それを知った阿求は、夜明けとともに小鈴のもとへ向かいます。
ただし、その方法は少々……いえ、かなり強引でした。
今回も、二人のやり取りと、迫りくる事故への対応を見守っていただけましたら嬉しいです。
それでは、どうぞ。
小鈴は、冷たくなりかけた布団の端を、白くなるほど強く握りしめた。
「いや、待って。火事でも泥棒でもないなら、なんで阿求が私の寝室にいるのよ。しかも――まるで、最初からそこが自分の通り道だったみたいに、窓から入ってきたような顔をして」
「みたいな顔ではなく、実際に窓から入ったのよ」
「認めるのが早すぎるわよ!」
「隠している時間が惜しいの。一刻を争うわ」
「普通は少しでも隠そうとするの! 不法侵入した側が、どうしてそんなに堂々と胸を張っているのよ!」
小鈴のまっとうな抗議を、阿求は柳に風と受け流す。ただその表情には、いつもの穏やかな微笑はなく、どこか張り詰めた影が落ちていた。彼女は静かに着物の袂へ手を差し入れると、三枚の原稿用紙を取り出した。
朝の澄んだ光を浴びて、その三枚の紙は、まるで独自の意思を持つかのように白く仄浮かんでいる。
小鈴の脳裏に居座っていた微睡みが、その異様な白さによって、急速に剥ぎ取られていく。
阿求は、感情の読めない手つきで、それらを小鈴の布団の上へと滑らせた。
「まず、これを見なさい」
「その前に、なぜ玄関を通らずに窓を乗り越えてきたのかを説明して」
「説明するわ。けれど、その前にこれを見て」
「順番が逆よ!」
「私にとっては、こちらが先なの」
「私にとっては、年頃の娘の寝室へ勝手に入られた理由の方がよっぽど先よ!」
押し問答の末、阿求がほんの少しだけ眉を寄せた。その僅かな変化に、小鈴の胸が詰まる。
「小鈴」
「な、何よ」
「明日の朝、人間の里の大通りで――龍神家の当主が、大怪我をする可能性があるわ」
小鈴の唇が、ぴたりと動きを止めた。
部屋の外では、冷ややかな朝の風が半開きの窓をそっと撫でて通り過ぎていく。建付けの悪い木枠が、きぃ、と微かに鳴いた。その音が、やけに大きく部屋に響く。
「……何、それ。どういうこと?」
「私の屋敷に届いたのよ。この原稿に、そう書かれていたの」
阿求は、布団の上に広げられた三枚の紙へ、そっと指先を置いた。
「明日の朝、龍神家当主である龍神景綱が、老朽化した書店の木製看板の下敷きになり、重傷を負う。……そう、克明に記されているわ」
小鈴は息を呑み、布団を握る指先にいっそうの力を込めた。指先が微かに震えている。
「また……原稿、なの?」
「ええ」
「今度は、鈴奈庵じゃなくて、阿求のところへ?」
「稗田邸の居間に、忽然と現れたわ。誰の目にも触れずにね」
「三枚とも?」
「そう、三枚ともよ」
小鈴は、視線を落として目の前の原稿を凝視した。
昨日、自分の手元に届いた二枚。
お茶をこぼして、無残に茶色く濡れてしまった部分。
誰かの手によって、二重線で乱暴に書き直された部分。
そして今、阿求が持ってきたばかりの、冷たい朝の空気を孕んだ新しい三枚。
――この原稿の存在は、すでに鈴奈庵という一軒の貸本屋だけの怪異ではなくなっている。じわじわと、里の闇へ侵食を始めているのだ。
「……それで? 呼び鈴も鳴らさずに窓から入ってきたの?」
「そうよ」
「どうして普通に、正面から戸を叩かなかったのよ」
「叩いたわ」
「聞こえなかったわよ」
「何度もあなたの名前を呼んだわ」
「……全然、聞こえなかった」
「だから、開いていた窓から入ったのよ」
「そこは普通、返事がなかったら諦めて出直すところでしょう!」
「普通なら、明日の朝に人が看板の下敷きになって血を流すと書かれた不気味な紙を持って、友人の寝室へ朝一番に押し掛けたりしないわ」
「阿求、あなた、この原稿事件が起きてから『普通』という言葉を都合よく使いすぎよ」
「それはあなたもでしょう。昨日、私に対して『今日は茶が駄目な日だから出せない』などと、もっともらしい顔をして言っていたではないの」
「あれは怪異から身を守るための、必要な自衛だったの!」
「私のこの窓からの侵入も、一刻を争う事態からあなたと里を守るための、必要な自衛よ」
「自衛のために年頃の娘の窓から不法侵入する人、歴史の記録を探したってあなたくらいなものよ!」
小鈴は、肩で息をしながらしばらく阿求を睨みつけた。
対する阿求は、いつものように涼しげな顔で見返してくる。――だが、じっと見つめるうちに、小鈴の尖った視線がわずかに緩んだ。
よく見れば、阿求の聡明な瞳の輪郭には、うっすらと濃い隈が浮かんでいる。
いつも完璧に整えられている髪も、今朝はわずかに、風に乱されたままになっていた。
おまけに、上質な着物の裾には、朝霧をたっぷりと吸った湿った土の跡が点々と残っている。
九代目の御阿礼の子が、なりふり構わず、夜通し調べ物をして、夜明けの里を駆け抜けてきたのだ。小鈴は、阿求が冗談抜きで、本当に限界の必死さでここへ来たのだと理解した。
「……本当に、そんなに危ないの?」
小鈴の声から、刺が抜ける。
「危ないわ。非常にね」
「それは……その原稿に、そう書いてあったから?」
「それだけではないのよ」
阿求は、細い指先で一枚目の原稿をつまみ上げた。
「龍神景綱が、明日の朝、人間の里の大通りを通る可能性は極めて高いわ。龍神家は東側にあるあの書店を頻繁に利用しているし、何より景綱は、毎朝の散歩を厳格な習慣にしている。それに、あの古い書店の木製看板――あれは、以前から固定している金具が緩んでいたのよ」
「阿求は、原稿を見る前からそれを知っていたの?」
「ええ。稗田家の記録に、数ヶ月前、店主から出された『通りの修繕に関する届け出』がしっかりと残っていたわ」
「じゃ…じゃあ、もしこの原稿が届いていなくても、明日の朝、本当に事故が起きていたかもしれないってこと?」
「その可能性は十分に、あったでしょうね」
阿求はそこで、これまでにないほど、声を低く落とした。
部屋の温度が、ふっと下がったような気がした。
「でも、この原稿には、景綱が大怪我を負う正確な時刻と場所まで書かれているのよ。昨日までのあの忌々しい紙が、私たちの私生活をあれほど恐ろしい精度で記述していた以上、偶然だと無視する理由はどこにもないわ」
小鈴は、布団の上の三枚の原稿を冷徹な目で見つめた。
それから、視線を巡らせて窓の方を見る。
白く浮き出た窓枠の埃。阿求の着物の裾についた、朝露と土の生々しい跡。そして、夜明け一番にここまでなりふり構わず駆けてきた、目の前の大切な友人。
「……分かったわ」
「何がかしら?」
「話は聞く。これからのことも、ちゃんと考える。……でも、それとこれとは話が別よ。窓から入った件の罪は消えないから」
「まだそこを問題にするの?」
「するわよ! 私の神聖な寝室を勝手に通過したんだから!」
「通過ではなく、明確な不法侵入ね」
「自分で被害を重く言い換えないでよ!」
張り詰めていた阿求の表情が、ようやくほんの少しだけ和らぎ、小さな苦笑がこぼれた。
張り合いのなさに小鈴はため息をつき、話し合うために布団から出ようと腰を浮かせた。
その瞬間、右足の小指がドクドクと不快に脈打った。さらに遅れて、左足の小指までもが、じくりと嫌な痛みを訴えかける。小鈴は思わず顔をしかめ、せっかく出した片足をシーツの奥へと引っ込めた。
「……まだ痛むの?」
阿求が、その様子を鋭く見とがめて訊いた。
「右と左、両方よ。最悪の朝だわ」
「昨日、左足の小指もどこかにぶつけたの?」
「ええ、そうよ。夕食の支度中に、台所の棚の角にね」
「あの二枚の原稿には、その記述は?」
「書かれていなかったわ。完全に私の不注意よ」
「では、そちらの痛みは原稿の予告ではなかったのね」
「お願いだから、そんな冷酷な分析をしないで。私の小指は、文学的な意味なんて一切持たない、ただのドジで痛む小指よ」
「――あなたがそう言い切れるなら、私はまだ、少しだけ安心したわ」
「どういう意味よ、それ」
「原稿に書かれたこと以外の人生も、まだあなたには残されている、という意味よ」
小鈴は言い返そうとして、ふと言葉を呑み込んだ。
阿求は時々、急にこういう妙なことを言う。
冷ややかな皮肉のようでいて、その実、まったく皮肉ではない。慰めのようでもありながら、誰かを慰めるという行為に、致命的なほど慣れていない人の不器用な言い方だった。歴史を記録する宿命を背負った彼女にとって、「書かれていない未来がある」ということ自体が、唯一の救いなのかもしれない。
「……とにかく、着替えるから、一階で待っていて」
「私も一緒に行くわ」
「嫌よ、絶対に嫌」
「なぜ?」
「今度は私の着替えの現場まで見張るつもり? 趣味が悪すぎるわ」
「そうではないわ。私はあなたの着替えに興味があるわけではなく――その原稿を、一瞬たりとも一人にしておきたくないのよ」
「原稿はただの紙でしょう。足が生えて逃げ出すわけじゃないんだから」
「小鈴。昨日までの常識を、あなた、まだ本気で信じているの?」
静かな、けれど逃げ場のない問いかけだった。
小鈴はぐっと言葉に詰まり、阿求の冷えた瞳を見つめ返すことしかできなかった。
結局、阿求は屋根裏部屋の隅で、まるで大切な古文書でも守るかのように、三枚の原稿を胸に抱えたまま待つことになった。
小鈴はその横で寝間着を脱ぎ、普段の着物へと着替え、髪を整える。その間も、鏡越しに何度も阿求へと厳しい視線を送った。
当の阿求はといえば、三枚の原稿を膝の上に几帳面に並べ、その紙面から片時も目を離そうとしない。そのあまりの真剣さに、小鈴は気まずさを通り越して、なんだか少し腹が立ってきた。
「阿求」
「何かしら」
「あなた、そんな恐ろしい顔で紙を睨みつけていると、紫より怖いわよ」
「八雲紫と比較されるのは非常に不本意ね」
「紫は、もっとこう、人を食ったようににやにやしているもの」
「私は今、にやにやしていないでしょう」
「していないから怖いのよ。感情が死んでるみたいで」
「では、無理にでも笑えばいいの?」
「今度はレミリアみたいになりそうだから、絶対にやめて」
阿求は、ようやくほんの少しだけ口元を緩めた。
「あなたは、人を他の人に例えれば、何でも説明できると思っているのね。まるで登場人物を例に挙げているみたい」
「ちょっと、登場人物って言わないでよ」
「ふふ、まだ何も決めつけてはいないわ」
「その言い方、私が何か現実を誤認している変なことを言ったみたいじゃない」
小鈴は不満げに口を尖らせながら帯をきゅっと締め、最後に髪をまとめた。
ようやく身支度を終えて寝室を出る。阿求もまた、原稿を大切そうに抱えてその背中に続いた。
薄暗い階段を下りる時、小鈴は手摺りを両手でがっしりと掴み、一段ずつ、これ以上ないほど慎重に足を下ろした。
昨日、不自然に足を滑らせた呪われた場所。
踏み板の中央は、格子窓から差し込む朝の光を受けて、滑らかに、どこか冷酷に光っている。
「そこまで大袈裟に慎重になる必要があるの?」
背後から、阿求の冷静な声が降ってくる。
「あるわよ! 昨日、私はここで危うく死にかけたのよ」
「転落はしていないでしょう。ただの体勢の崩れよ」
「心は完全に転落したの」
「あなたの心は、ずいぶん頻繁に高いところから落ちるのね」
「阿求、あなた今日、少し……いえ、だいぶ性格が悪いわよ」
「昨日からよ。怪異のせいで寝不足ですから」
言い合いながら、二人は一階の居住スペースへと降りた。
生活の匂いが残る部屋に戻ると、阿求はまず、最優先とばかりに三枚の原稿を食卓の真ん中へ置いた。
小鈴はそのまま台所へと向かう。
阿求のために朝餉を作るためではない。阿求のために新しい上等なお茶を淹れるためでもない。ただ純粋に、自分の腹を満たすために、簡単な朝食を用意するためだった。
小鈴は水屋の棚から冷や飯の入った器を出し、小鍋へと移した。
味噌汁は、昨夜の残りが申し訳程度にある。少し水を足し、具材として大根と葱を無造作に追加する。火鉢の炭へ息をふっと吹きかけると、白い灰の下で赤い火が小さく、けれど暖かく明るくなった。
ただ、茶葉の入った急須にだけは、絶対に手を伸ばさなかった。
そこにあるだけで、昨日のおぞましい出来事――「茶が、畳へ、畳へと零れていく」あの一幕が嫌でも思い出される。小鈴は代わりに、ただの白湯を入れるための小さな土鍋を取り出した。
「お茶ではなく、白湯なのね」
食卓の椅子に腰掛けた阿求が、観察するように言った。
「今日は湯気が立つもの全般を信用していないの。何が起きるか分からないわ」
「お味噌汁はいいの?」
「味噌汁は、生きるための食事だから仕方ないわ」
「ずいぶん恣意的な生存基準ね」
「人間の生活なんて、だいたい恣意的にできているのよ。霊夢が、あれだけ白昼堂々と昼寝をしていても、のうのうと巫女をやっていられるくらいにはね」
「霊夢を人間のまっとうな生活の基準にしないでちょうだい」
小鈴は、くつくつと音を立て始めた味噌汁をしゃもじでかき混ぜた。
その向こうで、阿求は原稿の一枚目を卓の上へ厳かに広げている。
「それで、その不気味な予言をどうするの?」
小鈴が訊いた。
「まず、書かれている内容を徹底的に整理するわ」
「昨日も同じようなことを聞いたわよ」
「昨日は、紙に書かれた『確定した過去の結果』を実際に検証したの。でも今日は違う。明日の朝に起きる『未確定の事故』を、何が何でも防ぐ必要があるわ。そのためには、原稿のどこまでが覆しようのない事実で、どこからが書き手の推測なのかを正確に切り分けるべきよ」
阿求は、原稿の脇へ別の真っ白な紙を置いた。
使い慣れた筆を取り、墨を浸すと、淀みのない動作で項目を書き始める。
【明朝の事故に関する確定情報】
小鈴は、鍋の中の冷や飯をほぐしながら、阿求の迷いのない筆先をじっと見つめていた。
「まず、時間よ」
「明日の朝、ね」
「それでは曖昧だわ。原稿には『日の出から一刻ほど後』とある」
「それなら……ちょうど、朝餉を食べ終わった後くらいかしら」
「ええ。龍神景綱が普段、人間の里の大通りを通る時間と正確に一致するわ。次に場所」
「人間の里の東大通り。古い書店の前」
「被害者は?」
「龍神家当主、龍神景綱」
「被害の程度は?」
「看板の下敷きになり、大怪我。重傷よ」
「看板が落ちる理由は?」
「……書かれていないわ」
「景綱さんが、その時間にわざわざその道を通る理由は?」
「書かれていない」
「看板を意図的に落とす、犯人のような存在は?」
「それも、一切書かれていないわね」
小鈴は、しゃもじで冷や飯を最後の塊までほぐしきった。
「ずいぶん肝心なところが抜けているのね」
「この原稿の主は、推理小説の書き手としてはあまり親切ではないようね」
「書き手の性格が最悪なのよ、きっと」
「文章の断片だけで、相手の性格を断定するのは危険よ」
「でも、昨日までの原稿には、私の見苦しい責任転嫁のセリフが一字一句、そっくりそのまま書いてあったでしょう?」
「それは、あなたの責任転嫁が、誰の目から見ても特徴的だっただけかもしれないわ」
「阿求、あなた、どさくさに紛れて私の悪口をその分析に混ぜているでしょう!」
「客観的な事実の記録よ」
「そうやって、私の傷つきやすい心を勝手に歴史資料にするのはやめてよ!」
阿求はそっと筆を置き、墨の匂いが残る指先を休めた。
そして、食卓の向こうの小鈴へと、まっすぐに向き直る。
「小鈴。あなたが怒る理由はよく分かるわ。けれど、今回の原稿に書かれていることを、すべて盲信することも、すべて疑ってかかることも、等しく危険なのよ」
「どういうこと?」
「昨日までのあの忌々しい紙は、あなたの朝の行動を正確に記録していた。私のここへの来訪も寸分の狂いなく書かれていたわ。さらに、私たちがその予言を回避しようとした結果、別の経路から『写本が濡れる』という結末を無理やり成立させてしまった」
「ええ、そうね」
「だから、明日の看板事故という『結末』も、何らかの形で強制的に引き起こされる可能性は極めて高いわ。でもね、原稿に書かれた通りに、看板が同じ角度で落ち、景綱が同じ位置へ寸分違わず立ち、同じ深さの傷を負うとは限らない」
「つまり……どういうことよ?」
「細部は変えられる。けれど、最悪の結果だけが強固に残るかもしれない、ということよ」
小鈴は、くつくつと沸き立つ味噌汁を、お椀へと慎重によそった。
「それ……いくらなんでも厄介すぎない?」
「ええ、最悪に厄介よ」
「だったら、今すぐその書店の看板を外してしまえばいい、という単純な話にはならないのね」
「看板を無理に外せば、今度は別の重たいものが上から落ちてくるかもしれない。書店をあらかじめ閉めさせれば、景綱は別の道で災難に遭うかもしれない。景綱を屋敷から一歩も出さなければ、今度は屋敷の中で別の事故が起きるかもしれないわ」
「阿求」
「何かしら」
「あなた、朝一番から人を怖がらせる天才ね」
「あなたの想像力が、私の言葉を補うほど優秀なだけよ」
「それ、絶対に褒めてないわよね」
「ええ、もちろん」
小鈴は、湯気の立つ味噌汁の椀を阿求の前へと差し置いた。
「ほら、お喋りは終わり。まずは食べて」
「……これを、あなたが作ったの?」
「私以外にこの家に誰がいるっていうのよ」
「原稿、とかね」
「原稿は味噌汁なんて作らないわよ」
「まだ、そんな常識が通用するか分からないでしょう」
「そこまで疑い始めたら、もう怖くて食卓につけないわよ!」
「あなたは今、こうしてちゃんと食卓へついているではないの」
「そうね。だから余計なことを言わずに早く食べて。空腹の阿求は、普段の二倍は嫌みっぽくて嫌なことを言うんだから」
阿求は静かに椀を持ち上げ、大根の浮いた味噌汁を小さくすすった。
熱い汁が喉を通り、冷えていた身体に染み渡っていくにつれて、彼女の硬い表情がほんの少しだけ緩む。
「……美味しいわ」
「本当?」
「ええ、本当に」
「――それ、原稿には書かれていない?」
「それを本気で疑うなら、私の味覚まで原稿の支配下にあるということになるわ。そんな悪趣味な設定、お断りよ」
「それもそうね。嫌だわ、そんなの」
二人は、それきり口を閉ざし、簡素な朝食を口へと運んだ。
炊き立てではない白米。大根と葱の、少し煮詰まった味噌汁。そして、酸味の効いた漬物。
昨日から怪異に振り回され、まともな食事を摂っていなかったせいか、椀の中身は思ったよりもずっと早い速度で減っていった。
小鈴は、自分の空になりかけた椀の底を見つめながら、ぽつりと言った。
「私たち、昨日から本当にまともなものを食べていなかったわよね」
「そうね。生きているのが不思議なくらいよ」
「寝てもいないし」
「あなたは少しの間、寝室で寝ていたでしょう」
「ひどい悪夢の中でね」
「……なら、それは睡眠の時間に含めない方が賢明ね」
「阿求だって、目の下に酷い隈があるわよ」
「お互い様よ。あなたにだけは言われたくないわ」
「私は昨日、左右両方の足の小指を負傷したのよ?」
「私は原稿に、自分自身のプライベートな恐怖を克明に書かれたのよ?」
「……どっちの被害が重いのよ」
「そんな不毛な悲劇、比較するものではないでしょう」
「でも、どちらがより大変な目に遭っているかをはっきり決めた方が、朝ご飯のおかわりをしやすいの」
「小鈴」
「何よ」
「あなたは、本当に恐怖を感じている時ほど、食べ物の話をするのね」
「阿求だって、本当に怯えている時ほど、他人の能力と動機を必死になって調べるでしょう?」
「それは事態を収束させるための、必要な作業よ」
「私のこの食事だって、生き延びるための必要な作業よ」
阿求は箸を持ったまま、一瞬だけ真顔になった。
「……その通りね」
「あら、珍しい。素直に認めるなんて」
「空腹のままで推理をしたところで、正確な判断を誤るだけだわ」
「ほら、見なさい」
「ただし、あなたの場合は、空腹でなくても時々、致命的に判断を誤るけれど」
「阿求!」
「しかし、魔理沙のように本を無断で持ち出したり、紫のように何一つ説明をせずに人を煙に巻いたり、霊夢のように面倒な異変をすべて後回しにしたりする面々に比べれば――今のあなたは、ずいぶんましな方よ」
「私はあんな大物たちほどひどくないわよ」
「昨日、お茶を淹れたでしょう?」
「それは……原稿の怪異が勝手に――」
「魔理沙だって本を盗む時、『薬液が勝手にこぼれただけだ』と言い張るでしょうね」
「……阿求、今日のあなたは本当に性格が悪いわ」
「昨日からずっとよ。お互い様でしょう」
小鈴は、しばらく阿求の冷徹な横顔をじっと見つめた。
それから、カツンと小さな音を立てて椀を置いた。
「でも、阿求がこれから一人で調査に行くっていうなら、私も行くわ」
阿求の箸が、ぴたりと空中で止まった。その瞳に、明確な危惧が宿る。
「危険よ、小鈴」
「知っているわよ」
「あの原稿が、私ではなくあなたを直接狙っている可能性だってあるのよ」
「それも、百も承知よ」
「なら、なぜ付いてこようとするの?」
小鈴は、完全に空になった自分の椀を見つめた。
「阿求を一人で行かせたら、あなたはあの看板の下敷きになる直前まで、看板に書かれた不審な文字の筆跡を読もうとするでしょう?」
「私はそこまで無謀な研究者ではないわ」
「本当かしら?」
「……少なくとも、魔理沙ほどではないわ」
「比較する対象のレベルが低すぎるのよ」
小鈴は勢いよく立ち上がると、手際よく食器を片づけ始めた。
味噌汁の鍋を洗い、お椀を重ね、漬物の小皿を水へと浸す。
やはり、急須には一切触れなかった。白湯のための火も起こさない。湯気の立つものは、今日の鈴奈庵には、もうそれ以上必要なかった。
その間に、阿求は食卓の上で、新たな白紙に「容疑者リスト」の枠組みをまとめ上げていく。
「まずは、龍神家へ向かうわ」
「景綱さんに、直接その原稿を見せて話すの?」
「いいえ、原稿の存在は伏せるわ。ただ、建物の木製看板が老朽化していて非常に危険だと、世間話の体で伝えるのよ」
「そんな遠回しな警告、あの気難しそうな景綱さんが大人しく聞いてくれるかしら」
「稗田家の、御阿礼の子の名において正式に警告するわ。それなら無視はできないはずよ」
「それでも、もし聞いてくれなかったら?」
「その時は……書店の wla――看板を直接調べるわ」
小鈴の、手を動かす音が止まった。
「……今、変な言葉が混ざらなかった?」
「気のせいよ」
「原稿の影響? それとも、何かの前触れ?」
「あなたの聞き間違いか、あるいは発音の問題でしょう」
「いいえ、今のは絶対に阿求が不自然に噛んだのよ」
「私が言葉を噛むはずがないでしょう。記憶の間違いなどあり得ないわ」
「一度見たものを絶対に忘れない高貴な御阿礼の子が、自分の舌の動かし方だけ忘れたのね」
「あなたは……朝からずいぶん、その小生意気な口がよく回るわね」
「昨日からずっと食べているからよ」
「何を? 朝餉を?」
「いいえ、責任転嫁を」
阿求は、たまらないとばかりに細い指でこめかみを押さえた。
「小鈴。龍神家に到着したら、あなたは絶対に余計なことを口にしないでちょうだい」
「余計なことって?」
「魔理沙が本を盗み出した話、博麗神社の怪しい厄、八雲紫の劣悪な性格――それから、私の窓からの不法侵入についてよ」
「最後のは一番重要でしょう。被害者は私なんだから」
「今は看板事故を防ぐための、深刻な話をしているの」
「分かったわよ。阿求が年頃の娘の窓を乗り越えて入ってきた件については、異変が解決したあとで、じっくりと白州で尋問してあげるわ」
「尋問ではなく、正当な理由の説明よ」
「不法侵入した泥棒は、みんな決まってそう言うのよ」
「私は、稗田家の現当主よ?」
「それが何の免罪符になるっていうのよ」
阿求は、深く、長いため息をついた。
「……どうやら今日は、あなたの方がずいぶん嫌なことを言うのね」
「ずっと一緒にいるから、阿求の悪い性格が移ってきたのかもしれないわ」
「それは困るわね。人間の里に、二軒目の稗田家が建つことになるわ」
「阿求が二人になって小言を言われるよりは、店の本が二倍に増える方が、私にとってはよっぽど魅力的よ」
阿求は、一瞬だけ小鈴を見た。
その唇に浮かんだ笑みは、陽炎のようにほんの短いものだった。
だが、言葉を交わさずとも小鈴には痛いほど分かった。
阿求は、怖いのだ。
そして、自分も、等しく底知れぬ恐怖の渦中にいる。
それでも二人は並んで食事を摂り、知恵を絞って考え、今これから共に不穏な外の世界へと踏み出そうとしている。そのという厳然たる事実だけが、蜘蛛の糸ほどの細さで、彼女たちを正気の現実へと繋ぎ止めていた。
朝餉を終え、小鈴はすべての食器を洗い終えた。
湿った手を麻の布で丁寧に拭き、着物の帯をぐっと締め直す。その間に阿求は、不気味に白く浮かぶ三枚の原稿と、先ほど書き上げた容疑者リストを折り畳み、静かに着物の袂へとしまい込んだ。
小鈴は、店の引戸の鍵を指先で確認する。
見慣れた帳場の筆。
幾人もの里の人間の名が連なる貸出帳。
――そして、あの妖魔本が消え去った、がらんどうの空の棚。
茶に濡れて無残に歪んだ写本。
誰かの手による黒い二重線が生々しく残る原稿。
どれもこれも、昨日までなら、愛着のある鈴奈庵の日常の一部に過ぎなかった。
けれど今は、そのすべてが、これから起きる恐ろしい事件の、血塗られた手がかりに見えて仕方がなかった。
小鈴は、店の奥にある棚を一度だけ、未練がましく振り返った。
朝の光が斜めに差し込む中に、ぽっかりと不自然な空白が残されている。
妖魔本が、確かにそこにあった場所。
物心ついた幼い頃から、そこに鎮座しているのが世界の当たり前だった場所。
小鈴は胸を突く不吉な予感を振り払うように、すぐに視線を逸らした。
「行くわよ、小鈴」
阿求が、いつになく低い声で言った。
「ええ」
小鈴は、冷たい木製の引戸へ手をかけた。
「ねえ、阿求」
「何かしら」
「絶対に……あの看板の下敷きになんて、ならないでね」
「あなたこそ。私の記録をこれ以上増やさないでちょうだい」
「私は、左右の小指が二本ともジンジン痛むのよ? もうこれ以上の怪我なんて、物理的にも精神的にも絶対に無理だわ」
「そこを基準に生死の境界線を考えないで」
「でも、昨日からずっと、私の足ばかりが執拗に危険に遭っているでしょう?」
「……看板の下敷きになって頭を割るよりは、小指をそこら中にぶつける方が、まだ数倍はましよ」
「比較の対象が重すぎて、ちっとも慰めにならないわよ」
小鈴は、張り詰めた糸を緩めるように少しだけ笑った。
阿求も、ほんのわずかに、氷が解けるように口元を緩めた。
その互いの笑みは、昨日までの平穏な日々に交わしていたものとは、明らかに違っていた。
襲いかかる恐怖を綺麗に消し去った笑みではない。心の中の不安を、綺麗さっぱり解決した笑みでもない。
ただ、この世の終わりほどに怖いものを、その小さな胸に抱えたままで、それでもなお、自分の隣に立って歩んでくれる者がいることを、互いに確かめ合うためだけの、切ない笑みだった。
二人は、まだうっすらと白く朝霧の残る、人間の里の大通りへと歩き出した。
背後で、鈴奈庵の重い引戸が静かに閉まる。
ガタゴトと鳴ったその木の音は、いつもと何一つ変わらない日常の響きだった。
けれど、霧の中へ踏み出す二人には、その聞き慣れた音さえも――これから始まる明日の惨劇へ抗うための、静かな開戦の合図のように聞こえてならなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第五話では、小鈴と阿求が、明日の事故を防ぐために動き出しました。
原稿に書かれた未来を、変えられるのか。
それとも、避けようとすることが、逆に引き寄せてしまうのか。
次回もよろしくお願いします。
毎週木曜日・日曜日 午後7時更新予定です。