トレーナーを辞めたらシュヴァルグランが激重になってしまった 作:Lagavulin
スペインの海沿いに着いた翌朝、俺は目覚ましをかけなかった。
シュヴァルは練習施設で軽く走る予定がある。俺の用事は、昼に彼女と合流し、魚を食べることだけだ。朝に出ていくときも、ベッドから声を掛けた。
「行ってらっしゃい。終わったら連絡して」
「はい。……新田さん」
「ん?」
「帰ってきたら、起きていますか」
「たぶん」
シュヴァルが笑った気がした。扉が閉まり、俺はもう一度眠る。次に目を開けたときには、朝食の時間が終わっていた。
合流したシュヴァルにそう話すと、練習のあとに食べたものを教えてくれた。パンと卵、果物、それからもう1つパン。俺はそれを聞いて、昼飯を多めに頼むことにした。
港に近い店の外で、焼いた魚と野菜を食べた。シュヴァルは追加した皿から自分の分を取り、俺も遅い朝食を兼ねてパンを食う。店員が空いた皿を下げると、彼女が海のほうを指した。
「あの船、見に行きたいです」
「行こう。今日は歩くくらいしか決めてない」
岸に沿って歩いた。シュヴァルは停泊している船を見つけるたび、何に使うものなのか気にしていた。俺に分かるのは、観光客を乗せている船くらいだ。説明板を一緒に読み、知らない言葉を調べながら、少しずつ先へ進む。
途中の売店で、彼女が足を止めた。絵葉書が回転する棚に並んでいる。港の写真を選び、2枚を重ねて持った。
「姉さんと、ヴィブロスに」
「写真は送ってるんだろ?」
「はい。でも、ここから届くのも、いいかなと思って」
俺も1枚取った。船が大きく写っている写真だ。シュヴァルがそれを見て、今見てきたものと同じだと教えてくれる。
「俺も、旅の記録に買っておくか」
「……僕のと、同じですね」
シュヴァルは自分の絵葉書を裏返した。2枚のうち1枚が、俺の選んだものと同じだった。
「もう1枚、買っておこうかな」
「2枚送るんじゃないの?」
「はい。僕の分も、ほしくなったので」
棚からもう1枚取り、彼女は3枚分を支払った。俺が自分の1枚を買うと、シュヴァルは袋の中でも、残しておく分だけ別に挟む。
こういうところも、わりと欲張りだ。
*
午後は浜辺へ行き、靴を脱いで波打ち際まで歩いた。
水に足を入れるほど暖かくはない。引いた波のあとを選んで歩いていたが、大きな波が来て、俺は靴下まで濡らした。先に少し上へ逃げたシュヴァルが、俺の持っていた靴を受け取ってくれる。
「……さっき、波が大きくなるって言ったのにな」
「はい。新田さん、船を見ていましたね」
「波の音も聞こえてたんだけどな」
「僕の声も、聞いてください」
そう言ってから、シュヴァルが自分で照れた。俺は濡れた足を見下ろし、次はちゃんと逃げると答える。
砂の乾いたところへ戻って腰を下ろした。足を拭くものはあるが、すぐ靴を履く気にはならない。シュヴァルも隣に座り、彼女の帽子が風で浮くと、俺がつばを押さえた。
「帽子飛ぶぞ」
「ありがとうございます」
シュヴァルは帽子を脱ぎ、膝へ置いた。それから、俺の肩に自分の肩を寄せる。
「寒い?」
「少し。でも、もうちょっと、ここにいたいです」
俺は上着の前を閉め、座る位置を彼女へ近づけた。シュヴァルは肩を離さず、遠くの船を見ている。俺も海へ目を戻し、靴下が乾くのを待った。
結局、靴下は脱いで鞄へ入れた。靴だけ履いてホテルへ戻ると、受付の人が俺の足元を見て、海へ入ったのかと聞いてきた。
入るつもりではなかったと説明している横で、シュヴァルが笑いをこらえている。部屋へ入ってから聞くと、船を見たまま動かなかった俺のことを思い出していたという。
「そこは、もう少し必死に呼んでくれても」
「新田さん、来ますって、言いました」
「波が来るってことだったのか」
「ほかに、何が来るんですか」
もっともなことを言われた。俺が濡れた靴下を洗っている間に、シュヴァルは絵葉書を書き始めた。
*
夕食を済ませて部屋へ戻ると、歩いた分だけ眠くなった。
シャワーを浴び、窓の近くのソファに座る。シュヴァルも着替えを終え、髪を乾かしてから俺の隣へ来た。彼女が着ているのは、イスタンブールで俺から渡した灰色のTシャツだ。
昼に買った絵葉書を見せてもらった。2枚とも書き終え、明日送るらしい。俺の足が濡れた話まで書いてある。
「そこは、俺が格好よく船の説明をしたことに」
「分からない言葉、一緒に調べましたよね」
「調べたな」
シュヴァルが絵葉書を机に置いた。ソファへ戻ってきたが、隣へ座る前に、俺の膝を見る。
「新田さん。少し、お願いしてもいいですか」
「どうした?」
「膝枕を、してほしいです」
俺は座った姿勢のまま、彼女を見上げた。シュヴァルは立っている。自分の枕を持ってきたわけでもない。
「俺が、君の頭を膝に乗せるんだな?」
「はい。僕が、横になります」
「念のため聞いたけど、そうか」
ソファの背から身体を起こし、座り直した。彼女が横になれるよう、隣に置いていた鞄を床へ下ろす。
シュヴァルはすぐには寝なかった。空いた場所へ座り、俺の膝と顔を見比べてから、帽子を机の端へ置く。
「……本当に、いいんですか」
「そのつもりで鞄をどけたよ」
彼女は頷き、身体を横へ倒した。俺の太腿に、シュヴァルの頭が乗る。ソファに収まるよう脚を曲げ、耳を背もたれへぶつけない位置に落ち着くと、ようやく息をついた。
俺は手の置き場に困って、しばらくソファの端をつかんでいた。シュヴァルがこちらを見上げているので、顔をのぞき込む。
「寝づらくない?」
「大丈夫です」
「俺は、思ったより落ち着かない」
「……もう少し、していてほしいです」
声は小さいが、頭を戻そうとはしない。俺が頷くと、シュヴァルは頬を少しだけ俺の脚へ寄せた。
「髪、少し服に引っかかってる」
「直してもらえますか」
頭の横に手を置き、指で髪を整えた。彼女が目を閉じるので、同じように何度か整える。
海外まで会いに来た相手が、今は俺の膝から動きたがらなくなってしまった。自分から頼んだくせに、顔は少し赤い。俺も、どこを見ていれば自然なのか分からず、髪へ目を落とした。
「日本にいたころも、こういうこと、したかった?」
シュヴァルが目を開けた。すぐには答えず、俺の袖を指でつまむ。
「……はい。でも、練習のあとに、お願いしていいことじゃないと思っていました」
「まあ、練習場のベンチでは困るか」
「お休みの日に、会えたらって」
俺は髪を撫でる手をゆっくり動かした。休みの日に、彼女から誘われたことは何度かある。レースの映像を見たいとか、新しい靴を確かめたいとか、理由はいつも競技に関わるものだった。
「レースのない日も、毎日会いたかったです。でも、お仕事でもないのに呼んだら、困らせると思っていました」
「それで、靴を見る日に、昼飯も食いに行ったのか」
「……はい。まだ帰りたくなかったので」
俺はあのとき、ずいぶん腹が減ったんだなと思っていた。店を出てからも少し歩いたのは、靴の履き心地を確かめたいのだと。
「ご飯のあとも、もっと歩けたんですけど」
「俺が、明日の練習に響くって帰した?」
「はい」
シュヴァルが小さく笑った。俺は笑えず、彼女の髪を撫でていた手を一度止める。
「じゃあ、今日は同じ部屋だから帰さなくていいんだな」
「っ……」
「……シュヴァル?」
シュヴァルが俺の手首に触れた。撫でるのをやめた手を、自分の頭へ引き寄せる。俺がもう一度髪に触れると、彼女は満足したように目を閉じた。
窓の外で、車が通り過ぎる。俺は起きていたいのか、もう眠りたいのかを尋ねた。
「もう少し、起きています」
「眠くなったら、ベッドへ行こう。ここだと、俺の脚が先に限界を迎える」
「しびれたら、言ってください」
そこで起き上がる約束にはならなかった。
しばらくして、シュヴァルが机のほうへ手を伸ばした。俺が何を取りたいのか聞くと、携帯を指す。渡してやると、彼女は横になったまま画面を開いた。
「新田さん。明日の夜も、ホテルに戻ってきたら、ここに座りますか」
「椅子かもしれないけど」
「ソファに、しませんか」
俺の顔を見ずに聞いてくる。画面には、明日の予定が開いていた。
「膝枕の時間まで入れるのか?」
「……入れても、いいですか」
俺が返事をする前に、シュヴァルは携帯を胸元へ伏せた。さすがに急ぎすぎたと思ったらしく、俺の膝に頭を乗せたまま、こちらを見上げる。
「海で靴下を濡らさなかったら、考える」
「僕は、濡らしていません」
「俺が濡らさなかったら」
「じゃあ、明日は、僕が手をつないで歩きます」
シュヴァルがもう一度携帯を開いた。俺が髪を撫でている間に、明日の夜の予定へ、『新田さんに膝枕をしてもらう』と打ち込んだ。