青の記録と幻想の空間使い   作:弾幕トレーナー

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第五話 帰る場所

 

 糸の扱いも上達し、護珠が完成した翌日。俺たちは再び紅魔館の大図書館を訪れた。

 

 今回はあらかじめ使い魔を飛ばし、訪問する旨を伝えてある。美鈴や咲夜に用件を聞かれることもなく、まっすぐ地下の図書館まで通された。

 

 扉を開けば、紙と蝋、それから僅かな埃の匂いが鼻をくすぐる。天井の見えない書架の森も、その間を漂う淡い魔法の光も、数日前と変わらない。

 

 パチュリーも相変わらず本を読んでいた。椅子へ深く腰掛け、こちらが入ってきてもすぐには顔を上げない。頁の終わりまで読み切ってから本を閉じると、ようやく立ち上がり、中央の机へ歩み寄ってきた。

 

 俺は護珠と一緒に、製作工程と二度の試験結果をまとめた帳面を机へ置く。

 

 パチュリーは珠より先に帳面を開き、層ごとの消耗と結界を越えた時の変化を確かめた。それから護珠を光へ透かし、しばらく無言で観察する。

 

「四十八層」

 

「アリスと同じことを言うんだな」

 

「数えた結果を口にしただけよ」

 

「合格か?」

 

「最低限は」

 

「界人さん、褒められましたよ」

 

「その心は?」

 

「パチュリーさん、どこか満足そうなので」

 

 思っていたより、人のことをよく見ている。本人が誇らしげに口にする生徒会長という立場は、伊達ではないらしい。

 

 本人の前で余計なことを言わない分、成長したと思うべきかもしれない。

 

「外層の消耗が少し早いわね」

 

「そこの記録は、アリスの結界を越えて森の入口まで往復した時のものだな」

 

「そう、最初の試験としては十分ね。キヴォトスで使う時は、半分を帰還用に残しなさい。消耗スピードが同じとも限らないから」

 

「アリスさんにも言われました」

 

「では、二人分は覚えておけるでしょう」

 

「子供扱いされてませんか、私」

 

「私たちからしたら子供よ。それに、初日に予定の外まで出たと聞いたけれど」

 

「どうして知ってるんですか!?」

 

「アリスから報告が来たわ」

 

 魔法使い同士の連絡が、こんな時だけ早い。

 

「次は、目的地――キヴォトスの特定と、帰還座標の設置だ」

 

 机の上の空間を内界へつなぎ、保管していた浅い銀盆を直接そこへ移す。何もなかった場所へ、音もなく銀の器が現れた。

 

 水を張り、中央へ小さな月の石を沈める。盆の縁には金の粉で、空間を測る術式を書いてある。

 

 梔子の魂に残る経路を、水鏡へ映すための道具だ。

 

「準備は?」

 

「できているわ」

 

 パチュリーが七曜の札を並べる。

 

 今回は水、金、月の三枚だけだった。

 

「梔子。護珠は外さなくていい。そのまま水面の上まで来てくれ」

 

「はい」

 

 梔子は銀盆の上へ移動し、胸元の護珠を両手で包んだ。珠の表面が、水面の中央で淡い光を返す。

 

「調べるのはお前の魂に残った経路だ。護珠は、その途中で座標が揺れないようにする中継に使う。ないとは思うが途中で外したり動いたりするなよ」

 

 護珠から伸びた霊体用の糸は、首飾りとして引っ掛かっているだけではない。梔子の魂へ浅く結びつき、珠の内部を巡った俺の魔力を彼女の輪郭に沿って一周させ、再び珠へ戻す仕組みになっている。

 

 白玉楼で行った時のように魂の根を直接引けば、梔子自身の座標まで揺らしかねない。今回は、戻ってきた魔力へ混じった異世界の癖だけを、水鏡へ写し取る。

 

「目を閉じて、キヴォトスの光景を一つ思い浮かべてくれ」

 

「何でもいいんですか?」

 

「無理に特別な場所を探さなくていい。教室でも、食べ物でも、誰かの声でもいい。お前ができるだけ鮮明に思い出せるものを一つ選べ」

 

「分かりました」

 

「場所の記憶は地図だけじゃない。お前にとって馴染みのあるものほど、経路を拾いやすい」

 

 梔子は目を閉じた。

 

「では……アビドスの、生徒会室を」

 

「そのまま保て」

 

 水面へ魔力を流す。

 

 盆の中へ映っていた図書館の天井が、波紋に崩れた。

 

 代わりに、白い光が見える。

 

 砂。

 

 窓枠らしき影。

 

 紙をめくる音と、遠くから聞こえる銃声。

 

 像が形になる前に、水面が大きく揺れた。

 

「今だ」

 

 金の術式を閉じる。

 

 揺らぎを一つの座標へ固めようとした瞬間、盆の水がすべて宙へ跳ねた。

 

 月の石が二つに割れる。

 

「きゃっ」

 

 梔子を引き寄せ、図書館が濡れないように広がった水を空間の膜で包む。

 

 床へ落ちる前に一つの球へ集め、盆へ戻した。

 

「怪我は」

 

「ありません。界人さんは?」

 

「平気だ」

 

 指先が少し痺れているだけだ。

 

 パチュリーは割れた月の石を拾い、断面を確かめた。

 

「遠いわね」

 

「距離の問題か?」

 

「いいえ。距離なら、遠くても一本の線でつながる。この反応は、線を引くための紙そのものが違う」

 

「予想はしていたが、やっぱり法則そのものが違う。別の世界か」

 

「ええ。冥界や彼岸は、幻想郷と地続きではなくても同じ仕組みの上にある。でも、キヴォトスは違う。こちらの方角や距離では表せない」

 

 白玉楼で初めて梔子の魂へ触れた時から、同じ世界の遠い場所ではないと考えていた。別の本から抜け落ちた頁を、幻想郷という本へ無理に挟んだような感覚だったからだ。

 

 もっとも、予想が証明されたところで道が生えるわけではない。

 

「もう一度やる」

 

「同じ方法では割れた石が増えるだけよ」

 

「ああ。だから術式を変える」

 

「どう変えるの?」

 

「幸い、梔子自身が通ってきた経路を持っている。端から逆に辿ることもできるが、どれだけ長いか分からないうえ、またこいつの座標を引きずる。だから、違う記憶から何度か反応を取り、共通して残るずれだけを拾う」

 

「悪くない案ね。なら、一つの記憶を目的地として固定するのはやめましょう」

 

 パチュリーが、あらかじめ用意していたらしい別の紙束を机へ広げた。円と直線、それから見慣れない数式が、几帳面な字で隙間なく書き込まれている。

 

「待っている間に、異なる世界を観測した記録を調べたわ。もっとも、どれも仮説か、召喚に失敗した術式の残骸だけれど」

 

「十分だ。それで?」

 

「生徒会室、砂漠、誰かの声。これら以外にも互いに無関係な記憶をいくつか水鏡へ映すの。記憶ごとの差を消して、それでも残る反応があるなら、それは場所ではなく世界そのもの、もしくは彼女に深く繋がっているものに由来する可能性が高い」

 

「キヴォトスの場所を直接探すんじゃない。記憶ごとの差分を引いて、この世界にはない共通成分だけを抜き出すのか」

 

「そうね。正確な座標にはならない。でも、門を作るための最初の軸にはなるわ」

 

「すみません。私がもっとはっきり思い出せれば」

 

 梔子が割れた石を見る。

 

「お前のせいじゃない。像は出た」

 

「でも」

 

「目的地が存在することと、そこへ行く道を作れることは別だ。今分かったのは、今の道では足りないってことだけだ」

 

 割れた月の石を新しいものへ取り替え、術式の一部を書き直す。

 

 二度目は、校舎の外に広がる砂漠。

 

 三度目は、ホシノという後輩の声。

 

 その後も、校舎へ吹き込む乾いた風、使い込まれた机、生徒会室で書類をめくる音と、梔子が鮮明に思い出せるものを幾つも試した。

 

 水面に現れる光景も、音も、梔子の表情も、そのたびに変わった。それでも術式が弾かれる直前、同じ方向から同じ圧力が返ってくる。

 

 東でも西でも、上でも下でもない。幻想郷の座標へ無理に置き換えようとした瞬間だけ、水面の奥へ逃げていく感覚。

 

 俺は輪郭を拾えた反応を一つずつ重ね、梔子の記憶によって変わった部分だけを切り落とした。

 

 最後に残ったのは、髪の毛よりも細い光の筋だった。

 

 銀盆の上を漂いながら、どの方角も指していない。それなのに、確かにどこかへ続いている。

 

「見つけた」

 

「キヴォトスの座標ですか?」

 

「キヴォトスに由来する反応である可能性は高い。だが、座標と断定するにはまだ足りない。少なくとも、幻想郷のどこを探しても見つからない方角は拾えた」

 

 指先ほどの金属環へ光の筋を写し、月の魔法で仮留めする。正確な行き先でも、門でもない。それでも、何もない場所を手探りしていた時よりは進んだ。

 

 その瞬間、背後の座標がほんの僅かに裏返った。

 

 声も妖気も届く前の変化だった。空間を基準に周囲を捉えている俺には、白い紙へ墨を一滴落とされたようにはっきり分かる。

 

 先に振り返る。

 

 書架と書架の間へ、細い紫色の線が走った。線は上下へ開き、見覚えのある裂け目になる。

 

 紫色の縁。その内側を埋める無数の目。

 

 裂け目へ腰掛けるように、一人の少女が扇を広げていた。

 

「ずいぶん面白いものを作っているのね」

 

「人の図書館へ勝手に境界を開かないで」

 

 パチュリーが眉を寄せた。

 

「扉から入るには、少し遠かったものですから」

 

 八雲紫。幻想郷の成立と維持に深く関わる、妖怪の賢者の一人だ。

 

「ごきげんよう、界人」

 

「珍しいな。起きていたのか」

 

「随分なご挨拶ね。私だって必要な時には起きますわ」

 

「必要になるまで藍に任せて寝てるだろ。てことは、今回は幻想郷にとってまずいのか?」

 

「まずいかどうかを見極めに来た、とだけ言っておきましょう」

 

「そうか。それで、いつから見てた」

 

「さて、いつからでしょう?」

 

「最初からだな」

 

「どうしてそう思うのかしら」

 

「分かってなきゃ、そんな含みのある笑い方はしない。気取っていることが多いだけで、案外顔に出るからな」

 

「……本当に、余計なところまで見ていますのね」

 

 紫は扇の向こうで、僅かに頬を膨らませた。

 

 梔子が俺と紫を見比べる。

 

「……あの、今、何もないところから出てきましたよね」

 

「そうだな」

 

「裂け目の中に、目がたくさんあったんですけど」

 

「それも見えてる」

 

「これも幻想郷では普通のことなんですか!?」

 

「誰でもというわけではないが、突然現れるやつなら何人かいる」

 

「えっと、お知り合い……なんですよね?」

 

「一応な」

 

 梔子は、その「一応」の意味を測るように俺たちを見比べた。紫は否定せず、扇の向こうで楽しそうに目を細めている。

 

「ずいぶん他人行儀なのね。四年前、行くところのなかったあなたへ家と仕事を用意してあげた、恩人みたいなものですのに」

 

「恩は感じてる。けど、実際に家と仕事を用意してくれたのは慧音さんと里の連中だ。あんたは横から話をまとめて、俺をそこへ誘導しただけだろ」

 

「同じことではなくて?」

 

「全然違う」

 

「家とお仕事を紹介してくれた、親切な方なんですね」

 

「結果だけ見ればな。ただ、紫は理由もなく親切を配る妖怪じゃないし、その行き先を本人に相談しない」

 

「それは親切なんでしょうか……」

 

「失礼ね。今回は本人の意思を確かめるために来たのよ」

 

「……何を確かめる気だ」

 

「未知の世界へ穴を開ける覚悟と、帰るための手を残す気があるかどうかを」

 

 紫の視線が、俺の手にある金属環へ落ちる。

 

「見知らぬ死者一人のために、幻想郷とあなたを危険に晒すのはどうかと思ってね。けれど、あなたが行くと決めたのなら、幻想郷側で起こることは私の領分ですもの」

 

 言い方は冷たいが、筋は通っている。紫が見知らぬ梔子より幻想郷を優先するのは、賢者として当然のことだ。

 

 ただ、幻想郷の安全だけが目的なら、俺が帰るための手段まで確かめる必要はない。

 

「へぇ、人間一人の心配とは珍しいな」

 

「幻想郷に必要な働き手が一人減ると、皆が困るでしょう?」

 

「そこまで言うなら、俺が心配だと認めればいいものを」

 

「調子に乗らないでくださる?」

 

 紫は呆れたように扇を閉じた。その目が笑っているので、否定としては弱い。

 

 いつも通り、会話をしているのか探り合っているのか分からない。

 

 パチュリーにも何か思うところはあったらしい。俺と紫を交互に見た後、小さく息を吐いた。

 

「話が済んだのなら、紫。無断で入った分くらいは働きなさい」

 

「何を見ればよろしくて?」

 

「今作った軸よ。あなたには、どう見える?」

 

 紫の目が、銀盆の上に浮かぶ細い光へ向けられた。

 

「あなたたちの探している世界は、幻想郷と外の世界の境界にはないわ」

 

「そこまでは合ってる。この筋は?」

 

「梔子ユメが通ってきた傷痕と、同じ向きへ伸びている。少なくとも、見当違いではなさそうね」

 

「あなたでも、その先は見えないのね」

 

 パチュリーが確認するように尋ねる。

 

「ええ。その向こうは、私の知る境界へつながっていないもの。境界を開くには、少なくとも両側が必要なの。内と外、生と死、昼と夜。片方の場所も仕組みも分からないままでは、どこに境を引けばいいのか決められないでしょう?」

 

「今、無理に開けば?」

 

「彼女の故郷ではない何かへつながる可能性の方が高いわね」

 

「なら、梔子の経路を基準にして、この軸を伸ばすしかない」

 

「ええ。それに、空間を扱うあなたの方が、私より向いているでしょう」

 

 紫が裂け目から降りる。

 

 足が床へ触れる直前、そこにあった距離が消えた。次の瞬間には銀盆の前に立ち、水面へ指を差し入れている。

 

 波紋が途中で二つに割れた。

 

「今作った軸を、幻想郷の方角へ戻そうとするから弾かれるのよ。ここにはない方角のまま固定なさい」

 

「簡単に言うな」

 

「簡単ではないから、あなたに任せるの」

 

 任せるというより、試されている気もするが。

 

「手伝う気は」

 

「幻想郷側の境界が裂けないよう、押さえておいてあげる」

 

「出口は」

 

「自分で探しなさいな」

 

「帰り道は」

 

「作った座標をこちらへ固定するところまでは手伝える。でも、向こうの世界がその道を受け入れるかは別の話」

 

 紫が俺の襟元へ指を伸ばす。

 

 残った一つの空珠へ、指先が触れた。

 

「これは幻想郷へ置いていきなさい。博麗神社の境内なら、大結界と外の世界、両方を目印にできる」

 

「元々そのつもりだった。霊夢には俺から話す」

 

「ええ。私から話すと、まず疑われますから」

 

「自覚があるなら直せ」

 

「個性ですもの」

 

 金属環へ留めた光が消えていないことを確認し、内界へしまう。

 

 正確な到着地点は、まだ分からない。だが、キヴォトスへ続く軸と、幻想郷へ帰るための目印を置く場所。その二つは決まった。

 

「座標については、門の術式を組んでからね。次は、前回調べきれなかった光輪を見るわ。報酬の分ね」

 

 パチュリーが七曜の札を並べ直した。

 

「護珠で存在が安定した今なら、もう少し詳しく調べられるかもしれない」

 

「えっと、今度はヘイローを調べるんですか?」

 

 梔子には、なぜパチュリーがそこまで興味を示すのか分からないらしい。生徒なら誰にでもあるものだと聞いている。あちらの世界では、自分の頭上へ光輪が浮かんでいることなど、わざわざ意識するようなことでもなかったのだろう。

 

「あなたにとっては当たり前でも、私たちから見れば未知の現象よ」

 

 梔子は欠けた光輪を見上げようとするように目を動かした。当然、自分の頭上にあるものは見えない。

 

「痛くないなら、いいですよ。皆にあるものなので、珍しいと言われてもまだ変な感じですけど」

 

「直接触れるのは難しいようだから、周囲へ魔力を流して、戻ってくる反応を見てみましょう」

 

 パチュリーが俺を見る。

 

「あなたは梔子ユメの座標を固定して。魔力を流した時に、空間側へ変化が出るかも見てほしい」

 

「了解」

 

 梔子が銀盆の横へ移動する。

 

 俺はその輪郭へ意識を重ね、図書館の空間へ座標を打ち直した。護珠が淡く光り、半透明だった身体が僅かに濃くなる。

 

 パチュリーの指先から、七色の細い光が広がった。

 

 光は梔子へ触れず、その周囲をゆっくりと巡っていく。前回のように弾かれることはない。だが、頭上を通るたび、流れの一部だけが目に見えないものを避けるように分かれた。

 

 同時に、俺の空間認識へ浅い圧力が返ってくる。

 

 距離も方向も変わっていない。それでも、何もないはずの座標が、そこに自分は存在すると内側から押し返してくる。

 

 妖力ではない。

 

 霊力とも、魔力とも違う。

 

 けれど、まったく知らない感触でもなかった。守矢神社や神々の近くで感じるものを、随分と薄くして、別の形へ包み直したような――。

 

「……神力か?」

 

「神力に似ているわね」

 

 俺とパチュリーの声が重なった。

 

 一度だけ互いを見る。聞き返す必要はなかったらしい。パチュリーは光の流れへ目を戻し、俺も押し返してくる座標を探る。

 

「信仰が流れ込んでいる気配は?」

 

「ないわ。神格も確認できない」

 

「なら、神そのものじゃない」

 

「ええ。能力の残滓にしては、光輪の側から反応が返ってくる。今も働いている何かと考えるべきね」

 

「魂を保っているのは、これか?」

 

「可能性はある。でも、経路と光輪と魂のどれが先に作用しているか、まだ分けられないわ」

 

「あの」

 

 梔子が片手を上げる。

 

「まったく理解が追いついていないんですけど私の話をしているんですよね?」

 

「少し待て。今いいところだ」

 

「私のことなのに置いていかないでください!」

 

「ちょっと、あまり動かないでくれる?」

 

「パチュリーさんまで!」

 

 抗議を受け流しながら、光輪の周囲だけ固定を一段強める。圧力も僅かに増したが、正体へ届くほどではない。

 

「身体の外に浮かんでいるのに、魂の内側へ根を張っているように見えるわね」

 

 紫が扇の先を光輪へ向けた。

 

「外にあるのに、内側?」

 

「本人と光輪を分ける境界が曖昧なのよ。肉体を失ってもついてきたのなら、飾りというわけでもないでしょう」

 

「で、結局これは何だったんですか?」

 

 梔子が三人を順に見回す。

 

「分からない、という話を三人で難しくしているところよ」

 

「分からないんですか!?」

 

「分からないことが一つ増えたのは成果だ」

 

「それを成果と喜べるのは、界人さんたちだけです!」

 

 パチュリーが札を止め、観測帳へ反応を書き留める。

 

 神力によく似ている。だが神ではなく、信仰とも結びついていない。

 

 今は、それ以上の名前を与えない方がよさそうだった。

 

 紫が梔子へ顔を向ける。

 

 いきなり目を合わせられ、梔子の肩が跳ねた。裂け目に浮かぶ無数の目を見た後では、笑顔を向けられても警戒するのは無理もない。

 

「あなたは、戻りたい?」

 

「は、はい」

 

「戻った先で、どうなるか分からなくても?」

 

 梔子は護珠を握った。震えが少しおさまった。

 

「分かりません。でも、会いたい人がいます。言わなきゃいけないことも、たぶん残っています」

 

「そう」

 

 紫は答えを測るように一度だけ目を細め、それ以上は聞かなかった。納得したというより、必要な確認が済んだらしい。梔子自身へ興味があるようには見えない。そのままこちらへ向き直る。

 

「界人」

 

「なんだ」

 

「あなたは?」

 

「場所の手掛かりは見つけた。梔子は送り届ける。ついでに、向こうの世界もこの目で確かめたい。終わったら帰ってくる」

 

 梔子を放っておけないというだけではない。俺の術がどこまで届くのか、幻想郷とは異なる法則の世界がどんな場所なのか。興味がないと言えば嘘になる。

 

 だからこそ、無事に帰るところまで含めて確かめるつもりだった。

 

「帰れなかったら?」

 

「向こうで帰る方法を作る」

 

「相変わらずね」

 

「何が」

 

「迷い込んだ時と、答えだけは同じ」

 

 四年前。

 

 知らない森で妖怪に追われ、ようやく会ったまともに話の通じる相手から、現世へ戻れないかもしれないと告げられた。

 

 その時、俺が何と答えたのか。

 

 ただの人間との会話を覚えていないふりをしていたが、紫は覚えているらしい。

 

「今回は準備がある」

 

「そうね。ええ、だから帰っていらっしゃい」

 

 冗談めいた調子のまま、その一言だけが妙に真っ直ぐだった。

 

「言われなくても」

 

 紫は満足したように目を細め、再び境界の裂け目へ身を沈める。

 

「三日後は満月よ。月の守りを使うなら、その夜がいいでしょう」

 

「なんとも都合のいい……最初から日取りまで決めてたのか?」

 

「偶然ですわ」

 

「本当か?」

 

「今回は本当に偶然よ!」

 

 紫はぷいと顔を背け、そのまま裂け目の奥へ歩き出す。

 

「では、博麗神社で」

 

 裂け目が閉じる。

 

 図書館には、本の匂いと沈黙だけが残った。

 

「あの方、すごい人なんですね」

 

「人じゃない。妖怪だ」

 

「そこではなくて」

 

「確かに力はすごい。ここの賢者の一人とも言われているやつだからな」

 

「あの裂け目は、界人さんの門と同じものなんですか?」

 

「似て見えるだけだ。俺は空間の距離や方向、座標を変える。紫は、物事を分けている境界そのものへ触る。概念にも干渉できる」

 

「では、紫さんにも界人さんと同じことができるんですか?」

 

「できることが重なるだけで、やり方は別物だ。正面から規模を比べるなら、向こうの方が桁違いに上だよ」

 

「そうなんですか……」

 

 梔子は分かったような、まだ分かっていないような曖昧な返事をした。

 

「界人さんのことを心配しているように見えました」

 

「そう見えたなら、たぶんそうなんだろ」

 

「認めるんですね」

 

「心配しながら、何かを平気で企んだりするやつでもあるからな。あまり信用しすぎるのも良くない」

 

 濡れた銀盆がひとりでに机を滑り、俺の前で止まる。パチュリーは椅子へ戻ったまま、指一本動かしていない。片付けろという意だろう。

 

「紫も帰ったことだし、話を進めるわよ。まずは三日で術式を組み直す」

 

「手伝わないんじゃなかったのか」

 

「検査するだけ。異世界へ通じる術式の観測機会を、あなたの失敗で潰されたくないもの」

 

「それを手伝うって言うんだ」

 

「言わないわ」

 

 七曜の札と一緒に、白紙の観測帳が再び机へ並べられた。

 

 未知への興味が強いのだろう。だが、それだけで三日も付き合う魔女でもない。それを指摘するのも無粋だ。こちらも助かるのだから、都合がよかった。

 

     ◇

 

 紅魔館を出た後、その足で博麗神社へ向かった。

 

 博麗霊夢は、話を最後まで聞いてから湯呑みを置いた。

 

「嫌」

 

「待て待て、今までの話をしただけでまだ何も頼んでないぞ」

 

「境内に異世界への穴を開けさせて、でしょ」

 

「さすが、話が早くて助かる」

 

「それ、褒めてないでしょ」

 

 紅魔館でも同じ会話をした気がする。

 

 博麗神社の縁側。

 

 午後の日差しが境内へ斜めに差し込み、風に押された落ち葉が石畳の上を転がっていく。俺と霊夢の間には、湯気の立つ茶と煎餅が置かれていた。

 

 梔子は珍しいのか、少し離れたところから拝殿や鳥居を忙しなく眺めている。冥界や紅魔館ほど派手ではないが、幻想郷と外の世界を分ける大結界の要だと聞けば、気になるのも分からなくはない。

 

「大結界へ傷をつける気はない。境内を座標の基準に借りたいだけだ」

 

「失敗したら?」

 

「門を閉じる」

 

「閉じられなかったら?」

 

「俺が内側から切る」

 

「あんたが向こう側にいたら、こっちはどうするのよ」

 

「紫が押さえてるから心配するな」

 

 霊夢は露骨に嫌そうな顔をした。だが、紫に任せて大丈夫かとは聞かない。気に入らないことと、信用できないことは別らしい。

 

「あいつもくるの?いや、そりゃ来るか。結界近くだし」

 

「面倒そうな顔はするが、人選に文句はないんだな」

 

「幻想郷のことなら、あいつは信用してるわよ。やり方が気に入らないだけ」

 

「その点は同感だ」

 

「あんたたち、似た者同士だから余計に面倒なのよ」

 

「あいつと一緒にするな。訂正しないなら直訴も辞さない」

 

「誰に直訴するのよ」

 霊夢が梔子を見る。

 

「それで、その幽霊を送り返すためだっけ?」

 

「梔子ユメです。初めまして」

 

 気づいた梔子が近づき、頭を下げる。

 

「博麗霊夢。ここの巫女よ。お賽銭箱はあっちにあるから」

 

「すみません。死んだからか、持ち物も何もなくて……」

 

「死者から金を取ろうとするな。少し前に話した、お茶好きの巫女がこいつだ」

 

「ああ! あの、ご飯を作ってもらう側の方ですよね」

 

 霊夢の視線が俺へ戻った。

 

「界人」

 

「間違ったことは言ってない」

 

「あとで覚えてなさい」

 

「戻ってきてからでいいか?」

 

「はあ……絶対に戻ってきなさい。説教が残ってるんだから」

 

 霊夢は煎餅を一枚取り、乱暴にかじった。

 

「境内の端。大結界へ直接触れない場所なら使っていいわ。ただし、私が危ないと判断したら勝手に閉じる」

 

「分かった」

 

「あと、壊したら弁償」

 

「何を」

 

「色々よ」

 

「範囲が広すぎるだろ」

 

「嫌ならやめれば?」

 

「分かったよ」

 

 話はまとまった。

 

 空珠を埋める場所を決めるため境内を歩く。

 

 拝殿の裏手、大結界の気配と外の世界の風が最も近くなる場所。そこへ小さな石の台を作り、空珠を収める。

 

 俺の家、人里、紅魔館、白玉楼。これまで足を運び、座標を覚えた場所は他にもある。帰り道の候補は、多ければ多いほどいい。

 

 これまで残してきた座標の印を、珠へ一つずつ重ねる。

 

 最後に、今立っている博麗神社を刻んだ。

 

 帰る場所は、一つである必要はない。

 

 幻想郷のどこかへ道がつながれば、そこから家へ帰れる。

 

「随分、いろいろ入れたのね」

 

 霊夢が石台を覗き込む。

 

「一つ潰れても、別を拾えるように」

 

「全部潰れたら?」

 

「その時は最初から探す」

 

「ふーん、帰る気はあるのね」

 

「当たり前だろ」

 

 霊夢は短く息を吐いた。

 

「ならいいわ」

 

     ◇

 

 博麗神社を後にし、同じ日の午後には白玉楼へ向かった。

 

 長い石段の先では、季節を忘れた桜が今日も風もないのに花びらを散らしている。初めてここへ来た時ほど驚きはしなくなった梔子も、白い庭を横切る花の流れには足を止めていた。

 

 幽々子は話を聞くと、驚く様子もなく扇を口元へ当てた。

 

「三日後ね。分かったわ」

 

「軽いな」

 

「だって、そのためにあなたへお願いしたんだもの」

 

「世界を越えるところまでとは聞いてなかったぞ」

 

「言ったら断った?」

 

「……準備ができてなければな」

 

「今は?」

 

「できつつある」

 

「なら、問題ないわね」

 

 いつも通りの笑顔で押し切られた。

 

「ユメの魂は、私が包むわ。門を渡る間だけ、死者としてこちらへ引かれないようにしておく」

 

「幽々子さんが、私を?」

 

「ええ。せっかくお友達になったんだもの。途中で迷子になったら困るでしょう?」

 

「ありがとうございます」

 

「向こうへ着いたら、お土産をお願いね」

 

「何がいいですか?」

 

「美味しいもの」

 

「範囲が広すぎる。具体的な菓子とか、何かないのかよ」

 

 思わず口を挟む。

 

「界人が選んでくれればいいわ」

 

「文句は受け付けないからな」

 

「ものが良ければしないわよ」

 

 妖夢は少し離れたところから、心配そうにこちらを見ていた。

 

「本当に行くんですね」

 

「ここまで準備してやめる理由がない」

 

「そうですけど……」

 

「帰ってくるし、無謀なことをするつもりもない。俺も梔子も無事なまま済ませるさ。こいつに土産も持って帰らなきゃならんしな」

 

「なかったら幽々子様の機嫌が悪くなりそうなので、ちゃんと持ってきてくださいよ」

 

「そいつは大変だな」

 

 妖夢の肩を軽く叩く。

 

「留守の間、変な異変が起きても俺を数に入れるなよ」

 

「いつも最初から数には入れてません」

 

「ならいい」

 

「でも、途中から勝手に入ってくるじゃないですか」

 

「成り行きだ」

 

「では次も、ちゃんと帰ってきて、その成り行きで異変解決に参加してください」

 

「分かった」

 

 今度は、茶化さずに答えた。

 

 白玉楼を出た後、その足で彼岸へも向かった。

 

 桜の匂いが薄れ、辺りを満たす空気が静かなものへ変わっていく。彼岸へ足を踏み入れると、遠くに聞こえていた川の音まで、こちらの言葉を待つように小さくなった。

 

 映姫さんからは、彼岸を通るための札を渡された。

 

 白い紙の中央へ、黒で一本の道が描かれている。

 

「これは許可であって、安全を保証するものではありません」

 

「分かっています」

 

「道を外れれば、あなたは生者として扱われない場所へ入ります。必ず梔子ユメと一緒に進むこと」

 

「はい」

 

「梔子ユメ」

 

「はい」

 

「あなたも、界人さんから離れないように」

 

「護珠があってもですか?」

 

「護珠は離れるための道具ではなく、離れてしまった時に帰るための道具です。言うならばあなたを守る殻のようなものです」

 

 梔子が胸元の珠を握る。

 

「分かりました」

 

「よろしい」

 

 映姫さんは俺へ向き直った。

 

「無事に送り届けた後も、結果を急がないことです。元の世界へ戻ったからといって、生へ戻るとは限りません」

 

「判断する材料を集めます」

 

「それで十分です」

 

 誰も、梔子が生き返るとは言わなかった。

 

 それでも、全員が戻すために手を貸している。

 

 生きるためでも、死ぬためでもない。

 

 梔子自身が、自分の行き先を選べる場所まで送り届けるために。

 

     ◇

 

 それから二日が過ぎた、出発前日の夜。

 

 内界へ入れた荷物を、もう一度確認する。

 

 保存食、水、薬、着替え、毛布、魔法素材、工具、観測帳、数冊の魔導書。外の世界の金も少し入れたが、キヴォトスで使える保証はない。

 

 パチュリーから借りた本が一冊増えている。

 

『非連続空間の座標論』

 

「貸すだけよ。返しに来なさい」

 

 渡された時の言葉を思い出す。

 

 返却期限は書かれていなかった。

 

 どこかの火力馬鹿と違って、借りた物を返さない趣味はない。長く借りるつもりはなかった。

 

「界人さん」

 

 縁側から、梔子が呼んだ。

 

 外へ出ると、庭先に見慣れた猫が座っていた。

 

 梔子は少し離れたところへしゃがみ、触れられない手を伸ばしている。

 

「今日も触れませんでした」

 

「急に触れたら、猫の方が驚く。そもそも認識しているかも怪しいからな」

 

「護珠を使えば触れませんか?」

 

「物へ干渉する道具じゃない」

 

「影はどうなんです?」

 

「触れた感触は再現できても、猫からすれば何も触れていないのと同じだ。お茶や紅茶だって、実際には減っていなかっただろ」

 

「残念です」

 

 猫が俺の足元へ寄ってくる。

 

 頭を撫で、用意していた干し魚を一つ置いた。

 

「飼っているわけではないんですよね?」

 

「勝手に来て、勝手に帰る」

 

「私と似てますね」

 

「お前は勝手に来たけど、勝手には帰れないだろ」

 

「そうでした」

 

 梔子が笑う。

 

 月は、ほとんど丸くなっていた。

 

 明日の夜には満ちる。

 

「界人さんは、幻想郷を離れるのが寂しくないんですか?」

 

「離れるんじゃない。出かけるだけだ」

 

「戻れないかもしれないのに?」

 

「戻る準備はした」

 

「もし、それでも駄目だったら」

 

「向こうで考える」

 

「紫さんにも同じことを言ってましたね」

 

「答えが変わる質問じゃないしな」

 

 梔子は膝を抱えるように座った。

 

「私のために、そこまでしてもらっていいんでしょうか」

 

「今さらだな」

 

「今さらだから、聞いているんです」

 

 少し考える。

 

 頼まれたから。

 

 俺にできることだから。

 

 迷子を放っておくのが寝覚め悪いから。

 

 どれも間違ってはいない。

 

「俺も、迷い込んだ側だった」

 

 その一言が、一番近かった。

 

「知らない場所で、何が起きてるかも、どっちへ行けばいいかも分からない。あれは一人でどうにかするには面倒すぎる」

 

「界人さんにも、助けてくれた人がいたんですか?」

 

「いた。何人も。運が良かった」

 

「では、今度は界人さんが?」

 

「大げさに考えるな。送って、調べて、帰ってくる。それだけだ」

 

「はい」

 

 梔子はそれ以上聞かなかった。

 

 猫が干し魚をくわえ、暗い道の向こうへ消える。

 

「明日は早い。寝るぞ」

 

「眠れますかね」

 

「目を閉じてろ。俺が寝れば、お前も寝る」

 

「便利ですけど、なんだか納得いきません」

 

「明日までの辛抱だ」

 

 言ってから、気づく。

 

 キヴォトスへ着いても、梔子の居場所が決まらなければ、つながりは続く。

 

「たぶん」

 

「今、付け足しました?」

 

「気のせいだ」

 

「またそれです」

 

 家へ戻り、灯りを消す。

 

 明日の夜、門を開く。

 

 帰る場所をここへ残して、まだ誰も知らない世界へ向かう。

 




八雲紫の能力は「境界を操る程度の能力」。物理的な境目だけでなく、生と死、内と外など概念上の境界にも関わる非常に強力な能力です。

界人の空間操作と結果だけ似ていることも多く、規模で比べれば紫の方が遥かに上。ただし、界人が扱うのは距離や方向、座標であり、紫が扱うのは物事を分ける境界なので、原理は別物です。

界人が幻想郷へ迷い込んだ当初、紫は結界へ干渉しかねない能力を持つ外来人として警戒し、危険なら排除することも考えていました。今では本人の性格も能力の有用性も把握したため、どうやって幻想郷へ留めておくかを考えています。

一方の界人も、紫が幻想郷を大切にしていることは信用しています。ただし、自分が関わると本人の意思を置き去りにして話を進めるため、そこだけは常に警戒中。

原作では本人が異変を起こすことはそれほど多くないのに、二次創作では何かと黒幕にされがちな、かわいそうな妖怪
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