トレーナーを辞めたらシュヴァルグランが激重になってしまった 作:Lagavulin
香港へ戻ったときには、最初に来てから、いくつも季節を越えていた。
ポルトガルでは、同じ台所を何度も使った。そのあとも欧州の町に長めに滞在し、シュヴァルが練習している間、俺は市場や古い建物を見に行った。午後には合流して、俺が見つけた店へ行く。彼女が地元のウマ娘に教わった料理を食べに、遠回りしたこともある。
頼まれた仕事は、契約した日にやった。4日間の調整のあとには、次の競走で走りを見る機会もあった。シュヴァルは先頭へ出てからも、後ろの相手に合わせてもう一段上げる走りを試し、俺はその映像を確かめた。
すぐに全部うまくなったわけではない。待ちすぎて前を捉えきれなかった日もある。彼女はそのたび、あと何歩早く動けたかを自分から話した。
香港ヴァーズの招待が正式に届いたのは、次の滞在先を相談していたころだった。シュヴァルは競技事務所の連絡を読み終え、俺の携帯に開いていた地図をのぞき込んだ。
「香港へ、行きたいです」
「俺も、そのつもりで候補を出してる」
彼女は日付を確かめ、すぐに便を探し始めた。今度は、俺の写真から都市を調べる必要がない。
*
空港からホテルへ向かう途中、シュヴァルが車の窓を見ながら、俺の手を取った。
「前は、ここから1人で行ったんです」
「中環まで?」
「はい。道順は調べていたんですけど、出口を間違えて」
俺は初日に送られてきた駅の案内図を思い出した。大きな鞄が端に写っていた。あの鞄と一緒に、彼女は3か月分の準備を持ってきていたのだろう。
「今度は、迷っても俺もいるよ」
「……一緒に、迷うんですか」
「俺だけ正しい出口を知ってるとは限らないからな」
シュヴァルが笑い、手を握り直した。運転手に声を掛けられ、俺たちはホテルの住所をもう一度見せる。車は大きな道路を曲がり、海に近い通りへ入った。
到着したのはレースの1週間ほど前だ。シュヴァルは施設のスタッフと調整を続け、俺の契約は開催3日前から始まる。その前に、2人で海へ行ける午後があった。
最初に入った食堂まで歩き、鴨と叉焼の盛り合わせを頼んだ。シュヴァルは皿が来る前に、当時の写真を携帯へ出す。
「これを食べたとき、もう、見つけられたんだって思っていました」
「俺は、次の航空券まで見せられて、驚いてたころだな」
「……用意していたので」
今は、食事を終えたあとに同じホテルへ戻る。机に2人分の携帯を置き、部屋の鍵もそれぞれ持ってきた。
料理が来ると、シュヴァルは写真をしまった。俺が鴨を取り、彼女は叉焼を食べる。食べ終えてから、前と同じように船へ乗りに行った。
海の見える席へ座ると、シュヴァルが俺に携帯を渡してきた。
「今日は、新田さんに撮ってほしいです」
「君を?」
「はい。隣に、来てください」
俺は彼女の側へ寄った。前のカメラへ切り替えて腕を伸ばすと、シュヴァルが肩をつけてくる。画面に2人が入ったところで、俺が写真を撮った。
確かめたシュヴァルは、俺から携帯を受け取り、同じ写真を送ってくれた。『2人で世界一周』のアルバムへ入れると、船の窓から見える建物にもカメラを向ける。
「最初は、俺ばかり撮ってたな」
「……会えたので。忘れたくなくて」
「俺の顔は、忘れないだろ」
「香港で、新田さんに会えた日の顔です」
シュヴァルはそう言い、もう1枚撮った。後ろの窓のガラスに、並んで座る俺たちと、大きく揺れる尻尾が薄く反射して写っていた。
*
契約の初日、俺は練習施設へ一緒に行った。
今日の内容は、ここまでの調整記録と身体の状態をスタッフに確かめ、短い走りを見て本人の感触を聞くことだ。強く走る練習は、先週までに済ませている。
シュヴァルが芝へ出ると、俺も決めた位置へ移った。彼女は軽く走ったあと、短く速度を上げ、戻ってくる。
「走りやすいです。前に香港で使わせてもらった施設とは、少し違いますけど」
「脚は重くない?」
「はい。最後に上げるときも、動きます」
俺は時計を記録し、スタッフへ渡した。シュヴァルは飲み物を取ってから、出走相手の一覧を見る。
リュミエールポートの名前がある。
フランスで負けた相手だ。シュヴァルは招待を受けたときから、彼女の最近のレースを見ている。今回も中団で待つ走りだけをするとは限らない、と俺たちは話していた。
「前へ出たくなるのは、今でも変わらないです」
シュヴァルが映像を止め、自分のレースの最後の直線を出した。画面の中では、彼女が前を捉える。その外から、リュミエールポートが追いついてくる。
「でも、先頭になったあとにも、走るところが残っているので」
「ゴールまでの距離を、先頭へ出ることだけに使わない」
「はい。前が空いたら、行ける場所は取ります。そのあと、相手の速さも見ます」
俺は頷き、直線へ入ったときの相手の位置を確かめた。シュヴァルも画面を見ながら、自分ならどこへ出るかを話す。
夕方、競走場を見に行くと、リュミエールポートに会った。通訳のスタッフが呼んでくれて、彼女はコースの端からこちらへ戻ってくる。
「また一緒に走れるね」
「はい。今度は、僕が勝ちたいです」
シュヴァルの返事を聞き、リュミエールポートが笑った。相手も香港で勝つために、ここまで来ている。
「あなたの走り、あのあとも見た。最後まで止まらなくなったね」
「……ありがとうございます」
「だから、今度は後ろで待っているとは限らないよ」
シュヴァルはコースへ目を向けた。言われたことをそのまま作戦だと思うか、違う走りも用意していると思うか。しばらく考え、相手へ顔を戻す。
「僕も、前と同じ走りには、しません」
2人は握手をした。俺もリュミエールポートのスタッフへ挨拶し、確認していた場所へ歩く。
シュヴァルは最後の直線をしばらく見つめていた。俺が隣へ立つと、彼女はフランスで前へ出たときのことを話した。
「あのとき、抜けられたと思って、少し安心しました」
「そこからもう1回、勝負が来たな」
「はい。今度は、来ても、まだ上げられるようにします」
シュヴァルは自分の足元を見た。芝を軽く踏み、直線の先へ顔を上げる。
「待つだけじゃなくて、勝つために、残しておきたいです」
俺は彼女と一緒にゴールの位置を確かめた。帰りの車を呼ぶまで、どの相手がどこへ出そうかを話し合う。
*
ホテルへ戻り、俺はその日の記録をまとめた。
シュヴァルも自分の連絡を終え、椅子を俺の隣へ寄せてくる。画面をのぞくので、今日は走りも感触も問題なかったと伝えた。
「明日は、コースと相手の確認だけ。休める時間は、休もう」
「はい」
俺が記録を送信し、携帯を置いた。シュヴァルはその手を取ると、自分の膝へ引き寄せる。
「今、お仕事は終わりましたか」
「今日は終わり」
「じゃあ、少し、抱きついてもいいですか」
俺が頷くと、彼女は椅子から立ち、俺の肩へ腕を回した。俺は座ったまま彼女の背中へ手を置く。仕事をしている間はまったくそんな話をしなかったのに、終わるのは待っていたらしい。
「今日は、言いたいことがありました」
「練習の話?」
「……新田さんに、帰ったら、こうしてほしかったです」
「シュヴァルは自分から抱きついているだろう」と言うと、彼女は少し腕を緩め、こちらの顔を見た。
「新田さんからも、してもらいたいです」
強い。
俺は椅子を後ろへ引き、立ち上がった。今度は俺から彼女の身体へ腕を回すと、シュヴァルが俺の胸元へ顔を寄せた。
「これでいい?」
「はい。……すごく、いいです」
俺は彼女の背中を軽く撫でた。コースで相手に勝つと言った娘が、今は俺の服をつかんでいる。
しばらくして、夕食の時間になった。シュヴァルが離れたあとも、俺たちは手をつないで部屋を出た。
「当日、勝ったら、もっと長くお願いします」
「抱きつく時間?」
「はい」
「フランスでは、負けても抱きついたじゃないか」
シュヴァルは少し考え、つないだ手を握り直した。
「……負けたら、それも、お願いします。でも、勝ちます」
エレベーターが着いた。彼女が先に乗り、俺も隣へ入る。階数を押したシュヴァルは、数字が変わる間も、俺の手を離さなかった。