トレーナーを辞めたらシュヴァルグランが激重になってしまった   作:Lagavulin

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トレーナーと一緒に行ける

 翌朝、シュヴァルが見せてくれた依頼書には、3日間の仕事が書かれていた。

 

 最後の調整、コースの確認、レース当日のサポート。招待競走の開催日も、現地の練習施設も、競技事務所が確認している。俺が日程を読んでいると、シュヴァルは報酬の欄を指した。

 

「30万円で、お願いしたいです」

 

 数字を見直した。3日分の固定報酬で、賞金の分配ではない。本人が払う条件になっている。

 

「多い多い多い。5万円でいい」

「……交通費を考えると、これでも少ないです」

 

 普段なら、俺が出した条件へ頷いてから、あとで気にしていることを話す。今回はすぐに返ってきた。彼女は依頼書を閉じず、俺の手元へ置いたままにする。

 

「飛行機も宿も、俺の旅行として払うんだ。遠征のために日本から呼ぶわけじゃない」

「でも、3日間は僕のために働いてもらうので。自分の旅行だからって、お仕事まで安くしないでください」

 

 シュヴァルは、事務所から受け取った仕事内容の一覧も開いた。走りを見る時間だけではない。相手の映像を確かめ、コースを見て、当日の対応まで頼みたいと説明する。

 

「その分は、ちゃんと払いたいです」

「30万円だと、俺のほうが受け取りにくいな」

「5万円だと、僕が頼みにくいです」

「10万」

「15万」

 

 値段を下げようとする俺と、上げようとする依頼主。隣の席へ運ばれた料理を避けながら、俺たちは同じ画面を見ていた。

 

「じゃあ、12万円。3日間、書いてある仕事を全部。飛行機と普段の宿代は自分持ちで、現地の登録や競技に必要な手配は事務所に頼む」

「……12万円ですね」

 

 シュヴァルは数字を入力したが、まだ俺を見ている。

 

「安くしすぎていませんか」

「それなら、仕事として引き受けられる」

「分かりました。ありがとうございます」

 

 着順に関係なく12万円。仕事をしていない日は、俺の収入はない。資格は残してあるので、正式な契約と現地の短期登録を整えてから始めることにした。

 

 シュヴァルは変更した条件を事務所へ送り、俺も内容を確認した。契約書が届くまでの間に、彼女が小さく息をつく。

 

「仕事中も、新田さんって呼んでいいですか」

「いいよ。3日だけ呼び方を戻すのも変だろ」

「はい」

 

 彼女は名前の欄へ『新田』と入力した。報酬の交渉をしていたときより、指の動きが少し遅かった。

 

 シュヴァルは事務所の返信を確かめ、そのまま航空券の画面へ切り替える。

 

「新田さんは、いつドバイへ行きますか」

「明後日くらいかな」

「僕も、その日にします。到着したら、また連絡してもいいですか」

 

 同じ日に発つのに、航空券はまた別々に取るつもりか。

 

 俺は椅子へ座り直した。香港では駅へ迎えに行った。昨日は、バンコクの乗り場で振り返ったらシュヴァルがいた。

 

 次も同じように会うなら、もう、探すところから始めなくていい。

 

「同じ便で行こう」

 

 シュヴァルの指が止まった。

 

「……一緒に、行っていいんですか」

「もう、最初から一緒に来ればいいだろ。そこまでして追いかけてくるなら」

「行きます」

 

 返事と同時に、シュヴァルが席を立った。向かい側から、俺の隣へ移ってくる。飲みかけの茶も、きちんと持ってきた。

 

 画面には、明後日の便が既に出ていた。俺がスマートフォンを出すより早い。

 

「なんで言う前から乗る便が分かってるんだ?」

「昨日、候補を出しておいたので」

「ドバイも?」

「はい」

 

 そこでシュヴァルが画面から目を離した。

 

「ドバイのあとも、ご一緒していいですか」

 

 膝に置いた手が、鞄の端を押さえている。航空券を見つけるときより、よほど返事を待つ顔だった。

 

「そのつもりで言ったよ。必要なときは日本へ戻ればいいし、レースの予定は、事務所とも相談しよう」

「はい」

 

 シュヴァルは茶をひと口飲んだ。カップを置いてから、画面を開き直す。

 

 俺が選んだ便の座席を確かめ、隣同士で取れることまで教えてくれた。

 

  *

 

 航空券は、それぞれが自分の分を払った。

 

 シュヴァルが2人分まとめて取れると言ったが、俺の旅行は俺の貯金で続けることは譲らなかった。ドバイの3日分も頼まれた仕事の報酬のみで、賞金が出るたびに俺へ入る仕組みにはしない。

 

 宿を調べ始めると、シュヴァルがいくつかのホテルを見せた。

 

 最初の候補は、俺の予算を大きく超えている。練習施設へ行きやすく、設備もいいらしいが、1泊の値段を見ただけで泊まる気がなくなった。

 

「君はここでもいいけど、俺はもっと安いところにする」

 

 シュヴァルは画面を戻した。

 

「僕も、同じところがいいです」

「じゃあ、2人とも泊まれるところを探そう。君が練習へ通いやすい場所で」

 

 条件を変えると、比較的手頃な宿が見つかった。駅から近く、現地のスタッフが車で迎えに来るにも困らない。

 

 部屋の種類を見ていると、シュヴァルが写真を指した。

 

「これは、ベッドが2つあります」

 

 俺も画面を見た。ツインの部屋だ。

 

「あるね」

「別々に寝られるので」

 

 別々に寝られる……?

 

 シュヴァルの声は小さかった。俺の返事を待ちながら、指だけは写真に置いている。

 

「つまり、同じ部屋を考えてたのか」

「……調べては、あります」

 

 俺は隣を見た。シュヴァルはこちらに目を向けようとしない。さっきから、いつもの頼み方で、別人のようなことを話している。

 

「今回は、別の部屋にしよう。俺も、さすがにまだ落ち着かない」

「はい」

 

 シュヴァルは答え、部屋の一覧へ戻った。それから、ホテルへの要望を入れられる欄を指す。

 

「隣の部屋を、お願いしてもいいですか」

「それなら、お願いしてみよう」

 

 そこは早かった。

 

 ホテルの予約を終えると、シュヴァルがドバイでの滞在予定を見せてくれた。レースまでの朝は練習がある。俺の仕事が始まるまでは、日本の施設で決めたメニューを使い、現地のスタッフに見てもらう予定だった。

 

 朝の練習が終わったあとに行ける場所も調べてあった。市場や港を歩くほか、砂漠のツアーもある。俺が行きたいと話した場所も入っていた。

 

「市場と港へ行く日は決めて、あとは現地で考えようか。何も予定を入れない日も欲しいし」

 

 シュヴァルは観光の予定が入っていない日を指し、俺を見た。

 

「その日も、お昼ご飯を一緒に食べて、そのあともご一緒していいですか」

「いいよ。昼飯のあとも、ホテルでゆっくりしよう」

「……よかったです。僕は、ホテルで休む日も、新田さんと一緒にいたいので」

 

「仕事のない朝は、君が練習してるあいだ、俺は寝てるかもしれないぞ」

「起こしません。練習が終わったら連絡します」

「じゃあ、昼飯から一緒に過ごそう。午後にどこへ行くかは、食いながら考えればいい」

 

 俺はレースの日程を確かめ、それから砂漠ツアーの予約画面を開いた。

 

「砂漠のツアーは、レースの翌日にしよう。俺も行きたかったから、2人で申し込もう」

「はい。2人分、取ります」

 

 シュヴァルはすぐにレース翌日の日付を選び、参加人数を2人にした。

 

  *

 

 ドバイへ着いてから、最初の数日は観光を楽しんだ。

 

 翌朝、シュヴァルは練習へ行き、俺は本当に二度寝をした。昼前に起きると、練習が終わったという連絡が来ている。

 

 ロビーへ降りたら、彼女も部屋から出てきた。隣の部屋にしてもらえたことを、今朝も嬉しそうに話す。離れるときにも、また明日と挨拶する前に、明日の昼飯の相談をしてくる。

 

 市場では香辛料を見て、港では船に乗った。シュヴァルは店員に話しかけられると、返事をするまで少し時間がかかる。

 

 値段を聞きたいときには、俺を見た。俺が代わりに尋ねると、礼を言って、買うかどうかは自分で考える。

 

 そういうところは、昔からのシュヴァルだ。

 

 食堂へ入ったときも、店員にどの席がいいか尋ねられると、言葉を探していた。俺が奥の席を選び、向かい側へメニューを置く。

 

 シュヴァルはそのメニューを取り、俺の隣へ座った。

 

「今日は、こっち?」

「はい」

 

 理由を聞くと、少し考えてから、窓の外を指した。

 

「同じ方を、見られるので」

 

 川側も壁側も、隣同士なら同じ方を見られる。本人はそれで十分らしく、俺の方へメニューを広げた。

 

「大きいパン、ありました」

「じゃあ、それと、肉の皿を頼もうか」

 

 写真を見ながら選んでいると、シュヴァルがこちらへ寄った。もう画面を一緒に見る必要はないのに、肩が離れない。

 

 俺はメニューを立て直し、注文する料理をもう一度指で確かめた。

 

  *

 

 契約が始まった朝は、俺も早く起きた。

 

 現地のスタッフと合流し、練習場でシュヴァルの走りを見る。時計を持ち、戻ってきた彼女へ感触を聞く。

 

「少し、脚を使う感じがあります」

「暑さは大丈夫?」

「はい。こっちの時間にも慣れました」

 

 それなら、最後の調整で無理に速くしなくていい。コースと相手の映像を確かめ、レースで使う分を残す。

 

 芝2400mの招待競走だった。前へ行くサンドリリーは、カーブの途中から速度を上げ、後ろを離すことが多い。

 

「君も近い位置にいたい。ただ、動いた瞬間に全部追いつこうとしないこと。直線でも伸びる余裕を残そう」

「はい」

 

 シュヴァルは映像を見直した。最後まで走り切った相手を見て、最初へ戻す。

 

「この人に、勝ちたいです」

 

 旅行の話をしているときとは、目の向け方が違う。俺も椅子を寄せ、もう一度相手の動くところを見た。

 

 当日は、シュヴァルが照明の入った芝を前にして靴紐を締め直していた。控室を出る前、彼女が俺を振り返る。

 

「新田さんは、どこで見ますか」

「スタンドの前の方。終わったら、こっちへ戻ってきて」

「はい」

 

 シュヴァルは扉へ手をかけた。そこで、もう一度こちらを見る。

 

「戻ったときに、いてください」

「いるよ。今日は仕事だし、それが終わっても、君と一緒に帰る」

 

 シュヴァルが控えめな笑顔でうなずいた。今度は扉を開き、外へ出た。

 

  *

 

 スタートすると、シュヴァルは中団へつけた。

 

 前にいるサンドリリーから離れすぎず、最初のカーブを回る。隊列が落ち着いてからも、すぐには外へ出さなかった。

 

 残り800mあたりで位置を上げる。その先で、サンドリリーも速度を上げた。先頭へ出て、後ろを離しにかかる。

 

 シュヴァルは3番手まで来たが、そこで少し差が開いた。

 

 俺は柵のそばへ寄った。彼女の腕は、まだ大きく動いていない。相手の背中を見たまま、カーブを回ってくる。

 

 シュヴァルは直線で前の1人を抜いた。

 

 そこから、脚の運びが変わった。1歩ごとにサンドリリーへ近づく。向こうも速度を上げたが、残り200mで肩が並んだ。

 

「シュヴァル!」

 

 俺が声を出すと、隣の客も柵へ寄った。サンドリリーが少し前へ出る。シュヴァルは下がらず、数歩で並び直した。

 

 先にゴールへ抜けたのは、シュヴァルだった。

 

 掲示板を見た。彼女の番号が1着に入り、着差は3/4馬身。俺は握っていた手を開き、控室の方へ戻った。

 

 水を持って待っていると、シュヴァルが来た。

 

 俺を見つけた途端、歩く速さが変わった。声をかけるより先に、すぐそばまで来る。

 

「勝ちました」

「うん。見てた。最後まで、よく」

 

 そこで、言葉が止まった。

 

 シュヴァルの両腕が、俺の体へ回った。帽子のつばが胸元に当たる。彼女はそれを外し、もう一度近づいてきた。

 

 俺は持っていた水を、横の台へ置いた。

 

「……シュヴァル?」

「勝ったところ、また見てもらえました」

「見たよ。ちゃんと見てた」

 

 俺も背中へ手を添えた。肩が早い呼吸に合わせて動いている。帽子を持つ手が、俺の上着を一緒に握っていた。

 

 スタッフが来て、少し手前で止まった。

 

 シュヴァルも気づいた。俺から顔を離し、そちらを見る。耳が下がって、頬まで赤くなった。

 

 しかし、回された腕はそのままだった。

 

「シュヴァル、人が来てる」

「……はい」

 

 言い終えてから、俺を見上げる。

 

「あと少しだけ、いいですか」

 

 スタッフへ、少し待ってもらえるよう伝えた。にこにこしながら親指を立てられたので、俺は会釈を返した。

 

 シュヴァルが腕を離してから、水を渡す。彼女は飲み、帽子をかぶり直した。それでも、俺のすぐ隣に立っている。

 

 サンドリリーが戻ってくると、今度はきちんと向き直った。通訳を挟んで、相手が手を出す。

 

「次は、私が勝つ」

「僕も、負けません」

 

 シュヴァルが握手をした。表彰へ呼ばれると、スタッフについていく。その途中で俺を振り返ったので、手を上げた。

 

 ステージでは、名前を呼ばれて前へ出た。大勢の拍手を受け、頭を下げる。さっき俺の前へ来たときとは違い、挨拶も落ち着いていた。

 

 短いインタビューもあった。通訳を挟んで、今日の走りを尋ねられる。サンドリリーが先に動いたところを説明すると、司会が次の質問へ移った。

 

「今は旅行もされているそうですが、レースのあとには、何をする予定ですか」

 

 シュヴァルはマイクを持ち直した。少し考えたあと、客席へ目を向ける。

 

「新田さんと、砂漠へ行きます」

 

 新田さん?

 

 司会もこちらを見た。シュヴァルが俺を見つけて、小さく手を振る。

 俺まで拍手してもらった。とりあえず頭を下げ、手を上げた。

 

「そのあとは?」

「まだ決まっていません。でも、次からは、一緒に行けるので」

 

 シュヴァルは、マイクを返す前にもう一度こちらを見た。頬はまだ赤い。俺が手を上げたままなのを確かめると、口元が緩んだ。

 

 彼女がステージを下りてから、現地スタッフと記録を確かめ、最後の仕事を終える。

 

 着替えたシュヴァルが出てきたので、2人で車へ乗った。ホテルへ戻るまで、直線でサンドリリーへ並んだところを何度か話した。彼女は、次はもう少し早く前へ出たいと言っていたそうだ。

 

 ホテルのベッドに横になって電気を消してから、これは外堀を埋められているのではないかという疑問を覚えた。

 

  *

 

 翌朝、契約した3日分の報酬、12万円が入った。

 

 退職してから、初めての収入だった。記録へプラスの数字を書き込み、ホテルのロビーへ降りる。今日は、2人で予約した砂漠のツアーの日だ。

 

 シュヴァルが先に来ていた。俺を見ると立ち上がり、隣へ来る。

 

「入金、確認したよ。ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございました。足りなければいつでも言ってください」

「言わない」

 

 仕事の挨拶を終えた。俺が窓の外を見ると、迎えの車が来ている。シュヴァルも外へ向かおうとして、それから一度足を止めた。

 

「今日は、お仕事じゃないですね」

「うん。砂漠を見に行くだけ」

 

 シュヴァルが、俺の手へ指を伸ばした。

 

 軽く触れてから、こちらを見る。俺は彼女の手を取り、ホテルを出た。

 

 車が街を離れると、建物が少なくなっていった。砂が広がり、遠くにも同じ色の丘が続いている。シュヴァルは窓の外を見ていた。俺も隣で景色を眺め、ガイドの話を聞く。分からないところは2人で尋ねた。

 

 車を降りると、思っていたより砂が細かかった。靴が沈む。砂丘を上がり始めてすぐ、俺の方が遅れた。

 

 軽々と歩いていたシュヴァルがこちらを振り返る。今度は、俺から手を出した。

 

「ここ、手を借りてもいい?」

「はい」

 

 彼女はすぐ戻ってきた。上がりやすいところへ俺を誘導し、足を置くまで待つ。軽く引いてもらうと、さっきより楽に進めた。

 

 頂上へ出て、息をついた。車が下の方に小さく見える。俺たちの足跡が、斜面に残っていた。

 

 シュヴァルがスマートフォンを出しかけたので、俺も鞄を開いた。

 

「今日は、俺の方でも撮ろう。2人で」

 

 彼女の手が止まった。俺はあとから上がってきたガイドへスマートフォンを渡し、写真を頼んだ。ガイドは2人で並ぶよう言ってくれた。

 

 カメラへ向き、姿勢を直す。

 

 シュヴァルがこちらを見たが、今日は、背筋を伸ばす癖は指摘しなかった。俺の腕に手を添え、少し寄ってくる。

 

 ガイドがカメラを構えて撮り終えると、スマートフォンを返してもらった。

 

 俺が画面を確かめると、シュヴァルがすぐ隣からのぞき込んだ。砂丘を背にした2人が写っている。彼女が思っていたより近くて、俺は腕のところを一度見直した。

 

「これ、送ってもらえますか」

「うん」

 

 送信すると、シュヴァルはすぐに保存した。新しいアルバムを作り、今の写真を入れている。

 

 名前をつけるところで、少し考えた。

 

「新田さん。ドバイのあとも、このアルバムでいいですか」

「いいと思うよ。これから一緒に回るんだし」

 

 シュヴァルが入力を終え、画面を俺へ見せた。

 

 『2人で世界一周』と書いてある。

 

「俺の方でも、そうしておこうかな」

 

 スマートフォンを操作し、同じ名前を入れた。シュヴァルは俺の画面を見てから、鞄へ自分のものをしまう。

 

 丘を下りるときもまた足場に迷ったので、どちらからともなく手をつないだ。彼女が少し前へ出て、俺の歩く速さに合わせ、砂の固いところを選んだ。

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