客間へ案内する途中で、宗一郎は一度だけ振り返った。
客人は、廊下の壁に掛けられた絵を見ていた。
山と川を描いた古い水墨画だ。晴臣の祖父の代から、同じ場所にある。
「お気に召しましたか」
久世家の家務を取り仕切る補佐役として、宗一郎はいつもと同じ声で尋ねた。
「この川は、まだあるのか」
「ございます。今は両岸に道路が通っておりますが」
「そうか」
夜久は絵から目を離した。
それだけのやり取りだった。
宗一郎は再び前を向いた。
聞かれたことに答える。
客人を部屋へ案内する。
必要なものを用意する。
長年繰り返してきた仕事だ。相手が誰であろうと、まずはそれを果たせばよい。
そう考えなければ、背中を向けて歩き続けられなかった。
晴臣が山へ向かう前、宗一郎も久世家の記録を読み返した。
神隠しの黒禍。
人間が討伐を試みた記述は見つからなかった。封じたという記述もない。
ただ、近づいてはならない、とある。
その存在が今、廊下を歩いている。
「こちらをお使いください」
宗一郎は襖を開けた。
庭に面した八畳の部屋だった。床の間には掛け軸があり、低い卓と座布団が置かれている。
父が存命だった頃には、盟約を結ぶ妖怪を迎えることもあった部屋だ。
夜久は窓の向こうを見た。
「よい庭だ」
「ありがとうございます」
「ここで構わぬ」
夜久が座るのを見届け、宗一郎は晴臣へ目を向けた。
「晴臣様も、お着替えを。お膝を打たれたのでしょう」
「少しだけだよ」
「歩き方に出ております」
晴臣は口を閉じた。
夜久も、彼の足元を見た。
「先に手当てをせよ」
「ですが、お待たせしてしまいます」
「座って待つことくらいはできる」
平坦な返事だった。
晴臣は頭を下げた。
「……すぐに戻ります」
「急がずともよい」
その言葉を聞いても、晴臣の足は早まった。
宗一郎はそれを見て、小さく息を吐いた。
*
着替えを済ませると、宗一郎が救急箱を持ってきた。
晴臣は自室の椅子に座り、ズボンの裾を上げた。膝には擦り傷があり、その下が少し腫れている。
土を洗い落とす際には気づかなかったが、腰を下ろすと痛みがはっきりした。
「山で転んだの?」
自分から言い訳をするように呟いて、晴臣は首を振った。
「……いや。膝をついたんだ」
宗一郎は消毒液を用意しながら、黙っていた。
「立とうとしても、しばらく立てなかった」
「お会いになったときですか」
「うん」
冷たい液が傷に触れ、晴臣はわずかに眉を寄せた。
「どのようなお姿でした」
晴臣は答えようとした。
だが、どこから話せばよいのか分からなかった。
大きさ。
目。
牙。
どれも間違いではない。けれど、それだけを並べても、あの闇を伝えられる気がしない。
「山の陰だと思った」
ようやく、それだけを言った。
「その陰が、こっちを見たんだ」
宗一郎の手が止まった。
晴臣は、自分の両手を見下ろした。
まだ少し震えている。
「人の姿になってくださってからは、ずっと楽だった。普通に話せるし、近くにいても息はできる。でも、思い出すと……」
「無理にお話しになる必要はございません」
宗一郎は傷にガーゼを当てた。
「お約束の内容は、確認しなければなりませんが」
「食事と住まい。それから、今の人間の遊びを見せてほしいと」
「期限は」
「決めていない」
「それ以外の対価は」
「求められていない。僕たちは、自分たちの仕事を果たせばいいと仰った」
晴臣は宗一郎を見た。
「聞き落としは、ないと思う。何度か確かめたから」
宗一郎は頷いた。
「承知しました。でしたら、まずはそのお約束を果たしましょう」
「宗一郎」
「はい」
「怒ってる?」
宗一郎は救急箱の蓋を閉じた。
「お帰りになられたばかりですので」
晴臣は少しだけ肩を落とした。
「……あとで、だね」
「お分かりでしたら結構です」
そう答えたあと、宗一郎は晴臣の顔を改めて見た。
「ですが、よくお戻りくださいました」
晴臣は返事をしなかった。
今それに答えると、山でも帰り道でも堪えていたものが出てしまいそうだった。
*
夕食は、いつも食事に使っている座敷に用意された。
晴臣が入ると、夜久は既に席についていた。
宗一郎がその斜め向かいを示す。
「晴臣様はこちらへ」
卓には三人分の膳が並んでいた。
焼き魚と煮物、味噌汁。それに茶碗蒸しがついている。
特別な宴席というほどではない。
けれど、久世家の台所を預かる者が、急な客人のためにできる限り整えた食事だった。
「突然のことでしたので、十分なご用意ができず、申し訳ございません」
宗一郎が言うと、夜久は膳を見た。
「これで十分であろう」
晴臣は座布団に膝をつきかけ、痛みに顔をしかめた。
「足を崩せ」
夜久が先に言った。
「私は——」
「傷を押して座る必要はあるまい」
晴臣は小さく頭を下げ、横へ足を崩した。
宗一郎も席につく。
夜久は箸を取った。
使い方を説明する必要はなかった。焼き魚の身をきれいに分け、口へ運ぶ。
晴臣はその手元を見ていた。
細い指だった。
人の形をしている。
その指が、今は魚の骨を避けている。
山で見たものと結びつけようとして、晴臣は自分の箸を持ち直した。
「晴臣」
「はい」
「食べぬのか」
「いただきます」
慌てて飯を口に入れた。
温かい。
そう感じてから、昼には持参した食料を少し食べただけだったと思い出した。
腹が減っている。
それを忘れるほど、長い一日だった。
夜久は静かに食事を続けていた。
味噌汁を飲み、煮物を一口食べる。
表情は変わらない。
晴臣は膳に視線を落とした。
山では、財に余裕がないことを伝えた。それでも夜久は構わないと言った。
けれど、実際に出したものを前にして、同じように思ってもらえるだろうか。
宗一郎も、いつもよりゆっくり箸を動かしていた。
卓の向こうで、夜久が茶碗蒸しの蓋を取る。
湯気が上がった。
夜久は少し顔を寄せ、中を見た。
「これは何だ」
「茶碗蒸しでございます」
宗一郎が答えた。
「卵に出汁を合わせて、蒸したものです」
「卵か」
夜久が匙を取る。
一口食べて、止まった。
晴臣も止まった。
何か、好みに合わなかったのだろうか。
夜久は器の中を見つめている。
宗一郎が口を開きかけた。
その前に、晴臣は息を吸った。
「夜久様」
客人の目が向く。
「お口に合いませんでしたか」
声は、自分で思ったより小さかった。
夜久は晴臣を見たあと、茶碗蒸しへ目を戻した。
「いや」
もう一口、食べる。
「これはよいな」
晴臣は、すぐには返事ができなかった。
「……お気に召しましたか」
「うむ。卵でこのようなものを作るとは知らなんだ」
夜久は器をわずかに持ち上げた。
「また食べたいものだ」
「では、台所の者に伝えておきます」
宗一郎の返事を聞いて、晴臣はようやく息を吐いた。
夜久が彼を見る。
「先ほどから、何を案じておる」
「失礼いたしました。お楽しみいただけているか、気にかかりまして」
「食事はよい。だが、お前の飯が冷める」
晴臣は茶碗を見た。
まだ半分以上残っていた。
「……はい」
箸を動かす。
煮物は、いつもの味だった。
少し甘く、柔らかい。
父がいた頃にも、同じものを食べた。
今夜は、喉につかえずに飲み込めた。
*
食後、晴臣は残った配下を座敷へ呼んだ。
屋敷の管理と事務を担う者、わずかに残った退魔師、台所を預かる者。
以前なら一度に集まれないほど人がいた。
今は、部屋の片側に並べば収まってしまう。
夜久は晴臣の隣に座っていた。
集まった人々の視線が、時折そこへ向く。
皆、宗一郎から客人が滞在すると聞いていた。けれど、当主が自ら山へ迎えに行った相手が誰なのかまでは知らされていない。
晴臣は背筋を伸ばした。
「遅い時間に集まってもらって、すみません」
普段の仕事の報告とは違う。
そう察したのか、部屋が静かになった。
「こちらの夜久様に、久世家の後ろ盾となっていただくことになりました」
誰かが息を吸った。
顔を見合わせる者もいた。
若い当主がどこから支援者を連れてきたのか。鎮異院に、そんな話を受け入れてもらえるのか。
その疑問が、晴臣にも分かった。
「詳しいことは、必要に応じて説明します。ただ、明日から元の暮らしに戻れるわけではありません」
期待しかけた顔が、少し引き締まった。
「移された仕事も、人員も、そのままです。来週の審議で方針を見直してもらうには、久世家が何を担えるのか、僕たちから示さなければなりません」
晴臣は膝の上で手を揃えた。
「夜久様に力を貸していただけるからこそ、僕たちも仕事を続けたい。残っている盟約と、その相手の今の状況を、明日から改めて確認します」
退魔師の一人が、静かに尋ねた。
「以前の管轄にも、調査を入れるのでしょうか」
「まずは、うちに残っている記録と連絡先から始めます。他家の管轄へ入るなら、先に話を通す」
晴臣は答えた。
「勝手に取り戻しに行くことはしません」
男は頷いた。
次に、事務を担う女が口を開く。
「給与の件は、これまでどおり相良様に確認してよろしいですか」
「はい。そこは僕と宗一郎で相談します。先の見通しが変わったら、必ず伝えます」
隣で宗一郎が一礼した。
夜久の力と、彼らの生活は、別に考えなくてはならない。
助力を得たからといって、帳簿の数字が増えるわけではなかった。
晴臣は、全員の顔を見た。
「急に来ていただいた方です。困ることもあると思います。何かあれば、僕か宗一郎へ知らせてください」
そこで夜久が口を開いた。
「世話になる」
視線が一斉に向いた。
「暮らしのことは、我が尋ねることもあろう。そのときは教えてもらいたい」
命令に聞こえたのか、何人かが深く頭を下げた。
夜久はそれ以上、何も言わなかった。
集まった人々が退出するとき、台所を預かる女が宗一郎のそばで立ち止まった。
「お食事は、あの……」
「茶碗蒸しを、また召し上がりたいそうです」
宗一郎が答えた。
女は一度瞬きをし、それから、ほっとしたように頭を下げた。
「承知しました」
その背中を、晴臣は見送った。
今夜の食事を作る間、彼女も不安だったのだと、そのとき初めて気づいた。
*
人々が出ていったあと、晴臣は夜久へ向き直った。
「私の説明で、間違っていたところはございますか」
「ない」
「ありがとうございます。明日は鎮異院へ、ご滞在のことを知らせます」
妖怪の出入りについて、何も報告しないわけにはいかなかった。
まして夜久は、久世家の後ろ盾として迎えた存在だ。
助力を頼んだ責任は、晴臣にある。
「我がここにいると、知らせるのだな」
「はい。ほかの家から、事情を尋ねられると思います」
「構わぬ」
「お会いしていただくことも、あるかもしれません」
「そのときに聞こう」
晴臣は頷いた。
夜久は、自分の判断を預けているわけではない。
会うかどうかも、何に力を貸すかも、本人が決める。
それを、こちらが勝手に約束してはいけない。
「明日は街も、ご案内できればと思っております」
晴臣が続けると、宗一郎が横から言った。
「その前に、お休みになっていただきます」
「今夜は休むよ」
「明日のご予定も、詰めすぎませんように」
「でも——」
「膝の腫れをご覧ください」
晴臣は反論を探した。
見つける前に、夜久が立ち上がった。
「案内が倒れては、我も困る」
晴臣も立とうとしたが、夜久が手で制した。
「部屋への道は覚えておる」
「お茶など、ご用意いたしましょうか」
宗一郎の問いに、夜久は頷いた。
「後で頼む。まずは、この者を寝かせよ」
晴臣は二人を交互に見た。
話が決まっていた。
「……承知しました」
夜久は座敷を出た。
廊下を歩く足音が、客間の方へ遠ざかる。
宗一郎は晴臣を見た。
「お聞きになりましたね」
「聞いたよ」
「書斎へはお戻りになりませんように」
晴臣は、卓の端に置いていた書類を見た。
宗一郎が先に手を伸ばし、まとめて持ち上げる。
「明朝、お持ちいたします」
晴臣は諦めて立った。
足を引きずらないように歩いても、宗一郎にはすぐ分かるだろう。
今夜は、素直に部屋へ戻ることにした。
*
宗一郎がお茶を運ぶと、夜久は窓のそばに座っていた。
庭の先には、隣家の明かりが見える。
山から来た客人は、その光を眺めていた。
「お待たせいたしました」
「晴臣は休んだか」
「はい。ようやく」
宗一郎は茶を置いた。
そのまま退出しかけて、足を止める。
「夜久様」
「何だ」
「明日以降、晴臣様がご無理を申し上げることがあるかもしれません」
夜久の目が向いた。
宗一郎は顔を伏せずに続けた。
「あの方は、当主としてできる限りのことを果たそうとなさいます。ですが、まだ十八でございます。先代を亡くしてから、休むことにも後ろめたさをお感じのようです」
どこまで言ってよいものか。
相手は、久世家の後ろ盾となった存在だ。
こちらの弱みを伝えるべきではない、と考える自分もいた。
それでも、晴臣が客人のために無理を重ねる姿は容易に想像できた。
「どうか、お急ぎでなければ、少しお待ちいただけますと幸いです」
夜久は宗一郎を見ていた。
長い沈黙ではなかった。
宗一郎には、長く感じられた。
「我は急いでおらぬ」
やがて、返事があった。
「この家の暮らしを見に来た。休むべきときに休むのも、そのうちであろう」
宗一郎は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お前も休め。食事の片づけまで、一人でしておるわけではあるまい」
「はい。台所の者がおります」
「ならば、任せるところは任せよ」
宗一郎は、もう一度礼をした。
客間を出て襖を閉めてから、長く息を吐いた。
怖さが消えたわけではない。
ただ、晴臣を休ませるために、あれこれ理由を並べる必要はなかった。
それを確かめられただけでも、今夜は十分だった。
*
夜久は茶を飲んだ。
温かい茶と、静かな部屋。
外には人の家が並び、それぞれに明かりがついている。
山とは違う。
こちらには、夜になっても起きている者が多いらしい。
久世家の者たちは、よく気を配る。
食事はどうか、部屋はどうか、寒くはないか。
夜久には、いずれも不満はなかった。
あの卵の料理は、特によかった。
それだけに、晴臣が一口ごとに様子を窺うのには困った。
食べながら思うところがあれば、黙ることもある。
何も考えずに食べているときもある。
毎度気にされては、あの若者が先に疲れてしまいそうだった。
明日はもう少し、分かるように伝えてみるか。
夜久は茶碗を置いた。
庭の隅で、小さな音がした。
客間の軒下に、何かがいる。
夜久はそちらを見た。
*
同じ頃、宗一郎は裏口の戸を開けていた。
外には、近くの古い社から来た使いがいた。
掌に乗るほどの小さな妖怪だ。
枯れた草を束ねたような身体に、二つの目がある。久世家に用事があるときは、社の主に代わってここへ来る。
宗一郎も、何度か取り次いだことがあった。
「この時間に、どうしました」
「主から、晴臣殿に言伝を」
「晴臣様はお休みです。私が承りましょう」
使いは頷きかけた。
そして、止まった。
庭の方を見ている。
「何か?」
宗一郎が尋ねても返事がない。
小さな身体の端が震えていた。
使いは一歩下がり、さらに一歩下がった。
「ここに……」
かすれた声が漏れた。
「誰が、いる」
宗一郎は庭を見た。
客間の窓が、向こうにある。
障子の一部が開いていて、夜久がこちらを見ていた。
いつから見ていたのか、分からなかった。
「客人をお迎えしております」
宗一郎は答えた。
使いの目は、窓に向いたままだった。
「言伝を」
「どうされました」
「明日、明日また……」
最後まで言い切らず、使いは塀際へ走った。
細い身体が草の間へ消える。
宗一郎は追わなかった。
呼び止める言葉をかけられなかった。
しばらくして客間を訪ねると、夜久は再び庭を見ていた。
「あれは、この家へ来るものか」
「近くの社の使いでございます」
「話の途中で帰ったようだが」
「……何か、気にかかったのかもしれません」
夜久は窓の外を見た。
「我に用があったのであれば、明日でも構わぬ」
「かしこまりました」
宗一郎は礼をして、襖を閉めた。
廊下の先に、晴臣の部屋がある。
明かりは消えていた。
今夜、起こすほどのことではない。
そう判断して、宗一郎は裏口へ戻った。戸締まりを確かめ、使いが立っていた場所に目を落とす。
土の上には、小さな足跡が残っていた。
来たときは、まっすぐ戸口へ向かっている。
帰りの足跡は大きく乱れ、塀まで続いていた。
宗一郎は戸を閉めた。
久世家に客人が来たことを、明日は鎮異院へ知らせる。
それより先に、別の知らせがこの屋敷を出ていった。
あの使いが社へ帰れば、主にも伝わるだろう。
この家に、近づけないものがいる。
宗一郎は灯りを落とす前に、もう一度だけ客間の方を振り返った。