青の記録と幻想の空間使い 作:弾幕トレーナー
「駄目ね」
紙を渡してから、まだ半刻も経っていなかった。
魔法の森にあるアリスの家。
窓の外では、昼だというのに森の奥が薄暗い。木々の隙間から差し込む光が、窓辺に吊られた乾燥薬草と、壁際へ整然と並ぶ人形の影を床へ落としている。
室内には淹れたばかりの紅茶の香りと、木や布を削った時の乾いた匂いが残っていた。机の上にまで何体もの人形が座っているせいで、相談へ来たはずなのに大勢から品定めされているような居心地の悪さがある。
窓際の机でパチュリーの術式を読み終えたアリス・マーガトロイドは、最初の感想としてそう言った。
「どこが」
「全部」
「そうか、帰るぞ梔子」
「まだ来たばかりですよ!?」
「冗談よ。座りなさい」
アリスは紙を机へ戻し、向かいの椅子を顎で示した。
「パチュリーの理論に問題はないわ。駄目なのは、これを五日で形にしようとしているあなたの見通し」
「本人から聞いたのか」
「使い魔が手紙を持ってきたの。『弟子がまた無茶を言い出したから、現実を教えてあげて』と」
「余計なことを」
「界人さん、無茶の件、信用されてませんね」
「梔子。どっちの味方だ」
「事実の味方です」
「おっ、意趣返しか?」
梔子は答えず、机の端に座る小さな人形へ顔を近づけた。
赤い服を着た金髪のかわいらしい人形が、梔子を見返すように首を傾げる。
「動きました!」
「上海よ」
アリスが指先をわずかに動かす。
それに連動して、上海も小さな両腕を広げた。見えない糸へ引かれるように机から浮かび上がり、梔子の周囲を一周する。梔子も目で追いながら、その場でくるりと回った。
「かわいい……この子も魔法で?」
「私が魔力の糸で操っているの」
「生きているわけではないんですか?」
「今は、まだね」
「今は?」
「いつか自分で考え、自分で動く人形を作るのが私の研究よ」
梔子は上海と目を合わせたまま、感心したように息を漏らした。
「すごいです。とっても素敵な目標ですね! じゃあ、将来はお話もできるんですね」
「できるようにするつもり」
「その時は、私にも紹介してください」
「ええ」
アリスの返事は短かったが、声は少し柔らかい。
その目標が叶う頃、梔子がまだ幻想郷にいるとは限らない。
むしろ、いない方がいい。元の世界へ帰すために、こうして相談へ来たのだから。
わざわざ二人の間へ差し込む話でもないので、口にはしなかった。
「それで、アリスはどこが難しいと思うんだ」
「そうね……」
そこで、アリスは術式ではなく俺を見た。
「その前に、私への対価は?」
「パチュリーから聞いてないのか」
「彼女が得る観測記録は彼女の取り分でしょう。そちらも気になるけど私へ頼むなら、話は別よ」
もっともだった。魔法使い同士の友人関係は、無償奉仕と同じ意味ではない。
「護珠の製作記録と使用結果を渡す。完成した後も、壊さない範囲なら調べていい」
「霊体へ魔力の糸を定着させた時の記録も」
「梔子が同意するならな」
話を向けられた梔子が、上海から顔を上げる。
「痛かったり、危なかったりしないなら大丈夫です。私の世界へ帰るために必要なことですから」
「痛みや危険のある検査は、先に説明するわ」
「なら決まりでいいか?」
「ええ。その条件なら教える」
未知の魂へ定着する道具は、アリスの自律人形とは目的が違う。だが、魂と術式の間へ複数の糸をつなぎ、別々に動かす技術は、あちらの研究にも無関係ではない。
こちらは技術を借り、アリスは結果を得る。興味を持つ場所が重なるなら、話は早かった。
アリスが術式の中心を指した。
「核へ三つの属性を重ね、さらに何層もの空間で包む。それぞれを別々に作るだけなら、あなたでもできるわ」
「別々なら、という言い方が引っかかるな」
「重ねる順番と厚さが問題なの。金の骨格が太すぎれば水が巡らない。月が強すぎれば内側へ閉じて、界人とのつながりまで遮断する。空間の層にむらがあれば、一番薄いところから全部破れる」
説明に合わせ、三体の人形が机の上へ色の違う糸を張っていく。
青、白、金。
三本の糸が交差し、絡まず、一本の細い縄になった。
「今のあなたは、これを力で押さえ込む癖がある」
「否定はしない、押さえた方が安定する時もある」
「扉や、大きな物が相手ならね。真珠の層まで腕力で巻くつもり?」
「魔力だ」
「同じことよ」
上海が俺の手首へ糸を巻きつける。
払おうとした瞬間、別の人形が反対側へ引いた。さらにもう一体が上へ引き、力を入れた方向から手首がずれる。
「一つずつ制御するんじゃない。全部を同時に、均等に動かすの」
「簡単に言ってくれる」
「簡単にできるなら、私のところへ来ていないでしょう」
「確かにな」
「納得が早いですね」
「正しいことまで否定はしないさ」
アリスが椅子から立つ。
部屋の棚に並んでいた人形が、一斉に顔を上げた。
「まず、糸を百本」
「まずにしては多くないか?」
「嫌なら帰ってもいいわよ」
「やる」
「界人さん、頑張ってください!」
「応援する暇があるなら、そいつらの名前でも覚えてろ。しばらく集中してるからかまってやれんぞ」
「はい! この子が上海ちゃんで――」
「そこから先は私も全部に名前をつけていないわ」
「ヒィン……」
◇
アリスの訓練は、パチュリーより説明が具体的で、その分だけ逃げ道がなかった。
魔力で作った百本の糸を、部屋に散った人形へ一本ずつつなぐ。
ただ浮かせるだけなら難しくない。
人形がどこにあり、どちらを向き、どれほどの速さで動いているか。その位置関係は、目を閉じても空間の中へ浮かび上がる。百体を見失わずに済むという点では、俺の能力と相性がよかった。
だが、場所が分かることと、百本の糸へ別々の命令を与えることはまるで違う。
右端の十体を前へ。中央の二十体を回転。残りは高さを維持したまま、互いの糸を交差させずに左右を入れ替える。そこまで思いのままに動かすとなれば、話は別だった。
「十七番が遅い」
「番号で言わないでくれ。どれだ」
「右から三番目の青い服」
「最初からそう言え」
「四十二番と五十一番が絡んだ」
「分かってる」
「九番が落ちるわよ」
「分かって――」
言い終える前に、小さな人形が頭へ落ちた。
「界人さん、大丈夫ですか?」
「痛くはない」
「九番ちゃんがです」
「そっちかよ」
梔子は床へ降りた人形を心配そうに覗き込んでいる。
「人形は壊さないでね」
「最初に俺を心配したの、誰もいないな」
「人間は自然に治るでしょう」
「人形は自然に治りませんから」
「息が合ってきたな、お前ら」
窓から差す光が橙色へ変わるまで続け、どうにか百本を思い通りに動かせるようになった頃には、指一本動かすのも面倒になっていた。
身体ではなく、頭が疲れている。
普段の俺は空間全体を一つの面として捉え、まとめて曲げる。一方、アリスは糸の一本一本を別のものとして感じながら、全体を同時に動かしていた。
力の使い方が根本から違う。
最後の動きを揃えた時、アリスは糸を操る俺の手元と、乱れずに浮かんだ百体を交互に見た。
わずかに目を見開いたのを、俺は見逃さなかった。
「ここまでできれば十分ね。やるじゃない」
アリスが手を叩くと、人形たちが一斉に棚へ戻った。
「明日も来なさい。安定しているか見てあげる」
「ああ、世話になる。アリス、五日で終わると思うか」
「五日目に試作品はできてるでしょうね」
「完成品は」
「試してみないと分からない」
「ですよね」
梔子が当然のように頷く。
「お前は誰の弟子なんだ」
「私は見学です」
「一番楽しそうだったな」
「だって、お人形が空を飛ぶんですよ?」
「お前も飛んでただろ」
「自分で飛ぶのと、見るのは違います」
「自分で飛ぶのは怖がってたくせに」
「自分が飛ぶのと、お人形が飛ぶのは違います。かわいいじゃないですか」
「基準がよく分からん」
術式の紙を内界へしまう。
帰ろうとすると、上海が小さな包みを持ってきた。
「これは?」
「あなたが修行している間に、私が仕上げておいた霊体用の糸よ。月の魔力も十分に馴染んでいる。核を身につけさせる時に使いなさい」
「仕事が早いな」
「ええ。ただし、その糸を通した部分も結果へ含めて見せてもらうわ」
「分かった。使用中の変化も記録しておく。助かる」
「アリスさん、ありがとうございます!」
梔子が深く頭を下げると、アリスは少し困ったように視線を外した。
「まだ成功していないわ。お礼はその後にして」
◇
一日目は、糸を扱うだけで終わった。
二日目、空珠を基準に別の座標から空間を糸で引き出す練習をした。
三日目、水、月、金を同時に保つ練習。
水は流れたがり、金は形を決めたがり、月はすべてを静かに内へ閉じようとする。
相性がいいからといって、勝手にまとまってくれるわけではない。こちらから調整や補助を入れないと互いの力が干渉しあう。
机の上では、三色の光が互いの流れを押しのけていた。一つを整えると別の一つが乱れ、そちらへ手を加えれば、今度は残りが形を変える。
「生徒会の仕事みたいですね」
「何が」
「全員、学校をよくしたくて動いているのに、話を聞かずに進めると足を引っ張り合ってしまうところです」
「……随分と実感のこもった例えだな」
「まだ生徒会に先輩がいた頃も、そんな感じでしたから」
少し懐かしむような答えだった。
四日目の夜。
自宅の卓へ、襟元から外した空珠を置く。
薄紫の、小指の先ほどの珠。
俺の魔力と空間座標を保存するため、パチュリーと作ったものだ。二つで一組。一つを遠方へ持ち、もう一つを手元に残すことで門の精度を上げる。
その片方を、梔子のために作り替える。
「本当に使っていいんですか?」
「使うための道具だ」
「大切なものなんですよね」
「大切だから棚に飾るって考え方はしてない」
「でも……」
「壊すわけじゃない。役目を増やすだけだ。それに、作ろうと思えばまた作れる」
空珠へ指を添える。
最初に金。
細い骨格を球の表面へ編む。縦、横、斜め。互いに交差しても潰し合わないよう、わずかに異なる空間へずらす。
次に水。
骨格の間を巡る流れを作る。俺から渡した魔力を珠の中へ留めず、梔子の魂を一周して戻すための循環路。
最後に月。
外から押しつぶさず、内側の静けさを保つように薄く重ねる。
三つを同時に動かしたまま、空間を一層。
さらに一層。
薄い膜を巻くたび、珠の表面へ虹色の光沢が浮かんでいく。
「きれい……」
すぐ傍らから、梔子の声が聞こえた。
「喋るなとは言わないが、驚かせるなよ」
「はい」
珍しく小さな返事だった。
十層。
二十層。
三十層。
一枚ごとの厚さは、髪よりも薄い。だが、薄ければ薄いほど、わずかな乱れが全体へ広がる。
窓の外では、とっくに虫が鳴き始めている。卓上の灯りへ集まる小さな羽音さえ、今は術式を乱す雑音に思えた。
額から落ちかけた汗を袖で拭い、呼吸を整える。ここで焦れば、昨日までの修行が全部無駄になる。
以前なら、ずれた層を外側から力で押し戻していた。
今は違う。
一本ずつ。全部を同時に。
四十八層目を閉じたところで、息を吐いた。
珠は一回り大きくなっていた。
乳白色の奥に、薄紫と青の光が幾重にも重なる。見る角度によって、月明かりを閉じ込めた真珠のように色が変わった。
「できたんですか?」
「形はな」
アリスが用意した霊体用の糸を通し、首飾りにする。
「手を出してくれ」
梔子の掌へ珠を置く。
すり抜けない。
珠は最初から彼女の側に存在していたように、両手の中へ収まった。
「温かいです」
「俺の魔力が入ってるからそれかもな」
「界人さんを感じます」
「気持ち悪い言い方をするな」
「褒めたのに」
「どこが」
やっぱり、変な感想をするやつだ。
首飾りを梔子へかける。
白い珠は胸元へ触れると半分ほど透け、霊体へ馴染んだ。
俺とのつながりも残っている。普段のように輪郭全体を支えるのではなく、細い糸が一本、護珠の核へ通っていた。
「少し離れてみろ」
梔子が壁際まで移動する。
「何ともありません」
隣の部屋、庭先、通りの角。少しずつ距離を伸ばし、そのたびに輪郭、記憶、護珠の消耗を確認する。
どの段階でも異常はなかった。
「次は、表通りを一周して戻る。姿は見えなくなるが、護珠の方向と状態はこっちで分かる。外層が急に崩れたら自動で引き戻すし、その前でも俺から戻せる」
「夜ですよ?」
「幽霊が何を怖がるんだ」
幽霊のくせに怪談や怪異を怖がる半人半霊なら知っているが、梔子まで同じとは聞いていない。
「妖怪がいるんでしょう?」
「人里の中までは滅多に来ない」
「滅多に……。失敗しても、消えるわけではないんですよね」
「そのために四十八層も巻いた。だが、絶対とは言わない。不安なら朝まで待つぞ」
梔子は胸元の珠を両手で包み、少し考えてから頷いた。
「行きます。私も、自分でどこまで動けるのか知りたいです」
「分かった。里の外には出るな。何か変だと思ったら、すぐ引き返せ」
梔子は恐る恐る、壁を抜けて外へ出た。
十歩。
二十歩。
普段なら輪郭が揺らぎ始める距離を越える。
護珠の表面から一枚目の層が開き、梔子の周囲へ小さな空間を作った。
三十歩。
四十歩。
つながりは切れない。
ただ、姿も声も分からなくなった。
感じるのは方向と、珠が無事だということだけだ。
何も見えない糸を手繰るように、意識を伸ばす。
梔子が止まった。
少し迷い、右へ動く。
また止まる。
「何してるんだ、あいつ」
こちらから呼びかけることはできない。
五分が過ぎた。
珠の外側が一枚、また一枚と薄くなる。
戸を開けたままの部屋へ、夜風が入り込む。里の家々から漏れる明かりは見えていても、そのどこに梔子がいるのかまでは分からない。
方向だけを伝える細い感覚へ意識を集中する。見えない相手を送り出すというのは、思っていたより落ち着かない。
十分。
急に、つながりが大きく揺れた。
立ち上がり、戸へ手をかける。
その直前、目の前の空間が水面のように膨らんだ。
「わっ――」
梔子が空間から弾き出される。
勢いのまま俺へ突っ込み、二人まとめて畳へ倒れた。
霊体なのに、今回は重さがあった。
「どいてくれ」
「す、すみません!」
梔子が慌てて浮き上がる。
「何があった」
「里の端まで行けたので、少し外へ出てみたんです」
「里の外には出るなと言っただろ」
「護珠があったので、つい」
「道具を持った初日に限界を試すな」
「でも、界人さんが作ったものですし。それに、ちゃんと戻ってこられました」
「その信頼はどこから来てるんだ? それと、戻ったんじゃない。戻されたんだ」
胸元の珠を調べる。
四十八あった層のうち、外側の十二枚が曇っていた。壊れてはいないが、魔力を使い切っている。
「急に引っ張られた時、痛みは?」
「ありません。びっくりしただけです」
「気分が悪いとか、記憶が飛んだとか」
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当です。戻される直前も、大きな蛙を追いかけていただけで――」
「待て。蛙?」
「里の外にいたんです。すごく大きくて、猫ちゃんくらいありました」
「それで右へ曲がったのか」
「分かるんですか?」
「方向だけはな」
「それを追って時間を使ったのか?」
「少しだけです」
「明日から試験は俺以外にも見張りをつける」
「ヒィン……」
◇
五日目。
昨夜曇った十二層には、朝のうちに魔力を通し直してある。破損はなかったため、光も働きも元へ戻った。
試作品を持って、再びアリスの家を訪れた。
「四十八層」
護珠を調べたアリスは、感心するでもなく数だけを口にした。
「一晩でよく作ったわね」
「合格か」
「形は。均一さも悪くない」
「つまり?」
「使って壊れ方を見るまでは、試作品よ」
「昨日、もう使いました」
梔子が正直に答えた。
アリスの目が細くなる。
「説明して」
梔子が夜の試験について話す。
途中から、アリスは俺の方だけを見ていた。
「室内と庭先で段階を踏んだとしても、最初の遠距離試験を二人だけで行ったの?」
「里の表通りを一周させるだけの予定だった。自動帰還と、俺から引き戻す術式も入れていた」
「段階を踏んだ点は悪くないわ。私だって、自分で作ったものなら試したくなる。でも、自動帰還とあなたの引き戻しが同じ原因で動かなかった時、外から状態を見られる人はいたの?」
答えはない。俺と護珠は同じ術式でつながっている。片方に異常が出れば、もう片方も無事とは限らない。
自動帰還と俺自身の引き戻し。二つ用意したつもりで、根元は一つだった。そこが切れた場合を考えていなかった。
「予定の外へ出た時、姿も正確な位置も分からなかったのでしょう」
「方向は分かった」
「そういう問題ではないわ」
「安全に帰還する機能は動いた」
「機能しなかったら?」
「すぐ追った。だが、そうだな。万全だったとは言い難い。悪かった」
これ以上は理屈を重ねるほど悪化する。
「すみません、アリスさん。私が勝手に予定より先へ進んでしまったんです」
「あなたにも責任はあるわ。新しい道具を手にしても、勝手に限界を試していい理由にはならない。子供じゃないんだからちゃんと考えて行動しなさい」
「はい……」
「生徒会長だったそうね?」
「はい……」
「なら、なおさら自分の安全を軽く扱わないこと。しっかりしなさい」
「分かりました」
梔子が素直に頭を下げる。
俺の時より聞き分けがいい。
「今日は私の人形を同行させるわ」
アリスが窓を開ける。
上海を含む三体の人形が、外へ飛び出した。
「一体は梔子と一緒に。残り二体を途中へ置く。界人はここから動かないで」
「距離は?」
「森の入口まで。途中に私の結界が一枚あるから、その影響も見るわ」
「梔子、聞いたな。寄り道するなよ」
「分かってます。大きな蛙がいても追いません」
「小さくても追うな」
「はい」
梔子と上海が並んで飛んでいく。
家の壁を越えたところで、姿が見えなくなった。
護珠の方向は分かる。
昨日より速い。迷いなく森の入口へ向かっている。
「落ち着かない?」
向かいで紅茶を淹れながら、アリスが尋ねた。
「別に」
「さっきから同じところを見ているけれど」
「つながりを追ってるだけだ」
「あなた、愛想は良くないけど少し人が良すぎるんじゃないかしら?」
「そんなことはない。これくらいは、人として普通だ」
「
「昔みたいに言うな。まだ四年だぞ」
「人間にとっては長いでしょう」
アリスが俺の前へカップを置く。
自分も人間だったことがあるからか、時々こういう言い方をする。
護珠が結界へ触れた。
外側の層が三枚、同時に開く。
だが、昨日のような揺れはない。
「通った」
「こちらでも確認したわ」
アリスは細い糸を指へ巻いている。上海を通して状態を見ているらしい。
「梔子は?」
「元気よ。上海に何か話しかけ続けているわ」
「返事はできないだろ」
「一人で喋ることには慣れているみたいね」
「否定できない」
二十分後。
護珠は森の入口へ到着した。
外側の十一層を消費している。動ける時間は、残り半刻ほど。
そこで梔子は引き返した。
結界を越え、家の敷地へ戻り、扉をすり抜ける。
「ただいま戻りました!」
上海がその隣からアリスの肩へ戻る。
「おかえり。異常は」
「ありません。界人さんが近くにいないのは少し変な感じでしたけど、苦しくはなかったです」
「結界を通る時は?」
「身体の表面を何かが弾ける感じがしました」
「外層を使った感覚ね」
アリスが珠へ触れる。
「二十九層残っている。戻る時間まで考えれば、初期の行動範囲はこの程度ね」
「一つの街区を歩くくらいなら使えるか」
「向こうの世界の結界や法則次第。ここでの結果を、そのまま当てにしないこと」
「分かってる」
「それと、層が半分を切ったら帰還を始めるように」
「俺のほうへ引っ張ればいいのか?」
「それでもいいけど界人ではなく、あなたに言ったのよ」
「私ですか?」
「持つのはあなたでしょう。自分で残りを感じられるよう、珠の光を覚えておきなさい」
梔子が胸元を見下ろす。
完成した時は虹色だった表面が、今は少し白く曇っている。
「光がなくなるほど、帰る時間が近いんですね」
「そう。誰かを見つけても、何か大切なものを見つけても、戻るための層は残すこと」
「……はい」
返事の前に、ほんのわずかな間があった。
梔子が誰を思い浮かべたかは、聞くまでもない。
「梔子」
「分かっています。約束します」
「ならいい」
護珠をもう一度見る。
異物を包む層は、傷をなかったことにはしない。
ただ、それ以上壊れないよう守り、持ち主が帰るまでの時間を作る。
「完成ね」
アリスが言った。
「試作品じゃなく?」
「最初の完成品ってとこね。使うたび、直すところや改良できる点は出るでしょうけど」
「十分だ」
「アリスさん、ありがとうございました」
梔子が頭を下げる。
「どういたしまして」
今度はアリスも素直に受け取った。
「製作記録と、二度の試験結果は置いていって。次に使った時も、同じように残しておくこと」
「最初からそのつもりだ。壊さない範囲なら、今ここで調べてもいい」
「では、遠慮なく」
アリスが護珠へ伸ばした手つきは、礼を受け取った友人のものから、未知の術具を前にした魔法使いのものへ戻っていた。
「でも、これで終わりではないんでしょう?」
「ああ」
護珠は、梔子が俺から離れるためのもの。
他に必要なのは、二人で幻想郷から離れるための道と――
「次は、帰る場所を作る」
「はい!」
梔子は元気よく返事をすると、アリスへ――正確には、その手の中で調べられている護珠へ視線を向けた。
その視線に気づいたアリスが、呆れたように護珠を持ち上げる。
「調べ終わったら返すわよ」
「お願いします!」
アリス・マーガトロイドは「人形を操る程度の能力」を持ち、多数の人形を同時に精密操作する魔法使いです。人形を操る魔法だけでなく、幅広い魔法の知識と技術を持っています。
実は、界人も何体か上海人形を持っている。手に入れた経緯については、本人が妙に話したがらないため、今のところ秘密です。
【オリジナル魔法道具】
空珠:
界人とパチュリーが作った、真珠状の空間座標器です。一つの珠に一地点の座標や術式を保存でき、対になる珠を目印として、離れた場所へ門を開く際の精度を高めます。本話では、その片方を護珠の核として作り替えています。
護珠:
異物を排除せず幾重にも包んで真珠にする性質を、異世界の魂であるユメを守る仕組みへ置き換えています。便利な偵察道具ではありますが、行動時間、距離、結界による消耗があり、外層の光が失われる前に戻る必要があります。