青の記録と幻想の空間使い   作:弾幕トレーナー

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第三話 七曜の魔女

 

 翌朝、紅魔館へ向かう支度をしていると、梔子が俺の服を見て首を傾げた。

 

「昨日と違う服なんですね」

 

「森と湖を越えるからな。外出用みたいなもんだ」

 

 普段着の着流しではなく、黒紺の詰襟*1に袖を通す。内側は和服に近い打ち合わせだが、裾と脚回りは飛ぶ時に邪魔にならないよう作ってある。

 

 外套までは要らない。襟元の留め具を確かめ、必要な本と術具を内界へ収めた。

 

「男性の服には詳しくないですけど格好いいですね」

 

「どうも」

 

「もっと喜んでもいいんですよ?」

 

「悪い気はしてない。けど、これ以上どう喜べばいいんだ」

 

「こう、照れたり」

 

「出発するぞ」

 

「照れてます?」

 

「置いていくぞ」

 

「離れたら消えちゃいます!」

 

 分かっているなら早く来い。

 

 戸締まりを済ませ、家の前へ出る。

 

 朝の人里は、まだ薄い霧の中にあった。炊事の煙が屋根の間から昇り、遠くで店の戸を開ける音がする。

 

 梔子は俺の斜め後ろを歩くように浮かんでいた。正確には、歩く真似をしながら少し浮いている。幽霊であるから歩く動作は不要なのだが、飛ぶのにまだ慣れていないせいだろう。

 

「門で行かないんですか?」

 

「行けなくはないが、お前を連れたまま長距離の門を通る気がないだけだ」

 

「白玉楼からは通りましたよね」

 

「確かに問題はなかった。それでも、今思えば不安定なお前を連れて、何度も試すべきじゃない」

 

「慎重なんですね」

 

「預かった相手で安全試験をするほど無責任じゃない」

 

「では、私のために徒歩で行くんですね」

 

「飛ぶけどな」

 

「……飛ぶ?」

 

「割と距離もあるしな、歩くより早いぞ」

 

「待ってください。飛ぶって、今さらっと何を――」

 

 人里の出口付近で地面を蹴る。

 

 足元へ薄い水の膜を広げ、その面を空へ折り上げる。落ちる方向を少しだけ横へずらせば、身体は風へ乗った。

 

「わっ」

 

 梔子のいる空間を周囲ごと持ち上げ、俺へ向かって落ちるよう方向を変える。見えない手で引くように、その身体も後から浮かび上がった。

 

 慌てて両腕を広げ、あたふたと存在しない足場を探す姿は、どう見ても飛ぶのに慣れていない。

 

「ヒィン! と、と、飛んでるぅ!」

 

「力を抜け。お前のいる空間ごと俺が引いてる。勝手に落ちたりはしない」

 

「この高さも、落ちること自体も怖いんです!」

 

「幽霊でも高いところは駄目なのか」

 

「生きていた頃は飛べなかったので!」

 

「俺も昔は飛べなかったな」

 

「練習したら飛べるようになるものなんですか!?」

 

「幻想郷なら、飛べるやつなんざ大勢いる」

 

「人が飛ぶことを普通みたいに言わないでください!」

 

 騒ぐ梔子を引き連れ、人里の屋根を越える。

 

 高度を上げすぎないよう森の上を進む。

 

 意識を広げれば、木々の間を飛び回る妖精や、獲物を探してうろつく何かの位置は大まかに分かる。進路の先で動く気配を拾うたび、余計な連中と出くわさないよう緩く軌道を曲げていった。

 

 朝露をまとった木々が下を流れ、やがて視界の先へ霧の湖が現れる。

 

 しばらく飛んでいるうちに慣れたのか、梔子は恐る恐る下を覗き込み、今度は流れていく景色を楽しみ始めた。

 

 湖面を覆う白い霧。その向こうに、赤い館が霞んでいる。

 

「あれが紅魔館ですか?」

 

「そうだ」

 

「すごい。本当に物語に出てくるお城みたいです」

 

「館だ。城と言うと、主が喜ぶかもしれないけどな」

 

「どういう方なんですか?」

 

「吸血鬼は知っているか?」

 

「きゅうけつき」

 

 梔子の声が一段低くなった。

 

「人の血を吸う、あの?」

 

「ああ、それだ」

 

「どうしてそんな場所にお師匠さんが住んでいるんですか?」

 

「住み込みの魔法使いだから、としか言えないな」

 

「大丈夫なんですか?」

 

「というと?」

 

「界人さんと、そのお師匠さんがです!」

 

 ああ、なるほど。俺と師匠の方を心配していたらしい。

 

「館の主も師匠も人外で、友人同士だ。俺もそれなりに付き合いがある。心配するようなことは何もない」

 

「なら大丈夫ですね。……あれっ、私は?」

 

「さあ?」

 

「そんなぁ」

 

 梔子が目に見えて肩を落とす。

 

「冗談だ。俺が連れてきた客へ、理由もなく噛みつくような連中じゃない」

 

「最初からそう言ってください!」

 

 反応が大きいので、ついからかいたくなる。普段は周りにからかわれる側だから、こうして相手の反応を楽しむのは妙に新鮮だった。

 

 梔子はしばらく、俺の横でぎゃあぎゃあと文句を言い続けた。

 

 湖を渡り、紅魔館の門前へ降りる。

 

 門柱の前では、赤い髪の少女がゆっくりと両腕を巡らせていた。流れるような動きに合わせ、足元の草が風もないのに波打っている。

 

 居眠りしていないのは珍しい。俺たちが着地すると、少女――紅美鈴は動きを止めた。

 

「おはようございます、界人。今日は早いですね」

 

「おはよう。美鈴、朝早くに悪い。アポなしだが、パチュリーに用がある」

 

「私との稽古でもなく?」

 

「違う。その場合はちゃんと予定を聞く」

 

「残念です。せっかく前より足運びがよくなったか見てあげようと思ったのに」

 

「それは帰りに余力があったらで」

 

「余力がなくても、受け身の練習はできますよ」

 

「それは倒される前提だろ」

 

 以前から、門番は身体を動かせる相手が少なくて暇だと愚痴を聞かされている。足運びを心配しているというより、稽古相手を捕まえたいだけだろう。

 

 美鈴の視線が俺の横へ移る。

 

「それで、こちらの方は?」

 

「梔子ユメ。事情があって預かってる幽霊だ」

 

「初めまして!」

 

 自分の姿が見えていることが嬉しかったのか、梔子が勢いよく頭を下げる。

 

「初めまして。紅美鈴です。門番をしています」

 

 美鈴も笑顔で礼を返した。

 

 梔子は顔を上げると、何かに気づいたように美鈴を見直した。それから俺へ身を寄せ、小声で尋ねる。

 

「この方も人外なんですか? 綺麗な人にしか見えませんけど」

 

「妖怪だな」

 

「綺麗と言ってもらえるのは嬉しいですけど、聞こえてますよ」

 

「わわっ、すみません!」

 

 慌てた様子で、梔子は頭を下げた。人にしか見えなくてもまずは人外と思えという前の話を覚えていたらしい。

 

「気にしなくていいですよ。人間に間違われるのは、悪い気はしませんから」

 

 美鈴はそう言うと、わずかに目を細めた。

 

「ただ、少し変わった幽霊ですね。気はあるのに、流れがここへつながっていない」

 

「分かるのか」

 

「大まかには。詳しいことなら、パチュリー様の方が適任でしょう」

 

 気を操る能力を持つだけあって、その点では俺より鋭い。

 

「通してもらえるか?」

 

「咲夜さんへ連絡します。少し待ってください」

 

 美鈴が館へ顔を向けた、その瞬間。

 

 瞬きもしていないのに、景色が一コマだけ飛んだ。

 

 止められた時間の中は、俺にも見えない。ただ、空間感覚には、館の奥にあった人一人分の位置が門の内側へ移ったという結果だけが残っていた。

 

 そちらへ目を向けると、門の内側に銀髪の少女が立っていた。

 

 現れた、というより、最初からそこにいたと錯覚するほど唐突だった。

 

 白と青のメイド服には乱れ一つなく、突然の登場さえ予定どおりに見せる瀟洒な立ち姿だった。

 

 少女、十六夜咲夜は、すでに自分を見ている俺と目を合わせる。

 

「お待たせしました」

 

「相変わらず、気づくのが早いですね」

 

 俺と目が合った咲夜が、何事もなかったように言う。

 

「存在が消えているわけではないからな」

 

「えっ!? 今、どこから来たんですか!?」

 

 梔子が目を見開く。

 

 初めて見る者なら、その反応が普通だ。

 

「館の中からです」

 

「えっ、でも扉が開くところも通るところも見えませんでしたけど」

 

「急いだものですから」

 

 咲夜は何でもないことのように答え、俺たちへ一礼した。

 

 梔子は門の奥と咲夜を何度も見比べ、自分が瞬きをしたのか、それとも何か見落としたのかと首を傾げている。

 

 見間違いではないが、種明かしは後でいい。

 

「おはようございます、界人さん。パチュリー様から話は伺っていませんが」

 

「今から話すからな」

 

「事前の約束もなく、厄介事を持ち込んだと」

 

「理解が早くて助かる」

 

「褒め言葉には聞こえませんね」

 

「知ってる」

 

 咲夜の視線が梔子へ向く。

 

「そちらの方が厄介事ですか?」

 

「梔子ユメです。厄介事よりは、迷子の方が嬉しいかなぁ……なんて」

 

「どっちもだろう」

 

「酷いですぅ。界人さんはどちらの味方なんですか?」

 

「事実の味方」

 

 咲夜がかすかに笑う。

 

「申し遅れました。十六夜咲夜と申します。紅魔館でメイド長を務めています」

 

「はい!よろしくお願いします、咲夜さん」

 

「訪問理由はなんとなく分かりました。事情は歩きながら伺いましょう。どうぞ中へ」

 

 門をくぐり、館へ入る。

 

 そこで、先ほどの話を思い出したらしい梔子が口を開いた。

 

「そういえば吸血鬼の方が、紅魔館の主なんですよね。ご挨拶しなくていいんですか?」

 

「レミリアなら、どうせ寝てるからいい。起きていても、パチュリーに用があるなら先に行けと言うだろ」

 

「朝だからですか?」

 

「一応、普通の吸血鬼よりは人間の時間に合わせているようだが、それでも吸血鬼だからな。午後までは大抵寝てる」

 

「本当に夜行性なんですね……」

 

 赤を基調とした廊下は、朝一番に見るには少々目にきつい。

 

 しばらく歩き、角を二つ曲がったところで、梔子も別の違和感に気づいたらしい。

 

「あの、このお屋敷、外から見たより広くありませんか?」

 

「広いな」

 

「やっぱりそうですよね?」

 

「咲夜が空間を広げてるからな」

 

「あなたや隙間妖怪ほどのものではありませんよ。能力の応用です」

 

 咲夜が前を向いたまま訂正する。

 

「能力! それって界人さんみたいなものですよね。どんな能力なんですか?」

 

 ここへ来てから何度目か分からない、未知のものを前にした顔だった。疑問より先に好奇心が勝ったらしく、梔子の目が分かりやすく輝いている。

 

「咲夜は時間を操る。止めたり、遅くしたり、速くしたりだな」

 

「時間を止めるんですか!? すごい能力じゃないですか! あっ、では、さっき急に現れたのも?」

 

「ええ。止まった時間の中を歩いただけです」

 

 咲夜は仕事中らしい丁寧な笑みを梔子へ向ける。だが次の瞬間、その微笑みのまま俺へ咎めるような視線を寄越した。

 

「しかし、乙女の能力を本人の許可もなく明かすとは感心しませんね」

 

「今さら気にするような柄か?」

 

「そういうところですよ」

 

 咲夜は咎める口調のまま、特に気分を害した様子もない。俺がこの館の廊下について愚痴を言うのと同じ、いつもの応酬だ。

 

「でも、時間を操って、どうしてお屋敷が広くなるんですか?」

 

「時間と空間は完全に別のものじゃない。時間を引き延ばせば、その中へ置ける空間も増やせる。小さな箱の中へ、長い廊下を折り畳んで押し込むようなものだ」

 

「分かったような、余計に分からなくなったような……」

 

「外では十歩で着く場所へ、館の中では百歩かかるようにしている。今はその程度の理解で構いません」

 

「なるほど。それなら分かります」

 

 梔子は納得したように頷いた後、今度は俺を見た。

 

「ということは、界人さんも時間を操えたりするんですか?」

 

「限定的にはな。内界の時間を遅らせて食料を保存したり、逆に進めて酒を熟成させたりはできる。だが、自分以外の時間を止めて動くような真似は割に合わない」

 

「能力って、料理にも使えるんですね」

 

「そこに食いつくのか」

 

 梔子は感心したように頷いている。派手さより、食べ物の方が身近なのだろう。

 

「この館の広げ方は時間側からの干渉だ。だから俺が空間だけを見ても、普通に曲げられた場所より感覚がずれる」

 

「館の中で門を開かなければ問題ありません」

 

「見取り図と実際の距離が合わない館を歩く側にもなってみろ。位置は分かっても、目的地まで何歩かかるかが毎回ずれるんだぞ。こっちとしては気持ち悪くて仕方ない。必要以上に廊下を延ばして、掃除の手間まで増やして、何が楽しいんだ」

 

 咲夜は返事の代わりに、右手を小さく振った。

 

 銀色が視界の端を走る。

 

 頬の横へ手を上げると、指の間に一本のナイフが収まった。

 

「客へ刃物を投げるな」

 

「当てるつもりなら、取れませんよ。それにあなたなら問題もないでしょう」

 

「界人さん!?」

 

「挨拶みたいなものだ、気にするな。こいつ以外にも急に手を出す奴はいる」

 

「物騒すぎませんか!?」

 

「だから昨日からそう言っている」

 

 咲夜へナイフを返す。

 

「腕は落ちていないようですね」

 

「朝から確認しなくていい。それで、さっきの何が気に障ったんだ。疑問を口にしただけだろ」

 

「心当たりが一つだと思っているのですか?」

 

 どうやら廊下への文句だけではなかったらしい。心当たりが多くて絞れない。

 

「えっと、咲夜さんも、その……人外さんなんですか?」

 

 梔子が恐る恐る尋ねる。時間を止め、脈絡もなくナイフを投げてくる少女を前にすれば、人間かどうか疑いたくなるのも無理はない。

 

 まあ、人間かどうか以前に変なやつではある。

 

 咲夜は両手を腹の前で重ね、これ以上ないほど瀟洒な笑みを浮かべた。

 

「いいえ。どこからどう見ても、普通の人間でございます」

 

 梔子が俺を見る。本当なのかと、視線だけで確認してきた。

 

「本人がそう言ってるなら、そういうことにしておけ」

 

「含みのある言い方をしないでください。本当に人間です」

 

「どうだか」

 

「まあ、界人さんも人のことは言えないと思います」

 

 失礼な。

 

「俺は普通の人間だ」

 

「空を飛んで、空間を操れて、飛んできたナイフをつかむような方が?」

 

「幻想郷なら珍しくもない」

 

「幻想郷って、一体……」

 

 地下へ続く階段を下りる。

 

 扉の先には、果てが見えないほどの書架が並んでいた。

 

 本の匂いと、乾いた紙の匂い。閉ざされた地下だというのに空気は澄んでおり、魔力だけが薄い霧のように満ちている。

 

 書架の間を、赤い髪と黒い翼を持つ少女が、何冊もの本を抱えて横切った。

 

「……ゲヘナの人みたい」

 

 梔子が小声で呟く。

 

「ゲヘナ?」

 

 地獄のことかと思ったが、どうも違うらしい。

 

「角や翼のある人が多い学園です。あの方は翼だけですけど」

 

 キヴォトスでは、角や翼があっても人の範囲なのだろうか。こちらの妖怪や悪魔と同じものかも分からない。聞くことが一つ増えたな。

 

 静かな図書館では、小声もよく通る。少女が足を止め、こちらへ向き直った。

 

「その学園には心当たりがありませんが、私は小悪魔です。パチュリー様のお手伝いをしています」

 

「梔子ユメです。初めまして、小悪魔さん」

 

「はい。初めまして」

 

 小悪魔は本の山を抱えたまま器用に一礼し、再び書架の奥へ飛んでいった。

 

「わぁ……」

 

 小悪魔の背を追った梔子の視線が、そのまま果ての見えない書架へ移る。

 

「すごい数です。全部、魔法の本なんですか?」

 

「大半はな。普通の本もある。ただ、勝手に触ると噛みつく本もあるから気をつけろ」

 

「本まで噛みつくんですか!?」

 

「静かにしてちょうだい」

 

 書架の奥から、低い声が飛んできた。

 

 長机の向こうで、紫色の髪をした少女が本から顔を上げる。

 

 七曜の魔女、パチュリー・ノーレッジ。

 

 百年以上を魔法の研鑽へ費やした、本物の魔法使いだ。

 

「図書館では声を抑えなさい」

 

「す、すみません」

 

 梔子が口元を両手で押さえる。

 

 パチュリーは俺の隣に浮かぶ幽霊を一瞥し、しばらく見つめた後、読んでいた本へ栞を挟んだ。

 

「説明して」

 

「どこから」

 

「あなたが、その妙な亡霊と出会ったところから」

 

「見ただけでそこまで分かるのか」

 

「死人であること。魂がこちらの輪廻へつながっていないこと。あなたの空間へ寄りかかるように輪郭を保っていることまでは分かるわ」

 

「出身までは?」

 

「説明を聞かないと無理ね。でも、あなたが朝から私を訪ねるほど困っている。それだけで、普通の迷子ではないでしょう」

 

「十分見抜いてるじゃないですか……」

 

 梔子が自分の身体を見下ろす。

 

「それで、界人。今度は何を拾ったの?」

 

「人を拾得物みたいに言うな」

 

 咲夜がいつの間にか用意していた椅子を引く。俺と梔子が机の前へ座ると、紅茶まで置かれていた。

 

 梔子の前にも、俺たちと同じカップがある。事情を聞く前から、客を一人だけ外すつもりはなかったらしい。こういうところまで、仕事には抜かりがない。

 

 梔子が嬉しそうに取っ手へ手を伸ばし、その指がすり抜ける。

 

「あ……」

 

「咲夜、気遣いはありがたいが、こいつは物に触れない。そのカップを少し借りるぞ」

 

「かしこまりました」

 

「何に使うの?」

 

 パチュリーが尋ねる。

 

「紅茶の香りと味を霊体側へ写す」

 

「水と月?」

 

「ああ」

 

 カップの周囲へ水の魔力を巡らせ、月の光で形を写し取る。紅茶の香りと熱を包んだ半透明のカップが、梔子の手元へ重なった。

 

 半透明のカップが本物と重なりきるのを待ち、梔子は前よりも迷いなく取っ手をつかんだ。

 

「いつもありがとうございます!」

 

「ずいぶん回りくどいことをしているのね」

 

「飲めるならいいだろ」

 

「面白い発想ね。ひとまず成功もしているし。術式を見せてみなさい。効率が悪ければ、組み直しを宿題にするわ」

 

「相談より先に課題を増やすな」

 

「仲がいいんですね。師匠という話も、本当だったんですね」

 

 梔子が小声で言った。

 

「嘘をつく理由がないだろ」

 

「だって、界人さんがお師匠さんの性格に難があると言っていたので、てっきりうまくいっていないのかと」

 

 図書館から音が消えた。

 

 パチュリーが俺を見る。

 

 咲夜も俺を見る。

 

 梔子だけが、何かを間違えたらしいと気づいて目を泳がせている。

 

「梔子」

 

「はい」

 

「本人の前で言うなよ」

 

「……ごめんなさい」

 

「後で詳しく聞きましょう」

 

 パチュリーの声は平坦だった。

 

 だから余計に怖い。

 

 視界の端で、咲夜が口元を押さえている。後で覚えてろ。

 

「それより、こいつを調べてほしい」

 

「話を逸らしたわね」

 

「優先順位を守っただけだ」

 

「まあいいわ。けれど、ただで引き受けると思っているの?」

 

「思ってない。梔子の魂と光輪、元の世界へ伸びている経路。調べた記録はそっちにも渡す」

 

「それだけ?」

 

「向こうへ着いたら、こちらにない法則や技術も調べる。持ち出して問題のない資料と素材なら持ち帰る」

 

「あなた自身の記録も必要ね」

 

「俺の?」

 

「異世界の法則へ空間を操る人間が接続するのよ。術者側の観測記録も必要だわ」

 

「了解した。他にも有用な現象があれば、記録を共有する」

 

 未知の法則を既存の術式と照らし合わせれば、魔法への理解を一段深められるかもしれない。知的好奇心だけでなく、術の幅を広げる実利もある。その点では俺も、この魔女たちと大差はなかった。

 

「なら、相談には乗るわ。まず経緯を全部話しなさい」

 

 白玉楼で出会った時から、映姫さんの見立てまでを説明する。

 

 その間、パチュリーは一度も口を挟まなかった。伏せた睫毛の下で紫の瞳だけが動き、俺と梔子、頭上の光輪を順に観察している。

 

 俺が言葉を切るたび、遠くで本を戻す音がした。図書館を満たす静けさの中で、梔子だけが何度も俺とパチュリーの顔を見比べている。

 

 話が終わると、机の上へ七枚の小さな札を並べる。火、水、木、金、土、日、月。それぞれ異なる色の光が、書かれた文字の上へ灯った。

 

「あの、私は研究されるんでしょうか? 痛かったり……」

 

 梔子が、自分の身体を抱くようにして尋ねる。物語のような魔法へ目を輝かせるのと、自分が調べられるのとでは話が違うらしい。病院へ連れて来られた猫のような顔をしている。

 

「嫌なら断っていい。必要なら、別の調べ方を探す」

 

「危険なことや、痛みを伴うことは先に説明するわ。途中でやめたければ、そこで中止もする」

 

 パチュリーの答えを聞き、梔子は七枚の札と俺を順に見た。

 

「それで帰る方法が分かるかもしれないなら、お願いします」

 

「そう、では梔子ユメ。こちらへ」

 

「はい」

 

「痛みを感じたらすぐに言いなさい。あなたの世界の法則が、こちらの魔法へどう反応するかは未知数だから」

 

「分かりました」

 

 梔子が札の中央へ立つ。

 

 パチュリーが指先を動かすと、七つの光が順に浮かび上がった。

 

 薄暗い図書館へ七色の光が広がり、梔子の淡い髪と、その向こうに透けた書架を染めていく。自分が調べられている不安はあるらしい。それでも光が切り替わるたび、梔子の視線は札の動きを追っていた。

 

 火の赤は梔子の輪郭を通り抜けた。

 

 木の緑は、わずかに揺れただけ。

 

 土は足元へ形を作れず、日の光は頭上の輪へ触れた瞬間に弾かれた。

 

 水が動く。

 

 青い光は梔子を一周し、その身体から細い糸を引き出した。糸の一端は俺へ、もう一端は何もない空間へ延びている。

 

 続いて金が糸の形を縁取り、月の光が梔子の全身を薄く覆う。

 

「痛みは?」

 

「ありません。少しくすぐったいです」

 

「魂がくすぐったいって、どこで感じるんだ」

 

「私に聞かれても分かりませんよ」

 

「二人とも少し黙って」

 

 パチュリーが目を細める。

 

 何もない方へ伸びた糸が、時折、遠くから引かれるように震えていた。

 

 目で追えば、糸は書架へ届く前に見えなくなる。だが、そこで途切れているわけではない。空間へ触れて確かめると、細すぎて掴めない何かが、俺の知る距離や境界の外へ抜けていた。

 

 昨日、白玉楼で先を探ろうとして失敗したものと同じだ。今は水と金の光が輪郭を与えているおかげで、かろうじて向きだけは見える。

 

「界人。今、この子へしていることを止められる?」

 

「一時的なら大丈夫だ」

 

「三秒だけ止めなさい。私が月で輪郭を保つ」

 

「消えそうになったら戻すぞ」

 

「当然よ」

 

 意識を梔子から外す。

 

 一秒。

 

 俺へつながる糸が消え、代わりに何もない空間へ伸びた糸が強く張った。

 

 二秒。

 

 梔子の輪郭が遠ざかる。距離ではない。ここに立っているという事実だけが薄くなっていく。

 

 三秒を待たず、固定を戻した。

 

 空間へ座標を打ち直す。梔子の身体が一度大きく揺れ、元の濃さへ戻った。

 

「界人さん?」

 

「大丈夫だ。気分は」

 

「一瞬、名前を呼ばれたような……」

 

「誰に?」

 

「分かりません」

 

 パチュリーが七枚の札を止める。

 

「あなたがこの子を現世へ固定している、という理解は少し違うわ」

 

「どう違う」

 

「固定しているのは魂ではなく、居場所よ」

 

 パチュリーは水の札だけを指で押さえた。

 

 その言葉を、頭の中で一度組み直す。

 

 梔子という魂をこちらへ縛りつけているのではない。梔子が今ここにいると、俺の能力が周囲の空間へ認識させている。似ているようで、意味はまるで違った。

 

「この子の魂には、今も元の世界へつながる細い経路が残っている。でも、その世界の中で自分がどこにいるのかを失っている。住所のない家、座標のない点と同じ。だから、最も近い死者の領域へ流れ着いた」

 

「映姫さんが言っていた、分かたれたものと結び直そうとする性質か」

 

「おそらく。この子固有の性質なのか、キヴォトス人全体のものなのか、それとも頭上のヘイローによるものなのか。経路が残ったから魂が形を保てたのか、魂の性質が経路を残したのかまでは分からないわ」

 

「俺の能力が、仮の住所を与えてるのか」

 

「そうね。あなたの空間認識へ寄生している、と言ってもいい」

 

「寄生!?」

 

 梔子が青ざめる。俺に何かしらの影響があると思ったのだろう。

 

「言い方」

 

「魔法的には適切よ」

 

「もう少し本人へ配慮しろ。あと、安心しろ。俺には負担も何もない」

 

「では、間借り」

 

「急に生活感が出ましたね」

 

 梔子が少し安心したらしい。

 

 パチュリーは気にせず続ける。

 

「問題は、元の世界へ伸びる経路が細すぎること。これを目印に門を開けば、途中で見失う可能性が高い」

 

「太くはできるか」

 

「無理に引けば魂が裂けるわ」

 

「却下だな」

 

「ええ。だから、糸を太くするのではなく、周囲へ層を作る」

 

 パチュリーが白紙を引き寄せ、円を一つ描いた。

 

 中心へ小さな点。その周囲へ、幾重もの円が重ねられていく。

 

 梔子も身を寄せ、増えていく円を目で追っていた。専門的な話は分からなくても、自分の身に関わるものだ。聞き漏らすまいとしているのが横顔から伝わってくる。

 

「異物を排除できないなら、包み込んで安定させる。真珠と同じね、あなたの得意分野でしょう?」

 

 その言葉に、襟元へ触れる。

 

 真珠色の留め具。その内側には、パチュリーと作った空間座標器――空珠(くうじゅ)が埋め込まれている。

 

 最初から今の形だったわけではない。空間を小さな器へ固定しようとしては歪ませ、そのたびに設計を直した。俺が感覚としてしか捉えられなかった部分を、術式として組み直したのがパチュリーだ。

 

「空珠を核にするのか」

 

「今、身につけている空珠の片方を使いなさい。金で骨格を作り、水であなたの魔力を循環させ、月で魂を守る。外側へ薄い空間を何層も重ねれば、あなたから離れても一定時間は居場所を保てるはずよ」

 

「一定時間というと」

 

「完成度次第。今のあなたなら、最初は半刻も保てば上出来」

 

「界人さんから離れられるんですか?」

 

 梔子が身を乗り出す。

 

「成功すればね。ただし、距離と時間には限界がある。壊れれば、蓄えた空間をたどって界人のもとへ引き戻されるようにする」

 

「消えるわけではないんですね」

 

「そのための多層構造よ。外側から順に剥がすことで、核が壊れる前に退避させる」

 

 紙の上の円が、真珠に見えてきた。

 

 異物を何層にも包み、守るための珠。

 

「護珠(ごじゅ)」

 

「何?」

 

「名前。守る珠で、護珠」

 

「そのままね」

 

「分かりやすくていいだろ。それに、名前にも力が宿る」

 

「悪くはないわ」

 

 師匠からすれば、それで十分な評価だった。

 

「それで、門の方は」

 

「護珠だけでは足りない」

 

 パチュリーは最初の円から、離れた場所へもう一つ円を描く。二つの間を一本の線でつないだ。

 

 梔子の視線も、最初の円から二つ目へ移る。先ほどまでと違い、その線が何を意味するのかは説明される前から分かったらしい。表情から、わずかに浮ついていた期待が消えた。

 

「向こうへ行くための目印は、この子に残る経路で代用できる。帰るためには、幻想郷側の座標を別に保存しなければならない」

 

「残りの空珠を置いていく」

 

「それだけでは弱い。行き先は別世界よ。砂浜から一粒の砂を探すようなものだわ。行きはこの子のつながりをたどれるけれど、帰りにも同じくらい明確な目印が要る。異世界をまたいでも切れないよう、幻想郷の境界へ固定しなさい」

 

「博麗大結界か」

 

「候補の一つ。ただし、勝手に打ち込めば巫女に殴られるわよ」

 

「先に話す」

 

「あなたは時々、順序を守るわね」

 

「普段から守ってるはずだが?」

 

「そういうことにしておきましょう」

 

「界人さん、皆さんから信用されてないんですか?」

 

「梔子。今は黙ってろ」

 

「また私だけですか?」

 

 パチュリーが紙へ三つ目の印を書き足す。

 

 二つの世界と、その間を通る一本の道。紙の上なら指先ほどの距離しかない。実際には俺の感覚さえ届かず、梔子に残った糸を借りなければ向きすら分からない場所だ。

 

「もう一つ。あなたたちが通る経路」

 

「梔子が来た道を逆にたどる」

 

「それが最も近いでしょうね。死者の領域を経由するなら、閻魔の許可と、魂を守る者が必要になる」

 

「映姫さんと幽々子には相談する」

 

「そして、門を開くのはあなた自身。私は術式を検査して、観測記録を取るだけよ」

 

「好きにすればいい。ただ、記録の写しは俺にも回してくれ」

 

「当然でしょう。あなたも術者であり、研究する側なのだから」

 

 必要な条件は出揃ったらしい。パチュリーは早くも設計へ意識を移し、机上の紙を脇へやった。

 

 七枚の札から光が消え、図書館は元の薄暗さへ戻る。ここまでが診断で、ここから先は術具を作るための話らしい。パチュリーの指はもう、先ほどとは別の式を紙の上へ組み始めていた。

 

「そうね。まずは護珠を作りなさい」

 

 パチュリーが新しい紙を引き寄せ、今度は細かな術式を書き始める。

 

「層を均一に重ねるには、今のあなたの魔力操作では粗い。それに、異世界へ伸びる細い糸を見失わず辿る技術も必要になる。アリスのところへ行って、複数の糸を同時に、精密に扱う方法を教わりなさい。魔力操作のいい練習にもなるわ」

 

「パチュリーさんが教えるのでは駄目なんですか?」

 

「私でも基礎は教えられるわ。でも、こちらでは異世界の経路と門の術式を調べる必要がある。それに、魔力の糸を通し、同時に操る技術なら、アリスの方が上よ」

 

「分担した方が早い、ということですか」

 

「そういうこと」

 

「異世界の魂と新しい術具の話をすれば、興味は持つだろう。ただでは教えないだろうからな」

 

 アリスも同類だ。交換する記録と条件を用意すれば、協力までこぎつけるのは難しくはないだろう。

 

 頭に浮かぶのは、森の中を舞う人形の群れだ。一体ごとに別の動きをさせながら、糸同士を絡ませることもない。空間を大きく動かすことには慣れていても、細い糸を何本も同時に扱う技術なら、確かに俺よりアリスの方が上だった。

 

「どれくらいかかりますか?」

 

 梔子が尋ねた。

 

「あなた次第ではないわ。作るのは界人だもの」

 

「界人さんなら、すごい魔法使いですし、すぐですよね?」

 

「ふふ。すごい魔法使い、ね。普通の弟子なら一月」

 

「生憎、七曜の魔女の弟子だ。普通で終わる気はない」

 

「では、十日」

 

「いいや、五日で作る」

 

「そう」

 

 パチュリーの口元が、ほんの少しだけ上がった。

 

 乗せられた気がしないでもない。

 

 こちらが食いつくと分かった上で、十日と言ったのだろう。弟子の扱いをよく心得た師匠だった。

 

「無理はしないでくださいね」

 

「お前を元の世界へ送る道具だぞ」

 

「それでもです。私が理由で無茶をしてほしくはないですから。それに、急いで界人さんが倒れたら、私はまた消えかけるんでしょう?」

 

 梔子は当然のように言った。

 

 付き合いはまだ短い。それでも、この数日で梔子がどういう人間だったのかは、少しずつ分かってきた。

 

 自分のことより、まず隣にいる相手を気にする。たぶん、こいつは生きていた頃からそういう人間だったのだろう。

 

「五日は、無理をするうちに入らない」

 

「今、少し間がありました」

 

「気のせいだ」

 

「界人」

 

 パチュリーが書き終えた紙を差し出す。

 

「急ぐことと、工程を飛ばすことは違うわ。失敗して困るのは、あなた一人ではない」

 

「分かってる」

 

「分かっている返事には聞こえないわね」

 

「工程は飛ばさない。寝るし、食う。五日で足りなければ延ばす」

 

「ならいいわ」

 

 紙を受け取る。

 

 水、月、金。三つの属性と、俺の空間を重ねる術式。

 

 元の世界へ戻る門は、まだ影すら見えていない。

 

 それでも、作るべきものは見えた。

 

「では、五日後に」

 

 梔子が明るい声を出す。

 

「決定じゃない」

 

「知ってます、目標です!」

 

「作業するのは俺だぞ」

 

「私は応援しますね!」

 

「必要かしら、それ」

 

「ヒィン……」

 

 図書館へ、パチュリーの小さなため息が落ちた。

 

 ただしその目は、すでに次の本を探して書架の奥を見ている。

 

 口では検査するだけと言いながら、すでに机の余白は観測項目で埋まり始めている。

 

 こちらも助力を得て、向こうは未知を調べる。師弟だからと一方的に甘えるより、よほど分かりやすい関係だった。

 

 性格には難がある。

 

 だが、頼る相手を間違えてはいなかった。

 

*1:
服装のイメージは、型月の織田信長(アーチャー)が着用する、和装を取り入れた軍服風の衣装を参考。色や細部は界人用に変更しています。




今回登場したパチュリー・ノーレッジは、火・水・木・金・土の五行に日と月を加えた「七曜」の魔法を扱います。原作では水が沈黙・浄化、月が受動・防御と結びつき、五行では金が水を生む関係にあります。本作ではそこから発展させ、金を術式の骨格と固定にも用いています。

また、パチュリーは生まれつき喘息を患っており、体調によって魔法の詠唱にも影響が出ることは原作設定です。

実は界人が掌握している空間の内側では、空気の流れを整え、埃や魔法薬の粉末といった刺激物を遠ざけられるため、パチュリーの発作が普段より起こりにくく、体調も安定します。そのため本人としても、界人には図書館へ来てもらった方が助かるのですが、それを素直に口にするかは別の話。界人も世話になっている親切心で勝手に整えている。

紅美鈴は紅魔館の門番を務める妖怪で、「気を使う程度の能力」を持ち、武術にも秀でています。本作では界人へ体術を教える相手の一人ですが、美鈴としては門番中の暇を潰せる稽古相手ができた、という面もあったりします。

咲夜は「時間を操る程度の能力」を持ちますが、原作でも時間操作と空間操作は密接なものとして扱われています。そのため本作では、時間から空間へ働きかける咲夜と、空間を切り離した結果として内部時間へ干渉する界人を、似ているようで異なる能力者として描いています。

ちなみに、界人は紅魔館の面々の中では、実は咲夜を一番苦手としていたりします。ナンデダロウナァ。
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