トレーナーを辞めたらシュヴァルグランが激重になってしまった 作:Lagavulin
トレーナーが仕事を辞めると聞いた夜、僕は家に帰ると、玄関で立ち尽くしてしまった。
学園を卒業して、3か月ほど。トレーナーとは卒業後も契約を続けていて、明日の練習にも、来月のレースにも来てもらえると思っていた。その予定を、今日から別の人と決める準備に入る。
あと3か月あるよ、とトレーナーは言った。新しいトレーナーの候補も、事務所と相談してあるらしい。
3か月後には、今までのようには会えない。
「シュヴァル。食事は?」
姉さんに声を掛けられ、玄関の鏡から顔を上げた。ヴィルシーナ姉さんは廊下の先に立っていて、僕の鞄へ目を向ける。
「何かあったの?」
「……トレーナーが、お仕事を辞めるって」
思考のループから脱すると、僕は靴を揃え直して姉さんのほうへ歩いた。
居間では、妹のヴィブロスがソファに座っていた。僕の話を聞くと、見ていた携帯を置き、隣を空けてくれる。座っても上着を着たままだったので、姉さんに言われて、ようやく脱いだ。
「どうして辞めちゃうの? 体調とか?」
「ううん。世界一周を、してみたいって」
「旅行?」
「前から行きたかったそうで。お金も、貯めていたから」
僕は鞄から、次の打ち合わせの日程を出した。姉さんはまず日付を確かめ、担当変更について書かれたところを読んだ。
「後任の方には、いつ会うの?」
「来週。瀬戸さんっていう方」
「事務所の方ね。施設も使えるはずだわ。話を聞いて、必要なら私も」
「僕は、移りたくない」
姉さんの言葉を途中で止めた。声が思っていたより大きくて、自分でも驚く。
ヴィブロスが僕を見た。姉さんは紙を机に置き、続きを待っている。普段なら、先に謝ってから、小さな声で言い直すところだ。
「瀬戸さんのこと、まだ何も知らないけど。でも、別のトレーナーを決めるのは、嫌なんだ」
「今のトレーナーさんがいいの?」
ヴィブロスに聞かれて、頷いた。すぐに姉さんが、退職したあとも見てもらえるかは別の話だと言う。
「旅行に出るなら、日本の練習には来られないわ。あなたが走り続ける方法は、考えないと」
「分かってる」
「シュヴァル」
「分かってるけど……」
紙に書かれた来週の日付を見た。トレーナーに会って、ほかの人にも会って、ちゃんと挨拶をすれば、次へ進めるようになっている。僕が頷けば、みんな、困らなくて済む。
トレーナーは旅行の話をするとき、すごく楽しそうだった。寒いところは短くして、海の近くでは長く過ごしたい。仕事で行ったことのある国にも、もう一度行ってみたい。食べられなかった料理や、時間がなくて乗れなかった船のことまで、覚えている。
よかったですね、と僕は言った。
そのあと、次のトレーナーの話が始まった。僕が寂しいと言ったら、旅行の話までしにくくなってしまう気がして、最後まで言えなかった。
「……トレーナーと、離れたくない」
僕は膝の上で手を握った。姉さんが口を開きかけたところで、もう一度言う。
「走りを見てもらえなくなるのも、嫌だけど。それだけじゃなくて。会えなくなるのが、一番、嫌なんだ」
ヴィブロスが隣へ寄った。僕の上着を畳みながら、顔をのぞき込んでくる。
「じゃあ、旅行も一緒に行きたいって言ったら?」
「……そんなの、言えないよ」
「どうして?」
「ずっと、楽しみにしていた旅行だから。僕がついていったら、また、練習とかレースのことを考えないといけなくなる」
朝に眠っていたくても、僕が走っていたら気になるかもしれない。行きたい町があっても、僕のレースの日程に合わせてくれるかもしれない。トレーナーなら、きっと、そうしてしまう。
僕は、その優しさを知っている。知っているから、頼めない。
「でも、会いに行きたい」
ヴィブロスの手が止まった。
「どこに?」
「トレーナーが、いるところへ」
「外国だよ?」
「うん」
「外国まで会いに行くのはできるのに、一緒に行きたいって言うのはできないの?」
僕は返事をしようとして、うまく言葉にできなかった。姉さんまで、こちらを見ている。
「……一緒にって言ったら、旅行全部を、僕のために変えてもらうことになるから」
「会いに行くなら、変えなくていい?」
「トレーナーが行きたいところへ、僕が行けば」
ヴィブロスは少し考え、僕の上着をソファの背に掛けた。
「会えたら、すぐ帰ってこられる?」
香港まで行って、顔を見て、挨拶をして帰る。トレーナーが次の国へ行くのを、空港で見送る。
それなら、最初から一緒に行きたい。
僕が黙っていると、ヴィブロスが小さく息をついた。
「もう、すっごく一緒に行きたいんじゃん」
姉さんが立ち上がり、台所から3人分の飲み物を持ってきた。僕の前へカップを置き、さっきまで紙を読んでいた席へ戻る。
「退職を取りやめてもらいたいの?」
「……それは、頼みたくない」
「走るのは?」
「続けたい。勝ちたいレースも、あるから」
そこは迷わず答えられた。姉さんとヴィブロスに勝ちたいと思っていた気持ちまで、なくなったわけじゃない。
姉さんは頷き、紙を僕の側へ返した。
「それなら、遠征として準備しなさい。使える施設、身体を見てもらう人、出走できるレース。事務所に相談することは多いわ」
「会いに行っても、いいと思う?」
「私が決めることじゃないでしょう。会いたいなら、あなたが決めて行くのよ。ただし、走るための準備まで、その方へ押しつけないこと」
僕はカップを両手で持った。温かい飲み物を少し飲むと、帰ってきてから初めて、喉が渇いていることに気づく。
「僕が、自分で準備する」
「うん。お姉ちゃんも、わたしも手伝うよ」
ヴィブロスが、また携帯を取った。旅行の費用を調べようとするので、僕も鞄から自分の携帯を出す。
「どこから行くって言ってた?」
「まだ、決めてないって。でも、香港は行きたいところに入ってる」
「ほかには?」
「バンコク。台北も。シンガポールで食べたいものがあるって。寒いところは、あとにすると思う」
僕が話すたび、ヴィブロスが検索する都市を変える。姉さんは少し離れたところで聞いていたが、香港の名前を出すと、知り合いのいる施設を確かめてくれた。
「よく覚えているわね」
「……前に、聞いたから」
「全部?」
ヴィブロスが顔を上げた。僕はすぐには答えられず、トレーナーとのメッセージを開く。
レースの話の間に、旅行の話がある。どの食べ物がおいしそうか、どの季節なら過ごしやすいか。見せてもらった写真を、僕は何枚も保存していた。
行き先は、分かるかもしれない。トレーナーが写真を送ってくれれば、調べられるかもしれない。
「旅行の話、そんなに好きだった?」
「トレーナーが、楽しそうだったから」
ヴィブロスは僕の携帯を見て、しばらく笑わなかった。それから、机の上の紙へ手を伸ばす。
「じゃあ、この打ち合わせも、ちゃんと行こ。自分で会いに行けるようにするために」
*
後任の瀬戸さんは、丁寧な方だった。
練習できる施設も、身体の管理を頼める人も、詳しく説明してくださった。僕の過去のレースまで見ていて、次にどこを目指したいか尋ねてくれる。
ありがとうございます、と僕は何度も言った。実際に助かる話ばかりで、どこにも不満はない。
それでも、担当を変更する書類に、自分の名前を書けなかった。
「僕は、別のトレーナーに移るつもりはありません」
言う前に、声が出るか心配だった。言ってしまうと、トレーナーの顔を見られた。困らせるのが怖くて、いつもなら目を伏せるところなのに、返事を聞くまでは、そうしたくなかった。
トレーナーは、辞めることをもう一度話した。今までのようには見られないと、はっきり言った。
僕は頷き、事務所の方へ向き直る。
「新しい担当を決めなくても、練習を続けられる方法を、事務所と相談します」
瀬戸さんは少し驚いていた。それから、自分が担当にならなくても紹介できる施設はあると、資料のページを戻してくださった。
僕はお礼を言って、その場所をメモした。トレーナーが席を立ったあとも残り、海外へ行く場合の手配を聞いた。
その日の帰り、姉さんに打ち合わせのことを伝えた。ヴィブロスにも、会いに行く準備を始めると送った。
航空券を直前に取ると、高くなる。宿のある町と、トレーナーがいる町が違えば、移動もしないといけない。旅行の費用とは別に、追いつくための予算を作った。
家へ帰り、100万円と入れた画面を、ヴィブロスに見せた。
「それ、旅行の分とは別なの?」
「うん。使わないで会えたら、残すから」
「何回、追いかけるつもり?」
「……会えるまで。次の町へ行ってしまっても、また買えるように」
「まだ、一緒に行きたいとは言わないの?」
僕はトレーナーとのメッセージを開いた。次の練習の時間が、いちばん下にある。
『旅行へ一緒に行きたいです』と打ち、それを消した。もう一度打ったあと、今度は送らずに携帯を置く。
ヴィブロスが、僕の顔をのぞき込んだ。
「もう、会いに行くほうが簡単そう?」
「……うん」
「飛行機には乗れるんだ」
「トレーナーに、会えるなら」
ヴィブロスは何か言いかけ、結局、僕の隣へ座った。航空券の画面を一緒に見て、乗り継ぎが少ない便を探してくれる。
トレーナーへ送る文は消したまま、僕は香港のページに印をつけた。