黒禍の客人   作:ケーケーケー

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第一話 帰らずの山

 玄関に置かれた荷物は、旅行鞄が二つだけだった。

 

 十年以上この屋敷に勤めていた男の暮らしが、それだけで運べてしまうことを、久世晴臣は少し意外に思った。

 

「長い間、世話になりました」

 

 男はそう言って、深く頭を下げた。

 

 晴臣も頭を下げかけて、踏みとどまる。

 

 相手を困らせてはいけない。今の自分は、見送る側の人間なのだから。

 

「こちらこそ。向こうでも、身体に気をつけて」

 

「……晴臣様」

 

「娘さん、来年は受験だったね」

 

 男の手が、鞄の持ち手を握り直した。

 

「はい」

 

「落ち着いたら、連絡をください。合格のお祝いくらいはさせてほしい」

 

 しばらくして、男はもう一度頭を下げた。今度は、先ほどよりも長かった。

 

 晴臣はその背中を見送った。

 

 門の外には迎えの車が停まっている。男が乗り込むと、後部座席の窓が下がり、最後の会釈が見えた。

 

 車が角を曲がるまで、晴臣は玄関に立っていた。

 

「お戻りください。冷えます」

 

 背後から声をかけたのは、相良宗一郎だった。

 

 六十四歳になる宗一郎は、晴臣の父の代から久世家に仕えている。家の会計も、屋敷の維持も、配下の人々の暮らしも、今はこの男が取りまとめていた。

 

 晴臣にとっては補佐役であり、幼い頃から自分を知る数少ない大人でもある。

 

「うん」

 

 答えて屋敷に戻る。

 

 廊下はよく磨かれていた。庭の植木も、昨日までと変わらず整えられている。

 

 だからこそ、人が減ったことが目についた。

 

 以前なら、朝のこの時間には誰かとすれ違った。庭から声が聞こえ、奥の部屋では電話が鳴っていた。

 

 今は、晴臣と宗一郎の足音だけが続いている。

 

     *

 

 世間には公表されていないが、この国には怪異を扱う政府機関がある。

 

 鎮異院。

 

 人を襲う妖怪の討伐、危険な場所の封印、憑依された者の救護。その仕事の多くを、代々それぞれの技術を受け継いできた名家が担っていた。

 

 久世家も、その一つだった。

 

 得意とするのは、妖怪との交渉である。

 

 害をなすものばかりではない。土地を守るものも、人間との約束を守って暮らすものもいる。そうした相手との取り決めを維持することが、久世家の役割だった。

 

 晴臣が当主になったのは、半年前。

 

 十八歳の誕生日を迎えて、間もない頃だった。

 

 父と主力の退魔師たちが、同じ怪異事件で命を落とした。

 

 その後の半年で、久世家の管轄は次々と他家へ移された。人員も同様だった。対応できる者がいない以上、仕方のない措置ではある。

 

 ただ、晴臣が立て直すための余力まで、一緒に失われていった。

 

 今朝出ていった男も、鷹宮家の部隊へ移る。

 

 鎮異院の討伐部門を率いる鷹宮家は、久世家の人員を引き受け、給与と仕事を保障していた。残された人々にとって、それは悪い話ではない。

 

 晴臣が引き留めれば、その生活を自分で保障しなくてはならなかった。

 

 今の彼には、それができない。

 

「再編の審議は、予定どおり来週です」

 

 書斎で、宗一郎が書類を差し出した。

 

 晴臣は受け取り、既に何度も読んだ文面に目を落とす。

 

 残る業務の移管。人員の統合。鷹宮家の監督下での活動。

 

 この案を受け入れれば、久世家という家は残る。

 

 けれど、独立して仕事を引き受ける立場は失われる。

 

「先方から、条件を改めて説明したいとの申し入れもございます」

 

「僕の返事は、まだ変わらない」

 

「承知しております」

 

 宗一郎は否定しなかった。

 

 そのことが、かえって晴臣を苦しくさせた。

 

「宗一郎。僕が意地を張っているだけなら、そう言ってほしい」

 

 老いた補佐役は、机の向こうでしばらく晴臣を見た。

 

「何をお守りになりたいのかによります」

 

「父さんが残したものを」

 

「お屋敷ですか。久世の名ですか」

 

 晴臣は書類を置いた。

 

「……約束だよ」

 

 父が交わした約束。

 

 父の父が、その前の当主が、土地の妖怪たちと結んできた約束。

 

 担当部署を移すだけで、そのすべてが引き継がれるわけではない。人間側の書類には名前しか残っていない相手もいる。

 

 そして、晴臣を信じて残った人々との約束もあった。

 

「僕が当主を継いだとき、立て直すまで一緒に働いてほしいと頼んだ。なのに、何もできないまま終わらせたくない」

 

「でしたら、そのための手段が必要です」

 

「分かってる」

 

 分かっている。

 

 それを探して、半年が過ぎた。

 

 宗一郎が退出したあとも、晴臣は書類から目を離せなかった。

 

 窓の外で、枝が小さく揺れた。

 

 風は吹いていない。

 

「まだ諦めぬか」

 

 声に顔を上げると、庭に人影が立っていた。

 

 枯葉を重ねたような衣をまとい、細い杖を持っている。遠目には痩せた老人にも見えるが、その顔の陰には、鼻も口もはっきりとは見えなかった。

 

「朽葉」

 

 晴臣は窓を開けた。

 

 朽葉は、山の道と境界を知る妖怪だった。

 

 人間が迷い込んではいけない場所、妖怪が越えてはいけない境目。そうした道を見守り、久世家とも長く盟約を結んでいる。

 

 晴臣は幼い頃からその姿を見ていた。父が庭へ招き、茶を出していた相手である。

 

「鷹宮の下に入れば、食うには困らぬと聞いたが」

 

「人間は、ね」

 

 晴臣が答えると、朽葉は黙った。

 

「あなたたちとの約束まで、同じように引き受けてもらえるかは分からない」

 

「若いくせに、背負うものを増やす」

 

「もう背負ってるんだと思う」

 

 朽葉の杖が、庭石を一度叩いた。

 

「助けを求める先が、ないわけではない」

 

 晴臣は身を乗り出しかけた。

 

 しかし、朽葉の様子を見て動きを止めた。

 

 普段なら、言いにくいことほど皮肉を交えて話す。その朽葉が、杖を握ったまま黙っている。

 

「誰?」

 

「山の奥に、おられる」

 

「山の妖怪?」

 

「……妖怪ではあろうな」

 

 曖昧な答えだった。

 

 朽葉が晴臣を見た。

 

「夜久、と名乗られる」

 

 知らない名だった。

 

 それを察したのか、朽葉は声を低くした。

 

「お前たちの記録には、別の名で残っている。神隠しの黒禍、と」

 

 晴臣の手が、窓枠の上で止まった。

 

 久世家には古い怪異の記録がある。子供の頃、晴臣は父に隠れてそれを読んだ。

 

 現れた土地から、神も妖怪も消えたという。

 

 姿を見た者は帰らないという。

 

 何をしたのか、何を求めるのか。それさえ分からず、ただ遭遇を避けよと記されていた存在。

 

「あれは……実在するの?」

 

「記録のすべてが正しいかは知らぬ。だが、あのお方はおられる」

 

「会ったことがある?」

 

「遠くから、お姿を見たことはある」

 

 朽葉はそれ以上、説明しなかった。

 

「道は教えられる。しかし、頼みを聞いてくださるかは分からぬ。帰れるとも約束できぬ」

 

 晴臣は、机の上の書類を振り返った。

 

 来週の審議。

 

 今日出ていった男。

 

 父と並んで働いていた人々の、空いた席。

 

 目を戻すと、朽葉はまだそこにいた。

 

「教えてほしい」

 

     *

 

 宗一郎は反対した。

 

 声を荒らげはしなかったが、出発の準備をする晴臣の前から動こうとしなかった。

 

「その名をご存じで、それでも行かれるのですか」

 

「知っているのは、記録にあることだけだよ」

 

「それだけでも、止める理由には十分です」

 

 晴臣は背負い袋に水を入れた。

 

 携帯電話。予備の電源。懐中電灯。食料。

 

 退魔の札も数枚入れて、手が止まった。

 

 記録にある相手なら、こんなものは役に立たない。

 

 それでも、置いていく気にはなれなかった。

 

「帰れなかった場合の引き継ぎは、ここに書いた」

 

 封筒を差し出す。

 

 宗一郎は受け取らなかった。

 

「そのような準備を、お褒めするつもりはございません」

 

「うん」

 

「先代を失ったばかりです」

 

「……うん」

 

 晴臣は顔を上げた。

 

「ごめん。でも、僕だけで行かせてほしい」

 

 宗一郎は長く息を吐いた。

 

 そして、封筒を受け取った。

 

「明日の夕刻までに連絡がなければ、こちらで動きます。朽葉殿にも、戻れるところまで見届けていただきます」

 

「分かった」

 

「必ず戻る、とは仰らないでください」

 

 晴臣は言いかけていた言葉を呑んだ。

 

「……戻れるようにする」

 

「はい」

 

 宗一郎はようやく道を空けた。

 

     *

 

 翌朝、晴臣は山へ入った。

 

 麓までは列車とバスを乗り継いだ。最後の停留所で降りると、登山口の外れに朽葉が待っていた。

 

 初めは、地図にも載っている山道を歩いた。

 

 やがて朽葉が道を外れ、木々の間へ入っていく。

 

 晴臣はその後を追った。

 

 二時間ほど歩いた頃には、携帯電話は圏外になっていた。

 

 木の根を越え、沢を渡り、苔に覆われた斜面を登る。

 

 不思議なことに、進むほど足元が歩きやすくなった。道などないはずなのに、踏み出す先には必ず乾いた土がある。

 

 朽葉が道を選んでいるのだ。

 

 その案内がなければ、晴臣はとっくに迷っていた。

 

「ここまでだ」

 

 朽葉が止まったのは、二本の古い木の間だった。

 

 どちらも幹が太く、根が地面から大きくせり出している。その向こうにも森は続いていたが、奥だけが妙に暗かった。

 

「この先を進め。帰るときも、この木の間を通れ。脇へ逸れるな」

 

「夜久様は、どこに?」

 

「向こうにおられる」

 

 晴臣はもう一度、奥を見た。

 

「……朽葉」

 

「何だ」

 

「道を教えてくれて、ありがとう」

 

 妖怪は返事をしなかった。

 

 晴臣が二本の木の間へ進むと、背後で杖を握り直す音がした。

 

 十歩ほど歩いて、足を止める。

 

 何かが変わった。

 

 木々はある。土もある。自分の靴も、前と同じように見えている。

 

 なのに、周りの音がしなかった。

 

 葉擦れも、鳥の声も。

 

 自分の息が、ひどく大きく聞こえる。

 

 晴臣は前へ進んだ。

 

 森が開けた先に、黒いものがあった。

 

 崖の陰かと思った。

 

 山の斜面に、巨大な窪みがあるのだと。

 

 だが、見上げてもその上端が分からない。左右にも、どこまで続いているのか分からなかった。

 

 その闇の中で、何かが開いた。

 

 目だった。

 

 晴臣の身体よりも大きな目が、こちらを見ていた。

 

 息が止まった。

 

 逃げなければならない。

 

 そう思ったときには、膝が折れていた。

 

 手をついた土が冷たい。指先に小石が食い込む。それなのに、腕を動かせなかった。

 

 闇の低いところに、白いものが並ぶ。

 

 牙。

 

 それを認識した途端、晴臣は顔を伏せた。

 

 見てはいけない。

 

 見上げたままでは、自分がここに来た理由まで失ってしまう。

 

「人の子か」

 

 声がした。

 

 大声ではなかった。

 

 だが、森のどこから聞こえたのか、晴臣には分からなかった。胸の内側に直接響いたように感じた。

 

「何用で参った」

 

 答えなくては。

 

 晴臣は口を開いた。

 

「く、久世……」

 

 声が裏返る。

 

 用意してきた挨拶は、頭から消えていた。

 

 古い記録に倣った礼法も、相手の機嫌を損ねない言葉も、何一つ思い出せない。

 

「久世晴臣と、申します」

 

 どうにか名前を言った。

 

「夜久様に、お力添えを、お願いしたく……」

 

「顔を上げよ」

 

 身体が跳ねた。

 

 晴臣は両手に力を込め、少しだけ頭を上げた。

 

 目がある。

 

 先ほどと同じ場所に。

 

 その下の闇も、左右の闇も、動いているように見えた。

 

「楽にしてよい。話が聞こえぬ」

 

「……はい」

 

 楽になどできなかった。

 

 それでも、少なくとも聞いてはもらえる。

 

 晴臣は一度唾を呑み、喉を湿らせた。

 

「私の家は、妖怪との盟約を守る役目を担っております。ですが、父と、家を支えていた者たちを失いました」

 

 そこまで話すと、少しだけ言葉が戻った。

 

「残された仕事は他家へ移され、今は人も、管轄も、ほとんどありません。来週には、独立した家としての活動を終えることになります」

 

「他の家に任せてはならぬのか」

 

 晴臣は息を詰めた。

 

 当然の問いだった。

 

 自分の誇りを守るために、こんなところまで来たのか。

 

 夜久にそう問われている気がした。

 

「任せられる仕事もあります。ですが、私たちの家と約束を結んだ相手が、それを受け入れるとは限りません」

 

「ふむ」

 

「残った者たちにも、私は立て直すと約束しました。私だけの力では、果たせませんでした」

 

 声が震える。

 

 それでも、もう止めなかった。

 

「どうか、久世家の後ろ盾となっていただけませんか。一族と、私を信じて残った者たちを、お守りいただきたいのです」

 

 晴臣は頭を下げた。

 

 返事はなかった。

 

 時間が分からない。

 

 数秒なのか、それとも数分なのか。

 

「お前の父は、戻らぬのだな」

 

「……はい」

 

「そうか」

 

 その一言で、晴臣は奥歯を噛み締めた。

 

 自分でも理由が分からなかった。

 

 叱られたわけではない。慰められたわけでもない。

 

 ただ、父が戻らないことを、目の前の存在が受け止めた。

 

「お前たちは、どこに住んでおる」

 

 思いがけない問いに、晴臣は一瞬、答えを失った。

 

 屋敷のある街と、ここまでの道のりを説明する。

 

 列車とバスのことを話すと、闇の奥で目がわずかに細くなった。

 

「人を乗せて走る車か」

 

「はい。大勢で乗るものも、一人で使うものもあります」

 

「随分と便利になったものよ」

 

 夜久は続けて、街の様子を尋ねた。

 

 晴臣は何を試されているのか分からないまま、店や建物のことを話した。

 

 食事について聞かれたので、料理を出す店がいくつもあると答えた。

 

「その土地で採れぬものも食うのか」

 

「はい。遠くの国の料理もあります」

 

「ほう」

 

「遊びも……昔とは、違うかもしれません。画面に映ったものを動かして遊んだり、物語を映像で見たりします」

 

「絵が動くのか」

 

「音も出ます」

 

 再び、夜久が黙った。

 

 晴臣は両手を膝に置いた。

 

 何を求められるのだろう。

 

 家の財産で済むなら、差し出す。

 

 けれど、配下の命を求められたら。

 

 ここまで来て初めて、その答えを自分が用意できていないことに気づいた。

 

     *

 

 夜久は、目の前の若者を眺めていた。

 

 随分と疲れている。

 

 山を登ってきたせいもあるだろうが、それだけではなさそうだった。

 

 父を失ったばかりで、他の者の暮らしまで抱えているという。

 

 助けを求める声も、今にも途切れそうだ。

 

 後ろ盾になること自体は、構わなかった。

 

 人の家に関わるのは久しぶりだが、話を聞く限り、この若者が誰かを虐げたいわけではない。

 

 それに、街の話はなかなか面白い。

 

 遠くの国の料理。

 

 音を出して動く絵。

 

 そんなものが、今は当たり前にあるらしい。

 

 山の暮らしに不満はない。しかし、不満がないことと、他の暮らしを知りたくないことは別である。

 

 少し出かけてみてもよいだろう。

 

 問題は、何を頼むかだった。

 

 疲れた若者に、あれこれ用意させるのは気が引ける。

 

 食べるものと、休む場所。

 

 あとは、面白そうなものを教えてもらえれば十分か。

 

 夜久がそう考えている間に、晴臣の顔色はますます悪くなっていた。

 

     *

 

「対価は要る」

 

 晴臣は背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

「我が街で過ごす間、食事と住まいを用意せよ。それと、人の作る遊びを見せてもらいたい」

 

 晴臣は夜久を見上げた。

 

 聞き違えたのだろうか。

 

「……食事と、住まい、でございますか」

 

「不足か」

 

「いえ。私がお出しするものとしては、あまりに……」

 

「それでよい」

 

 声が響いた。

 

 晴臣は、再び頭を下げかけた。

 

 けれど、その前に確かめなくてはならない。

 

「恐れながら、申し上げます」

 

「申せ」

 

「今の久世家には、以前ほどの財がありません。できる限りのおもてなしはいたしますが、お望みに届かないこともあるかと存じます」

 

 牙が、わずかに動いた。

 

 晴臣の肩が強張る。

 

「まだ見ぬものに、望みなど定めようもない。まずは、お前たちの暮らしを見せよ」

 

「私や、配下の者に、ほかのお役目をお求めになることは……」

 

「お前たちの仕事は、お前たちで果たせ。我はそのために力を貸す」

 

 晴臣は口を閉じた。

 

 頭の中で、返事を繰り返す。

 

 自分たちの仕事を果たすために、力を貸す。

 

 少なくとも、命を差し出せとは言われていない。

 

「では、久世家の後ろ盾となっていただけるのですか」

 

「そう申しておる」

 

 晴臣は両手をついた。

 

「ありがとうございます」

 

 頭を下げる。

 

 涙が落ちそうになったが、ここで泣いてしまえば、まともに話せなくなる気がした。

 

「礼は戻ってからでよい。立てるか」

 

「はい」

 

 立とうとして、足に力が入らなかった。

 

 もう一度試す。

 

 膝が震え、身体が傾いた。

 

「急ぐな」

 

 その声に、晴臣は動きを止めた。

 

 夜久は何もしてこなかった。

 

 待っている。

 

 それが分かってから、晴臣はようやく息を吐けた。

 

 しばらくして立ち上がると、闇の奥から言葉が続いた。

 

「この姿では、街へ入るにも具合が悪かろう」

 

 晴臣は答えられなかった。

 

 悪いという言葉で済むのか分からない。

 

「少し待て」

 

 闇が動いた。

 

 晴臣は思わず目を閉じた。

 

 足元を冷たいものが流れていく。衣服の裾が揺れたが、風の音はしなかった。

 

「これでよいか」

 

 近くから声がした。

 

 晴臣は目を開けた。

 

 数歩先に、人が立っていた。

 

 若いようにも見える。

 

 けれど、少年と呼ぶには落ち着きすぎていて、大人と呼ぶにも年齢の見当がつかなかった。

 

 男か女かも、すぐには判断できない。

 

 衣は簡素で、顔立ちは整っていた。先ほどの目も牙も、もう見えない。

 

 圧迫されていた胸が、少しずつ緩む。

 

 息が吸えた。

 

 晴臣は気づいていなかったが、額には汗がにじんでいた。

 

「……夜久様」

 

「我のほかに、誰がおる」

 

「失礼いたしました」

 

 夜久は二本の木のある方へ目を向けた。

 

「お前が来た道を戻ればよいのか」

 

「はい。ご案内いたします」

 

 晴臣は歩き出した。

 

 数歩進んで振り返ると、夜久は同じ速さでついてきていた。

 

 靴底で土を踏む、ごく普通の足音がする。

 

 晴臣は前を向き直った。

 

 その音を普通だと思ってしまうことが、少し怖かった。

 

     *

 

 二本の木の向こうには、朽葉がいた。

 

 晴臣を見て、杖を持ち上げかける。

 

 そして、その後ろを見た。

 

 朽葉の身体が、地面すれすれまで沈んだ。

 

「……お出まし、とは」

 

「道を教えたのは、お前か」

 

 夜久が言った。

 

「は、はい」

 

「手間をかけたな」

 

「恐れ入ります」

 

 朽葉は顔を上げなかった。

 

 晴臣は、かける言葉を見つけられないまま立っていた。

 

 自分が知っている朽葉は、父にも遠慮のない妖怪だった。

 

 父が条件を誤れば笑い、晴臣が道を間違えれば杖で足元を叩いた。

 

 その朽葉が、今は土につきそうなほど頭を下げている。

 

「戻るぞ。道を頼めるか」

 

 夜久の声に、朽葉はすぐ答えた。

 

「承りました」

 

 下山の間、朽葉は一度も軽口を言わなかった。

 

 晴臣も、必要なこと以外は話せなかった。

 

 山道を抜け、見慣れた登山口に出たときには、午後になっていた。

 

 携帯電話に電波が戻る。

 

 晴臣は宗一郎へ、帰還する旨と客人を伴っていることを伝えた。

 

 名前までは書けなかった。

 

 短い文面で知らせてよい相手なのか、分からなかったからだ。

 

 バスの時刻を確かめると、まだ少し待つ必要があった。

 

 朽葉は山へ戻り、晴臣と夜久が停留所に残った。

 

「疲れたか」

 

 夜久に問われ、晴臣は姿勢を正した。

 

「問題ありません」

 

「足が痛むように見える」

 

 晴臣は自分の膝を見た。

 

 転んだときに打ったらしく、ズボンに土がついていた。

 

「……少しだけです」

 

「ならば座れ。乗る車も、まだ来ぬのであろう」

 

 停留所の古いベンチを示される。

 

 晴臣が腰を下ろすと、夜久も隣に座った。

 

 近い。

 

 晴臣は膝の上で両手を揃えた。

 

 道路を、一台の軽自動車が通り過ぎる。

 

 夜久はその姿を目で追った。

 

「あれも、人が動かしておるのか」

 

「はい」

 

「馬は要らぬのだな」

 

「今は、ほとんど使いません」

 

 夜久は頷いた。

 

 ほどなくして、バスが来た。

 

 乗り込む晴臣に、運転手が尋ねる。

 

「お二人ですか」

 

「はい」

 

 晴臣は返事をしながら、隣を見た。

 

 運転手は、夜久を一瞥しただけだった。

 

 怯えてもいない。

 

 不審がってもいない。

 

 どこにでもいる客として、座席を示している。

 

 夜久が人の姿になったことで、見た目だけでなく、あの恐ろしい気配まで収めているのだと、晴臣はようやく実感した。

 

 自分は、顔を見れば山の闇を思い出してしまう。

 

 けれど、知らない者には分からない。

 

 夜久は窓際に座り、動き出した車内で外を眺めていた。

 

「夜には、あの家々にも明かりがつくのか」

 

「はい。街へ着く頃には、ご覧になれると思います」

 

「そうか」

 

 その返事は、少しだけ満足そうに聞こえた。

 

     *

 

 久世邸に着いたときには、門灯がともっていた。

 

 帰りの列車から連絡を入れていたので、宗一郎が玄関で待っている。

 

 晴臣の姿を見るなり、老いた補佐役は一歩近づいた。

 

「お帰りなさいませ」

 

「ただいま」

 

 声に出してから、晴臣は初めて、自分が帰ってきたのだと感じた。

 

 足が重い。

 

 喉も渇いていた。

 

 それでも、玄関の木の匂いを嗅ぐと、胸の奥に詰まっていたものが少し緩んだ。

 

 宗一郎は晴臣の顔と、汚れた服を確かめた。

 

 何か言いかけて、その後ろへ視線を移す。

 

「そちらの方は」

 

 晴臣は横へ退いた。

 

 夜久が、門の内側に立っていた。

 

 人の姿になった今も、どこか遠くを見ているような静けさがある。

 

 宗一郎は客人へ一礼した。

 

 晴臣は、言葉を慎重に選んだ。

 

「宗一郎。こちらは、夜久様だ」

 

 補佐役の動きが止まる。

 

「……夜久、様」

 

「山でお会いした。僕の願いを聞いてくださった」

 

 宗一郎の目が、晴臣へ戻った。

 

 山へ向かう前、二人で話した名前。

 

 記録に残る、帰ってこられない相手。

 

 その存在が、今、久世家の門をくぐっている。

 

「久世家の後ろ盾となってくださる。滞在していただく間は、僕たちでおもてなしをすることになった」

 

 宗一郎の指先が、袖の脇で一度動いた。

 

 だが、それだけだった。

 

 彼は姿勢を整え、夜久へ向き直った。

 

「久世家の家務を預かっております、相良宗一郎と申します」

 

 声はいつもどおりに聞こえた。

 

 晴臣には、そのためにどれほど力が要ったか分かった。

 

「晴臣様をお連れ戻りいただき、ありがとうございます」

 

「この者が道を案内した。我はついてきたまでよ」

 

「……さようでございましたか」

 

 宗一郎が顔を上げる。

 

「長旅でお疲れかと存じます。まずはお入りください。お食事も、ご用意いたします」

 

 夜久は屋敷を見た。

 

 玄関の明かり。

 

 廊下の奥に続く部屋。

 

 それから、晴臣へ視線を戻した。

 

「晴臣」

 

「はい」

 

「世話になる」

 

 短い言葉だった。

 

 晴臣は背筋を伸ばした。

 

「どうぞ、お入りください」

 

 夜久が敷居を越えた。

 

 宗一郎が先に立ち、客間へ案内する。

 

 晴臣はその後ろを歩きながら、朝まで人の減っていくばかりだった廊下に、もう一人分の足音が増えたことを聞いていた。

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