青の記録と幻想の空間使い 作:弾幕トレーナー
書き溜めが何話かあるので、とりあえずプロローグの幻想郷編からキヴォトス編までは連日投稿予定です。
猫という生き物は、人の都合を考えない。
もっとも、幻想郷で暮らしている連中の大半も似たようなものだ。
俺の膝を占領している黒猫を眺めながら、そんなことを考える。
人里の外れに借りた家は、昼を少し過ぎると随分静かになる。開け放した縁側から風が入り、庭木の葉を揺らし、卓上に置いた紙の端をかすかに持ち上げていた。
右手には読みかけの魔導書。左手には、とある巫女にも好評だった外の世界のお茶。膝の上には、どこから入り込んだのかも分からない猫。これだけ人に慣れているところを見ると、どこかの猫妖怪の子分だったりするのかもしれない。
なかなか悪くない午後だった。読書をするにも、何もせずまったり過ごすにも向いている。
だが、こういう時間が長く続かないことを、俺は知っている。
経験則で知っている。
「界人さん、いらっしゃいますか」
門の方から、よく通る声がした。知っている声だ。
三度の控えめなノック。返事を待つ足音。礼儀正しい訪問者だ。どこかの魔法使いにも見習ってほしい。
だからこそ嫌な予感がする。
「……こっちにいる」
「お邪魔します」
庭を横切って姿を見せたのは、緑と白の衣装をまとった少女だった。腰には長短二振りの刀。その傍らには、彼女の半身である白い半霊が、雲のようにふわふわと浮かんでいる。
魂魄妖夢。
冥界にある白玉楼の庭師にして、剣術指南役。そして何より、西行寺幽々子の従者である。
妖夢は縁側まで来ると、律儀に一礼した。
「お寛ぎのところ、申し訳ありません」
「本当にそう思ってるなら、今日はこのまま帰ってくれたりは?」
「まだ用件もお伝えしていませんよね?」
「幽々子の使いで来た時点で、ろくでもない用事なのは分かる」
妖夢が口を閉じた。
黙るな。そこで黙られると、嫌な予感が確定する。
「できれば否定してほしかったな」
「嘘をつくのはよくないかと」
「真面目だな、お前は」
「褒められている気がしませんね」
その認識で合っている。
魔導書を閉じて姿勢を変える。膝の上の猫が不満そうに尻尾を振った。退いてもらおうと腹の下へ手を差し入れたが、爪を袴へ引っかけて抵抗される。
そんなにここが気に入ったか? 愛いやつめ。
……じゃなくて。
「それで?」
「幽々子様が、白玉楼へ来てほしいと」
「断る」
「そういわずに、まだ何も説明していないでしょう」
「説明されたら断りづらくなる」
「そういうところだけ察しがよすぎませんか」
妖夢は小さく息を吐いてから、表情を改めた。
「今朝、白玉楼の庭で、見知らぬ幽霊を見つけました」
断ったはずだが、そのまま話を進めるらしい。
「冥界で幽霊を見つけたのか。大発見だな。新種として登録して、好きな名前でも付けてこい」
「そういう意味ではありません」
分かっている。
ここが人里なら、身元不明の幽霊というだけでも多少は珍しい。だが、死者の魂が流れ着く冥界で、幽霊の一人や二人が増えたところで、妖夢がわざわざ俺を訪ねてくる理由にはならない。
「三途の川を渡ってきた様子がないんです。妖怪でも、仙人でもありません。外の世界の人間とも……少し違うようで」
「幽々子にも分からないのか」
「はい」
短い返事だった。
俺は妖夢を見る。妖夢も俺を見る。半霊までこちらへ顔を向けているように見えた。
「危険は?」
「少なくとも、敵意はありません」
「少なくとも、ね」
「後は……よく喋る方です」
「随分と元気のある幽霊だな」
「そうですね。見た限り、危険性はないと思います」
少し迷ってから、妖夢は付け加えた。
「たぶん」
行きたくない理由が一つ増えた。
「それで、どうして俺なんだ。幽霊なら、それこそ専門家が目の前にいるだろ」
「幽々子様が、界人さんでなければ分からないかもしれないと」
「あいつがそう言ったのか」
「はい。理由を尋ねても、『会えば分かる』としか」
知っていて説明しない時の幽々子ほど、信用ならないものも少ない。
気は乗らないが、仕方がない。
ため息を一つ吐き、閉じた本を長方形の空間の裂け目へ放り込む。水面のように揺れた裂け目が本を呑み込み、音もなく閉じた。
「悪いな。少し出てくる」
今度こそ猫を膝から下ろし、縁側に置いてあった羽織へ腕を通す。黒猫は恨めしそうに一声鳴くと、まだ温かい座布団の中心で丸くなった。
「案内してくれ」
「ありがとうございます」
「礼はいいさ。呼びつけた本人から聞くから」
庭へ下り、空中に指を走らせる。
始点はここ。終点は白玉楼の庭先。何度か訪れた場所なら、座標を拾うのは難しくない。
景色へ縦に走った細い線が、左右へ開く。
裂け目の向こう側に現れたのは、長く白い石段と、季節を忘れたように舞う桜の花びらだった。
俺が振り返ると、妖夢は門のように開いた空間と、元来た道とを交互に見た。
「紫様の隙間もそうですが、それも便利ですね」
「似てるだけで、あの人の隙間とは別物だ。紫は境界を開く。俺がいじってるのは距離と座標だ」
「私から見ると、どちらも同じくらい便利です。これで行けるなら、私が飛んできた時間は何だったのでしょう」
「幽々子に聞け。俺を連れてこいと言ったのも、あいつだろ。やろうと思えば連絡用の式を飛ばすこともできたはずだ」
「その場合、素直に応じましたか?」
俺はその質問に答えなかった。
後ろから妖夢のじっとりとした視線を感じながら、門へ足を進めた。
◇
白玉楼の縁側には、茶と菓子が用意されていた。
用意したのは妖夢だろう。食べているのは幽々子だった。
「早かったわね。もう少し抵抗すると思ってたわ」
俺たちを見るなり、幽々子は上機嫌に手を振った。淡い青の着物に、頭には三角の印を付けた帽子。見慣れた亡霊のお嬢様は、俺が腰を下ろすより先に二つ目の饅頭へ手を伸ばす。
「分かってて妖夢を使いに寄越したな」
腰を下ろしつつ軽口を返す。幽々子は俺が座ったのを確認してから、妖夢へ俺の分の茶を頼んだ。
「先に用件を聞かせろ」
「せっかちねぇ」
「あんた相手にのんびりすると、気づいた時には仕事を引き受けたことになってる」
「今日はまだ何も頼んでいないのに」
「まだ、な」
幽々子は口元へ袖を当て、楽しそうに笑った。
その視線の先を追い、俺はようやく、もう一人の少女と目を合わせた。
縁側から少し離れた柱の傍らに、彼女は立っていた。
見慣れない意匠の制服。膝よりも長く伸びた、淡い緑色の髪。背丈は妖夢より高い。頭の上には、幾何学模様を組み合わせたような淡い光の輪が浮かんでいる。
ただし、その光はひどく弱い。
明滅するたびに輪郭の一部が欠け、次の瞬間には何事もなかったようにつながっていた。
生きた人間ではない。
かといって、俺が知る幽霊とも違う。
何より妙なのは、その少女が幽々子の手元にある饅頭を、あまりにも真剣な顔で見つめていることだった。
「食べる?」
幽々子が皿を差し出した。
「だから、食べられないんですってば」
「そうだったかしら」
「さっきも試しました!」
「三度目ならうまくいくかもしれないわよ?」
「そんな気がしてきました」
「してくるな」
思わず口を挟むと、少女が勢いよくこちらを向いた。
金色の目が丸くなる。
一歩、二歩。足音を立てずに近づいてくる。顔を覗き込まれそうになり、俺はその分だけ上体を引いた。
「あの、もしかして……私が見えるんですか?」
「見えないふりをした方がよかったか?」
「そんなことないです!」
「なら見えてる。だから顔を近づけるな」
「あっ、ごめんなさい」
少女は素直に下がった。今度は下がりすぎて柱を通り抜け、上半身だけをこちら側へ残す。
本人は気づいていない。
「後ろ」
「はい?」
「柱に半分入ってる」
「わっ」
慌てて前へ出る。
幽々子が三つ目の饅頭を取りながら、のんびりと紹介した。
「この子が今朝、庭に落ちていた幽霊よ」
「落ちてはいません。桜の下に座って、目を輝かせながら庭を眺めていたんです」
妖夢が訂正する。
「似たようなものね」
「かなり違うと思います」
少女は二人を見比べ、それから俺に向き直った。
「梔子ユメです。ええと、アビドス高等学校生徒会長……だと思います」
「最後のはなんで疑問形なんだ」
「今の私を生徒会長と言っていいのかなって。学校に戻ったわけでもありませんし、それに——」
自分の胸元を見下ろし、ユメは困ったように笑った。
「どうやら、死んでるみたいなので」
明るい声だった。
明るく聞こえるように出した声だった。
俺はそれ以上を尋ねず、名乗りだけを返す。
「
「ほしの……」
ユメの表情から、一瞬だけ笑みが消えた。
「名字の方だ。界人が名前」
「あ、はい。そうですよね」
少し様子が変だな。
「何か気になることでもあったか?」
「あっ、いえ。馴染みのある名前だったので、驚いただけです」
「知り合いか?」
「はい。とても大切な……後輩と同じ名前です」
そう答えると、ユメはまた笑った。
今度の笑顔も、少しだけ力が入りすぎていた。
「あら、名前が同じなのも、何かの縁かもしれないわねぇ」
「いつも思うが、何でも縁で片づけるな」
「でも、界人は縁を辿って道を開くのでしょう?」
「そうやって、いつもの言葉遊びで俺に押し付けようとしてないか? まずは事情を話せ」
俺が睨んでも、幽々子はどこ吹く風だった。
妖夢が淹れてくれたお茶へ手を伸ばす。ユメにも同じものが出されているが、湯呑みを持つことはできないらしい。両手で包もうとするたび、指が陶器をすり抜けていた。
「今朝、この子を見つけた時には、冥界へ入った痕跡がどこにもなかったの」
幽々子の声から、先ほどまでの軽さが少しだけ薄れた。
「幽霊が一人増えること自体は、珍しくもないわ。でも死者には死者の道がある。川を渡る者、迷う者、ここへ送られる者。どんな道を通ったにせよ、何かしら跡が残るものよ」
「梔子には、それがないと?」
「ええ。まるで、最初から庭にいたみたいに」
俺はユメへ視線を戻す。
「自分がどこから来たかは?」
「キヴォトスです」
聞いたことのない地名だった。
「外の世界のどこだ」
「外の世界? キヴォトスの外側にある場所のことですか?」
「いや、その周りになにがあるかではなく。キヴォトスは、どこの国にある」
「国……どこの学園の自治区か、という意味ですか?」
「違う。日本とか、中国とか、アメリカとか」
「ニホン? すみません、どれも聞いたことがありません」
「なら、大陸は」
「大陸と言われても……キヴォトスはキヴォトスですよ。たくさんの学園と自治区が集まった、とても大きな学園都市です」
「待て。都市なのに、どこの国にも属してないのか?」
「普通はそういうものではないんですか?」
ユメは首を傾げた。
普通ではない。
単に地理へ疎いという話ではなさそうだ。国の中に都市があり、その中に学校がある。俺が当たり前だと思っている順序を、ユメは最初から共有していない。
知らないふりには見えない。俺が妖夢を見ると、妖夢も首を横へ振る。
「では、こちらへ来る直前のことは覚えていますか?」
妖夢の問いに、ユメはすぐには答えなかった。
「砂が、ありました」
自分の記憶を手探りするように、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「たくさんの砂と、すごく眩しい太陽。それから、歩いて……何かを探していたような気がします。喉が渇いて、水筒が空で……」
ユメの手が、何も持っていないはずの腕を掴んだ。
「その後は?」
「分かりません。気づいたら、桜の下にいました」
また笑う。
「綺麗な場所だったので、最初は天国かと思いました」
「冥界です」
「死者の国という意味では同じ認識なんじゃないか?」
「ですが、天界ではありませんから」
「そういう問題か?」
妖夢は真面目な顔をしている。譲れない何かでもあるのだろう。ユメは何がおかしかったのか、口元を押さえて小さく笑った。
少なくとも、会話をする余裕はあるらしい。
「界人。この子を視てあげてくれる?」
「あんたが視て分からなかったものを、俺に?」
「私は死者を視る。あなたは場所を視るでしょう?」
なるほど。
だから俺を呼んだのか。
納得はしたが、幽々子の笑みが妙に楽しそうなのが気にかかる。
「梔子。少し触るぞ」
「はい。……えっ、触れるんですか?」
「一工夫は必要だがな」
湯呑みのお茶から水滴を一つ持ち上げる。
指先を回すと、水滴は細い糸へ変わり、俺の右手を薄く覆った。水は境界を映す。形のないものへ形を与え、目に見えない流れを拾うには都合がいい。
ユメがおずおずと差し出した右手を、下から支える。
冷たい、とは感じなかった。
温かくもない。
そこに手があるという感触だけが、水の膜を通して返ってきた。
「痛かったら言え」
「幽霊も痛いんでしょうか」
「詳しくないから何とも言えないな。そこにいる亡霊と半人半霊なら知ってるかもしれない」
俺の視線を受けた幽々子は微笑むだけで、妖夢は困ったように自分の半霊を見た。
「えへへ。死ぬのは初めてなので、私にも分かりません」
「何度もあってたまるか」
魔力を流す。
まず、ここにあるものの輪郭を測る。
高さ、幅、奥行き。白玉楼の縁側を基準に、ユメが占めている空間を拾い上げる。
拾い上げようとして——指先が、空を切った。
「……なんだ、これ」
目の前にいる。触れてもいる。
それなのに、座標がない。
正確には、ここではないどこかへ座標の大半を置き忘れている。目の前に見えるユメは、遠い場所から伸びた糸の先端だけだ。
その糸がどこへつながっているのか探ろうと、意識を一段深く沈める。
瞬間、視界が裏返った。
縁側が遠ざかる。空が足元へ落ち、庭が頭上へ回り込む。上下の感覚が崩れたのは一瞬だけだったが、胃が持ち上がるには十分だった。
ユメの輪郭が大きく揺らぐ。
「あ——」
淡い髪も、制服も、光の輪も、砂を崩すように端から透けていく。
俺は反射的にユメの手を引いた。
同時に、自分の周囲の空間を固定する。
揺らいだ座標を一つに縫い留め、遠ざかろうとする輪郭をこちら側へ引き戻す。
数秒後、ユメの姿は元に戻っていた。
「今のは……?」
本人には何が起きたか分かっていないらしい。不安そうに自分の腕を確かめている。
「少し調べすぎた。悪かった」
「いえ。別に痛かったわけではありませんし」
「消えかけたんだよ」
「えっ」
今さら驚くユメを横目に、俺は幽々子を見る。
「この子は冥界にいない」
「目の前にいますよ?」
妖夢が言った。
「見た目の話じゃない。魂の根が、ここに下りてないんだ。遠すぎて先は読めなかったが、少なくとも外の世界じゃない」
外の世界と幻想郷なら、大結界を挟んでも同じ地続きの座標として捉えられる。冥界や地獄であっても、それぞれを隔てる境界がある。
だが、ユメには境界すら見つからない。
本の中から一枚の頁だけを引き抜いて、別の書架へ紛れ込ませたような、ひどく不自然な在り方だった。
「やっぱり、あなたを呼んでよかったわ」
幽々子は満足そうに頷いた。
俺はまだ掴んでいたユメの手を離し、眉を寄せる。
「やっぱり?」
「その子、ここへ来てから少しずつ薄くなっていたの」
ユメが自分の身体を見下ろす。
「そうだったんですか!?」
「ええ。でも界人が来てから、随分と落ち着いたわ」
「先に言え」
「先に言ったら、あなたは意識してこの子を支えようとしたでしょう? 何も知らずに近づいた時、どう変わるのか見ておきたかったの」
「それで、消えかけてる相手を使って試したのか」
「危なくなる前には止めるつもりだったわ」
「信用できない言い分だな」
意図は分かる。だからといって、当人へ黙ったまま試すやり方に納得できるわけではない。
俺はユメへ向き直った。
「今から、俺が離れた時にどう変わるか確かめる。さっきみたいに姿が薄くなる可能性はあるが、異常が出たらすぐに戻る。試してもいいか?」
ユメは自分の手を見てから、小さく頷いた。
「はい。お願いします」
「痛みや気分の悪さがあったら、すぐに言え」
「分かりました」
返事を確認してから立ち上がり、ユメと距離を取る。
一歩。変化はない。
二歩、三歩。
庭へ下り、さらに離れる。十歩ほど進んだところで、ユメの髪の先がわずかに透けた。
もう二歩。
頭上の光が瞬き、右肩の輪郭が桜の景色へ溶ける。
「界人さん」
初めて名前を呼ばれた。
先ほどまでより小さな声だった。
「そこから動くな」
すぐに引き返す。
俺が近づくにつれて、ユメの姿も元へ戻っていった。
距離だけが条件ではない。俺の魔力か、能力によって無意識に作られている空間の場に反応している。
恐らく、俺が近くにいることで、この世界へ仮の座標を得ている。
「幽々子」
「なあに?」
「まさかとは思うが」
「しばらく、その子を預かってくれない?」
やはり、ろくでもない用事だった。
「断ると言ったら?」
「このまま白玉楼に置いておくわ」
幽々子は穏やかに答えた。
脅しも、冗談もない声だった。
「そして、どこまで薄くなるのか見守ることになるでしょうね」
ユメが俯く。
俺は額を押さえた。
「選択肢を出すふりをするな」
「選ぶのはあなたよ」
「片方が崖じゃなければな」
「あの」
ユメが遠慮がちに手を挙げた。
「私、なるべく迷惑をかけないようにします」
「壁と柱を抜ける幽霊を、どう管理すればいい」
「お掃除とか、お料理とかも手伝います」
茶のお代わりを実演しようとしたのだろう。そう言って急須を持とうとした手が、何の抵抗もなく取っ手を通り抜けた。
ユメは無言で手を戻す。目が少し潤んでいた。
「今、自分で説得力を消したぞ」
「応援ならできます!」
「騒がしいのは嫌いではないが静かにしてくれる方が助かる」
「ヒィン……」
目に見えて肩を落とす。
表情がころころ変わる幽霊だ。
幽々子が笑いを堪えるように袖で口元を隠している。妖夢は申し訳なさそうに視線を逸らした。主の思惑を知らなかったらしい。
「映姫さんには?」
「知らせてあるわ。すぐには来られないそうだけれど、近いうちにこの子を視てもらえる」
「映姫さん?」
新たな人物の名に、ユメが首を傾げる。
「分かりやすく言えば、閻魔様だ」
「閻魔様、ですか?」
ユメの顔が引きつった。
「裁かれるようなことに心当たりでもあるのか」
「ありません。たぶん」
「なんで目を逸らした」
「生徒会の仕事で、ちょっと……本当にちょっとだけ、なくした書類が」
「死後の裁きで持ち出すには小さすぎるだろ」
「あとは、よく分からない契約書に判子を押しそうになったり」
「押したのか?」
「押す前に止めてもらいました」
「そいつに感謝しておけ」
その瞬間、ユメは困ったような、それでいてどこか懐かしそうな笑顔を浮かべた。
星野という名字を聞いた時と、同じ顔だった。
「……梔子」
「はい」
「帰りたいか」
今度の返事に迷いはなかった。
「帰りたいです」
「死ぬ前にいた場所へ?」
「はい」
「未練は?」
「……あります」
「帰れたところで、向こうの人間に見える保証はない。今の形を保てる保証もない。それでもか」
「はい。未練も、後悔もありますから。何も分からないまま消えてしまうより、帰って確かめたいです」
それ以上は聞かなかった。
帰れる保証も、帰った後に何が起きるかも分からない。そもそもキヴォトスという場所がどこにあるのかさえ分からない。
今ここで軽々しく約束できることは何もなかった。
それでも、放っておけば消えるかもしれない相手を前にして、俺が選べる答えなど最初から一つしかない。
「映姫さんの見立てが出るまでだ。その後のことは、その時の結果次第で決める」
幽々子が微笑む。
「ええ、もちろん」
「あんたには言ってない」
ユメへ向き直る。
「俺の近くから勝手に離れない。身体や記憶に変化があったら、どんな小さなことでも話す。俺の家では壁を抜けて部屋へ入らない。特に着替えと風呂だ」
「分かりました」
「本当に分かったか?」
「大丈夫です。私、生徒会長でしたから」
「急に不安になってきたな」
「ええっ!? どうしてですかぁ!?」
本人に自覚はないらしい。会ったばかりだが、そこはかとなくポンコツの気配がする。
それまで黙っていた妖夢が、一歩前へ出て頭を下げた。
「界人さん。ありがとうございます」
つられるように、ユメも慌てて頭を下げた。
妖夢も、ユメのことを気にかけていたのだろう。幽々子に言われたから従っていただけなら、こんな安堵した顔はしない。
「礼を言うなら、そいつが無事に帰ってからにしろ」
「はい」
頼み事をした張本人が、真っ先に言うべき言葉だと思うけどな。
呆れながら目を向けても、当の本人はどこ吹く風だった。
「それと次からは、用件を聞く前に俺を逃がしてくれ」
「善処します」
「しない返事だな、それ」
「妖夢も上手になったわねぇ」
「幽々子様のせいですね」
妖夢の声には、日頃の苦労が滲んでいた。こいつも大変だからな。
◇
帰りの門を開くと、ユメはその前で立ち止まった。
「わあっ!? 景色が割れましたよ!?」
驚いた勢いで俺の背後まで回り込み、肩越しに裂け目を覗き込む。
「割ったんじゃない。二つの場所の距離を折り畳んで、通り道を作った」
「ええと……?」
「ここに入口、向こうに出口がある。今はそれだけ分かればいい」
「説明を諦めませんでした?」
「全部聞きたいなら、座標と位相の話から始めるぞ」
「それだけ分かれば大丈夫です!」
俺の家の庭へつながる、縦長の空間の裂け目。向こうでは、縁側の黒猫がこちらへ顔だけを向けている。
「これ、本当に通って大丈夫なんですか?」
「今さら怖がるのか。世界を一つ飛び越えてきたくせに」
「そっちは覚えていませんから。これは見た目が怖いです」
「真っ直ぐ歩けば着く」
「真っ直ぐじゃなかったら?」
「試してみるか?」
「真っ直ぐ歩きます」
別に斜めに踏み込んでも、着く場所は変わらない。今は黙っておこう。
ユメは背筋を伸ばし、恐る恐る裂け目へ足を踏み入れた。
境界を越える瞬間、その姿がまた薄く揺らぐ。
咄嗟に伸ばした俺の手を、ユメが両手で掴んだ。
――そこまではいい。だが、なぜかそのまま、俺の腕へ抱きつくようにしがみついている。
「おい」
「安全のためです」
「初対面の男の腕によく抱きつけるな」
「助けてくれる人ですし、悪い人ではないと思いましたから」
違う、そうじゃない。善人か悪人かではなく、警戒心の話だ。この年頃の娘は、初対面の異性ともう少し距離を取るものだと思っていた。
男に慣れているのか。逆に、女子校育ちで距離の取り方を知らないのか。今のところ、判断がつかない。
俺が先に門をくぐり、ユメをこちらへ引く。二人が通り終えたところで、背後の景色を閉じた。
白い石段と桜吹雪が一本の線に縮まり、やがて消える。
ユメは俺の手を離すと、物珍しそうに庭を見回した。
「ここが界人さんのお家ですか?」
「借り物だけどな」
「落ち着くところですね」
「何もないとも言う」
「あ、猫ちゃん」
縁側の黒猫を見つけ、ユメの顔が明るくなる。お前まだそこにいたのか。
駆け寄って屈み、背中を撫でようとする。当然、指先は黒い毛をすり抜け、座布団まで沈んだ。
「……触れません」
「見れば分かる」
「かわいいのに」
「見て楽しめ」
「そんなぁ」
黒猫は何かを感じたのか、片目だけを開いた。ユメがもう一度手を伸ばすと、するりと身を起こし、俺の方へ逃げてくる。
認識しているのか、それとも偶然か。
抱き上げると、ユメの視線が猫を追った。
「界人さん」
「駄目だ」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
猫を渡したところで、ユメの腕を抜けて地面へ落ちるだけだ。
仕方なく縁側へ腰を下ろし、膝の上に猫を置く。ユメも隣へ座った。正確には座る形を取り、猫が喉を鳴らす様子を羨ましそうに眺めている。
「あの、界人さん」
「今度はなんだ」
「ありがとうございます」
「一時的に預かっただけだぞ。まだ何もしてない」
「それでもです」
横を見る。
ユメは猫ではなく、暮れ始めた空を見ていた。
「知らない場所で目を覚まして、知らない人ばかりで。皆さん優しくしてくれましたけど、私がどうなってしまうのか、全然分からなかったので」
明るさを作っていない、静かな声だった。
「界人さんの傍にいれば消えないって分かっただけでも、少し安心しました」
初対面の異性から離れられないというのも、年頃の女子には相当な負担かもしれない。
ついでに言えば、成人男性が女子高生を自宅へ連れ帰ったという絵面は、普通にまずい。幽霊だから問題ない、で通るだろうか。
少なくとも、あの文屋には見つからないようにしよう。
「まだ推測だ。俺の傍にいれば絶対に安全だとは限らない」
「はい」
「元の場所へ戻れるとも、その後も無事でいられるとも言えない」
「はい」
「……そこで落ち込むところじゃないのか」
「できないことより、できるかもしれないことが増えましたから」
ユメはそう言って笑った。
今度の笑顔には、余計な力が入っていなかった。
楽観的なのか、図太いのか。あるいは、その両方か。
「そうか」
それだけ答え、猫の背を撫でる。
指先へ伝わる温度を確かめながら、意識の一部を隣の幽霊へ向けた。
視ようとすれば、やはり分かる。
ユメの魂から、細い糸が伸びている。
幻想郷の外へではない。冥界へでも、天界へでも、地獄へでもない。
俺が知るどの境界にも触れず、名前のない彼方へ消えている。
キヴォトス。
聞いたこともない世界から、道を外れた幽霊が一人。
どう考えても面倒事だった。
そして俺は、その面倒事を、自分の家へ連れ帰ってしまったらしい。
お読みいただきありがとうございます。
ここでちょこっと設定の小ネタや説明
主人公の名前は、
「星野」には星の広がる空間、「界」には世界や境界という意味を込めています。同時に、ユメにとって聞き覚えのある「ほしの」という響きでもあります。
界人の能力は、東方Project風に表すなら「空間を操る程度の能力」です。
今回使った収納、二つの場所を結ぶ門、存在する座標を読み取る感覚は、すべてこの能力の応用になります。一方、ユメへ触れるために水を使った術は、能力とは別に界人が後から学んだ魔法です。後で効果が切れてまた触れなくなっています。できることや苦手なことは、物語の中で少しずつ明かしていく予定です。
八雲紫の「境界を操る程度の能力」と似て見えますが、扱う対象は異なります。紫が物事を分ける境界そのものへ干渉するのに対し、界人が動かすのは空間の距離、方向、座標、形です。境界や概念まで操れるわけではなく、既知の座標を測って道を組み立てることを得意としています。
なお、あらすじでもあるように界人の能力とモチーフを考えるうえで、発想元は『ポケットモンスター』のパルキアです。空間と水という要素を借りつつ、東方Projectの能力・魔法体系に合う形へ組み直しています。そのほかに取り入れたモチーフについては、登場した時に改めて補足できればと思います。