玄関に置かれた荷物は、旅行鞄が二つだけだった。
十年以上この屋敷に勤めていた男の暮らしが、それだけで運べてしまうことを、久世晴臣は少し意外に思った。
「長い間、世話になりました」
男はそう言って、深く頭を下げた。
晴臣も頭を下げかけて、踏みとどまる。
相手を困らせてはいけない。今の自分は、見送る側の人間なのだから。
「こちらこそ。向こうでも、身体に気をつけて」
「……晴臣様」
「娘さん、来年は受験だったね」
男の手が、鞄の持ち手を握り直した。
「はい」
「落ち着いたら、連絡をください。合格のお祝いくらいはさせてほしい」
しばらくして、男はもう一度頭を下げた。今度は、先ほどよりも長かった。
晴臣はその背中を見送った。
門の外には迎えの車が停まっている。男が乗り込むと、後部座席の窓が下がり、最後の会釈が見えた。
車が角を曲がるまで、晴臣は玄関に立っていた。
「お戻りください。冷えます」
背後から声をかけたのは、相良宗一郎だった。
六十四歳になる宗一郎は、晴臣の父の代から久世家に仕えている。家の会計も、屋敷の維持も、配下の人々の暮らしも、今はこの男が取りまとめていた。
晴臣にとっては補佐役であり、幼い頃から自分を知る数少ない大人でもある。
「うん」
答えて屋敷に戻る。
廊下はよく磨かれていた。庭の植木も、昨日までと変わらず整えられている。
だからこそ、人が減ったことが目についた。
以前なら、朝のこの時間には誰かとすれ違った。庭から声が聞こえ、奥の部屋では電話が鳴っていた。
今は、晴臣と宗一郎の足音だけが続いている。
*
世間には公表されていないが、この国には怪異を扱う政府機関がある。
鎮異院。
人を襲う妖怪の討伐、危険な場所の封印、憑依された者の救護。その仕事の多くを、代々それぞれの技術を受け継いできた名家が担っていた。
久世家も、その一つだった。
得意とするのは、妖怪との交渉である。
害をなすものばかりではない。土地を守るものも、人間との約束を守って暮らすものもいる。そうした相手との取り決めを維持することが、久世家の役割だった。
晴臣が当主になったのは、半年前。
十八歳の誕生日を迎えて、間もない頃だった。
父と主力の退魔師たちが、同じ怪異事件で命を落とした。
その後の半年で、久世家の管轄は次々と他家へ移された。人員も同様だった。対応できる者がいない以上、仕方のない措置ではある。
ただ、晴臣が立て直すための余力まで、一緒に失われていった。
今朝出ていった男も、鷹宮家の部隊へ移る。
鎮異院の討伐部門を率いる鷹宮家は、久世家の人員を引き受け、給与と仕事を保障していた。残された人々にとって、それは悪い話ではない。
晴臣が引き留めれば、その生活を自分で保障しなくてはならなかった。
今の彼には、それができない。
「再編の審議は、予定どおり来週です」
書斎で、宗一郎が書類を差し出した。
晴臣は受け取り、既に何度も読んだ文面に目を落とす。
残る業務の移管。人員の統合。鷹宮家の監督下での活動。
この案を受け入れれば、久世家という家は残る。
けれど、独立して仕事を引き受ける立場は失われる。
「先方から、条件を改めて説明したいとの申し入れもございます」
「僕の返事は、まだ変わらない」
「承知しております」
宗一郎は否定しなかった。
そのことが、かえって晴臣を苦しくさせた。
「宗一郎。僕が意地を張っているだけなら、そう言ってほしい」
老いた補佐役は、机の向こうでしばらく晴臣を見た。
「何をお守りになりたいのかによります」
「父さんが残したものを」
「お屋敷ですか。久世の名ですか」
晴臣は書類を置いた。
「……約束だよ」
父が交わした約束。
父の父が、その前の当主が、土地の妖怪たちと結んできた約束。
担当部署を移すだけで、そのすべてが引き継がれるわけではない。人間側の書類には名前しか残っていない相手もいる。
そして、晴臣を信じて残った人々との約束もあった。
「僕が当主を継いだとき、立て直すまで一緒に働いてほしいと頼んだ。なのに、何もできないまま終わらせたくない」
「でしたら、そのための手段が必要です」
「分かってる」
分かっている。
それを探して、半年が過ぎた。
宗一郎が退出したあとも、晴臣は書類から目を離せなかった。
窓の外で、枝が小さく揺れた。
風は吹いていない。
「まだ諦めぬか」
声に顔を上げると、庭に人影が立っていた。
枯葉を重ねたような衣をまとい、細い杖を持っている。遠目には痩せた老人にも見えるが、その顔の陰には、鼻も口もはっきりとは見えなかった。
「朽葉」
晴臣は窓を開けた。
朽葉は、山の道と境界を知る妖怪だった。
人間が迷い込んではいけない場所、妖怪が越えてはいけない境目。そうした道を見守り、久世家とも長く盟約を結んでいる。
晴臣は幼い頃からその姿を見ていた。父が庭へ招き、茶を出していた相手である。
「鷹宮の下に入れば、食うには困らぬと聞いたが」
「人間は、ね」
晴臣が答えると、朽葉は黙った。
「あなたたちとの約束まで、同じように引き受けてもらえるかは分からない」
「若いくせに、背負うものを増やす」
「もう背負ってるんだと思う」
朽葉の杖が、庭石を一度叩いた。
「助けを求める先が、ないわけではない」
晴臣は身を乗り出しかけた。
しかし、朽葉の様子を見て動きを止めた。
普段なら、言いにくいことほど皮肉を交えて話す。その朽葉が、杖を握ったまま黙っている。
「誰?」
「山の奥に、おられる」
「山の妖怪?」
「……妖怪ではあろうな」
曖昧な答えだった。
朽葉が晴臣を見た。
「夜久、と名乗られる」
知らない名だった。
それを察したのか、朽葉は声を低くした。
「お前たちの記録には、別の名で残っている。神隠しの黒禍、と」
晴臣の手が、窓枠の上で止まった。
久世家には古い怪異の記録がある。子供の頃、晴臣は父に隠れてそれを読んだ。
現れた土地から、神も妖怪も消えたという。
姿を見た者は帰らないという。
何をしたのか、何を求めるのか。それさえ分からず、ただ遭遇を避けよと記されていた存在。
「あれは……実在するの?」
「記録のすべてが正しいかは知らぬ。だが、あのお方はおられる」
「会ったことがある?」
「遠くから、お姿を見たことはある」
朽葉はそれ以上、説明しなかった。
「道は教えられる。しかし、頼みを聞いてくださるかは分からぬ。帰れるとも約束できぬ」
晴臣は、机の上の書類を振り返った。
来週の審議。
今日出ていった男。
父と並んで働いていた人々の、空いた席。
目を戻すと、朽葉はまだそこにいた。
「教えてほしい」
*
宗一郎は反対した。
声を荒らげはしなかったが、出発の準備をする晴臣の前から動こうとしなかった。
「その名をご存じで、それでも行かれるのですか」
「知っているのは、記録にあることだけだよ」
「それだけでも、止める理由には十分です」
晴臣は背負い袋に水を入れた。
携帯電話。予備の電源。懐中電灯。食料。
退魔の札も数枚入れて、手が止まった。
記録にある相手なら、こんなものは役に立たない。
それでも、置いていく気にはなれなかった。
「帰れなかった場合の引き継ぎは、ここに書いた」
封筒を差し出す。
宗一郎は受け取らなかった。
「そのような準備を、お褒めするつもりはございません」
「うん」
「先代を失ったばかりです」
「……うん」
晴臣は顔を上げた。
「ごめん。でも、僕だけで行かせてほしい」
宗一郎は長く息を吐いた。
そして、封筒を受け取った。
「明日の夕刻までに連絡がなければ、こちらで動きます。朽葉殿にも、戻れるところまで見届けていただきます」
「分かった」
「必ず戻る、とは仰らないでください」
晴臣は言いかけていた言葉を呑んだ。
「……戻れるようにする」
「はい」
宗一郎はようやく道を空けた。
*
翌朝、晴臣は山へ入った。
麓までは列車とバスを乗り継いだ。最後の停留所で降りると、登山口の外れに朽葉が待っていた。
初めは、地図にも載っている山道を歩いた。
やがて朽葉が道を外れ、木々の間へ入っていく。
晴臣はその後を追った。
二時間ほど歩いた頃には、携帯電話は圏外になっていた。
木の根を越え、沢を渡り、苔に覆われた斜面を登る。
不思議なことに、進むほど足元が歩きやすくなった。道などないはずなのに、踏み出す先には必ず乾いた土がある。
朽葉が道を選んでいるのだ。
その案内がなければ、晴臣はとっくに迷っていた。
「ここまでだ」
朽葉が止まったのは、二本の古い木の間だった。
どちらも幹が太く、根が地面から大きくせり出している。その向こうにも森は続いていたが、奥だけが妙に暗かった。
「この先を進め。帰るときも、この木の間を通れ。脇へ逸れるな」
「夜久様は、どこに?」
「向こうにおられる」
晴臣はもう一度、奥を見た。
「……朽葉」
「何だ」
「道を教えてくれて、ありがとう」
妖怪は返事をしなかった。
晴臣が二本の木の間へ進むと、背後で杖を握り直す音がした。
十歩ほど歩いて、足を止める。
何かが変わった。
木々はある。土もある。自分の靴も、前と同じように見えている。
なのに、周りの音がしなかった。
葉擦れも、鳥の声も。
自分の息が、ひどく大きく聞こえる。
晴臣は前へ進んだ。
森が開けた先に、黒いものがあった。
崖の陰かと思った。
山の斜面に、巨大な窪みがあるのだと。
だが、見上げてもその上端が分からない。左右にも、どこまで続いているのか分からなかった。
その闇の中で、何かが開いた。
目だった。
晴臣の身体よりも大きな目が、こちらを見ていた。
息が止まった。
逃げなければならない。
そう思ったときには、膝が折れていた。
手をついた土が冷たい。指先に小石が食い込む。それなのに、腕を動かせなかった。
闇の低いところに、白いものが並ぶ。
牙。
それを認識した途端、晴臣は顔を伏せた。
見てはいけない。
見上げたままでは、自分がここに来た理由まで失ってしまう。
「人の子か」
声がした。
大声ではなかった。
だが、森のどこから聞こえたのか、晴臣には分からなかった。胸の内側に直接響いたように感じた。
「何用で参った」
答えなくては。
晴臣は口を開いた。
「く、久世……」
声が裏返る。
用意してきた挨拶は、頭から消えていた。
古い記録に倣った礼法も、相手の機嫌を損ねない言葉も、何一つ思い出せない。
「久世晴臣と、申します」
どうにか名前を言った。
「夜久様に、お力添えを、お願いしたく……」
「顔を上げよ」
身体が跳ねた。
晴臣は両手に力を込め、少しだけ頭を上げた。
目がある。
先ほどと同じ場所に。
その下の闇も、左右の闇も、動いているように見えた。
「楽にしてよい。話が聞こえぬ」
「……はい」
楽になどできなかった。
それでも、少なくとも聞いてはもらえる。
晴臣は一度唾を呑み、喉を湿らせた。
「私の家は、妖怪との盟約を守る役目を担っております。ですが、父と、家を支えていた者たちを失いました」
そこまで話すと、少しだけ言葉が戻った。
「残された仕事は他家へ移され、今は人も、管轄も、ほとんどありません。来週には、独立した家としての活動を終えることになります」
「他の家に任せてはならぬのか」
晴臣は息を詰めた。
当然の問いだった。
自分の誇りを守るために、こんなところまで来たのか。
夜久にそう問われている気がした。
「任せられる仕事もあります。ですが、私たちの家と約束を結んだ相手が、それを受け入れるとは限りません」
「ふむ」
「残った者たちにも、私は立て直すと約束しました。私だけの力では、果たせませんでした」
声が震える。
それでも、もう止めなかった。
「どうか、久世家の後ろ盾となっていただけませんか。一族と、私を信じて残った者たちを、お守りいただきたいのです」
晴臣は頭を下げた。
返事はなかった。
時間が分からない。
数秒なのか、それとも数分なのか。
「お前の父は、戻らぬのだな」
「……はい」
「そうか」
その一言で、晴臣は奥歯を噛み締めた。
自分でも理由が分からなかった。
叱られたわけではない。慰められたわけでもない。
ただ、父が戻らないことを、目の前の存在が受け止めた。
「お前たちは、どこに住んでおる」
思いがけない問いに、晴臣は一瞬、答えを失った。
屋敷のある街と、ここまでの道のりを説明する。
列車とバスのことを話すと、闇の奥で目がわずかに細くなった。
「人を乗せて走る車か」
「はい。大勢で乗るものも、一人で使うものもあります」
「随分と便利になったものよ」
夜久は続けて、街の様子を尋ねた。
晴臣は何を試されているのか分からないまま、店や建物のことを話した。
食事について聞かれたので、料理を出す店がいくつもあると答えた。
「その土地で採れぬものも食うのか」
「はい。遠くの国の料理もあります」
「ほう」
「遊びも……昔とは、違うかもしれません。画面に映ったものを動かして遊んだり、物語を映像で見たりします」
「絵が動くのか」
「音も出ます」
再び、夜久が黙った。
晴臣は両手を膝に置いた。
何を求められるのだろう。
家の財産で済むなら、差し出す。
けれど、配下の命を求められたら。
ここまで来て初めて、その答えを自分が用意できていないことに気づいた。
*
夜久は、目の前の若者を眺めていた。
随分と疲れている。
山を登ってきたせいもあるだろうが、それだけではなさそうだった。
父を失ったばかりで、他の者の暮らしまで抱えているという。
助けを求める声も、今にも途切れそうだ。
後ろ盾になること自体は、構わなかった。
人の家に関わるのは久しぶりだが、話を聞く限り、この若者が誰かを虐げたいわけではない。
それに、街の話はなかなか面白い。
遠くの国の料理。
音を出して動く絵。
そんなものが、今は当たり前にあるらしい。
山の暮らしに不満はない。しかし、不満がないことと、他の暮らしを知りたくないことは別である。
少し出かけてみてもよいだろう。
問題は、何を頼むかだった。
疲れた若者に、あれこれ用意させるのは気が引ける。
食べるものと、休む場所。
あとは、面白そうなものを教えてもらえれば十分か。
夜久がそう考えている間に、晴臣の顔色はますます悪くなっていた。
*
「対価は要る」
晴臣は背筋を伸ばした。
「はい」
「我が街で過ごす間、食事と住まいを用意せよ。それと、人の作る遊びを見せてもらいたい」
晴臣は夜久を見上げた。
聞き違えたのだろうか。
「……食事と、住まい、でございますか」
「不足か」
「いえ。私がお出しするものとしては、あまりに……」
「それでよい」
声が響いた。
晴臣は、再び頭を下げかけた。
けれど、その前に確かめなくてはならない。
「恐れながら、申し上げます」
「申せ」
「今の久世家には、以前ほどの財がありません。できる限りのおもてなしはいたしますが、お望みに届かないこともあるかと存じます」
牙が、わずかに動いた。
晴臣の肩が強張る。
「まだ見ぬものに、望みなど定めようもない。まずは、お前たちの暮らしを見せよ」
「私や、配下の者に、ほかのお役目をお求めになることは……」
「お前たちの仕事は、お前たちで果たせ。我はそのために力を貸す」
晴臣は口を閉じた。
頭の中で、返事を繰り返す。
自分たちの仕事を果たすために、力を貸す。
少なくとも、命を差し出せとは言われていない。
「では、久世家の後ろ盾となっていただけるのですか」
「そう申しておる」
晴臣は両手をついた。
「ありがとうございます」
頭を下げる。
涙が落ちそうになったが、ここで泣いてしまえば、まともに話せなくなる気がした。
「礼は戻ってからでよい。立てるか」
「はい」
立とうとして、足に力が入らなかった。
もう一度試す。
膝が震え、身体が傾いた。
「急ぐな」
その声に、晴臣は動きを止めた。
夜久は何もしてこなかった。
待っている。
それが分かってから、晴臣はようやく息を吐けた。
しばらくして立ち上がると、闇の奥から言葉が続いた。
「この姿では、街へ入るにも具合が悪かろう」
晴臣は答えられなかった。
悪いという言葉で済むのか分からない。
「少し待て」
闇が動いた。
晴臣は思わず目を閉じた。
足元を冷たいものが流れていく。衣服の裾が揺れたが、風の音はしなかった。
「これでよいか」
近くから声がした。
晴臣は目を開けた。
数歩先に、人が立っていた。
若いようにも見える。
けれど、少年と呼ぶには落ち着きすぎていて、大人と呼ぶにも年齢の見当がつかなかった。
男か女かも、すぐには判断できない。
衣は簡素で、顔立ちは整っていた。先ほどの目も牙も、もう見えない。
圧迫されていた胸が、少しずつ緩む。
息が吸えた。
晴臣は気づいていなかったが、額には汗がにじんでいた。
「……夜久様」
「我のほかに、誰がおる」
「失礼いたしました」
夜久は二本の木のある方へ目を向けた。
「お前が来た道を戻ればよいのか」
「はい。ご案内いたします」
晴臣は歩き出した。
数歩進んで振り返ると、夜久は同じ速さでついてきていた。
靴底で土を踏む、ごく普通の足音がする。
晴臣は前を向き直った。
その音を普通だと思ってしまうことが、少し怖かった。
*
二本の木の向こうには、朽葉がいた。
晴臣を見て、杖を持ち上げかける。
そして、その後ろを見た。
朽葉の身体が、地面すれすれまで沈んだ。
「……お出まし、とは」
「道を教えたのは、お前か」
夜久が言った。
「は、はい」
「手間をかけたな」
「恐れ入ります」
朽葉は顔を上げなかった。
晴臣は、かける言葉を見つけられないまま立っていた。
自分が知っている朽葉は、父にも遠慮のない妖怪だった。
父が条件を誤れば笑い、晴臣が道を間違えれば杖で足元を叩いた。
その朽葉が、今は土につきそうなほど頭を下げている。
「戻るぞ。道を頼めるか」
夜久の声に、朽葉はすぐ答えた。
「承りました」
下山の間、朽葉は一度も軽口を言わなかった。
晴臣も、必要なこと以外は話せなかった。
山道を抜け、見慣れた登山口に出たときには、午後になっていた。
携帯電話に電波が戻る。
晴臣は宗一郎へ、帰還する旨と客人を伴っていることを伝えた。
名前までは書けなかった。
短い文面で知らせてよい相手なのか、分からなかったからだ。
バスの時刻を確かめると、まだ少し待つ必要があった。
朽葉は山へ戻り、晴臣と夜久が停留所に残った。
「疲れたか」
夜久に問われ、晴臣は姿勢を正した。
「問題ありません」
「足が痛むように見える」
晴臣は自分の膝を見た。
転んだときに打ったらしく、ズボンに土がついていた。
「……少しだけです」
「ならば座れ。乗る車も、まだ来ぬのであろう」
停留所の古いベンチを示される。
晴臣が腰を下ろすと、夜久も隣に座った。
近い。
晴臣は膝の上で両手を揃えた。
道路を、一台の軽自動車が通り過ぎる。
夜久はその姿を目で追った。
「あれも、人が動かしておるのか」
「はい」
「馬は要らぬのだな」
「今は、ほとんど使いません」
夜久は頷いた。
ほどなくして、バスが来た。
乗り込む晴臣に、運転手が尋ねる。
「お二人ですか」
「はい」
晴臣は返事をしながら、隣を見た。
運転手は、夜久を一瞥しただけだった。
怯えてもいない。
不審がってもいない。
どこにでもいる客として、座席を示している。
夜久が人の姿になったことで、見た目だけでなく、あの恐ろしい気配まで収めているのだと、晴臣はようやく実感した。
自分は、顔を見れば山の闇を思い出してしまう。
けれど、知らない者には分からない。
夜久は窓際に座り、動き出した車内で外を眺めていた。
「夜には、あの家々にも明かりがつくのか」
「はい。街へ着く頃には、ご覧になれると思います」
「そうか」
その返事は、少しだけ満足そうに聞こえた。
*
久世邸に着いたときには、門灯がともっていた。
帰りの列車から連絡を入れていたので、宗一郎が玄関で待っている。
晴臣の姿を見るなり、老いた補佐役は一歩近づいた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
声に出してから、晴臣は初めて、自分が帰ってきたのだと感じた。
足が重い。
喉も渇いていた。
それでも、玄関の木の匂いを嗅ぐと、胸の奥に詰まっていたものが少し緩んだ。
宗一郎は晴臣の顔と、汚れた服を確かめた。
何か言いかけて、その後ろへ視線を移す。
「そちらの方は」
晴臣は横へ退いた。
夜久が、門の内側に立っていた。
人の姿になった今も、どこか遠くを見ているような静けさがある。
宗一郎は客人へ一礼した。
晴臣は、言葉を慎重に選んだ。
「宗一郎。こちらは、夜久様だ」
補佐役の動きが止まる。
「……夜久、様」
「山でお会いした。僕の願いを聞いてくださった」
宗一郎の目が、晴臣へ戻った。
山へ向かう前、二人で話した名前。
記録に残る、帰ってこられない相手。
その存在が、今、久世家の門をくぐっている。
「久世家の後ろ盾となってくださる。滞在していただく間は、僕たちでおもてなしをすることになった」
宗一郎の指先が、袖の脇で一度動いた。
だが、それだけだった。
彼は姿勢を整え、夜久へ向き直った。
「久世家の家務を預かっております、相良宗一郎と申します」
声はいつもどおりに聞こえた。
晴臣には、そのためにどれほど力が要ったか分かった。
「晴臣様をお連れ戻りいただき、ありがとうございます」
「この者が道を案内した。我はついてきたまでよ」
「……さようでございましたか」
宗一郎が顔を上げる。
「長旅でお疲れかと存じます。まずはお入りください。お食事も、ご用意いたします」
夜久は屋敷を見た。
玄関の明かり。
廊下の奥に続く部屋。
それから、晴臣へ視線を戻した。
「晴臣」
「はい」
「世話になる」
短い言葉だった。
晴臣は背筋を伸ばした。
「どうぞ、お入りください」
夜久が敷居を越えた。
宗一郎が先に立ち、客間へ案内する。
晴臣はその後ろを歩きながら、朝まで人の減っていくばかりだった廊下に、もう一人分の足音が増えたことを聞いていた。