トレーナーを辞めたらシュヴァルグランが激重になってしまった 作:Lagavulin
翌日の昼、シュヴァルは食堂の前に先に来ていた。
ホテルからの道は、昨夜のうちに調べたという。今は旅行鞄を持っていない。俺に気づくと近づいてきて、少し手前で足を止めた。
「おはようございます」
「おはよう。今日はちゃんと来られたな」
「はい」
店へ入り、点心を頼んだ。運ばれてきた蒸籠から湯気が出ている。俺が点心を1個つまんで口へ運ぶと、向かいのシュヴァルが箸を止めた。
「新田さん、やけどします」
俺はもう、点心をひと口で頬張っていた。熱い汁が舌に当たり、慌てて水へ手を伸ばした。
俺が水を飲んでいるあいだに、シュヴァルは自分の点心を取り皿へ移した。彼女は箸で皮を開き、少しずつ冷ましている。
「口の中、大丈夫ですか」
「大丈夫。次は待つ」
「はい。いつも、そう言って失敗しています」
俺も次の1個を皿へ移し、シュヴァルと同じように冷まして食べた。
窓の外を2階建てのトラムが通る。食べ終わったら乗ってみようと話すと、シュヴァルはスマートフォンで停留所を調べ始めた。
「明日は、練習施設を見せてもらえることになりました」
「事務所を通して紹介してもらった?」
「はい。瀬戸さんのお知り合いの方がいて。明後日は、現地の方と軽く走ります」
本人が香港へ来ると伝えたとき、事務所が瀬戸さんへ相談し、紹介してもらったらしい。知らないコースを見られるし、現地のウマ娘とも話せる。
シュヴァルは見学の予定を説明したあと、画面を戻した。そこには、俺が昨日送った店の場所が残っていた。
「新田さんは、明日も香港ですか」
「そろそろ次の町へ行こうと思ってる。まだ航空券を比べてるところだけど」
シュヴァルの指が止まった。俺もメニューを閉じて、彼女を見る。
「そっちは練習施設の予定を済ませてからでいいよ。また会えるところを考えよう」
「はい。予定は、ちゃんと済ませます」
そこだけ、はっきりした声だった。
俺も、彼女の知らないところで進んでしまわないようにしよう。行き先が決まったら写真を送ると伝えると、シュヴァルはうなずき、残っていた点心を口へ運んだ。
*
トラムの2階では、シュヴァルが先に窓側へ座った。
細い階段を上がってきた俺も、隣へ腰を下ろす。窓のすぐ向こうを看板が通り過ぎた。下の道路では、車がトラムと同じくらいの速さで進んでいる。
「昨日の写真、家族にも送った?」
「はい。姉さんと、妹のヴィブロスにも」
「喜んでた?」
「トレーナーに会えてよかったねって。それから、香港の写真も見たいって」
シュヴァルが、写真の入った画面を開いた。
海を指している俺。窓の外を見る俺。ホテルの前で手提げを返している俺。最後のものは、スマートフォンを出していることにすら気づかなかった。
指で送ると、船の乗り場が出てきた。やっと香港の景色だ。その次は、埠頭へ向かって歩いている俺だった。
「香港、あんまり写ってないな」
「新田さんの後ろに、写っています」
「俺がいない香港の写真は?」
シュヴァルは画面を戻した。乗り場の写真を出し、少し考えてから、もう一枚を探す。ビルの間から海が見えるものだった。
「これは、迎えに来てもらう前に撮りました」
「2枚?」
「……今から、撮ります」
シュヴァルはカメラを開き、窓へ向けた。
俺はその横顔を見ていた。初めて来た外国だ。昨日は駅で迷ったし、まだ町もほとんど見ていないだろうに、海を撮る前に俺を撮るのか。
シャッターの音がしたあと、シュヴァルが画面をこちらへ向けた。
「撮れました」
「君の写真も、撮ろうか」
手を出すと、シュヴァルはスマートフォンを渡してくれた。窓を背にしてもらう。俺がカメラを構えると、彼女は帽子の位置を直した。
「シュヴァル、顔を上げて」
そのとおりにしたが、口元が固く、目線が泳いでいる。撮ったものを見せると、シュヴァル自身も少し眉を寄せた。
「……もう一度、お願いしてもいいですか」
「うん。さっき、窓を見てたときは楽しそうだったよ。そんな感じで」
シュヴァルが俺を見た。少しして、頬が緩む。
そのまま撮った。2枚目を見せると、今度はすぐに保存してくれた。
「これ、送ります」
「うん。俺ばかりじゃなくて、君も旅行してるって分かるものを送って」
シュヴァルは家族へ写真を送り、俺の方へ少し座り直した。2人の肩が触れる。
通路側は空いている。俺がそちらへ寄ると、シュヴァルも同じだけ寄ってきた。
「窓の方、狭かった?」
「いえ」
俺はもう一度、窓と彼女の間を見た。それから、座り直すのをやめた。
*
香港を出たのは、翌朝だった。
候補の中では、バンコク行きの航空券が安かった。雨が続く町は別の機会にして、暖かいところへ行く。シュヴァルには、施設見学へ行く前に電話をした。
「飛行機が取れたよ。今日は別の町へ移る」
「はい。着いたら、お写真、お願いします」
「そっちの見学も楽しんで、練習も頑張ってね」
「ありがとうございます」
空港へ行き、飛行機に乗った。
バンコクへ着くと、香港で着ていた上着が邪魔になった。宿へ荷物を置き、川沿いへ出る。船が通るたびに水が大きく揺れ、対岸には白い塔が見えた。
ワット・アルン。近くまで渡ってみたかったが、今日はもう遅い。川の見える食堂へ入り、炒めた麺と飲み物を頼んだ。
料理と対岸の塔を一緒に撮り、シュヴァルへ送った。
『向こうの寺は明日。暑いから、渡るのは夕方にする』
返事は、飯を食べているあいだに届いた。
『見学、終わりました。明日は午前中に走ります』
現地のウマ娘たちと囲んだテーブルの写真も来た。シュヴァルが写っている。今度は、俺がいなくても楽しそうにしていた。
俺も料理を食べ終え、宿へ戻った。
翌日の夕方、舟の乗り場へ向かった。
切符を買う列を探していると、スマートフォンが鳴った。シュヴァルからだ。今日は走ってから、香港の町を見ているころかもしれない。
「どうだった? 現地の人と走ったんだろ」
「はい。コーナーの入り方が違っていて。あとで、お話ししたいです」
「うん。今は、どこ?」
「新田さんの、少し後ろです」
振り返った。
乗り場の屋根の下に、見慣れた帽子があった。俺を見つけたシュヴァルが、近づいてくる。
俺はスマートフォンを下ろした。
「シュヴァル」
「はい」
「香港は?」
「午前中まで、いました」
目の前のシュヴァルは、まだ電話へ答えている。俺が通話を終えると、彼女も画面を見て、鞄へしまった。
「今日は、迷いませんでした」
「今日は、国が違うんだよ」
そこまで言ってから、息をついた。シュヴァルが、帽子のつばへ手をかける。
「予定は、済ませました。荷物も、ホテルへ置いてあります」
「午前中に走って、その足で空港へ行ったのか」
「はい。軽い練習だけだったので。施設の方に空港まで送ってもらいました」
先に荷物を持って施設へ行き、飛行機では休んだ。疲労が心配になったが、国内で遠征を重ねてきた本人が大丈夫だと言っているなら大丈夫なのだろう。
「昨日の写真で、また調べた?」
「塔の形で、ワット・アルンだと調べられたので。それから、航空券を見ました」
「ほかの町も候補にはあったんだよ」
「新田さんがいつも使う会社の便で、暖かいところだと、バンコクが安かったです。写真も合っていたので」
航空券を取るとき、俺もほぼ同じ順番で比べた。
「写真の窓から塔が見えていたので、泊まるのもこっち側かなって。夕方に渡るなら、まず、この乗り場へ来ると思いました」
「いつから待ってた?」
「30分くらいです。もう少ししたら、連絡しようと思っていました」
シュヴァルが3か月かけて準備した資料が、2か国目でも役に立っている。
シュヴァルは対岸を見て、また俺へ向き直った。昨日トラムで撮った写真より、ずっと表情が緩んでいる。
「会えました」
「うん。会えたな」
喜んでいる顔を前にすると、何を言おうとしていたか少し忘れる。俺も乗り場へ目を戻した。
「一緒に寺へ行こう。まだ見てないだろ」
「はい」
シュヴァルはすぐ財布を出した。俺が2人分の切符を買い、彼女から1人分の代金を受け取る。船が来ると、シュヴァルは俺より先に乗り口を確かめた。
足をかけたところで船が動き、俺は手すりを握った。シュヴァルも振り返り、手を出してくれる。
「こっちへ」
その手を借りて乗った。彼女が足を止めたので、俺も隣へ立つ。
「ありがとう。もう大丈夫」
「はい」
シュヴァルは答えたが、手を離さなかった。
席へ座るときにも、俺が先に通るのを待ち、そのまま隣へ腰を下ろした。つないだ手は、2人の間にある。
「シュヴァル、もう乗れてるよ」
「……はい」
手元を見てから、彼女は顔を上げた。
「このままでも、いいですか」
「着くまでな」
シュヴァルがうなずいた。手を置く位置を少し変え、窓の外へ目を向ける。肩も、また俺の肩に触れていた。
香港やバンコクへ来るほど会いたかったのは分かった。
でも、この距離の詰め方は、担当していたころと違いすぎるだろ。
*
寺を歩き終え、川のこちら側へ戻るころには、腹が空いていた。
昨日入った食堂を見つけ、2人で席へ座る。シュヴァルは料理の写真を指し、スマートフォンで調べた言葉を店員へ見せた。鶏肉を炒めた皿と、麺と、スープ。辛さは控えめにしてもらう。
「俺が辛いの苦手なのに食べすぎちゃうのも覚えてた?」
「はい。でも、僕も、少し控えめがいいので」
自分の分も考えている。それには安心して、俺も注文を任せた。
料理を待っているあいだに、今日の練習の話を聞いた。走ったウマ娘の名前や、コースの感触。話しているときのシュヴァルは、いつもどおりだ。もう一度行くなら、今度は少し強めに走ってみたいという。
それから、彼女が鞄を開いた。競技事務所からの連絡が届いている。
「旅行を続ける件も、お返事をいただきました」
「海外での滞在を延ばせる?」
「海外のレースを候補にして、練習する施設と現地のサポートを確保できれば。必要なときは、日本へ戻ります」
送られてきた日程を見せてもらう。国内のレースを無理に残して、外国から直前に飛び戻る予定にはなっていなかった。
「いつから相談してたんだ?」
「香港へ行く前に。最初の2週間を過ごして、それから、続けられるかを」
ここも、俺が知らないうちに進んでいた。
シュヴァルは画面を送った。海外のレースの候補が、いくつか並んでいる。その中に、以前打診のあったドバイの招待競走があった。
「ここで、走りたいです」
「芝2400mか」
「はい。国内の予定と比べていたんですけど、今なら、こっちへ行けます」
俺も日付を確かめた。最初に話が来たときは、まだ俺が担当だった。相手の映像も見ている。
「新田さんは、ドバイへ行くつもりでしたよね」
「行きたい場所には入ってる」
シュヴァルは少し黙った。料理が来たのでスマートフォンを脇へ置き、取り皿を渡してくれる。自分の分も取ったあと、もう一度俺を見た。
「走るところも、見てほしいです」
少し覚悟を感じる声だった。会いに来ることと、レースを見てほしいことは別だ。今日のうちに、どちらも俺へ伝えておきたかったのだろう。
「見に行くなら、行けると思う」
「最後の調整も、お願いできませんか。期間を決めて、お仕事として」
食堂の向こうで、船が桟橋を離れた。俺は机に置かれたスマートフォンを見る。事務所の連絡には、現地スタッフを紹介できることも書いてあった。
「詳しい条件を、送ってもらおう。仕事なら、ちゃんと考えるよ」
「はい」
シュヴァルはすぐに返事を送り、スマートフォンをしまった。それから、熱いスープの器を俺の方へ少し寄せる。
「これは、まだ待った方がいいです」
「分かってる。今度は待ってる」
シュヴァルは小さく笑った。俺も箸を取り、先に鶏肉を食べた。