形骸たる頁の啓示   作:角筈律

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第七話です。
小鈴と阿求は、怪我をして永遠亭へ運ばれました。
けれど、診てもらった結果、思わぬ答えが返ってきます。
今回も、二人のやり取りを見守っていただけましたら嬉しいです。
それでは、どうぞ。


第七話:永遠亭の診断

看板が轟音を立てて落ちたあと、最初に耳へ飛び込んできたのは、誰かの悲鳴ではなかった。

 それは、巨大で重厚な木材が冷徹な石畳へと真っ逆さまに叩きつけられた、この世のものとは思えないほど凶暴な破壊の音だった。

 朝の間の人間の里を優しく覆っていたすべての生活のざわめきが、その容赦のない一音によって完全に断ち切られる。古書店の店先へと几帳面に並べられていた古書の背表紙が一斉に激しく震え、傷ついた軒下からは、まるで細かな雪のように白い木屑がハラハラと落ちた。行き場をなくした突風に押された薄い紙片が何枚か宙へと不気味に舞い上がり、倒れ伏した看板の下を、泥にまみれた白い魚のように滑り抜けていく。

 小鈴は、しばらくの間、何一つ思考することができなかった。

 激しい耳鳴りの向こう、白く霞む視界の中央に横たわっているのは、不自然な角度で横倒しになった巨大な木製看板。

 その向こう側、石畳の上に仰向けに倒れ込んでいる、龍神景綱の大きな身体。

 そして何より、その景綱の身体の前に、まるで自らの細い命を盾にするかのように身を投げ出して立っていた、他ならぬ稗田阿求の姿だった。

「阿求――ッ!」

 小鈴は、肺にあるすべての空気を絞り出すようにして叫んだ。

 自分の叫び声であるはずなのに、それはまるで、どこか遠い他人の世界の底から響いているかのようにひどく不確かに聞こえた。

 阿求は、片手で景綱の頑丈な腕を未だにがっしりと掴んだまま、もう一方の腕を自らの胸元へと固く引き寄せている。その上質な着物の右の肩口は無残に大きく裂け、背中側の布地にも、落下してきた看板の鋭い角が猛烈な速度で擦り抜けたことを示す、細く生々しい裂け目が一直線に走っていた。

阿求の肩から腕へかけて、淡い藍色の着物の下に、おぞましい赤い染みがじわじわと広がり始めている。

「景綱様!」

 阿求の張り詰めた声は、今度こそ強烈な痛みに激しく揺れていた。

「お怪我は……ございませんか?」

「私は……あ、ああ、大丈夫だ」

 景綱は、石畳に倒れた姿勢のまま、掠れた声で答えた。

 額に浅い擦り傷を負ってはいるものの、その瞳の意識ははっきりとしている。間一髪、二人の警告と阿求の捨て身の牽引によって、看板の致命的な直撃だけは完全に免れていた。

 その事実をその目で確認した瞬間、阿求の胸から安堵の息が漏れた。

 ――そして、その次の瞬間には、激痛に耐えかねてみずからの右肩を深く押し込んでいた。

「阿求、お願いだから動かないで!」

 小鈴は叫びながら、なりふり構わず友人へと駆け寄ろうとした。

 しかし、その瞬間に左右の小指が同時に焼き付くように痛み、足元が思うように前へと進まない。巨大な看板の端から激しく飛び散った鋭い木片を避けた拍子に、両足の爪先へ不自然な負荷がかかってしまっていたのだ。

 小鈴は最初の一歩目で痛烈に顔を歪め、それでも奥歯を噛み締めて二歩目を無理やり踏み出した。

「小鈴、あなたも――」

「私はいいの! 今は私のことなんてどうでもいいのよ!」

「よくないでしょう」

 阿求は、みずからの肩の痛みを必死に堪えながら、小鈴のおぼつかない足元を冷徹に睨み据えた。

「歩き方が、さっきまでとは比べものにならないくらいおかしいわ」

「私の歩き方なんて、今朝窓からあなたが入ってきた時からずっとおかしいのよ!」

「それは嫌というほど知っているけれど、今のはそれとはまったく別の意味でよ」

 小鈴は即座に言い返そうとした。

 しかし、左右の足先から容赦なく駆け上がってきた鋭い神経の痛みが、言葉を形にするよりも先に、その膝をがくがくと激しく揺らした。小鈴はたまらず倒れゆく看板の側面に、泥を被るのも構わずに両手をつき、どうにか石畳へと倒れ伏すのだけは免れた。

「……痛い、本当に痛いわ……」

「でしょうね」

「ちょっと阿求……そこは、もっと感情を込めて私のことを心配するところよ!」

「心配しているからこそ、冷静に今のあなたの状態を分析して言っているのよ」

「阿求は、本気で他人のことを心配している時ほど、致命的に冷静すぎるのよ!」

「あなたこそ、本当に誰かから心配されるべき時ほど、自分の身体を一番後回しにするでしょう!」

二人の悲痛な声が、朝の冷たい空気の中で激しく重なり合った。

 本来ならばあの巨大な看板の下敷きになり、血の海に沈んでいるはずだった龍神景綱は、石畳に倒れた姿勢のまま、ただ呆然と二人を見上げていた。その厳めしい表情には、命を救われたことへの困惑と、目の前で繰り広げられる二人の必死な言い合いに対する、わずかな呆れが浮かんでいた。

「……お二人とも」

 景綱は、泥を払うのも忘れて、低く掠れた声で言った。

「どう見ても、あなた方の方がよほど酷い負傷をしているのではありませんかな」

「「違います!」」

 小鈴と阿求は、申し合わせたかのように、ほとんど同時に激しい声を張り上げて否定した。

 ――だが、その瞬間。

 小鈴の脳裏には両足の小指から焼火箸を押し当てられたような激痛が、阿求の脳裏には引き裂かれた肩と背中から肉を抉られるような鋭い痛みが、それぞれ容赦なく襲いかかった。

 ただの若い勢いだけで完全に否定しきれるほど、二人の生身の身体は、決して無傷ではいられなかったのだ。

 古書店の周囲に集まる人だかりが、波紋のようにじわじわと膨らんでいった。

 人間の里の朝は、情報が巡るのが早い。「看板が落ちた」という、たった一つの凶暴な破壊の音は、大通りの端から端へと一瞬で伝播していく。店先で箒を止めて立ち尽くす者、荷車の手綱を引いて馬を止める者、書店の真隣にある茶屋の女主人が、慌てて戸口から暖簾をめくって顔を出す。

 石畳の上に無残に横倒しになった看板の周囲には、千切れた赤錆びた金具と、中まで完全に腐食してボロボロになった黒い木片が、まるで骸の破片のように散らばっている。

 阿求は、右肩から滴り落ちる熱い痛みを必死に脳の奥へと押し殺しながら、鋭い視線でその惨状を見回した。

 看板の落下。

 標的だった景綱の完全な回避。

 みずからの、右肩の負傷。

 小鈴の、両足の痛みの悪化。

 ――あの忌々しい原稿に書かれていた「未来のシナリオ」は、完全な形では成立していない。私たちは、運命をねじ曲げることに成功したのだ。

 しかし、看板は現に落ちた。そして、稗田阿求という人間の血が、確かに石畳を汚した。

 その厳然たる事実が、阿求の胸の奥で、鉛のように不気味な形を成して静かに沈んでいく。

(景綱様は助かった。それは確か。……けれど、原稿に刻まれていた『大怪我をする』という因果の文章そのものが、この世界から完全に消滅したわけではないのね。……結果の対象が、ただ景綱様から、身代わりとなった私へ『移った』だけなのだとしたら――)

「阿求」

 すぐ近くから、小鈴の震える声が聞こえた。

「何かしら」

「肩……すごく、血が出てるわよ」

「そんなことより、あなたこそ今すぐその足元を見せなさい」

「私はいいのって言っているでしょう!」

「小鈴!」

「阿求の方が、どう考えたって重傷じゃない! 着物がこんなにボロボロに裂けて、背中側の白い肌にまで、痛々しい傷が走っているもの……!」

「けれど、あなたは最初から両方の足を庇って、まともに歩くことすらできていないでしょう」

「これは、その……朝からずっと続いている、ただの持病みたいなものよ!」

「今朝から両足の小指を同時に負傷しているなら、なおさら、そんな不吉な状態を放置していいはずがないわ」

その時、押し寄せる人の輪の向こうから、凛とした涼やかな声が響いた。

「そこでお二人とも、絶対に動かないでください!」

 ざわめく人垣の中から、ぴょこりと長い白い兎耳が現れる。

 医療用の薬草籠を片手に携えた鈴仙・優曇華院・イナバが、人混みを割って倒れた巨大看板へと迅速に近づいてきた。

 彼女はまず石畳に倒れる景綱の容体を確認し、それから阿求、最後に小鈴へと流れるように視線を移していく。一瞬にして現場の状況のすべてを正確に把握しようとする、熟練の医療従事者ならではの鋭い眼差しだった。

「そちらの旦那様、意識ははっきりとしていますか? 大丈夫ですか?」

「うむ……。私は頭を少し掠めただけで、軽い擦り傷を負った程度だ」

 鈴仙は景綱の瞳孔の動きと受け答えの明瞭さを素早く確認し、小さく頷いた。

「分かりました。では、念のためそのまま動かずに寝ていてください」

 次に、鈴仙はすぐさま阿求の元へと膝をついた。

「今度はあなたです。裂けた肩口を見せてください」

「私は後回しで構いません。それよりも、小鈴の足を先に――」

「阿求さん」

 鈴仙の声音はどこまでも柔らかかったが、同時に他者の反論を一切許さない、医療従事者としての明確な制止の響きを帯びていた。

「あなたも立派な患者です」

「しかし、私は稗田の当主として、景綱様を――」

「あなたが身を挺して旦那様を庇ったことは、見ればすぐに分かります。ですが、現時点で右の肩と背中からそれだけの出血を見せている人が、怪我の軽重を判断する医療側の立場へ回ろうとしないでください」

 阿求は、わずかに唇を開いた。

 いつもの知性あふれる弁舌で言い返そうとしたらしい。しかし、鈴仙はその隙を与えることなく、すでに傷口の応急処置へと入っていた。裂けた藍色の着物の布地を手際よく避け、薬草籠から出した清潔な滅菌布をじわりと傷口へ押し当てる。

「深くはありませんが、背中に鋭利な裂創がありますね。肩は強い衝撃による打撲でしょう。絶対に右腕を動かさないでください」

 鈴仙は、周囲で見守っていた里の若者たちへ向けて鋭く指示を飛ばした。

「そこの方、誰か清潔な布を! あと、添え木になるような硬い木の板か、なければ硬く巻いた布包みを持ってきてください。急ぎ肩を固定します!」

「私は、自分の足でちゃんと歩けるわ」

 それまで看板を支えに立ち尽くしていた小鈴が、意地を張るように言った。

 鈴仙は、処置の手を止めずに小鈴の方へと鋭く振り返る。

「両足を見せてください」

「でも、本当に歩けますから」

「自力で歩けるということと、今この状態で歩いてよいということは、まったくの別問題です」

 小鈴は、気圧されて少しだけバツが悪そうに顔をしかめた。

 鈴仙は小鈴の前に跪くと、手際よく草履を脱がせ、白足袋の上から腫れ具合を丁寧に確認していく。

「……酷いですね。左右とも、関節のあたりまで赤黒く腫れ上がっていますよ」

「それは……朝から、右の小指も、左の小指も、順番に痛めてしまったので」

「順番に?」

「ええ。右を派手にぶつけて痛めたあと、台所で左の小指も同じように痛めました」

「……それは、一体どういう状況でそうなったのです?」

 小鈴は、ぐっと口を閉ざした。

 あの不気味な原稿の存在を正直に話せば、また狂人の妄言を見るような変な目を向けられるに違いない。

 朝から何度も足の小指をぶつけ、お茶を不自然にこぼし、大切な妖魔本を失い、挙句の果てにこの大掛かりな看板落下事故へ巻き込まれた――。

 ただ普通に話したところで、普通の人間の枠を遥かに超えた「ただの致命的に不運な人間」と思われるのがオチだ。そこへさらに「実はそのすべてが、事前に原稿へ克明に書き込まれていた」などという荒唐無稽な事実を付け加えれば、鈴仙の不審の目はさらに曇ってしまうだろう。

「……私の、ただの不注意です」

 小鈴は、視線を泳がせながら消え入るような声で答えた。

「少し、いろんな悪い偶然が重なってしまって」

「そうですか」

 鈴仙は、それ以上は深く追及しなかった。

 だが、その冷淡な「そうですか」の響きは、納得したわけでは決してなく、後で永遠亭の診察室に入ってから徹底的に調べ上げる、という意味であることくらい、小鈴にも容易に察しがついた。

「小鈴のその足は、今すぐ永遠亭へ運んで精密に診てもらった方がいいわ」

 阿求が、処置を受けながら言った。

「あなたもです」

 鈴仙が、髪の兎耳をぴくりと揺らして即座に切り返した。

「私は――」

「あなたもです」

「ですが、この看板が急に崩落した原因を、私は観察者として今すぐ現場で確認しなければならないのよ」

「肩から生々しい血を流している観察者なんて、医療の世界ではただの救急搬送されるべき負傷者です。大人しくしてください」

 今度こそ、阿求は完全にぐうの音も出ずに黙り込んだ。

 小鈴は、その様子を見て胸の奥で少しだけホッと安心していた。あの博学多才で、里の誰も口喧嘩で敵わない稗田阿求が、こうして一方的に言い負かされる場面は、歴史的にも極めて珍しい。

「あの、鈴仙さん」

 小鈴が、阿求を援護するふりをして口を挟む。

「どう考えたって阿求の方が重傷よ。肩からこんなにたくさん血が出ているんだもの。私は後に回して、まずは阿求の治療を最優先にして」

「小鈴さんも、先ほどから両足のつま先を不自然に庇って、まともに一歩も歩けていません」

「でも、私の方はただの『小指』だし…」

「小指であっても、強い負荷がかかれば簡単に骨は折れます」

「折れているとは限らないわ。ただの打撲かもしれないでしょう?」

「直に骨を診ていないので、まだ折れていないとも言い切れません。だから、大人しく診せなさい」

「だったら、なおさら出血している阿求を先に――」

「お二人とも、先ほどから自分の体を差し置いて、互いの怪我を押しつけ合っていますが、医療におけるトリアージは譲り合いの精神で決まるものではありません」

 鈴仙は、本当にとんでもない意固地な患者たちを見つけてしまったとばかりに、困り果てた表情で二人の顔を交互に見つめた。

「お二人とも等しく重症の患者です。先に運ぶ順番を争う必要はありません」

「でも、私は歩けるわ」

「私も歩けるわよ」

 小鈴と阿求が、一言一句たがわず同時に言い放った。

 あまりの頑固さに、鈴仙は呆れたように一拍だけ沈黙した。

「……お二人とも、絶対に一歩も歩かせません」

 鈴仙は表情を引き締めると、即座に周囲で見物していた里の人々へ向けて指示を飛ばした。

「どなたか、至急永遠亭へ連絡を! 担架を二つ、大至急持ってこさせてください!」

 担架が到着するまでの数分間、鈴仙の指先は目にも留まらぬ速さで応急処置を編み出していった。

 阿求の引き裂かれた右肩は、これ以上些細な振動でも動いて傷口が開かぬよう、清潔な布で厳重に上体ごと固定される。痛々しい背中の裂創には、薬草の染みた滅菌布がピタリと当てられ、溢れ出る鮮血が手際よく抑え込まれていった。

 一方、小鈴の左右の小指は、腫れの悪化と微細な骨折を防ぐため、隣の趾と抱き合わせる形で素早く添え木代わりに仮固定された。鈴仙は小鈴の足を少しだけ高い位置に据え、ひんやりと冷たい冷却布を丁寧にかぶせる。

 小鈴は、自分の両足先が瞬く間に真っ白な包帯でがんじがらめに包まれていくのを、ただ黙って見つめていた。

 ――ただの、小さな小指だった。

 今朝までは、ぶつける度に「痛い痛い」と文句を言いながらも、自らの身体の最も端っこにあるパーツとして、それほど深く意識したことなど一度もなかった。

 それが今は、何重もの包帯の下に完全に固定され、自分の意志ではぴくりとも勝手に動かすことができない。

「……本当に、私、一歩も歩いちゃダメなの?」

「歩かせません。何度言わせるのですか」

「でも、早く鈴奈庵の店へ戻らないと…」

「店は逃げません」

「店に置いてある本は?」

「本も、勝手に逃げたりしません」

「じゃあ……あの原稿は?」

 小鈴が思わず口走った瞬間、鈴仙の包帯を巻く手が、わずかに、けれど明確に止まった。

「原稿……?」

 その赤い瞳が不審げに揺れる。小鈴はハッと息を呑み、慌てて口を固く閉ざした。

 隣で処置を受けていた阿求も、その不穏な言葉の響きを鋭く聞き逃さなかった。

「……その話は、あとで詳しくするわ」

 阿求が、鈴仙を刺激しないように静かに割って入った。

「今はまず、この優秀な医療従事者の処置をおとなしく受けるべきよ」

「でも――」

「小鈴」

 阿求は、いつになく低く、凄みのある声音を響かせた。

「あなたは今、肉体的に一歩も歩けない。私は右肩が完全に動かせない。原稿は紙の束よ、勝手に逃げ出すはずがないわ。私たちはまず、まっとうな治療を最優先に受けるべきだわ」

「阿求がそんなふうに妙に論理的に言うと、あの原稿が本当に意思を持ってどこかへ逃げ出しそうで、余計に怖くて嫌だわよ」

「もし万が一、ただの原稿用紙が自分の足で勝手に歩き出すのだとしたら……八意永琳に身体の怪我を診てもらう前に、私たちが揃って精神の専門医を紹介してもらうべきね」

「お願いだから、この状況でそんな全然笑えない冗談を言わないで」

「……ごめんなさいね」

 阿求は、ほんの少しだけ長い睫毛を伏せた。

 小鈴は、その微かな表情の変化を見逃さなかった。阿求は今、激痛を必死に堪えながら、小鈴の恐怖を和らげるために、無理をしていつも通りの皮肉混じりの言葉を探してくれているのだ。

 引き裂かれた右肩と背中が、痛まないはずがない。

 小鈴は胸の奥がツンと熱くなり、それ以上はもう、意地を張るような余計なことは何も言わなかった。

 やがて、息を切らせた永遠亭の因幡てゐ率いる兎たちが、二つの頑丈な担架を抱えて現場へと到着した。

 やはり阿求は、担架の上へ文字通り「荷物」のように乗せられるのを酷く嫌がった。

「私は、これでも自分の足でしっかり歩けます」

「阿求さん。歩けることと――」

「分かっているわよ」

 阿求は、鈴仙のセリフを遮るように先回りして言った。

「歩いてよいことは、まったく別問題なのでしょう」

「ご理解が早くて大変助かります」

「私は、これでも一度目にしたものを絶対に忘れない御阿礼の子よ。学習能力が欠如しているわけではないの」

「あなたに十分な学習能力があるようには到底見えないけれどね」

 小鈴が、自分の担架の上からすかさず意地悪く口を挟んだ。

「阿求は、年頃の娘の寝室の窓から不法侵入する不審な能力だけは、歴史的に見ても異常に高いわよ」

「あなたこそ、朝一番から自分の不注意で二本の小指を順番に叩き折る能力が、異常に高いでしょうに」

「だから! これは能力じゃなくて、ただの不運な事故よ!」

「結果の部分だけを見れば、恐ろしいほどの再現性があるわよ」

「阿求――ッ!」

 鈴仙はため息をつきながら、言い合う二人をそれぞれの担架へと手際よく乗せ、固定した。

 小鈴は、右足と左足のつま先が些細な振動でも動かぬよう、上から厚手の清潔な布を厳重にかけられた。阿求は傷ついた肩をしっかりとホールドされたまま、肉の裂けた背中へ絶対に余計な負担がかからないよう、細心の注意を払った姿勢を取らされた。

 そのまま、兎たちの手によって、二人の身体がふわりと宙へ持ち上げられ、運ばれていく。

 他人の手によって自分の肉体を運ばれるというのは、想像していたよりも遥かに、心細く、そして頼りないものだった。

 どんなに激しい痛みが足元に走っていようとも、自分の足で地を踏み締めて歩いている時は、進むべき方向だけは自分の意志で自由に決められる。けれど、この揺れる担架の上では、自分の身体の主導権のすべてが、完全に他人の手に預けられてしまっているのだ。

 小鈴は、こみ上げる得体の知れない不安を押し殺すように、担架の硬い縁を白くなるほど強く握りしめた。

 すぐ真隣を見れば、同じように揺れる担架の上に、固定された阿求がいた。

「ねえ、阿求」

「……何かしら、小鈴」

「……痛い?」

「ほんの、少しだけね」

「その『少し』って、具体的にどれくらいよ」

「あなたが昨日の夕方、右足と左足を順番に台所の棚にぶつけた時に、大声をあげて泣き出すのを必死で我慢した程度、かしら」

「ちょっと…それ、気絶するほどかなり痛いじゃないの」

「では、訂正するわ。かなり、痛いわね」

「最初から意地を張らずにそう言ってよ」

「あなたこそ、両足のつま先がそんなに痛むなら、素直に痛いと言いなさい」

「私はさっきからずっと痛いって言っているでしょう!」

「そんなふうに、いつも通り生意気に笑いながら言うから、こちらに危機感が伝わりにくくて分かりにくいのよ」

「阿求だって、そんな冷徹な皮肉をこれ見よがしに言いながら痛みを隠すから、よっぽど分かりにくいわよ!」

「私は皮肉を言っているのではないわ。稗田家の当主として、常に客観的で通常の会話をあなたと交わしているだけよ」

「その通常の会話の温度が、私にとっては少しだけ冷たすぎるって言っているのよ」

「あなたの会話のボリュームは、怪我人のくせに少しばかり騒がしすぎるわ」

「ふん、それで二人合わせて、ちょうどプラマイゼロで帳尻が合っているでしょうに」

 二人の様子を前歩きで看ていた鈴仙が、呆れたように、けれどどこか温かい声音でぽつりと言った。

「お二人とも、搬送中に激しい議論をするのは控えてください。傷口に響きます」

「議論などではないわ」

「では、何なのです?」

「ただの、いつもの通常の会話です」

 阿求が、担架の上で身動きを制限されながらも澄ました声で答えた。

 鈴仙は、歩調を緩めずに少しだけ考えてから言った。

「……それはそれで、肉体の怪我とは別に、精神の治療が必要かもしれませんね」

 小鈴は、張り詰めていた緊張が一気に抜けて、思わず吹き出すように笑ってしまった。だが、笑った瞬間に上体に力が入ったせいで、包帯で固定された両足の爪先へと容赦のない激痛が走った。

「痛っ……! 痛いわ!」

「笑っても、そこまで痛むのですね」

「笑わなくたって、ズキズキと痛いに決まっているでしょう!」

「では、これ以上傷に響かないよう、永遠亭に着くまで絶対に笑わないでください」

「そんな無茶な注文、絶対に無理よ!」

 そんな賑やかな言い合いを背に、兎たちの足は人間の里を抜け、鬱蒼とした迷いの竹林の入り口へと差し掛かっていた。

 冷ややかな朝霧の向こう、幾重にも重なる竹の青い影を割って、永遠亭の巨大な木造の屋敷が静かに、どこか超然とその姿を現した。

 一歩その敷居を跨ぐと、永遠亭の内部は、独特な薬草の香気と、乾いた上質な木の匂いに満ちていた。人里にある一般的な薬屋とは比べものにならないほど、その匂いは濃く、深い。天井から吊るされた様々な乾燥葉や怪しげな植物の根、丁寧に磨かれた煎じ薬の土器、棚に整然と並ぶ無数の硝子製の薬瓶。どこか奥の廊下からは、カラン、と金属製の医療器具が微かに触れ合う、冷徹な音が聞こえてくる。

 鈴仙が二人を静かに広々とした診察室へ運び入れると、そこにはすでに、すべてを見透かすような深い知性を湛えた月の賢者――八意永琳が、静かに佇んで待っていた。

 永琳は、運ばれてきた小鈴の真っ白な布に包まれた足元へと、まず視線を落とした。

 それから流れるように、阿求の無残に裂けた藍色の着物と、鈴仙の手によってがちがちに固定された右肩の負傷へと、冷徹な目を向ける。

「また随分と、お二人揃って派手な怪我をして帰ってきたものね」

「派手などではありません」

 阿求が、担架の上から少しだけ不満げに答えた。

「崩落してきた看板の、そのほんの端っこが運悪く少しだけ当たったに過ぎません」

「少し当たっただけで、上等な着物がそれほど無残に引き裂かれて出血しているのなら、医療の世界では十分に『派手な大怪我』と呼ぶのよ」

「それよりも、小鈴の方が――」

「私は後回しでいいわ!」

 小鈴が、阿求の言葉を遮るように必死に口を挟んだ。

「永琳先生、阿求を先に診てあげて。肩から本当にたくさん血が出ているの!」

「いいえ、私は小鈴のその両足をこそ、最優先で先に診てもらうべきだと思います」

 阿求が、負けじと鋭い視線を永琳へと送り、自説を曲げない。

 永琳は、そんな互いの身を案じるがゆえに一歩も退こうとしない頑固な二人を、面白がるように交互に見つめた。

「どちらも後回しにできない状態だと言うのなら、こちらで勝手に順番を決めさせてもらうわよ」

「小鈴は、両足の小指をやられています」

 阿求が、必死な眼差しで訴えた。

「阿求は、右の肩と背中を引き裂かれているんです」

 小鈴も負けじと、切迫した声を重ねる。

「つまり、どちらも自分より相手の方が重症だと、そう信じて疑わないわけね」

 永琳は、あどけなさすら残る二人の頑なな様子に、ふっと優しく目を細めて笑った。

「まったく、あなたたちは仲が良いのか悪いのか、本当に分かりやしないわ」

「仲は良いです」

 小鈴が、間髪入れずに答えた。

「だからこそ、こうして遠慮なく衝突するのよ」

 阿求が、当然の真理を述べるように続けた。

「ふふ、それはあまり、地上における一般的な説明とは言えないわね」

「霊夢と魔理沙を見ていれば、誰だって納得がいくでしょう?」

 小鈴が、我が意を得たりとばかりに声を張る。

「あの二人だって、心の底から仲が良いからこそ、会うたびに毎回あれだけ容赦のない大口喧嘩を繰り広げられるんですから」

「いくらなんでも、比較の対象が規格外に乱暴すぎるわ」

 永琳は苦笑しながらも、まずは小鈴の前に静かに腰を下ろし、診察を開始した。

「優曇華、その足袋を外してちょうだい」

「はい、師匠」

 鈴仙が小鈴の枕元へ回り、手際よく、かつこれ以上ないほど丁寧に真っ白な足袋を滑らせていく。巻かれていた包帯が解かれ、仮固定の添え木が静かに外された。

 露わになった左右の小さな小指は、朝の白光の中で、痛々しく赤黒く腫れ上がっていた。

 永琳が、細く冷たい指先で、まず右足の小指の根元へそっと触れる。

 その瞬間、小鈴の身体がびくりとベッドの上で跳ねた。

「……痛い?」

「痛いです! すごく!」

「では、左は?」

 永琳の指先が、今度は左の小指へと滑らかに移動し、そっと圧をかける。

「それも痛いです!」

「どちらが、より強く痛むかしら」

 小鈴は、自分の神経の感覚を必死に研ぎ澄まし、真剣に考え込んだ。

「……右と左が、まるで生き物みたいに、交代で交互に痛みます」

 その奇妙な答えを聞いた瞬間、永琳の深い知性を湛えた瞳が、わずかに鋭く細められた。

「随分と、珍しい受け答えをするのね」

「え? でも、両方の同じ場所を同時に痛めている時って、感覚なんてそういうものでは?」

「いいえ。人間の身体というのは、どれほど同時に傷を負おうとも、通常であればより損傷の激しい『どちらか一方の痛み』を脳が優先して選ぶものよ。……あなたのように、選べないなんてことはないわ」

「でも……本当に選べないんです」

 永琳はそれ以上追及せず、左右の小指の関節と骨の輪郭を、流れるような手つきで極めて慎重に触診していった。やがて、納得したように指を引き離す。

「右第五趾基節骨、および左第五趾基節骨――。それぞれに、明瞭な不全骨折が認められるわね」

 小鈴は、難解な医学用語の響きにぽかんと口を開けた。

「……ふぜんこっせつ? つまり、どういうことですか?」

「両方の足の小指の骨に、綺麗にひびが入っているということよ」

「先生! 最初からそうやって、私にも分かる簡単な言葉で言ってくださいよ!」

 永琳は、小鈴のいつも通りの小生意気な返しに、小さく声を立てて笑った。

「俗に言うひびね。完全に骨が真っ二つに断裂しているわけではないけれど、この状態で下手に歩き回れば、確実に症状は悪化して取り返しのつかないことになるわ。左右ともギプスで厳重に固定して、しばらくは絶対安静にしなさい」

「……それって、まさか入院ですか?」

「ええ、当然入院よ。それ以外に選択肢があるかしら?」

「えええっ!? たかが両足の小指の怪我だけで、入院だなんて大袈裟すぎませんか?」

「たかが、ではないわ。あなた、その両方の小指に、均等にひびが入っているのよ?」

「でも、手はピンピンしているから、いくらでも自由に使えますし!」

「あなた、これからの生活を両手だけで這って過ごすつもり?」

「本だって、ベッドの上でいくらでも読めます!」

「本を読むための一枚のページをめくるにしても、寝返りを打って体勢を変える必要はあるでしょう?」

「寝返りくらいなら、足なんて使わずに上半身の力だけで――」

「いいえ、人間が寝返りを打つ瞬間、無意識のうちに最も強く踏ん張るのは『足の指』よ」

 小鈴はぐうの音も出なくなり、がっくりと肩を落とした。

「……私の大切な日常を守るために行動していたはずなのに、結果として、その日常から完全に隔離されて病院へ閉じ込められるのね」

「その通りよ。皮肉なものね」

永琳は、小鈴の両足を厳重にギプスで固定する準備を始めた。

 隣の担架でその様子を見ていた阿求が、小さくため息のような息を吐く。

「……何よ、その目は」

 小鈴が、ベッドの上から不満げに聞いた。

「いいえ。あなたがもっと見苦しく入院を嫌がって暴れると思っていたのだけれど、思ったよりもずいぶん物分かり良く受け入れたことに、少しだけ驚いただけよ」

「受け入れたんじゃないわよ。これ以上あなたに言い返すための論理的な抵抗材料が、完膚なきまでに物理的に亡くなったの」

「一般的には、それを綺麗に降伏して受け入れたと言うのよ」

「阿求は、本当にいつも他人の言葉の細かい揚げ足ばかりを器用に拾うわね」

「あなたが普段から、自分の発する言葉を致命的に雑に扱うからよ」

「私の大事な足が右も左も同時にジンジン痛む非常時に、完璧な言葉遣いまで求めないで頂戴」

「では、今後のあなたの私生活のために、“両足の小指に不全骨折を負った患者らしい、淑やかで憐れみ深い言葉遣い”のテンプレートを私が直々に考えておいてあげるわ」

「そんな悪趣味な分類、一文字だっていらないわよ!」

 二人の容赦のない牽制を耳にしながら、手際よく包帯を巻き終えた永琳が、呆れたように言った。

「それだけ口を動かす余裕があるのなら、初期治療としては非常に順調ね」

「話す余裕があることと、肉体が五体満足で元気なのは、全くの別問題です」

 阿求が、自分の痛む肩を庇いながら即座に言い返す。

「あら、頑なに自分の怪我を認めようとしないその屁理屈、そこの小鈴と全く同じなのね」

 永琳はフッと笑うと、いよいよ本命である阿求の診察へと移った。

 鈴仙が三角巾を外し、裂けた藍色の着物を慎重に剥ぎ取っていく。露わになった彼女の白い肌には、酷い打撲の痕と、背中側にはあの看板の鋭い木片が弾け飛んだ際にできた、生々しい裂傷が走っていた。

「肩峰付近の深刻な挫傷。および背部の線状の裂創ね。出血自体の量はそれほど多くないけれど、傷口の周囲に、細かな古い看板の木屑が酷く入り込んでいるわ」

「……骨の、異常は?」

「幸いにも、大きな構造的損傷は認められないわね。肩関節を無理に上げ下げしなければ、数日で痛みは落ち着くでしょう」

「でしたら、すぐに稗田邸の仕事へ戻れますね」

「いいえ、戻れるわけがないでしょう」

 永琳は、ぴしゃりと冷徹に言い放った。

「なぜです?」

「肩をわずかに動かすだけでも、脳を焼くような疼痛が増すわ。それに背中の傷が引っ張られて再び開いてしまう。……あなた、稗田の家で毎日大量の筆を持つでしょう?」

「……左手で持ちます」

「普段と全く違う利き手で、いつもの倍以上の時間をかけ、変な姿勢でさらに傷ついた右肩へ無駄な負担をかけるつもり? 愚策ね」

「ですが、里の記録を、私の代で止めるわけには――」

「記録なんて、あなたが数日休んだくらいでどこかへ逃げたりしないわ」

「それは、先ほど私も小鈴に言いました。……本は逃げない、とね」

 阿求が、恨めしそうに視線を巡らせて小鈴を見る。

「私はね、阿求。どこにも逃げない本のことより、神出鬼没で私たちの現実を強制的に書き換えて届く、あの『逃げる原稿』の方がよっぽど気味が悪くて嫌なのよ」

「ただの紙が、自分の足で歩くわけがないでしょう」

「歩かなくたって、私たちの目の前に届くでしょうが!」

 永琳は二人の言い合いを無視して、阿求の華奢な肩を、清潔な三角巾で容赦なくしっかりと固定した。

「というわけで、あなたも文句なしで入院。少なくとも数日間は、このベッドの上で完全に安静にしていなさい」

「……私も、ですか?」

「肩と背中に、これだけ派手な打撲と裂傷を同時に負っているのよ? 医者の言うことが聞けないかしら」

「しかし、稗田家の当主としての職務が――」

「これ以上の拒否や生意気な屁理屈を並べるのなら、今すぐ私の特製の薬で、丸三日は強制的に眠らせるけれど?」

 月の賢者の底知れない脅しを前に、さしもの阿求も完全にぐうの音も出なくなり、不満げに口を閉ざした。

 お互い様と言わんばかりのその見事な撃沈ぶりに、今度は小鈴の方が、ベッドの上でここぞとばかりに勝ち誇ったような意地悪な笑みを浮かべた。

「阿求、患者としての往生際が最悪ね」

「他ならぬあなたにだけは、絶対に言われたくないわ」

「私は両足の小指に不全骨折を負った可哀想な怪我人だから、多少の我儘は仕方ないのよ」

「私だって右の肩と背中がジンジン痛む、れっきとした被害者なのよ」

「じゃあ、お互い様ね」

「ええ。まったく、最悪の意味でお互い様よ」

 その様子を横で見ていた鈴仙は、頭を抱えるようにして、本日一番の深い深いため息をついた。

 永琳による一通りの応急処置が一段落したのを見計らい、阿求は固定されていない左手を使って、着物の袂からあの不気味な三枚の原稿用紙を引っ張り出した。小鈴もまた、ベッドの脇に置いてあった風呂敷包みから、茶色く濡れて歪んだ写本と、黒い二重線の残る最初の二枚の原稿を取り出す。

「治療の最中に大変恐縮なのですが……こちらの紙を、見てはいただけないでしょうか」

 阿求は、感情を排した目で永琳へ原稿を差し出した。

「この紙には、先ほど私たちが遭遇したあの看板崩落事故が――事故が起きるよりもずっと前の段階から、その凄惨な内容が一字一句、正確に書き連ねられていたのです」

 永琳は、怪訝そうにその原稿を受け取った。

 月の賢者は、まず紙を診察室の白い光へと丁寧にかざした。

 次に、その端を細い指先でそっと撫でる。

 さらに鼻腔を近づけ、染み込んだ墨の匂いを深く確かめる。

 最後に、紙の表面のざらつきを指頭でゆっくりとなぞり、あの文字を乱暴に塗り潰した黒い二重線へと、その冷徹な視線を向けた。

「紙自体は、里のどこにでも流通している極めてありふれた、普通の和紙ね」

 永琳の口から出たのは、拍子抜けするほど現実的な言葉だった。

「少しだけ年代が古いくらいかしら。使われている墨も通常のものと大きくは違わない。魔力の残留反応も、何らかの妖術が編み込まれた特別な残留物も、この紙の上からは一切検出できないわ」

「でも! そこには私たちの今朝の行動や、明日の――」

「その『内容』についての主観的な話は、後でじっくり聞くわ」

 永琳は、焦る阿求の言葉をぴしゃりと遮った。

「紙という物理的な物質に異常があるのか、それとも、それを読んだあなた方の記憶や精神の側に異常があるのか。その二つを厳密に順番に切り分けなければ、すべての怪異をたった一つの都合の良い原因へ無理やり押し込むことになるわよ」

 小鈴は、ベッドの上で思わず阿求と顔を見合わせた。論理の化身であるはずの阿求が、さらに上位の論理によって、少しだけ悔しそうに口を閉ざしている。

 永琳は、二人の沈黙を気に留める風でもなく、ひらりと原稿の二枚目をめくった。

「それにしても……この字、お世辞にもあまり上手くはないわね」

 小鈴は、予想だにしない月の賢者の指摘に、思わずベッドから身を乗り出した。

「ええっ!? 永琳先生、着眼点はそこですか?」

「客観的な事実よ。筆致にひどくむらがあるわ。文章の構成も、大衆に向けて完成された連載小説というよりは、書き手が設定をこねくり回している最中の、ただの作業用のメモ書きに極めて近しい。場面の要点だけを雑に繋ぎ、細部の描写は後から慌てて足しているように見えるわ」

「まるで……文章の素人が、拙い手つきで書いたみたいに言うのね」

 阿求が、信じられないといった様子で呟く。

「現に、そう見えてしまうのだから仕方ないでしょう?」

「これがもし、幻想郷の未来の運命を正確に書き換える恐怖の紙なのだとしたら、もう少しこう……格調高く、文豪らしい筆致であってもいいと思わない?」

「未来を紡ぐ呪いの書き手が、必ずしも全員文豪である必要なんて、どこにもないでしょう」

 阿求が、皮肉っぽく言った。

「あなた、そういうところだけは、妙に現実的なのね」

「紙が持つ魔力的な性質と、それを書いた書き手の絶望的な文才の技量は、まったくの別問題よ」

 永琳は、ふっと薄い唇を歪めると、原稿の文字を執拗に消し去っている黒い二重線を指先で示した。

「この悍ましい二重線も、呪いの術式というよりは……書き手が一度書いた文章を、後から自分で気に入らなくて修正した、ただの迷いの跡に見えるわ」

「それが現実の怪異の改変に合わせて、上書きされて――」

 阿求はなおも食い下がろうと言いかけた。

 だが、八意永琳は、ただ静かに、その底の知れない深い瞳で彼女の言葉の先を見つめた。その眼差しは、語るべき真実がまだ他にあることを、静かに物語っていた。

「あなた方が、そのように解釈するに至った経緯を、最初からすべて正確に聞かせてちょうだい」

 阿求と小鈴は、ベッドの上で互いに顔を見合わせた。そして、すべての狂狂しい始まりである、あの最初の原稿の一幕から静かに話し始めた。

 小鈴が、自分自身のまっとうな朝の行動を微細に記録した怪しげな紙を受け取ったこと。

 その紙に、本人すら言葉にしていなかった、胸の奥底の「心の声」までが一字一句完璧に書き込まれていたこと。

 阿求の予定外のはずの来訪が、紙に記述された直後に、まるで舞台の幕が上がるようにして起きたこと。

 怪異を避けようとした結果、かえって写本へ茶が不自然にかかってしまったこと。

 霧雨魔理沙が持ち出した大切な妖魔本が、これまたあり得ない事故によってドロドロに溶けて消失したこと。

 そして昨日の朝、今度は阿求の屋敷の居間へと、忽然と新しい三枚の原稿が現れたこと。

 そこには、今朝起きたばかりの龍神景綱の看板事故が、克明に予告されていたこと――。

 小鈴と阿求は、互いの記憶の抜け落ちた部分を言葉で補い合いながら、時系列に沿って丁寧に説明した。

 永琳はその間、一切の口を挟まずに二人の言葉に耳を傾けていた。鈴仙もまた、応急処置の包帯を持ったまま、三枚の原稿から片時も目を離さずにその悍ましい経緯を聞き入っている。

 すべての説明が終わるまでに、診察室の時計の針はかなりの時間を刻んでいた。話し終えた時、小鈴の喉は不快にカラカラに乾ききっていた。

「……私たちが経験した事実は、以上です」

 阿求が、締めくくるように静かに言った。

 八意永琳は、手元にあった原稿を、トントンと机の上へと静かに置いた。

「よく分かりました」

「では、この紙にやはり何らかの因果を歪める異常があると――」

「いいえ」

 永琳は、あまりにも落ち着いた、凪いだ声で言った。

「勘違いしないでちょうだい。私は、あなた方の話した一連の経験を、決して嘘だとは細部も含めて思ってはいないわ」

 小鈴は、張り詰めていた肩の力を少しだけ抜いて息を吐いた。

「……でも、先生のその言い方、何か裏があるみたいね?」

「ええ。現時点においては、このただの紙切れが未来を予知し、あるいは現実を改変したと判断するための、医学的・客観的な明確な根拠は、何一つとして存在しないわ」

 阿求の端正な表情が、一瞬にして硬く凍りついた。

「……では、先ほどのあの看板事故はどう説明するのですか」

「老朽化して金具が錆びついていた書店の看板が、物理的な限界を迎えて下へ落ちた。それをあなたが察知し、景綱さんを突き飛ばして庇い、代わりにあなたが肩に怪我を負った。……これは、地上におけるごく一般的な『不幸な崩落事故』として、何一つ無理なく完璧に説明がつくわ」

「ですが、原稿に書かれていた凄惨な結末と、一字一句完全に一致しています!」

「現象が一致したということと、この紙がその現象を引き起こした『直接の原因』であるということは、論理的に全くの別問題よ」

 永琳の紡ぐ言葉には、突き放すような冷たさは微塵もなかった。

 どこまでも患者の身体を案じる医師としての、極めてまっとうな理路整然とした正論。だからこそ、阿求の優れた頭脳をしても、これ以上ないほどに反論がしにくかった。

「あなた方はここ数日間、極度の睡眠不足、連続して起きる不運な事故、貸本屋としての最も大切な妖魔本の喪失、そして正体不明の怪異に対する強い精神的恐怖を同時に経験しているわ。その極限状態の脳へ、紙に書かれた拙い文章を何度も何度も読み返し、実際の行動と無理やりに照合させている……」

 永琳は、冷徹な名医として、カルテに症状を淡々と書き連ねるように、二人の精神的摩耗を容赦なく順番に並び立てていった。

「その極限の状況下では、過労と睡眠不足による劇的な注意力の低下、強いストレスによる急性不安反応、そして相次ぐ事故のせいで脳が異常に高ぶる過覚醒状態が重なったとしても、医学的には何一つ不思議ではないわ。脳に強い負荷がかかるとね、目の前の出来事と出来事を無理やり結びつけて意味を見出そうとする力が、普段より異常に強くなってしまうのよ」

「つまり……」

 小鈴は、ベッドの上で震える手を握りしめながら、慎重に尋ねた。

「先生は、私たちがただの酷い思い込みをしているって、そう言いたいんですか?」

「強い認知の歪みが、精神的な防衛反応として生じている可能性が極めて高い、ということです」

 隣に控えていた鈴仙が、いたたまれないといった様子で、少し心配そうに補足を付け加えた。

「決してお二人が嘘をついているとか、あるいは自分たちで注目を引くために意図的に大騒ぎを起こしていると、そう言っているわけではありません。お二人の脳は、それだけ本気で恐怖しているのです」

「でも、あの原稿は私たちが自分で書いたわけじゃありません!」

 小鈴は、こみ上げる悔しさに声を張り上げて強く言った。

「私の字じゃない。阿求の綺麗な字でもない。それなのに、私の頭の中の、誰にも言っていないはずの心の声まで、あの紙には克明に書かれていたのよ。それを、私たちが書いたとか、疲れて勝手にそう見間違えたとか言われても、私、絶対に納得できないわ!」

「小鈴、少し落ち着きなさい」

 阿求が低い声で窘めようとする。しかし、一度決壊した小鈴の言葉は、もう誰にも止められなかった。

「だって、景綱さんが看板の下敷きになるって、昨日から確かに書いてあったのよ! それで実際に、今朝看板が落ちたじゃない。阿求が景綱さんを突き飛ばして助けて、代わりに大怪我をしたわ。しかも、あの原稿の文章は、事故が起きるまさにその直前に、まるで生き物みたいに別の二重線に書き換わっていたのよ! それでも……それでもただの、どこにでもある普通の紙だって言うの?」

 永琳は、激昂する小鈴を宥めるでもなく、ただその底の知れない深い瞳で、しばらくの間静かに彼女を見つめていた。

「あの原稿用紙が、あなた方二人の手によって書かれたものではないということは、よく分かりました」

「……分かって、くれるの?」

「ええ。少なくとも、あなた方が自分たちの狂言のために、自分で紙を書いて自分で里を騒がせているとは毛頭思わないわ」

 小鈴は、その言葉に少しだけ胸を撫で下ろし、安堵の息を漏らした。

 しかし、月の賢者は残酷なまでに冷静に続けた。

「ただね――何者かがあなた方の私生活を極めて綿密に観察し、それらしい文章をあらかじめ書き上げて、現実の『偶然』と『予測』を巧妙に組み合わせたという可能性は、未だにいくらでも残るわ」

 今度は阿求が、その冷徹な論理の綻びを探るように、静かに、重く訊いた。

「……では、小鈴の心の中のセリフまで完璧に言い当てられていた部分は、どう説明なさるのです?」

「人間という生き物はね、自分が思っているほど自分の感情を隠し通せるようにはできていないものよ」

「私の、隠し続けてきた内面の機微までですか?」

「些細な表情の歪み、声の抑揚のむら、無意識の視線の配り方、手の細かな動き、そして何より日々の生活習慣。卓越した観察眼を持つ者が長期間にわたってあなた方を監視していれば、特定の状況下で本人が次に何を考えるか、あるいはどんな言葉を脳内で呟くかなど、かなりの精度で事前に予測を立てることは可能よ」

「しかし、私は今朝、あの原稿の記述に抗うために、自分自身の意志で予定を変えました」

「その予定変更の行動そのものを超能力で当てたのではなく、書き手はあらかじめ、あなた方が取り得る。いくつかの可能性をそれぞれの原稿に書き分けて用意していたのかもしれません。そのうちの一つが、結果的に今朝、完璧に当たった。そう考える方が合理的よ」

「……阿求が今朝、私の寝室の窓を乗り越えて不法侵入してきたことも、ですか?」

 小鈴が、信じられないといった面持ちで口を挟む。

「あなたが、怪異に怯えて鈴奈庵の寝室に引き籠もる可能性を予測するのは、プロの観察者ならそれほど難しくないでしょう。二人の親密な関係性を知っていれば、異常な紙を受け取った阿求が、夜明け一番に真っ先に彼女の元へ相談しに駆け込むと考えるのは当然の帰結よ」

「では……私が恐怖に耐えかねて、稗田家の使用人を大声で呼びつけたことも?」

 阿求の問いに、永琳は静かに首を振った。

「極限の恐怖に晒された生身の人間が、助けを求めて身近な誰かを呼びつけるのは、生き物として極めて自然で普遍的な生存反応よ。何もおかしいことはないわ」

阿求は、それきり重い沈黙へと沈んだ。

 永琳は、机の上に広げていた三枚の原稿用紙を、滑らかな動作で二人のベッドの間へと戻した。

「未来を完璧に予知したかのように錯覚させる現象はね、徹底的な観察と心理的な推測だけでも、かなりの領域まで再現することが可能なのよ。相手の思考回路や行動パターンを完全に把握していれば、未来を視る超能力なんて使わなくとも、高精度な予測のシナリオは組み立てられるわ」

 鈴仙が、おろおろと少し困ったような表情で、差し出された原稿へと視線を落とした。

「確かに……この問題の二重線も、書き手が文章をただ単に修正した跡にしか見えませんね。完成された小説というよりは、何度も書き直されて汚くなった、ただのメモ書きみたいです」

「そう、字だってひどく汚いわ」

 小鈴が、悔しまぎれに思わず口を挟んだ。

 永琳は、その言葉に深く同意するように小さく頷いた。

「ええ。少なくとも、これが大衆を魅了する完成された文学作品かと言われれば、到底そうは見えないわね」

「そんなこと、今は問題じゃないでしょう!」

「いいえ、大問題よ。未来を操る、あるいは因果を歪めるほどの超常の力を秘めた『紙』にしては、これ、あまりにもお粗末で、普通すぎるのよ」

「その普通だからこそ、私たちは怖いのよ!」

 小鈴の悲痛な叫び声が、白光の診察室の天井へと虚しく響き渡った。

 その必死さに、鈴仙が少しだけ気圧されたように肩をすくめる。

 阿求は、ベッドの上で肩を激しく上下させている小鈴の横顔をじっと見つめた。

 小鈴は、本気で怒っている。本気でこの目に見えない怪異を怖がっている。そして、その二つの感情の境界線すら区別できなくなるほど、肉体的にも精神的にも致命的に疲弊しきっている。

「……永琳様」

 阿求は、胸の奥の焦燥を押し殺し、努めて落ち着いた声音を選んで言った。

「あなたは結局のところ、私たちのこれまでの説明を、過労と極限のストレスが引き起こした集団的な強い思い込みだと、そう考えていらっしゃるのですね」

「現段階の医学的な見地からは、その可能性が極めて高いと判断せざるを得ないわね」

「では……私たちのその都合の良い思い込みだけで、原稿に刻まれた二重線の位置や記述までが、現実に合わせてリアルタイムに書き換わったとでも言うのですか?」

「その紙の二重線が、一体いつ増えたのか。それを客観的に証明できる第三者の確認者は、この里に存在しているかしら?」

「……私たち二人が、確かにこの目で目撃しています」

「ええ。そして、そのあなた方二人ともが、今まったく同じ重度の疲労状態の条件下に置かれているわ」

 阿求は、次の反論の言葉を完全に失い、ぐっと息を詰まらせた。

 永琳は、そんな二人の絶望を包み込むように、医師としての優しい声音で言葉を続けた。

「勘違いしないでちょうだい。私は何も、あなた方の経験を軽視して子供騙しだと笑っているわけではないのよ。むしろ逆よ。今のあなた方は、その原稿を巡る一連の不吉な出来事から、物理的にも精神的にも一度距離を置くべきだと言っているの。少なくとも、この永遠亭でしっかりと身体を休め、深い睡眠を取り、まっとうな食事で身体を整える。その上で、数日後に心身が万全になった状態で再び同じ紙を検分すれば――きっと、今とは全く違う見え方がしてくるはずよ」

 小鈴は、ベッドの上にぽつんと残された原稿用紙へと、力なく目を向けた。

 ――見え方が、変わる。

 言われてみれば、ただの和紙は、どこにでもある至極普通の和紙にしか見えない。

 書き連ねられた字は、お世辞にも美しいとは言えず、少し汚い。

 不気味に思えた二重線も、ただ書き手が文章のプロットをこねくり回して修正した、ただの迷いの跡にしか見えなくなってくる。

 八意永琳と鈴仙の紡ぐ言葉は、あまりにも理路整然としていて、完璧に筋が通っていた。

 だからこそ、二人はそれ以上、何も言い返すことができずに黙り込んでしまった。

 反論したい。この恐怖が本物だと証明したい。

 しかし、それを証明するための材料が、自分たち二人の「不確かな記憶」と「主観的な体験」以外に、どこを探しても存在しないのだ。

 そして何より、その唯一の武器であるはずの記憶と体験そのものが、過労とストレスによって都合よく歪められている可能性を、月の賢者の圧倒的な正論によって突きつけられているのだった。

「今日は、もうゆっくりと身体を休みましょう」

 永琳が、すべてを包み込むような静かな声で言った。

「その原稿は、ここの机の上に置いておいて構わないわ。誰もあなたの許可なく、勝手に処分したりはしないから」

「……分かりました。よろしく、お願いします」

 阿求が、力なく答えた。

 永琳と鈴仙は、二人の様子を最後に一度だけ見届けると、静かに診察室を出ていった。

 カチャリと重い扉が閉じる。あとに残されたのは、濃い薬草の匂いと、耳が痛くなるほどのしんとした静寂だけだった。

 小鈴は、ベッドの上で真っ白な包帯とギプスで厳重に固定された両足を見下ろした。

 阿求は、三角巾で無残に吊られたみずからの右肩を、やるせなげに見つめている。

「……ねえ、阿求。私たち、本当に頭が疲れすぎておかしくなっているのかしら」

 小鈴の弱音のような呟きが、部屋の隅へ虚しく消えていく。

「――その可能性は、大いにあるわね」

「ちょっと、阿求までそんなこと言うの?」

「だって、永琳様のあの合理的な説明は、医学的にも論理的にも、ぐうの音も出ないほど完璧に筋が通っているもの」

「でも……私は、あの原稿を私たちが自分たちの狂言のために書いたって思われているみたいで、どうしても嫌だわ」

「永琳様は、あなた方が意図的に偽装したとは一言も言っていないわよ」

「そうだけど……結局は、誰かのタチの悪い悪戯に、私たちが過剰に怯えて、それっぽい偶然を勝手に結びつけて大騒ぎしたんだろうって、そう言いたいのよね」

「客観的な事実だけを並べれば、その可能性も、完全には否定できないわ」

「阿求まで、そんな突き放すようなことを言うのね……」

 阿求は、すぐには答えなかった。

 問題の原稿は、冷たい木製の机の上に静かに置かれたままだ。

 どこにでもある、普通の原稿用紙。

 お世辞にも上手とは言えない、少し汚い筆致。

 完成された高尚な小説というよりは、書き手が泥縄式にこねくり回した、ただの作業用のメモ書き。

 ――誰がどう見ても、客観的にはそうにしか見えない。

 永琳がそう断じるのも、鈴仙がそれに深く同意するのも、あまりにも理解できてしまうのだ。

「私はね、小鈴。あの原稿が、幻想郷の理を超えた神聖で超常の存在だとは、最初から思ってはいないわ」

 阿求は、自らの知性を確かめるように、慎重に言葉を選んで繋いだ。

「少なくとも、今の私には、あれを怪異の呪いだと断定するための客観的な証拠が何一つとしてないのよ」

「じゃあ、阿求は本当はどう考えているのよ」

「誰かが私たちの私生活を極めて綿密に観察し、あの文章をあらかじめ書き上げた可能性。そこへ、里の老朽化や私たちの不注意といった『現実の偶然』、そして既存の誰かの能力や心理的な誘導が、最悪な形で重なった可能性。……あるいは、この一連の仕掛けに、複数の人物が組織的に関わっている可能性よ」

「複数の、人物……?」

「ええ。心を精緻に読み取った者。それを文章として紙に書き起こした者。そして、看板や急須に物理的な細工を施した者。――もしそれらの役割がそれぞれ別個の人物なのだとしたら、一人の犯人では説明がつかない超常現象も、現実的な犯罪の計画としてすべて説明がついてしまうわ」

「でも、一体全体、誰がそんな手の込んだ嫌がらせを私たちにするっていうのよ」

「それが……今の私には、まだこれっぽっちも分からないのよ」

 小鈴は、張り詰めていた糸がふっと切れたように、少しだけ自嘲気味に笑った。

「ふふ、阿求。あなた、さっき永琳さんの前では、そんな風に『分からない』なんて弱音は一言も言わなかったわね」

「……あの完璧な正論を前にして、稗田の当主がそんな無様な敗北宣言を言える状況ではなかったもの」

「私の前では、言うのに」

「あなたには……別に、言ってもいいからよ」

 小鈴は、再び机の上の原稿へと、力なく視線を巡らせた。

「私たち……本当に、ただの恐ろしい思い込みなのかな」

「さあ、分からないわ」

「また分からない、ね」

「ええ。何度だって言うわ。分からない、よ」

 二人は、それきり深い沈黙へと身を沈めた。

 机の上の紙は、当然のように何も語らない。

 ただ、お茶の跡で少しだけ茶色く汚れ、醜い黒い二重線が増え、誰かが拙い手つきで文章を書き直した生々しい跡を、そこに静かに残しているだけだ。

 その、あまりにも徹底された「普通さ」こそが、二人にとっては、何よりも底知れず不気味で、悍ましかった。

「ねえ、阿求」

「何かしら」

「原稿には、確かに『翌朝』って書いてあったわよね」

 阿求の視線が、誘われるようにゆっくりと紙面へ落ちる。

「ええ、そう記されていたわ」

「でも、あの看板が落ちたのは今日の朝。阿求が原稿を受け取った翌朝じゃないわ」

「……そうね」

「それに、景綱さんは無事だった。その代わりに、阿求が右肩に大怪我をした」

「ええ、その通りよ」

「これって……私たちが、私たちの行動で、原稿の内容を歪めて変えたのかしら」

 阿求は、三角巾でがちがちに固定されたみずからの白い肩の包帯へと目を向けた。

「――そう、かもしれないわね」

「永琳先生たちが言うように、ただ私たちが疲れすぎていて、あのありふれた紙切れに、ありもしない不気味な意味を見つけすぎているだけなのかもしれない」

「そうかもしれないわ」

「でも、やっぱりどうしても納得がいかないの」

「ええ。私もよ」

 どこにでもある普通の原稿用紙が、並んだ二人のベッドの間で、ただ冷徹に静かに沈黙していた。

 幻想郷の運命を予言したようには、到底見えない。

 小鈴の秘められた心を覗き込んで読んだようにも、決して見えない。

 ――それでも、私たちはあの看板が血塗られた音を立てて落ちる前に、確かにその破滅の文章を読んだのだ。景綱の命が間一髪で助かったあと、あの原稿には、誰に触られることもなく歪な二重線が不自然に増えていたのだ。

 永琳の完璧な正論を前に、今や二人の不確かな『記憶』だけが、目の前の紙が持つ圧倒的な普通さへと、孤独に抵抗し続けているのだった。

「……明日になったら、頭がすっきりして、少しは私たちの考えも変わるかしら」

 小鈴が、天井を仰ぎながらぽつりと言った。

「変わるかもしれないわね」

「阿求は? あなたの考えも変わる?」

「私は九代にわたって、一度目にしたものを絶対に忘れない御阿礼の子よ」

「あ、そうだったわね」

「だから、明日になっても、私の記憶はこれっぽっちも揺らがない。明日も徹底的に調べるわ」

「永琳先生は、しばらくベッドの上で大人しく安静にしろって、あれほどきつく言っていたわよ」

「肉体は寝たままでも、脳髄だけで思考を巡らせることはいくらでも可能でしょう?」

「阿求、あなた、患者としての往生際が本当に最悪ね」

「他ならぬあなたにだけは、絶対に言われたくないわ」

「私は両足の小指に綺麗な不全骨折(ひび)を負った怪我人だから、多少の我儘は仕方ないの」

「私だって右肩と背中がズキズキと痛む、立派な負傷者よ」

「じゃあ、お互い様ね」

「ええ。まったく、最悪の意味でお互い様よ」

 小鈴は、永遠亭の暗い天井をじっと見つめた。

 静かにゆらゆらと揺れる灯火の光が、病室の白い壁に、細く長い不気味な影を落としている。その壁の影は昼間に机の上で見た、紙面のあの醜い二重線に、酷いほどよく似ていた。

 何者かによって消された線。

 強固に現実に残った線。

 そして、生き物のように書き直された線。

 それが一体何を意味しているのか、未だに二人には何一つ分からない。

 だが、たとえそれが集団ヒステリーの妄想だと名医に診断されようとも、分からないままであの原稿を手放すことだけは、二人の本能がどうしても許さなかった。

 永琳と鈴仙には、ただの哀れな紙切れにしか見えない。

 少し字が汚く、完成された小説というよりは、書き手が泥縄式にこねくり回したプロットのメモ書きに近い、人間の里のどこにでも転がっている普通の原稿用紙。

 そして恐ろしいことに、小鈴と阿求の目の前にあるそれもまた、今やただの「普通の紙」にしか見えなくなり始めていた。

 だからこそ、二人はその強固な現実の呪縛を前に、狂ったようにそれを見つめ続けるしかなかったのだ。

 




ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第七話では、原稿の正体を巡って、小鈴と阿求が大きな壁にぶつかりました。
紙は、ただの紙なのか。
それとも、二人の記憶だけが、現実と食い違っているのか。
次回もよろしくお願いします。
毎週木曜日・日曜日 午後7時更新予定です。
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