転生スタンド使いの日常。 作:匿名の読む専
2023年、秋。
10月に高校受験も終わり、気を張り詰める必要もないのでかなり楽になった今日このごろ。
放課後、学校帰り。
俺は友人二人と寄り道をしていた。
寄り道と言っても大したことはしていない。コンビニで菓子を買い、適当に歩きながらゲームの話をして、途中で見つけた公園のベンチに座って時間を潰しただけだ。
実に中学生らしい放課後である。
「お前昨日のボス戦で何してたんだよ?」
「回復役が死んでたから立て直そうとしてたんだよ」
「アレ?…お前が回復役じゃなかったか?」
「だから立て直そうとしてたんだって」
「いや自分が死んでたら立て直せないだろ!?」
「それはそう」
納得した。
こういうので良いんだよ、こういうので。
人間というのは時として複雑な議論を繰り広げるが、最終的に「それはそう」で終わる程度の話が一番気楽だったりする。
もちろん真面目な話が嫌いなわけじゃない。
ただ、いつでも何でもかんでも考え込んでいたら疲れるのだ。
考えるべき時に考えれば良いし、どうでも良い時はどうでも良い。
俺は自分の人生において、その辺りの使い分けを大切にしている。
「じゃあ俺こっちだから」
「おう、また明日な」
「次のボス戦はお前が回復役な」
「いや俺が回復役なのは変わらんだろ」
そんな会話を最後に友人たちと別れた。
さて、帰るか。
家に帰ってから何をするか考える。
ゲームの続きも良いが、今日はゲーセンに行くのも悪くない。
新曲が追加されていたはずだし、ついでにクレーンゲームも覗いてみよう。
取れるとは言っていない。
俺はクレーンゲームに関しては自分の腕前を過信していないし、景品を取るために必要な金額が景品そのものの値段を超えることについても、毎回ちゃんと理解している。
理解しているのに金を入れるのだから人間は不思議だ。
……いや、俺が馬鹿なだけかもしれない。
パチンコ屋には入らない様にしておこう…前世でも入ったこと無いけど、未成年って入れるのかな…?*1
そんなことを考えながら歩いていると、前方から犬を連れた女の子がやってきた。
白くて、ふわふわで、そこそこ大きい。
そして見覚えのある顔。
「お、こんにちは」
「こんにちは!」
元気の良い返事が返ってくる。
花里みのり。
サモエドのサモちゃんを飼っている女の子で、俺とはそれなりに顔を合わせる仲だ。
出会いは小学五年生の頃。
散歩中のサモちゃんが俺に突撃してきたのが始まりだった。
あの時は本当に驚いた。
背後から何かが近づいてきたと思ったら、次の瞬間には腰にふわふわした質量が直撃していたのである。
感触は最高だった。
衝撃は最悪だった。
何が起こったのか理解するより先に、俺は犬の毛に顔を埋めていた。
犬というのは恐ろしい。
あれほどの質量を持ちながら、毛並みが良いだけで大抵のことが許されるのだから。
なお、俺は今でもサモちゃんが好きだ。
好きだが、突撃はやめてほしい。
「サモちゃんも元気そうだな」
「うん! 今日も元気だよ!」
サモちゃんが俺を見上げている。
俺も見下ろす。
しばらく見つめ合った後、サモちゃんは尻尾を振りながら近づいてきた。
「おう、よしよし」
頭を撫でる。
ふわふわだ。
何度触ってもふわふわだ。
この世には触れるだけで幸福度が上昇する生物が存在するらしい。
「考調くんって本当にサモちゃんに好かれてるよね!」
「何でだろうな」
「初めて会った時からだよね!」
「初対面で腰に突撃してきたことを好意と呼ぶのは少し無理があると思うんだが」
「えっ、でもサモちゃん嬉しそうだったよ?」
「俺の腰も嬉しかったかどうかは別問題だ」
「腰?」
「何でもない」
危ない。
余計な説明をすると小学五年生の頃の惨劇を語ることになる。
いや、惨劇というほどでもないか。
犬に突撃された人間が犬を嫌いにならなかったのだから、結果だけ見れば平和な出来事だ。
「そういえば今日学校だったんだよね?」
「そうだな。今帰り」
「お疲れさま!」
「そっちも散歩お疲れさん」
「うん!」
元気だなあ。
いや、元気なのは良いことだ。
俺だって学校帰りに犬と会えば多少は元気になる。
サモちゃんが俺の手に鼻先を押しつけてくる。
撫でろということらしい。
仕方がないので撫でた。
実に仕方がない。
決して自分から撫でたいと思ったわけではない。
犬に要求されたから仕方なく応じているだけだ。
「サモちゃん、良かったねえ」
「わふっ」
「会話が成立してる……?」
「えっ?」
「いや、何でもない」
犬と人間の会話が成立しているように見えるのは、犬を飼っている人間によくあることだ。
実際には人間側が勝手に解釈しているだけかもしれないが、それで双方が幸せなら問題ない。
そもそも俺だって、犬が何を考えているのか正確に理解できるわけではない。
スタンドを持っていても動物の心が読めるわけではないのだ。
便利な能力には限度がある。
限度があるからこそ面白い。
「じゃあ私たちそろそろ行くね!」
「おう、気をつけてな」
「考調くんもね!」
みのりが手を振り、サモちゃんも尻尾を振る。
俺も軽く手を振り返した。
こういう何でもないやり取りは嫌いじゃない。
特別な話をする必要もないし、相手の人生を根掘り葉掘り聞く必要もない。
会えば挨拶をして、少し話して、別れる。
そのくらいの距離感がちょうど良い関係もある。
……まあ、サモちゃんに関しては会うたびに撫でることになるのだが。
あれはもう仕方がない。
犬のふわふわに逆らえるほど俺は強くないのだ。
帰宅した。
制服を脱ぎ、着替えて、荷物を置く。
手を洗ってから冷蔵庫を開け、飲み物を取り出した。
一息つく。
さて、ゲーセンに行くか。
先ほど考えていた通り、新曲を触りたい。
それに今日は妙にゲームをやりたい気分だ。
こういう日は変に我慢せず遊ぶに限る。
やるべきことが残っているなら別だが、今日の分は終わっている。
ならば問題ない。
俺は飲み物を飲み干し、財布とスマホを持って家を出た。
その道中。
見覚えのある人物がいた。
正確には、見覚えのある格好をした人物だ。
白っぽい髪。
ジャージ。
そして、階段の脇で手すりに寄りかかっている姿。
「…………」
あ。
またか。
俺は歩く速度を落とした。
以前にも似たような光景を見たことがある。
あの時は階段の近くでうずくまっていたので、流石に放っておけず声を掛けたのだ。
結果として分かったのは、どうやらこの人はとんでもなく運動不足らしいということだった。
詳しい事情は知らない。
知らないが、少なくとも俺が知っている範囲では、少し歩いただけで疲労困憊になる程度には運動不足である。
人間の身体というのは使わなければ衰える。
知識としては知っている。
だが、ここまで極端な実例を身近で観測する機会はなかなかない。
もはや生きた教材である。
いや、本人にとっては笑い事ではないのだろうけど。
俺は少し迷ってから声を掛けた。
「あ〜ット…大丈夫か?」
「……あ」
彼女が顔を上げる。
やはり以前の人だった。
「こんにちは……」
「おう、こんにちは」
挨拶を返す。
それから数秒、互いに黙った。
彼女は呼吸を整えようとしているらしい。
俺はその様子を見ながら、頭の中で考えた。
何だろうな。
前回も思ったけど、本当に何なんだろうな。
体調が悪いのかと思えば、話を聞く限りそういうわけでもないらしい。
水分も持っている。
意識もはっきりしている。
ただ疲れている。
ものすごく…それはもうものすごく。
「…また歩いてたのか?」
「……うん」
「そっか」
会話が終わった。
早い。
いや、別に無理して話す必要もないのだが。
俺は近くの自動販売機を見て、それから彼女の様子を確認した。
水分は持っていると言っていたし、今すぐ何かを買う必要もないだろう。
それでも少し気になる。
「水はある?」
「あるよ」
「なら良いけど、無理すんなよ」
「……うん」
短い返事。
息はまだ少し荒い。
俺はその場で待つことにした。
急いでいるわけでもないし、彼女が呼吸を整えるまでくらいなら大した時間ではない。
そもそも、目の前で人が苦しそうにしているのに何もせず通り過ぎるのは、後味が悪い。
俺は別に善人ではないが、だからといってわざわざ後味の悪い選択をする趣味もないのだ。
「今日はどこまで行くつもりだったんだ?」
「……コンビニ」
「…近所の?」
「……うん」
「そっか…」
近所のコンビニ。
なるほど。
なるほど?
いや、何がなるほどなんだ。
目的地を聞いただけで何かが解決したわけではない。
俺は内心で首を傾げた。
「……もう少し休んでから行った方が良いと思うぞ」
「そうする……」
「帰りも無理すんなよ」
「……うん」
会話の内容がほぼ保護者である。
俺は中学生だぞ。
相手の年齢も知らないけど。
……いや、そもそも名前すら知らないんだった。
以前に会った時も、助け起こしたり水分を確認したりするのに気を取られて、名乗り合う流れにならなかったのだ。
別に名前を知らなくても会話は成立する。
人間関係というのは案外そういうものだ。
「じゃあ俺はそろそろ行くわ」
「……うん。ありがとう」
「おう、いや別に何もしてねぇけど…そんじゃ」
手を軽く振って歩き出す。
背後から彼女の声が聞こえた。
「……気をつけてね」
「そっちもな」
振り返って返事をする。
さて、ゲーセンだ。
今度こそ目的を果たそう。
道中で知り合いに会うのは悪くない。
困っている人に声を掛けるのも悪くない。
ただ、俺が今日やりたかったのはリズムゲームである。
人生というのは予定通りに進まないものだが、せめて遊びに行くくらいは予定通りに進んでほしい。
そんなことを考えながら、俺はゲームセンターへ向かった。
ゲームセンターに到着。
騒音。
光。
電子音。
そして、クレーンゲームの景品を前にして真剣な顔をしている人々。
平和だ。
ここは良い場所だと思う。
少なくとも、俺が何をしていようと基本的に誰も気にしない。
誰かが高難易度の曲を遊んでいても、誰かが格闘ゲームで負けて台を離れても、誰かがクレーンゲームに財布を吸われていても、だいたいは日常の一部として流れていく。
もちろん迷惑行為は別だ。
自由と好き勝手は違う。
その辺りの区別ができない人間は、どこに行っても問題を起こす。
俺はそんなことを考えながら、目的の筐体へ向かった。
そして、隣に人がいることに気づいた。
青と白を基調とした髪。
背筋の伸びた立ち姿。
筐体の画面を見つめる横顔。
顔は知ってる、ここで何度も見かけるし中学も恐らく同じだ。
後中学生なのに髪色ツートンカラーだからまさかそれ地毛か?って思ったのが印象に残ってる。
名前は知らない。
同じ中学に通っているはずなのだが、クラスが違うし、俺は帰宅部だ。
学校で顔を合わせる機会がなければ、同じ学校の人間でも知らないままである。
それはそうと。
画面を見た。
選曲画面。
難易度。
最大。
「…………」
正気か?
いや、俺も今から難易度最大を選ぶつもりだった。
だから人のことは言えない。
だが、隣にいる彼も同じ難易度を選択しているとなると、少し気になる。
同じ曲を選んだ。
偶然だろう。
ゲームが始まる。
俺は画面に集中した。
ノーツが流れてくる。
叩く。
押す。
リズムに合わせて指を動かす。
高難易度のリズムゲームは、ある程度まで行くと反射神経だけではどうにもならない。
譜面の認識、指の動かし方、リズムの把握、そして何より集中力。
どれか一つでも崩れると、途端にコンボが切れる。
だからこそ面白い。
簡単なことを正確にこなすのも楽しいが、難しいことを少しずつできるようになるのはもっと楽しい。
画面の端で、隣のプレイヤーの手が動いているのが見えた。
正確だ。
無駄がない。
それでいて、必要以上に力んでいる様子もない。
……上手いな。
俺は少し感心した。
ゲームが上手い人間を見るのは好きだ。
自分ができるかどうかとは別の話として、積み重ねた技術が動きに表れているのを見るのは面白い。
そして曲が終わった。
画面に表示された結果は――フルコンボ。
俺もフルコンボだった。
「…………」
「…………」
隣の彼も画面を確認している。
こちらを見ているわけではない。
俺も特に声を掛けるつもりはなかった。
ただ、心の中で思った。
すげえな。
この難易度を毎回フルコンできるのか?
いや、今日初めて見ただけなので毎回かどうかは分からない。
だが、少なくとも今のプレイは見事だった。
俺は次の曲を選択した。
隣の彼も選曲している。
また同じ難易度だった。
…もしや俺が思ってるよりずっと常連なのか?
俺もそこそこ来ている方だと思うのだが、他人の顔をそこまで覚えていない。
ゲーセンに来る目的はゲームをすることだ。
周囲の人間を観察するためではない。
もちろん面白い人がいたら目に留まることもあるが、そうでなければ普通に忘れる。
俺は別に人間観察が趣味というわけでもないのだ。
曲が始まる。
再び指を動かす。
集中。
リズム。
譜面。
そして終了。
フルコンボ。
隣もフルコンボ。
「…………」
「…………」
無言。
それで良い。
会話がなくても、同じ場所で同じゲームを楽しむことはできる。
知らない相手と無理に親しくなる必要はないし、話しかけなければ失礼というわけでもない。
お互いに遊びに来ているだけなのだから、好きに遊べば良いのだ。
俺は満足して筐体から離れた。
さて、次はどうするか。
クレーンゲームを覗くか。
それとも、もう少しリズムゲームを続けるか。
……まあ、あと一曲くらいは良いだろう。
そう考えて振り返ると、隣の彼もまた次の曲を選んでいた。
俺は小さく笑った。
「……やるなあ」
誰に聞かせるでもない独り言。
今日も平和だ。
少なくとも、今のところは。
………………………………………
なお、クレーンゲームには数千円吸われて景品取れなかった主人公であった。
………………………………………
〜花里みのり視点〜
「サモちゃん、今日はご機嫌だね!」
「わふっ!」
「ふふっ、そっかそっか!」
サモちゃんの散歩は楽しい。
もちろん毎日同じ道を歩いているわけじゃないし、サモちゃんが何に興味を持つのかもその日によって違う。
今日はいつもより機嫌が良いみたいで、尻尾を振りながらあちこちの匂いを嗅いでいる。
そんなサモちゃんと一緒に歩いていたら、見覚えのある男の子が向こうからやってきた。
「あっ、考調くん!」
「お、こんにちは」
軽く手を振ると、考調くんも挨拶を返してくれた。
大城考調くん。
同い年で、学校帰りに会うこともあれば、サモちゃんの散歩中に会うこともある男の子だ。
すごく仲が良い親友! という感じではないけれど、会えば普通に話すし、サモちゃんも懐いている。
私にとっては、ちょっと不思議で面白い知り合いだった。
「考調くん、今日も学校帰り?」
「そう。さっきまで友達と遊んでた」
「いいなあ! 何して遊んでたの?」
「ゲームの話したり、適当に歩いたり。まあ、いつも通りだな」
「そっか!」
いつも通り。
何気ない言葉だけど、私はそういうのが結構好きだ。
特別なことがあった日も楽しいけれど、何もない日にも楽しいことはある。
こうして散歩している時に知り合いと会うのも、そんな楽しみの一つだと思う。
「わふっ!」
「あ、サモちゃん!」
サモちゃんが考調くんの方へ近づいていった。
考調くんは慣れた様子でしゃがみ、サモちゃんの頭を撫でている。
「おう、今日もふわふわだな」
「わふっ!」
「うんうん、分かった分かった」
「……何が分かったの?」
思わず聞いてしまった。
考調くんはサモちゃんの頭を撫でながら、こっちを見た。
「いや、撫でろって言ってる気がしたから」
「えっ、分かるの!?」
「分からん。たぶんそう」
「たぶんなんだ!?」
「俺は雰囲気でサモちゃんと話しているのだ」
真顔で言われた。
サモちゃんは嬉しそうに尻尾を振っている。
……うん。
たぶん、考調くんの推測は当たってると思う。
サモちゃんは撫でてもらうのが大好きだから。
それにしても、考調くんってサモちゃんに本当に好かれてるなあ。
初めて会った時からそうだった。
あの時のことを思い出すと、今でもちょっと申し訳なくなる。
***
あれは小学五年生の頃だった。
いつものようにサモちゃんの散歩をしていた私は、道の向こうから歩いてくる男の子を見つけた。
その男の子が考調くんだった。
当時はもちろん、名前も知らなかった。
ただ、サモちゃんがその男の子に興味を示したのだ。
「あれ? サモちゃん?」
普段から人懐っこいサモちゃんだけど、あの時はいつも以上に反応が良かった。
尻尾を振って、男の子の方へ向かっていく。
「あっ、ちょっと待って!」
リードを持つ手に力を入れたけれど、間に合わなかった。
サモちゃんが男の子に突撃した。
正確には、もふもふの大きな身体で腰のあたりに飛びついた。
「うおっ!?」
男の子が驚きの声を上げる。
そりゃあそうだ。
いきなり大きな犬が突っ込んできたら、誰だって驚くと思う。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫!?」
私は慌てて駆け寄った。
男の子はサモちゃんにまとわりつかれながら、なんとか体勢を立て直していた。
「……びっくりした」
「本当にごめんね! サモちゃん、人が好きで……!」
「いや、怪我はないから大丈夫」
男の子はそう言って、サモちゃんを見下ろした。
サモちゃんはというと、まるで何事もなかったかのように尻尾を振っている。
そして。
「……お前、すげえ勢いで来たな」
男の子がサモちゃんの頭を撫でた。
怒るどころか、普通に撫で始めた。
「わふっ!」
「いや、可愛いけどさ。初対面で突撃はなかなか攻めてるぞ」
「わふっ!」
「おっと?反省してないなこれ」
男の子は呆れたような顔をしていたけれど、手はずっとサモちゃんの頭を撫でていた。
……あれ?
怒ってない?
いや、驚いてはいる。
すごく驚いている。
でも、嫌がっている感じはしなかった。
私はほっとして、改めて頭を下げた。
「本当にごめんね!」
「いや、大丈夫。犬は好きだし」
「そうなの?」
「うん。まあ、今のは普通に驚いたけど」
「だよね……」
「でも、これだけ懐かれるのは悪い気しないな」
そう言って笑った。
それが、私と考調くんの最初の出会いだった。
***
「……ふふっ」
「ん?」
思い出していたら、自然と笑ってしまった。
考調くんが不思議そうにこっちを見ている。
「いや、初めて会った時のこと思い出しちゃって」
「ああ……あの突撃事件か」
「事件って!」
「俺の腰にとっては立派な事件だったよ」
「ご、ごめんね……?」
「いや、もう良いけどさ」
考調くんはそう言いながら、サモちゃんの頭を撫でている。
本当に、今ではすっかり慣れた様子だ。
あの日はあんなに驚いていたのに、今ではサモちゃんが近づいても平然としている。
もちろん、突撃されたらまた驚くと思うけど。
「でも、サモちゃんがあんなに懐く人って珍しいんだよね」
「そうなのか?」
「うん! もちろん人懐っこいんだけど、初めて会った人にあんなに勢いよく行くのは珍しいと思う」
「へえ……」
考調くんはサモちゃんを見た。
サモちゃんも考調くんを見ている。
「……何かあるのか?」
「わふっ!」*2
「ふむ…分からん」
「んふっ!ふふ…!」
何だかおかしくて、また笑ってしまった。
考調くんは変なところで真面目だ。
サモちゃんが何を考えているのか、本気で気になっているみたいだった。
そういうところは、最初に会った時から変わっていない気がする。
***
考調くんは、ちょっと不思議な男の子だ。
と言っても、何か特別なことをするわけじゃない。
普通に学校へ行って、友達と遊んで、ゲームをして、帰り道に寄り道をする。
私と会った時も、特別な話をするわけじゃない。
今日だって、学校の話を少しして、サモちゃんを撫でて、それで終わり。
でも、何となく印象に残る。
例えば、サモちゃんと接する時。
犬が好きな人はたくさんいるけれど、考調くんはただ可愛がるだけじゃなくて、サモちゃんの様子をよく見ている。
今だって、サモちゃんが少し身体の向きを変えたら、それに合わせて撫でる場所を変えていた。
本人は特に意識していないみたいだけど。
それから、話し方。
考調くんは、何でもすぐに同意するわけじゃない。
私が何かを言うと、一度考えてから返事をすることが多い。
もちろん、毎回難しい顔をして考え込むわけじゃない。
くだらない話なら、くだらない話として普通に笑っている。
ただ、自分がよく分かっていないことについては、分かったふりをしない。
前に私が何かを説明した時も、分からないところをそのまま聞いてきたことがあった。
あの時はちょっと驚いた。
分からないことを聞くのは普通のことだと思うけれど、何となく分かったふりをして話を合わせる人もいるから。
考調くんはそういうことをあまりしない。
だからといって、何でもかんでも細かく聞いてくるわけでもない。
興味があることは聞くし、興味がなければ普通に流す。
その切り替えが、何だか面白い。
……うん。
やっぱり、ちょっと不思議な男の子だ。
「みのり?」
「へっ? あ、ごめん!」
いつの間にか考え込んでしまっていた。
考調くんが首を傾げている。
「どうした?」
「いや、何でもないよ!」
「そっか」
それ以上は聞いてこなかった。
こういうところも考調くんらしい。
気になることがあっても、相手が話したくなさそうなら無理には聞かない。
……いや、そもそも私が何か悩んでいると思っていなかっただけかもしれないけど。
どっちだろう。
本人に聞いても、たぶん「別に何も考えてなかった」とか言いそう。
そんなことを考えていたら、サモちゃんが私の足元に寄ってきた。
「サモちゃん、そろそろ行こうか」
「わふっ!」
「じゃあ俺も行くわ」
考調くんが立ち上がった。
「うん! またね、考調くん!」
「おう。またな」
軽く手を振り合う。
考調くんはそのまま歩いていった。
私はサモちゃんと一緒に、その背中を少しだけ見送った。
「……サモちゃん、考調くんのこと好きだね」
「わふっ!」
「ふふっ、そっか!」
サモちゃんは嬉しそうに尻尾を振っている。
私はその頭を撫でた。
考調くんは、たぶん明日も普通に学校へ行って、友達と遊んで、ゲームをするんだと思う。
そして、またどこかで会うかもしれない。
それだけのこと。
でも、そんな何気ない日常が私は好きだった。
アイドルを目指していると、どうしても大きな目標のことを考える時間が増える。
もっと頑張らなきゃ。
もっと成長しなきゃ。
もっと、もっと。
そうやって前を向くのは大切なことだ。
だけど、毎日の中にある小さな楽しみを忘れたくはない。
サモちゃんと散歩をして、知り合いと会って、少し話して笑う。
そういう時間も、私にとっては大事なものだから。
「よーし、サモちゃん! お散歩の続きだよ!」
「わふっ!」
私はリードを持ち直して歩き出した。
……あっ。
そういえば、考調くんって今日ゲーセンに行くって言ってたっけ?
いや、言ってなかったかも。
ゲームの話をしていたから、勝手にそう思っただけかな。
まあ、いっか!
また会った時に聞いてみよう。
サモちゃんと一緒に歩きながら、私は次の散歩道を考えた。
今日も、いつも通りの一日だった。
………………………………………
その後、サモちゃんの機嫌が良すぎてかなりの時間歩かされた花里みのりであった。
………………………………………
〜宵崎奏視点〜
「…………」
疲れた。
いや、まだ何もしていない。
正確には、何かをしようとして家を出たところで疲れた。
……どうして?*3
自分でもよく分からない。
少し前までは普通に家の中で作業をしていたはずなのに、外に出て歩き始めた途端に身体が重くなった。
別に走ったわけでもない。
階段を何十段も上ったわけでもない。
ただ歩いているだけなのに、どうしてこんなに疲れるんだろう。
「……はぁ」
息を整える。
今日は外に出る必要があった。
家の中で作業を続けるのも大切だけど、必要なものを買いに行くくらいは自分でやらなければならない。
そう思って家を出たのに、目的地へ向かう途中でこれだ。
……先が思いやられる。
少し休めば大丈夫。
たぶん。
私は手すりに寄りかかり、呼吸が落ち着くのを待った。
その時だった。
「……大丈夫か?」
声を掛けられた。
顔を上げると、見覚えのある男の子が立っていた。
以前にも会った人だ。
確か、私が外で休んでいた時に声を掛けてくれた人。
名前は知らない。
向こうも私の名前を知らないと思う。
それでも、顔は覚えていた。
困っている時に声を掛けてくれた人の顔は、意外と忘れないものだ。
「……こんにちは」
「こんにちは」
挨拶を返す。
男の子は私の様子を少し確認してから、首を傾げた。
「……また歩いてたのか」
「……うん」
「そっか」
会話が終わった。
……何だろう。
この人、会話を無理に続けようとしない。
以前もそうだった。
私の様子を見て、必要そうなことを聞いて、問題がなさそうならそれ以上は踏み込まない。
親切な人なのだと思う。
ただ、親切だからといって、何でも聞いてくるわけじゃない。
それが少し不思議だった。
普通なら、どうしてそんなに疲れているのかとか、何をしていたのかとか、もう少し聞かれてもおかしくない気がする。
……いや、普通がどうなのかは分からないけれど。
「……水はある?」
「あるよ」
「なら良いけど。無理すんなよ」
「……うん」
それだけだった。
男の子は近くで待っていてくれた。
急かすこともなく、かといって心配そうに何度も顔を覗き込んでくるわけでもない。
私が呼吸を整えるまで、ただ待っている。
……優しい人だな。
そう思った。
でも、少し申し訳なくもなった。
私が疲れているせいで、この人の時間を使わせてしまっている。
「……もう大丈夫」
「そっか。なら良かった」
男の子はそれを聞いて、軽く頷いた。
「……今日はどこまで行くつもりだったんだ?」
「……コンビニ」
「近所の?」
「……うん」
「そっか」
また会話が終わった。
……うん。
やっぱり、この人は不思議だ。
コンビニに行く途中で疲れた人間に対して、何か思うところはないのだろうか。
いや、あるのかもしれない。
でも、それをわざわざ口に出さないだけなのかもしれない。
少なくとも、今の私には分からなかった。
「……もう少し休んでから行った方が良いと思うぞ」
「そうする……」
「帰りも無理すんなよ」
「……うん」
男の子はそろそろ行くらしい。
「じゃあ俺はそろそろ行くわ」
「……うん。ありがとう」
「おう、いや別に何もしてねぇけど…そんじゃ」
軽く手を振って、男の子が歩き出す。
私はその背中を見送った。
「……気をつけてね」
「そっちもな」
振り返って返事をしてくれた。
そのまま、男の子は歩いていった。
……良い人だな。
改めてそう思った。
名前も知らない。
どこに住んでいるのかも知らない。
何をしている人なのかも知らない。
それでも、こうして会うと声を掛けてくれる。
それだけで十分だった。
私はもう一度、ゆっくりと息を吐いた。
さて。
休んでばかりもいられない。
必要なものを買って、帰らなければ。
……帰ったら、作業の続きをしよう。
そう考えて、私は立ち上がった。
今度はさっきより少しだけゆっくり歩くことにした。
無理をして倒れたら意味がない。
それくらいは分かっている。
分かっているのだけれど。
「…………」
やっぱり、もう少し運動した方が良いのかな。
そんなことを考えながら、私はコンビニへ向かった。
………………………………………
家に帰ると、いつもの静けさが待っていた。
買ってきたものを片付け、必要な作業を済ませる。
それからパソコンの前に座った。
画面には、途中まで作っていた曲のデータが表示されている。
私は椅子に座り直し、ヘッドホンを手に取った。
音を確認する。
メロディーの流れ。
音の重なり。
違和感のある部分を探し、少しずつ修正していく。
この作業をしている時間は好きだった。
頭の中にあるものを形にしていく。
思い描いた通りにならないこともあるけれど、だからこそ何度も試してみる。
一度で上手くいくとは限らない。
それでも、少しずつ完成に近づいていく感覚が好きだった。
「……ここかな」
音を一つ変えて、もう一度再生する。
さっきより良くなった気がする。
もう少し調整してみよう。
そうして作業を続けていると、ふと、さっきの男の子のことを思い出した。
……何をしている人なんだろう。
学校帰りだったのかな。
以前会った時も、今日も、特に急いでいる様子はなかった。
いや、今日に関しては私が疲れていたから、向こうが合わせてくれただけかもしれない。
それにしても、名前くらい聞いておけば良かった。
……いや。
名前を知らなくても、別に困ることはない。
次に会ったら聞けばいい。
会う機会があるかどうかは分からないけれど。
私は画面に視線を戻した。
今は曲を作る時間だ。
余計なことを考えていても仕方がない。
再生ボタンを押す。
音楽が流れ始めた。
……うん。
やっぱり、こっちの方が良い。
私は再び作業に集中した。
しばらくして、休憩を取ることにした。
ヘッドホンを外し、椅子の背もたれに身体を預ける。
……疲れた。
作業で疲れたのか、それともさっき外を歩いたせいなのか。
たぶん両方だと思う。
私は机の上に置いていた飲み物を手に取り、少しずつ飲んだ。
そういえば、あの男の子。
今日も塩飴を持っていたのかな。
以前会った時、塩飴を分けてもらったことがある。
あの時も、特に大げさなことは言わずに渡してくれた。
私が疲れている理由を知った時は、少し驚いていたような気がする。
……気のせいかもしれないけれど。*4
私はあの時のことを思い出して、少しだけ申し訳なくなった。
あんなに心配させてしまったのだから、次に会った時にはちゃんとお礼を言おう。
そう決めた。
……それにしても。
私は椅子から立ち上がり、少しだけ身体を伸ばした。
やっぱり、もう少し運動した方が良いのかもしれない。
別に運動が好きなわけではない。
むしろ、家で作業している方がずっと楽だ。
でも、外に出るたびにあんな状態になるのは困る。
必要なものを買いに行くのにも苦労するし、誰かに心配を掛けることにもなる。
それは、あまり良くない。
「……少しずつ、かな」
誰に言うでもなく呟いた。
いきなり長距離を歩こうとするから疲れるのだ。
まずは近所を歩くところから始めれば良い。
……たぶん。
私はスマホを手に取り、時間を確認した。
まだ作業を続ける時間はある。
もう少しだけ頑張ろう。
そう思って椅子に戻り、パソコンの画面を開いた。
曲作りは続く。
いつもの日常も続く。
そして、名前も知らない親切な男の子のことは、たぶんまた忘れずに覚えていると思う。
次に会った時には、ちゃんとお礼を言おう。
できれば、今度はもう少し元気な状態で。
……うん。
それが良い。
私はヘッドホンを着け直した。
音楽が流れ始める。
今日も、いつも通りの日常だった。
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運動は一ヶ月ほど軽い筋トレを熟した、普通に筋肉痛が取れなくて痛かったので辞めた。
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〜青柳冬弥視点〜
ゲームセンターという場所は、不思議な場所だと思う。
電子音が鳴り響き、画面が光り、あちこちで誰かがゲームを遊んでいる。
一つひとつの音を聞けば、決して静かな場所ではない。
むしろ騒がしい。
それなのに、ここにいると落ち着くことがある。
家ではクラシック音楽を聴くことが多い。
厳格な家庭環境もあって、音楽というものは正しく、丁寧に、規律を守って扱うものだと教えられてきた。
もちろん、それ自体が悪いとは思っていない。
クラシック音楽にはクラシック音楽の美しさがあるし、演奏技術を磨くことにも意味がある。
ただ、音楽というものが常に正確であるべきだと考え続けていると、時々息苦しくなる。
ここでは違う。
誰かがボタンを連打している音も、ゲームの失敗を知らせる音も、クレーンゲームの機械が景品を持ち上げる音も、すべてが同じ空間に混ざり合っている。
一つの音に集中しようとしても、別の音が割り込んでくる。
雑然としていて、統一感もない。
それでも、誰かがそれを正しい音に直そうとすることはない。
そういうところが、気に入っている。
それに、ゲームそのものにも興味がある。
音楽ゲームだけではない。
格闘ゲーム、パズルゲーム、対戦ゲーム、クレーンゲーム。
それぞれに異なる仕組みがあり、攻略の方法がある。
操作の正確さが重要なものもあれば、相手の思考を読むことが重要なものもある。
運の要素が大きいものでも、試行を重ねることで見えてくるものがある。
未知の仕組みを理解し、試し、結果を確かめる。
そういう過程が好きなのだ。
だから今日も、俺はゲームセンターに来ていた。
目的はいつもと同じ。
遊びながら、気になったものを試す。
ただそれだけだ。
リズムゲームの筐体の前に立つ。
選曲画面を開き、いくつかの候補を眺めた。
今日は何を遊ぼうか。
以前に難しいと感じた曲をもう一度試すのも良い。
まだフルコンボを取れていない曲に挑戦するのも良い。
一度成功した譜面を、より安定して処理できるか確かめるのも面白い。
ゲームというのは、同じことを繰り返しているようでいて、少しずつ違う発見がある。
俺は一曲を選択した。
難易度は最大。
曲が始まる。
画面に流れるノーツを見ながら、指を動かす。
判定を確認し、次の配置を認識し、リズムに合わせて入力する。
難しい譜面ほど、考える余裕が少なくなる。
それでも、譜面の構造を把握できていれば、ただ反射的に動くよりも安定する。
もちろん、理解していることと実際にできることは別だ。
頭では分かっていても、指が追いつかないことはある。
だから練習する。
そして、曲が終わった。
フルコンボ。
画面に表示された結果を確認してから、次の曲を選ぼうとした。
その時、隣の筐体で遊んでいる人物が目に入った。
同じくらいの年齢だろうか。
見覚えがあるような気もするが、すぐには思い出せない。
相手もこちらを見ているわけではない。
そのまま画面に視線を戻した。
次の曲を選択する。
再びプレイを始めた。
しばらくして、曲が終わる。
またフルコンボだった。
隣のプレイヤーも、ちょうど同じ頃に曲を終えていた。
視界の端で結果画面が見えた。
フルコンボ。
……上手いな。
難易度の高い譜面を、安定して処理している。
少なくとも、今のプレイを見る限りではそう感じた。
俺はゲームが上手い人を見るのが好きだ。
自分とは異なる指の動かし方をしている人もいれば、同じ譜面でも別の方法で処理している人もいる。
そうした違いを見つけるのは面白い。
ただ、今は相手のプレイをじっくり観察するつもりはなかった。
俺は俺で、ゲームを楽しんでいる。
それで十分だ。
次の曲を選択した。
何曲か遊んだ後、筐体から離れた。
少し休憩しよう。
そう思って周囲を見回すと、クレーンゲームのコーナーに先ほどのプレイヤーがいた。
景品を見上げ、筐体の中を確認している。
何か欲しいものがあるのだろう。
俺も近くを通りかかったので、自然と目に入った。
彼は景品の位置を確認し、操作ボタンを押した。
アームが動く。
下降する。
景品を掴む。
持ち上がる。
そして、落ちた。
「…………」
彼は動かなかった。
数秒ほど景品を見つめてから、再び財布を取り出した。
……なるほど。
そういうことか。
リズムゲームではあれほど正確な操作をしていたのに、こちらでは苦戦しているらしい。
もちろん、クレーンゲームはリズムゲームとは別の技術が必要だ。
アームの強さや景品の重心、置かれ方、景品が動く方向。
見た目だけでは判断できない要素も多い。
何度か試して、ようやく分かることもある。
彼は再び操作した。
景品が少し動いた。
だが、取り出し口までは届かない。
もう一度。
今度はアームが景品の端を押した。
景品が回転する。
……惜しい。
少なくとも、先ほどよりは状況が良くなっている。
しかし、その後も何度か挑戦したものの、景品は取れなかった。
彼は財布の中身を確認している。
そして、再び硬貨を取り出した。
「…………」
俺は少しだけ考えた。
声を掛けて助言するべきだろうか。
いや、まだ知り合いでもない。
それに、本人が楽しんでいるなら、余計な口出しをする必要もないだろう。
実際、クレーンゲームは景品を取ることだけが目的とは限らない。
試行錯誤そのものを楽しむ人もいる。
……ただ。
彼の表情を見る限り、少なくとも今は楽しさだけで続けているようには見えなかった。
真剣だった。
とても真剣だった。
まるで、ここで景品を取れなければ何か大切なものを失うかのような顔をしている。
いや、さすがにそれは大げさか。
俺は視線を外し、別の筐体へ向かった。
人には人の遊び方がある。
俺が口を出すことではない。
しばらくして、別のクレーンゲームを見つけた。
景品は小さなぬいぐるみだった。
特に欲しいというわけではない。
ただ、配置が気になった。
景品の重心とアームの位置。
取り出し口までの距離。
一度の操作でどこまで動かせるか。
そうした条件を考えると、実際に試してみたくなる。
俺は硬貨を入れた。
アームを操作する。
景品の端を掴み、持ち上げる。
一度では取れなかったが、景品の向きが変わった。
もう一度。
今度は狙った位置にアームを合わせる。
景品が持ち上がり、そのまま取り出し口へ落ちた。
取れた。
「……よし」
小さく呟いて景品を取り出す。
別に珍しいことではない。
クレーンゲームはそれなりに得意だ。
もちろん、どんな景品でも一発で取れるわけではないし、機械の設定によっては何度挑戦しても上手くいかないこともある。
それでも、景品の動き方を見て次の手を考えるのは好きだった。
俺は取れたぬいぐるみを手に持ち、少し考えた。
……どうしようか。
特に欲しかったわけではないので、持ち帰るかどうかも決めていなかった。
結局、そのまま鞄に入れた。
家に帰れば、何かしら置き場所もあるだろう。
たぶん。
帰り際、先ほどのプレイヤーがまだクレーンゲームの前にいた。
……まだやっていたのか。
少し気になって、視線を向ける。
景品は、先ほどと比べてかなり位置が変わっていた。
あと少しで取れそうにも見える。
彼は操作ボタンを押した。
アームが動く。
景品が揺れる。
そして、取り出し口の近くまで滑った。
「おっ」
思わず声が出た。
景品はあと少しで落ちそうだった。
彼も期待したらしい。
画面を見つめ、アームが戻るのを待っている。
だが、景品は途中で引っ掛かり、取り出し口には落ちなかった。
「…………」
彼の動きが止まった。
……これは。
何と言えば良いのだろう。
俺は少し考えた。
慰めるのも違う気がするし、助言するにしても今さらだ。
それに、彼はまだ諦めていないらしい。
財布を取り出し、硬貨を確認している。
その姿を見て、俺は少しだけ感心した。
あれだけ挑戦しても、まだ続けるつもりなのか。
俺なら、ある程度のところで見切りをつけると思う。
もちろん、景品がどうしても欲しければ別だが。
彼が何を考えているのかは分からない。
ただ、少なくとも簡単に諦める性格ではないのかもしれない。
……いや、単にここまで使った金額が惜しいだけという可能性もある。
人間の行動理由は、外から見ただけでは分からないものだ。
俺はそれ以上考えるのをやめた。
そろそろ帰ろう。
今日は十分に遊んだ。
ゲームセンターを出る前に、もう一度だけ周囲を見回した。
リズムゲームの筐体からは、また別の曲が流れていた。
格闘ゲームのコーナーでは、誰かが勝利したらしい。
クレーンゲームの前では、彼が再び操作を始めていた。
それぞれが、それぞれの目的で遊んでいる。
誰かは勝つために。
誰かは景品を取るために。
誰かは気分転換のために。
そして俺は、ゲームの仕組みを知りたくてここに来ている。
理由は違っても、同じ場所で楽しむことはできる。
それで良いと思う。
俺は鞄を持ち直し、出口へ向かった。
……そういえば、先ほどの彼。
結局、名前を知らないままだった。
まあ、また会うこともあるだろう。
このゲームセンターには、何度も来ているのだから。
その時に覚えていれば、それで十分だ。
俺は外へ出た。
夕方の空気は少し冷たかった。
家に帰ったら、今日取ったぬいぐるみをどこに置くか考えよう。
そんなことを考えながら、歩き始めた。
ゲームセンターは、今日も騒がしかった。
そして、俺にとっては今日も居心地の良い場所だった。
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ぬいぐるみは自室のベットの壁側に置かれた。
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