨日と同じような食事。
白米。
汁物。
川魚。
季節の野菜。
阿求は、昨日より少しだけ味を感じた。
汁物の薄い塩気。
魚の皮の香ばしさ。
温かい米の甘み。
味がするということに、阿求は少し驚いた。
世界は、まだ昨日と同じように朝を作っている。
そのことが、少しだけありがたく、少しだけ怖かった。
朝餉の後、阿求は編纂室へ向かった。
そこには、何代もの御阿礼の子が使ってきた重厚な机がある。
机の上には、昨日までに書き進めた『幻想郷縁起』の和綴じ本、里から持ち込まれた記録、硯、筆、紙が整然と並んでいた。
阿求は椅子へ座り、墨を磨る。
硯の中で、固い墨がゆっくり削れていく。
水へ黒が広がる。
丸く、静かに、底のない色が広がる。
阿求の手が、止まった。
原稿の二重線を思い出した。
黒い線。
紙に沈む墨。
読めないように消された文章。
阿求は目を閉じ、息を整える。
「……ただの墨よ」
小さく言った。
硯の中の墨は、何も答えない。
阿求は筆を取り、午前の仕事を始めた。
里で起きた小さな妖怪被害の報告。
寺子屋から届いた古い伝承の写し。
山で見つかった不思議な足跡についての記録。
仕事を進める。
筆は滑る。
文字は整う。
仕事をしている間だけは、自分が何かを記す側に戻れた。
原稿に書かれる側ではなく。
昼前。
一通りの記録を整理し終えた頃、使用人が編纂室の襖の外から声をかけた。
「阿求様。お手紙が届いております」
阿求の筆が止まった。
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
「……手紙?」
「はい。封はございませんが、お名前が」
阿求は、すぐに返事をしなかった。
昨日の原稿は、封筒にも入っていなかった。
鈴奈庵に届いた紙も、差出人の名はなかった。
それでも、ただの手紙かもしれない。
里の誰かからの問い合わせかもしれない。
仕事の記録かもしれない。
そう思おうとした。
「持ってきて」
使用人が、静かに入ってくる。
両手で差し出したものは、封筒ではなかった。
四百字詰めの原稿用紙。
三枚。
折り畳まれた状態で、重ねられている。
阿求の指先が、冷たくなった。
「……どこにありましたか」
「今朝、居間の机に置かれておりました」
「誰が?」
「分かりません。掃除に入った者も、いつ置かれたのか気づかなかったと申しております」
阿求は、紙を受け取った。
触れた和紙は、冷たかった。
鈴奈庵で見たものと同じ紙。
端の黄み。
乾いた墨の匂い。
そして、二重線の下に潜む、書き手の迷い。
阿求は、使用人へ言った。
「ありがとう。もういいわ」
使用人が去る。
編纂室に、一人だけが残る。
阿求は、三枚の紙を机へ置いた。
開くことが怖かった。
開かなければ、書かれていることは知らないままで済む。
しかし、昨日、小鈴に言った言葉が、自分の中へ戻ってくる。
知らないまま起きたら、どうするのか。
阿求は、一枚目を開いた。
そこには、翌朝の記述があった。
『――翌朝、稗田阿求は、人間の里の大通りにて、龍神家の当主・龍神景綱と会話を交わす。老朽化した書店の軒先を通りかかった時、木製看板は支えを失い、景綱の前へ落下する。阿求は目の前で、その男が深い傷を負い、石畳へ倒れ伏す姿を見ることとなる。』
阿求は、文字を追った。
龍神景綱。
人間の里の有力者の一人。
明日の朝、彼と話す予定はない。
しかし、景綱は稗田家へ時々、里の記録について相談に来る。明日、偶然会う可能性はある。
原稿には、老朽化した書店とある。
心当たりがある。
大通りの東側にある古い書店。
看板の金具が、以前から傷んでいた。
阿求は、すぐに二枚目を開いた。
『――三日後の夕刻、本居小鈴と稗田阿求は、人間の里の広場に立つ。二人は、文字の擦り切れた名もない石碑を前に、そこに何が刻まれていたのかを熱心に話し合うこととなる。』
阿求は、紙を押さえる指へ力を入れた。
広場の石碑。
確かに、里の中央には古い石碑がある。
文字はほとんど消えている。
阿求も、何度か見たことがある。
しかし、小鈴と熱心に話し合う理由は、今は分からない。
第三枚目が残っている。
阿求は、その紙を見た。
開きたくなかった。
けれど、一枚目と二枚目を読んでしまった以上、残りだけ見ないという選択は、もう意味を持たないように思えた。
阿求は、三枚目を開いた。
『――稗田阿求は、編纂室の机に置かれた三枚の原稿用紙を前に、声を失う。彼女は、紙に記された翌日の事故と、三日後の石碑を読み、これが昨日鈴奈庵で見た怪異と同じものであることを認めたくない。紙を置いた者を確かめるため、阿求は震える声で使用人を呼ぶこととなる。』
阿求は、紙から目を離した。
呼ばない。
そう決めた。
使用人を呼ばない。
この紙に書かれた通りにはしない。
阿求は、両手を机へ置いた。
手のひらに、木の冷たさが伝わる。
息を吸い吐く。
大丈夫。
ただの紙。
昨日のことを知っている紙。
明日の事故を書いている紙。
今の自分の心を、書いている紙。
大丈夫なはずがなかった。
阿求は、自分の口を閉じようとした。
声を出さない。
それだけだ。
なのに、喉が開いた。
「誰か……!」
声が出た。
阿求は自分の口元を押さえた。
自分で出した声だった。
原稿に書かれたから出たのか。
恐怖したから出たのか。
阿求には、もう分からなかった。
「誰か、いないの!?」
襖の外で、使用人の足音がした。
「はい、阿求様」
使用人が入ってくる。
阿求は、震える手で原稿を示した。
「これを置いた者を見た?」
「いいえ」
「今朝、この部屋へ誰かが入った?」
「いいえ。私どもが見た限りでは」
「居間の机に置いてあったと言ったわね」
「はい。掃除に入った時には、すでに」
「誰が運んだの?」
「分かりません」
「分からないって、どういうこと?」
阿求の声が、少し高くなった。
使用人は怯えたように頭を下げた。
「申し訳ございません。ですが、門番も、廊下の者も、不審な人影は見ておりません」
誰も入っていない。
誰も運んでいない。
それでも、三枚の原稿は机にある。
阿求は、使用人へ「もういいわ」と言った。
使用人が去る。
襖が閉じる。
編纂室には、また阿求と原稿だけが残った。
静寂が、冷たい水のように満ちていく。
阿求は、しばらく椅子へ座っていた。
何も考えられない。
考えたくない。
それでも、目の前にある紙は、考えることを許さなかった。
翌朝の看板事故。
三日後の石碑。
今の自分。
原稿が知っていることは、昨日より増えている。
小鈴の朝だけではない。
阿求の屋敷。
使用人の動き。
里の有力者。
未来の場所。
未来の会話。
この現象を、幻想郷の理の中で説明しなければならない。
そうしなければ、何もできない。
阿求は引き出しから白紙を取り出した。
硯に残っていた墨へ筆を浸す。
原稿とは違う、普通の白紙。
誰かの未来を記した紙ではない。
自分が書く紙だ。
阿求は最上段へ記した。
【不可解なる頁の配置、および未来記述に関する能力者考察】
候補を書き出す。
古明地さとり。
八雲紫。
蓬莱山輝夜。
稀神サグメ。
東風谷早苗。
レミリア・スカーレット。
古明地さとりなら、心を読める。
しかし、地底から人間の里へ紙を置き、未来の事故を起こす理由がない。
八雲紫なら、誰にも見つからず紙を置ける。
しかし、小鈴と阿求の思考を文章へ写し、二重線で未来を変える理由がない。
輝夜なら、時間の隙を使えるかもしれない。
しかし、未来を確定させる力があるとは限らない。
サグメの言葉は、世界を反転させる。
だが原稿は口に出された言葉ではない。
早苗なら、あり得ない偶然を起こせるかもしれない。
しかし、人間の里の有力者を怪我させる動機が見えない。
レミリアなら、運命を操る。
しかし、彼女が古い原稿用紙へ几帳面に文章を書き、何度も二重線を引く姿は、どうしても想像できなかった。
阿求は筆を置いた。
「……全滅ね」
単独では説明できない。
心を読む者。
紙を置く者。
偶然を起こす者。
未来を知る者。
書き直す者。
もしも、それらが別々の者によるものなら。
阿求は、そこで筆を止めた。
小鈴なら、きっとこう言うだろう。
「一人でできないなら、二人か三人でやればいいじゃない」
阿求は、昨日の小鈴の顔を思い出した。
泣きそうな顔。
怒っている顔。
それでも本を守ろうとした顔。
「……小鈴」
阿求は、立ち上がった。
明日の看板事故を止めなければならない。
そして、小鈴のもとへも、新しい原稿が届いているかもしれない。
もし届いているなら。
もしそこに、看板事故を防ぐ手がかりが書かれているなら。
今ここで、考えているだけでは遅い。
朝靄の残る人間の里を、阿求は早足で進んだ。
普段なら、稗田家の当主が一人で急ぐ姿は目立つ。
しかし朝はまだ人が少ない。
露店も開ききっていない。
通りには、箒で店先を掃く者と、水桶を運ぶ者がいるだけだった。
阿求は鈴奈庵の前へ着いた。
表の引戸は閉まっている。
昨日、妖魔本を失った小鈴が、今朝まで眠っていることは理解できた。
けれど、待っていられない。
「小鈴。いるのでしょう。起きなさい、小鈴」
引戸を叩くが、返事はない。
もう一度叩く。
「小鈴!返事をして」
店内は静かだった。
阿求は、大きく息を吐いた後に店の脇を回る。
勝手口の横にある小窓は、指二本分ほど開いていた。
小鈴には、窓を完全に閉めない習慣がある。
閉めれば空気がこもる。
開け放てば、夜明けの冷気が入る。
だから、いつも中途半端に開けている。
阿求は、その習慣を今だけは心から肯定した。
「緊急避難よ」
誰に言い訳するでもなく呟き、窓枠へ手をかける。
「明日の朝、人が怪我をするかもしれないのだから。これは不法侵入ではない。情報収集に伴う、やむを得ない現地確認……」
そこで阿求は、自分でも分かるほど苦しい理屈をやめた。
窓を開ける。
着物の裾を持ち上げ、狭い枠へ身体を横にする。
しかし、稗田家当主として常に整えられている帯は、狭い窓枠を通るには少しばかり立派すぎた。
「……どうして、こういう時に限って」
阿求は息を止め、肩をすぼめ、どうにか身体を滑り込ませた。
着地は、決して優雅ではなかった。
畳へ片膝をつき、片手を床へつき、残った足を引き抜く。
髪飾りがわずかに傾き、袖の端には窓枠の埃がついた。
阿求はすぐに立ち上がり、袖を払った。
「……誰にも見られていないわよね」
返事をする者は、もちろんいない。
一階の居住スペースには、昨夜の後片づけの痕跡が残っていた。
火鉢の灰は冷え、洗い桶は伏せられ、食卓の端には、拭き取られても消えなかった薄い茶染みがある。
阿求はまず帳場へ向かった。
郵便受け。返却本の籠。貸出帳の下。帳場の引き出し。店の中央の卓。本棚と本棚の隙間。居住スペースの食卓。
そして、例の鍵付き棚の周囲。
しかし、どこにも新しい原稿用紙はなかった。
あるのは、昨日から鈴奈庵にある二枚だけだ。
茶に濡れ、二重線を残し、すでに読めない部分を増やした二枚だけ。
「……私にだけ届いたの?」
阿求は、原稿のない帳場を見た。
小鈴は、原稿を最初に受け取った。
小鈴は、原稿に書かれた文字を読むことができる。
それなのに、新しい三枚は自分のもとにだけ現れた。
その理由を、阿求はまだ持っていない。
ならば、答えを知っているかもしれない小鈴を起こすしかない。
阿求は、居住スペースの奥にある木製階段を見上げた。
階段は、昨日小鈴が足を滑らせたという、あの急な階段だ。
朝の薄い光を受けた踏み板の中央は、長い年月に磨かれて妙に滑らかだった。
阿求は手摺りを掴み、一段ずつではなく、ほとんど駆けるように上がった。
「小鈴。起きなさい」
返事はない。
屋根裏部屋の戸は閉まっていた。
阿求は、一度だけ拳を上げた。
だが、待っている時間はない。
戸を勢いよく開ける。
「小鈴!」
布団の中で、小鈴がかすかに身じろぎした。
「……んん……今日はお茶、いらない……」
「お茶の話ではないわ!」
阿求は布団の脇へ膝をつき、小鈴の肩を掴んだ。
「起きなさい。今すぐ」
「んん……魔理沙なら帰って……」
「それも違うわ!」
阿求は、容赦なく小鈴を揺さぶった。
小鈴の身体が、布団の中でがくがくと揺れる。
「ひゃうぇっ!?な、なにぃ!?火事!?泥棒!?」
小鈴は跳ね起きた。
寝癖のついた髪を振り乱し、掛け布団を胸元まで引き上げ、眠気で滲んだ目を大きく見開く。
まず部屋を見回した。
火がなければ、煙もない。
泥棒らしき人影もない。
その代わりに、なぜか阿求がいた。
小鈴は、二度目の驚愕に息を呑んだ。
「……阿求?」
「ええ」
「なんで?」
「一大事だからよ」
「なんで私の屋根裏に?」
「一大事だから」
「答えになっていないわよ!」
その声だけが部屋に響いた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第四話では、原稿が示す範囲が、鈴奈庵から稗田邸へ、そして里の未来へと広がりました。
明日の事故を止められるのか。
三日後の石碑に、何があるのか。
次回もよろしくお願いします。