最初の報告は、怪異の出没件数が減ったというものだった。
それだけなら、悪い知らせではない。
けれど鷹宮蓮司は、机に置かれた報告書を閉じずに、次の頁へ進んだ。
川沿いの祠。廃工場の裏手。旧道に面した雑木林。
三つの場所で、夜間に確認されていた妖怪の姿が途絶えている。
いずれも、ここ数年は人を襲っていない。鎮異院の監視下で、それぞれの土地に棲んでいたものだった。
その三体が、同じ夜に見えなくなった。
「巡回の時刻は」
蓮司が尋ねると、報告を持ってきた退魔師が手帳を開いた。
「前回とほぼ同じです。祠については、日付が変わった頃と、夜明け前にもう一度確認しています」
「痕跡は」
「争った形跡はありません。ただ、どの場所も気配が薄く……奥へ退いたものと思われます」
「三体ともか」
「はい」
蓮司は地図を引き寄せた。
二十五歳になる彼は、鎮異院の討伐部門で現場部隊を指揮している。部門を統括する鷹宮家当主・征一郎の息子でもあったが、今この机で扱っているのは、家の後継者としての相談ではない。
管轄内の異変をどう調べるか。
現場を預かる者として、判断しなくてはならなかった。
地図の三か所に印をつける。
近い、と言うほどでもない。
だが、離れすぎてもいない。
「ほかの土地から、何か入った記録は」
「境界の監視には反応がありません」
「分かった。昨夜の分だけでなく、今週の巡回記録も揃えてくれ」
退魔師が退出すると、蓮司は地図の隅に記された旧担当の名を見た。
久世家。
この一帯が鷹宮家の管理へ移ったのは、二か月前だった。
*
人を襲う怪異を討つ。
鷹宮家の技術は、そのために受け継がれてきた。
ただし、管轄内にいる妖怪を片端から討てば仕事が終わるわけではない。
人間との取り決めを守るものもいる。古い社や土地から動かず、何十年も同じように暮らしているものもいる。
久世家は、そうした相手との交渉を担っていた。
その主力が失われ、任務を引き継ぐ者が必要になった。鷹宮家は人員を送り、巡回と緊急時の対応を整えた。
少なくとも、人が襲われてから誰も来ないという事態は防いでいる。
だが、受け取った記録だけで土地のすべてが分かるとは、蓮司も思っていなかった。
祠の妖怪が、どの呼び方なら返事をするのか。
どの道から訪ねれば、警戒させずに済むのか。
書類には残っていない細部がある。
それを確かめる途中だった。
机の下で、何かが動いた。
灰色の犬が顔を上げている。
普通の犬より一回り大きく、耳の先から背にかけて、毛並みが煙のようにほどけて見えた。
「出るぞ」
蓮司が声をかけると、犬は立ち上がった。
名を、灰丸という。
蓮司と契約を結んだ妖怪で、怪異の痕跡を追う際には同行させている。人間の目には見えにくく、街中でも大きな騒ぎにはならない。
灰丸は扉の前へ進み、振り返った。
蓮司は報告書を鞄に収めた。
「まず祠だ。何も壊されていないなら、話を聞く」
*
川沿いの祠には、新しい供え物が置かれていた。
小さな器の水と、包みから出した菓子。
巡回の担当者が昨夜置いたものだという。
蓮司は石畳の前で足を止めた。
灰丸が祠の脇を嗅いでいる。
「いるか」
犬は一度だけ、低く喉を鳴らした。
奥にいる。
蓮司は祠へ向かって名乗った。
「鎮異院の鷹宮蓮司だ。昨夜から姿が見えないと報告を受けた。何かあったのか」
返事はなかった。
川の流れが聞こえる。
対岸の歩道を、自転車に乗った人間が通り過ぎた。
蓮司は急かさず待った。
やがて、祠の裏からかすれた声がした。
「何も、されてはいない」
「誰かが来たのか」
「来たのは使いだ」
「どこから」
再び沈黙が続いた。
蓮司は膝を折り、祠と目線の高さを近づけた。
「話したことを理由に、こちらから討つつもりはない。相手が危険なら、巡回の方法を変える必要がある」
「巡回は、いらぬ」
「なぜだ」
「来られては困る」
蓮司は顔を上げた。
灰丸が鼻先を祠から離す。
逃げるような動きではなかった。奥に潜んだ相手を、無理に追わないための動きだ。
「俺たちが来ると、誰かに知られるのか」
「そうではない」
「なら、どう困る」
祠の奥で、石を擦る音がした。
「騒ぐなと言ったのだ。見つからぬようにしていれば、よい」
蓮司は問い方を変えた。
「誰から隠れている」
答えはすぐには返らなかった。
ようやく聞こえた声は、ひどく小さかった。
「久世の屋敷には、近づくな」
*
廃工場の裏でも、似た話を聞いた。
昨夜、古い社の使いが通ったという。
久世家へ行った帰りらしい。
その使いが伝えたのは、屋敷に近づくな、という言葉だった。
何がいたのか。
何をされたのか。
そこまで尋ねると、相手は口を閉ざした。
雑木林では、姿を現すものすらいなかった。
蓮司は無理に呼び出さず、道へ戻った。
確認できた限りでは、破壊の痕跡はない。血も、争った跡もない。
妖怪たちは襲われたから逃げたのではなく、伝わってきた何かを恐れて身を隠していた。
その発端が、久世邸にある。
蓮司は車へ戻り、鎮異院の窓口へ電話を入れた。
「久世家から、直近で怪異に関する報告は上がっているか」
待っている間、灰丸が後部座席で丸くなった。
電話の向こうで、担当者が答える。
『本日午前、滞在者についての届け出がございます』
「滞在者?」
『協力関係を結んだ妖怪を、屋敷へ迎えたとのことです』
蓮司はフロントガラス越しに道を見た。
「名前は」
『夜久、と記載されています。滞在中の連絡窓口は、当主の久世晴臣氏です』
知らない名だった。
少なくとも、鷹宮家が任務で扱う怪異の中に、すぐ思い当たるものはいない。
「いつ迎えた」
『昨日です』
時期は合う。
蓮司は届け出の内容を現場部隊へ共有するよう頼み、通話を終えた。
晴臣が協力者を得た。
久世家の状況を考えれば、不思議なことではない。
けれど、迎えた翌朝から周辺の妖怪が潜んでいる。
無関係と決めるには、重なりすぎていた。
*
久世晴臣と蓮司が最後に顔を合わせたのは、管轄の引き継ぎに関する会議だった。
十八歳の当主は、終始姿勢を崩さずに座っていた。
その手元には、付箋だらけの資料があった。
人員の話になると、自分の家に残る人数より、移る者の待遇を確かめていた。
妖怪との盟約の話になると、それまで黙っていたのが嘘のように説明を始めた。
土地の主を、ただの監視対象として扱わないこと。
書類に記した条件だけでなく、相手が何を約束したと考えているかを確かめること。
蓮司は必要な話として聞いた。
同時に、今の久世家にそれを続ける力がないことも、分かっていた。
鷹宮家の監督下に入る案が示されたとき、晴臣は返事を保留した。
蓮司は、その判断を意地だと切り捨てる気にはなれなかった。
ただ、期限が来れば決めなければならない。
それまでに何かを見つけようとして、素性の分からない妖怪を迎えたのだとしたら。
蓮司は携帯電話で、父への報告を済ませた。
鷹宮征一郎は、短く事情を聞いたあと、尋ねた。
『被害は』
「人間側には確認されていません。妖怪側も、今のところ負傷や失踪の証拠はありません」
『久世は報告しているのだな』
「はい。本日付で届け出があります」
『ならば、まず事情を聞け』
「そのつもりです」
『家の話と、現場の話を混ぜるな』
蓮司は答える前に、わずかに間を置いた。
「承知しました」
父は久世家の吸収を進めている。
蓮司も、その方針に関わる立場だった。
だからこそ、今回の調査を吸収のための材料集めに見せてはいけない。
危険があるなら確かめる。
ないなら、ないと報告する。
電話を切ってから、蓮司は久世邸へ連絡を入れた。
*
宗一郎が電話を受けたとき、晴臣は書斎で古い台帳を広げていた。
机の上には、現行の担当表と、先代の手書きの記録が並んでいる。
夜久は客間にいた。
朝食を終えたあと、宗一郎が出した街の案内図を見ている。晴臣は、午前中の仕事が一区切りついたら説明に行くと約束していた。
「晴臣様」
宗一郎が戸口で声をかけた。
「鷹宮蓮司様から、お電話です」
晴臣の指が台帳の上で止まった。
「蓮司さん?」
「周辺の妖怪の動きについて、お尋ねになりたいそうです。本日、こちらへ伺えるかと」
宗一郎はそこで一度言葉を切った。
「昨夜の使いの件もございます」
晴臣は朝、補佐役からその話を聞いていた。
近くの社から来た使いが、夜久を見て怯え、用件を告げずに帰ってしまった。
山では朽葉も頭を上げられなかった。
姿と気配を収めていても、妖怪には何かが分かるのかもしれない。
「電話を回して」
受話器を取ると、蓮司の声が聞こえた。
『久世当主。突然で申し訳ない』
「いえ。ご連絡ありがとうございます」
『昨夜から、管轄内の妖怪が複数、姿を隠している。事情を聞いたところ、久世邸についての話が出た』
晴臣は受話器を握り直した。
「こちらへ来た使いが、客人に驚いて帰ったと聞いています」
『迎えた妖怪については、届け出を確認した。会って話を聞けるか』
「私から、お伝えします。少しお待ちいただいてもよろしいですか」
『ああ』
保留にして、晴臣は椅子から立った。
膝の痛みは、昨日より軽くなっている。
宗一郎がついてこようとするのを、手で止めた。
「僕から話す」
*
客間では、夜久が案内図を卓に広げていた。
晴臣が声をかけると、顔を上げる。
「街へ出るのか」
「その前に、来客のご相談です」
晴臣は部屋へ入り、座った。
「鷹宮蓮司という方が、お会いしたいそうです。鎮異院で退魔師の部隊を指揮している方です」
「昨日申していた、事情を尋ねる者か」
「はい」
晴臣は続けた。
「この辺りの妖怪が、昨夜から姿を隠しているそうです。夜久様のことが関係しているか、確かめたいと」
夜久は卓の端へ目を落とした。
「昨夜の小さな使いか」
「恐らく、その使いから話が伝わったのだと思います」
「我は何もしておらぬが」
「はい。宗一郎からも、そう聞いております」
晴臣はそこで、少し迷った。
夜久が何もしていないことと、相手が恐れたことは、両方とも事実だ。
その区別を、蓮司にも伝えなくてはならない。
「蓮司さんは、私が自分で夜久様に助力をお願いしたことも、確かめたいのだと思います」
「ならば、お前が答えればよい」
「はい。その上で、お会いいただけますか」
夜久は案内図を畳んだ。
「構わぬ」
「ありがとうございます」
「訪ねてくるだけであろう。礼を重ねずともよい」
晴臣は頭を上げた。
夜久は落ち着いていた。
昨日の食事も、今朝の茶も、来客の話も、同じように受け止めている。
晴臣には、その静けさが心強くもあり、読めなくもあった。
「では、お返事をしてまいります」
「うむ」
立ち上がりかけた晴臣を、夜久が呼び止めた。
「晴臣」
「はい」
「話が済めば、この図の続きを教えてもらえるか」
畳まれた案内図へ目が向く。
晴臣は一度瞬きをした。
「……もちろんです」
「ならば、それでよい」
書斎へ戻る途中、晴臣は襟元を整えた。
来客への対応と、街の案内。
夜久にとっては、どちらも今日の予定なのだろう。
自分もそう扱えるようになるには、まだ時間がかかりそうだった。
*
蓮司が久世邸へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
同行者は連れていない。
ただ、車から降りた灰丸が、彼の足元に並んだ。
妖怪の痕跡を調べる任務では、いつもの組み合わせだった。
久世邸の門は閉じていたが、蓮司が呼び鈴を押すと、ほどなく宗一郎が現れた。
「お待ちしておりました、蓮司様」
「相良さん。急にすみません」
「どうぞ、お入りください」
宗一郎は門を開けた。
蓮司は敷地へ入る前に、屋敷を見た。
庭は整えられている。
玄関も、廊下の窓も、荒らされた様子はない。
庭木の根元に置かれた小さな石の祠も、以前訪ねたときと同じ場所にあった。
ただ、そこからこちらを窺う気配は、今日はなかった。
蓮司は灰丸へ目を落とした。
灰色の犬は、まだ門の内側に立っている。
「行くぞ」
声をかけると、灰丸はついてきた。
普段より少し、足元に近かった。
玄関では晴臣が待っていた。
前に会ったときと同じように、姿勢を正している。
顔色は悪くない。
けれど、左足をかばって立っていた。
「お越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、時間を取ってもらって申し訳ない」
蓮司はその足に視線を向けた。
「怪我をしたのか」
晴臣は一瞬、返事に詰まった。
「山で膝を打ちました。手当ては済んでいます」
「そうか」
それ以上は、その場で尋ねなかった。
晴臣が横へ退き、廊下を示す。
「客間へご案内します。夜久様も、お待ちです」
蓮司は靴を脱いだ。
灰丸が、その横で廊下を見ている。
犬の耳が、ゆっくりと後ろへ倒れた。