地中海から吹く乾いた風が、ローマの夜を静かに撫でていく。
黒塗りの高級サルーンの後部座席で、イタリアンマフィア『パッショーネ』のボス――ジョルノ・ジョバァーナは手元に置かれた一枚の招待状に視線を落としていた。
上質なそれには、金箔の優美なカリグラフィーで『パルコ・フォルゴレ新作映画完成記念パーティー』と記されている。
「なあボス、信じられるか? あの『パルコ・フォルゴレ』のパーティーに招待されるなんてよ。映画の試写チケットだって、裏ルートでも簡単には手に入らねえプレミア物なんだぜ!」
運転席を握るグイード・ミスタがバックミラー越しに白い歯を見せて笑う。
その指先はハンドルを小気味よく叩き、口元からは先ほどから陽気極まりないイタリアン・ポップスのメロディが零れ落ちている。
女性の胸への執着をこれでもかと歌い上げた、パルコ・フォルゴレによる世界的な大ヒットナンバーだ。
「ええ、知っていますよ。ミスタ、貴方が彼の熱狂的なファンである事も、その曲の歌詞を完璧に暗記している事もね」
ジョルノは穏やかな声で応じ、膝の上に置かれた紙袋へそっと指を触れた。
中には、フォルゴレの出演した映画のパンフレットや、発売されたばかりの記念レコードが角の潰れ1つなく几帳面に収められている。
ふと、過去の記憶が胸の奥で静かに揺れた。
かつて同じ夢を追い、風のように去っていった仲間――ナランチャ・ギルガもまた、フォルゴレの主演作を観た後、目を輝かせながらその痛快な活劇を熱っぽく語っていたことがあった。
あの屈託のない笑顔を思い出すたび、ジョルノの心には温かい追憶が満ちる。
「――ナランチャも、生きていればきっと君と一緒に歌っていたでしょうね」
「違いねえ。あいつなら大声で怒鳴るように歌って、ブチャラティに説教食らってたはずだ」
ミスタは短く吹き出すように笑い、それから少しだけ声音を真面目なものに変えた。
「……だがよ、ボス。あんたがこんな表舞台の華やかな場所に自分から顔を出すなんて、滅多にないことだ。裏社会のトップが、ただの映画スターに表敬訪問ってわけでもねえんだろ?」
「ええ。僕にとっては……個人的な恩義がある人なんです」
へぇ、と生返事を返すミスタ。
それ以上の詮索をしない彼に心の中で感謝しつつ、ジョルノは窓の外へと視線を移す。
ネオンの光が、彼の澄んだ碧色の瞳に滑り込んでいく。
あの日、路地裏の草むらで血を流して倒れていた男。
死んだような目をしていた幼い自分に、言葉ではなく、その背中と生き様で『人を信じること』を教えてくれた男。
かつて、暗闇の荒野に居たジョルノがギャング・スターという生き方に光を見出し、進むべき道を切り開く『覚悟』を教えてくれた存在。
――『ヴェネツィアの若獅子』、パルコ・フォルゴレ。
車は滑らかに減速し、都心の最高級ホテルの車寄せへと滑り込んだ。
車を降り、警備の屈強な男たちをパッショーネの威光で音もなく制しながら、ジョルノは会場の大広間へと足を踏み入れる。
シャンデリアの輝きが降り注ぐホールの中央。
何人もの美しいドレス姿の女性たちに囲まれ、大の字で寄りかかっている男――パルコ・フォルゴレの姿があった。
「オイオイ、そんなに引っ張らないでくれよ! 困ったなあ、手が足りないよ! ハハハハハハ!」
歯をきらりと光らせながら、どこか気の抜ける満面の笑みを浮かべるフォルゴレ。
キザという言葉の枠を軽々と飛び越え、一種の芸術的な域にまで達したその伊達男の立ち居振る舞いに、周囲からは黄色い歓声が波のように湧き上がる。
その華やかな熱気の人垣を、おどおどする事もなく、しかし隠しきれない興奮を滲ませて割って入る影があった。ミスタだ。
普段の冷徹な凄みはどこへやら、その手には先ほど車内から持ち出したレコードジャケットと、三本の高級サインペンがしっかりと握られている。四本ではなく三本なのは――言うまでもないだろう。
「へへっ、すまねえなレディたち、ちょっと道を空けてくれ。……パルコ・フォルゴレさん! 頼むからこれにサインをしてくれねえか? 俺はあんたの『00F(ゼロゼロエフ)〜鉄のフォルゴレ〜』を映画館で7回も観た大ファンなんだ!」
屈強な体躯に派手な格子柄の服をまとった、どう見ても裏社会の危険な香りを漂わせる男の乱入に、周囲の招待客たちが微かに息を呑む。だが、フォルゴレは眉ひとつ動かさなかった。それどころか、極上の輝きを宿した歯を見せてニカッと笑い、ミスタの差し出したペンの一本を優雅に抜き取った。
「もちろんだとも、友よ! 7回も観てくれたのかい? 君のような熱い魂を持つ男に愛されて、私も映画も本望というものさ。名前は何ていうんだい? 特別なメッセージも添えておこう」
さらさらと心地よい音を立ててペン先が走り、純白のジャケットの袖口が軽やかに揺れる。フォルゴレは迷うことなく流麗なサインを走らせると、ミスタの肩を気さくに叩き、がっちりと握手を交わした。
その過剰なまでのサービス精神と一切の怯みを見せない度量に、ミスタは子供のように頬を緩め、宝物でも手に入れたかのようにレコードを胸に抱きしめて満足げに頷いた。
「最高の男だぜ、まったくよ……!」
歓喜に浸りながら引き下がっていく護衛の背中を見送り、ジョルノは静かに歩みを進めた。
周囲の喧騒が、まるでそこだけ切り取られたかのように静まり返る。
ジョルノが纏う空気は、暴力のそれではない。だが、群衆を自然と左右へ退かせるだけの、『凄み』がそこにはあった。
群衆を抜けて正面に立ったジョルノを、フォルゴレの瞳が捉える。
先ほどまで美女たちに向けていた甘く蕩けるような眼差しから、わずかに喜びの色が薄れた。
その少年の、静謐で、どこまでも澄み切った双眸を見つめた瞬間、フォルゴレの脳裏に何かが引っかかったかのように、その端正な眉がわずかに動く。
ジョルノは右手を胸の前に添え、礼節をもってわずかに頭を下げた。
「……お初にお目にかかります、と言うべきでしょうか。それとも、お久しぶりです、と言うべきでしょうか。素晴らしい映画の完成、心よりお祝い申し上げます、パルコ・フォルゴレさん」
その声は穏やかでありながら、ホールのざわめきを涼やかに通り抜けてフォルゴレの耳へと届く。
ややあって、フォルゴレは取り巻きの女性たちに「少し失礼するよ、お姫様達」と優しく告げ、姿勢を正す。
そして、改めてジョルノの全身をじっくりと見つめ直す。
大スターとしての仮面の内側に、かつて死線を潜り抜けてきた男だけが持つ、鋭利で研ぎ澄まされた光が一瞬だけ宿った。
「……まさか、君は」
「ここでは少々、人目が多すぎます。もしよろしければ、少しだけ静かな場所でお話しさせて頂けないでしょうか? 貴方に、どうしてもお伝えしたい事があるのです」
ジョルノの言葉に、フォルゴレはいつもの道化の笑みを引っ込め、大人の男の落ち着いた声音で静かに頷いた。
「いいだろう。私の宿泊先へ案内しよう。――君のその澄んだ目には、見覚えがある気がする」
最高級ホテルの最上階に位置するロイヤルスイートルームは、階下の狂騒が嘘のように静まり返っていた。
厚い絨毯を踏みしめ、ミスタをはじめとする護衛たちを扉の外に残したジョルノは、フォルゴレの促しに従って革張りの重厚なソファへと腰を下ろした。
大きなガラス窓の向こうには、ネオンの光が広がるローマの夜景が一望できる。
フォルゴレはサイドボードに歩み寄ると、クリスタルのグラスにミネラルウォーターを二つ注ぎ、その一つをジョルノの前へと置いた。かつての荒んだ時代には手放せなかった煙草の気配は、今の彼からは微塵も感じられない。
「さて、どこから話したものかな。……まずは、堅苦しい挨拶抜きの質問といこうか」
フォルゴレは純白の長袖シャツを翻し、ふざけたように両脚をクロスしてみせた。胸の前で両手を不規則に波打たせる独特のポーズを取る。
「私の熱狂的なファンである君の連れのように、君も私の歌を聴いてくれたりするのかい? 例えば、そう……あの世界中を席巻した世紀の名曲、『チチをもげ!』なんかをね」
場を和ませようとする、いかにも道化めいたスターの軽口だった。
しかし、ジョルノ・ジョバァーナという青年は、その問いかけに対して微塵の揺らぎも見せなかった。金色の前髪の下にある双眸を静かに見開き、彫像のように端正な顔立ちを崩さないまま、極めて厳粛な声音で言葉を返した。
「ええ、勿論です。通常盤はもちろんのこと、特典が封入された初回限定盤も含め、すべて購入して大切に保管してあります」
「ははっ! そうかそうか! それは嬉し――えっ?」
フォルゴレのポーズが、ピタリと静止した。
「あの歌に込められた歌詞の真意……とりわけ、幾重にも繰り返されるフレーズの奥底にあるメッセージ性を完全に理解するまでには、少々時間を要しました。ですが、あなたの生きるエネルギーとパッションは、確かに僕の胸へと届きましたよ」
「あ、うん……そ、そうかい……。ありがとう、そこまで深く聴き込んでくれたファンは世界中を探しても君が初めてかもしれないな……」
一切の冗談を排したジョルノのあまりの真摯さに、思わず動揺したフォルゴレはデフォルメチックな表情を浮かべながら、ぎこちなくグラスの水を煽る。
ある種のシュールな沈黙が続いた後、フォルゴレはコホンと小さく喉を鳴らし、いつもの道化の仮面を剥ぎ取った。
その表情から笑みが消え、大人の男の落ち着いた声音が室内に響く。
「……冗談はここまでにしておこうか。君が私に会いに来た本当の理由を聞かせてくれないか。君のその瞳……やはり、どこかで出会ったことがあるはずだ」
ジョルノは静かに頷き、胸元のブローチにそっと触れた。
「覚えていますでしょうか。かつてネアポリスの薄暗い路地裏で、ギャングに追われ、草むらの中に血を流して倒れていたあなたのことを。……そして、追っ手に対して『誰も通らなかった』と嘘をついた、死んだような目をしていた小さな子供のことを」
フォルゴレの呼吸が、微かに止まった。 その記憶の扉が一気に開かれたかのように、碧い瞳が見開かれる。
「……君が、あの時の子供だったのか」
「はい。あの日、あなたが草むらから伸ばした血まみれの腕……そして、追っ手をやり過ごした後に交わしたわずかな視線。それが、僕の人生のすべてを変えました。他人に怯え、自分を呪うことしか知らなかった僕に、人を信じることの尊さを教えてくれたのは、他ならぬあなただったのです」
ジョルノは背筋を伸ばし、一片の迷いもなく告げた。
「僕は今、ネアポリスを統べる組織――パッショーネの頂点に立っています。あなたのように、絶望の淵にある者へ手を差し伸べる『ギャング・スター』になるという夢を、僕は叶えました」
感謝を込めた言葉を聞いたその瞬間、フォルゴレの表情は喜びに綻ぶどころか、深く、痛ましい悲哀に染まった。
彼は重い吐息を漏らし、頭を抱えるようにして俯いた。
「――なんてことだ。君は……ギャングになってしまったのか」
絞り出すようなその声には、深い後悔が滲んでいた。
「君には……真っ当な道を歩んで欲しかった。誰かを傷つけ、命を奪い合うような泥沼の世界ではなく、胸を張って陽の当たる場所を歩いて欲しかったんだ……!」
沈痛な叫びを上げるフォルゴレに、ジョルノは静かに問いかけた。
「なぜ、後悔なさるのですか? あなたはあの日、自らの命を救われた礼として、遠くから僕を見守り続けてくれた。義父からの暴力から僕を守り、街の不良たちに僕を敬うように仕向けてくれた……それは、誇り高きギャングの仁義ではなかったのですか?」
その問いに対し、フォルゴレは力なく首を振った。
「違うんだ、ジョルノ君。……君は、大きな勘違いをしている。当時の私は、君が思うような立派な男でも、ましてや誇り高いギャングなんかでもなかったのさ……」
フォルゴレは自らの両手を見つめる。かつて血と暴力で汚れていた、若き日の記憶を呼び起こすように。
「当時の私はね、ジョルノ。どこか勘違いした、バカなライオンだったのさ……」
フォルゴレは窓の外の夜景へ視線を投げかけ、苦い笑みを唇に浮かべた。その声音は低く、どこか遠い過去の痛みを噛み締めるように響く。
「体が大きいのと、力があったのとで暴れまわってた、ただの愚かなチンピラに過ぎなかったんだ。カタギの身でありながら、向こう見ずにも本物のギャング組織に喧嘩を売り……結果は無様なものさ。銃弾を浴びせられ、路地裏に転がり込んで死にかけていた」
無言で耳を傾けるジョルノの前で、フォルゴレは組んだ指をぎゅっと握りしめた。
「それだけじゃない。私の暴力が招いた報いは、最も残酷な形で返ってきた。ギャングの脅迫の手は私の実家にまで伸び、恐怖に駆られた私の両親は、震える手で実の息子である私に銃を突きつけたんだ。肉親にまで銃口を向けられて絶縁される事もそうだが、怯えるような目で見られるのが一番のショックだった。……まぁ、当時の私はそういう目にあっても当然な程、醜く、救いようのない存在だったのは確かだけどね」
その言葉には、胸を抉られるような悔恨が滲んでいた。 かつて暴力の限りを尽くし、すべてを失った男の傷痕がそこにあった。
「ジョルノ君を遠くから見つめていたのだって、立派な仁義だとかそういうんじゃあないんだよ。……あの時の私は、『力のないちっぽけなガキに命を救われた』という屈辱と苛立ちに塗れていた。そして『何であのガキは私を庇ったのか』という疑問が頭から離れず、苛立ち紛れに君の行動を遠くから監視していただけに過ぎない」
フォルゴレは自嘲するように息を吐き出す。
「凶暴な目つきの男が、毎日のように路地裏からジョルノ君を付いて回った。結果、君の義父や街の不良どもは、君の背後に危険な暴力の影を感じ取り、勝手に恐れをなして手を出さなくなった。……それが、君が信じていた僕の正体さ。私は君を救おうとしたわけでも、守ろうとしたわけでもなかったんだよ」
重い真実が、静まり返ったスイートルームに沈殿していく。
少年にとっての「憧れ」を木っ端微塵に打ち砕くような告白だった。普通の人間であれば、信じていた恩人の醜い本性に絶望し、裏切られたと怒りを露わにしてもおかしくない。
だが、ジョルノ・ジョバァーナの瞳には、失望の色など微塵も浮かんでいなかった。 それどころか、彼の碧色の瞳は、夜空の星を見るかのように清らかに澄み渡っていた。
「……やはり、僕の目に狂いはありませんでした」
静謐な、しかし揺るぎない確信に満ちた声だった。ジョルノはゆっくりと首を横に振った。
「あなたがどのような理由でそこに立っていたのか……そんなことは、些細な問題に過ぎません。あの日、死の淵にいながらも決して消えなかったあなたの生命の輝き、そして僕を見つめ続けていたその鋭い眼差しが、絶望の泥沼にいた僕に『敬意』という名の光を与えてくれたのです」
ジョルノは立ち上がり、窓辺のフォルゴレの前に歩み寄った。
「他人に怯え、自分を粗末に扱っていた僕が、初めて『自分には生きる価値がある』と誇りを持てた。それは、あなたがそこにいてくれたからこその真実です。そして何より……今のあなたを見ればわかります。あなたは過去の過ちから逃げず、その荒ぶるライオンの牙を自ら捨て、誰かを傷つけるためではなく、誰もが笑顔になれるようにその力を使っている」
ジョルノは自らの胸に手を当て、パッショーネの首領としての矜持を込めて告げた。
「僕の組織も同じです。子供たちを蝕んでいた麻薬を街から完全に根絶し、力なき人々が理不尽な暴力に怯えずに暮らせるよう、裏社会から秩序を守り続けています。……形は違えど、僕たちは同じ光を目指しているはずだ」
ジョルノの言葉に、フォルゴレは息を呑んだ。
彼の言葉は、言ってしまえば『綺麗事』とも言えた。
だが、世界は『綺麗事』だけでは回らない事――マフィアが強い力を持つイタリアという国は特に――をれを、フォルゴレ自身がよく知っていた。
そして何より、少年の瞳の奥に宿る、強き意志――それは、いかなる闇をも照らし出す『黄金の精神』そのものだった。かつて魔界の王を決める過酷な戦いの中で、相棒と共に命を懸けて守り抜こうとした「優しさ」や「強さ」と、寸分違わず同じ気高さがそこにはあった。
「――そうか」
フォルゴレの表情から苦悶が消え、大人の男の温かな笑みが戻ってきた。 彼はジョルノの肩にそっと手を置き、力強く頷いた。
「君は……本当に立派な男になったんだな、ジョルノ。道は違えど、君の心にある誇りは本物だ。君のその澄んだ瞳を、私は信じるよ」
二人の間に流れる空気が、確かな絆となって結ばれた瞬間だった。 過去の真実を超え、男たちは互いの魂を認め合い、静かにグラスを交わした。
だが、この平穏な語らいから数年後――一人の男の妄執によって成されようとした世界そのものの命運を揺るがす未曾有の災厄が、彼らの前を立ちはだかることになるとは、この時の二人はまだ知る由もなかった。