小鈴と阿求は、永遠亭のベッドで静かに過ごす……はずでした。
けれど、夜の竹林は、そう簡単には二人を休ませてくれません。
今回も、二人のやり取りを見守っていただけましたら嬉しいです。
それでは、どうぞ。
その夜、小鈴は唐突に何者かによって現実へと引き起こされた。
一体何に起こされたのか、最初の数秒は自分でも判然としなかった。
ギプスで固められた両足の、あのズキズキとした小指の痛みだったかもしれない。無意識に寝返りを打とうとした拍子に、硬い固定具がわずかにずれて神経を刺激したのかもしれない。あるいは暗い悪夢の底で、誰かが自分の名前をひっそりと呼んだ気配がしたからかもしれない。
ただ、完全に意識が覚醒したその瞬間、小鈴は肌を刺すような異変にすぐさま気づいた。
――静かすぎるのだ。
月の賢者が統べる永遠亭の夜は、もともと深海のように静かだった。しかし、どれほど静まり返っていようとも、千年も生き続ける迷いの竹林には、何かしらの微かな呼吸が必ず存在しているはずだった。
青竹の葉が夜風に小さく擦れ合う音。
遥か彼方の空で、湿った風が吹き抜けていく音。
名前も知らない夜の虫たちの細い鳴き声。
夜の庭の草むらを密かに歩く、小さな生き物たちの息遣い。
――そうした日常の些細なディテールのすべてが、今夜に限っては、この世界から跡形もなく完全に消え去っていた。
小鈴は、微睡みの残る重い目を開けたまま、しばらくのあいだ天井の暗闇をじっと見つめていた。
枕元の灯火はすでに消されている。
病室の中は冷ややかに暗く、ただ窓の隙間から差し込む青白い月の光だけが、畳の細かな網目と、並んだ二つの寝台の輪郭を、まるで骸骨のように薄く浮かび上がらせていた。
小鈴は、両足の小指に余計な振動を伝えないよう極限まで神経を尖らせながら、首の角度だけを窓の方へとゆっくり巡らせた。
窓の外には、どこまでも不気味な竹林が広がっていた。
冷徹な月明かりに鋭く照らされた竹の幹が、何本も、何本も、墓標のように白く立ち尽くしている。
けれど、その葉は一枚たりとも動いていなかった。
世界から風そのものが死に絶えてしまったのだろうか。それとも、たとえ風が吹いていたとしても、この病室の周囲にだけ「音」という概念が届いていないのだろうか。
小鈴は、喉の奥が引き締まるような、形容しがたい不気味さを覚えた。
永遠亭に担ぎ込まれてから、それほど何日も夜を過ごしたわけではない。それでも、夜の竹林には独特の、生きているような不穏な音の鳴り方があるということくらいは知っている。
音が、何一つとして存在しない。
ただそれだけのことなのに、まるで窓の外の竹林全体が、巨大な一つの悪意となってこちらの様子をじっと息を潜めて窺っているように感じられた。
小鈴はたまらず、助けを求めるように隣の寝台へと視線を移した。
阿求は、静かに眠っていた。
正確にはただ「眠っているように見えている」だけだった。
彼女は、身じろぎ一つしていなかった。
裂けた背中を庇うために高く積まれた枕の上で、ただの1ミリすら寝返りを打つ気配すらない。完璧に整えられた紫色の髪が枕の上に扇状に広がったままで、その硬直した白い顔には、冷たい月明かりが薄く、残酷に差し込んでいる。
――生きている人間なら当然発するはずの、かすかな寝息すら、こちらには一切聞こえてこなかった。
小鈴は、呼吸を忘れたようにしばらく阿求の横顔を凝視した。
阿求は、まるで最初から魂の抜けた精巧な人形であるかのように、微塵も動かなかった。
その決定的な異質さに一度気づいてしまうと、先ほどまでの「ただの静けさ」が、急激に別の、取り返しのつかない恐ろしい意味を持ちはじめ、小鈴の胸を容赦なく締めつけ始めた。
「……ねえ、阿求?」
ひび割れた唇から、小さく名前を呼んでみる。
――当然、返事はない。
当たり前だった。彼女は今、深く眠っているのだから、返事がある方がむしろおかしいのだ。
小鈴は、激しく脈打つ自らの心臓を宥めるように、心の中で何度も、何度もそう言い聞かせた。
しかし、いくら目を凝らしても、布団に覆われた阿求の胸元はほとんど動いていない。
さらにじっと見つめて、ようやく、本当にわずかに上下しているのが確認できた。
呼吸は、している。
たぶん、生きているはずだ。
小鈴は、月明かりの青白い悪戯のせいで、本当に友人の肉体が動いているのか、それとも自分の恐怖がそう見せているだけなのか、次第に判然としなくなってきた。
これでは、月の賢者である八意永琳でさえ、直に胸元へ手をかざすか、脈を測るか、何か特別な医療の術式を使わなければ、生死の判別がつかないのではないか。小鈴は、頭の中で勝手にそんな不吉な想像を膨らませていた。
手をかざせば、確かな体温が分かるかもしれない。
手首の脈を測れば、もっと確実に正気へ戻れるだろう。
けれど、小鈴は隣の寝台へ向けて手首を伸ばしかけたところで、その指先をぴたりと止めた。
友人の安否を確かめるためという理由だけで、健やかに眠っている相手の脈を夜中にこっそり測る。それはいくら何でも、どんなに仲の良い親友であっても、人間として越えてはならない一線を越えている気がしたのだ。
(……でも、阿求ってば、寝ている時までいくら何でも静かすぎるのよ)
普段から物静かで優雅な方ではある。
しかし、生身の眠っている人間なら、もう少し生活感のあるみっともない動きをしてもいいはずだった。
豪快に寝返りを打つとか。
布団を乱暴に蹴飛ばすとか。
理不尽な寝言をぶつぶつと言うとか。
せめて、小さく鼻を鳴らすとか。
(九代目の御阿礼の子は、まさか寝ている時まで完璧な『歴史の記録係』の姿勢を崩さないっていうの?)
小鈴は、恐怖を紛らわせるために半ば本気でそう毒づいた。
――その時だった。
カサカサ、と。
不意に、乾いた音がした。
小鈴は、弾かれたように窓の方へ顔を向けた。
今度は、幻聴ではない。はっきりと鼓膜へ届いた。
まるで、竹の葉が何かに触れて擦れたような、乾燥した音だった。
しかし、永遠亭の重い窓は完全に閉め切られている。外には風もない。それなのに、確かに窓のすぐ外側から、乾いた何かが何かに執拗に触れているような、不気味な音が響いてきたのだ。
小鈴は思わず身体を起こそうとした。
その瞬間、左右の足先から強烈な激痛が走り、脳裏が白く染まる。
「っ……!」
小さく悲鳴を呑み込み、小鈴はたまらず枕へ背中を預けて押し込んだ。これ以上は物理的に動けない。そのまま、恐怖に引き攣る目だけを、冷たい窓の外へと向けた。
白く凍りついた竹林の、その深い奥の影に何かが、ぽつんと立っていた。
最初、小鈴はそれをただの竹の幹だと思い込もうとした。
しかし、竹にしてはその輪郭が、あまりにも細すぎる。
まっすぐに虚空へ伸びているようでいて、月明かりの境界線の上で、ところどころ不自然にゆらゆらと揺らいでいる。
それは、どう見ても歪な人影の形状に似ていた。
ただし、その距離が遠すぎて、それが一体誰なのかはまったく判別がつかない。
屋敷の主である八意永琳にしては、その背が高すぎる。
月の姫である蓬莱山輝夜にしては、その身体が異様なほどに細身だった。
では、見回りの鈴仙や因幡てゐたちかとも思ったが、その影の頭上には、月光を浴びて跳ねるはずの長い兎耳のシルエットなど、どこにも見当たらなかった。
人間なのか、妖怪なのか。
あるいは、あの不気味な原稿がもたらした新しい怪異なのか。
そもそも、あの影は本当に「生きた人間の形」をしているのだろうか。
小鈴の優れた直感をもってしても、それを正しく判断することは、決してできなかった。
その影は、ときどき左右へと不自然に、小刻みに傾いた。
寒さにガタガタと激しく震えているようにも見えたし、立ったまま深く微睡んでいるようにも見えた。
――あるいは。暗闇の奥から、こちらをじっと見つめているようにも見えた。
小鈴は、窓の外の不気味な影からどうしても目を離すことができなかった。月の青白い光しか存在しないこのような呪われた夜に、あの異形が誰なのか、正しく特定できる人間などこの里にいるのだろうか。
その影が、またわずかに、生き物のように揺れた。
カサ、カサ。
今度は、先ほどよりも確実に近くで聞こえた気がした。
小鈴は恐怖のあまり、布団の中で生身の身体を白くなるほど固く強張らせた。そして、縋るように隣の寝台の阿求の方を見る。
阿求は、まだピクリとも動かない。
けれど、その胸元だけが、ごくわずかに上下している。
その確かな生命の営みを確認すると、小鈴の凍りつきそうな胸に、少しだけ温かい安堵が戻ってきた。
自分は一人ではない。たとえ阿求が今、死人のように深く眠りこけていたとしても、私のすぐ隣には彼女がいてくれるのだ。
それに、今夜は妙に、抗えないほどひどく眠かった。
鈴仙のくれた薬のせいだろうか。目を開けてあの窓の外を凝視していること自体が、だんだんと苦しく、億劫になってくる。
(……私は、ただ酷く寝ぼけているだけよ)
小鈴は、自分に催眠をかけるように優しく言い聞かせた。
(一昨日からずっとまともに眠れていなかったんだもの。疲れた脳みそが、ただの竹の影を勝手に怪しい人影に見間違えたのよ。当然だわ)
そう無理やりに考えれば、確かに永琳の言う通り、すべては医学的に説明がついた。
もっとも、論理的に説明がつくということと、この胸の恐怖が綺麗に消えて安心できるということは、全くの別問題だったけれど。
それでも小鈴は、重い瞼をそっと閉じた。
窓の外のあの不気味な揺らぎを見ないために。
これ以上、あの原稿の呪いを考えないために。
このまま深く眠ってしまえば、すぐにまっとうな朝になる。朝になれば、あの影の正体だってきっと分かるはずだ。
夜が明ければ、あれは単に見回りをしていた永遠亭の誰かだったと判明する。そうでなければ、ただの竹の影に怯えていたのだと、明日の朝餉の席で阿求と大笑いできるに決まっている。
小鈴は、そう自分を慰めるように思いながら、急速に深い眠りの底へと落ちていった。
――その、意識が完全に途切れる寸前のことだった。
閉ざされた窓の外から、もう一度だけ、明確な音が聞こえた。
カサ、カサ。
しかし今度は、風に竹の葉が擦れ合った乾いた音などでは、決してなかった。
それは、何重にも重なった重たい原稿用紙か、あるいは何かの骸のようなものが静かな地面を、ずるりと引きずるような音だった。
そして、朝小鈴は静かに目を覚ました。
小鈴が朝露の明かりの中で目を覚まし、最初に見界に捉えたのは、すぐ隣の寝台にある阿求の端正な寝顔だった。
阿求は、昨日の夜に小鈴が怯えながら見つめていたあの時と、寸分違わぬ完璧な姿勢のまま眠っていた。
少なくとも、小鈴の網膜にはそのようにしか見えなかった。
「……あなた、本当に夜中じゅう一度も寝返りを打たないのね」
小鈴がシーツの奥から小さく呟くと、待ってましたとばかりに阿求の睫毛が震え、その聡明な瞳が静かに開いた。
「あなたは朝一番から、他人のプライベートな寝相を几帳面に記録する趣味を始めたの?」
「いつもは記録する側のあなたが、記録される側になった途端に、あまりにも不気味な寝方をしていたから指摘しただけよ」
「不気味とは、稗田の当主に対してあまりにも失礼ね」
「だって、寝息すらまともに立てずに、夜中じゅう死人みたいにほとんど動かなかったでしょう?」
「寝息くらい、まっとうに立てていたわよ」
「全然聞こえなかったわよ」
「それは単に、あなたの耳の機能が朝から著しく悪いのよ」
「じゃあ、このあと鈴仙が来たら真っ先に私の耳を診てもらいましょうか」
「耳ではなく、その不確かな認知を司る頭の側を徹底的に診てもらうことを強くお勧めするわ」
「……朝の一言目から、ずいぶんと辛辣ね」
「朝だからよ。頭が冴えている証拠だわ」
阿求はそう言って、痛々しく固定された右肩を慎重に庇いながら、ゆっくりと上半身を起こそうとした。
その肩を庇うための一一の動作は、昨日のあの生々しい事故の直後に比べれば、わずかに滑らかになっているようだった。それでも、動かす瞬間に彼女の白い顔に走った微かな苦悶の影を、小鈴は見逃さなかった。
「……やっぱり、まだ痛む?」
「ほんの、少しだけね」
「少し、なんていう可愛い顔には到底見えないわよ」
「あなただって、その両足のひびが痛むくせに、今さっきからやけに平然とした顔をして横たわっているでしょう」
「私は別に平然としているわけじゃなくて、ただ静かに永遠亭の美味しい朝餉が運ばれてくるのを待っているだけよ」
「地上では、それを『平然としている』と表現するのよ」
「違うわ。私の底知れない食欲が、怪我の痛みに一時的に完全勝利を収めているだけよ」
「あなたの場合、その食欲があらゆる現実の危機に勝っている気がするわね」
「ふん、阿求のあの恐ろしい記憶力と全く同じよ」
「私の御阿礼の記憶力を、あなたのその野生的な食欲と同列に並べないでちょうだい」
「だってどちらも、本人の意志や理屈とは関係なく、勝手にフル発揮される性質のものでしょう?」
「私の記憶力は、あなたのその胃袋の要求よりも、もう少し歴史的に高尚よ」
「その高尚な記憶力を使って、あなたがこの間、鈴奈庵で食べた私の手作り味噌汁の話を未だに覚えているっていうの?」
「ええ、もちろん。あなたが疲れていたからと言い訳をして、塩を大さじ一杯分も余計に入れすぎたことまで克明に覚えているわ」
「それは、高尚な記憶力なんかじゃなくて、ただの執念深い『恨み』でしょうに!」
阿求は、小鈴の図星を突かれたような抗議を聞いて、今朝の光の中で、ようやくいつものようにわずかに柔らかく笑った。
朝の病室に、ようやくいつもの二人の空気が戻ってきた。
けれど、夜中に格子窓の向こうで目撃したあの異様な影のことだけは、小鈴はまだ口に出して話さなかった。
話してしまえば、阿求のことだからきっと鋭い目で細部まで徹底的に聞き出そうとするだろう。
どこに立っていたのか。
どのくらいの高さだったのか。
左右に何度ほど揺れたのか。
地面を引きずるようなあの音は、一体どの方向から聞こえてきたのか。
そして最後には、動かない右肩を三角巾で吊ったままのくせに「確かめに行くわよ」と無謀なことを言うに違いないのだ。
小鈴は、昨夜の影を脳裏に思い返した。
青白い月明かりの中で、まるで白骨のように細長く立っていたもの。風が完全に死に絶えていたのに、生き物のように左右へ小刻みに揺れていたもの。
しかし、今はもう世界が眩しい朝だった。
永遠亭の広々とした病室には清々しい朝の光が差し込み、鬱蒼とした竹林にも生き生きとした鳥たちの囀りが戻っている。夜の悍ましい静けさは、すでに覚めかけた夢の一部へと押し戻されていた。
そこへ、張り詰めた思考を解きほぐすように、襖の外から鈴仙のよく通る声がした。
「おはようございます。朝食をお持ちしましたよ」
「どうぞ、入ってください」
阿求が、いつもの穏やかな声音で答える。
鈴仙が湯気を立てる大きな盆を持って入ってきた。
今朝の朝餉は、ふっくらとした温かい白米に、滑らかな豆腐と瑞々しい若布(わかめ)の味噌汁、丁寧に巻かれた焼きたての卵、それから鮮やかな青菜のお浸しだった。
湯気の立つお味噌汁からは、芳醇な出汁と味噌の香りが心地よく漂ってくる。香ばしく焼かれた卵は表面が均一に薄く色づいており、箸を入れると、中からふんわりと柔らかな鮮黄色が顔を出した。
小鈴は、そのだし巻き卵を一口サイズに切り取って口へ運んだ。
甘さは極めて控えめで、じゅわりと溢れ出た上品な出汁の旨味が先に口いっぱいに広がった。柔らかな極上の舌触りの後に、絶妙に焦げ目のついた表面の香ばしい余韻が残る。
「……美味しい。今日は卵焼きね」
「お口に合いましたか? 嫌いでしたら他のおかずに替えますが」
「いいえ、とんでもないわ! 鈴奈庵の店主として、この素晴らしい朝食を大いに歓迎するわよ」
「あら、朝一番から随分と分かりやすく嬉しそうな顔をするのね」
隣の寝台から、阿求の静かな声が飛んでくる。
「ちょっと阿求、あなたってば、この完璧な卵焼きに対してまでいちいち理屈っぽい皮肉を言うの?」
「卵という無機物に対してではなく、それを前にしてあからさまに鼻の下を伸ばしているあなたに対して言ったのよ」
「卵を通して私を間接的に攻撃するのは絶対にやめて頂戴!」
鈴仙は、いつものように繰り広げられる二人の微笑ましい言い合いを横目に、手際よく薬の包みを二人の前へとそれぞれ置いた。
「食事が綺麗に終わったら、忘れずにこちらの食後薬を飲んでくださいね」
「ええ、分かりました」
阿求が、器を置きながら静かに答える。
「それからですね、お二人に伝言です。今日は午後、龍神景綱さんがここへ来られる予定になっています」
小鈴の、白米を掴もうとしていた箸の先が、ぴたりと空中で静止した。
「……景綱さんが、ここに?」
「はい。師匠の許可が出ましたので、午後三時頃にこちらの病室へ直接見舞いに来るそうです」
「何のために、わざわざ永遠亭まで来るのかしら」
阿求が、声の温度を一つ下げて尋ねた。
「なんでも、一昨日のあの古書店の前で起きた看板崩落の件について、お二人へいくつか直に確認したい大切なことがあるそうなのです」
阿求はそれ以上言葉を返さず、残った卵焼きを、箸の先で小さく冷徹に切り分けた。
「確認したいこと、ね」
「何か問題でもありましたか?」
二人の空気の変化を察して、鈴仙が不思議そうに尋ねる。
「いいえ。こちらも当主様へいくつか、客観的に確認したい事実があるだけよ」
「わかりました。ですけれど、景綱さんが来られても、お二人ともできるだけベッドの上で安静にしていてくださいね」
「ええ、話を聞くだけなら、生身の身体はこれっぽっちも動かさないわ」
「小鈴さんは特に、話に熱中しているうちに無意識に動き出す癖がありますからね」
「ちょっと、そんな根も葉もない野生児みたいなことはないわよ」
「昨日だって、あの古書店の看板の話をした瞬間に、勢いよく立ち上がろうとして顔を歪めていましたよね」
「……そんな不名誉な歴史、私の綺麗な記憶には一切残っていないわね」
「それは自分にとって都合よく忘れているだけです」
「小鈴、もう少し患者としての自覚と羞恥心を持ちなさい」
隣の寝台から、阿求がここぞとばかりに言った。
「他ならぬ、あの往生際の悪い阿求にだけは絶対に言われたくないわよ!」
「私はあなたと違って、自分自身の負傷のレベルを論理的に十割把握しているもの」
「把握していても、それを都合よく完全に無視して動こうとするでしょう?」
「無視などしていないわ。稗田家として事態の重大性を鑑み、ただ一時的に『優先順位』をつけて後回しにしているだけよ」
「自分の生身の怪我を一番後ろに回す優先順位なんて、人間の歴史を探したって聞いたことがないわよ!」
「あなただって、生きるための食事の時間をすべての現現実より最優先にするでしょう?」
「食事は絶対に後回しにしてはいけない神聖な生存義務だもの!」
「私にとっては、怪異の記録や分析も全く同じよ」
「――だったらなおさら、今はこれ以上怪我を悪化させないように、ちゃんとおとなしく休んで頂戴」
小鈴が真っ直ぐに言うと、阿求は一瞬だけ虚を突かれたように口を噤んだ。
「……そうね。わかったわ」
「あら、ずいぶんと殊勝で素直ね」
「温かい食事を口に運んでいる最中だからよ」
「阿求は食事を摂ると、そんなに人間が丸く素直になるの?」
「あなたの方こそ、食事を摂ると脳のブレーキが壊れて、余計に生意気な口が滑るようになるわね」
「それは満腹になって、繊細な精神の気が緩むからよ」
「まだお茶碗に半分も残っているのだから、満腹ではないでしょう」
「では、もっとたくさん食べて早く満腹にすればいいのね!」
「そうやってすべての結論を脳内補完で食欲に結びつけるところが、いかにもあなたらしいわ」
二人は朝食を綺麗に終え、大人しく食後の薬を口にした。
小鈴は冷たい水で丸薬を一瞬で喉の奥へ流し込み、阿求は湯に溶かした粉薬を、昨日の朝と全く同じように苦虫を噛み潰したような顔で眉をひそめながら飲み干した。
「……やっぱり、どうしても耐え難いほど苦いわね」
「昨日も全く同じ時間に同じセリフを言っていたわよ、あなた」
「苦いという厳然たる事実は、何度経験したところで等しく苦いのよ」
「では、明日も明後日も、朝になれば同じことを飽きずに言うでしょうね」
「あなたこそ明日も同じように、運ばれてきた卵焼きの味を大袈裟に褒めちぎるでしょう」
「だし巻き卵の個性はね、毎日微妙に違うのよ!」
「ただの朝食の卵に対して、そこまでの劇的な個性を求めないでちょうだい」
鈴仙は、二人の薬の空包を几帳面に確認してカルテへ記録した。
「では、午後の面会までゆっくりとベッドの上で休んでいてください。午後三時に景綱さんが来られたら、医療側の立ち会いとして私も必ずこの部屋へ同席しますから」
「ありがとう、助かるわ」
阿求が、器を置きながら言った。
鈴仙は部屋を出る直前、ふと部屋の隅にある木製の机の上へと視線を向けた。そこには、昨夜から変わらず、尖った角を隠すように厚手の白い布がかけられた原稿用紙が、静かに置かれている。
「その問題の原稿は、このまま触らずにしておきますね」
「ええ、そのままで構わないわ」
阿求の返事は、いつになく短く、冷ややかだった。
鈴仙が静かに病室を出ていき、パタンと襖が閉まる。
小鈴は、再び部屋を支配し始めた竹林の葉擦れの音を聞きながら、白い布の下にある原稿の輪郭をじっと見つめた。
――途端に、昨夜のあの白骨のように細長い人影の記憶が、鮮明に脳裏をよぎった。
風もないのに、左右へと小刻みにゆらゆらと揺れていた、あの異形の影。
あれも……あの不気味な原稿に、知らず知らずのうちに書き込まれていた怪異の一部だったのだろうか。
しかし、小鈴の記憶が正しければ、昨夜のあの原稿には「三日後の石碑」のことしか書かれていなかったはずだ。夜霧の中に現れる不気味な人影についての記述など、一文字もなかった。
小鈴は、その違和感を隣の阿求へ今すぐ話そうとした。
けれど出かかった言葉を、ぐっと喉の奥で踏みとどまらせて口には出さなかった。
そんな怪しい影の話をしてしまえば、一度目にしたものを絶対に忘れない阿求のことだ。自分を大切にしろという忠告など一瞬で放り出して、今すぐその細い指先で、あの白い布を乱暴に剥ぎ取って原稿の内容を確認しようとするに決まっているからだ。
そして、もしそこに新たな一文が刻まれていれば、今度は「夜の竹林のあの場所まで直に見に行くわよ」などと、無謀なことを言い出すだろう。
小鈴は、自分のせいで大切な友人をこれ以上危険な目に遭わせたくはなかった。できればこれ以上何も起こらないまま、穏やかに午後三時を迎えたかったのだ。
しかし――そのささやかな願いは、長くは続かなかった。
午後三時を少し回った頃、静まり返っていた永遠亭の長い廊下の向こうから、コツン、コツンと、一定の間隔を保った重たい足音が近づいてきた。
見回りの鈴仙たちの軽い足音ではない。
やがて、二人の病室の襖の前で、その足音がぴたりと止まった。
「……失礼します」
襖の向こうから響いたのは、紛れもない龍神景綱の、低く厳めしい声だった。
「どうぞ、お入りください」
阿求が、背筋を伸ばして答える。
スゥと襖が開き、仕立てのよい着物を着た景綱が静かに病室へと入ってきた。
その大柄な姿が視界に入ったまさにその瞬間、阿求の鋭い視線が、弾かれたように壁際の机の上へと向けられた。
――そこには、昨夜からずっと置かれたままの、白い布をかけられたあの原稿用紙がある。
入室したばかりの景綱は、まだその存在に気づいていない。しかし、部屋に入った人間の視線というものは、時間が経てばいずれ部屋全体を隈なく巡るものだ。もしあの男が古い記録に執着する古書店の主人の意図で動かされていたのだとしたら、あの剥き出しの原稿を見つけられた瞬間、何が起きるか分からない。
阿求は、ほんの一瞬の間で最悪の分岐を計算した。
「……まずいわ」
彼女は、血の気の引いた顔で小さく呟いた。
「え? 阿求、何が――」
小鈴が聞き返すよりも早く、阿求は三角巾で固定された右肩の痛みを完全に無視して、寝台から狂ったように上体を前へと乗り出した。
「阿求、ダメよ、無理をしないで!」
小鈴の必死の制止の叫びを聞く耳持たず、阿求は左手を限界まで伸ばし、壁際の机の上の原稿用紙を、かかっていた白い布ごと乱暴にガシッと抱え込んだ。
肉の裂けた背中と打撲の右肩に、脳を焼くような猛烈な激痛が奔る。
「くっ……!」
阿求は小さく呻き、顔を青ざめさせながらも、執念でその原稿を用紙ごと自らの寝台のシーツの脇の隙間へと強引に押し込んだ。
「……痛っ。流石に響いたわね……」
「だから! あれほど無理をするなと言ったでしょう!」
「今は……私の怪我なんて、どうでもいいくらいそれどころではないわ」
「十分それどころよ、バカ!」
阿求は、激痛に冷や汗を流しながらも、何事もなかったかのように素早く枕へ背中を戻し、澄ました顔を作った。
しかし――入室したばかりの龍神景綱は、その一連の怪しすぎるドタバタ劇を、その鋭い眼光で最初から最後まで完全に目撃していた。
「おやおや……。お二人とも、今、明らかに私の目の前で何かを必死に隠しましたな?」
「何も隠してなどおりませんわ、景綱様」
阿求は、髪の乱れを左手で直しながら即座に微笑を浮かべて言い放った。
「いいえ、今、どう見ても明らかに不自然な動きで何かを布団の隙間に押し込みました。あれは一体何です?」
「……ただの、布団の余りですわ」
「稗田殿。人間の里の一般的な布団というものは、そんなに四角く角張った形をしておりませんよ」
「永遠亭の医療用の寝具というものはね、里のものとは違って非常に構造の種類が豊富なのです」
「……そのような問題ではないと思いますがね」
景綱のジロリとした視線に耐えかねて、小鈴は気まずそうに露骨に目を逸らした。阿求だけは未だに平然とした鉄の顔を作っているが、寝台の脇のシーツの隙間には、白い布に包まれたあの禍々しい原稿用紙が、雑に押し込まれたまま端っこが覗いている。
何かを必死に隠したことは、子供騙しにもほどがあるくらい、どう見ても一目瞭然だった。
しかし、景綱はそれ以上、その四角い隠し物を執拗に追及しようとはしなかった。フンと鼻を鳴らすと、表情を少しだけ和らげる。
「まあ、よいでしょう。今日は他でもありません、我が命を救ってくださったお二人への、正式なお見舞いに参ったのです」
景綱はそう言って、着物の懐から丁寧に包まれた小さな贈り物を、がっしりとした手で取り出した。それは、薄い上質な和紙に大切に包まれた、小ぶりの漆塗りの箱だった。
「人間の里で最も名高い菓子屋で、今朝一番に買い求めてきたものです。もしお体に障らぬようでしたら、お二人でどうぞ召し上がってください」
「まあ……!お菓子!」
小鈴の声が、目の前の美味しい誘惑に思わずパッと明るく上擦る。
「中身は日持ちのする上質な焼き菓子です。永遠亭の気難しいお医者方に止められてさえいなければ、少しくらい口にしても問題はないと思いますがね」
同席していた鈴仙が、苦笑しながらその箱を預かり、寝台の脇の卓へと静かに置いた。
怪異の因果から間一髪で生還した男が持ってきた、里の焼き菓子。その甘い匂いが、病室の張り詰めた空気を、ほんの少しだけ不思議な現実へと引き戻していくようだった。
「景綱様も、わざわざお見舞いまでありがとうございます」
病室の静寂を破ったのは、寝台に横たわる阿求の、少し掠れた声だった。
「いえ。こちらも、お二人のことが心配でしたから」
景綱は穏やかに、しかしどこか見通すような眼差しで、並んだ二つの寝台を見つめた。白十字の包帯が痛々しい。
「具合はいかがですか?」
「私は大丈夫です」
阿求は、努めていつもの冷静な声音で答える。だが、景綱の鋭い目は誤魔化せなかった。
「……痛む右肩を押さえながらそう言われましても、あまり説得力がありませんね」
わずかに眉をひそめて指摘する景綱に、阿求は小さく息を吐き、視線を向け返した。
「私の言う大丈夫というのは、痛みが存在しないという意味ではないわ」
「小鈴さんは?」
話を振られた小鈴は、布団の端を少しだけ引き上げ、気まずそうに視線を泳がせた。
「私は、右と左の両足の小指が痛いです」
「それは……どう考えても大丈夫ではないのでは?」
「痛みがあるだけで、脳の意識はいたって明瞭です」
「それも大丈夫の定義としては、少し変ではありませんか」
「怪我人に完璧な論理的定義を求めないでください」
小鈴が不満げに口を尖らせると、景綱の端正な顔がわずかに緩み、短く低い笑い声が漏れた。張り詰めていた病室の空気が一瞬だけ和らぐ。
しかし、景綱はすぐにその笑みを収め、表情を真剣なものへと改めた。その瞳の奥に、冷徹な役人のそれにも似た光が宿る。
「それで……お二人に、少し確認したいことがあります」
「何でしょう」
阿求がわずかに背筋を正した。その一言だけで、彼女が警戒の壁を築いたのがわかる。
「一昨日の、あの古書店の前での事故についてです」
その言葉が落ちた瞬間、小鈴は布団の中で、自分の指を白くなるほど強く握りしめた。どくり、と心臓が嫌な音を立てる。
「事故が起こる前、あなた方は確かにあの現場へ向かっていましたね」
淡々とした、しかし逃げ道を塞ぐような問いかけだった。
「ええ」
「商家の立ち並ぶ通りを、ただ偶然通りかかったという様子では到底なかった」
景綱の鋭い視線が、阿求から、泳ぐ小鈴の瞳へと静かに移る。
「まるであそこで何かが起きる、その場所をあらかじめ知っていたように見えました」
病室に、冷たく重い沈黙が落ちた。窓の外から聞こえる風の音さえ、遠く感じる。阿求はすぐには答えず、ただ景綱の視線を受け止めていた。
「そのように見えたのなら、申し訳ありません」
沈黙に耐えかねたような阿求の言葉に、景綱は首を横に振った。
「謝ってほしいわけではありませんよ」
「では、一体何を知りたいのですか?」
「あなた方が、あの事故を事前に知っていたのか、どうかです」
景綱の声には、怒りや二人を責めるような響きは微塵もなかった。ただ純粋に、真実だけを求めている。だからこそ、小鈴はかえって胸を締め付けられるようで、答えづらくて仕方がなかった。
景綱は、あの看板が落ちた事故そのものについては、現実の不運な偶然だと考えているのだろう。
建物が古かった。
金具の固定が緩んでいた。
確認が足りなかった。
現実的な理由など、探せばいくらでも後付けできるのだから。
しかし、その偶然の場所に、なぜ二人がピンポイントで向かっていたのか――その矛盾だけが、景綱の鋭い洞察力を捉えて離さないのだ。
もし自分が事件の当事者だったなら、景綱もまずは「建物が古く、金具が緩んでいたから落ちた」という現実的な線で考えるはずだった。
しかし、阿求と小鈴という里の事情に明るい二人が、事故の起きるまさにその直前から現場へ向かっていたことだけは、どうしてもただの偶然の一言では片づけにくい。
――誰かが意図的にあの危険な状況を作り出したのではないか。
そして、二人は事前にそれを察知し、未然に惨劇を止めようとしたのではないか。
景綱の明晰な頭脳は、そこまでの可能性をすでに静かに弾き出している。ただし、確固たる証拠がない以上、まだ断定はしていなかった。
「事故が起こると、あらかじめはっきり知っていたわけではありませんわ」
阿求が、一歩も退かない澄んだ声で言った。
「では、何か良からぬ事態が起こる可能性を、事前に考えていた、と?」
「以前からあの建物の看板は危険な状態でしたので、遅かれ早かれ、何か大きな問題が起きてもおかしくはないと思っていましたの」
「……それだけですか?」
「それ以上のことに関しましては、今の私にはお答えできませんわ」
阿求の返答はどこまでも穏やかで、取り付く島もなかった。けれど、明らかに物語の核心を巧妙に避けている。
人間の機微を知る景綱も、その言葉の不自然な空白におそらく気づいているはずだった。
「小鈴さんは?」
景綱の鋭い視線が、今度は隣の寝台へと尋ねる。
「私は……私はただ、阿求に付いていっただけです」
「阿求さんに、あの場所が危険だと言われたのですか?」
「……ええ。似たようなことは、事前に言われました」
「具体的には、何と?」
「あの東大通りの現場を、今すぐ直に見に行く必要がある、と」
「なぜ、そこまで急いで見に行く必要があると思ったのでしょう」
小鈴はたまらず、助けを求めるように阿求を見た。だが阿求は、こちらを見ようとはしなかった。代わりに、自らの寝台の脇へと強引に押し込んだ、あの白い布に包まれた原稿用紙の存在を、全身の神経で激しく意識しているようだった。
「私は、ただ阿求が行くと言い張るから、一緒に行っただけです」
小鈴は、景綱の追及から友人を守るように、慎重に言葉を選んで繋いだ。
「理由は、本当にそれだけですか?」
「……それだけでは、ありません」
「では?」
「阿求が、あんな大怪我を負うような危険な場所に一人で行くと、絶対にろくなことにならないと思ったので」
「小鈴」
阿求が、たまりかねたように静かにその名前を呼んだ。
「だって、本当のことでしょう?」
「……否定は、しないわね」
景綱は、言い合う二人をただじっと見つめていた。その瞳は、二人を犯罪者として疑う目というほど強くはない。
しかし、同時にすべてに納得した目でも決してなかった。
「分かりました」
景綱は、深く一息ついてそう言った。
「あの看板崩落の事故そのものについては、私もただの不幸な偶然だと思っていますよ」
小鈴は、その言葉に少しだけ意外な印象を受けた。
「……偶然だと思っているのに、わざわざ私たちにそんなことを聞くのですか?」
「事故が起きたという、その物理的な現象だけなら、そう考えます」
景綱は、言葉の重みを確かめるように慎重に続けた。
「ですがね。あなた方二人が、事故の起きる寸前にあの場所へ正確に向かっていたということは、それとは全く『別の話』です」
阿求が、その言葉の真意を探るように景綱をまっすぐに見据えた。
「別の話、と申しますと?」
「誰かが意図的にあの危険な状況を作り出し、私をそこへおびき寄せた可能性も完全には否定できませんからね」
景綱は、病室の薄暗い影に視線を落とし、その声を一段と低く潜めた。
「そして、あなた方二人が事前にその謀略を知っており、私を救うために止めようとした可能性も……完全には否定できませんな」
小鈴は思わず、喉の奥で冷たい息を呑んだ。
景綱はそれ以上、決定的な言葉をはっきりと口にすることはしなかった。しかし、二人が何か重大な真実をひた隠しにしていることだけは、すでに確信を持って疑っている。その静かな圧迫感が、病室の空気を重く支配していた。
「……私たちは、それほど大層なことをしたわけではありませんわ、景綱様」
阿求が、氷の塊のように一切の動揺を見せない声で答えた。
「はたして、本当にそうでしょうか」
「ええ、本当に」
「では、もしあの事故について、どんな些細なことでも後から思い出したことがあれば、ぜひこの私に教えてください」
「分かりました。何重もの記録を繰り、何か新しい事実が分かれば、必ず真っ先にお伝えいたしますわ」
阿求は、非の打ち所のない優雅さで丁寧に微笑んでみせた。
その笑顔は、誰もが知るいつもの、聡明で礼儀正しい稗田阿求そのものだった。落ち着いていて、いかにも何一つ隠し事などしていない清廉なものに見える。
けれど、長い時間を共に過ごしてきた小鈴には、その完璧な笑顔の奥にある冷徹な拒絶が痛いほど分かっていた。
――阿求は、何一つとして本当のことを話していない。
そして何より悍ましいのは、対面する龍神景綱もまた、その美しすぎる笑顔を完全には信じ切っていないということだった。互いに腹の底を探り合うような張り詰めた対話の末、景綱は同席していた鈴仙へと丁寧な礼を述べてから、どっしりとした身体を立ち上げた。
「それでは、私はこれで失礼いたします。お二人とも、どうかお大事に」
「では、出口の門まで私がご案内しますね」
鈴仙がそう言うと、景綱は大きな背中を向けて静かに病室を出ていった。
パタン、と襖が閉まり、廊下を渡る重たい足音が少しずつ遠ざかっていく。
病室には、再び小鈴と阿求だけの沈黙が残された。
しばらくの間、二人とも何一つ言葉を発しようとはしなかった。ただ風が竹林を抜ける音だけが、耳鳴りのように部屋を満たしていく。
やがて、阿求が動かない右肩をそっと庇いながら、左手を寝台の脇の隙間へと伸ばした。
先ほど景綱の目の前で必死に隠した、あの原稿用紙を引っ張り出す。白い布に厳重に包まれたままのそれを、彼女はみずからの膝の上へと、まるで壊れ物を扱うように静かに置いた。
小鈴は、その布の塊をただ黙って見つめ続けるしかなかった。
「……景綱さん、完全に私たちのことを疑っていたわね」
小鈴が、声を潜めてぽつりと言った。
「ええ、そうね」
「あの看板が落ちた事故そのものは、不運な偶然だと思っているみたいだけれど……」
「私たちが事故の起きる前から、あの場所へ詳しく狙いを定めて向かっていたという事実だけは、確率の偶然では到底説明がつかないと思っているのでしょうね」
「誰かが意図的に事故を起こして、私たちがそれを超能力か何かで知って、止めに入ったと思っているのかしら」
「少なくとも、最悪の可能性としてその線を考えているでしょうね」
阿求は、細い指先でゆっくりと白い布を外していった。
朝の光を浴びて、あの呪われた原稿用紙が、再びその白く滑らかな全容を現す。
紙面には、あの凄惨な看板事故のことが、生々しく書き連ねられている。二人があの時間にあの現場へ正確に向かったことも。そして――その先に起こるはずの、さらなる不吉な出来事までも。
小鈴は、膝の上の原稿を凝視しながら呟いた。
「これじゃあ、景綱さんには何も話せないわね」
「……どうしてそう思うの?」
「だって、今の私たちには何一つとして客観的に説明できないからよ」
阿求は、紙面から片時も目を離さないまま、小鈴の言葉に静かに耳を傾けている。
「どうして、この怪しげな原稿に事故のことが事前に書かれていたのか。どうして私たちがそれを鈴奈庵で読んだのか。どうして書かれたことが現実になって、阿求が代わりに怪我を負ったのか。……景綱さんに証拠を見せろって真顔で聞かれて、私たち、何一つまっとうに答えられないじゃない?」
「……ええ。無理ね。狂人の妄想だと思われるのがオチだわ」
「だから、今はあの人には全てを話すわけにはいかないのよ」
小鈴は、原稿の上に静かに置かれた、阿求の白い手元を見つめた。
「――この永遠亭を無事に退院したら、ここに書き残されている、あの里の広場にある名もない石碑を、私たちの手で直接確かめに行きましょう」
阿求が至極当然のようにさらりと言うと、小鈴は露骨に嫌そうな顔をして眉をひそめた。
「ちょっと……どうして、話がそういう不穏な方向へ転がっていくのよ」
「景綱さんが何か決定的な事実を見つけたわけではないわ。だからこそ、私たち自身の手で、現実のディテールを確かめる必要があるのよ」
「景綱さんみたいな有力者ですら何も見つけていないんだから、それならなおさら、私たちはもう行かなくたっていいでしょう!」
「景綱さんが何も知らないからこそ、なおさら私たちが先回りしなければならないのよ、小鈴」
「阿求」
「何かしら」
「あなたって人は、本当に一度気になりだしたら、とことん底まで調べ尽くさないと気が済まないのね」
「ええ、それが御阿礼の子としての私の宿命よ」
「そしてね、普通のまっとうな人間なら、危険を察知して三歩手前で必死に引き返すような暗闇の底を、あなただけは『さあ、ここからが本当の本番ね』って嬉しそうに微笑んで、さらに五歩くらい奥へずんずん進んでいっちゃうのよ」
「ふふ、私の性格をこれ以上ないほどよく分かっているじゃない」
「長い付き合いだから、嫌っていうほど分かるのよ!」
「それは、私に対する最上級の褒め言葉かしら?」
「いいえ、絶対にこれ以上の被害を出さないための、私の命がけの『警告』よ」
「警告として、ありがたく受け取っておくわ」
「受け取るだけで、どうせ私の言うことなんてこれっぽっちも聞き入れないでしょう」
「論理的に必要だと判断すれば、いくらでも聞き入れるわよ」
「阿求にとって、知的好奇心の誘惑の前で『必要ではない』ことなんて、この世にほとんど存在しないじゃないの」
阿求は、膝の上の原稿を指先でなぞりながら、少しだけ考え込んだ。
「それは、まあ、そうね。否定できないわ」
「えっ、素直に認めるの?」
「だって、今のあなたの指摘が完全に正しいのだもの」
「そこは、意地でもへ理屈を並べて否定してくれた方が、まだ可愛げがあってよかったのに」
「目の前にある厳然たる事実を私情で否定するのは、稗田家としての記録の正確性を著しく損なうでしょう?」
「あのねえ、阿求。私は今、あなたの冷徹な歴史記録簿じゃなくて、生身の友人と会話をしているのよ」
「友人であるあなたとの会話も、十分に後世へ遺す記録に値するわ」
「……本当に、そういう隙のないところが最悪に嫌だわ」
「でもね、小鈴。そう文句を言いながらも、あなたは結局、最後には私に付いてきてくれるでしょう?」
小鈴は、ぐっと言葉を詰まらせて返事をしなかった。
隣の寝台の阿求は、すべてを完全に見透かして確信しているような、じつに憎たらしい顔をしている。
一度決めたことは、どんな障害があろうとも絶対に実行する。
気になった謎の底は、生身の身体が壊れるまでとことん調べ尽くす。
途中でまた別の不審な疑問を見つければ、最初に目指していた目的すら綺麗に忘れて、嬉々としてそちらの深淵へ進んでいってしまう。しかも、タチの悪いことに本人はそれを「危険な寄り道」だとは微塵も思っていないのだ。
それが、稗田阿求という少女の剥き出しの本質だった。
小鈴は、物心ついた頃から何度も何度もその最悪な性格に振り回されてきた。
そして、どんなに文句を並べ立てても、結局は何度も何度も、その一番危険な隣の場所に自らの足で立ってきたのだ。
「……里の広場に行って、あの石碑の様子をただ確認するだけよ」
小鈴は、全面降伏するように仕方なく言った。
「ええ、もちろんよ」
「本当に、ただ目で見て確認するだけ。いいわね?」
「ええ、約束するわ」
「勝手に地面を道具で掘り返したりしない」
「……論理的な必要性が、生じなければね」
「石碑に刻まれた文字を、一文字残らず全部写し取ろうとしない」
「解読のために必要なら、写すわ」
「石碑の周辺を、勝手にうろうろと不審に調べ回らない」
「その石碑が持つ真の意味を知るために、どうしても不可欠な作業なら……」
「阿求!」
「分かったわよ。あなたの目の届く範囲で、できる限り自重して控えるわ」
「今の頼りない会話だけで、あなたに控える気がこれっぽっちもないことくらい、これ以上ないほど鮮明に分かったわよ」
「でもね、小鈴。あなたが隣で私を見張っていてくれるなら、私はそこまで無謀な無茶はしないでしょう?」
「私が一緒に行くから、あなたのブレーキが壊れて余計に無茶をするのよ!」
「ふふ。それでも、私が一人で暗闇へ行くよりは、よほど安全でしょう?」
「比較の対象が極端に悪すぎるわよ」
阿求はクスリと笑うと、再び手元の原稿用紙へと静かに視線を落とした。
小鈴もまた、誘われるようにしてもう一度その白い紙切れを見つめる。
そこに薄い墨で記された文字の羅列は、相変わらず感情を排して淡々としていた。
二人の無謀な行動を咎める警告も、未来を縛る命令も、そこには何一つ書かれていない。ただ――これからこの幻想郷の現実に起こるであろう、おぞましい出来事の結末だけが、平然と先に置かれている。
三日後のあの石碑が、一体何を示しているのかは分からない。
そこへ足を踏み入れれば、自分たちに何が起こるのかも、まだ何も分からない。
それでも二人は、この永遠亭を無事に退院した暁には、あの広場の石碑を直に確かめることを、自らの意志で静かに決意したのだった。
救われた当事者である龍神景綱には、決して話すわけにはいかない異変の核心を、世界でたった二人だけで確かめるために。
「ねえ、阿求。それはそれとして、さっき景綱さんが持ってきてくれたあのお見舞いのお菓子、今すぐ食べてもいいかしら」
小鈴が、ベッドの上で目を輝かせて言った。
「……あなたって人は、さっきまであんなにシリアスな石碑の怪異の話をしていたでしょうに」
「石碑の怖い話をして頭をたくさん使ったからこそ、こうしてお腹が空いて甘いものが必要になったのよ」
「一体どういう因果の理屈かしら、それは」
「いい? 怖い話を経験した後の生身の人間には、精神を安定させるための甘い糖分が絶対に不可欠なの!」
「そういう屁理屈を並べるけれど、あなたは怖くなくたって、いつだって甘いものを欲しがっているでしょう?」
「それはそれ、これはこれよ!」
阿求はあきれ顔で、寝台の脇の卓に置かれた漆塗りの小さな箱を見つめた。
「……大人しく、次の見回りで鈴仙が来て、許可を貰ってからにしましょう」
「阿求、怪我をすると意外なほど真面目でお堅い患者になるのね」
「あなたが私の見ていないところで勝手に包みを開けて食べ散らかすと、あとで私が一緒になって鈴仙から烈火のごとく叱られるでしょう?」
「あら、どうして私だけでなく、阿求まで連帯責任で叱られるのよ」
「私が、あなたの暴挙を隣のベッドから止めなかったからよ」
「ふん、たとえあなたが必死に止めたって、私はどうせ美味しく食べるでしょうけどね」
「……本当に、最悪な患者ね、あなたは」
二人は、白い布をかけられた原稿用紙を病室の間に置いたまま、今度は見舞いの焼き菓子をどうやって鈴仙の目を盗んで食べるかという、じつに他愛のない日常の作戦を話し始めた。
三日後の石碑に眠る謎のことも。
龍神景綱が抱いた鋭い疑いの眼差しのことも。
そして自分たちの現実をジワジワと書き換えていく、あの恐怖の原稿の正体も。
未だに何一つとして、解決などしてはいない。
けれど、この不穏な一日の終わりには、二人の手帳に「退院後の予定」が、確かに新しく一つだけ増えていた。
――石碑を、確かめる。
その、怪異に抗うための二人の静かな決定だけが、夜風の鳴り響く永遠亭の病室の闇に、強固に残り続けた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第九話では、永遠亭の夜に現れた不穏な気配と、景綱さんの来訪を描きました。
竹林の人影は、何だったのか。
景綱さんの疑いは、どこへ向かうのか。
次回もよろしくお願いします。
毎週木曜日・日曜日 午後7時更新予定です。