ホグワーツの聖女――アスペンの杖は灰色の秩序を刻む   作:神切優羽

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第2話:白の杖と空飛ぶ車の始業

ロンドン、キングス・クロス駅の9と4分之3番線ホームは、新学期の始まりを告げる独特の喧騒と熱気に満ち溢れていた。

 

深い赤色に塗られた蒸気機関車ホグワーツ特急の煙突からは、白い煙がたゆたい、晩夏の澄んだ空へと溶けていく。

見送りに訪れた保護者たちの賑やかな歓声、友人との再会を祝う生徒たちの甲高い声、そして籠の中から聞こえるフクロウたちの羽ばたきと鳴き声が混ざり合い、ホーム全体に鮮やかな活気を生み出していた。

その混雑のただ中を、セラフィナ・ヴァレンティスは静かな足取りで進んでいた。

深みのある濃紺の旅用ローブの裾を僅かに持ち上げ、滑らかな動作で人混みの隙間を縫うように抜けていく。

右手には、金属の留め具が美しく磨き上げられた革のトランクが握られていた。立ち振る舞いの一つひとつに無駄がなく、洗練された品格を漂わせる彼女の姿は、喧噪の中でも一際異彩を放っている。

特急の車内に足を踏み入れ、手頃なコンパートメントを見つけると、セラフィナはトランクを網棚へと収め、窓際の座席にそっと腰を下ろした。

まもなくして扉が軽くノックされ、聞き覚えのある声とともにエマとルーカスが入ってきた。

 

「セラフィナちゃん、無事に会えてよかったわ! 夏休みはどう過ごしていたの?」

 

「お久しぶりです、セラフィナ。お変わりないようで何よりだ」

 

エマの無邪気な笑みと、ルーカスの落ち着いた挨拶に対し、セラフィナはアイスブルーの瞳を緩め、優雅にお辞儀を返した。

 

「ええ、おふたりともお元気そうで何よりですわ。わたくしも、自宅でとても有意義な研究と家族との時間を過ごさせていただきました」

 

「本当? 私はね、家族とフランスの魔法街へ旅行に行ってきたの! これ、お土産のショコラよ。セラフィナちゃんにも食べてほしくて」

 

エマが嬉しそうに鞄から取り出した綺麗なリボン付きの箱を受け取り、セラフィナはそっと胸の前で手を添えた。

 

「まあ、素晴らしいお心遣いをありがとうございます、エマ。後ほど紅茶とともに喜んでいただきますわね。フランスでのご旅行はいかがでしたか?」

 

「それがね、街並みがとっても素敵で――」

 

エマが身乗り出して語る華やかな旅の思い出に、セラフィナは穏やかな相槌を打ちながら真摯に耳を傾けた。

 

隣に座るルーカスも、先期の実技課題や新学期の講義予定について落ち着いた口調で会話に加わり、狭いコンパートメントにはハッフルパフらしい穏やかで温かな時間が流れていった。

 

やがて会話が一巡し、エマが車内販売の魔女から買った『百味ビーンズ』や『カエルチョコ』の箱を賑やかに広げ始め、ルーカスも手元の羊皮紙のノートに目を通し始めた頃――セラフィナは静かに一言添えた。

 

「おふたりが寛がれているところ恐縮ですが、わたくしも少し、夏休みの実験の整理をさせていただいてもよろしいかしら?」

 

「ええ、もちろんよ! セラフィナちゃん」

 

「どうぞ。僕たちに気を使わずに」

 

友人たちの快い返答に優雅なお辞儀で感謝を伝えると、セラフィナは膝の上に真鍮のバックルで装飾された分厚い羊皮紙の書物――『古代ルーン文字による魔力回路の構造解析』をそっと開いた。

 

怪我ひとつない美しい指先が、流麗な挿絵の上を滑らかに滑り、繊細な文字を辿っていく。

 

友人への礼節を失うことなく、穏やかな静寂が訪れた車内で、セラフィナは自らの探求心と魔術理論の構築へと自然に意識を没入させていった。

 

◇ ◇ ◇

 

「セラフィナちゃん、本当に勉強熱心ね。列車に乗ってから、ずっとその難しい本を読んでいるわ」

 

向かいの座席に座るエマが、楽しそうに瞳を輝かせながら声をかけてきた。彼女の膝の上には、先ほど車内販売の魔女から買ったばかりの『百味ビーンズ』と『カエルチョコ』の箱が賑やかに並べられている。

 

「ええ、エマ。夏休みの間、自宅の工房で没頭していた実験の続きを整理したかったのですわ。本を読んでいると、時間の経つのを忘れてしまいます」

 

セラフィナは優雅な動作でページをめくる手を止め、氷のように澄んだアイスブルーの瞳をエマへと向けた。その柔らかな微笑みには、どこか他者を惹きつける気品と静かな温もりが宿っている。

 

「セラフィナの探求心には脱帽するよ」

 

隣の座席で姿勢を正して座っていたルーカスが、感心したように深く頷いた。

 

「僕たちの年齢なら、普通は新学期の期待や課題の不安で落ち着かないものだが……君を見ていると、まるで高名な学者と談笑しているような気分になる」

 

「お褒めいただいて恐縮ですわ、ルーカス。ですが、わたくしはただ、己の知識が足りないことを自覚しているに過ぎません」

 

セラフィナは穏やかな声で答えながら、そっと胸元のポケットに収められた白杖の柄に指先で触れた。なめらかで冷たいアスペンの木肌が、彼女の肌に密やかな信頼感を伝えてくる。

 

(1年生のときに痛感した、攻撃呪文の威力不足と詠唱速度の限界……。それを補うための『独自の構築』には、まだ基礎理論の補強が必要ですわ)

 

車窓の外には、見慣れたスコットランドの青々とした丘陵地帯と深緑の森が、滑らかな絵巻物のように後ろへと流れていく。

その時、コンパートメントの外の通路が急に騒がしくなった。

 

「おい、聞いたか? ポッターとウィーズリーが乗っていないらしいぞ!」

 

「本当か? 姿を見かけないと思ったら……列車を乗り過ごしたのか?」

 

廊下を通り過ぎる上級生たちの足音と、ひそひそ交わされる囁き声。エマが不思議そうに首を傾げ、手に持っていたカエルチョコを止めた。

 

「ハリーたち、乗り遅れちゃったのかしら? 大丈夫かしらね」

 

「まあ、彼らのことだから、単に寝坊したか時間を間違えたのだろう」

 

ルーカスが少し呆れたように肩をすくめる。セラフィナは二人の会話を静かに聞きながら、本を開いたまま視線をゆっくりと窓外の空へと向けた。

 

(ハリー・ポッターと、ロン・ウィーズリー……)

 

発車直前の9と4分之3番線ホームの光景を思い返す。車掌の笛が鳴り響く混雑の中、彼らふたりの姿だけが確かに存在していなかった。

 

(もし不測の事態でホームへ入れなかったのであれば、保護者の方へ連絡を乞うか、駅の手配で学校へ連絡を入れるのが、最も安全で理知的な判断ですわ)

 

彼らがどのような選択をするのかまでは、セラフィナには預かり知れぬことだ。だが、1年前の地下の仕掛けやクィレル教授の騒動を思い返せば、彼らが大人たちの想定を超える「無謀な行動」に出る可能性も否定できない。

 

(……どうか、無意味な危険に身を晒して怪我などをなさらないと良いのですが)

 

セラフィナの心に浮かんだのは、危険を顧みない同級生たちに対する静かな危惧と、懸念であった。

 

(まさか、また何かトラブルに巻き込まれた…?)

 

「セラフィナちゃん、一口食べる?」

 

エマが差し出してきたカラフルなビーンズの箱を見て、セラフィナは思考をやめ、ふっと微笑みを深めた。

 

「ありがとう、エマ。では、こちらの綺麗な青色のものをいただきましょうか」

 

「あ、それ……ハッカ味か、もしかしたら石鹸味かも知れないわ!」

 

「まあ、それは試練ですわね」

 

和やかな笑い声が狭いコンパートメントを満たし、車内の穏やかな時間が流れていく。外の騒がしさや他人の混乱に惑わされることなく、セラフィナは自らの品性と理知を保ちながら、白杖とともに深まる秋のホグワーツへと向かっていった。

 

◇ ◇ ◇

 

ホグワーツに到着する頃には、空は深い藍色に染まり、城の尖塔群が夜の静寂の中に黒いシルエットとして浮かび上がっていた。

大広間に足を踏み入れると、天井に浮かぶ無数のろうそくが温かな光を投げかけ、無数の銀の食器が眩しく輝いていた。新学期の始まりを祝う歓迎の宴。

新1年生たちの緊張した面持ちでの組分け儀式が無事に執り行われ、組み分けられた寮のテーブルへと進むたび、大きな拍手が広間を包み込む。

セラフィナはハッフルパフのテーブルでエマやルーカスと並び、ナイフとフォークを静かに動かしながら、洗練された礼儀作法に沿って食事を進めていた。

そして、誰にも気づかれないように彼女は離れたグリフィンドールのテーブルを見渡す。

 

(やはり、彼らの姿はありませんわね……)

 

グリフィンドールのテーブルでは、優秀な同級生であるハーマイオニー・グレンジャーが、どこか落ち着かない様子で周囲の空席を見つめている。

さらに教員席を見上げれば、寮監であるマクゴナガル教授だけでなく、スネイプ教授の姿も式の途中から姿を消していた。

何らかの不測の事態が起きていることは明白であった。だが、現状のセラフィナにはどうする事もできない。

彼女は食事を終えると、いつも通りの静かな佇まいで大広間を後にした。

厨房の近くにあるハッフルパフの温もりある地下寝室へ戻り、自室のデスクで旅の荷物を整理していた際、同じ寮の女子生徒たちが興奮した様子で部屋のドアをノックしてきた。

 

「セラフィナ、聞いたかしら? 上級生たちが話していたのだけれど……」

 

「ハリー・ポッターとロナルド・ウィーズリーが、空飛ぶ魔法の車で学校までやってきたらしいわ!」

 

「敷地内の『暴れ柳』に激突して車は大破、森へ逃げていって、ふたりは厳重注意を受けたんですって」

 

大ニュースと言わんばかりに興奮気味に伝える衝撃的な噂話。同寮の生徒たちは、他寮の重大な不祥事に対して驚きと心配の混ざった視線を交わし合っていた。

セラフィナは手元にあった羊皮紙を一枚、丁寧に折りたたんでデスクの引き出しへ収めると、静かに振り返って彼女たちの言葉に耳を傾けた。

 

「……空飛ぶ車で、学校の暴れ柳に、ですか?」

 

「ええ、本当よ! マクゴナガル教授とスネイプ教授に厳しく叱責されたみたいだわ」

 

興奮気味に語る同級生たちに対し、セラフィナは感情を荒らげることなく、穏やかで澄んだ声を返した。

 

「情報を教えてくれてありがとうございます。ですが、あまり根拠のない噂に惑わされないよう、わたくしたちは落ち着いて行動しましょうね」

 

生徒たちが納得して部屋を去った後、セラフィナは静かにドアを閉め、部屋の小窓から見える夜の庭園へ視線を向けた。

 

(……9と4分之3番線の柵が通れなかったのであれば、保護者の方へ連絡をとるか、ふくろうを飛ばして学校の指示を仰ぐのが、もっとも安全で理知的な手順でしたはずです)

 

彼女の胸に去来したのは、激しい怒りや攻撃的な感情ではなく、純粋な「疑問」と「静かな嘆き」であった。

なぜ、それほどまでに危険で目立つ手段を選んでしまったのか。未成年の魔法使いが、安全の保障されていない魔法の車で空を飛び、危険な魔法植物に突っ込むという行為の重さ。万が一の事故があれば、彼ら自身の命が失われていた可能性すらあるのだ。

 

(教員方のご対応も……今回もまた、罰則のみに留まってしまっていますわね)

 

1年前のクィレル教授の事件の際もそうであったように、学校の防衛システムや大人の管理体制は、事が起きてからでなければ機能しない構造的欠陥を抱えている。

生徒が重大な規律違反を犯し、危険に身を晒したあとで叱責する――それでは、真の意味で生徒の安全を守れているとは言えなかった。

 

(やはり、今のホグワーツの教員方に身を委ねるわけには参りませんわ)

 

セラフィナはローブのポケットからアスペンの白杖を取り出し、その滑らかな樹皮の感触を指先で愛おしむように撫でた。

周囲がどれほど揺れ動こうとも、己の理知を研ぎ澄まし、自らを護る力を高めること。それが、ヴァレンティス家の名に恥じぬ彼女自身のあり方であった。

 

◇ ◇ ◇

 

翌朝。高窓から差し込む秋の爽やかな光線が、大広間の長テーブルを明るく照らし出していた。

焼き立てのパンの香ばしい匂いと、新鮮な果物、温かいスープが並び、朝の郵便配達にやってきた無数のふくろうたちが上空を羽ばたいていく。

セラフィナはハッフルパフのテーブルでエマやルーカスと共に座り、上品な動作で紅茶のカップに手を伸ばし、エマが楽しそうに今日の授業予定について話しかけてきた。

まさにその時であった。

大広間の重厚な扉を突き破らんばかりの、凄まじい衝撃音が空間全体を揺るがした。

 

『――ロナルド・ウィーズリー!!』

 

空中で静止した鮮やかな赤い封筒――「吠えメール」が、耳を聾するほどの叫び声を撒き散らし始めた。

大広間にいた数百人の生徒と教員が一瞬にして言葉を失い、すべての視線がグリフィンドールのテーブルへと集まった。

 

『よくも車を盗んで飛んで行ったりしてくれましたね! あなたのお父様は魔法省で調査を受けることになりましたよ! 一歩間違えれば首です! どれだけ家族に迷惑をかければ気が済むのですか!!』

 

魔法で何倍にも増幅された母親の怒声は、大広間の天井を震わせ、壁に反響した。赤毛の少年ロン・ウィーズリーは、耳まで真っ赤にして身体を極限まで小さく縮めていた。

 

『ジニー、グリフィンドール合格おめでとう。――ロナルド、もしこれ以上少しでもおイタをしたら、すぐに連れ戻しますからね!!』

 

最後の脅迫めいた叫びを残し、赤い封筒は自ら激しい炎を上げて燃え上がり、テーブルの上に一握りの黒い灰となって崩れ落ちた。

静寂が訪れた直後、あちこちのテーブルから抑えきれない笑い声や囁き声が波のように広がっていった。

エマは目を丸くして驚き、ルーカスは困惑したように眉をひそめている。その中で、セラフィナは姿勢を崩すことなく、静かに紅茶のカップをソーサーへと戻した。

 

(公共の場で感情を爆発させても、事態の根本的な解決にはなりませんのに……)

 

彼女の瞳には、哀れみと悲しみの光が宿っていた。

家庭内での対話や教導であるべきものが、このような形で全校生徒の前に晒される不全さ。そして、それを娯楽のように消費する周囲の空気。始業早々に繰り広げられる一連の騒動に、セラフィナは静かな溜め息を胸の内に飲み込んだ。

 

(どのような環境にあっても、わたくしは我が身の品性と理性を失わないようにいたしましょう)

 

手元の白杖に密かな魔力を通わせると、アスペンの木肌が彼女の決意に応えるように、わずかな温もりを返してきた。

セラフィナは立ち上がると、ローブの皺を優雅に伸ばし、静かな足取りで最初の授業へと向かい始めた。




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