青の記録と幻想の空間使い   作:弾幕トレーナー

6 / 7
第六話 透き通った向こう側

 

 満月の夜。

 

 博麗神社の境内には、普段なら宴会くらいでしか見ない顔ぶれが集まっていた。

 

 拝殿の前に霊夢。

 

 石段から少し離れた場所に、映姫さんと妖夢。

 

 幽々子は桜色の扇を手に、梔子の隣へ立っている。

 

 緊張を紛らわせるためか、二人は先ほどから他愛もない話を続けていた。

 

 パチュリーは小悪魔に運ばせた机へ魔導書を広げ、七曜の札を並べていた。その隣では、小悪魔が観測帳と記録用の水晶を準備している。

 

 その少し後ろには、紅魔館の主と、その従者まで来ていた。

 

「それで、なんでレミリアまでいるんだ?」

 

「パチェが館の外へ出るなんて珍しいでしょう? それに、今宵は満月。こんな夜は外へ出るに限るわ。何より、面白そうだもの」

 

「つまり野次馬かよ」

 

「好奇心に正直と言ってちょうだい」

 

 レミリアは悪びれることなく胸を張った。淡い青の髪に赤い瞳、背には黒い蝙蝠の翼。月明かりの下でも、その姿は威圧的というより小柄な少女に見える。

 

「咲夜まで来る必要はなかっただろ」

 

「私はお嬢様のお供ですので」

 

 銀髪の少女――咲夜は、当然のことのようにレミリアの一歩後ろへ控えていた。

 

「それで、彼女が咲夜の言っていた例の幽霊?」

 

 レミリアが梔子へ目を向ける。

 

「初めまして。梔子ユメです」

 

「私はレミリア・スカーレット。紅魔館の主にして、永遠に紅い幼き月よ。覚えておきなさい」

 

 翼を広げて名乗るレミリアを、梔子は瞬きも忘れたように見つめた。

 

「もっと大きくて、怖い方を想像していました。こんなに小さくてかわいい女の子だったなんて……」

 

 驚きがそのまま口からこぼれた、という様子ではない。梔子はレミリアを上から下まで見直したうえで、素直な感想として口にしたらしい。

 

 見た目の可憐さに気を取られ、相手がおっかない吸血鬼だという肝心な部分が頭から抜けている。

 

「子供みたいに小さくてかわいい見た目に気を取られてるのかもしれないが、こいつは吸血鬼だぞ。お前の二十倍以上は生きてる」

 

 梔子が、ようやく思い出したように目を見開いた。

 

「あっ。す、すみません!」

 

「私が可憐なのは否定しないわ」

 

 レミリアは気分を害した様子もなく笑った。だが、赤い瞳は梔子ではなく、俺へ向けられている。

 

「けれど、聞き捨てならない言葉も混じっていたわね。界人?」

 

「事実しか言ってないだろ」

 

「結構。なら、その事実を口にした責任を取りなさい。今宵は満月。出発前の軽い運動に、私の昂った熱を冷ます役目を特別に与えてあげるわ。そこへ直りなさい」

 

 レミリアが翼を広げ、爪を見せつけるように片手を構えた。

 

 悪気は微塵もない。彼女の容姿が可憐なのは事実で、そこを否定したつもりもない。小さいと言ったのも、見たままを述べただけだ。引っかかったのは、その前へ余計に足した「子供みたい」の方だろう。

 

「これから世界を越えるやつを消耗させる気か」

 

「売られた喧嘩を買ってあげるだけよ」

 

「遊ぶなら、二人が帰ってきてからにして」

 

 パチュリーが魔導書から顔も上げずに言う。

 

「パチェがそう言うなら仕方ないわね。貸しにしておくわ、界人」

 

「忘れてくれて構わんぞ」

 

 レミリアは構えを解くと、改めて梔子へ目を戻した。しばらく見つめた後、その赤い瞳がわずかに細められる。

 

 梔子の姿ではなく、その向こうにある何かを見定めるような目だった。

 

「不思議ね。死者の運命にしては、この先が随分と騒がしい」

 

「この先、ですか?」

 

「ええ。少なくとも、すぐ退屈することはなさそうよ」

 

「何が見えたんだ?」

 

「秘密。先に答えを知ったら、せっかくの運命がつまらないでしょう?」

 

 レミリアは運命を操る。どこまで見え、何を変えられるのか、本人が素直に明かしたことはない。

 

 いつもの大仰な芝居にも見える。だが、梔子を見つめた一瞬だけは、ただの演技ではなかった気がした。

 

 もう一度問いただそうと口を開いたが――

 

 その前に、境内の端で、空間の表と裏がわずかに入れ替わった。

 

 俺がそちらを見る。一拍遅れて、何もなかった場所へ紫が現れた。誰より遅く来たくせに、隙間の縁へ最初からいたような顔で腰掛けている。

 

 梔子が隙間の内側に並ぶ目から、そっと視線を外した。二度目でも、あれには慣れないらしい。

 

 そのまま逃がした視線で、境内に集まった顔ぶれを改めて数えるように見回す。

 

「ずいぶん大事になりましたね」

 

 梔子が小声で言った。

 

「世界に穴を開けるんだ。少ないくらいだろ」

 

「そういうものですか?」

 

「何度もやるものじゃないから知らないが、少なくとも簡単ではないな」

 

「急に不安になることを言わないでくださいよぉ」

 

 黒紺の上着の留め具を確認する。

 

 元の空珠は、一つを梔子の護珠へ作り替え、もう一つを博麗神社へ置いた。空いたままにしておくのも落ち着かず、出発までの間に空珠を二つ作ってある。

 

 内界の荷物。身体強化の術式。門を緊急停止する札。映姫さんから預かった通行許可。

 

 梔子の護珠も、四十八層すべてに魔力が戻っている。

 

 確認は、これで三度目だ。

 

「界人」

 

 霊夢が呼ぶ。

 

「こっちの準備はできたわ。大結界にも今のところ異常なし」

 

「今のところ、ね」

 

「なによ、文句があるならやめてもいいのよ」

 

「ない。助かる。ありがとう」

 

 素直に答えると、霊夢の方がわずかに言葉を詰まらせた。

 

「……帰ってきたら、賽銭を入れなさいよ」

 

「今じゃなくてもいいのか?」

 

「今、入れていきなさい」

 

「無事に帰れるよう、祈るとするかね」

 

 内界から財布を出し、賽銭箱へ硬貨を入れる。

 

 目を閉じ、短く手を合わせた。

 

 すぐ目の前で、硬貨の触れ合う音がした。

 

 片目を開けると、霊夢が賽銭箱の裏へ手を伸ばしている。

 

「おい、まだ祈ってる途中だぞ。回収するにしても、せめて終わるまで待てないのか」

 

「入れた時点で賽銭でしょう」

 

「おい。それでいいのか、巫女」

 

 神社の巫女としてあんまりな考えと行動に呆れていると、映姫さんの声が境内へ響いた。

 

「では、始めます」

 

 それまで残っていた賑やかさが消え、境内の空気が変わる。

 

 俺と梔子が、地面へ描いた術式の中央へ立つ。

 

 円は三重。

 

 一番内側は、梔子と俺の座標を重ねるための水。

 

 二つ目は、通路の形を固定する金。

 

 外側は、月の守りと空間固定を組み合わせた境界だ。

 

 その外へ、各自が役割を持って立つ。

 

「もう一度だけ確認するわ」

 

 パチュリーが本から顔を上げる。

 

「門が開いても、すぐには入らない。界人が向こう側の引力と通路の幅を測る。異常があれば中止」

 

「ああ」

 

「門へ入った後も、幻想郷側の座標が二度揺れたら引き返す。三度目が来たら、いくらか猶予を置いて帰還線を切るわ」

 

「二度目で戻るようにする」

 

「そうしなさい」

 

「切られる前提で話さないでくださいよ」

 

 梔子が不安そうに言う。

 

「切るための決まりがある方が安全なのよ」

 

「分かっていますけど……」

 

「梔子ユメ」

 

 映姫さんが梔子を見る。

 

「今からでも、行かないことを選べます」

 

「はい」

 

「決めるのはあなたです。誰かを待たせているからでも、周囲が準備したからでもない。あなた自身は、戻りたいですか?」

 

 梔子が胸元の護珠を握る。

 

 頭上の欠けた光輪が、月明かりの下で弱く揺れた。

 

「戻りたいです」

 

 以前とは違い、今度は間がなかった。はっきりとした答えだった。

 

「分かりました」

 

 映姫さんが白い札を掲げる。

 

「この魂、梔子ユメを、迷い込んだ死者として元の世界へ送還します。道を外れず、裁定の及ばぬ場所へ立ち入らぬこと」

 

 札へ描かれた黒い一本線が、地面へ落ちた。

 

 影のように伸び、術式の中央から夜の先へ続いていく。

 

 彼岸の道だ。

 

 生者が歩くためのものではない。

 

 それでも、札を持つ俺の足元だけは拒まれずに済んでいる。

 

「ユメ」

 

 幽々子が扇を開く。

 

「少し冷たいかもしれないけれど、我慢してね」

 

「はい」

 

 桜色の光が、梔子の肩へ触れた。

 

 光は小さな蝶へ姿を変え、梔子の周囲をゆっくりと舞う。一匹ずつ輪郭へ羽を休めるたび、淡い光へほどけ、薄い衣のように全身を包んでいった。

 

 死を思わせる蝶でありながら、今夜与えられた役目は反対だ。冥界の側から梔子を隠し、元の世界へ送り出すための守りだった。

 

 梔子の姿から、生者にも死者にも決めきれない揺らぎが消えた。

 

「向こうへ着くまで、この子が冥界へ引かれないようにしておくわ」

 

「どれくらい保つ」

 

「こちらの時間で一刻ほど。世界の狭間で、同じ長さとは限らないけれど」

 

「十分だ」

 

「一刻を越えそうなら戻ってきてね」

 

「そのつもりだ」

 

「お土産も忘れずに」

 

「幽々子様」

 

 妖夢が横からたしなめる。

 

「大事なことでしょう?」

 

「今言うことではありません」

 

「帰ってくる理由は多い方がいいわ」

 

 幽々子は笑い、梔子の頭を撫でるように手を動かした。

 

 実際には触れていない。それでも梔子は、触れられたように目を細めた。

 

「行ってらっしゃい」

 

「……行ってきます」

 

「界人さん」

 

 妖夢が俺を呼ぶ。

 

「ユメさんを、お願いします」

 

「ああ」

 

「界人さん自身も、です」

 

「そっちはついでか?」

 

「どうしてそうなるんですか」

 

「冗談だ。行ってくる」

 

 妖夢が何か言い返す前に、術式へ意識を戻した。

 

 さて、準備はできている。満月も、いつまでも空に留まっているわけではない。

 

 別れを長くすると、足が鈍る。

 

「パチュリー」

 

「いつでも」

 

「紫」

 

「こちらも」

 

「霊夢」

 

「好きな時に始めなさい」

 

 水を呼ぶ。

 

 空気中の水分が集まり、俺と梔子の前へ一枚の鏡を作った。

 

 満月が映る。

 

 月の札が光り、水面の像を現実から半歩だけ外へずらす。

 

 次に金。

 

 鏡の縁へ骨格を作り、円を崩さないよう空間へ打ち込む。

 

 最後に、自分の能力を開く。

 

 目の前にある距離を折るのではない。

 

 ここには存在しない方角を定義する。

 

 上下でも、東西南北でも、生と死でもない。

 

 梔子の魂から伸びた細い糸だけを基準に、世界の外へ一本の軸を作る。

 

「梔子。生徒会室を思い出せ」

 

「はい」

 

「細部はいらない。そこにいた自分だけでいい」

 

 梔子が目を閉じる。

 

 欠けた光輪が明滅した。

 

 水鏡へ、砂色の光が差す。

 

 机。

 

 窓。

 

 誰かの小さな背中。

 

「ホシノちゃん……」

 

 梔子の口から名前がこぼれる。

 

 像が崩れそうになる前に、空間を固定した。

 

 距離が生まれる。

 

 遠い。

 

 何里、何千里という遠さではない。

 

 近づこうとするたび、距離を測る物差しそのものが増えていく。

 

「押さえなさい」

 

 パチュリーの声。

 

 水、金、月の札から光が注がれる。

 

 俺は増え続ける距離を一つずつ折り、同じ位置へ重ねた。

 

 一枚。

 

 十枚。

 

 百枚。

 

 重なった空間が、低い音を立てる。

 

 水鏡の中央へ黒い点が生まれた。

 

 点は縦に伸び、裂け目になる。

 

 向こう側は見えない。

 

 星のない夜より暗い空間が、細い通路となって続いている。

 

「大結界、変動なし」

 

 霊夢が告げる。

 

「幻想郷側の縁は、私が預かりましたわ」

 

 紫が扇を振る。

 

 裂け目の外側へ、もう一枚の境界が重なった。

 

 広がろうとする門が、同じ大きさに留まる。

 

 形が固定された途端、遅れて負担が身体へ落ちてきた。

 

 普段の門なら、同じ世界にある二つの場所をつなげば済む。今回は違う。世界の外へ新しい軸を作り、増え続ける距離を幾重にも折り畳んだまま、一本の道として維持している。

 

 額に汗が浮かび、こめかみの奥が脈打つ。息も少し浅い。膝をつくほどではないが、このまま戦えと言われれば断る程度には消耗していた。

 

「界人。維持は?」

 

 パチュリーの声が飛ぶ。

 

「問題ない。測定を続ける」

 

 意識だけを門へ通す。

 

 幅は人が二人並べる程度。

 

 出口までは測れない。だが、梔子の糸は暗闇の先へ伸びている。

 

 門を開く前に捉えられていたのは、幻想郷には存在しない方角だけだった。行き先を示すというより、こちらではないどこかへ伸びる、曖昧な座標の候補に近い。

 

 だが、道がつながった今は違う。

 

 こちらから伸ばした軸へ、向こう側から座標の感触が返ってきている。梔子の記憶から拾った共通部分と、魂から伸びる糸。その二つが、門の先から返る反応へ同じ形で重なった。

 

 出口がキヴォトスのどこにあるかまでは分からない。それでも、目的とは別の世界へ外れた可能性は、ほとんど消えた。

 

 こちらへ流れ込むものはない。毒も、熱も、強い瘴気も感じない。

 

 帰還線は、背後の空珠へ確かにつながっている。

 

「行き先はキヴォトスで、ほぼ間違いない。道ができたことで、向こう側から座標が返ってきた」

 

「出口は?」

 

「まだ測れない。だが、別の世界へ外れてはいない。通路も維持できてる。このまま進める」

 

「安全の断定は?」

 

「できない。だが、これ以上は中へ入らないと分からない」

 

 パチュリーが沈黙する。

 

 止めないということは、同じ判断らしい。

 

「梔子。俺の手を取れ」

 

 梔子が手を伸ばす。

 

 護珠を通して座標を合わせると、半透明の指に重さが生まれた。

 

 冷たい手を握る。

 

「絶対に離すな」

 

「はい」

 

「何が見えても、勝手に触るな」

 

「はい」

 

「寄り道もするな」

 

「子供じゃありませんよ」

 

「護珠を持った初日に寄り道したやつが言うな」

 

「今、その話をします?」

 

「返事は」

 

「分かりました!」

 

 梔子が少し強く手を握り返した。

 

「行くぞ」

 

 一歩、門の中へ入る。

 

 足元の感覚が消えた。

 

 二歩目で、上下がなくなる。

 

 三歩目。

 

 幻想郷の風が、背中から遠ざかった。

 

     ◇

 

 世界の狭間には、何もなかった。

 

 何もないはずなのに、暗闇の中を無数の光が流れている。

 

 星ではない。

 

 近づけば、どれも景色の欠片だった。

 

 知らない海。

 

 逆さまに浮かぶ街。

 

 赤い空。

 

 光の向こうへ意識を向けるたび、護珠が警告するように震える。

 

 景色の一つへ焦点を合わせかけた瞬間、向こう側から細い糸のような感触が伸びてきた。

 

 見ることは、知ることだ。知れば縁ができる。縁は、こちらを引くための座標にもなる。

 

 意識を切り離すと、糸の感触も消えた。

 

「界人さん。あれは?」

 

「あまり見るな。向こうに気づかれれば、見るだけで縁ができる。どこへ引かれるか分からんぞ」

 

「あんなにたくさん世界があるんですか?」

 

「それは俺にも分からない。世界とは限らない。誰かの夢かもしれないし、まだ形になっていない空想かもしれない。遠い宇宙のどこかを覗いている可能性もある」

 

 答えながら、前へ進む。

 

 歩いている感覚はない。

 

 俺たちの周囲に小さな空間を作り、その空間ごと梔子の糸へ沿って滑らせている。

 

 後ろには、幻想郷へ続く一本の線。

 

 前には、かすかな砂色の光。

 

 帰り道は保たれている。

 

「思ったより静かですね」

 

「何もない場所で音がしたら、その方が怖い。何か出てきてほしいのか?」

 

「そういうわけではありませんけど、もっとこう、風が吹いたり、ぐるぐる回ったりするのかと」

 

「景色が回ってたとすると酔うぞ」

 

「幽霊も酔うんでしょうか」

 

「三半規管がどうなっているかは俺にも分からんな。妖夢は酒にも、速く回る景色にも酔うが」

 

「半分人だからですかね?」

 

「残り半分が強いのかは、今度本人に聞け」

 

 声が聞こえるだけで、位置を確かめられる。

 

 つないだ手の感覚は薄い。

 

 俺の能力や護珠がなければ、少し気を抜くだけで互いを見失うだろう。

 

 どれほど進んだのか。

 

 時間を測る道具は動いているが、数字に意味があるか分からない。

 

 体感では半刻ほど。

 

 幽々子の守りは、まだ梔子を包んでいる。

 

 前方の砂色が少し強くなった。

 

「近い」

 

「分かるんですか?」

 

「向こうから引かれ始めてる」

 

 進むための目印としては都合がいい。

 

 ただし、引力が強すぎる。

 

 速度を落とす。

 

 その瞬間、梔子の頭上で光が弾けた。

 

「っ――」

 

 出口へ近づいたことで、欠けていた光輪が今までにない強さで輝いた。

 

 暗闇の中へ、幾何学的な白い線が広がった。

 

 俺の術式ではない。

 

「界人さん!」

 

 梔子の身体が前へ引かれる。

 

 手を握り直し、梔子を包む空間を俺の隣へ固定した。

 

 身体の移動は止まった。

 

 だが、引力そのものは止まらない。

 

 外から力を加えられているのではない。

 

 キヴォトス側の法則が、そこに属するものを内側へ戻そうとしている。

 

 だが、これは俺たちを出口へ案内する意思ではない。梔子という忘れ物を、最短の方法で世界の内側へ落とそうとしているだけだ。護珠が保つ輪郭も、俺とつないだ座標も、その先で無事に着地できるかも考えてはいない。

 

 身を任せれば、梔子だけが俺たちの見ている出口とは別の場所へ弾き出されるかもしれない。どこへ出たかも分からず、護珠とのつながりまで切れれば、今度こそ探しようがなくなる。そのまま消える可能性もある。

 

「護珠を押さえろ! 絶対に放すな!」

 

「はい!」

 

 真珠色の層が開く。

 

 一枚目。

 

 二枚目。

 

 球状の空間が梔子を包み、引力との距離を引き延ばす。

 

 それでも、光輪から伸びた線が護珠の外へ食い込んだ。

 

 帰還線が一度、揺れる。

 

 背後の暗闇に、博麗神社の月が一瞬だけ見えた、ような気がした。

 

「一度目……」

 

 梔子が呟く。

 

「まだ戻らない。前の出口が近い」

 

「でも、二度目で戻るって」

 

「二度目が来たらだ」

 

 空間を前後へ広げる。

 

 幻想郷側の線と、キヴォトス側の光。その両方へ同じ距離を作り、引き合う力を均等にする。

 

 一瞬、引力は消えた。

 

「進むぞ」

 

 一歩分、前へ座標を移す。

 

 砂色の光が近づく。

 

 もう一歩。

 

 出口らしき形が見えた。

 

 四角い部屋。

 

 見たことのない材質の壁と、壊れた機械。

 

「あそこです!」

 

「まだ飛び込むな」

 

 出口の安全を測る。

 

 床がある。空気もある。熱源なし。動くものもない。

 

 行ける。

 

 そう判断した瞬間、梔子の光輪がもう一度脈打った。

 

 帰還線が、二度目の揺れを起こす。

 

「戻らないと!」

 

 梔子が後ろを振り返る。

 

 同時に、前方から伸びた白い線が彼女の腕へ絡んだ。

 

 つないだ手は離れない。

 

 梔子を包む空間も、俺の隣へ固定したままだ。

 

 それでも、光輪と魂だけが前へ引かれていく。半透明の輪郭が、固定した空間の内側で細長く歪んだ。

 

 俺たちを囲む空間ごと、帰還線へ向け直す。

 

 俺の座標は下がった。

 

 梔子の座標だけが動かない。

 

 背後の帰還線が俺と通路を幻想郷へつなぎ、前方の白い線が梔子の魂をキヴォトスへ縫い留めている。二つの世界へ別々に固定されたままでは、距離を折っても、その歪みが梔子の中へ押し込まれるだけだ。

 

 護珠の外層が、一枚ずつ光になって剥がれた。

 

 このまま戻ろうとすれば、梔子の魂か、俺たちを包む空間のどちらかが先に裂ける。

 

 戻るなら今だ。

 

 俺一人なら、帰還線をたどって幻想郷へ戻れる。

 

 梔子は戻せない。

 

 かといって、この力へ梔子だけを任せることもできない。どこへ、どんな形で落とされるのか分からないものを、帰還とは呼べなかった。

 

 ここで捨てるのは命ではなく、今ある帰り道だけだ。水も食料も術も残っている。未知の世界へ取り残される危険と、このまま梔子の魂が裂ける危険なら、比べるまでもなかった。

 

「界人さん、戻って!」

 

「黙ってろ」

 

「でも!」

 

「なめんじゃねぇ」

 

 内界から、緊急停止用の札を取り出す。

 

「女の子一人置いて逃げ帰ったなんて話、幻想郷まで持って帰れるか」

 

 札を帰還線へ当てる。

 

 門を閉じるための術式。

 

 向こうから切られる前に、こちらから線を断つ。

 

「界人さん!」

 

「帰れなくなるだけだ。死ぬわけじゃない」

 

「だけって言わないでください!」

 

「帰る方法は、向こうで作る」

 

 何度も口にした答え。

 

 四年前のように、何も持たず迷い込むわけではない。使える術も、蓄えも、帰るための座標の形も覚えている。

 

 札へ魔力を流し込む。

 

 帰還線が切れた。

 

 それまで確かにあった心強い感触が、細い光になって消える。

 

 キヴォトス側の引力だけが残った。

 

 俺と梔子を別々の世界へ固定していた力が、一つ消える。

 

 今なら、空間が折れる。

 

「来い!」

 

 梔子の手を握ったまま、俺たちと出口の間にある距離を折る。

 

 二人を包む空間ごと、砂色の光へ引き寄せた。

 

 護珠の層が、一度に十枚弾けた。魔力を流し込み、次の層が砕けるまでの時間を稼ぐ。だが、補充は消耗に追いつかない。

 

 出口が迫る。

 

 着地する場所だけを固定し、二人分の座標を重ねた。

 

 暗闇が割れる。

 

 重力が戻る。

 

 身体が床へ投げ出された。

 

     ◇

 

 最初に感じたのは、硬さだった。

 

 背中へ、草でも土でもない人工物の床の感触がある。

 

 次に、むせ返るような埃の匂い。

 

 顔の周囲だけ空気の流れを分け、埃を含んだ層を遠ざける。

 

 身体強化を維持したまま起き上がり、すぐさま周囲を確認する。

 

 立ち上がった瞬間、膝が一度だけ沈んだ。異界への門を開き、世界の狭間で通路を保ち、最後には無理やり帰還線まで切った反動が、まとめて押し寄せている。

 

 身体強化で動くことはできる。だが、消耗そのものが消えたわけではない。ここが危険地帯ではないことを祈るばかりだ。

 

 広い室内。

 

 壁際には、用途の分からない機械が並んでいる。半分は壊れ、残りも電源が落ちていた。天井の一部が抜け、そこから白い陽光が差し込んでいる。

 

 夜ではない。

 

 幻想郷を出た時には、満月が昇っていた。世界を越える間に時刻がずれたのか、そもそも時間の流れが違うのか。今は判断できない。

 

「梔子」

 

 返事がない。

 

 心臓が跳ねる。

 

 空間感覚を広げると、すぐ横に護珠の反応があった。

 

 倒れた机の陰。

 

 梔子が、床を水面にして背泳ぎでもしているように、身体の半分だけを床上へ出していた。

 

 無事だと分かれば間の抜けた姿だが、見つけるまでの一瞬は笑えない。

 

「何をしてる」

 

〈落ちた時に、床をすり抜けました……〉

 

「……そうか。上がれるか?」

 

〈はい〉

 

 梔子がゆっくり浮かび上がる。

 

 輪郭は保たれている。

 

 幽々子の守りも薄く残り、護珠は十九層を残していた。

 

「気分は」

 

〈大丈夫です。少し、目が回っています〉

 

「幽霊も酔うらしいな」

 

〈試したくて試したわけじゃありません〉

 

「記憶は?」

 

〈あります。私は梔子ユメ。アビドス高等学校の元生徒会長で――〉

 

「そこまで言えれば十分だ」

 

 手を伸ばし、頭上の光輪を調べる。

 

 触れることはできないが、先ほどまでの異常な引力は消えている。

 

 欠けたまま。それでも、幻想郷にいた時より光が濃い。

 

 違うのは光輪だけではなかった。

 

 梔子の輪郭そのものが、比較にならないほど安定している。護珠を通して流している俺の魔力を少し弱めても、身体は薄くならない。残った十九層にも、新たな消耗は見られなかった。

 

「梔子。俺から離れた時の感覚は、幻想郷と違うか?」

 

〈そうですね……幻想郷では、界人さんから離れるほど身体が薄くなっていく感じがありました。でも今は、自分の居場所が最初からここにあるような感じがします〉

 

「護珠は外さず、部屋の反対側まで離れてみろ」

 

 梔子が頷き、壊れた机を回り込んで壁際まで移動する。

 

 俺と梔子をつなぐ糸は伸びた。それでも輪郭は薄れず、護珠の外層も光を保っている。

 

「キヴォトスそのものが、お前の存在を支えてるのかもしれない」

 

〈では、護珠がなくても大丈夫なんでしょうか?〉

 

「まだ外すな。ここへ来た直後だけの変化かもしれない。少なくとも、俺から離れただけで消える心配は減ったらしい」

 

 梔子は胸元の珠へ触れ、確かめるように自分の両手を見た。

 

「ここが、キヴォトスか?」

 

 梔子が天井の穴から外を見上げる。

 

 遠くに、高い建物が並んでいた。

 

 幻想郷では見ない形だ。

 

 空を横切るのは妖精やカラス天狗ではなく、小さな飛行機械らしい。

 

〈はい〉

 

 梔子の声が震えた。

 

〈たぶん、キヴォトスです〉

 

「たぶん?」

 

〈建物には見覚えがありませんけど、空気というか、雰囲気というか……帰ってきた感じがします〉

 

「なら、第一の目的は達成だな」

 

 背後を見る。

 

 俺たちが落ちてきた場所には、何もない。

 

 空間へ手を伸ばす。

 

 幻想郷の座標を探す。

 

 人里。自宅。紅魔館。白玉楼。博麗神社。

 

 どれも、ない。

 

 切った帰還線の残滓へ意識を伸ばす。

 

 応答はない。幻想郷側の座標へ、今の俺から直接触れることはできなかった。

 

 門を閉じる前、座標の形は覚えた。だが、こちらの法則の上で組み直すには時間が要る。魔法や能力がそのまま使える世界でよかった。

 

〈帰り道は……〉

 

 梔子が尋ねる。

 

「今は、幻想郷へ通じる門を開けられない」

 

〈私のせいです〉

 

「違う」

 

〈でも、私が引っ張られなければ〉

 

「あれを防げなかったのは俺だ。それに入ると決めたのも、線を切ったのも俺だ。お前が決めたことにするな」

 

 梔子は唇を噛んだ。先ほどまで帰ってきた喜びに揺れていた目が、今にも泣き出しそうに潤んでいる。

 

〈界人さんは、戻れなくなったんですよ〉

 

「今すぐ戻れないだけだ」

 

〈どうして、そんなに落ち着いていられるんですか〉

 

「焦ったら帰れるのか?」

 

〈違いますけど……〉

 

「なら、後でいい。今は身体と荷物と周囲の確認が先だ」

 

 内界を開く。

 

 門は問題なく動いた。荷物も無事。水と食料はある。

 

 魔法も使える。

 

 空間操作も応える。

 

 ただし、感触は幻想郷と同じではない。同じ言葉を、癖の違う筆跡で書いたような僅かなずれがある。すぐに能力を妨げるものではないが、慣れるまでは大きな術を避けた方がよさそうだ。

 

「まず、この建物から出て、人のいる場所を探す」

 

〈外の景色が分かれば、どの自治区か見当がつくかもしれません〉

 

「かもしれない、か」

 

〈キヴォトスは広いんですよ。私だって、全部の自治区へ行ったことがあるわけではありません〉

 

「案内役としては、少し不安だな」

 

〈が、頑張ります〉

 

「さらに不安になる返事をするな」

 

 壊れた扉へ近づく。

 

 外から鍵が掛かっているらしい。

 

 わずかに空間をずらし、錠と扉の位置を外す。

 

 扉は乾いた音を立てて開いた。

 

 滞っていた埃が動き、廊下の生温い空気が流れ込んでくる。

 

 廊下の先には、見慣れない表示と消えた照明が続いていた。

 

「行くぞ」

 

〈どこへですか?〉

 

「まず外だ。行き先は、周囲と手持ちの情報を確かめてから決める」

 

〈慎重なんですね〉

 

「最初くらいはな。状況が分かれば、動きようもある」

 

 梔子の声を背中に聞きながら、見知らぬ廊下へ足を踏み出す。

 

 帰り道はない。

 

 金も、身分も、土地勘もない。

 

 あるのは、内界へ詰めた荷物と、自分の能力。

 

 それから、よく喋る幽霊が一人。

 

 四年前よりは、随分ましな始まりだった。

 




レミリア・スカーレットは、紅魔館の主である吸血鬼です。小柄な少女の姿をしていますが、五百年以上を生きており、十六夜咲夜を従者とし、パチュリーとは友人関係にあります。

能力は「運命を操る程度の能力」。原作でも具体的な作用は曖昧です。本作でも明確な未来予知とはせず、ユメの運命から何かを感じ取ったらしい言葉だけを残しています。

【五行と七曜】

パチュリーが扱う七曜は、五行の「木・火・土・金・水」に「日・月」を加えたものです。曜日の名前にも、そのまま使われています。以下は『東方求聞史紀』で説明されている性質を、簡単にまとめたものです。

・日(日曜日):能動と攻撃を司る属性。

・月(月曜日):受動と防御を司る属性。

・火(火曜日):変化と活動を司る属性。

・水(水曜日):静寂と浄化を司る属性。

・木(木曜日):生命と目覚めを司る属性。

・金(金曜日):豊穣と実りを司る属性。

・土(土曜日):基礎と不動を司る属性。

【ちょっとした属性小話】

『東方萃夢想』でパチュリーが口にする、五行になぞらえた対戦後の台詞からは、霊夢が「木」、魔理沙が「水」らしい。

魔理沙は水の性質を持ちながら、実際に得意とするのは光や熱、星を題材にした派手な魔法。本人の努力と好み。弾幕はパワー。

本作の界人も、最も相性がよい五行は魔理沙と同じ「水」。そこへパチュリーの勧めで「金」と「月」を学び、三つの属性を空間魔法へ組み込んでいます。他のも使えなくはない。実は「竜」の性質もある。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。