トレーナーを辞めたらシュヴァルグランが激重になってしまった 作:Lagavulin
ローマへ着いて最初に食べたものは、切り売りのピザだった。
具の違うものが並び、店員が指さした場所を切り分けてくれる。俺が四角い一切れを選ぶと、シュヴァルはもう少し大きいものを頼んだ。
「その大きさ、食べられる?」
「はい。今、すごくお腹が空いているので」
店の外の席で食べ始めると、彼女のほうが先に終わった。俺が皿を寄せて、別の具も食べるかと聞くと、シュヴァルは少し考え、ひと口分を取る。
「次は、こっちも頼みたいです」
「明日も来るか?」
「来ます」
その返事も、最初の旅行で聞いた同行の返事と同じくらい速かった。俺は店の場所を地図へ入れ、隣に明日の昼飯と書いた。
宿へ歩く途中、シュヴァルの携帯に、フランスの競走へ出走できると事務所から連絡が来た。パリ近郊の芝2400m。シュヴァルはドバイのあとも施設の指導を受け、次のレースに向けて練習を続けている。
「来週には、フランスへ入っておきたいです」
「じゃあ、ここでは3日くらい過ごして、途中の町を少し見ようか」
俺が地図を広げると、シュヴァルは持っていたピザの紙袋を捨て、隣へ来た。今は俺の鞄を引いてくれている。空いた手で、自分の携帯にも日程を入れた。
「次のレースも、お仕事をお願いしていいですか」
「日程と仕事内容が同じなら、前と同じ条件で。事務所に送ってもらおう」
「3日間で、12万円ですね」
「うん」
ここでまた30万円に戻されることはなかった。
「ちなみに、1日4万円って結構な大金だぞ」
「新田さんに頼むのなら、安いです」
「3日間じゃトレーナーらしいことも十分にしてやれないぞ」
「トレーナーらしいではなく、新田さんでないとダメなんです」
なぜそこまで。
彼女は会話を打ち切り、事務所へ返信を送る。それから、これから泊まる宿の画面を見せた。
「次の町のホテルも、調べました」
「早いな。どこがよさそう?」
写真には、細い通りに面した小さなホテルが写っていた。朝に使える練習施設へ通えて、俺が街を歩くにも便利な場所らしい。値段も、俺の予算に収まっている。
部屋の写真へ切り替えると、ベッドが2つあった。
「……前にも見た形だな」
「ツインです」
シュヴァルは画面を戻さず、俺を見た。鞄を引く手も止まっている。俺たちは通りの端へ寄った。
「僕は、同じ部屋に泊まりたいです」
安くなるから、と言われると思っていた。だが、シュヴァルは先に希望を伝え、そのあと、ベッドの間に小さな机がある写真を出した。
「寝る場所は、別々なので。前に、まだ落ち着かないって言われたのは、覚えています」
「覚えてるか」
「はい。だから、もう一度だけ、聞こうと思って」
彼女は、別々の部屋を取る場合の値段も調べていた。画面には、どちらの候補も保存されている。俺が断ったら泊まる場所がなくなる、という話ではない。
ドバイでは、俺が部屋へ戻るたびに、シュヴァルも隣の扉へ入った。休む時間は別々に取れる。それでも、翌日のことを話すために、またロビーへ下りていた。
ここ数日は、朝飯を食いながら次の町を選び、昼に別々の用事を済ませ、夕方には合流する。仕事を頼まれる日より、何もしない日のほうが多い。
「部屋へ戻ったあとも、一緒にいたいんだな」
「……はい」
シュヴァルの返事が小さくなった。写真を調べているときは説明できたのに、俺に理由を言われると、しばらくこちらを見られない。
トレーナーを辞め、学園を卒業したのなら、断る理由がないことに気づいた。
「今回、同じ部屋にしようか」
彼女が顔を上げた。
「いいんですか」
「明日の行き先も、部屋で相談できるし。地図を見るのに、毎回ロビーへ行かなくて済む」
「はい。……僕も、話したいです」
シュヴァルが画面を操作し始めた。途中で指が違う欄へ入り、予約のページから前へ戻ってしまう。俺が携帯を受け取り、日付と部屋を一緒に確かめた。
予約できたあと、彼女は確認の画面をもう一度見た。保存し、それから俺の鞄の持ち手へ手を戻す。
「荷物、持ちます」
「さっきから、持ってくれてるだろ」
「……そうでした」
俺が自分の鞄を引き取ると、シュヴァルは持ち手から手を離した。その手で、俺の空いているほうの手を握った。
*
ローマでは、よく歩いた。
古い建物を見て、通りを曲がり、地図に入れた場所まで行く。シュヴァルは前の晩に写真を見ていても、実物の大きさを確かめるたびに立ち止まった。
俺はその横で、説明の看板を読む。分からない単語を調べている間に、彼女が俺の鞄から飲み水を出してくれた。
「新田さん、休みませんか」
「まだ歩けるよ」
「でも、さっきの坂から、歩くのがゆっくりになっているので」
よく見られている。俺が日陰の席へ座ると、シュヴァルも隣へ腰を下ろした。休むために入った店で、彼女は冷たいものを頼み、俺はコーヒーを選ぶ。
「君は、まだ余裕があるんだろ」
「はい。でも、新田さんと一緒に見たいので」
俺が先に休んでいる間に、彼女が次の建物を見てくれば効率はいい。それを言おうとして、即座に選択肢を封じられた。シュヴァルは携帯を出し、今日撮った写真を2人で見る準備をしていた。
大きな建物の前に立つ彼女。俺が地図を見ているところ。ピザの店。まだ空いているアルバムの欄に、順番に入れていく。
休んでから、通りの先へ歩いた。俺の足が遅くなると、シュヴァルも歩く速さを変える。手をつないでいるので、わざわざ立ち止まらなくても伝わった。
*
次の町へは、列車で移った。
出発する前、俺は駅の表示を見てホームへ向かった。シュヴァルは少し後ろで切符を見直していたが、階段の前で俺を呼び止めた。
「新田さん。列車の番号が、違います」
俺が表示で見ていたのは、行き先の名前だけだった。同じ町へ向かう別の列車が出る。自分の切符を見直すと、出発時刻も少し違った。
「危なかった。ありがとう」
「こっちです。まだ時間、あります」
正しいホームへ移ると、列車が入ってきた。シュヴァルは車両の番号を確かめ、荷物を載せる。俺が追いつくまで、入口で待ってくれた。
「香港では、俺が出口を探したのにな」
「今日は、僕が見つけました」
彼女は少し笑い、隣の席へ俺の荷物を置いた。鞄を収納してから、2人で腰を下ろす。
列車が動き始めると、街の建物が後ろへ流れた。シュヴァルは窓を眺め、そのあとで、俺の肩へ自分の肩を寄せる。
今回は俺も動かなかった。彼女がこちらを見てから、もう少しだけ近づいた。
「眠い?」
「少し。でも、景色も見たいです」
「寝てもいいよ。気になったものは撮っておく」
シュヴァルは頷いたが、しばらくは窓の外を見ていた。畑と小さな町が続く。俺が携帯を構えると、彼女も同じ景色へ目を向けた。
町を抜けたあたりで、俺の肩に掛かる重みが変わった。顔をのぞくと、シュヴァルは目を閉じている。俺は写真を撮るのをやめ、鞄から上着を出して、彼女の膝へ掛けた。
*
予約したホテルで、鍵を2枚渡された。
シュヴァルが部屋番号を見て、俺の持つ鍵も見る。番号は同じだ。扉を開けると、写真で見た2つのベッドが並んでいた。
「どっちがいい?」
「僕は、こちらで」
シュヴァルは窓側のベッドを選び、旅行鞄を開いた。俺も自分の荷物をベッドの足元へ置いた。たったそれだけだが、今まで隣の部屋から聞こえていた物音が、すぐそばでする。
シュヴァルは自分の服を出したあと、あの灰色のTシャツを取り出した。さすがに俺の前で着替えるつもりはないらしく、洗面所へ持っていく。
夕食から戻って、翌日の練習時間を確かめた。彼女は朝に施設へ行き、昼には戻る。俺はその間に洗濯を済ませ、昼飯の店を探すことにした。
机へ座っていると、シュヴァルが冷蔵庫から飲み物を出し、俺の横へ置いた。自分の分を開けてから、ベッドの端へ座る。
「今日、ホームを間違えそうだったところ、写真を撮りました」
「撮ってたのか」
「はい。駅の写真を撮っていて。そのあと、番号が違うって気づいたので」
画面には、俺が表示を見上げているところが写っていた。自信のある姿勢で、違うホームへ向かっている。
「これは、家族へ送らなくていいぞ」
「……僕のところだけに、入れておきます」
消してくれとは言わなかった。代わりに、俺も列車の窓から撮った景色を送る。彼女は新しい写真を受け取り、画面を横にして眺めた。
俺が椅子を寄せると、シュヴァルも場所を空けた。しばらく2人で写真を選んでから、俺は机へ戻って翌日の地図を見た。
灯りを落とす前、シュヴァルがもう一度俺を呼んだ。
「新田さん」
「ん?」
「……おやすみなさい」
廊下でもロビーでもなく、隣のベッドから言われた。俺が同じ挨拶を返すと、彼女は掛け布団を引き上げ、横を向いた。
俺も灯りを消し、ベッドへ入る。しばらくしてから、暗い部屋で小さな声がした。
「今日は、ちゃんと言えました」
「何を?」
「一緒の部屋に泊まりたいって」
まだ、一緒の部屋に泊まる話を考えていたのか。俺は枕を直し、彼女のほうへ顔を向けた。
「聞けてよかったよ」
返事はすぐには来なかった。布団の動く音がして、それから、小さく礼を言われた。
*
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいるのを瞼の裏で感じる。染み付いた生活リズムで起きてしまったが、今日は二度寝してもいいだろう。
……近くに誰かいる?
寝返りを打つ。
「!!!!」
ガタッ!
大きな音がして目を開けると、シュヴァルはもう練習の支度を終えていた。入口近くで鞄を持ち上げ、扉のそばで靴を履いている。
「行ってくる?」
「……」
「シュヴァル?」
声を掛けると、彼女は後ろを向いたまま話す。
「お昼には、戻ります」
「じゃあ、店を探しておく」
シュヴァルは頷き、扉を開けた。俺が夢の世界へ戻る前に、彼女は帽子のつばを下げながらこちらを見た。
「行ってきます、新田さん」
「行ってらっしゃい」
急いでいたのか顔が赤かった気がする。
扉が閉まり、俺は携帯で昼飯の候補をメモしようかと思ったが、そのまま眠ってしまった。