青の記録と幻想の空間使い   作:弾幕トレーナー

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型月や禁書などの設定が細かいものや考察が好きなので設定や説明がくどい場合があるかも?

書き溜めが何話かあるので、とりあえずプロローグの幻想郷編からキヴォトス編までは連日投稿予定です。


迷子の幽霊

 

 猫という生き物は、人の都合を考えない。

 

 もっとも、幻想郷で暮らしている連中の大半も似たようなものだ。

 

 俺の膝を占領している黒猫を眺めながら、そんなことを考える。

 

 人里の外れに借りた家は、昼を少し過ぎると随分静かになる。開け放した縁側から風が入り、庭木の葉を揺らし、卓上に置いた紙の端をかすかに持ち上げていた。

 

 右手には読みかけの魔導書。左手には、とある巫女にも好評だった外の世界のお茶。膝の上には、どこから入り込んだのかも分からない猫。これだけ人に慣れているところを見ると、どこかの猫妖怪の子分だったりするのかもしれない。

 

 なかなか悪くない午後だった。読書をするにも、何もせずまったり過ごすにも向いている。

 

 だが、こういう時間が長く続かないことを、俺は知っている。

 

 経験則で知っている。

 

「界人さん、いらっしゃいますか」

 

 門の方から、よく通る声がした。知っている声だ。

 

 三度の控えめなノック。返事を待つ足音。礼儀正しい訪問者だ。どこかの魔法使いにも見習ってほしい。

 

 だからこそ嫌な予感がする。

 

「……こっちにいる」

 

「お邪魔します」

 

 庭を横切って姿を見せたのは、緑と白の衣装をまとった少女だった。腰には長短二振りの刀。その傍らには、彼女の半身である白い半霊が、雲のようにふわふわと浮かんでいる。

 

 魂魄妖夢。

 

 冥界にある白玉楼の庭師にして、剣術指南役。そして何より、西行寺幽々子の従者である。

 

 妖夢は縁側まで来ると、律儀に一礼した。

 

「お寛ぎのところ、申し訳ありません」

 

「本当にそう思ってるなら、今日はこのまま帰ってくれたりは?」

 

「まだ用件もお伝えしていませんよね?」

 

「幽々子の使いで来た時点で、ろくでもない用事なのは分かる」

 

 妖夢が口を閉じた。

 

 黙るな。そこで黙られると、嫌な予感が確定する。

 

「できれば否定してほしかったな」

 

「嘘をつくのはよくないかと」

 

「真面目だな、お前は」

 

「褒められている気がしませんね」

 

 その認識で合っている。

 

 魔導書を閉じて姿勢を変える。膝の上の猫が不満そうに尻尾を振った。退いてもらおうと腹の下へ手を差し入れたが、爪を袴へ引っかけて抵抗される。

 

 そんなにここが気に入ったか? 愛いやつめ。

 

 ……じゃなくて。

 

「それで?」

 

「幽々子様が、白玉楼へ来てほしいと」

 

「断る」

 

「そういわずに、まだ何も説明していないでしょう」

 

「説明されたら断りづらくなる」

 

「そういうところだけ察しがよすぎませんか」

 

 妖夢は小さく息を吐いてから、表情を改めた。

 

「今朝、白玉楼の庭で、見知らぬ幽霊を見つけました」

 

 断ったはずだが、そのまま話を進めるらしい。

 

「冥界で幽霊を見つけたのか。大発見だな。新種として登録して、好きな名前でも付けてこい」

 

「そういう意味ではありません」

 

 分かっている。

 

 ここが人里なら、身元不明の幽霊というだけでも多少は珍しい。だが、死者の魂が流れ着く冥界で、幽霊の一人や二人が増えたところで、妖夢がわざわざ俺を訪ねてくる理由にはならない。

 

「三途の川を渡ってきた様子がないんです。妖怪でも、仙人でもありません。外の世界の人間とも……少し違うようで」

 

「幽々子にも分からないのか」

 

「はい」

 

 短い返事だった。

 

 俺は妖夢を見る。妖夢も俺を見る。半霊までこちらへ顔を向けているように見えた。

 

「危険は?」

 

「少なくとも、敵意はありません」

 

「少なくとも、ね」

 

「後は……よく喋る方です」

 

「随分と元気のある幽霊だな」

 

「そうですね。見た限り、危険性はないと思います」

 

 少し迷ってから、妖夢は付け加えた。

 

「たぶん」

 

 行きたくない理由が一つ増えた。

 

「それで、どうして俺なんだ。幽霊なら、それこそ専門家が目の前にいるだろ」

 

「幽々子様が、界人さんでなければ分からないかもしれないと」

 

「あいつがそう言ったのか」

 

「はい。理由を尋ねても、『会えば分かる』としか」

 

 知っていて説明しない時の幽々子ほど、信用ならないものも少ない。

 

 気は乗らないが、仕方がない。

 

 ため息を一つ吐き、閉じた本を長方形の空間の裂け目へ放り込む。水面のように揺れた裂け目が本を呑み込み、音もなく閉じた。

 

「悪いな。少し出てくる」

 

 今度こそ猫を膝から下ろし、縁側に置いてあった羽織へ腕を通す。黒猫は恨めしそうに一声鳴くと、まだ温かい座布団の中心で丸くなった。

 

「案内してくれ」

 

「ありがとうございます」

 

「礼はいいさ。呼びつけた本人から聞くから」

 

 庭へ下り、空中に指を走らせる。

 

 始点はここ。終点は白玉楼の庭先。何度か訪れた場所なら、座標を拾うのは難しくない。

 

 景色へ縦に走った細い線が、左右へ開く。

 

 裂け目の向こう側に現れたのは、長く白い石段と、季節を忘れたように舞う桜の花びらだった。

 

 俺が振り返ると、妖夢は門のように開いた空間と、元来た道とを交互に見た。

 

「紫様の隙間もそうですが、それも便利ですね」

 

「似てるだけで、あの人の隙間とは別物だ。紫は境界を開く。俺がいじってるのは距離と座標だ」

 

「私から見ると、どちらも同じくらい便利です。これで行けるなら、私が飛んできた時間は何だったのでしょう」

 

「幽々子に聞け。俺を連れてこいと言ったのも、あいつだろ。やろうと思えば連絡用の式を飛ばすこともできたはずだ」

 

「その場合、素直に応じましたか?」

 

 俺はその質問に答えなかった。

 

 後ろから妖夢のじっとりとした視線を感じながら、門へ足を進めた。

 

     ◇

 

 白玉楼の縁側には、茶と菓子が用意されていた。

 

 用意したのは妖夢だろう。食べているのは幽々子だった。

 

「早かったわね。もう少し抵抗すると思ってたわ」

 

 俺たちを見るなり、幽々子は上機嫌に手を振った。淡い青の着物に、頭には三角の印を付けた帽子。見慣れた亡霊のお嬢様は、俺が腰を下ろすより先に二つ目の饅頭へ手を伸ばす。

 

「分かってて妖夢を使いに寄越したな」

 

 腰を下ろしつつ軽口を返す。幽々子は俺が座ったのを確認してから、妖夢へ俺の分の茶を頼んだ。

 

「先に用件を聞かせろ」

 

「せっかちねぇ」

 

「あんた相手にのんびりすると、気づいた時には仕事を引き受けたことになってる」

 

「今日はまだ何も頼んでいないのに」

 

「まだ、な」

 

 幽々子は口元へ袖を当て、楽しそうに笑った。

 

 その視線の先を追い、俺はようやく、もう一人の少女と目を合わせた。

 

 縁側から少し離れた柱の傍らに、彼女は立っていた。

 

 見慣れない意匠の制服。膝よりも長く伸びた、淡い緑色の髪。背丈は妖夢より高い。頭の上には、幾何学模様を組み合わせたような淡い光の輪が浮かんでいる。

 

 ただし、その光はひどく弱い。

 

 明滅するたびに輪郭の一部が欠け、次の瞬間には何事もなかったようにつながっていた。

 

 生きた人間ではない。

 

 かといって、俺が知る幽霊とも違う。

 

 何より妙なのは、その少女が幽々子の手元にある饅頭を、あまりにも真剣な顔で見つめていることだった。

 

「食べる?」

 

 幽々子が皿を差し出した。

 

「だから、食べられないんですってば」

 

「そうだったかしら」

 

「さっきも試しました!」

 

「三度目ならうまくいくかもしれないわよ?」

 

「そんな気がしてきました」

 

「してくるな」

 

 思わず口を挟むと、少女が勢いよくこちらを向いた。

 

 金色の目が丸くなる。

 

 一歩、二歩。足音を立てずに近づいてくる。顔を覗き込まれそうになり、俺はその分だけ上体を引いた。

 

「あの、もしかして……私が見えるんですか?」

 

「見えないふりをした方がよかったか?」

 

「そんなことないです!」

 

「なら見えてる。だから顔を近づけるな」

 

「あっ、ごめんなさい」

 

 少女は素直に下がった。今度は下がりすぎて柱を通り抜け、上半身だけをこちら側へ残す。

 

 本人は気づいていない。

 

「後ろ」

 

「はい?」

 

「柱に半分入ってる」

 

「わっ」

 

 慌てて前へ出る。

 

 幽々子が三つ目の饅頭を取りながら、のんびりと紹介した。

 

「この子が今朝、庭に落ちていた幽霊よ」

 

「落ちてはいません。桜の下に座って、目を輝かせながら庭を眺めていたんです」

 

 妖夢が訂正する。

 

「似たようなものね」

 

「かなり違うと思います」

 

 少女は二人を見比べ、それから俺に向き直った。

 

「梔子ユメです。ええと、アビドス高等学校生徒会長……だと思います」

 

「最後のはなんで疑問形なんだ」

 

「今の私を生徒会長と言っていいのかなって。学校に戻ったわけでもありませんし、それに——」

 

 自分の胸元を見下ろし、ユメは困ったように笑った。

 

「どうやら、死んでるみたいなので」

 

 明るい声だった。

 

 明るく聞こえるように出した声だった。

 

 俺はそれ以上を尋ねず、名乗りだけを返す。

 

「星野界人(ほしの・かいと)だ」

 

「ほしの……」

 

 ユメの表情から、一瞬だけ笑みが消えた。

 

「名字の方だ。界人が名前」

 

「あ、はい。そうですよね」

 

 少し様子が変だな。

 

「何か気になることでもあったか?」

 

「あっ、いえ。馴染みのある名前だったので、驚いただけです」

 

「知り合いか?」

 

「はい。とても大切な……後輩と同じ名前です」

 

 そう答えると、ユメはまた笑った。

 

 今度の笑顔も、少しだけ力が入りすぎていた。

 

「あら、名前が同じなのも、何かの縁かもしれないわねぇ」

 

「いつも思うが、何でも縁で片づけるな」

 

「でも、界人は縁を辿って道を開くのでしょう?」

 

「そうやって、いつもの言葉遊びで俺に押し付けようとしてないか? まずは事情を話せ」

 

 俺が睨んでも、幽々子はどこ吹く風だった。

 

 妖夢が淹れてくれたお茶へ手を伸ばす。ユメにも同じものが出されているが、湯呑みを持つことはできないらしい。両手で包もうとするたび、指が陶器をすり抜けていた。

 

「今朝、この子を見つけた時には、冥界へ入った痕跡がどこにもなかったの」

 

 幽々子の声から、先ほどまでの軽さが少しだけ薄れた。

 

「幽霊が一人増えること自体は、珍しくもないわ。でも死者には死者の道がある。川を渡る者、迷う者、ここへ送られる者。どんな道を通ったにせよ、何かしら跡が残るものよ」

 

「梔子には、それがないと?」

 

「ええ。まるで、最初から庭にいたみたいに」

 

 俺はユメへ視線を戻す。

 

「自分がどこから来たかは?」

 

「キヴォトスです」

 

 聞いたことのない地名だった。

 

「外の世界のどこだ」

 

「外の世界? キヴォトスの外側にある場所のことですか?」

 

「いや、その周りになにがあるかではなく。キヴォトスは、どこの国にある」

 

「国……どこの学園の自治区か、という意味ですか?」

 

「違う。日本とか、中国とか、アメリカとか」

 

「ニホン? すみません、どれも聞いたことがありません」

 

「なら、大陸は」

 

「大陸と言われても……キヴォトスはキヴォトスですよ。たくさんの学園と自治区が集まった、とても大きな学園都市です」

 

「待て。都市なのに、どこの国にも属してないのか?」

 

「普通はそういうものではないんですか?」

 

 ユメは首を傾げた。

 

 普通ではない。

 

 単に地理へ疎いという話ではなさそうだ。国の中に都市があり、その中に学校がある。俺が当たり前だと思っている順序を、ユメは最初から共有していない。

 

 知らないふりには見えない。俺が妖夢を見ると、妖夢も首を横へ振る。

 

「では、こちらへ来る直前のことは覚えていますか?」

 

 妖夢の問いに、ユメはすぐには答えなかった。

 

「砂が、ありました」

 

 自分の記憶を手探りするように、ゆっくりと言葉を選ぶ。

 

「たくさんの砂と、すごく眩しい太陽。それから、歩いて……何かを探していたような気がします。喉が渇いて、水筒が空で……」

 

 ユメの手が、何も持っていないはずの腕を掴んだ。

 

「その後は?」

 

「分かりません。気づいたら、桜の下にいました」

 

 また笑う。

 

「綺麗な場所だったので、最初は天国かと思いました」

 

「冥界です」

 

「死者の国という意味では同じ認識なんじゃないか?」

 

「ですが、天界ではありませんから」

 

「そういう問題か?」

 

 妖夢は真面目な顔をしている。譲れない何かでもあるのだろう。ユメは何がおかしかったのか、口元を押さえて小さく笑った。

 

 少なくとも、会話をする余裕はあるらしい。

 

「界人。この子を視てあげてくれる?」

 

「あんたが視て分からなかったものを、俺に?」

 

「私は死者を視る。あなたは場所を視るでしょう?」

 

 なるほど。

 

 だから俺を呼んだのか。

 

 納得はしたが、幽々子の笑みが妙に楽しそうなのが気にかかる。

 

「梔子。少し触るぞ」

 

「はい。……えっ、触れるんですか?」

 

「一工夫は必要だがな」

 

 湯呑みのお茶から水滴を一つ持ち上げる。

 

 指先を回すと、水滴は細い糸へ変わり、俺の右手を薄く覆った。水は境界を映す。形のないものへ形を与え、目に見えない流れを拾うには都合がいい。

 

 ユメがおずおずと差し出した右手を、下から支える。

 

 冷たい、とは感じなかった。

 

 温かくもない。

 

 そこに手があるという感触だけが、水の膜を通して返ってきた。

 

「痛かったら言え」

 

「幽霊も痛いんでしょうか」

 

「詳しくないから何とも言えないな。そこにいる亡霊と半人半霊なら知ってるかもしれない」

 

 俺の視線を受けた幽々子は微笑むだけで、妖夢は困ったように自分の半霊を見た。

 

「えへへ。死ぬのは初めてなので、私にも分かりません」

 

「何度もあってたまるか」

 

 魔力を流す。

 

 まず、ここにあるものの輪郭を測る。

 

 高さ、幅、奥行き。白玉楼の縁側を基準に、ユメが占めている空間を拾い上げる。

 

 拾い上げようとして——指先が、空を切った。

 

「……なんだ、これ」

 

 目の前にいる。触れてもいる。

 

 それなのに、座標がない。

 

 正確には、ここではないどこかへ座標の大半を置き忘れている。目の前に見えるユメは、遠い場所から伸びた糸の先端だけだ。

 

 その糸がどこへつながっているのか探ろうと、意識を一段深く沈める。

 

 瞬間、視界が裏返った。

 

 縁側が遠ざかる。空が足元へ落ち、庭が頭上へ回り込む。上下の感覚が崩れたのは一瞬だけだったが、胃が持ち上がるには十分だった。

 

 ユメの輪郭が大きく揺らぐ。

 

「あ——」

 

 淡い髪も、制服も、光の輪も、砂を崩すように端から透けていく。

 

 俺は反射的にユメの手を引いた。

 

 同時に、自分の周囲の空間を固定する。

 

 揺らいだ座標を一つに縫い留め、遠ざかろうとする輪郭をこちら側へ引き戻す。

 

 数秒後、ユメの姿は元に戻っていた。

 

「今のは……?」

 

 本人には何が起きたか分かっていないらしい。不安そうに自分の腕を確かめている。

 

「少し調べすぎた。悪かった」

 

「いえ。別に痛かったわけではありませんし」

 

「消えかけたんだよ」

 

「えっ」

 

 今さら驚くユメを横目に、俺は幽々子を見る。

 

「この子は冥界にいない」

 

「目の前にいますよ?」

 

 妖夢が言った。

 

「見た目の話じゃない。魂の根が、ここに下りてないんだ。遠すぎて先は読めなかったが、少なくとも外の世界じゃない」

 

 外の世界と幻想郷なら、大結界を挟んでも同じ地続きの座標として捉えられる。冥界や地獄であっても、それぞれを隔てる境界がある。

 

 だが、ユメには境界すら見つからない。

 

 本の中から一枚の頁だけを引き抜いて、別の書架へ紛れ込ませたような、ひどく不自然な在り方だった。

 

「やっぱり、あなたを呼んでよかったわ」

 

 幽々子は満足そうに頷いた。

 

 俺はまだ掴んでいたユメの手を離し、眉を寄せる。

 

「やっぱり?」

 

「その子、ここへ来てから少しずつ薄くなっていたの」

 

 ユメが自分の身体を見下ろす。

 

「そうだったんですか!?」

 

「ええ。でも界人が来てから、随分と落ち着いたわ」

 

「先に言え」

 

「先に言ったら、あなたは意識してこの子を支えようとしたでしょう? 何も知らずに近づいた時、どう変わるのか見ておきたかったの」

 

「それで、消えかけてる相手を使って試したのか」

 

「危なくなる前には止めるつもりだったわ」

 

「信用できない言い分だな」

 

 意図は分かる。だからといって、当人へ黙ったまま試すやり方に納得できるわけではない。

 

 俺はユメへ向き直った。

 

「今から、俺が離れた時にどう変わるか確かめる。さっきみたいに姿が薄くなる可能性はあるが、異常が出たらすぐに戻る。試してもいいか?」

 

 ユメは自分の手を見てから、小さく頷いた。

 

「はい。お願いします」

 

「痛みや気分の悪さがあったら、すぐに言え」

 

「分かりました」

 

 返事を確認してから立ち上がり、ユメと距離を取る。

 

 一歩。変化はない。

 

 二歩、三歩。

 

 庭へ下り、さらに離れる。十歩ほど進んだところで、ユメの髪の先がわずかに透けた。

 

 もう二歩。

 

 頭上の光が瞬き、右肩の輪郭が桜の景色へ溶ける。

 

「界人さん」

 

 初めて名前を呼ばれた。

 

 先ほどまでより小さな声だった。

 

「そこから動くな」

 

 すぐに引き返す。

 

 俺が近づくにつれて、ユメの姿も元へ戻っていった。

 

 距離だけが条件ではない。俺の魔力か、能力によって無意識に作られている空間の場に反応している。

 

 恐らく、俺が近くにいることで、この世界へ仮の座標を得ている。

 

「幽々子」

 

「なあに?」

 

「まさかとは思うが」

 

「しばらく、その子を預かってくれない?」

 

 やはり、ろくでもない用事だった。

 

「断ると言ったら?」

 

「このまま白玉楼に置いておくわ」

 

 幽々子は穏やかに答えた。

 

 脅しも、冗談もない声だった。

 

「そして、どこまで薄くなるのか見守ることになるでしょうね」

 

 ユメが俯く。

 

 俺は額を押さえた。

 

「選択肢を出すふりをするな」

 

「選ぶのはあなたよ」

 

「片方が崖じゃなければな」

 

「あの」

 

 ユメが遠慮がちに手を挙げた。

 

「私、なるべく迷惑をかけないようにします」

 

「壁と柱を抜ける幽霊を、どう管理すればいい」

 

「お掃除とか、お料理とかも手伝います」

 

 茶のお代わりを実演しようとしたのだろう。そう言って急須を持とうとした手が、何の抵抗もなく取っ手を通り抜けた。

 

 ユメは無言で手を戻す。目が少し潤んでいた。

 

「今、自分で説得力を消したぞ」

 

「応援ならできます!」

 

「騒がしいのは嫌いではないが静かにしてくれる方が助かる」

 

「ヒィン……」

 

 目に見えて肩を落とす。

 

 表情がころころ変わる幽霊だ。

 

 幽々子が笑いを堪えるように袖で口元を隠している。妖夢は申し訳なさそうに視線を逸らした。主の思惑を知らなかったらしい。

 

「映姫さんには?」

 

「知らせてあるわ。すぐには来られないそうだけれど、近いうちにこの子を視てもらえる」

 

「映姫さん?」

 

 新たな人物の名に、ユメが首を傾げる。

 

「分かりやすく言えば、閻魔様だ」

 

「閻魔様、ですか?」

 

 ユメの顔が引きつった。

 

「裁かれるようなことに心当たりでもあるのか」

 

「ありません。たぶん」

 

「なんで目を逸らした」

 

「生徒会の仕事で、ちょっと……本当にちょっとだけ、なくした書類が」

 

「死後の裁きで持ち出すには小さすぎるだろ」

 

「あとは、よく分からない契約書に判子を押しそうになったり」

 

「押したのか?」

 

「押す前に止めてもらいました」

 

「そいつに感謝しておけ」

 

 その瞬間、ユメは困ったような、それでいてどこか懐かしそうな笑顔を浮かべた。

 

 星野という名字を聞いた時と、同じ顔だった。

 

「……梔子」

 

「はい」

 

「帰りたいか」

 

 今度の返事に迷いはなかった。

 

「帰りたいです」

 

「死ぬ前にいた場所へ?」

 

「はい」

 

「未練は?」

 

「……あります」

 

「帰れたところで、向こうの人間に見える保証はない。今の形を保てる保証もない。それでもか」

 

「はい。未練も、後悔もありますから。何も分からないまま消えてしまうより、帰って確かめたいです」

 

 それ以上は聞かなかった。

 

 帰れる保証も、帰った後に何が起きるかも分からない。そもそもキヴォトスという場所がどこにあるのかさえ分からない。

 

 今ここで軽々しく約束できることは何もなかった。

 

 それでも、放っておけば消えるかもしれない相手を前にして、俺が選べる答えなど最初から一つしかない。

 

「映姫さんの見立てが出るまでだ。その後のことは、その時の結果次第で決める」

 

 幽々子が微笑む。

 

「ええ、もちろん」

 

「あんたには言ってない」

 

 ユメへ向き直る。

 

「俺の近くから勝手に離れない。身体や記憶に変化があったら、どんな小さなことでも話す。俺の家では壁を抜けて部屋へ入らない。特に着替えと風呂だ」

 

「分かりました」

 

「本当に分かったか?」

 

「大丈夫です。私、生徒会長でしたから」

 

「急に不安になってきたな」

 

「ええっ!? どうしてですかぁ!?」

 

 本人に自覚はないらしい。会ったばかりだが、そこはかとなくポンコツの気配がする。

 

 それまで黙っていた妖夢が、一歩前へ出て頭を下げた。

 

「界人さん。ありがとうございます」

 

 つられるように、ユメも慌てて頭を下げた。

 

 妖夢も、ユメのことを気にかけていたのだろう。幽々子に言われたから従っていただけなら、こんな安堵した顔はしない。

 

「礼を言うなら、そいつが無事に帰ってからにしろ」

 

「はい」

 

 頼み事をした張本人が、真っ先に言うべき言葉だと思うけどな。

 

 呆れながら目を向けても、当の本人はどこ吹く風だった。

 

「それと次からは、用件を聞く前に俺を逃がしてくれ」

 

「善処します」

 

「しない返事だな、それ」

 

「妖夢も上手になったわねぇ」

 

「幽々子様のせいですね」

 

 妖夢の声には、日頃の苦労が滲んでいた。こいつも大変だからな。

 

     ◇

 

 帰りの門を開くと、ユメはその前で立ち止まった。

 

「わあっ!? 景色が割れましたよ!?」

 

 驚いた勢いで俺の背後まで回り込み、肩越しに裂け目を覗き込む。

 

「割ったんじゃない。二つの場所の距離を折り畳んで、通り道を作った」

 

「ええと……?」

 

「ここに入口、向こうに出口がある。今はそれだけ分かればいい」

 

「説明を諦めませんでした?」

 

「全部聞きたいなら、座標と位相の話から始めるぞ」

 

「それだけ分かれば大丈夫です!」

 

 俺の家の庭へつながる、縦長の空間の裂け目。向こうでは、縁側の黒猫がこちらへ顔だけを向けている。

 

「これ、本当に通って大丈夫なんですか?」

 

「今さら怖がるのか。世界を一つ飛び越えてきたくせに」

 

「そっちは覚えていませんから。これは見た目が怖いです」

 

「真っ直ぐ歩けば着く」

 

「真っ直ぐじゃなかったら?」

 

「試してみるか?」

 

「真っ直ぐ歩きます」

 

 別に斜めに踏み込んでも、着く場所は変わらない。今は黙っておこう。

 

 ユメは背筋を伸ばし、恐る恐る裂け目へ足を踏み入れた。

 

 境界を越える瞬間、その姿がまた薄く揺らぐ。

 

 咄嗟に伸ばした俺の手を、ユメが両手で掴んだ。

 

 ――そこまではいい。だが、なぜかそのまま、俺の腕へ抱きつくようにしがみついている。

 

「おい」

 

「安全のためです」

 

「初対面の男の腕によく抱きつけるな」

 

「助けてくれる人ですし、悪い人ではないと思いましたから」

 

 違う、そうじゃない。善人か悪人かではなく、警戒心の話だ。この年頃の娘は、初対面の異性ともう少し距離を取るものだと思っていた。

 

 男に慣れているのか。逆に、女子校育ちで距離の取り方を知らないのか。今のところ、判断がつかない。

 

 俺が先に門をくぐり、ユメをこちらへ引く。二人が通り終えたところで、背後の景色を閉じた。

 

 白い石段と桜吹雪が一本の線に縮まり、やがて消える。

 

 ユメは俺の手を離すと、物珍しそうに庭を見回した。

 

「ここが界人さんのお家ですか?」

 

「借り物だけどな」

 

「落ち着くところですね」

 

「何もないとも言う」

 

「あ、猫ちゃん」

 

 縁側の黒猫を見つけ、ユメの顔が明るくなる。お前まだそこにいたのか。

 

 駆け寄って屈み、背中を撫でようとする。当然、指先は黒い毛をすり抜け、座布団まで沈んだ。

 

「……触れません」

 

「見れば分かる」

 

「かわいいのに」

 

「見て楽しめ」

 

「そんなぁ」

 

 黒猫は何かを感じたのか、片目だけを開いた。ユメがもう一度手を伸ばすと、するりと身を起こし、俺の方へ逃げてくる。

 

 認識しているのか、それとも偶然か。

 

 抱き上げると、ユメの視線が猫を追った。

 

「界人さん」

 

「駄目だ」

 

「まだ何も言ってません」

 

「顔に書いてある」

 

 猫を渡したところで、ユメの腕を抜けて地面へ落ちるだけだ。

 

 仕方なく縁側へ腰を下ろし、膝の上に猫を置く。ユメも隣へ座った。正確には座る形を取り、猫が喉を鳴らす様子を羨ましそうに眺めている。

 

「あの、界人さん」

 

「今度はなんだ」

 

「ありがとうございます」

 

「一時的に預かっただけだぞ。まだ何もしてない」

 

「それでもです」

 

 横を見る。

 

 ユメは猫ではなく、暮れ始めた空を見ていた。

 

「知らない場所で目を覚まして、知らない人ばかりで。皆さん優しくしてくれましたけど、私がどうなってしまうのか、全然分からなかったので」

 

 明るさを作っていない、静かな声だった。

 

「界人さんの傍にいれば消えないって分かっただけでも、少し安心しました」

 

 初対面の異性から離れられないというのも、年頃の女子には相当な負担かもしれない。

 ついでに言えば、成人男性が女子高生を自宅へ連れ帰ったという絵面は、普通にまずい。幽霊だから問題ない、で通るだろうか。

 

 少なくとも、あの文屋には見つからないようにしよう。

 

「まだ推測だ。俺の傍にいれば絶対に安全だとは限らない」

 

「はい」

 

「元の場所へ戻れるとも、その後も無事でいられるとも言えない」

 

「はい」

 

「……そこで落ち込むところじゃないのか」

 

「できないことより、できるかもしれないことが増えましたから」

 

 ユメはそう言って笑った。

 

 今度の笑顔には、余計な力が入っていなかった。

 

 楽観的なのか、図太いのか。あるいは、その両方か。

 

「そうか」

 

 それだけ答え、猫の背を撫でる。

 

 指先へ伝わる温度を確かめながら、意識の一部を隣の幽霊へ向けた。

 

 視ようとすれば、やはり分かる。

 

 ユメの魂から、細い糸が伸びている。

 

 幻想郷の外へではない。冥界へでも、天界へでも、地獄へでもない。

 

 俺が知るどの境界にも触れず、名前のない彼方へ消えている。

 

 キヴォトス。

 

 聞いたこともない世界から、道を外れた幽霊が一人。

 

 どう考えても面倒事だった。

 

 そして俺は、その面倒事を、自分の家へ連れ帰ってしまったらしい。




お読みいただきありがとうございます。

ここでちょこっと設定の小ネタや説明

主人公の名前は、星野界人(ほしの・かいと)。
「星野」には星の広がる空間、「界」には世界や境界という意味を込めています。同時に、ユメにとって聞き覚えのある「ほしの」という響きでもあります。

界人の能力は、東方Project風に表すなら「空間を操る程度の能力」です。

今回使った収納、二つの場所を結ぶ門、存在する座標を読み取る感覚は、すべてこの能力の応用になります。一方、ユメへ触れるために水を使った術は、能力とは別に界人が後から学んだ魔法です。後で効果が切れてまた触れなくなっています。できることや苦手なことは、物語の中で少しずつ明かしていく予定です。

八雲紫の「境界を操る程度の能力」と似て見えますが、扱う対象は異なります。紫が物事を分ける境界そのものへ干渉するのに対し、界人が動かすのは空間の距離、方向、座標、形です。境界や概念まで操れるわけではなく、既知の座標を測って道を組み立てることを得意としています。

なお、あらすじでもあるように界人の能力とモチーフを考えるうえで、発想元は『ポケットモンスター』のパルキアです。空間と水という要素を借りつつ、東方Projectの能力・魔法体系に合う形へ組み直しています。そのほかに取り入れたモチーフについては、登場した時に改めて補足できればと思います。

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