トレーナーを辞めたらシュヴァルグランが激重になってしまった 作:Lagavulin
ポルトガルで最初に泊まった宿には、小さな台所がついていた。
着いた夜は遅く、外で食べる場所を探すより、持ってきたパンを食うほうが早かった。翌日はきちんと飯を作ろうと決め、午前中に市場へ行った。
シュヴァルは朝の練習を済ませている。野菜を選びながら、焼くための魚も買いたいと言った。俺が1尾を指すと、彼女は店の人に大きさを聞き、別のものを2尾選ぶ。
「2人分にしては、多くないか?」
「僕は、1尾食べられます」
「俺が残した分は?」
「いただきます」
返事が速い。俺は最初から自分の食べられる分だけ皿へ取ることにして、店の人へ包んでもらった。
帰りに卵やパンも買うと、俺の袋が重くなった。シュヴァルが片方を持とうとするので渡したが、俺の手まで同じ側につかもうとして、一度やめる。
「両方は難しいぞ」
「……袋を、反対にします」
彼女は買い物袋を持ち替え、今度は俺の手を取った。坂道を上がる間、握る指は緩まない。
帰る家も同じだったらいいと言われたことが、頭に残っていた。今は借りた台所へ、2人で夕食の材料を運んでいる。魚を何尾買うか相談するだけでも、俺はしばらくこうしていたいと思う。
*
夕方、シュヴァルが魚を焼き、俺は野菜を切った。
フライパンに合う大きさにしてもらっていたので、魚はそのまま焼ける。彼女が火を見ている間に、俺は皿を出し、机に置いていた携帯と地図を片づけた。
「朝、事務所に連絡しました」
シュヴァルは魚を裏返しながら話した。長めに同じ町へ滞在すれば使える施設があることと、次の競走の候補を教えてくれる。
「香港ヴァーズも、候補にできるそうです。出走の申し込みをして、受け入れてもらえたら」
「冬の香港か。芝2400mのG1だな」
「はい。そこまでに、練習する場所と、レースの予定を決めたいです」
旅行のために走ることを止めているわけではない。フランスで負けたあとから、シュヴァルは次に試したい走り方を、自分でも施設の指導員へ相談している。
俺は皿を彼女の近くへ置いた。魚が焼き上がり、シュヴァルが火を消してから、机を指す。
「飯を食ったら、旅の話もしよう。昨日の続き、考えた」
シュヴァルは俺を見た。フライパンを両手で持ったままなので、先に魚を皿へ移すよう頼む。
2人で席に着き、彼女が焼きたての魚へ箸を入れた。俺も自分の皿に取った分を食べ、身が柔らかいなと言う。シュヴァルは頷いたが、いつもより食べるのが遅い。
「先に、話したほうがよさそうだな」
「……聞きたいです」
俺は箸を皿へ置いた。シュヴァルも食べる手を止め、こちらを見る。
「もう少し、じゃなくて、当分一緒に旅をしよう」
彼女はすぐに頷かなかった。俺の顔を確かめ、開きかけた口を閉じる。聞こえた言葉を、そのまま受け取っていいか迷っているようだ。
「冬の、香港までですか」
「そこを目標にはできる。そのあとの国も、2人で考えたい。俺だけが日付を決めて、ここで終わりって言うのはやめる」
「……はい」
今度は頷いた。それでも、俺にはまだ伝えることがある。
「働いていない日に金が減るのは、変わらない。だから、練習やレースで、俺へ頼みたい仕事があったら振ってほしい。その間は収入があるから、旅行も続けられる」
「頼みたいです」
「全部、今までどおりに戻すってことじゃないよ。必要な仕事を、期間と内容を決めて引き受ける。君がほかの施設で練習する日は、俺は観光しててもいい」
「はい。休む日は、休んでほしいです。でも、走りを見てもらいたい日も、あります」
シュヴァルは膝へ手を置いた。今度は旅行の返事を待つ顔ではなく、自分から何を頼むか考えている。
「フランスの最後の直線、もう一度、一緒に確かめたいです。次のレースまでに、どこで脚を使うか、練習したいので」
「現地の施設も使って?」
「はい。今月、4日間、お願いできませんか」
俺は机に置いていた携帯を取った。彼女も日程を開き、施設を予約できる日を教えてくれる。
走りを見る日が2日。間に休養を挟み、その記録と相手の映像を見て、次の競走の作戦を考える日が2日。俺が引き受けるのは合計4日で、日々の身体の管理や、ほかの日の練習は施設のスタッフに頼む。
「報酬は、20万円で考えています」
シュヴァルが言った。俺は携帯から顔を上げた。
「単価が高くなってないか。4日間だぞ」
「映像を見る日も、お仕事に入っています」
「それはそうだけども」
「僕が前へ出たあと、どこまで待てるかを、練習で確かめたいんです」
シュヴァルはフランスの映像を開き、俺に見せた。直線で先頭に並ぶ少し前で止める。
「僕がどのくらい脚を残せるかも、焦るとどう走るかも、ずっと見てくださっていたので。負けたあとに何を考えたかも、新田さんには話しました」
「それは、覚えてるよ」
「そのことを分かっていて、僕の走りを見てくださる方は、世界中で新田さんだけです」
走り始める前に何を伝えるか、思わず考えた。映像だけを渡されるより、確かめる点はずっと絞れる。
「G1を勝てたら、20万円よりずっと多い賞金になります。そのためにお願いするお仕事なので、高いとは思いません」
「勝てるって約束まではできないよ」
「はい。だから、勝つための準備をお願いします」
シュヴァルは20万円と書いた条件を見せ直した。俺が返事を迷っていると、少し考えてから続ける。
「それでも高いと思われるなら、最初の報酬を下げて、レースの結果に合わせて追加で。賞金から、何%か……」
「20万円で引き受ける。固定で」
割合まで聞く前に答えた。シュヴァルが顔を上げる。
「勝った分から貰うほうが、20万円より高くなるだろ」
「……はい。だから、20万円でもいいと思っています」
シュヴァルは少し笑い、報酬の欄をそのままにして、次の条件へ進めた。
「レース期間の仕事は、また別に頼んで。3日間で同じ内容なら、12万円。日数が増えるなら、その分も決めよう」
「はい。事務所から、契約書を送ってもらいます」
シュヴァルが条件をまとめた。俺も内容を読み、間違いがないと伝える。着順で額を変えず、賞金とは別の固定報酬にするところも、今までと同じだ。
仕事を増やせば増やすほどいい、という旅にはしたくない。休みたくて辞めたのだから、俺の行きたい場所にも行く。彼女が走る日程と合わせて、腰を落ち着ける町を選べば、移動ばかりで出費が増えることも減らせる。
「香港のG1も、頼んでもらえたら、ちゃんと勝たせるつもりでやる。観光のついでに少し見る、とは考えない」
「……勝ちたいです。新田さんと」
「うん。そこは、俺も同じ」
シュヴァルは携帯を置いた。机越しに手を伸ばしかけたので、俺が自分の手を出すと、両手で包まれる。
「ありがとうございます」
「とりあえず、冬の予定は空けておくよ」
「……そう言ってもらえるのが、嬉しいです」
彼女が少し俯いた。魚の皿が近くにあるので、俺は手を握ったまま、冷める前に食おうと言う。
「次の宿も、同じ部屋を取っていいですか」
「いいよ。2人で泊まるつもりで探して」
シュヴァルはすぐ顔を上げた。手を離し、自分の携帯へ宿の候補を出そうとする。
「飯のあとで」
「……はい」
携帯を伏せた彼女が、焼いた魚を食べ始めた。俺は自分の皿に残った身を取り、今の宿をもう少し延ばすのもいいなと言った。
「この台所、使いやすいし。市場も近い」
「朝も、一緒に作れますね」
「俺が起きていれば」
「起こしても、いいですか」
俺は彼女を見た。スペインでは、帰ってくるまで寝ていてもよかったはずだ。
「一緒に食べたいです。休む日は、遅い朝ご飯でもいいので」
「じゃあ、明日は起こして。今日は卵も買ったし」
食事が終わると、シュヴァルが皿を流しへ運んだ。俺も隣へ立ち、彼女が洗った皿を拭いて棚へ戻す。
「新田さん」
「ん?」
「日本へ帰ってからも、こうしていたいです」
昨日の列車で聞いた話だ。俺は拭き終えた皿を棚へ置き、彼女の側へ少し寄った。
「今度、家で作ってもらおうかな。帰ったときに」
「行きます」
「魚は、俺が1尾食べられる大きさで」
シュヴァルが笑った。洗い終えた手を布巾で拭いてから、俺の腕をつかむ。
「2人で食べる分なので、大丈夫です」
俺は布巾を机へ置き、並べていた椅子の片方を引いた。シュヴァルが隣へ座ると、今の宿を延長できるか、2人で空室を確かめた。