けれど、相手は紙一枚。
今回も、二人のやり取りを見守っていただけましたら嬉しいです。
それでは、どうぞ。
朝霧がまだうっすらと白く残る人間の里を、小鈴と阿求は東へ向かって歩いていた。
この時間の道は、まだ一日の明確な形を整えきっていなかった。
商家の戸は半分ほどだけ眠たげに開き、店先へ打ち水をされたばかりの土は、黒く湿って朝の光を鈍く跳ね返している。軒下には昨夜の冷気がしがみつくように少しだけ残っており、朝餉の支度を終えた家々の煙突からは、味噌の芳しさに混じって焼いた魚の匂いが、目覚めはじめた通りへとゆるやかに流れ出していた。
目覚めの里は、どこか、ようやく起き上がったばかりの巨大な生き物に似ていた。
あちらこちらで、硬い関節を軋ませて鳴らすように戸が開き、喉を鳴らして調子を整えるように物売りの声が上がり、まだ夜の闇を抱きしめている薄暗い路地の奥で、桶の水がバシャリと冷たく捨てられる。
その目覚めのざわめきの中を、小鈴と阿求は肩を並べて歩いていた。
小鈴は、右足と左足の小指を同時に庇うという、なんとも不格好な歩き方をしており、いつもより歩幅が極端に狭くなっている。
「……ねえ、阿求」
「何かしら」
「私、歩き方が妙に不自然じゃない?」
「不自然ね」
「少しはオブラートに包んで即答を避けなさいよ」
「だって、右足を痛そうに庇っているかと思えば、次の瞬間には左足まで不自然に庇っているのだもの。両足の小指を同時に庇う歩き方なんて、少なくとも人間の里の歴史においては、あまり見かけない奇妙な光景よ」
「仕方ないでしょう。昨日から私の大事な小指が二本とも、ズキズキと同時に痛むんだから」
「小指というのは、身体の最も端にあるくせに、その痛みだけは容赦なく身体の中心へ直接送り込んでくるのね」
「本当にそうなのよ。普段は何の役にも立っていないくせに、怪我をした時だけ途端にうるさく存在感を主張してくるの。まるで普段は何の修行もしていないくせに、異変が起きると突然主役を名乗り出して割り込んでくる魔理沙みたいだわ」
「魔理沙は普段の何でもない日常から、十分に主役を名乗っているわよ」
「あ、そうだったわね。あの子、鈴奈庵の店へ入ってきた瞬間から、そこが自分のために用意された舞台だと思い込んでいるもの」
阿求は、ふっとわずかに口元を緩めた。
しかし、そのかすかな笑みは、陽光に炙られる朝霧のようにすぐに薄れて消えた。彼女の細い手は、着物の袂の奥にある、あの原稿用紙の冷たい感触に、無意識のうちに触れている。
不気味に白く滑らかな、三枚の紙。
翌朝に起きるという、龍神景綱の看板事故。
三日後の未来に刻まれるという、不吉な石碑。
そして――何より阿求自身の胸の奥にある「恐怖」を、まるで今この瞬間に隣でのぞき込んで書き写したかのような、恐ろしい文章。
小鈴は、歩調を合わせながら、阿求の硬い横顔を盗み見た。
普段の彼女の優雅な足取りに比べて、明らかに歩く速度が速い。
明朝の景綱の事故を、一刻も早く未然に防ぎたいという焦りもあるのだろう。けれど、小鈴にはそれだけではないような気がしてならなかった。阿求はこうして足を止めずに歩き続けていなければ、自分の影のすぐ後ろから、正体不明の「何か」に一瞬で追いつかれてしまうと、本能的に怯えているように見えた。
「阿求」
「今度は何かしら」
「あなた、昨日からほとんど眠っていないでしょう」
「少しは眠ったわよ。失礼ね」
「目を瞑っただけで『眠った』うちに入ると思っているの?」
「物理的に目を閉じて、意識の表層を休めていた時間は確かにあったもの」
「じゃあ私だって、あの原稿に怯えながら布団の中で縮こまっていたんだから、十分に休養をとったことになるわね」
「あなたの場合、恐怖のあまり途中で妙な寝言を言っていたのではないかしら」
「なっ、何でそんなことを知っているのよ!」
「知らないわよ。ただの推測よ。あなたなら、いかにもそんな見苦しい寝言を言っていそうだと思っただけ」
「……それ、あの原稿に書かれていたわけじゃないのね?」
「ええ、まだ書かれていないわね」
「……今、『まだ』って言った?」
阿求は、ハッとしたように小さく口を閉ざした。
小鈴は歩みを止めず、じっと友人の横顔を見つめる。
「今のは、明確な失言でしょう」
「……そう、かもしれないわね」
「阿求、あなた、自分でも気づかないうちに少しずつ原稿のルールに侵食されているわよ」
「その不吉な言い方はやめなさい」
「だって、さっきから『まだ』とか『まだ起きていないだけ』とか、すべての現実をあの原稿の記述を基準にして話しているじゃない」
「私は原稿を基準にしているのではないわ。もたらされた危険情報を基準にして、最善の行動を選択しているのよ」
「私の耳には、どっちも全く同じ意味に聞こえるわ」
「違うわ。私はあの原稿の内容を全面的に信じているわけではないの。原稿が完璧な嘘であった場合も含めて、稗田家として常に最悪の可能性を、すべての分岐を考えているだけよ」
「それってね、阿求。原稿の予言が嘘であっても本当であっても、結局は私たちが『原稿を中心に動かされている』ということよね」
阿求は、ほんの少しだけ歩調を緩めた。
東の空から差し込み始めた朝の光が、彼女の硬い横顔を白く冷徹に照らし出す。
「……そうね」
小鈴の鋭い指摘を認める声は、思ったよりもずっと小さく、掠れていた。
「だからこそ、一刻も早くこの不気味な紙の正体を知りたいのよ」
小鈴は、その言葉にすぐには言葉を返せなかった。
阿求は、原稿に書かれた決定事項のような未来を信じたいわけではないのだ。むしろその逆。心の底から信じたくないからこそ、執念深く調べている。自分の意志で運命をねじ伏せたいからこそ、こうして朝一番に現場へ向かっている。文字に縛られる宿命を持つ御阿礼の子の、それが静かな抵抗なのだと、小鈴にはようやく分かってきた。
「なら、今日の私たちは探偵ね」
重苦しい空気を振り払うように、小鈴が明るい声を出した。
「探偵?」
「そうよ。怪しい原稿に、怪しい看板、それに怪しい予定変更。これから会う容疑者候補だってたくさんいるわ。これはもう、立派な事件の捜査でしょう」
「探偵というよりは、未然に大惨事を防ぐための事故の後始末係に近いわね」
「阿求がそんな夢のないこと言うと、ポアロが草葉の陰で泣くわよ」
「ポアロ? 誰が泣くのよ」
「外の世界の高名な探偵よ。立派な髭を生やして、どんな難事件も椅子に座ったままで解決しちゃう凄い人なんだから」
「私は椅子に座ったままではないわ。昨夜は不法侵入のために他人の窓を乗り越えたし、今朝だってこうして泥臭く歩いているもの」
「そこを誇らしげに主張しないで。探偵として本当に大切なのは、移動経路の激しさではなくてスマートな推理よ」
「では、あなたが私の助手ね」
「どうして私が当然のように助手ポジションなのよ」
「昨日からの動きを見るに、あなたは二度も派手に転びかけ、二度も小指を自爆して傷め、写本を盛大に濡らし、大事な妖魔本を失い、今は左右の足をみっともなく庇いながら歩いているわ」
「それ、助手というよりただの哀れな被害者でしょう!」
「いいえ。古典的な探偵小説において、頼りない助手が真っ先に不可解な事件へ巻き込まれるのは、よくある様式美よ」
「阿求、あなた、私を相棒の助手にしたいのか、それとも事件の証拠品にしたいのか、どちらなの?」
「今のところは、大変興味深い観察対象ね」
「最悪だわ!」
小鈴の抗議の声が、静かな朝の通りへと少しだけ大きく響き渡った。
近くを通りかかった行商の老人が、何事かと驚いて振り返る。小鈴は慌てて両手で口を閉じた。
阿求は、そんな小鈴の慌てふためく横顔を見て、今度こそかすかに、いつもの優しい口元を緩めた。
――まだ、こうして笑う余裕がある。
その厳然たる事実だけが、今の小鈴にとっては、暗闇を照らす小さな救いだった。
目的の龍神家の屋敷は、人間の里の中心地から少し外れた、静閑な一等地に構えられていた。
威厳を放つ大きな門と、歴史を感じさせる重厚な古い塀。表の通りにひしめき合う商家とは明らかに異なり、屋敷の内側には見事な庭園が広がり、季節ごとに美しく植え替えられた木々が整然と並んでいる。
阿求が門前へ進み、凛とした声でその名を名乗ると、退屈そうにしていた門番の男は瞬時に表情を強張らせ、深く頭を下げた。
「これは……稗田の阿求様。朝早くから、我が龍神家にどういったご用件でしょうか」
「当主である龍神景綱様へ、少しお耳に入れたい確認事項がありまして参上いたしました」
「当主様、ですか。申し訳ございません、当主様は間もなく、所用にてお出かけになる予定なのですが……」
「ええ、知っています。そのお出かけの予定について、お伺いしたいのです」
門番の男の顔に、わずかな戸惑いと不審の色が浮かんだ。
「当主様の、ご予定、と申しますと?」
「本日――あるいは明日の朝、東大通りにあるあの古い古書店へ向かわれる予定があるのではありませんか」
阿求がそう告げた瞬間、門番の目の奥が、微かに、けれど確かに不自然に動いた。
ほんの一瞬、呼吸が止まるほどの刹那の反応だった。だが、人間のあらゆる機微を記録し続けてきた阿求の瞳は、その決定的な動揺を決して見逃さなかった。
「……は、はい。確かに、その通りでございます。東大通りの書店へ赴く予定がございます」
「その予定は、いつ決まったのですか」
「昨夜、急に、でございます」
「急に? 差し支えなければ、理由を教えていただけますか」
「はあ……。何でも、その古書店の主人から『少し変わった古い記録を見つけたので、ぜひ直に目を通してほしい』と、直々の使者を通じて頼まれたそうなのです」
阿求は、着物の袂の奥にある原稿用紙へ、そっと爪を立てるように触れた。
隣に立つ小鈴も、思わず冷たい息を詰めた。
――原稿には、確かにそう書かれていた。
龍神景綱が、明日の朝、東大通りを通る。
老朽化した書店の前で、木製看板の下敷きになり、重傷を負う。
その破滅へ至るための運命の予定は。
昨日、鈴奈庵に原稿が届いたあとの――「昨夜、急に」決まったのだ。
「その古書店は、以前から景綱様と深く交流があったのですか」
阿求が、声音の温度を一つ下げて尋ねた。
「さあ、私ら下々の者には詳しくは……。ただ、なんでも書店の主人が先日、里の古い石碑に関する一風変わった記録を見つけたとかで」
小鈴の背筋を、薄い氷でなぞられたような冷気が一気に駆け抜けた。
――石碑。
阿求が持ってきた三枚目の原稿に書かれていた、文字の擦り切れた名もない石碑。
明朝の看板事故と、三日後の石碑の怪異は、それぞれ独立した別個の事件などではない。根底で一本の醜い糸のように繋がっているのだ。
阿求の聡明な瞳にも鋭い光が宿る。彼女も全く同じ結論に達したようだった。
「景綱様は、その石碑の記録を直に検分するために、わざわざ書店へ赴かれると?」
「はい」
門番は記憶を掘り起こすように少し首を傾げ、余計なこととは思いつつも付け加えた。
「本来であれば、書店の主人がこちらの屋敷へその記録を持参する手はずだったそうです。しかし、主人がどうしても明日の朝までは店を離れられないと言い張りましてな。熱意に押された当主様が、自ら出向くことになったのです」
阿求の睫毛が、冷たく細められる。
「……どうして、店を離れられないのですか」
「なんでも、店の看板の修理があるとかで」
小鈴と阿求は、弾かれたように同時に顔を見合わせた。
看板の修理。
今にも落ちそうな、危険な木製看板。
そして、まさにその看板の真下へと、他ならぬ当主みずからを呼び出す状況。
――あまりにも、舞台装置が整いすぎている。
すべての歯車が美しく噛み合いすぎているからこそ、それがおぞましい作為の塊に見え、決して単なる偶然には思えなかった。
「景綱様は、もうお屋敷を出られましたか」
「いいえ、まだお支度の途中でございます」
「では、急ぎ面会を願い出ます。お取次ぎを」
阿求が凛と言い放つと、門番はその威厳に気圧されたように一礼し、屋敷の奥へと慌ただしく走っていった。
門前に残された小鈴は、阿求のすぐ隣で限界まで声を潜めた。
「ねえ、阿求」
「何かしら」
「今の門番の話、いくらなんでも原稿の内容に肉薄しすぎじゃない?」
「ええ、その通りね」
「昨日の夜に急に予定が変わって、書店の主人は店を離れられなくて、看板をわざわざその時間に修理して、景綱さんがその真下へ歩いていく……」
「ええ」
「これって……もしかして、誰かが先にあのアホみたいな原稿を書き上げてから、そのシナリオ通りに周りの人間を操って動かしているのかしら」
阿求は、すぐには答えなかった。門の内側から、こちらへ近づいてくる使用人の規則正しい足音が聞こえてくる。
「――その可能性は、十分に否定できないわね」
「だったら、あの原稿は未来を予言しているんじゃなくて、原稿自体が未来を無理やり作り出しているってこと?」
「まだ、そこまで断定する材料はないわ」
「でも、これが全部ただの偶然だって言うなら、幻想郷の偶然はずいぶんと働き者が過ぎるわよ! 私のお茶を不自然にこぼさせて、魔理沙に本を溶かさせて、今度は景綱さんをわざわざ看板の下へおびき寄せるんだもの」
「偶然をいちいち人格化して怒るのをやめなさい」
「だって、原稿の書き手が姿を隠して卑怯に逃げ回っているんだから、代わりに『偶然』っていう神様に文句を言うしかないじゃない!」
「あなたは本当に、責任転嫁の対象を絶やさないのね」
「私の繊細な精神衛生を保つために、絶対に不可欠な防衛作業よ」
その時、重厚な内門が開き、景綱との面会が正式に許された。
通された応接間で待っていた龍神景綱は、五十を過ぎた、体格のいい男だった。
頑強そうな広い肩と、よく陽に焼けた浅黒い顔。決して華美な衣装ではないが、一目で上質と分かる仕立ての良い着物を堂々と着こなしている。人の話を聞く時は相手の目を射抜くように凝視するが、聞き終えた瞬間、他人の意見を切り捨てるように自分の判断へと引き籠もる、特有の傲慢な癖があった。
景綱は、並んで立つ阿求と小鈴を一瞥し、不思議そうに太い眉を上げた。
「これはこれは、稗田の阿求殿。このような夜明け間もない時刻に、我が龍神家に一体何用ですかな」
「景綱様。突然の不躾な訪問を、どうかお許しください」
阿求は、非の打ち所のない優雅な動作で深く頭を下げた。
「明日、東大通りの古書店へお出かけになるという、そのご予定について、どうしても確認させていただきたいことがございまして参上いたしました」
「ほう、その件ですか」
景綱は、緊張感のない軽い笑みを漏らした。
「大層なことではございませんよ。ただ書店の店主が『面白い古い記録』を見つけたので、ぜひとも私に一番に目を通してほしいと頼んできたのです。稗田家が里の記録を熱心に集めているのを、あやつも知っているのでしょう。横槍を入れられる前に、私に手柄を譲りたいというわけですな」
「その、店主が見つけたという記録は、具体的にどのような内容なのですか」
「人間の里の広場に古くからある、あの文字の擦り切れた石碑に関する記録だ、と言っていましたな」
阿求の端正な表情が、わずかに、けれど確実に凍りついた。
隣に立つ小鈴は、その一瞬の戦慄にすぐさま気づいた。これ以上、阿求だけに問答を任せてはいられない。
「景綱さん」
小鈴が、我慢できずに二人の会話へと割り込んだ。
「その、お出かけになる古書店の看板ですが――以前から金具が緩んでいて、非常に危険な状態なのではありませんか?」
景綱は、面喰らったように小鈴の顔を見つめた。
「おや、鈴奈庵の娘御か。なぜあなたがそれを知っているのです?」
「本屋の端くれですから。里の同業の建物の状態くらい、多少は耳に入ります」
「なるほど。確かに、あの木製看板は随分と古い。店主も、明日の朝にちょうど修理を施すと言っていましたな」
「……今朝、ではなく、明日の朝に、ですか?」
小鈴の声が、焦燥からわずかに高く上擦る。
「ええ。昨夜、店主から急ぎの使いが来ましてね。『看板の固定金具が完全に緩んでしまっている。明日の朝一番には大がかりな修理をして直すが、どうかその直前に、店内でその記録を見てほしい』と」
小鈴は、たまらず阿求へ視線を走らせた。
阿求はまっすぐに景綱へ向き直り、その声を一段と引き締める。
「景綱様。甚だ勝手なお願いではございますが、明日のあの書店へのご訪問は、どうかお控えいただけないでしょうか」
「……何故です?」
「看板の固定状態が、極めて劣悪であると聞き及んでいます。修理が完全に終わるまでは、あの店の前を通ること自体、避けるのが身のためです。安全を最優先になさってください」
景綱は、不快そうに額に深い皺を寄せた。
「稗田家の当主ともあろうお方が、たかが古書店の古びた看板一枚を理由に、この私の行動を制限しようというのですか」
「そのように不遜に受け取られたなら、申し訳ありません。ただ、言葉にできぬほどの明白な危険が、そこにある可能性をお伝えしているのです」
「看板の修理は、店主が明朝に行うと言っているのでしょう。ならば私が着く頃には直っているか、あるいは職人が作業をしているはず。何が危険なのです」
「その店主自身が、昨夜から急に、不自然な手段で景綱様を看板の真下へ呼び寄せているのですよ!」
小鈴がたまらず声を荒らげた。
阿求が、まずいとばかりにわずかに視線を動かしたが、小鈴は止まらなかった。
「その大事な記録とやらを見るだけなら、店主が自らこのお屋敷へ持参すれば済む話でしょう? 景綱さんが、わざわざ今にも落ちてきそうな危険な看板の真下へ、自分から出向く必要なんてどこにもないわ!」
景綱は腕を組み、不躾に叫んだ小鈴をしばらく冷ややかな目で見つめた。
「あなたは、何か裏の事情でも聞いているのですか」
「……いいえ、何も」
小鈴はぐっと言葉を詰まらせながらも、退かずに答えた。
「でも、看板が危ないと分かっているのに、わざわざその修理中の建物の下へ人を呼びつける、その主人の意図がどうしても分からないだけです」
景綱はフンと鼻を鳴らし、頑なな態度を崩さなかった。
「店主は、看板の修理の立ち振る舞いと、記録の検分を同時に済ませてしまいたいのでしょう。私のような忙しい人間を何度も呼び立てぬための、あやつなりの配慮だ」
「それならなおさら、修理が完全に終わって、安全が確保されてから出向いても遅くはないでしょう!」
「いいえ、それでは遅いのだ。店主の使いによれば、その石碑に関する記録は――どうしても、今日から明日の朝にかけて、私自身の目で確認せねばならぬ理由があるそうだ」
「なぜ……? なぜ、そこまで時間を急ぐ必要があるのですか」
小鈴の切実な問いに対し、景綱はすぐには答えず、少しの間だけ重い口を閉ざした。
その奇妙な沈黙の長さが、阿求の完璧な記憶の網の目に、確かな違和感として引っかかる。
「……店主の話では、その古い石碑の記録に記されている重要人物が、明日には人間の里を離れてしまうのだそうです」
阿求が、声のトーンを落として静かに追及した。
「里を離れる……? 一体、誰がですか」
「さあ。そこまでは聞いておりません。ただ、一刻を争うということだけを使いから伝えられましてね」
小鈴は、腕を組む景綱の背後に従順に佇む使用人の姿へと、そっと視線を走らせた。
使用人は、主人である景綱の予定を忠実に管理している。
書店の主人は、言葉巧みに景綱をその場所へと呼び寄せている。
看板は明朝までに修理される手はずだが、現時点では未だに危険なまま放置されている。
そして――あの忌々しい原稿には、明日の朝に起きる凄惨な大事故が、すでに確定事項のように書き連ねられている。
小鈴の脳内で、バラバラだったピースがゆっくりと、不気味な形を成して繋がっていく。
これは、看板が偶然老朽化して落ちるのではない。
ターゲットであるこの男を、明日の朝、あの危険な看板の真下へと正確に立たせるために、周囲のあらゆる出来事や人々の思惑が、まるで誰かに丁寧に並べ替えられているかのようなのだ。
「景綱さん」
小鈴は、胸の鼓動を悟られぬよう、なるべく穏やかな微笑を湛えて言った。
「よろしければ、明日のお出かけ、私たちも一緒に行かせていただけませんか?」
「あなた方が、ですか?」
「ええ。鈴奈庵の店主としても、その『古い石碑に関する記録』には、とても興味がありますから」
阿求が驚いたように小鈴の横顔を見た。小鈴は景綱に気づかれぬよう、小さく首を横に振る。
原稿の存在を明かすわけにはいかない。それでも、破滅へ向かう景綱を一人で行かせるわけにはいかなかった。
「ふむ、そういうことであれば、別に構いませんよ」
景綱は鷹揚に頷いた。
「稗田の阿求殿が同行してくださるのなら、私としても心強い。大船に乗ったつもりで安心できますな」
阿求は、感情の読めない薄い笑みを口元に浮かべた。
「ええ、どうぞご安心いただけるよう、全力を尽くしますわ」
小鈴は、阿求のすぐ隣で唇をほとんど動かさずに呟いた。
「阿求、今のあなたの顔、これから人を罠に嵌める悪党の笑顔よ。全然安心できないわ」
「あなたの方が、左右の足の小指を不格好に庇っている分、よほど周囲の不安を煽っているわよ」
「私は不慮の怪我を負った被害者なの!」
「景綱様の前でそんな見苦しい言い合いをしないでちょうだい」
「事実でしょうに」
景綱は、二人の小気味よい掛け合いを見て、今度は少しだけ愉快そうに声を立てて笑った。
その裏のない笑顔に、小鈴はほんの少しだけ救われたような気がした。
――笑っている。
この人はまだ、明日の朝に自分を待ち受ける凄惨な運命を何も知らない。知らないまま、ただ純粋な知的好奇心に突き動かされて、自ら危険な場所へと足を進めようとしている。
いったん屋敷を出て、目的の東大通りへと向かう道すがら、朝の活気が満ちるにつれて、周囲の人通りは少しずつ増え、道幅は狭まっていった。
朝採りの野菜籠を抱えた女たち。威勢よく店先へ商品を並べる男たち。その間を縫うようにして楽しげに走り回る子どもたち。
ガタゴトと響く荷車の音、犬の遠吠え、急ごしらえの露店。
人間の里の朝は、時間が経てば経つほど、大通りそのものが生き物のようにはち切れんばかりに膨らんでいくようだった。
前方を景綱と使用人が堂々と歩き、阿求と小鈴がその数歩後ろから静かに追従する。
小鈴は、前を行く景綱の歩き方をじっと観察していた。
景綱は非常に歩幅が広い。特別に急いでいるわけではないのだろうが、とにかく歩行の途中で立ち止まることを極端に嫌う、せっかちな歩き方だった。明確な目的地がある者の歩行。途中で顔見知りに呼び止められても、短く愛想笑いを返すだけで、決して足を止めずに通り過ぎていく。
原稿に書かれた「看板の下敷きになり大怪我を負う人物」は、確かに、明日の朝になれば寸分の狂いもなくこの道を歩いていそうだった。
小鈴は、視線を道の遥か先へと向け、目的の古書店を探した。
大通りの人混みのせいで、店の全容はまだ遠く霞んで見えない。しかし、問題の看板の上端だけが、周囲の家々の瓦屋根越しにひょっこりと顔を覗かせていた。
古い木製の看板。長い年月、里の風雨に晒されてきたせいで、表面の重厚な塗料は無残に剥がれ落ちている。その看板は、店の軒先から大通りへと、今にも圧し折れそうな角度で不気味に突き出していた。
「阿求」
小鈴は、周囲の喧騒に紛れ込ませるように、ぐっと声を落とした。
「何かしら」
「景綱さんが、あの書店へわざわざ行く理由……やっぱり、どう考えても不自然じゃない?」
「ええ、そうね」
「ただ古い記録を見るだけなら、書店の店主が持ってくればいい。なのに、店主は店を離れられないと言い張り、当主をわざわざ呼び寄せている」
「しかも、看板の修理が完全に終わる前の、最も危険なタイミングに、ね」
「まるで、あの不気味な原稿の意志が、景綱さんをどうしてもあの看板の真下に立たせようと、裏で手を引いているみたいだわ」
阿求は、しばらくの間、無言のまま前を行く景綱の広い背中を見つめていた。
「――その可能性は、極めて高いでしょうね」
「もし本当にそうだとしたら、私たちが明日までに看板を無理やり外したとしても、きっと駄目ね」
「ええ。怪異は『景綱が大怪我を負う』という結果を成立させるために、別の最悪な経路を瞬時に生み出すだけだわ」
「昨日の、あの畳にこぼれたお茶みたいに?」
「ええ、その通りよ」
小鈴は、悔しさに唇をぎゅっと噛み締めた。
「じゃあ、どうしても景綱さんをあの店へ行かせないようにするしかないわ」
「問題は、あの頑固な当主をどうやって止めるか、よ」
「私はね、阿求。もう景綱さんに正直に話してしまってもいいと思うの」
「原稿の存在を、すべて明かすと?」
「全部ではなくても、明日あそこへ行けば命に関わる危険があることくらいは、必死に伝えれば……」
「それでは、私たち自身が怪異の首謀者か、あるいは正体不明の不審者として疑われるのがオチよ」
「疑われたって、あの人の大怪我を未然に防げるなら、そっちの方がよっぽどいいでしょう!」
「あなたは、里の有力者に対して、いきなり『あなたは明日の朝、看板の下敷きになって血を流します』と告げるつもり? 正気を疑われるわよ」
「言い方くらい、その場でいくらでも考えるわよ!」
「どんなふうに?」
小鈴は、歩きながら少しだけ知恵を絞った。
「えっと……『景綱さん、明日の朝、あの古書店の前を通るのは絶対にやめた方がいいです。私、なんだか、あの看板がドカンと落ちてくるような気がするんです!』……とか」
「それは、お告げを授かった博麗の巫女か、あるいは道端で重度の寝不足になった泥酔気味の魔法使いの台詞よ。説得力が皆無だわ」
「じゃあ、阿求がもっとマシな言い方をしてよ!」
「私が言えば、それは『稗田家』の名を冠した正式な警告になるわ。重みが違うのよ」
「それなら、あの頑固な景綱さんでも信じて足を止めてくれる?」
「信じてもらう必要はないわ。ただ、稗田家の権威に圧されて、足を止めてくれさえすればそれでいいの」
「阿求って、本当に人を言葉で説得するより、権力で命令する方が得意よね」
「あなたこそ、人を言葉で説得するより、鈴奈庵の美味しい食べ物で胃袋から懐柔する方が得意でしょうに」
「失礼ね、それは貸本屋の店主としての極めて高度な接客技術よ!」
「景綱様へ美味しい朝餉でも振る舞って、書店へ行く予定そのものを綺麗さっぱり忘れさせるつもり?」
「それだって、立派な一つの作戦だわ!」
「あなたは本当に、博麗霊夢と霧雨魔理沙の、一番大雑把で悪い部分だけを煮詰めて混ぜ合わせたような恐ろしい発想をするわね」
「なによ、阿求だって八雲紫の冷酷で悪い部分だけを綺麗に磨き上げたみたいな、嫌な言い方をするじゃない!」
「私は紫ほど、人を理不尽に放置して楽しまないわよ」
「現に、私の寝室の窓を乗り越えて不法侵入してきたじゃない!」
「それは事態を収束させるための、必要な――」
「もう、その窓の話はお腹いっぱいよ!」
阿求は、そこまで言い合ってから、ふっと少しだけ歩調を緩めた。
小鈴の痛む左右の足指を、それとなく気遣ったのかもしれない。
小鈴は、その優しさをあえて口に出さずにおいた。そんなことを口にすれば、阿求は決まって「あなたを気遣ったわけではなく、全体の移動速度を一定に保つための効率的な判断よ」と冷たく言い返すに決まっているからだ。
言葉にしない方が、今の二人にとっては、ほんの少しだけ優しかった。
問題の古書店へと近づくにつれて、鼻をつく空気の匂いが明らかに変わっていった。
大通りの朝を支配していた、人間の汗、新鮮な野菜、爆ぜる炭、濃い味噌や焼き魚の生活臭。
しかし、その書店の前に差し掛かった瞬間、古い木材のひび割れた乾いた匂いと、膨大な紙が長い年月閉じ込められて発酵したような、独特の饐えた匂いが急激に強くなった。
そして――あろうことか、その古書の匂いの上に、まるで血液を連想させるような、腐った金属の赤錆の匂いがどろりと重なって漂ってきたのだ。
小鈴は、たまらず顔を跳ね上げた。
間近で見る看板は、遠目から思っていたよりもずっと大きく、禍々しかった。
横幅は大人二人が並んでもまだ余りあるほどに広く、厚みもずっしりとある。表面には煤けた文字で店名が大きく掘られているが、塗料は完全に剥げ落ち、文字の一部は激しい雨風によって醜く削り取られていた。
その巨体を支える太い金属製の金具は、軒下の古い木目へと斜めに、深く打ち込まれている。
――だが、その金具の一つが、まるで血を流しているかのように赤黒く錆びついていた。
小鈴は、その看板が描く「落下の軌道」の真下へと入ってしまわぬよう、本能的な恐怖からぴたりと足を止めた。
「阿求」
「……ええ、見えているわ」
阿求は景綱の背中に追いつく前に、鋭い視線で看板の周囲のディテールを徹底的に観察した。
赤錆びた金具。今にも抜け落ちそうな釘。軒木の痛々しい割れ目。地面へと頼りなく落ちている乾いた木屑。店の前にぽつんと置かれた踏み台。壁に立てかけられた古い梯子。
彼女は、その一つ一つへと、逃さず視線を移して記憶に刻み込んでいく。
その時、古書店の薄暗い奥から、一人の男が静かに姿を現した。
ひょろりと細身の身体に、白いものの混じった白髪交がりの髪を、几帳面な手つきで後ろへと撫でつけた、この古書店の店主だった。
「龍神様、お待ちしておりました」
薄暗い店の奥から進み出た店主は、景綱へ向かって慇懃に頭を下げた。それから、その横に佇む阿求と小鈴へと、不審げな視線を向ける。
「稗田の阿求様まで、ご一緒とは……。これは、一体どういった風の吹き回しでしょう」
「景綱様の同行者です。私個人としても、その古い記録には興味がありましてね」
阿求が、一切の感情を排した冷徹な声で答えた。
「それよりも店主、看板の修理が未だに終わっていないと聞き及びましたが」
「は、はい。どうにも部材が足りず……。昼前までには何とか職人を呼んで、手配を済ませるつもりでおりました」
「その危険な状態で、景綱様をわざわざこの店の前へ呼び出したのですか」
阿求の追及は、凍りつくように冷たかった。
店主は気圧されたように、困ったような歪んだ笑みを浮かべる。
「いえ……何としても、その貴重な記録を早く龍神様にお見せしたかったもので」
「記録など、修理が完全に終わってからでもいくらでも見せられるでしょう。なぜそこまで時間を急ぐ必要があるのです」
「しかし、龍神様が明日には――」
店主は、そこでハッと何かに気づいたように唐突に口を閉ざした。
阿求の睫毛が、さらに鋭く細められる。
「明日には、何ですか?」
「いえ……。何でもありません。こちらの独り言です」
小鈴は、不自然に言葉を濁した店主の手元をじっと見つめた。
彼の右手の親指には、べっとりと黒い汚れが付着している。
看板の金具の赤錆なのか、あるいは古い墨か、機械の油なのか。薄暗い光の中では判別がつかない。
店主は、そわそわとした様子で頭上の看板へと目を向けた。その視線の色に、小鈴はぞっとするような違和感を覚えた。それは、単に「頭上の危険なものを心配している者」の目ではなかった。
看板の向こう。看板の下。
まさにその破滅の軌道の真下に、誰かが自らの足で立つのを、じっと息を潜めて待ち構えているような、そんなひどく悪趣味な目つきだった。
「店主さん」
小鈴は、胸のざわつきを抑え、なるべく穏やかな声音を作って割り込んだ。
「景綱さんには、その看板の下へ絶対に入らないように、今ここで注意してもらえませんか」
「……ええ、もちろん、そのつもりですよ」
「では、なぜお店の唯一の入口が、よりによってその看板の真下にあるんです?」
店主は、今度は何も答えなかった。
古書店の入口は、完全に看板の真下に位置していた。この店に一歩でも入ろうとするならば、誰もが必ず、あの巨大な看板の影を通過しなければならない構造になっているのだ。
阿求は店主の沈黙を無視し、軒下の金具へと歩み寄った。
「……少し、触れても?」
「ええ、構いませんが」
店主が渋々答える。
阿求は、細い指先を赤黒く錆びついた金具へと近づけた。その指が実際に触れるよりもほんの僅か手前で、まるで重力に耐えかねたかのように、乾いた赤錆の粉がハラハラと一部だけ崩れ落ちた。地面の黒い土の上へ、細かな赤い粒が点々と散っていく。
阿求はその粉を指先へ少しだけ掬い取り、親指の腹で静かにこすり合わせた。
ただの古い赤錆のように見える。しかし、その微細な粒の中に、ほんの一筋だけ、削り出されたばかりの新しい金属の光が、朝の光を浴びてキラリと混じり込んでいた。
「この金具……昨夜、あなた自身が触りましたか」
阿求が、横を向いたまま鋭く問う。
店主は、わずかに視線を泳がせ、不自然に逸らした。
「……ええ、自分で少し修理を試みようと、触りはしましたが」
「工具はどこに?」
「店の中の、帳場です」
「結構。では、その工具を見せてください」
「なぜ、そのようなものを……?」
「本当にあなたが修理を試みたのであれば、その工具の刃先に、今私が削り取ったような新鮮な金属粉が必ず残っているはずです」
小鈴は、阿求の厳しい横顔を見つめた。
阿求は今、本気で生身の「犯人」を暴こうとする顔をしていた。原稿の予言に怯えて従っているのではない。この看板が物理的にどう危険なのか、誰かが意図的に細工を施した形跡があるのか、現実世界の確かな証拠を掴もうとしている。
それは、小鈴にとって言葉にできないほど心強いものだった。紙のシナリオに無抵抗に従うのではなく、紙の嘘を疑いながら、現実の現場をその目で見据えている。
店主は生唾を飲み込み、しぶしぶといった足取りで店の中へと入っていった。彼が完全に影に隠れたのを見計らい、阿求が小鈴の耳元で素早く囁いた。
「金具の根元に、ごく新しい引っ掻き傷があるわ」
「それって、店主が修理しようとした時にできた傷?」
「分からないわ。釘の周囲の木目に、無理やり引き抜こうとしたような細い抉り傷がある。けれど、まっとうな工具でボルトを緩めたのであれば、もっと木が派手に削れるはずよ」
「じゃあ……誰かが、工具すら使わずに、素手のようなもので直接触ったっていうの?」
「あるいは、人為的に細工をした者が、あえて工具の痕跡を一切残したくなかったのか……」
「やっぱり、誰か犯人がいるのね!?」
「それもまだ、現時点では検証中の一つの仮説よ」
「阿求、あなたにそんな恐ろしい顔で『仮説』なんて言われると、もうほとんど犯人の首根っこを掴まえているようにしか見えないわよ」
「あなたが博麗の霊夢のように、何でもかんでも顔の印象だけで判断しようとするからよ」
「霊夢は顔じゃなくて、理不尽なまでの『勘』でしょうに」
「では、あなたは霧雨魔理沙のように音だけで事態を判断しているのね。何か危険そうな物音がすれば、とりあえず深く考えずに不審な本を開く」
「私は魔理沙ほど無鉄砲じゃないわ!」
「なら、彼女よりも万事において慎重に行動してちょうだい」
「今、まさにこうして命がけで頑張っているでしょうが!」
小鈴は、口を尖らせながらふと看板を見上げた。
巨大な木製の看板は、朝の弱い風を受けて、ゆら、ゆらと微かに揺れていた。
それは揺れているというよりも、まるで何かの力によって、下へと真っ逆さまに「落ちること」を、明日のその瞬間まで辛うじて先延ばしにされているかのような、異様な震え方だった。
木製の重たい板が、軒先からわずかに浮き上がる。
古びた金具が、きぃ、と、首を絞められたような嫌な音を立てて鳴いた。
小鈴は、喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じた。
あの不気味な原稿に書かれていた、呪いのような一文が嫌でも脳裏に浮かび上がる。
『明日の朝、龍神家当主・龍神景綱は、書店の木製看板の下敷きになり、大怪我を負う』
小鈴は、その巨大な看板そのものを凝視した。
看板自体に邪悪な意思があるわけではない。看板が景綱を憎み、ピンポイントで狙っているわけでもない。
しかし――明日の朝という正確な時間に、この場所へ景綱の身体を寸分の狂いもなく立たせるために。周囲の人間の唐突な予定変更や、不自然な会話の誘導、そしてこの『修理の遅れ』という不気味な空白が、まるで目に見えない蜘蛛の細い糸のように複雑に結び合わされている。
気づいてしまった。原稿は、看板をただ落とそうとしているのではない。
原稿の本当の狙いは――。
「阿求」
「分かっているわ、小鈴」
「私、まだ何も言葉にしていないわよ」
「あなたの顔に、すべてこれ以上ないほど大きく書いてあるもの」
「勝手に私の顔の裏まで読まないでちょうだい!」
「悪いけれど、今のあなたの顔は、あの不気味な原稿よりもよっぽど読みやすくて助かるわ」
二人が声を潜めて交わした刹那のやり取りを切り裂くように、古書店の薄暗い闇の奥から、店主の低く濁った声が響いた。
「龍神様、どうぞこちらへ。お見せしたい件の記録は、すべて奥の帳場に用意してございます」
「おお、そうか」
景綱が深く頷き、無防備な足取りで店の入口へと一歩を踏み出す。
――その位置は、まさにあの赤錆びた巨大な看板の真下だった。
小鈴の胸の奥で、心臓が爆ぜたような悍ましい衝撃とともに、ドクンと激しく脈打った。
「景綱さん、待って! 行かないで!」
小鈴は喉を掻き切るような悲鳴を上げた。
その叫び声に弾かれたように、景綱が「む?」と不審げに振り返る。その足が、まさに看板の落下の軌道の真ん中で、ぴたりと止まってしまった。
阿求が、その細い身体からは想像もつかない鋭さで一歩前へと踏み出していた。
「景綱様、そこから今すぐ下がってください!」
店の奥にいた店主が、何事かと驚愕に目を見開く。
「な、何を突然――」
「その看板が、今すぐにでも落ちてきます! 危険です!」
阿求の凛とした張り詰めた声が、朝の大通りへと爆音のように響き渡った。行き交っていた里の人々が、一斉に何事かとこちらを振り返る。
景綱は、怪訝そうに頭上の巨大な木製看板を見上げた。
その、次の瞬間だった。
里を吹き抜けていた朝の風が、ぴたりと、不自然に止まった。
遠くで響いていた鳥の囀りも、人々のざわめきも、すべての環境音が完全に途切れた。古書店の軒下だけが、まるで世界の理から切り離されて、底の知れない音のない井戸の底へと急速に沈み込んでいくかのような、圧倒的な静寂が空間を支配する。
小鈴の耳は、その静寂の奥底から響く、あの致命的な「音」を捉えていた。
五感を鋭く刺激する、かすかな、けれど明確な軋み。
――もう、昨日から何度も何度も、嫌というほど耳にしてきた怪異の音だ。
写本を汚した急須が傾いた瞬間の、あの畳に染み込む音。
何もない空間から不気味な原稿が忽然と落ちてきた、あの紙の音。
呪われた妖魔本の頁が自らめくれていく、あの乾燥した音。
そのすべての悲劇の底に共通して流れていた、現実の強固な因果が決定的に外れる直前の、破滅の予兆。
――きぃ、と。
金具が、悲鳴を上げた。
阿求がなりふり構わず地を蹴り、前方の景綱の着物の腕をがっしりと掴み取った。
「動いて!」
小鈴もまた、痛む両足の小指の激痛を完全に忘れて飛び出し、反対側から景綱の分厚い肩へと、必死にその両手を伸ばした。
「下がって!」
阿求の引き絞るような叫びが、張り詰めた空間を切り裂いた。
掴まれた景綱の強靭な身体が、二人の気迫に押されるようにして、わずかに後ろへと引き剥がされる。
――その直後だった。
巨体を支えていた最後の固定金具が、まるで内側から爆ぜたかのように、鮮血のような赤錆の粉を派手に撒き散らしながら完全に外れ飛んだ。
軒木の内部で、何かが致命的にへし折れる。
それは、身の毛もよだつほどに乾いた、骨の砕けるような音だった。
巨大な木製の看板が、重力に従ってゆっくりと傾いていく。
その刹那、世界の時間がほんの一瞬だけ、奇妙に引き延ばされたような錯覚を小鈴は覚えた。
視界が、恐ろしいほどの解像度で看板の「裏側」を捉える。
そこには、長い年月をかけて虫に喰われたのとは明らかに異なる、不自然なほど細かく、鋭い傷が刻まれていた。
――それは、まるで文字のような形を成した、忌々しい爪痕。
平行に走る、二本の線。
互いに激しく近づき合いながらも、決して交わることのないその意地悪な傷跡は、昨日、鈴奈庵の机の上で見た、原稿用紙の文字を乱暴に抹消していた「あの黒い二重線」の歪な形状に、酷いほどよく似ていた。
次の瞬間、伸びきった時間が一気に弾ける。
重たい看板が、真っ逆さまに叩きつけられた。
朝霧の残る静かな人間の里を、すべてを破壊するような巨大な木の音が、残酷に叩き割った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第六話では、小鈴と阿求が、原稿に書かれた未来へ立ち向かいました。
紙に書かれたことは、起こるのか。
それとも、二人の意志で変えられるのか。
次回もよろしくお願いします。
毎週木曜日・日曜日 午後7時更新予定です。