トレーナーを辞めたらシュヴァルグランが激重になってしまった 作:Lagavulin
イスタンブールの空港で、俺の荷物はすぐに出てきた。シュヴァルの旅行鞄は、最後まで出てこなかった。
回転する台の前から人が減り、残った俺たちは、同じ黒い鞄を何度も見送っている。シュヴァルが自分の荷物の写真を確かめ、近くの係員へ声を掛けた。
「すみません。荷物が、まだ」
英語の返事を聞いてから、彼女は俺を見た。俺も全部は聞き取れず、ゆっくり話してもらう。係員は別の窓口を示してくれたので、2人でそちらへ向かった。
窓口で、シュヴァルが荷物の引換証と航空券を出した。宿の住所も表示し、鞄を預けたときの写真を見せる。担当者は手元の画面を調べ、次の便で届く見込みだと説明する。
「今日は、ここで待たなくていいらしい。宿へ届けてもらおう」
「はい」
シュヴァルは書類に連絡先を入れ、俺の旅行鞄の持ち手へ手を添えた。空港を出るまで、俺の隣を歩く。
「大事なものは、全部こっちにあるか?」
「パスポートも、必要なものは持っています。練習着も1組あります。あとは、充電するものと」
「じゃあ、今日困るのは着替えくらいか」
「……はい」
落ち込んでいると思い、宿に着いたら必要な服を買おうと話した。シュヴァルは頷いたが、俺の荷物を一度見てから、またこちらを見る。
「新田さんの鞄には、着替え、ありますよね」
「俺のなら、あるよ」
「Tシャツを、1枚お借りしてもいいですか」
今日着る分の服なら、店で買えばいい。それを言う前に、シュヴァルが続けた。
「ちゃんと洗って、お返しします」
「サイズ、大きいぞ」
「大きいほうが、着やすいので」
普段、そんなに大きいものを着ていただろうか。それでも、借りたいと言っているので、宿へ着いたら出すことにした。
*
予約した宿は、坂の途中にあった。
荷物が少ないシュヴァルが俺の鞄を持ち上げ、石の段を越える。受付では俺が説明し、荷物が届いたら知らせてもらえるよう頼んだ。彼女は自分の部屋の鍵を受け取り、俺の部屋番号も確かめた。
俺は自分の部屋へ入り、洗濯済みのTシャツを出した。灰色の、何度も着たものだ。扉を開けると、シュヴァルが廊下で待っていた。
「これでいいか?」
「はい。ありがとうございます」
彼女は受け取り、肩のあたりを広げて見た。それから胸元へ寄せる。俺が店で買う服も考えようかと聞くと、シュヴァルはシャツを畳み直した。
「夕食は、これで行ってもいいですか」
「いいけど。練習着よりは普通の服だしな」
夕方、ロビーへ下りたら、シュヴァルが先に来ていた。俺のTシャツの袖を折り、黒いパンツに合わせている。裾は彼女には長いが、直さずにそのまま着ている。
俺を見ると立ち上がり、こちらへ来た。
「変じゃないですか」
「変じゃないよ。やっぱり少し大きいな」
「はい。着られました」
Tシャツはそこまで嬉しそうに報告する服でもないだろう。俺は同じシャツを空港で着ていた日のことを思い出したが、今見ると、違う服のように見える。
外へ出ると、シュヴァルは袖の折り返しを整えた。手首が見えるところまで上げ、俺の手へ指を伸ばす。
「今日は、こっちの手でもいいですか」
「左右は、どっちでもいいよ」
俺が手を出すと、彼女は握った。食堂を探して坂を下りる間、借りたシャツのことはそれ以上言わなかった。
*
翌日は、街を歩いた。
朝、シュヴァルは紹介された施設で身体を動かし、俺は荷物の問い合わせをした。鞄は空港へ着いたが、配達は午後になるという。ロビーでそのことを伝えると、彼女は持ってきた上着を腕へ掛け直した。
「夕方までには、戻れるようにしましょうか」
「宿の人に受け取りを頼んである。そこまで急がなくていいよ」
シュヴァルは俺の隣に立ち、外の通りを見た。今日も灰色のシャツを着ている。必要な服は昨夜買ったはずだった。
「新しい服は?」
「夜に着替えます。今は、これがいいので」
市場では、屋根の下に店が続いていた。俺が香辛料の山を見ていると、シュヴァルは隣の陶器の店へ目を向ける。
小さな皿が、棚に何枚も並んでいた。色の違うものを1枚ずつ眺め、店員に手招きされると、シュヴァルは足を止めた。
「見せてもらいたいの、ある?」
「あの、青いものを」
俺が店員へ頼むと、青い皿を出してくれた。シュヴァルは受け取り、模様を確かめる。別の皿も示されると、彼女はそれぞれの値段を携帯へ表示してもらった。
青い皿を選び、包んでもらう。俺のほうへ戻る前に、彼女は店員に礼を言った。その声は小さかったが、店員は笑って返してくれた。
「姉さんへの土産か?」
「はい。ヴィブロスには、別のものを」
店を出たところで、シュヴァルが紙袋を鞄へ入れた。俺は人の流れを避けて待つ。彼女が顔を上げたので、俺は次の通りへ歩き出そうとした。
「新田さん。手」
言われて、俺は手を差し出した。彼女は迷わず握る。
もう手を繋ぐことには慣れてしまったようだ。
俺が歩き始めると、シュヴァルは袋を持ち替え、隣へ来た。
昼は焼いた肉とパンを食べた。何が入っているのか分からない小皿も頼み、2人で少しずつ試す。シュヴァルは肉を気に入り、俺は豆をつぶしたものをもう一度頼んだ。
「新田さん、そればかり食べています」
「うまいんだよ。日本でも探したいな」
「帰ったら、一緒に探してもいいですか」
旅行中の次の店ではなく、帰ったあとの予定だ。俺はもう一切れパンを取り、頷いた。
「いいよ。店の名前、覚えておこう」
シュヴァルが料理を撮った。今度は、俺の顔も皿の端も、きちんと写真に収まっていた。
*
夕方に宿へ戻ると、シュヴァルの鞄が届いていた。
シュヴァルは持ち手を確かめ、鞄を自分の部屋へ運んだ。しばらくして俺が廊下へ出ると、彼女も扉を開けた。服は買ったものへ替わり、借りたTシャツを腕へ掛けている。
「見つかってよかったな」
「はい。練習で使うものも、入っていました」
「じゃあ、もう困らないな」
シュヴァルが頷いた。シャツを見てから、俺の顔を見る。
「洗ってから、お返しするつもりだったんですけど」
「何かついた?」
「いえ。あの……まだ、借りていてもいいですか」
鞄は戻っている。必要な着替えもある。俺がそのことを確かめる前に、シュヴァルはシャツを腕から外して畳んだ。
「自分の服はあるんですけど。これも、持っていたいので」
普段なら、理由を聞かれる前に返す子だ。借りたものを抱えたまま、俺の返事を待っている。
俺は部屋の中にある着替えを思い出した。もう1枚あれば、洗濯の日は回せるだろう。
「じゃあ、あげる。そんなに気に入ったなら」
シュヴァルはすぐに礼を言おうとして、途中で声が止まった。少ししてから、もう一度顔を上げる。
「ありがとうございます。大事にします」
「普通に着て、洗ってくれ」
「はい」
彼女はシャツを自分の部屋へ置き、すぐに戻ってきた。
ロビーで明日の散歩の相談をしていると、シュヴァルの携帯が鳴った。姉のヴィルシーナからだ。俺も映っていいか聞かれ、席を寄せた。
画面の向こうのヴィルシーナは、届いた写真を見たと言った。ドバイでの勝利をもう一度祝い、次の出走予定も尋ねる。
「フランスの競走を検討しています。日程と条件は、事務所に確認してもらっています」
「分かったわ。体調も、ちゃんと報告するのよ」
「はい」
妹のヴィブロスが画面の端から顔を出した。市場の写真を見て、シュヴァルの服を指す。
「そのTシャツ、前から持ってた?」
シュヴァルが俺を見た。俺は荷物が遅れたことを説明しようとしたが、彼女のほうが先だった。
「新田さんに、いただいたんだ」
「へえ。そうなんだ」
ヴィブロスがこちらを見た。何か聞かれそうだと思ったところで、シュヴァルが携帯を持ち直す。
「僕から、お願いしたので。荷物も、もう届いたよ」
画面から目をそらしてはいるが、服を欲しがったことは隠さなかった。ヴィルシーナはシュヴァルを見てから、俺へ礼を言う。
「妹がお世話になっています」
「俺も、荷物を持ってもらったりしてるので。助かってます」
通話を終えると、シュヴァルはしばらく携帯を閉じたままにしていた。俺が明日の地図を出すと、彼女も隣から覗く。
「姉さんたちにも、新田さんって呼ぶの、聞かれましたね」
「そうだな。もう慣れた?」
「呼ぶのは、慣れました」
彼女は地図から俺へ目を戻した。
「新田さんが、ちゃんと振り向いてくれるので」
俺がその顔を見ていると、シュヴァルは先に明日の行き先を指した。市場とは違う、水辺の通りだった。俺は宿からの道を調べ、途中の食堂も保存した。