トレーナーを辞めたらシュヴァルグランが激重になってしまった 作:Lagavulin
レース当日の朝、シュヴァルはホテルの食堂で、いつもどおりの量を食べた。
俺は先に食べ終え、今日の連絡を確かめる。現地スタッフから、集合場所も準備も予定どおりだと届いていた。彼女が最後のパンを食べ、飲み物を飲んでから、席を立つ。
「行きましょう」
外へ出るまで、シュヴァルは俺の手をつないでいた。車へ乗り込む前に、自分から離す。
「今日は、勝ちに行きます」
「うん。見てる」
彼女は頷き、荷物を受け取った。俺も競走場で使う記録を確かめ、隣へ乗る。
香港ヴァーズ。芝2400mのG1だ。
出走者の中には、日本でも名前を聞くウマ娘がいる。リュミエールポートだけを見ていれば勝てるレースではない。前を取りに行く相手も、最後まで脚を残す相手も、ここへ勝ちに来ている。
競走場でシュヴァルの状態を確かめ、スタッフと必要な連絡を済ませた。彼女は走る準備を整えてから、俺へ近づいてくる。
「最後に、少しだけ」
周りへ目を向け、声を小さくした。俺が腕を広げると、シュヴァルは1歩寄り、身体を預ける。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。帰ってきたら、また」
彼女は俺の胸元から顔を上げ、小さく笑った。自分で腕をほどき、スタッフのほうへ戻っていく。 俺はその背中を見送り、スタンドへ上がった。
*
ゲートが開くと、前に出たのは内側の2人だった。
シュヴァルはすぐには追わず、中団へ入った。内から2列目。前を走るウマ娘の背中が見える位置で、最初のカーブを回る。リュミエールポートは彼女の少し外、1人分ほど後ろにいた。
前の2人は、そのまま競り続けなかった。1人が先頭を取り、もう1人はその後ろへ入る。隊列が伸びすぎず、追う側も、すぐに位置を上げる必要はない。
俺は時計を見てから、大型画面へ目を戻した。シュヴァルの肩は上がっていない。先頭から離されない速さで、無駄に脚を使わずに進んでいる。
向こう正面の半ばで、外を走っていたウマ娘が動いた。
前へ行く相手に合わせ、リュミエールポートも速度を上げる。シュヴァルの外へ並び、そのまま半歩、前へ出た。
シュヴァルはついていかない。前の相手が進んだ分だけ、間を保った。外へ移る場所はないが、内側の前方には、直線へ入るときに使えそうな隙間がある。
残りの距離が短くなり、最後のカーブへ入った。先頭の後ろを走るウマ娘が、外から来た相手へ合わせて動く。内側に、1人が進めるだけの道が空いた。
シュヴァルがそこへ入った。
前へ出られる位置は取る。カーブを大きく回らず、先頭との差を詰める。リュミエールポートは外から進み、シュヴァルより少し前で直線へ入った。
俺はスタンドの前へ寄った。シュヴァルはまだ先頭へ行こうとしていない。前を走る相手の後ろから、脚を残したまま直線の入口を抜ける。
残り400m。
先頭のウマ娘が粘る。その外からリュミエールポートが追いつき、2人の肩が並んだ。シュヴァルは進路を少し外へずらし、前を塞がれない場所へ出る。
彼女の腕を振る幅が大きくなった。1人を抜き、前の2人を追う。先頭との差は、まだ1馬身ほどある。
「来い、シュヴァル!」
俺の声は、隣の観客の声に重なった。画面の中で、シュヴァルの肩が前へ伸びる。
残り200mで、リュミエールポートが先頭へ出た。
シュヴァルも、その外へ並びかける。相手は追いつかれる前にもう一度速度を上げた。シュヴァルの前へ、半歩の差ができる。
フランスで、最後に見た相手の走りだ。まだ伸びる。今日も、簡単には抜かせない。
シュヴァルの足が地面を捉えた。腕を強く振り、もう一度速度を上げる。
半歩の差がなくなった。
2人の肩が並び、今度はシュヴァルが前へ出る。リュミエールポートも離れない。すぐ後ろまで来た別のウマ娘が、その2人を外から追った。
シュヴァルは先頭へ出てからも、同じ幅で腕を振り続けた。相手が近づくたび、最後の数歩まで足を前へ運ぶ。際どい差だ。
ゴールを過ぎたとき、俺はすぐに順位の表示を見た。声を出したまま、何を言っているか自分でも分からなくなっていた。
先に通過したのは、シュヴァルグランだった。
画面に彼女の名前が出る。2着はリュミエールポート。確定した差は、半馬身だった。
俺は携帯を持ち直そうとして、いったん諦めた。両手を膝へ置き、大きく息を吐いてから、もう一度画面を見る。
1着の名前は、変わらなかった。
*
戻ってきたシュヴァルは、俺を見つけると、スタッフへ何か尋ねた。
必要な確認を先に済ませている。まだ息が整いきっていないのに、早くこちらへ来たそうだ。俺は飲み物を持って近づき、彼女が両手で受け取るのを待った。
「勝ったな」
「……はい」
シュヴァルがひと口飲んだ。俺を見てから、競走場の画面へ顔を向ける。自分の名前を確かめ、もう一度こちらへ戻した。
「最後、上げられました」
「見た。並んでから、まだ行けたな」
「はい。先頭になっても、終わりじゃないって……」
言葉が途中で止まった。彼女は飲み物の容器を持ったまま、少しだけ下を向く。
俺が手を出すと、シュヴァルは容器を預けた。そのあと、両腕を俺の身体へ回してくる。
「……勝てました」
俺も彼女を抱きしめた。背中へ手を置き、息が落ち着くまで、そのまま待つ。
「すごかったよ。最後のもう一段、あれが見たかった」
「新田さんも、喜んでくれますか」
「見れば分かるだろ。手が震えて、携帯を持てなかった」
シュヴァルが顔を上げた。俺の顔を見て、少し笑う。目元を拭こうとしたので、俺はタオルを渡した。
表彰の準備があると呼ばれ、彼女は名残惜しそうに腕を緩めた。俺が手を離すと、今度はその手を取って、一度だけ強く握る。
「あとで、続きをお願いします」
「うん。今日は長めだったな」
シュヴァルは頷き、スタッフについていった。
着替えを終えて戻ってきたところで、リュミエールポートが挨拶に来た。通訳を待つ前に、相手のほうから手が差し出される。
「おめでとう。最後、あんなに上げるとは思わなかった」
「ありがとうございます。……前に負けたのが、悔しかったので」
「私も、今、悔しい。次は、また私が勝つ」
シュヴァルは相手の手を握り返した。自分が勝った今日も、次の勝負は別だと分かっている顔だ。
「僕も、次も勝ちたいです」
リュミエールポートは笑い、シュヴァルの肩を軽く叩いた。2人が離れると、表彰へ向かう彼女の背中を、俺はもう一度見送った。
*
その日は、ホテルへ戻るまでに何度も足を止めた。
取材を受け、事務所へ報告し、姉妹とも話した。ヴィブロスは画面越しでも声が大きく、シュヴァルが少し携帯を離すほど喜んでいる。
ヴィルシーナは、最後まで脚を残せたことを褒めたあと、本人の感触を聞いていた。シュヴァルが答えると、姉は頷き、落ち着いた声で、いい勝負だったと伝える。
「帰ったら、また私とも走りましょう」
「……うん。走りたい」
シュヴァルがそう答える横で、俺はレースの記録を送った。3日間の契約で引き受けた仕事を終え、報酬の確認も済ませる。
12万円。勝っても、負けても同じ額だ。俺は届いた入金の記録を保存し、仕事の画面を閉じた。
ホテルの部屋へ戻ると、彼女は椅子に座る前に、俺へ近づいてきた。
「お仕事、ありがとうございました」
「ありがとう。さっき、報酬も確認した」
「はい。……じゃあ、今日は、もうお仕事は終わりですね」
俺が頷くと、シュヴァルが両腕を伸ばした。俺からも抱きしめる。彼女は今度こそ急いで離れず、俺の肩へ頬を寄せた。ここ数日であれだけ抱きついているのに、まだそんなにくっついていたいのかと少し笑ってしまった。
少し落ち着いてから、2人で夕食へ出た。シュヴァルはよく食べ、俺もいつもより皿を増やした。レースの映像はもう確認しているので、飯の間は、帰国したときに何を食べたいか、次にどんな場所へ行きたいかを話す。
「南のほうへ行けば、暖かいな」
「海のあるところが、いいです」
「オーストラリアも候補にするか。長めに滞在できるところを探して」
部屋へ戻ったあとも、その話を続けた。俺が次の旅程を開くと、シュヴァルがソファの隣へ座り、肩をつけてくる。
宿を選ぶ前に、俺は自分の残高を確かめた。香港で仕事をした分も入れ、次の町にどれくらい滞在するか考える。彼女は俺の画面へ目を向けたが、金額をのぞき込もうとはしなかった。
「今日の報酬で、旅行は少し長くできますか」
「できるよ。ありがとう。移動ばかりにしなければ、しばらくゆっくり回れる」
「もっと、長くする方法もあります」
俺は宿の写真を開いたまま、彼女を見た。シュヴァルは両手を膝へ置き、俺が返事をするのを待っている。
「仕事を増やすなら、身体と日程を見てからだぞ」
「お仕事の話では、ありません」
「じゃあ、何の話?」
シュヴァルは息を吸った。自分から言い始めたのに、すぐには次の言葉を出せない。俺が画面を下げると、彼女は俺の顔を見たまま、はっきり言った。
「G1を勝ってきたシュヴァルグランと結婚すれば、お金の心配は当分なくなりますよ」
俺は携帯を見た。開いているのは、海の近くにある宿の写真だ。次の便も、まだ取っていない。
「……次の国は、オーストラリアにするか」
「新田さん。結婚の話をしています」
「聞こえてる。話が早すぎる」
「早すぎなければ、いいんですか?」
俺は彼女を見た。シュヴァルは顔を赤くしているが、言ったことを取り消すつもりはないらしい。目をそらさず、返事を待っている。
「まず、ちゃんと付き合ってからだろ」
「……じゃあ、そこからお願いします」
すぐ返ってきた。シュヴァルは自分で言い終えたあと、膝へ置いていた手を握る。
俺がもう一度携帯へ逃げようとすると、その手首をつかまれた。強く引くわけではない。ただ、画面を見る前に、こちらを見てほしいという手だ。
「結婚の話も、前から考えていたのか」
「……はい」
「今日、G1を勝ったから思いついたんじゃない?」
「勝ったら、言えるかなって思いました」
彼女は俺の手首から指を離した。俺が携帯を机へ置くと、今度は手のひらに自分の手を重ねる。
「僕も、レースを走っているので。新田さんに、全部用意してもらわなくても、一緒に暮らせますって、伝えたくて」
帰る家も同じだったらいいと言われたことを思い出した。彼女はその先の生活まで、自分がどうしていけるか考えている。
「それは、分かった。でも、今日の賞金があるから付き合う、って話にはしないぞ」
「……賞金がなくても、いいですか」
「俺が君といたいのは、金があるからじゃない」
シュヴァルの手が止まった。俺は彼女の指を握り、携帯を置いた机から身体を向け直す。
学園でデビューから担当し、多くの経験を2人で積み、卒業し、同じ部屋に泊まり、毎日の食事と移動を一緒に決め、当分一緒に旅をしようと約束した。2人の間にはもはや切り離せないほどの絆がある。それでも、付き合おうという言葉は、まだ俺から言っていない。
「ちゃんと、付き合おう、シュヴァル」
シュヴァルは俺を見たまま動かなくなった。結婚を提案するところまでは自分で進めたのに、返事をもらうのは想像していなかったのか。
「……はい」
彼女は頷き、つないだ手を自分の膝へ引き寄せた。それから、俺の顔を確かめる。
「新田さん。僕のこと、どう思っていますか」
「今、付き合おうって言っただろ」
「はい。……でも、気持ちも、聞きたいです」
俺は彼女の指を握り直した。ここまで話していて、あらためて言葉にするのは、どうにも照れくさい。
「嫌なら、こんなに一緒に旅をしてないよ」
「嫌じゃない、じゃなくて……好きって、言ってほしいです」
「分かってるだろ、もう」
「分かっていても、聞きたいです」
彼女の背中へ腕を回そうとすると、シュヴァルが俺の袖をつかんだ。抱きつく前に、顔を見たまま待っている。
「抱きしめてもらうのは、あとでお願いします」
「それじゃ、返事ができないじゃないか」
「……今日は、言ってほしいので」
シュヴァルの声も、少し小さくなった。恥ずかしさをこらえているのだろう。それでも、袖を離さずに続ける。
「僕も、ずっと恥ずかしかったです。でも、聞いてほしかったので、言いました」
俺は一度息をつき、彼女へ顔を向け直した。
「……好きだよ」
シュヴァルが袖をつかんでいた手を緩めた。すぐに俺の手へ戻り、両手で握る。
「今の言葉、もう一度、言ってもらえますか」
「1回じゃ足りないのか」
「……足りません」
「好きだよ」
シュヴァルが俺の肩へ額を押しつけた。今度は、背中へ腕を回しても止められない。俺は彼女を抱き寄せ、少し笑ってしまう。
「自分から結婚は言えるのに、こっちは照れるんだな」
「……新田さんに言ってもらうと、違うので」
しばらくして、シュヴァルが顔を上げた。まだ赤い顔のまま、俺を見て尋ねる。
「じゃあ、ゆっくりなら、結婚のお話もしていいですか」
「まだ急ぐな。今日、付き合うって決めたところだろ」
「はい。……明日からは?」
「その速さだと、来週には葬儀場を探すことになるぞ」
彼女は少し俯き、それでも笑っていた。俺はその手を握ったまま、もう片方の手で携帯を取る。
「まず、次の旅を決めよう。海のあるところ、2人で」
「はい」
シュヴァルが身体を寄せ、俺と一緒に宿の写真を見る。候補を比べている間に、彼女が部屋のところを指した。
「ここの部屋、広めのベッドが1つで安いです」
「ほかの部屋も見よう」
「……見なくても、大丈夫です」
俺が彼女を見ると、シュヴァルは写真から目を上げた。今度は、赤い顔のまま、こちらへ笑う。
「付き合っているので」
俺は部屋の広さと値段を確かめた。シュヴァルが空いている手を、俺の太ももへそっと置く。携帯を持つ手が止まった。
顔を向けると、彼女も俺を見た。頬はまだ赤いが、手を引っ込めようとはしない。
「……ベッドは1つだぞ」
「はい。分かっています」
こっちは部屋を予約するだけで、こんなに迷っている。シュヴァルは、どこまで覚悟を決めてきたんだ。
俺は画面へ目を戻し、次の日程を入れた。人数を2人にしてから顔を向けると、シュヴァルが俺の肩に頭を寄せ、頷く。
2人分の名前を入力して、予約を送った。シュヴァルは届いた確認の画面を受け取り、自分の携帯へも保存した。