シャーレ所属の高校生医師は多忙   作:ミレニアムニキ

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この作品はフィクションです


着任早々死にかけのやつがいる件

学園都市キヴォトス。

銃弾が日常の挨拶代わりに飛び交い、砲弾が空中を交差するこの都市において、「傷を負う」という概念は他の世界とは大きく異なっている。

 

頭上に浮かぶ不可視の奇跡――『ヘイロー』を持つ生徒たちは、至近距離から突撃銃の全弾掃射を浴びようが、戦車の榴弾に吹き飛ばされようが、精ぜい「痛い目を見た」程度の擦り傷やたんこぶで済ませてしまう。彼女たちの肉体は神秘の防護に守られており、一般的な物理的衝撃に対して圧倒的な耐性を誇っていた。

 

故に、この街における「救護」や「医療」という概念は、どこか大雑把で、根性論に寄りがちな嫌いがあった。

 

だが――それはあくまで「外傷」と「生徒」に限った話だ。

 

どれほど頑丈なヘイローを持っていようと、過剰なストレスに晒されれば自律神経は狂い、徹夜を重ねれば免疫力は低下して風邪を引く。あるいは、ミレニアムの科学者たちが調合した怪しげな薬品や、原因不明の精神的な不調に対して、弾丸を弾く皮膚は何の役にも立たない。

 

そして何より――この街にただ一人存在する「大人」であり、シャーレの責任者である『先生』には、銃弾を跳ね返すヘイローなど存在しないのだ。

 

「……ハッ、まったく。弾丸を弾く頭を持った連中がゴロゴロいる街で、一番脆い人間が最高責任者なんて、何の冗談だよ」

 

学園都市の中央にそびえ立つ連邦生徒会本部ビル。その長い回廊を、一人の少年がだるそうに歩いていた。

 

肩から羽織った真っ白な白衣の裾が、歩くたびにゆらゆらと揺れる。

整った顔立ちには隠しきれない倦怠感が滲み出ており、少し長めの前髪の隙間から覗く瞳は、どこか冷めたような、それでいてすべてを見透かすような独特の光を宿していた。

彼の頭上に浮かぶヘイローは、一本の太い杖に一匹の蛇が巻きついたような、洗練されたデザイン――古代より医療の象徴とされる『アスクレピオスの杖』を模したものだ。

 

彼の名は、河井ケイジ。

理知と先端技術の集積地であるミレニアムサイエンススクールに所属しながら、機械工学や情報理論には見向きもせず、独学で現代医学を叩き上げた異端児である。

 

ミレニアムの生徒たちがAIやレールガン、新型ドローンの開発に血道を上げる中、ケイジだけは古今東西の解剖学書や生理学の論文を読み漁り、生体データの収集と臨床実験に没頭してきた。当初は「古典的な肉体構造に執着する変わり者」と冷ややかな目で見られていたが、過激な実験で体調を崩したエンジニア部の部員や、徹夜の連続で倒れたセミナーの役員を完璧な処置で救い続けていくうちに、いつしか「腕は確かだが口の悪い名医」として一目置かれるようになっていた。

 

そんな彼が、なぜ今、ミレニアムの校舎ではなく連邦生徒会の重厚な廊下を歩いているのか。

 

腰のホルダーに収まった、装飾の一切ない黒塗りのポリマーフレーム・ハンドガンの感触を確かめながら、ケイジは深くため息をついた。

 

数十分前、連邦生徒会の行政委員会室で交わされた会話が頭に蘇る。

 

『河井ケイジ君。ミレニアムからの推薦状、およびあなた個人の医学的実績に関する資料は拝見しました』

 

メガネの奥の目を鋭く光らせ、連邦生徒会首席行政官の七神リンは言ったのだ。

 

『現在、シャーレの「先生」にかかる負荷は限界を超えています。キヴォトス全域のトラブル処理に追われ、健康管理はおろか、ま激しい睡眠不足と栄養失調に陥っているのが現状です。……ですが、先生は普通の人間です。生徒たちの救護機関に預けるわけにもいきません。故に、現代医学に精通し、かつ高度な中立性を保てる「主治医」が必要なのです』

 

『……要するに、連邦生徒会の手に負えなくなった過労死予備軍の介護係を俺に押し付けたいってことですか? リンさん』

 

『表現は不適切ですが……否定はしません。これはシャーレの機能を維持するための必須事項です。連邦生徒会として、あなたにシャーレ専属医師としての特権と、十分な予算を保証します』

 

『はぁ……面倒くさいなぁ。俺、休日はシャーレのソファでダラダラ過ごすって決めてたんだけど』

 

『着任手当は通常の三倍出します』

 

『……交渉成立だ。ただし、俺の治療方針に文句は言わせないぞ』

 

思い返しても腹が立つ。

提示された条件と予算は確かに魅力的だったが、要するに自分は「いつ倒れてもおかしくない大人の命綱」としてシャーレに派遣されたのだ。

 

「医者なんてのは患者が来なきゃ暇なのが一番なんだよ。……まあ、どうせ行ってみたら、書類の山の中で目を白黒させた大人が転がってんだろうけどな」

 

ケイジはポケットから小さな紙包みを取り出し、中の物体を口に放り込んだ。

カチリと歯が鳴り、強烈な化学的甘味と合成カフェインの鋭い刺激が舌の上を駆け抜ける。ミレニアムの技術部が冗談で作った、試作品の超高濃度蛍光グミだ。激甘な味わいに顔を顰めることもなく、ケイジはそれをガリガリと噛み砕いた。

 

ガラス張りの連絡通路を渡り、シャーレの専用執務室のドアの前に立つ。

「シャーレ連邦捜査局」と刻まれた重厚なドア。

ケイジは白衣の襟を少しだけ整え、気怠げにドアノブに手をかけた。

 

「たのもー。今日から主治医兼、命の保証人として着任したミレニアムの河井ケイジだ……って、おい」

 

ノックもせずに足を踏み入れた室内は、惨状という言葉すら生ぬるい状態だった。

 

天井まで届きそうな書類のタワー。床一面に散乱した伝票とレポート。空になったエナジードリンクの缶が倒れ、冷め切ったインスタントコーヒーの酸っぱい匂いが充満している。

 

そして、その山積みになった書類の真ん中で――一人の男性が、デスクに突っ伏したままピクリとも動かなくなっていた。

 

「……ハァーッ」

 

ケイジは深く、長く、部屋の空気を全て吐き出すようなため息をついた。

白衣のポケットから診察用のペンライトと手袋を取り出しながら、静かな足取りで「先生」と呼ばれる男の元へと近づく。

 

「着任三分で緊急搬送一歩手前かよ。笑えないブラック職場だな、ここは」

 

---

 

「先生、聞こえるか? 返事はいらない、目を開けられるか?」

 

ケイジの口調から、先ほどまでの気怠さは完全に消え失せていた。

声のトーンは低く、平坦だが、相手の意識レベルを正確に探るための鋭さがこもっている。

 

返事はない。ただ、浅く早い呼吸音がかすかに聞こえるだけだ。

ケイジは迷いなく先生の首筋――総頸動脈に人差し指と中指を当てた。

 

(脈拍、毎分百十二。頻脈。触診による皮膚の乾燥……重度の脱水所見。眼球の不規則な揺れ)

 

すばやい手つきで先生の顔を持ち上げ、親指で下まぶたをサッと押し下げる。

 

(眼瞼結膜、著しく貧血様。白血)

 

「……急性疲労、自律神経失調、極度の低血糖、それに伴う軽度の脱水症状。……死んでないのが不思議なくらいだな」

 

ケイジはあきれ果てたように呟くと、肩に掛けていた無骨な医療バッグをデスクの角にドンと置いた。

ファスナーが一気に引かれ、中から整然と並べられた医療器具と薬品類が姿を現す。キヴォトスの生徒たちには滅多に使われない、完全な「人間用」の医療キットだ。

 

「よし、大人しく寝てろよ、先生。……というか、拒否権はないがな」

 

ケイジはデスクの上の書類を力任せに横へ押しやり、スペースを作ると、倒れていた先生の体を慎重に仰向けに寝かせた。

呼吸道を確保するため、シャツの第一ボタンを外し、ネクタイを緩める。

 

バッグから取り出したのは、ゴム製の駆血帯と、透明なパウチに入った生理食塩水、そしてブドウ糖液の点滴セットだ。

 

「キヴォトスの生徒相手なら『気合で治せ』で済むのかもしれないが、アンタの肉体はそうじゃない。……ちゃんと筋肉があって、血管が通ってて、叩けば壊れる普通の人間だ」

 

独り言のように呟きながら、先生の右腕を取る。

長時間のデスクワークで冷え切った腕。肘の裏側に指を当て、静脈の位置を探る。

 

駆血帯を先生の上腕に素早く巻きつけ、キュッと締め上げる。

「……血管が細いな。脱水のせいか」

ケイジの指先が、肌の上を軽やかに滑る。肘正中皮静脈の走行を一瞬で見抜き、アルコール綿を取り出して皮ふを中央から外側へ円を描くように消毒した。清涼感のあるイソプロパノール臭が部屋に漂う。

 

バッグから取り出した二十二ゲージの留置針。

透明なキャップを外し、針先の刃面が上を向いていることを確認する。

 

ケイジの瞳が、プロのそれに切り替わる。

無駄な動きは一切ない。先生の腕を左手で固定し、皮膚を軽く引っ張って血管を逃げないように固定すると、右手に持った針を十五度の角度で躊躇なく皮膚へ刺し入れた。

 

ぷすり、と小さな手応え。

内針のフラッシュバック小室に、赤黒い静脈血が逆流してくるのを確認する。

 

「よし、血管確保」

 

間髪入れず、外針(カテーテル)だけをスムーズに血管の奥へと進め、内針を引き抜く。駆血帯をワンタッチで解除し、留置針のハブに点滴チューブのコネクタを接続。サージカルテープを三枚、手際よく交差させて肌に固定した。

 

輸液バッグのクレンメを開く。

透明なチューブを通り、ブドウ糖と電解質の入った液体が、先生の静脈の中へと規則正しいリズムで滴下し始めた。

 

「ん……う……」

 

点滴が開始されて数分。絶え間なく体内に水分と糖分が供給され始めたことで、先生の眉間にしわが寄り、かろうじて意識が浮上してきたようだった。

 

ゆっくりと開かれた先生の瞳が、目の前に立つ見知らぬ少年の姿を映し出す。

白衣を着て、頭上に不思議なヘイローを浮かべた、精悍でイケメンな高校生。

 

「……あ、あれ……君は……?」

 

「声出すな。舌噛むぞ。……って言っても、もう大丈夫そうだな」

 

ケイジは腕を組み、デスクの端に腰掛けながら先生を見下ろした。

 

「初めまして、先生。連邦生徒会からの推薦で、今日からシャーレの主治医兼、専属カウンセラーとして着任したミレニアムサイエンススクール所属、河井ケイジだ。……見ての通り、死にかけたアンタの命を繋ぎ止めた恩人でもある」

 

「河井……君……? ああ、リンちゃんから言われていた……」

 

「そうそう、そのリンさんから『過労死しそうな大人の面倒を見てくれ』って頼まれてな。まさか着任一分で点滴打つハメになるとは思わなかったけど」

 

先生はかすむ目をこすりながら、自分の右腕に固定された点滴チューブと、頭上に吊るされた輸液バッグを見上げた。

 

「これ……点滴……? キヴォトスでこんな本格的な医療処置を受けたのは初めてだよ……」

 

「だろうな。こっちの生徒は銃で撃たれてもバンソウコウ貼って『痛かった〜』で終わるような怪物バケモノばっかりだからな。現代医学なんて廃れる一方だ。……だが、アンタは違う。血が流れるし、休まないと死ぬ。自分の身体をもう少し自覚しろよ、大人」

 

ケイジは呆れたように肩をすくめると、白衣のポケットに手を突っ込み、怪しい蛍光色に光る小さな個包装を取り出した。

 

「ほら、口開けろ」

 

「え? んぐっ!?」

 

拒否する間もなく、先生の口内に丸い物体が押し込まれた。

次の瞬間――先生の目が飛び出さんばかりに見開かれた。

 

「〜〜〜〜〜〜っ!? ぐ、甘っっ!? 何これ、激辛ならぬ激甘!?? 頭が割れそうに甘いんだけど!?」

 

「ミレニアムのエンジニア部がノリで作った試作品、『ネオン・ハイパー・タウリン10000』だ。一粒でレモン百個分のクエン酸と、脳がバグるレベルのブドウ糖が入ってる。手っ取り早く脳を覚醒させるにはこれが一番なんだよ」

 

ケイジ自身も、同じグミを口に放り込んでポリポリとウサギのように噛み砕いている。

その毒物のような色をしたお菓子を、極めて平然と味わう姿は、先ほどまでの精密な医師としての顔とは全く異なる、年相応のどこか食えない高校生の顔だった。

 

「ひどいな……命の恩人かと思ったら、拷問官だった……」

 

「失礼な。主治医と言ってくれ。……ま、とりあえずこれで死相は消えたな。点滴が終わるまで絶対に動くなよ。動いたら針が抜けて血の海だ」

 

「はい……大人しくしてます……」

 

苦笑いを浮かべながらソファ(兼デスク)に横たわる先生。

ケイジはふっと口元をゆるめると、デスクの上に散らばった書類の山から一枚を適当に拾い上げ、目を通し始めた。

 

「それにしても、なんだこの書類の量は。連邦生徒会も、この人数の生徒を大人一人で管理させようってのが無理なんだよ。まったく、どいつもこいつも無茶ばかり言いやがる……」

 

口では「面倒くさい」「愚痴」「手当を増やせ」と叩きつつも、ケイジの目線は素早く書類の不備をチェックし、赤ペンで正確な修正を書き込んでいく。

 

先生は、点滴の心地よい冷たさと、激甘グミの刺激でクリアになった頭で、目の前の少年の横顔を眺めていた。

クールで、どこか達観していて、けれど目の前の患者を絶対に捨て置かない優しさとプロ意識。

 

(……頼もしい主治医が来てくれたかもしれないな)

 

先生がそう思った、まさにその時だった。

 

シャーレの執務室のドアが、バァン!! と大きな音を立てて勢いよく開かれたのは。

 

---

 

「先生!! 今月のシャーレの経費精算についてですが、また出処不明の謎の領収書が混ざっていますよ! 一体何に使ったんですか――って、えええっ!?」

 

甲高い悲鳴のような声が部屋中に響き渡った。

 

書類の山から跳び出すように現れたのは、ツインテールを揺らし、ミレニアムの制服の上にパーカーを羽織った少女――セミナーの会計、早瀬ユウカだった。

 

彼女は手に持っていたタブレット端末と書類の山を落としそうになりながら、目を見開いて部屋の中の光景を凝視している。

 

ソファで点滴を打たれて転がっている先生。

そして、その隣で白衣を着て、書類に赤ペンを走らせている見慣れた人物。

 

「な、なんで……なんでミレニアムの『毒舌闇医者』こと河井ケイジがここにいるのよ!?」

 

「……『毒舌闇医者』は余計だ、早瀬ユウカ」

 

ケイジは赤ペンを回しながら、心底面倒くさそうに顔を上げた。

 

「大きな声を出すな。ここは今、簡易集中治療室だ。患者の血圧が跳ね上がるだろ」

 

「簡、簡易集中治療室ぁ!? 先生、一体何があったんですか!? その腕に刺さってる不気味なチューブは!? ケイジ、あんた先生に怪しい人体実験でも試してるんじゃないでしょうね!?」

 

「失礼な奴だな。俺は正当な医療行為をしてたんだよ。アンタらが書類を溜め込んでこの大人を叩き起こし続けるから、急性疲労で倒れたんだ。感謝こそされ、疑われる筋合いはないね」

 

「うぐっ……! それは……その、先生が書類を溜め込むからであって……」

 

ユウカは一瞬言葉に詰まり、気まずそうに目を泳がせた。

ミレニアムサイエンススクールにおいて、河井ケイジという存在は非常に特殊だ。

セミナーの予算申請には一切興味を示さず、部活も作らず、ただ独学で医学を修め、怪我人や病人が出た時だけどこからともなく現れて完璧な処置をして去っていく。

ミレニアムの計算し尽くされた論理の世界において、彼の持つ「生身の臨床医療」は異物でありながら、誰も代わりを務められない絶対的な領域だった。

 

「……で? セミナーの優秀な会計様が、なんの用だ? 先生はご覧の通り要安静だ。伝票の文句なら俺が聞いてやるよ」

 

「あんたに言っても意味ないでしょ!……って、ちょっと待ちなさい」

 

ユウカがケイジの手元を凝視する。

ケイジはユウカと会話しながらも、手だけは休ませず、デスクの上に放置されていたシャーレの複雑な財務書類と、各学園からの請求書を恐ろしいスピードで仕分けしていた。

 

「……え? ちょ、ちょっとケイジ、あんた何やってるの?」

 

「見れば分かるだろ。計算の合わない伝票の修正と、連邦生徒会に提出する医療費の控除申請だ。この大人がガタガタな会計処理をしてるから、アンタらセミナーに突っ込まれるんだよ。……ほら、ここ。トリニティからの備品請求、二重計上になってる。こっちはミレニアムの資材費、税率の計算が旧規格だ」

 

「……は!?」

 

ユウカは思わずケイジの横に駆け寄り、手渡された書類を覗き込んだ。

 

完璧だった。

数字の羅列、計算の根拠、法令に基づく分類。ユウカがこれから一時間かけて先生にお説教しながら修正させようとしていたファイルが、わずか数分で、完璧な制度で処理されていたのだ。

 

「な、なんで……? あんた、ミレニアムでは医療の勉強ばっかりしてて、事務処理なんて……!」

 

「人体構造に比べたら、数字の並びなんて単純なパズルだろ。血管の走行を覚えるより百倍ラクだ」

 

ケイジは鼻で笑うと、赤ペンを胸ポケットに挿し、背もたれに深く体重をかけた。

 

「オンの時は完璧に仕事をこなす。それが俺のポリシーだ。……まあ、オフの時は指一本動かしたくないけどな」

 

「〜〜〜〜っ! 相変わらず生意気ね……! 腕が良いのだけは認めざるを得ないのが本当に腹立つわ!」

 

ユウカは悔しそうに地踏みしながらも、どこか安堵したように息を吐いた。

彼女自身、過労で倒れかける先生をどうサポートすべきか悩んでいたのだ。ミレニアムの技術では「疲れを吹き飛ばす謎の機械」や「睡眠時間を削るサプリメント」のような極端な解決策しか出てこない。

現代医学に基づき、先生の肉体を「人間」として正しくケアできる存在がシャーレに常駐してくれるのは、実は願ってもないことだった。

 

「……まあ、いいわ。先生の健康管理をしてくれるなら、セミナーとしても異論はないわよ。……感謝してあげるわ、ケイジ」

 

「感謝なんていいよ。それより、会計様もちょっとは休んだらどうだ? 顔色悪いぞ。血圧測ってやろうか?」

 

「結構です! 私は元気だから――」

 

「はいはい、強がり言わない。ほら、これ食え」

 

ケイジは白衣のポケットから、例の蛍光ピンク色に輝く「ネオン・ハイパー・タウリン10000」の紙包みを一つ取り出し、ユウカの目の前に突きつけた。

 

「……な、なにその不気味に発光してる物体は!?」

 

「ミレニアムの特製糖分補給グミだ。頭がスッキリするぞ」

 

「嫌よ絶対! 毒が入ってるじゃない! 蛍光色のお菓子なんて食品じゃないわよ! ギャーッ、近付けないで!!」

 

「いいから食えって。脳の栄養だ」

 

「嫌ーーーーっ! 先生、助けてください!!」

 

点滴を打たれながらソファで横になっている先生は、追いかけっこを始めるミレニアムの二人を見て、思わず吹き出してしまった。

 

「ふふ……賑やかになったなぁ……」

 

「笑ってないで先生も早く治してください! ほら、ケイジ! 私は会計の仕事に戻るんだからねっ!」

 

ユウカは顔を真っ赤にしながら、修正された書類を抱えて、逃げるように執務室を飛び出していった。

パタン、とドアが閉まり、室内には再び点滴の「ぽちゃん、ぽちゃん」という規則正しい音だけが残る。

 

「……ハァ。相変わらず騒がしい奴だ」

 

ケイジは白衣のポケットに手を突っ込み、やれやれと首を振った。

そして、新しい激甘グミを自分の口に放り込み、ガリガリと噛み砕く。

 

「……さて、先生」

 

ケイジは倒れている先生の方を振り向き、ニッと口角を上げた。その顔は、先ほどまでの冷徹な医師の顔でも、ユウカをからかっていた意地悪な顔でもない、年相応のどこか親しみやすい「イケメンな悪友」の顔だった。

 

「点滴が終わったら、まずは一時間の強制睡眠だ。拒否権はない。もし起きて書類を触ろうとしたら、次は強力な睡眠薬を点滴に混ぜるからな」

 

「……う、主治医の命令には従います……」

 

「よろしい。……まあ、安心しろよ。アンタが寝てる間の雑用と、急患の対応くらいは俺がやってやる。シャーレの主治医様は多忙なんだ。手当の分くらいは働いてやるさ」

 

そう言って、ケイジは白衣を脱ぎ、椅子の背もたれにかけた。

黒のインナーシャツ姿になり、シャーレのフカフカのソファの端にドサリと横たわる。

 

「ふぁ……俺も眠くなってきた。急患が来たら起こしてくれ……と言いたいところだが、急患も患者も全部俺が裁く。アンタはただ眠れ、先生」

 

「……ありがとう、ケイジ君」

 

先生が目を閉じると、静かな部屋にケイジの軽やかな寝息が混ざり始めた。

 

銃弾と爆薬が飛び交う不条理な街、キヴォトス。

その中心に位置するシャーレに、少し口は悪いが誰よりも頼もしい「高校生医師」が着任した。

 

これから始まるであろう、各学園からの無理難題、訳ありの患者たち、そして連日の過労との戦い――。

シャーレの主治医の「多忙な日常」は、まだ始まったばかりだった。

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