トレーナーを辞めたらシュヴァルグランが激重になってしまった 作:Lagavulin
「トレーナー、すみません。駅の出口が、分からなくなってしまって」
香港の海沿いを歩いていると、シュヴァルグランから電話がかかってきた。
「どこの駅?」
「中環です」
道路の向こうを見た。俺がさっき出てきた駅の名前だった。
「香港の?」
「……はい」
「なんで香港にいるんだ!?」
「トレーナーに、会いに」
後ろから来た人に追い越された。歩道の端へ寄って、スマートフォンを持ち直す。
質問には答えている。答えているが、昨日まで日本にいたのではなかったのか。
「今日、着いたのか?」
「はい。お昼過ぎに」
「誰かと来てる?」
「一人です。ホテルは取ってあります」
そこまで済んでいて、今は駅の出口が分からないようだ。
「近くに案内図はある?」
「ありません」
「遠くからでも見える目印があれば写真を送って。迎えに行くから、そこにいてくれ」
すぐに写真が届いた。大きな旅行鞄が脇に写っている。数日の旅行にしては、荷物が多い。
来た道を戻りながら、もう一つ聞いた。
「俺が香港にいるって、誰に聞いた?」
「昨日の写真を見て、調べました」
昨日送ったのは、何の変哲もないパンとミルクティーの写真だけだ。ここから何が分かるというのか。
シュヴァルグランの様子がおかしい。
*
俺がトレーナーを辞めてから、まだ1週間も経っていない。
辞めることを伝えたのは、3か月前だ。大きな揉め事も、体調の問題もない。長く働いて貯めた金で、前からやってみたかった世界一周へ出ることにした。
シュヴァルは学園を卒業して半年ほどだ。卒業後も別のレースに出るため担当契約を続けていたが、俺の退職に合わせて契約を終え、次のトレーナーへ移す予定だった。本人が所属する競技事務所にも話し、練習記録や出走予定を整理した。
後任候補の瀬戸さんとの顔合わせでは、シュヴァルは挨拶をして、説明を最後まで聞いた。新しい施設の案内も受けた。いつもどおり小さな声で礼を言ったので、俺は手続きも進められると思っていた。
担当変更の書類を出したところで、彼女の手が止まった。
「……これには、署名できません」
「気になる条件があったか?」
「いえ。後任の瀬戸さんは、すごく丁寧に説明してくださったので」
俺は書類を引き寄せず、そのまま理由を待った。シュヴァルは膝へ置いた手を握り、顔を上げた。
「僕は、別のトレーナーに移るつもりはありません」
頼まれた予定を断るにも、理由を何度か考える子だ。それが、用意された書類を前に、はっきり拒んでいる。
「でも俺は辞めるよ。日本で、今までみたいに見ることはできない」
「分かっています。新しい担当を決めなくても、練習を続けられる方法を、事務所と相談します」
シュヴァルはその場で、次の打ち合わせを頼んだ。退職をやめてほしいとは言わなかった。俺が帰るまで誰にも走りを見せない、とも言わなかった。ただ、担当契約をほかの人と結ぶことには、最後まで首を縦に振らなかった。
結局、俺との契約は予定どおり終了した。日々の練習には施設の指導員を、身体の管理には専門のスタッフを手配する。遠征や出走の窓口は競技事務所にまとめた。瀬戸さんは同じ事務所でほかのウマ娘を担当しており、海外の施設を紹介する相談にも乗ってくれた。
最後の日、シュヴァルは俺の机を片づけるのを手伝った。書類の箱を運び、鍵を返すところまで付き合ってくれたが、帰り際になると急に静かになった。
「トレーナー。旅行、楽しみにされていましたよね」
「ああ」
「気をつけて、行ってきてください」
その声が小さかったので、俺は近くまで戻って礼を言った。彼女は笑おうとして、うまく笑えなかった。
今、香港の駅から、また『トレーナー』と呼ばれている。
「家族と事務所には、話してあるんだな」
「はい。まずは2週間、海外で過ごす予定にしています」
「旅行に行くって?」
「トレーナーに会いに行くって言いました」
知らないのは俺だけだった。
地下へ降り、送られてきた目印を探した。壁際で大きな鞄に手を置き、電話をしているウマ娘がいる。見慣れた帽子のつばが、通路を行く人へ向いていた。
「シュヴァル、右を見て」
こちらを向いたシュヴァルは、鞄を置いて数歩近づいてきた。すぐに荷物を思い出したらしく、慌てて戻る。その間に俺がそばへ行った。
「いた」
同じ声が、電話からも目の前からも聞こえた。俺が通話を終えると、シュヴァルもスマートフォンを下ろす。
「トレーナー」
「もうトレーナーじゃないよ。新田でいい」
シュヴァルが口を閉じた。俺を見たまま、少し考える。
「……じゃあ、新田さん」
初対面のように、ゆっくり呼ばれた。俺が返事をすると、シュヴァルはもう一度、同じ名前を口にした。
「新田さん」
「うん」
そこから、しばらく俺を見ていた。
「大丈夫? 飛行機で、何かあった?」
「いえ。……本当に、会えたので」
シュヴァルは鞄の持ち手を握り直した。帽子を少し下げてから、もう一度顔を上げる。
「少しだけ、こうして見ていてもいいですか」
「ここで?」
「はい」
人の通り道から離れ、壁際へ寄った。シュヴァルもついてくる。まだ何も話し始めない。
久しぶりに会ったような顔をしているが、最後に会ってから1週間も経っていない。俺の方が落ち着かなくなって、鞄の横にあった手提げを持ち上げた。
「とりあえず、外へ出よう。荷物もホテルへ置こう」
「はい。僕、持てます」
「じゃあ、大きい方を頼む」
シュヴァルは鞄を引き、俺の隣へ来た。歩き出しても、何度かこちらを見る。
顔に何かついているか確かめる気分で、俺は頬に手を当てた。
*
地上へ出ると、ビルの間から海が見えた。
シュヴァルはようやく前を向いた。地図と道を見比べ、スマートフォンをしまう。これだけなら、初めて来た町で出口を間違えた旅行者だ。
「昨日の写真で、どうやって分かった?」
「端にレシートが写っていたので。香港ドルだと分かってから、店の名前を調べました」
「なるほど」
「それから、夕方に船へ乗りたいって、前に言っていたので」
スターフェリーのことだ。以前、仕事で来たときは乗る時間が取れなかった。帰国してから、海沿いをゆっくり歩いてみたかったと話した覚えがある。
「今日も乗ると思った?」
「はい。昨日の写真は室内だったので、海は今日かなって。それなら、夕方までに乗り場へ行けば会えるかもしれないと思いました」
シュヴァルがスマートフォンを出した。地図には、乗り場がいくつか保存してある。写真の店から歩いて行けるものを先に見て、会えなければ、ほかも回るつもりだったという。
「会えなかったら?」
「明日も、探してみようと」
「俺が別の町へ行ってたかもしれないぞ」
シュヴァルは画面を切り替えた。すごい量のメモがまとめられている。
香港だけではない。バンコク、台北、シンガポール。見覚えのある都市の名前が並んでいる。俺が旅行の候補として、以前話した場所だった。
都市名の下に、空港からの移動方法と、航空券の候補がある。寒い町は、下の方へまとめられていた。
「次の候補も、調べています」
俺は画面からシュヴァルへ目を戻した。
この子は、初対面の人に自己紹介するだけでも、言うことを何度か考える。俺へ頼み事をするときには、練習の終わりまで待っていることもあった。
この行動力を発揮するのにどれだけ準備を重ねたのか?
「この準備、いつから?」
「退職のお話を聞いたあとから、少しずつ」
「3か月、ずっとか?」
「はい」
俺の方は、一昨日まで航空券を買っていなかった。
「だったら、一緒に行きたいって言ってくれれば」
「……それは、なかなか言えなくて」
シュヴァルは画面へ目を落とした。さっきまで都市と航空券の説明をしていた声が、小さくなる。
「トレ……新田さん、すごく楽しそうだったので。僕がお願いして、困らせたくなくて」
「でも、香港まで来た」
「はい。会いたくて」
会いたいと言う前に、出国の手続きを済ませてきた?
「少し、ご一緒してもいいですか」
「いいよ。まず荷物を置いて、飯を食おう」
返事をした途端、シュヴァルの鞄の車輪が速くなった。角を曲がりかけたので、俺は手提げを持ち上げる。
「ホテル、どっちに取ったんだ?」
シュヴァルが止まった。いったん地図を出し、反対側を指す。
「……こっちでした」
*
食堂では、焼いた鴨と叉焼の盛り合わせを頼んだ。
シュヴァルは運ばれてきた皿を見て、箸を取った。ひと口食べ、もう一切れ取る。飛行機では、ほとんど食べられなかったという。
「気分が悪かった?」
「いえ。会えたら何を話そうか、考えていて」
「今は、食べられそうだな」
「はい」
そこは昔と変わらない。俺も茶を飲み、皿へ箸を伸ばした。
航空券と宿の話になったので、どれくらい旅行を続けるつもりなのか聞いた。今の休みは2週間。その先は事務所と相談中だが、費用の準備は済んでいるらしい。
「世界一周をする分まで?」
「新田さんに追いつく分も、別にしています」
茶碗を置いた。
「追いつく分?」
「はい。直前に飛行機を取ると、高くなることもあるので」
先ほど見せてもらった画面には、予算の欄もあった。旅費の下に、もう一つ項目がある。100万円と書いてあった。
追いつくためだけに100万円?
俺は箸まで置いた。自分の旅行なら、しばらく続けられる金額だ。
「シュヴァル。そんなに飛行機ばかり乗らなくても」
「使わずに会えたら、そのまま残します」
「もちろん、それがいいけど」
「賞金は、貯めていたので。足りなくなるような使い方はしません」
確かに、シュヴァルグランは担当していた頃にいくつかの重賞を勝利して賞金を獲得している。飛行機代を心配していた俺より、ずっと余裕がありそうだ。
もっとも、貯金が十分なら、ここまでしていいかは別の話だと思う。
「まず、明日は一緒に昼飯を食おう。探さなくていいように、店の場所を送るから」
「はい」
シュヴァルがスマートフォンを出した。届いた場所を保存し、席を立つ時刻まで確かめる。
それから、俺を見た。
「明後日は?」
「まだ考えてない」
「決まったら、教えてください」
少し見ないうちに積極的になったな。
俺が皿を寄せると、シュヴァルは残りの鴨を取った。食べてから、箸を置く。
「すみません。急に、いろいろお願いして」
「謝らなくていいよ。ただ、驚いてる。君、こういうことは遠慮する方だっただろ」
シュヴァルは少し黙った。俺が次の言葉を待っていると、帽子を置いた隣の席へ目を向ける。
「前は、遠慮しても、次の日に会えたので」
俺は箸を取ろうとして、そのまま手を止めた。
最後に会った日の帰り際、聞けなかった話だ。あのときは、シュヴァルが困っているのだと思っていた。何を諦めようとしているかまでは、考えていなかった。
「そうか。そうだな」
シュヴァルがこちらを見た。
「だったら、遠慮しなくていい。話してくれれば、会える日を考えられる」
「……はい」
返事のあと、シュヴァルが空いた皿へ目を向けた。俺もメニューを取り、ほかに食べたいものはあるか尋ねる。気になっていた麺を指したので、追加で注文した。
食堂を出るころには、対岸の建物に明かりがついていた。
埠頭へ向かい、切符を買う。シュヴァルは乗り場の案内を確かめてから、俺について船へ入った。海の見える席へ並んで座ると、彼女がスマートフォンを出す。
「写真、撮ってもいいですか」
「うん。あっちの建物、きれいだな」
俺が対岸を指していると、こちらにカメラが向いた。
「俺を撮るのか?」
「はい。船に乗れたので」
少し姿勢を直したら、シュヴァルが画面を下げた。
「いつもどおりで、大丈夫です」
「今のも、いつもどおりだよ」
「カメラを向けると、背筋が伸びるので」
よく見ているな。座り直すと、今度はすぐに撮られた。
シュヴァルは画面を確かめ、また俺へ向ける。船が岸を離れ、窓の外に夜景が広がった。
「海も撮っておいたら?」
「あとで、撮ります」
俺が海を見ているあいだに、こちらに向けてシャッターの音が3回した。
やはり何か様子がおかしい。