トレーナーを辞めたらシュヴァルグランが激重になってしまった 作:Lagavulin
フランスへ着いた翌日、シュヴァルは練習施設の受付で俺を紹介した。
「今回、サポートをお願いしている新田さんです」
相手が俺へ手を差し出した。握手をして、事務所から送ってもらった登録内容を確かめる。今回も契約は3日間。報酬は12万円で、着順とは関係なく支払われる。
シュヴァルは俺の名字を呼ぶとき、少し声が小さくなった。それでも、名前の次に、何を頼むのかを説明できる。担当を移す書類の前で固まっていたときより、ずっと話が早い。
初日は走りを見て、本人の感触を聞いた。芝に水分が残り、ドバイより脚を使うという。午後には競走場へ行き、コースを確かめる。
俺たちの少し先を、地元のウマ娘が歩いていた。今回の出走相手、リュミエールポートだ。彼女はシュヴァルを見つけると、通訳のスタッフを連れて戻ってきた。
「ドバイのレースを見た。最後の直線、すごかったね」
「ありがとうございます」
シュヴァルが頭を下げる。相手はそのままコースを指し、ここでは自分も最後まで伸びると話した。
俺たちは映像で、リュミエールポートの走りを見ている。速い流れでも中団で待ち、前が疲れたところを捉える。地元のコースにも慣れている。
「勝ちたいので、ここの走り方も確かめに来ました」
シュヴァルが答えると、リュミエールポートは笑った。2人は並んで少し歩き、芝を踏んだ感触を確かめる。どこで仕掛けるつもりかは、どちらも言わなかった。
別れたあと、俺はシュヴァルと最後のカーブへ戻った。直線へ入る前に外へ出ると、距離を余計に走る。かといって、内で前が詰まれば、抜ける場所を待つことになる。
「前半から使いすぎないこと。動くときは、前が空く場所を見てから」
「はい。相手の動きも、見ておきます」
シュヴァルはもう一度コースを眺め、足元の芝を踏んだ。俺も隣へ立ち、相手の位置を想定しながら、当日の動き方を話した。
*
仕事が終わると、俺たちは同じホテルへ戻った。
翌日も予定どおりに調整を終えた。ホテルではシュヴァルが練習の記録を送り、俺は映像とメモを整理する。それぞれの用事を終え、夕食へ出ようと立ち上がると、彼女が俺の上着を渡してくれた。
「外、少し冷えています」
「ありがとう。君の上着は?」
「あります」
シュヴァルが自分のものを持ち、扉へ向かった。俺が鍵を取るまで待ち、それから隣へ来る。
近くの店でスープとパンを頼んだ。彼女は肉の皿も食べ、俺は温かい飲み物を追加する。試合の前だからと、会話を全部レースへ寄せるつもりはなかった。
シュヴァルは昼に窓から見た建物のことを話した。俺は帰りに寄れそうな通りを調べる。早く休みたい日でも、少しだけ外を見てから戻れる。
「あとで、あの通りまで歩くか」
「行きたいです」
食事を終えて店を出ると、シュヴァルが俺の手を取った。今は袖を引くより、手をつなぐほうが多い。
「新田さん。明日、お仕事が終わってからも、同じホテルですよね」
「予約は、明後日まで。そのあとは、次の町次第かな」
彼女は頷き、つないだ手を持ち替えた。そこまで確かめれば安心するのだと思ったが、次の言葉は少し違った。
「じゃあ、勝ったらお祝いを。負けたら、レースの話をしてもらえますか」
「どっちでも話すよ。飯も一緒に食う」
「はい。……それなら、ちゃんと走ってきます」
シュヴァルは前を向いた。俺たちは通りの角まで歩き、明かりのついた窓を眺めてから、ホテルへ戻った。
*
レースは、最初から少し速い流れになった。
先頭の2人が競り、後ろも大きく離れずに進む。シュヴァルは中団の内側へ入り、前を走る相手から間を空けすぎないようにしていた。リュミエールポートは、その2つ後ろにいる。
向こう正面へ入っても、先頭の速度はあまり落ちなかった。少し脚を使う芝だ。このまま前を追えば、最後の直線で余裕を失う。
大型画面でシュヴァルを見る。彼女は前を追い上げず、自分の位置を保っている。隣のウマ娘が外から進んでも、すぐにはついていかなかった。
最後のカーブへ近づくと、隊列が縮んだ。前の1人が速度を落とし、内側に空きができる。シュヴァルはそこへ入り、外へ大きく回らずに位置を上げた。
俺はスタンドの前へ寄った。直線へ出たとき、彼女は4番手。先頭からは、まだ2馬身ほどある。
シュヴァルが腕を振り、前の相手を抜いた。次の1人にも並ぶ。先頭も粘っていたが、残り200mで彼女の肩が前へ出た。
「シュヴァル、行け!」
その外から、リュミエールポートが来た。
途中で使わずに残していた脚だ。シュヴァルも速度を上げる。2人が並び、先頭が何度か入れ替わった。俺はゴールの線を見て、すぐに画面へ戻る。
先に通過したのは、リュミエールポートだった。
シュヴァルは2着。確定した差はクビ差だった。俺は最後の数歩を頭の中でたどり、携帯へ短くメモを入れた。
*
戻ってきたシュヴァルへ、水を渡した。
彼女はひと口飲んでから、俺を見た。声を掛けようとしたところで、先に言われる。
「最後、もう少し残せたと思います」
「カーブから直線に入るところか?」
「はい。前へ出られたので、少し早く上げました」
俺もメモを見せた。内から抜けた判断はよかった。そこから一気に先頭へ出た分、最後に相手が来たとき、もう一段上げる余裕が少なかった。
「次は、抜いてからも相手の位置を見たいです」
「そうだな。ただ、前が空いてる間に行きたい判断も分かる。映像で、どこまで待てたか見よう」
シュヴァルは頷き、もう一度水を飲んだ。悔しそうではあるが、俺から離れようとはしなかった。着替えの場所を確かめ、荷物を受け取り、それからこちらを向く。
「待っていてもらえますか」
「待ってる。戻ったら、ホテルで映像も見よう」
彼女は小さく頷き、スタッフと一緒に奥へ入った。
リュミエールポートが戻ってくると、俺にも挨拶をした。シュヴァルが出てきたところで、2人は握手をする。
「最後まで抜けるか分からなかった。次も走りたい」
「僕も。また、走りたいです」
シュヴァルは相手の顔を見たまま、手を握り返した。
「次は、僕が勝ちます」
通訳が伝えると、リュミエールポートは笑い、同じことを返した。表彰へ向かう相手を見送り、俺たちは記録の確認を済ませる。
競走場で必要な記録を送り、残る映像の確認はホテルですることにした。シュヴァルも自分の連絡を終え、俺の隣へ来る。
「ありがとうございました。お仕事の分は、予定どおりお支払いします」
「ありがとう。受け取るよ」
勝てなかったからといって、仕事がなかったことにはならない。俺がそういう話をする前に、シュヴァルのほうが契約を守ると伝えた。
帰りの車を待つ間、彼女は俺の袖へ指を掛けた。人が近くを通ると少し手を引きかけたが、結局、そのままでいる。
「今日は、負けたので。抱きついたら、変でしょうか」
俺は彼女を見た。ドバイでは、勝った勢いで近づいてきた。今日は周りへ目をやり、俺の返事を待っている。
「変じゃないよ」
シュヴァルが袖から手を離した。両腕を俺の身体へ回し、顔を近づける。俺も背中へ手を置いた。
「……悔しいです」
「うん」
「でも、新田さんがいて、よかったです」
俺はそのまま待った。彼女が息をつき、腕の力を少し緩める。車が来たとスタッフに教えられると、今度は自分から離れ、帽子をかぶり直した。
確かに、他のトレーナーではこういったメンタルケアを依頼できないかもしれない。
乗り込む前に、俺の手を取る。俺も握り返し、車の段差を上がった。
*
ホテルへ戻ってから、2人でレースの映像を見た。
シュヴァルは直線へ入るところを何度か戻し、自分が動いた場所を確かめる。全部見終えてから、携帯を置いた。
「次は、もう少しうまく走ります」
「見たいな。次も」
彼女が俺の顔を見た。俺はそのまま、今日の時計と着差を確かめ、記録を閉じる。
記録を事務所へ送り、契約した3日間の仕事を終えた。夕食へ出る前、シュヴァルは自分の鞄から灰色のTシャツを取り出した。
「今日は、これにしてもいいですか」
「君の服だろ。好きに着ていい」
彼女は小さく笑い、洗面所へ向かった。俺はその間に、翌日からの地図を開いた。
このまま北へ進むより、少し暖かいところへ行きたい。スペインには、港の近くで過ごせる町がある。移動の便と、彼女が使えそうな施設を比べる。
シュヴァルが戻ってきたとき、俺は机の椅子に座ったまま、携帯を差し出した。
「次、こっちへ行かないか」
彼女はベッドへ置いていた上着を取る手を止めた。俺の画面を見てから、空いている椅子を寄せ、隣へ座る。
「海の近くですね」
「うん。俺が寒いのを避けたいのと、君も港が好きだから。朝に使える施設もありそうだ」
「レースは、ありますか」
「候補は調べた。出られるかは事務所に確認してもらおう。今回は急がず、休む日も入れたい」
シュヴァルは画面を見つめていた。俺が便の候補へ移ると、彼女は自分の携帯も取り出し、日程を確かめる。
「新田さんから、誘ってもらえました」
「ずっと俺の行きたいところを調べてもらってたからな。今度は俺が」
俺は宿の候補も出した。人数は2人、部屋はツイン。彼女がその欄へ目を向けたので、俺も表示を確かめる。
「次も、同じ部屋でいいか?」
「はい」
返事はすぐだった。シュヴァルは宿の写真を保存し、事務所へ送る内容をまとめ始める。俺は明日の移動を確かめてから、夕食の店を開いた。
「今日は、ここへ行こうと思うんだけど」
料理の写真を見せると、シュヴァルが携帯を伏せた。今度は俺の手へ、自分の指を重ねる。
「新田さん」
「ん?」
「……好きな人と、ご飯を食べに行く日も、ちゃんと残しておきたいです」
俺は画面から彼女へ目を戻した。シュヴァルは視線を落としかけ、それでもこちらを見ている。指は、俺の手をつかんだままだ。
聞こえなかったことにはできない。俺は携帯を机へ置き、彼女の手を取った。
「じゃあ、レースのない日は、食事の予定から決めるか」
シュヴァルはしばらく俺を見た。それから頷き、つないだ手を自分の膝へ下ろす。俺も少しだけ椅子を寄せた。
「予約、2人で入れるよ」
「はい。僕、上着を取ります」
彼女が立ち上がるので、俺も手を離した。シュヴァルは上着を持ち、鏡の前で帽子を直す。俺が鍵を取って待つと、すぐに隣へ戻ってきた。
押しが強すぎる。