ホグワーツの聖女――アスペンの杖は灰色の秩序を刻む 作:神切優羽
約1ヵ月ぶりの投稿になります!
誤字脱字がありましたら教えていただけると幸いです!!
世界の仕組みは、等しく美しく、そして残酷なまでに簡潔である――それが、ヴァレンティス家においてセラフィナが幼少期から学んだ最初の真理であった。
ロンドン郊外の静けさに包まれたヴァレンティス家の書斎。壁一面を埋め尽くす重厚な本棚には、古めかしい革装の魔法書と、マグル(非魔法族)の最新の物理学論文集が矛盾なく整然と並べられている。
「いいかい、セラフィナ」
眼鏡の奥の穏やかな瞳を緩めながら、父エイブラハム・ヴァレンティスは、机の上に置かれたガラス製の放電管を指さした。
彼はマグルのセカンダリー・スクール(中高一貫校)で物理学を教える教師であり、世界を「法則と数式」の観点から観察する男だった。
「不可解に見える現象であっても、そこには必ずエネルギーの変換と保存の法則が存在する。世界がどれほど複雑に見えようと、原因なき結果は存在しないんだ。魔法という力もまた、人間がまだ解明しきれていない高次の物理現象の一種に過ぎない。逃げずにその仕組みを正しく観察し、理解し、制御しなさい。仕組みを知る者だけが、真に己と大切な者を守ることができるのだから」
「はい、お父様」
十一歳のセラフィナは、波打つプラチナブロンドのおさげを揺らし、澄み渡るアイスブルーの瞳で深く頷いた。
一方で、母イザベラ・ヴァレンティスは聖マンゴ魔法疾患中毒病院で治療魔女(ヒーラー)として働く、ハッフルパフ出身の慈愛に満ちた女性だった。
彼女はセラフィナの髪を優しく撫でながら、温かな声でこう語りかけるのが常だった。
「そしてね、セラフィナ。どれほど高い知識や力を持ったとしても、それを振るう心に『優しさ』と『秩序』がなければいけませんよ。人の嫌がることをしてはいけません。規律を守り、困っている人に手を差し伸べなさい。正しくあることは、時に困難ですが、それこそが人に与えられたもっとも気高き光なのですから」
合理的な理屈を求める父親の知性と、無償の愛と倫理を説く母親の聖性。
二つの教えはセラフィナの中で矛盾することなく溶け合い、『完璧な少女』という美しくも調和のとれた存在を作り上げていた。
ただ一つ、この幸福な家庭に落ちる深い影を除いては。
書斎の暖炉の脇には、一枚の動かない写真が飾られている。
セラフィナによく似た、けれどどこか儚げな笑みを浮かべた少女――数年前にホグワーツ魔法魔術学校の在学中に亡くなった、一歳上の姉アリシアの姿だった。
学校と魔法省からの正式な報告によれば、彼女の死は「魔法の授業中に起きた、不慮のアクシデント」とされていた。
父も母も、悲しみに暮れながらもその説明を受け、二度とこのような悲劇を起こさぬよう、セラフィナに「魔法の完全な理解と自衛」を徹底させてきたのだ。
(お姉様……私はお父様とお母様の教えを守り、誰よりも正しく、完璧になります。二度と我が家に悲劇が起きないように)
写真の中で微笑んでいる姉に向かって、セラフィナは心の中で静かに誓いを立てるのだった。
◇ ◇ ◇
二階の自室で、十一歳になったばかりのセラフィナ・ヴァレンティスは、鏡の前に座っていた。
「……よし。完璧ですわ」
彼女は独り言を漏らし、手にしたブラシをドレッサーに置いた。
鏡の中に映る少女は、まるで精巧に作られた磁器の人形のようだった。透き通るような白い肌に、淡いアイスブルーの瞳。そして、背中まで流れるプラチナブロンドの髪。その髪を、彼女は一筋の乱れもなく整え、最後に一つの小さな装飾を施した。
銀のヘアピン。
小さな百合の紋章が刻まれたそれは、数年前に亡くなった姉、アリシアの遺品だった。
セラフィナはそのヘアピンを愛おしそうに撫でる。指先から伝わる冷たい金属の感触は、彼女にとって「正義」と「優しさ」の象徴だった。
姉のアリシアは、誰にでも分け隔てなく接し、庭に咲く名もなき花を愛でるとても優しい子だった。
「お姉様、今日こそ届くはずですわ。私たちの母校からの、あの手紙が」
鏡の中のアイスブルーの瞳が、希望に満ちてキラキラと輝く。
この時のセラフィナにとって、魔法界とは「悪を挫き、弱きを助ける」ダンブルドアのような英雄と、アリシアのような聖女が住まう、光り輝く理想郷だった。
セラフィナは身なりを最後にもう一度確認し、一階の食堂へと向かった。
食堂には、既に父であるエイブラハム・ヴァレンティスが座っていた。
「おはようございます、お父様」
セラフィナが明るい声で告げると、エイブラハムは新聞を閉じ、力なく微笑んだ。
「おはよう、セラフィナ。……ああ、そのヘアピンは」
「はい。今日という大切な日には、これをお守りにしたくて」
エイブラハムの瞳が、一瞬だけ痛ましいものを見るように揺れた。彼は娘の中に、死んだアリシアの面影を探し、そして見つけてしまう。その度に、彼の心には悲しみが蘇るのだ。だが、幼いセラフィナはそれに気づかない。
「お父様、ネクタイが少し曲がっていますわ」
セラフィナは父のそばに寄り、慣れた手つきで絹のタイを直した。
エイブラハムは娘の小さな手を見つめながら、掠れた声で呟いた。
「済まないな。……セラフィナ、お前は本当に良い子だ。アリシアが死んでから、この家を明るく保ってくれているのは、お前だけだ」
「当然のことをしているまでですわ。お父様は私たちを守ってくださっているのですもの。家の中では、私があなたをお守りしなくては」
その言葉は、純粋な献身だった。
その時、窓の外で羽ばたきが聞こえた。
灰色の中型のフクロウが、朝の光を背にして、食堂の窓枠に舞い降りた。
セラフィナの心臓が、早鐘を打った。
彼女は祈るような気持ちで窓を開け、フクロウの脚に結びつけられた厚手の封筒を受け取った。
ずっしりとした重み。
裏返すと、そこには見覚えのある紋章――獅子、鷲、穴熊、蛇が「H」の文字を囲むホグワーツ魔法魔術学校の校章が、赤い蝋で封じられていた。
「お父様! 来ましたわ!」
震える指で封を切る。
羊皮紙が擦れる乾いた音が、静かな食堂に響いた。
『親愛なるヴァレンティス嬢、このたびホグワーツ魔法魔術学校への入学を許可されましたことを、謹んでお知らせいたします……』
一文字ずつ、噛みしめるように読み進めるセラフィナの横顔は、喜びで上気していた。
彼女にとって、この手紙は単なる入学許可証ではなかった。それは、亡き姉が歩んだ道を辿る「あこがれの聖域」への招待状だった。
「おめでとう、セラフィナ」
父が彼女の肩に手を置いた。その手は温かく、しかし微かに震えていた。
「お姉様も喜んでいるわ、きっと。……私、お姉様と同じ、ハッフルパフに入りたいです」
「ハッフルパフか……」
エイブラハムは遠い目をした。
「アリシアは、あそこが一番『誠実で公平な場所』だと言っていたな」
「ええ。私も、誠実でありたい。お父様のように強く、お姉様のように優しく。そうして、ヴァレンティスの名に恥じない、価値ある魔女になりますわ」
セラフィナは手紙を胸に抱きしめた。
アイスブルーの瞳には、一切の迷いも、濁りもない。
彼女はこの時、心の底から信じていたのだ。
ルールを守れば救われるのだと。
正義は必ず報われるのだと。
そして、自分を愛してくれるこの世界は、完璧で、揺るぎないものなのだと。
◇ ◇ ◇
数日後、セラフィナは母イザベラに連れられ、学用品を揃えるためにダイアゴン横丁を訪れていた。
石畳の通りには多様な魔法道具や色鮮やかな商品が溢れ、大勢の魔法使いが行き交っている。
「まずは一番大切なものを選びに行きましょう、セラフィナ。あなたの生涯の伴侶となる『杖』をね」
母に導かれてやってきたのは、石畳の片隅に佇む埃っぽい小さな店――『オリバンダーの店:紀元前382年創業の高級杖店』であった。
店内に一歩入ると、独特の静寂と、微かな魔力の残り香が空間を満たしていた。
密集した小さな箱の山から、ひょっこりと姿を現したのは、薄い色の大きな目をした老店主、ギャリック・オリバンダーであった。
「おや、ヴァレンティス夫人……いや、今日はそちらのお嬢さんだな」
オリバンダーは、まるでセラフィナの魂の深層を見透かすような鋭い視線を投げかけた。
「澄んだ瞳だ。そして……なんという高潔で強靭な意志を秘めていることか。どれ、試してみよう」
オリバンダーは素早く棚から箱を取り出し、セラフィナに手渡した。
「ブナとユニコーンの尾毛、十一インチ。さあ、振ってごらん」
セラフィナは丁寧に杖を受け取り、ひと振りした。
しかし、先端から微かな煙が上がるだけで、しっくりとくる感触はない。
彼女はすぐさま手首の角度と腕の曲げ伸ばしの軌道を頭の中で幾何学的に計算し直し、魔力の出力と伝達効率を修正してもう一度振ったが、やはり明確な反応は得られなかった。
「ふむ、器用だが杖が選んでいるわけではないな。ではこれはどうだ? カエデと不死鳥の羽、十二インチ」
二本目、三本目……セラフィナは出される杖を次々と試した。彼女の論理的な思考は、杖ごとの魔力伝達効率や抵抗感を正確に分析していたが、どれも彼女の芯にある「何か」と共鳴しない。
やがて、オリバンダーは深く息を吐き、奥の棚から一筋の光を放つような細長い箱を恭しく取り出してきた。
「まさか……いや、これかもしれない。実に気高く、そして容赦のない気質を秘めた一品だ」
開けられた箱の中には、白磁のように美しい滑らかな木肌を持つ杖が横たわっていた。
「アスペン――ヤマナラシの木だ。芯材はドラゴンの心臓の琴線。十二と四分の三インチ、極めて硬い」
オリバンダーは真剣な眼差しで語り継いだ。
「アスペンの木で作られた杖は、彫刻のように美しく、白く、何よりも『強固な意志』と『決闘の才能』を持つ者を好む。かつて一八世紀に存在した高名な秘密決闘クラブ『銀の槍(The Silver Spear)』では、このアスペンの杖を持つ者だけが入会を許されたと言われている。極めて高潔な理想を抱き、それを力で果たす者にしか従わぬ、誇り高き白き槍だ」
セラフィナがそっと指先を差し伸ばし、アスペンのグリップに触れた――瞬間。
凛とした冷気が、彼女の指先から腕へ、そして全身の神経へと一瞬で駆け抜けた。
次の瞬間、アスペンの杖の先端から、直視できないほど澄み渡った『純白の閃光』が奔流となって室内を照らし出した。
それは部屋の埃を瞬時に吹き飛ばし、まるで研ぎ澄まされた銀の槍が空間を穿つかのような、鋭く美しい魔力の波動だった。
「おお……素晴らしい!」
オリバンダーは感嘆の声を漏らし、静かに手を打った。
「素晴らしい、見事な一致だ! アスペンの杖がこれほど明確に主人を認めた瞬間を見るのは、何十年ぶりだろうか。セラフィナ・ヴァレンティス……お前の意志が揺るがぬ限り、その杖は頼もしい相棒となってくれるだろう」
セラフィナは手に馴染む白きアスペンの杖を見つめた。
手に伝わる冷たくも心地よい魔力の振動。それは彼女の持つ「徹底的な合理性」と「純粋な正義感」に寸分違わず適合していた。
「ありがとうございます、オリバンダー様。大切にいたします」
セラフィナは優雅に淑女の礼を執り、アスペンの杖を胸元に抱いた。
◇ ◇ ◇
「素晴らしい出会いでしたね、セラフィナ。次は学校指定の制服――ローブを仕立てに行きましょう」
「はい、お母様」
次に向かったのは、色とりどりの衣装が飾られた『マダム・マルキンの洋装店』であった。店内に足を踏み入れると、様々な色の生地や宙を飛ぶ裁縫針が飛び交い、活気に満ちあふれている。
「ホグワーツの新入生さんですね? ちょうど今、もう一人仕立てているところですよ」
ふくよかな笑顔を浮かべたマダム・マルキンが奥へと案内する。そこには、サイズ合わせのための小さな足台が二つ並べられており、片方には黒髪にくしゃくしゃの寝癖をつけ、大きすぎる服を着た小柄な男の子が、少し緊張した面持ちで立っていた。
「あら、ごめんなさいね。お隣へどうぞ」
セラフィナは優雅に会釈し、隣の足台へと滑らかな動作で上った。マダムが手際よく長衣を頭からかぶせ、ピンで長さを整え始める。
隣の男の子は、姿勢一つ崩さぬ完璧な立ち姿を保つセラフィナを、気後れしたような、どこか圧倒されたような眼差しでちらりと見上げた。丸い眼鏡の奥にある緑色の瞳は、魔法界の何もかもに戸惑っているように泳いでいる。
(……足元の踏み込みが不安定で、肩に無駄な力が入っている。魔法界の文化に慣れていないのかしら)
セラフィナは観察眼を働かせつつも、威圧感を与えないよう柔らかく口元を緩め、隣の少年に語りかけた。
「こんにちは。あなたもホグワーツの新入生ですか?」
「あ……うん、そうだよ。僕はハリー。……ハリー・ポッター」
ハリーは自分の名前を名乗る際、少し身構えるような素振りを見せた。
しかし、セラフィナは「ポッター」という名前に過剰な反応を示すことなく、淑女の礼儀を守って小さく微笑んだ。
「私はセラフィナ・ヴァレンティスです。よろしくね、ポッターさん」
自分の名前に驚かれなかったことに、ハリーの緊張が目に見えて和らいでいく。
「ハリーでいいよ」
「では私のこともセラフィナでかまいませんわ」
そういうと二人は笑い合った。
「あの……セラフィナは、もう魔法のこととか、学校のこととか詳しいの? 僕は……実は、自分に魔法が使えるなんて、つい最近まで知らなかったんだ」
ぽつりと打ち明けられた言葉に、セラフィナのアイスブルーの瞳が優しく揺れた。
「そうなのですね。ですが何も心配することはありませんわ。魔法も、世界の物理的な理屈と同じで、仕組みを一つずつ理解していけば決して怖くはありません。分からないことがあれば何でも聞いてくださいね」
「本当……? ありがとう。僕、なんだかすごく安心したよ」
ハリーの顔に、今日初めての素直で温かな笑顔が浮かんだ。
ピン留めが終わり、二人は同時に足台から下りた。ハリーは照れくさそうに頭をかきながら、セラフィナに向かって手を差し出した。
「もしまた会えたら……また話をしてくれる?」
「ええ、喜んで。また会いましょう、ハリー」
セラフィナがその小さな手をそっと握り返すと、ハリーは嬉しそうに頷き、店を出て外で待っていた大男の元へと走っていった。
無防備で、あまりにも頼りなさげな少年の背中を見送りながら、セラフィナの胸には「正しく導き、守ってあげなければ」という、温かくも静かな使命感が芽生えていた。
◇ ◇ ◇
次に二人が訪れたのは、天井まで届く本棚に無数の書物がひしめく『フローリシュ・アンド・ブロッツ書店』だった。
セラフィナは指定教科書である『標準呪文集(1年生用)』や『変身術入門』を手にとり、目次と序文を素早く読み解いていった。
(魔力の指向性と手首の角度によるベクトルの変化……基本的な原理は、お父様が教えてくれた運動の法則と非常に親和性が高いわね)
教科書だけでなく、彼女は独自に「高学年向けの魔法理論書」や「魔力伝達効率に関する専門書」数冊を買い足した。魔法の構造を完璧に理解し制御するためには、1年生の知識だけでは到底足りないと判断したからだ。
◇ ◇ ◇
買い物の最後に足を踏み入れたのは、奇妙な鳴き声と羽ばたき音が響き渡る『高級魔法動物店』であった。
店内に並ぶ籠には、色鮮やかな鳥や珍しい小動物が所狭しと蠢いている。ハリーが買い求めたような立派なフクロウたちも並んでいたが、セラフィナの足は店の奥にある静かな一角で止まった。
そこにあった籠の中で、一匹の猫が静かにたたずんでいた。
毛並みは汚れ一つない美しい銀灰色。その猫は、周囲の喧騒に一切気を取られることなく、澄み切ったアイスブルーの瞳で、じっとセラフィナのことを見つめ返していた。
(……無駄な動作が一切なく、環境を静かに観察しているわ)
セラフィナがそっと指先を籠の隙間に差し入れると、銀灰色の猫は鳴き声一つ上げず、気品ある動作でセラフィナの指先に額をすり寄せた。
「この子にします、お母様」
「まあ、とても賢そうでおしとやかな猫ちゃんですね。お名前はどうするの?」
セラフィナは猫を優しく抱き上げ、その美しい銀の毛並みを優しく撫でながら微笑んだ。
「――シルヴィア。気品ある銀の毛並みを持つ、賢い子だから」
セラフィナの腕の中で、シルヴィアと呼ばれた猫は満足そうに小さく喉を鳴らした。
アスペンの白き杖、仕立て直した黒いローブ、深い知識が詰まった教科書、そして静けさを纏った相棒の猫シルヴィア。
必要なものをすべて揃えたセラフィナは、満ち足りた心地でダイアゴン横丁の石畳を後にした。純白の志を胸に抱いた少女は、ホグワーツという未知なる学びの舎へ向かう準備を完璧に整えたのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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