形骸たる頁の啓示   作:角筈律

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小鈴と阿求は、永遠亭のベッドで静かに過ごすことになりました。
けれど、二人が静かに過ごせるはずがありません。
今回も、二人のやり取りを見守っていただけましたら嬉しいです。
それでは、どうぞ。


第八話:永遠亭の朝餉

翌朝、永遠亭の薄暗い病室には、竹の葉が擦れ合う微かな音が静かに降り注いでいた。

 風が特別に強いわけではない。それでも、迷いの竹林という場所は、たった一本の青竹の葉が揺れれば隣の葉がそれに応じ、その揺れがさらに奥の隣へとさざ波のように渡っていく。幾重にも重なり合ったその乾いた葉の音は、怪異の渦中にいる小鈴の耳には、遠くの暗闇で誰かが無数の原稿用紙を執拗にめくり続けている音にも、あるいは冷たい雨が屋根をそっと撫でている音にも聞こえてならなかった。

 小鈴は、白い布団の中で静かに目を覚ました。

 目覚めの瞬間に最初に感じたのは、布団の温もりではなく、両足の不自然な重さだった。

 左右の小指は、永琳の手によって包帯と硬い固定具でがちがちにまとめられている。少しでも無意識に寝返りを打とうとすれば、足先から脳を貫くような鈍い痛みが走る。一日の始まりだというのに、昨日までなら身体の最も端っこにある爪先に過ぎなかった小指が、今では身体全体の動きのすべてを支配する「小さな関所」のようになっていた。そこを思考が通るたびに、小鈴は痛みという名の高額な通行料を律儀に払わなければならないのだ。

「……おはよう、小鈴」

 すぐ隣の寝台から、朝の光に少し掠れた阿求の声が届いた。

 小鈴は、足先に響かないよう、慎重に首の角度だけを動かした。

 阿求はすでに上半身を少しだけ起こしていた。右肩には清潔な三角巾が痛々しくかかっており、肉の裂けた背中の傷を少しでも庇うために、背後には上質な枕が普段の倍以上の高さにまで几帳面に積み上げられている。

「……ちゃんと、寝ていたの?」

 小鈴が、尋ねた。

「いいえ。ただ静かに目を閉じて、意識の表層を休めていただけよ」

「それは昨日も全く同じセリフを聞いたわね」

「あなただって、今朝も似たような不満げな顔をして起きたではないの」

「私はね、布団の中で二本の小指を同時に庇いながら、夜通し何度も何度も寝返りに失敗し続けていたのよ」

「それはまっとうな睡眠ではなく、寝具との不毛な外交交渉ね」

「残念ながら、その交渉は夜明け前に完全決裂したわ」

小鈴は、足先へ余計な振動が伝わらないよう慎重に注意しながら、ゆっくりと上体を起こした。寝台の頭側へ背中を預け、安堵の息を漏らす。

 ふと、病室の隅へ目を向けると、昨夜、鈴仙が「これで見え方も変わるでしょう」と薄い白布をかけた例の原稿用紙が、冷たい木製の机の上に置かれたままになっていた。ただそこにあるだけ。それだけのことなのに、首を巡らせば嫌でも視界に飛び込んでくる位置だった。

 白い布の遮りを押し上げるようにして、紙の鋭い角がわずかに浮いている。

 隠されているのに、その下で呪いが脈打っていることだけは、嫌というほど分かってしまう。

 小鈴は、耐えかねて強引に視線を逸らした。

「足の具合は、どうかしら」

 阿求が、その様子を察しながら静かに尋ねた。

「痛いわよ、最悪にね」

「右と左、今はどちらがより強く痛むの?」

 小鈴は、自分の神経の波に耳を澄ませて、真剣に考えた。

「……今は、右ね」

「昨日の夕方は、左がズキズキすると言っていなかったかしら」

「痛みには、私にも制御できない気まぐれな波があるのよ。阿求、あなた、私の小指の痛むスケジュールまで、稗田家の帳簿に几帳面に記録するつもり?」

「もしつけるのだとしたら……右が一刻、左が半刻、朝方には両方が同時に、といったところかしらね」

「お願いだからやめて頂戴。私の可哀想な小指を、明日の里の天気予報みたいに大雑把に扱わないで」

 阿求は、ほんの少しだけ楽しそうに口元を緩めた。

 小鈴も、つられて笑いかけようとした。しかし、口元が緩んで上体にほんのわずかな力が入っただけで、包帯の奥の足の骨へと鋭い痛みが奔った。

「……痛っ。やっぱり、笑っても痛いわ」

「笑わなくたって、どうせ痛いのでしょう?」

「それでもね、阿求。痛がりながら仏頂面をしているよりは、笑っている方が数倍はましよ」

「そうね。一理あるわ」

 阿求はそれきり言葉を収め、静かに窓の外へと目を向けた。

 どこまでも続く竹林の重なり合う隙間から、朝の透き通った光が、細く鋭い線となって病室の畳へと差し込んでいる。永遠亭の朝は、人間の里の朝に比べて、恐ろしいほどに静寂が支配していた。

 けたたましい鶏の鳴き声も、商家の引戸が擦れる喧騒も、威勢のいい野菜売りの売り声も、ここには何一つとして届かない。その代わり、青竹の葉がサラサラと揺れる不穏な音が、まるで遠い異界の海鳴りのように、どこまでも低く鳴り響き続けていた。

 ほどなくして、張り詰めた静寂を破るように、襖の外からトントンと控えめな音が響いた。

「おはようございます。入りますね」

 よく通る涼やかな声とともに、鈴仙が、湯気を立てる木製の盆を両手に持って、静かに病室へと入ってきた。

両手に支えられた大きな盆の上には、二人分の丸薬が入った小さな薬包と、ふわりと温かな湯気を立てる朝餉が整然と載せられていた。

 白く細い湯気が、病室の静謐な空気の中をまっすぐにと立ち上っていく。優しく鼻腔をくすぐる上質な味噌汁の匂いと、炊きたての白米の芳しさが、部屋にこびりついていた薬草の苦い香りを一気に押し分けて、瞬く間に病室の隅々へと広がっていった。

 その瞬間、小鈴の不甲斐ないお腹が、主人の危機感を置き去りにしてぐぅ、と正直に鳴り響いた。

 静かな病室の中、その音は思ったよりもずっと大きく反響してしまう。

 鈴仙がピタリと足を止め、阿求が面白がるように目線だけを小鈴へと向けた。

「……今のは、完全に耳の錯覚だから。聞かなかったことにして頂戴」

「残念ながら、これ以上ないほど鮮明に聞こえましたよ」

 鈴仙が、クスリと小さく笑いながら盆を寝台の脇の卓へと置いた。

「でも、患者さんがきちんとお腹を空かせているというのは、健康へ向かっている何よりの良い兆候ですから。恥じることはありませんよ」

 運ばれてきた朝餉は、見事に粒の立った白米、滑らかな豆腐と瑞々しい青菜の味噌汁、皮目が香ばしく焼かれた川魚、細く几帳面に切られた大根の漬物、そして小さな器にふっくらと盛られた煮南瓜だった。

 小鈴が白米の器の蓋をそっと開けた瞬間、堰を切ったように真っ白な湯気が立ち上る。朝の光を浴びて、米の粒が一つずつ真珠のように艶やかに光っていた。湯気に混じる米本来の甘い匂い――それは、普段鈴奈庵の台所で小鈴が炊くものよりも、ほんのわずかに固めに炊き上げられているようだった。一口運んで噛み締めれば、粒の心地よい芯が絶妙に残り、口の中で豊かにほどけていくような見事な炊き上がりだった。

 お味噌汁は、身体にじんわりと染み渡るような優しい薄味だった。主役の豆腐は驚くほど柔らかく、箸でほんの少し触れただけで、その角が崩れてお汁へと溶けていく。対照的に、一緒に煮込まれた青菜の茎はシャキシャキとした小気味よい歯ごたえを残しており、噛むたびにわずかな大地の苦みが弾けた。その絶妙な苦みが味噌の淡い塩気をいっそう引き立て、寝起きの退屈な舌をゆっくりと優しく目覚めさせていく。

 主菜の川魚は、炭火でじっくりと炙られたのだろう、皮が実に香ばしくきつね色に焼けていた。箸の先で丁寧に身を分けると、ふっくらとした白い身の隙間から淡い湯気が一筋上がった。決して脂っこくはないが、噛み締めるほどに川魚独特の清らかな旨味が口いっぱいに広がり、追って焼けた皮の芳醇な薫香が鼻へと抜けていく。

 箸休めの大根の漬物を口に運べば、ぱり、と小気味よい音が静かな部屋に響いた。心地よい塩気の向こう側に、ほんの少しだけ柑橘を思わせる爽やかな香りが隠されている。

 小鈴は、そのあまりに完璧で優しい料理の数々に圧倒され、しばらくのあいだ言葉を失って黙々と箸を動かしていた。

「……美味しい。ものすごく、美味しいわ、これ」

 胸を突く幸福感に、思わず本音が口からこぼれ落ちる。

「ふふ、お口に合ったようで本当によかったです」

 鈴仙は嬉しそうに目を細めた。

鈴仙は卓の上の小さな薬の包みを几帳面に指先で確認し、二人へと向き直った。

「お薬は、必ず食後すぐに飲んでくださいね。小鈴さんは痛みを和らげて腫れを引かせる消炎の薬。阿求さんは強い鎮痛薬と、背中の傷の炎症を抑える薬になります」

「そのお薬とやらは、本日の朝餉のコースメニューの一部に含まれているのかしら?」

 阿求が、箸を持たない左手で三角巾を少しだけ直しながら尋ねた。

「もちろん含みませんよ」

「では、退屈な食後の余興といったところね」

「余興にしては、顔が歪むほど苦いですよ」

「薬というものに、最初からエンターテインメントとしての面白さを求める方が論理的に間違っているわ」

 すかさず小鈴が、大根の漬物をぱりと小気味よく噛み砕きながら口を挟んだ。

「ちょっと阿求、薬を飲む前からそんな理屈っぽい嫌みを並べて文句を言わないで頂戴」

「あなたこそ、食事の箸をつける前から、その可哀想なお腹を派手に鳴らして味噌汁を褒めちぎりすぎよ」

 鈴仙は、満身創痍でありながらも一歩も譲らない二人を、今度こそ完全に呆れ顔で見つめた。

 小鈴と阿求は、互いに視線を交わす。

 病室の薄暗い隅には、白い布をかけられたあの原稿用紙が、今この瞬間も確かに佇んでいる。二人とも、その存在を網膜の端で痛いほど意識していた。しかし、今はまだ、この優しい食事の時間を守るために、あえて口には出さないでおいた。

 小鈴は、再びふっくらとした白米を口へと運んだ。

 温かい米の熱が、冷え切っていた舌へと心地よく触れる。丁寧に噛み締めるたびに、米の粒の一つひとつがゆっくりと優しくほどけ、温かいまま胃の底へと落ちていく。昨日から張り詰めたままで身体の中に頑固に残っていた異様な緊張が、美味しい食べ物の温もりによって押し流されるように、少しずつ、けれど確実に緩んでいく。

 隣の寝台では、阿求もまた不器用に魚の身を箸で分けていた。負傷した利き手を三角巾で固定されているため、左手を使うのは流石に少しだけ不便そうだったが、それでも彼女が長年培ってきた優雅な所作の美しさは決して崩れない。魚の焦げた皮を細かく丁寧にはがし、細い骨を綺麗に避け、真っ白な身だけを一口ずつ静かに口へと運んでいく。

 小鈴は、その友人の完璧な横顔を見つめながら、ぽつりと言った。

「……食事って、本当に偉大ね」

「急にどうしたのよ、大層な顔をして」

「だって、こうして食べている間だけは、あの悍ましい原稿のことを綺麗さっぱり考えずに済むもの。炊きたてのお米は、少なくとも私たちを勝手に不吉な文章へ書き込んで呪ったりはしないでしょ?」

「あなたの場合、ただ単に原稿の恐怖を忘れて、目の前の食事に意識のすべてを奪われているだけでは?」

「ふん、それでいいのよ。食べ物は嘘をつかないし、何より、今ここに確かに実在しているんだから」

 阿求は、少しだけ箸を止め、慈しむような深い眼差しで小鈴を見つめた。

「今ここにあるものを、きちんと今ここにあるものとして扱う。小鈴、あなたはそういうところが、私よりずっと強いわね」

「阿求は、何でもかんでも考えすぎるから弱いの?」

「……そうかもしれないわ」

「あら、珍しい。素直に認めるのね」

「入院中くらいは、少しは殊勝にしてみせるわよ」

「永遠亭って、あの偏屈な阿求をここまで素直にさせる場所なの? 恐ろしい病院ね」

「鈴仙さんが毎日のように煎じている、あの怪しげな薬草の匂いのせいかもしれないわ」

 卓の上でお薬の包みを几帳面に整えていた鈴仙が、たまらず苦笑しながら口を挟んだ。

「それは医療従事者として初めて聞きましたよ、阿求さん」

「ではね、鈴仙。あなたの作ったそのお薬が、阿求を異常に素直にさせたのよ」

 小鈴が囃し立てる。

「ふふ、もし本当に飲む前からそんな劇的な効果が出ているのだとしたら、永遠亭の歴史においてもかなり画期的な新薬ですね」

「ちょっと、永遠亭の最先端の医療は、飲む前から患者の口を軽くして屁理屈を言わせなくするの?」

「そんな恐ろしい自白剤のようなお薬は作っていません。ただの消炎鎮痛薬です」

 小鈴は、今度こそ我慢できずに、久しぶりに声を上げて快活に笑った。

 けれど、笑った拍子に上体に振動が伝わり、ギプスで固められた両足の爪先へと痛烈な痛みが走る。

「……いったた。やっぱり、笑うと足が響いて痛いわ」

「笑わなくたって、どうせズキズキと痛むのでしょう?」

「それでもね、阿求。痛がりながら仏頂面をしているよりは、笑っている方が数倍はましよ」

 鈴仙は、二人の食事が綺麗に進んでいくのを見届け、満足そうに頷いた。

「朝食をすべて終えたら、忘れずにお薬を飲んでくださいね。今日は、師匠の言いつけ通り、できるだけ身体を動かさずにゆっくり休んでください」

「ええ、分かりました」

 阿求が、素直に頷いて答える。

「あの……あの原稿は、やっぱり、しばらくは見ない方がいいでしょうか」

 小鈴が、朝の光の中で白く浮き立つ、布のかかった机の上の存在を横目で見た。

「ええ、今日は見ないこと。あれほどきつく言われたでしょう? まずは徹底的に心身を休めなさいって」

「そう、ね」

 阿求は、そう言って目を伏せながらも、白い布の向こう側――その下にあるはずの不気味な紙切れを、見えない視線でじっと見据えていた。

「でも、どうしても気になるわ」

「気になっても、今日は強制的に置いておくのよ」

「あなたが、そんなに簡単に諦めて置いておけるなんて思わなかったわ」

「簡単じゃないわよ。でもね、昨日からずっと、私たちの脳みそはあの紙のことばかり考えているでしょう? だから今日は、紙の側に考える時間をあげるの」

「紙に、考える時間を?」

「そう。私たちがあえて見ないでいる間、あの原稿用紙も少しは自分のしたことを反省していればいいのよ」

「無機物の原稿用紙に対して真摯な反省を求めるなんて、さすがに新しい発想ね」

「誰かが生身の手で書いたものなら、そこには書き手の最低な性格くらい滲み出るでしょう?」

「その理屈が通るのだとしたら、小鈴、あなたの性格は、かなりあの塩辛い大根の漬物に近いわね」

「ちょっと、どういう意味よ」

「塩気がやたらと強く、後味が長く残るという意味よ」

「阿求、今のは完全に客観的な観察を装った皮肉でしょう」

「いいえ。稗田家としての冷徹な観察よ」

 そのやり取りを横で聞いていた鈴仙は、吹き出しそうになるのを必死になって、少しだけ笑いをこらえた。

 朝餉をすべて平らげると、二人は言いつけ通りにそれぞれの薬を口へと運んだ。

 小鈴に処方されたのは、薄い茶色をした小さな丸薬だった。冷たい水で一気に喉の奥へ流し込むと、舌の付け根に薬草特有の、わずかな苦みがざらりと残る。一方、阿求の薬は白い粉末を温かい湯へと溶かすもので、器からは湿った雑草を濃く煮出したような、独特の饐えた匂いが立ち上っていた。

「阿求、そのお薬、見るからに信じられないくらい苦そうね」

「あなたのその丸薬だって、十分に苦いでしょう?」

「私は水で一瞬で流し込めるもの。味なんてわからないわ」

「私だって、これくらい一息に流せるわよ」

「でも、その湯気から漂う匂いが絶対に嫌だわ」

「匂いの好き嫌いで薬を品定めするのは、人間の里の小さな子どもね」

「そういう阿求だって、薬の包みを開ける前から、もの凄く不機嫌そうに眉をひそめているじゃないの」

「……これは薬の匂いに対してではなく、あなたの執拗な観察が鬱陶しいからひそめているのよ」

 鈴仙は、手元のカルテの薬の記録へサラサラと何かを書き込んだ。

「では、私は薬局の確認に戻りますね。何か異変や必要なものがあれば、いつでも遠慮なく呼んでください」

「ありがとう、助かったわ」

 阿求が、器を置きながら言った。

「はい。しばらくの間は、本当にベッドの上で休んでいてくださいね」

 鈴仙は、部屋を出る前に、一度だけ机の上の原稿用紙へと目を向けた。

「その問題の紙には、このまま厚手の布をかけておきますね。顔を向けるたびにどうしても目に入ってしまうと、脳が休まらずに考えてしまうでしょうから」

 鈴仙はそう言うと、原稿用紙の上へと丁寧にしなやかな布をかけ直した。不気味に尖っていた紙の角が一切見えなくなるよう、四方の端まできちんと考え抜いて覆い隠す。

 ――たったそれだけのことで、病室の持つ冷たい印象が、劇的に少しだけ変わった。

 原稿は、確かにそこにある。

 しかし、今は肉眼で見えない。

 見えない。ただそれだけで、呪われた因果を考えるためのきっかけは、確かに二人の世界から減るはずだった。

「これで少しは休みやすくなると思います」

 鈴仙はそう言って、細やかな気遣いを残したまま病室を出ていった。

 静かに襖が閉じる。

 途端に、堰を切ったように竹の葉が擦れ合う微かな音が、再びしんとした病室を満たしていった。

 それからの午前中のあいだ、二人は本当に、申し合わせたように原稿の話を一切口にしなかった。

 小鈴は寝台の上で枕の高さを不器用に調整し、阿求はただ静かに、窓の外に広がる青々とした竹林を眺めていた。竹の葉は、目に見えない風が通り抜けるたびに重なり合って、サラサラと音を立てる。その音は、鈴奈庵で毎日のように耳にする「本をめくる音」とは、明らかに違っていた。本の頁は必ず人間の手でめくられる。けれど、竹の葉はただ自然の風に動かされる。

 どちらも脳裏に何かを熱心に伝えているように聞こえるけれど、実際には現実を何一つとして語ってはいないのだ。

「永遠亭って、恐ろしいほど静かね」

 小鈴が、退屈を紛らわせるように言った。

「周りがすべて迷いの竹林だからでしょう」

「鈴奈庵だって、お昼時にお客さんが誰もいない時はそれなりに静かよ」

「あなたの店はね、どれほど静かな時であっても、何百冊もの古い本の匂いが常に空間に満ちているわ。ここは、ただ薬の匂いがするだけ」

「その薬の匂いって、なんだか匂いだけで少し苦いわね」

「小鈴、あなた、薬の匂いだけを嗅いでいちいち不満気な感想を述べる患者なの?」

「そういう阿求だって、さっき朝餉の川魚の味を、かなり詳しく語っていたでしょうに」

「あれは生き延びるために必要な作業よ。食事は身体をしっかりと休ませるためのエネルギーだもの」

「ではね、阿求。あなたは今後は食事の専門家を名乗りなさいよ」

「少なくとも、鈴奈庵の朝餉の献立についてなら、阿求より私の方がよっぽど詳しいわよ」

「……それは、稗田家の当主を前にしてそれほど誇るべき歴史的なことなのかしら」

「誇るわよ。少なくとも、阿求はお米を研ぐ時に几帳面に水を三回替えるでしょう?」

「それが普通ではないの?」

「私はね、二回よ。それで十分だわ」

「そこまで劇的な違いがあるとは到底思えないけれど」

「でも、お味噌汁の濃さは絶対に違うでしょう。阿求は極端な薄味が好きだから」

「あなたは、そんなに濃い味が好きなの?」

「身体が酷く疲れた日はね。……まあ、疲れていなくても、少し濃い目の方がお米が美味しく進むけれど」

「それで、さっきからあの塩辛い漬物を食べすぎるのね」

「ちょっと阿求、あなた、人の食べ方の癖まで頭の中で几帳面に記録しているの?」

「記録などしていないわよ。あなたが、目の前で勝手に楽しそうに話しているだけでしょう」

「阿求が、そうやっていちいち話を振って聞くからでしょうが!」

 二人は、そこまで一気に言い合ってから、ふっと息を整えるように少しだけ黙り込んだ。

 ――原稿の話をあえてしない、という鈴仙との約束は、思ったよりもずっと難しくなかった。

 あの不気味な紙について話さないとさえ心に決めれば、二人の間を埋める話題は、案外いくらでも転がっているのだ。

 お米の正しい炊き方。

 お味噌汁の好みの濃さ。

 永遠亭に漂う薬草の苦い匂い。

 鈴奈庵の本棚の、美しい並べ方。

 そういう、生活の息吹が残る小さくて愛おしい日常のことを一生懸命に話していると、あの禍々しい原稿は、白い布の下で少しずつ、静かに世界の奥へと遠ざかっていくような気がした。

 完全に消えて無くなるわけではない。

 しかし、わざわざ手を伸ばさなくても届いてしまう悍ましい場所からは、確かに、ほんの少しだけ離れてくれている。

 そうして穏やかな時間が流れた昼前、襖が静かに開き、鈴仙が再び次のお薬の包みを手に持って病室へと戻ってきた。

「足の痛みはどうですか?」

 戻ってきた鈴仙が、二人の顔を覗き込むようにして尋ねた。

「右足は、少しだけ落ち着いたような気がするわ」

 小鈴がベッドの上から答える。

「でも、左足の小指は……まだズキズキと痛むわね」

「阿求さんは、いかがですか?」

「肩は、言われた通り動かさなければ大丈夫です」

「背中の傷は?」

「痛みますが、十分に我慢できる範囲よ」

「阿求さん。我慢できる範囲ということと、そこを動かしてよい範囲というのは、まったく別ですからね」

 鈴仙は二人の包帯の巻き具合を手際よく確認し、新しく持ってきた昼前の薬を卓へと置いた。

「小鈴さん、腫れを引かせるために、足を少し高くしておきますね」

「ええ、分かったわ」

「阿求さんは、絶対に横向きになって寝ないでください。背中の傷が引っ張られて開く可能性がありますから」

「分かりました」

「それから――お二人とも、絶対に私の見ていないところで勝手に歩き回らないでくださいね」

「歩きません」

 阿求が即座に答え、小鈴もそれに合わせて小さく頷いた。

 しかし鈴仙は、どこか非常に不安そうな目を向けて二人を見つめた。

「……本当に、信じていいんですね?」

「本当に、歩かないわよ」

「昨日も同じようなことを言って、結果的にお二人とも怪我を派手に増やしています」

「昨日は、私たちが永遠亭のベッドにいなかったからでしょう」

「場所が変わったところで、患者さんの頑固な性格までは変わりませんから」

「私は、昨日よりもずいぶん深く反省しているわ」

 小鈴が、胸を張るようにして言った。

「今朝だって、布団から出る時、真っ先に自分の足元の安全を確認したもの」

「それは反省というよりは、ただの恐怖からくる強迫的な警戒では?」

「どちらであっても、結果的に一歩も歩いていないんだから、同じことでしょう」

「確かに……そうですね」

 鈴仙は、二人のへ理屈に少しだけ破顔して笑った。

 薬の数をカルテと照合し、包帯を綺麗に整えると、彼女は再び静かに部屋を出ていった。

 病室には、また二人だけの時間が戻ってきた。

 問題の原稿は、変わらず白い布の下に深く隠されている。

 小鈴は、じっとその布の膨らみを見つめた。

 阿求もまた、同じ一点にその鋭い視線を注いでいる。

「……今日も、あの原稿は見ない?」

 小鈴が、声を潜めて言った。

「ええ、今日は見ないわ」

「じゃあ、明日も?」

「明日のことは、明日になってから決めましょう」

「もし、新しい内容が原稿に勝手に書かれたら?」

「その時は……あなたが、その紙を読まなければいいのよ」

「阿求は? あなたは見ちゃうでしょう」

「私は一度目にしたものを絶対に忘れないから、そもそも見ない努力をするしかないわね」

「それって、努力になるの?」

「物理的に目を閉じる、紙をあらかじめ裏返しておく、こうして布をかける、あるいはまったく別の幸せなことを考える。抗うためにできることは、いくらでもあるでしょう」

「昨日の阿求なら、そんな現実逃避みたいなこと、絶対に言わなかったわね」

「昨日の私は、右肩と背中を派手に怪我していなかったもの」

「怪我をすると、人間ってずいぶん素直になるのね」

「あなたこそ、両足の小指にひびが入ると、いつもより少しだけ静かになるわね」

「それは痛くて大声で騒げないだけよ!」

「結果的には、同じことよ」

 そんな二人の心地よい口喧嘩の最中、襖が開き、湯気を立てる昼食が静かに運ばれてきた。

運ばれてきた昼食は、驚くほど柔らかく炊き上げられた白粥と、形が崩れる直前まで優しく煮込まれた冬野菜、そして丁寧に骨を除かれた白身魚のほぐし身だった。

 お粥は、朝のあの美しい白米よりもいっそう水分を多く含んでおり、木製の匙を少し傾けるだけで、とろりとゆっくりその形を崩していく。極めて淡い薄塩味の向こう側に、米本来の素朴な甘さが、確かな温もりとともに残っていた。

 小鈴は、足先に響かないよう細心の注意を払いながら、匙で少しずつお粥を口へと運んだ。

 ほとんど噛む必要がないほど滑らかに解けていくのに、鼻へと抜ける米の豊かな匂いは、驚くほどはっきりとしている。

「病人の食べる食事って、私が思っていたよりもずっと美味しいわね」

「思ったよりという言い方は、一生懸命に作ってくれた鈴仙たちに対して、少々無礼が過ぎるわよ」

「だって、病人のご飯ってもっとこう……完全に味がしなくて退屈なものだと思っていたんだもの」

「小鈴、あなたは普段、病人のことを一体何だと思っているの?」

「……お味噌汁を限界までお湯で薄めたものだけで、細々と生き延びている哀れな存在」

「それはまっとうな病人ではなく、あなたが自炊を始めて二日目くらいに行き着く、ただの絶望的な手抜き料理よ」

「ちょっと阿求、あなた今、どさくさに紛れて私の神聖な料理の腕前を盛大に侮辱したでしょう!」

「あなたの作る料理はね、驚くほど味が濃い時と、悲しいほど味がしない時の差が、あまりにも激しすぎるのよ」

「失礼ね! あなた、私の料理をこれまでに何度食べたことがあるって言うのよ」

「あなたが、鈴奈庵へ行くたびに新メニューの試作よと言って、何度も何度も私に強制的に差し出すからでしょうが」

 小鈴は、悔しそうに口を尖らせながらもお粥をもう一口、美味しそうにぱくりと食べた。

「……ふん。退院したら、また気が向いた時に作ってあげてもいいわよ」

「結構よ。それなら、私が無事にここを退院できてからの話ね」

「その頃には、阿求が自分で少しは包丁を握って、自炊できるようになっているかもしれないわよ」

「私がわざわざ料理をする論理的な必要性なんて、どこにもないでしょう。稗田家には優秀な使用人がたくさんいるもの」

「そういうお高くとまったところがダメなのよ。普段自分で作らないから、鈴奈庵で私とお茶を淹れる時、茶葉を量る瞬間だけ妙に真剣で怖い顔になるのよ」

「……まだ言うのね、その重箱の隅をつつくような話を」

「だって、あの時の阿求、まるで茶葉のひとかけらに自分の全人生を懸けたみたいな、もの凄い形相をしていたもの」

「それはあなたが、ティースプーンへあまりにも適当に茶葉を山盛りに掬って入れようとするから、私が稗田家の名にかけて分量を美しく調整していただけよ」

「いい? 料理に本当に必要なのは、阿求のようなガチガチの測量技術ではなくて、研ぎ澄まされた勘なのよ」

「そのいい加減な勘だけで味を決めるから、あなたの家庭料理は日によって天と地ほどの差が出るのね」

「それが、毎回新鮮さを味わえる家庭料理の良さでしょうに!」

「ではね、小鈴。あなたの家庭料理は、毎日が里の小さな異変よ」

「――少なくとも、あの不気味な原稿よりは、よっぽど安全で平和な異変よ」

 阿求は、それきりピタリと返事をしなくなった。

 小鈴も、ハッとして、今の言葉は流石に言い過ぎてしまったとすぐに後悔した。

 病室の薄暗い隅にある冷たい机の上で、白い布が、風もないのにわずかにゆらりと揺れたような気がした。

 布の下には、あの原稿がある。

 原稿という呪われた言葉を直接口にしなくても、結局のところ二人は、頭の片隅で常にその存在を狂おしいほどに意識してしまっているのだ。

「……ごめん、阿求」

 小鈴が、消え入るような声で言った。

「何がかしら」

「今のは、私が少しだけ悪かったわ」

「ええ。そうね、少しだけね」

 阿求は静かに目を伏せた。

「阿求……」

「でも、分かっているわ、小鈴。あなたはあの忌々しい原稿に対して怒っているのであって、私へ向かって怒っているわけではないということくらい」

「……阿求に対してだって、少しは怒っているわよ」

「なぜ私が理不尽に怒られなければならないの?」

「だってあなた、昨日の朝、自分自身があんなに怪異に怯えて傷ついていたはずなのに――私の前では、いつだって龍神景綱さんを身を挺して庇う方を、何よりも最優先にしたでしょう?」

「それは、あの場において稗田家として最も必要だったからよ」

「もし私が全く同じことをして大怪我を負ったら、阿求は絶対に私に向かって烈火のごとく怒るでしょう?」

「当然よ。あなたは、両足の小指にひびが入っていると医者に診断されているのにもかかわらず、未だに不格好に鈴奈庵の店へ戻ろうとするでしょう」

「阿求だって、右肩と背中から生々しい血を流していたくせに、永遠亭へ運ばれる直前まで、看板の錆びついた金具の引っ掻き傷を必死になって調べようとしたわ!」

 阿求は、ぐうの音も出なくなったように、小さく唇を噛んだ。

「……それは、まあ、そうね。否定はしないわ」

「だから怒っているのよ。阿求が、自分の身体をちっとも大切にしないから!」

 阿求は、箸を止めたまま、しばらくの間お粥の椀の底をじっと見つめていた。

「……他ならぬあなたのような無鉄砲にそんなことを言われると、妙に悔しいけれど、説得力があるわね」

「私はね、自分の身体をこれ以上ないほど大切にしているわよ。現に今だって、この美味しいお粥をもう一杯おかわりしようかどうか、真剣に胃袋と相談しているんだから」

「お願いだから、生死の境界線とみずからの食欲の基準を同列にしないでちょうだい」

「でも、怪我の痛みに耐えかねて仏頂面をしている阿求よりは、よっぽど健康的で素晴らしいでしょう?」

「あなたは、人間の健康という高度な概念を、ただ単に食事の摂取量だけで短絡的に判断するでしょう」

「阿求だって、人間の価値や事態の深刻さを、稗田家の記録の量だけで冷酷に判断するじゃない!」

 阿求は、ふっと観念したように柔らかく口元を緩めた。

「……それは、確かに御阿礼の子として、一番否定しにくい指摘だわね」

阿求は、ふっと少しだけ柔らかく笑った。

 その笑みは、昨日から続く緊迫感をまだ完全には離していなかったけれど、それでも冷え切っていた病室の空気を確かに温めた。

 やがて運ばれてきた夕食の献立は、朝のそれよりも少しだけ軽めのものだった。

 ふっくらと温められた白米に、あっさりとした白身魚、そして根菜がたっぷり入った汁物。立ち上る淡い湯気の中に、じっくりと煮崩れた冬野菜の優しい甘い匂いが混じり合っている。小鈴は、汁の中の瑞々しい大根を木製の匙でそっと崩し、舌の上でゆっくりと溶かすようにして味わった。

 静かに食事を終え、言いつけ通りに食後の苦い薬を飲み込む。

 完全に日が落ちると、窓の外の竹林が奏でるサラサラという音は、昼間よりも少しだけ低く、重苦しい響きへと変わっていった。

 病室に灯された小さな明かりが、部屋の隅にある机の上の白い布を、ぼんやりと孤独に照らし出している。

 原稿は、確かにその布の下にある。

 第三者の誰が見ても、ただのありふれた、字の拙い紙切れにしか見えないものが、ベッドに横たわる二人にとっては、何度も現実の一日の形を強引に変えてみせた悍ましい元凶だった。

 しかし――今夜は、二人ともそれを見ないことにしている。

 見ないというこの選択が、怪異からの卑怯な逃避なのか、あるいは生き延びるための正当な休息なのかは、今の二人には分からない。ただ、傷ついた生身の身体を休めるためには、絶対に不可欠な防衛作業だった。

「ねえ、阿求」

「何かしら、小鈴」

「私たち……本当に、頭が疲れすぎているのかしらね」

 阿求は寝台の上で首だけを動かし、布のかかった静かな机を見つめた。

「ええ。たぶん、私たちの脳髄は、自分で思っている以上にひどく疲れているわ」

「じゃあ……あの原稿のことを、今夜は全部忘れてしまった方がいいのかな」

「忘れられるものなら、そうしなさい」

「阿求は?あなたは忘れるの?」

「私は九代にわたって、一度目にしたものを絶対に忘れない宿命の御阿礼の子よ」

「あ、そうだったわね。忘れたくても、忘れられないんだっけ」

「だから、明日になっても私の記憶は揺らがない。明日もベッドの上から徹底的に調べるわ」

「永琳先生は、しばらくベッドの上で大人しく安静にしろって、あれほどきつくお説教していたわよ」

「肉体は寝たままでも、脳髄だけで思考の海を巡らせることはいくらでも可能でしょう?」

「阿求、あなた、患者としての往生際が本当に最悪ね」

「他ならぬあなたにだけは、絶対に言われたくないわ」

「私は両足の小指に綺麗なひび(不全骨折)を負った可哀想な怪我人だから、多少の我儘は仕方ないのよ」

「私だって右肩と背中がズキズキと痛む、れっきとした負傷者よ」

「じゃあ、お互い様ね」

「ええ。まったく、最悪の意味でお互い様よ」

 二人は、それきり静かに口を閉ざし、しばらくのあいだ黙り込んだ。

 暗い庭の向こう側で、夜風に押された青竹の葉が、サラサラと寂しげに擦れ合っている。

 小鈴は、そっと重い瞼を閉じた。

 それは、あの原稿の恐怖を無理に頭から締め出そうとするためではなかった。

 朝餉に食べた、あの白米の瑞々しい甘さを思い出す。

 昼に食べた、あの温かいお粥の滑らかな柔らかさを思い出す。

 食後に残った、あの薬草のざらりとした苦さを思い出す。

 今、自分の両足先をきつく締めつけている、白い包帯の確かな感触に意識を向ける。

 すぐ隣の寝台で、同じように肩を固定されて静かに呼吸している、阿求の気配を肌で感じる。

 ――そういう、今この瞬間に自分の周囲に確かに実在している「生のディテール」へと、自らの意識をまっとうに戻すためだった。

 病室の薄暗い隅には、白い布をかけられたあの原稿用紙が静かに佇んでいる。

 完全にこの世界から消え去ったわけではない。ただ、今夜の二人の視界からは、完全に外されていた。

 その、ほんのわずかな物質的な距離こそが、今夜の二人にとっては、正気を保つためにどうしても必要な盾だったのだ。

 月の賢者が統べる永遠亭の夜は、二人の呼吸を飲み込みながら、どこまでも静かに、深く更けていった。

 




ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第八話は、永遠亭での入院生活を通して、小鈴と阿求が原稿から少し距離を置く話でした。
二人が何を話し、何を話さなかったのか。
その違いも含めて、楽しんでいただけましたら幸いです。
次回もよろしくお願いします。
毎週木曜日・日曜日 午後7時更新予定です。
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