灰丸が止まったのは、客間の手前だった。
蓮司が足を止めても、晴臣はすぐには気づかなかった。二歩ほど先へ進んでから振り返り、彼の足元に目を落とす。
「どうされましたか」
「少し待ってくれ」
蓮司は灰丸を見た。
灰色の犬は、廊下に四肢を踏ん張っていた。
威嚇する声は出していない。牙も剥いていない。ただ耳を伏せ、客間の開いた襖を見つめている。
いつもなら、蓮司より先に部屋の中を確かめる。
知らない場所で立ち止まることはあっても、これほど身体を硬くすることはなかった。
「灰丸」
呼ぶと、耳の先が動いた。
聞こえている。
蓮司は膝を折り、その首筋へ手を置いた。
毛並みの下で、細かな震えが続いていた。
「俺を見ろ」
灰丸はゆっくりと顔を向けた。
目が合う。
蓮司は自分の袖口を少し上げた。手首の内側に、薄い墨色の印がある。灰丸との契約を示すものだった。
印に乱れはない。
普段と同じように、相手がそこにいることを感じ取れる。
外から契約へ干渉されたときの、引っ張られるような感覚もなかった。
命令が届かないのではない。
届いた上で、動けずにいる。
蓮司は手を離した。
「無理に進まなくていい」
灰丸はその場を動かなかった。
逃げることさえ、ためらっているように見えた。
「鷹宮殿」
晴臣が静かに呼んだ。
「その子は、何かを受けていますか」
「今のところ、異常な術の気配はない」
蓮司は立ち上がった。
晴臣の顔を見てから、客間へ目を向ける。
襖の向こうに、人影があった。
低い卓のそばに座り、こちらを見ている。
若い。
最初はそう思った。
だが、顔を確かめるほど、年齢の見当がつかなくなった。衣服は簡素で、目立った装飾もない。男とも女とも、すぐには決められない姿だった。
灰丸が震えるほどの妖気を、蓮司は感じなかった。
それが安心の材料になるかどうかは、別だった。
人影の視線が、彼の足元へ下がる。
「その犬か」
落ち着いた声がした。
晴臣が口を開く前に、蓮司は答えた。
「私と契約している妖怪です。灰丸といいます」
「そうか」
客人はしばらく灰丸を見ていた。
それから、静かに告げた。
「そこにおればよい」
灰丸の背が低くなった。
蓮司は動かなかった。
威圧するような言い方ではない。
だが、相手はこちらが事情を説明する前から、灰丸が進めないことを分かっていた。
「相良さん」
蓮司は、少し後ろに控えていた宗一郎へ声をかけた。
「廊下の端をお借りしても構いませんか。このまま待たせます」
「ええ。人が通らないようにいたします」
「ありがとうございます」
灰丸へ、待つように伝える。
普段ならすぐに返る小さな鳴き声はなかった。
蓮司はそれを確かめてから、客間へ入った。
*
「お待たせいたしました」
晴臣が先に一礼した。
「夜久様。こちらが、先ほどお話しした鷹宮蓮司殿です」
蓮司も頭を下げた。
「鎮異院の討伐部門で、現場部隊を預かっております。鷹宮蓮司と申します」
「夜久だ」
短い返事だった。
蓮司は勧められた座布団に座った。
晴臣は夜久の隣ではなく、卓の横につく。両者の顔が見える位置だった。
宗一郎が茶を置き、廊下へ下がった。
灰丸のいる場所は、襖越しに見える。
低く伏せたまま、こちらを窺っていた。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
蓮司は夜久へ向き直った。
「周辺の妖怪が昨夜から姿を隠しており、その調査で伺いました」
「聞いておる」
「こちらへ来た使いが、近隣で警告を伝えたようです。昨夜、その使いと何かお話しになりましたか」
「我に用があるのかと思うたが、帰ってしまった」
「お呼び止めには」
「しておらぬ」
晴臣が補足した。
「使いに応対したのは宗一郎です。用件を聞く前に、庭の向こうにいた夜久様を見て、帰ったと」
蓮司は頷いた。
現場で聞いた話とは合っている。
暴力を受けたという証言はなく、怯えた使いが警告を広めた。
では、何を恐れたのか。
廊下の灰丸を見れば、その答えを言葉にできない理由も、少しは想像できた。
「差し支えなければ、以前のお住まいと、今回こちらへ来られた経緯を伺えますか」
「山におった。晴臣が訪ねてきたゆえ、共に下りた」
夜久は晴臣へ目を向けた。
「道の名は、この者の方がよく知っておる」
蓮司も晴臣を見た。
若い当主は一度頷き、訪ねた山と、そこまでの道のりを説明した。途中から、久世家と盟約を結ぶ山の妖怪、朽葉に案内を受けたことも話した。
蓮司はその名に覚えがあった。
引き継いだ資料に、境界や山道について問い合わせる相手として記されていた。
「朽葉殿も、一緒に会ったのか」
「いいえ。最後の境界から先は、私一人です」
「なぜ一人で」
問いが少し強くなった。
晴臣の手が膝の上で揃え直される。
「助力をお願いすると決めたのは、私です。配下を同行させるべきではないと考えました」
蓮司は言葉を選んだ。
「相手が誰か、分かっていたのか」
「古い記録は読みました。ただ、それで分かっていたとは、申し上げられません」
晴臣の視線が、ほんの一瞬、夜久へ動いた。
怯えている。
蓮司にはそう見えた。
契約を結んだ妖怪のそばで、当主が緊張すること自体は珍しくない。
だが、晴臣の緊張は、相手の機嫌を損ねないための気遣いだけではないようだった。
「後ろ盾になっていただいた、と届け出にあった」
「はい」
「どんな条件だ」
晴臣が答える前に、蓮司は夜久へ顔を向けた。
「ご不快かもしれませんが、確かめさせてください。鎮異院の任務を担う者が、本人の意思によらず約束を結ばされているなら、こちらも対処が必要です」
部屋が静かになった。
夜久の表情は変わらなかった。
晴臣の背が、わずかに強張る。
蓮司は姿勢を崩さず、返事を待った。
「ならば、確かめるがよい」
夜久はそう答えた。
*
晴臣は、蓮司の言葉を聞きながら、卓の上の茶碗を見た。
本人の意思。
その問いを向けられることは予想していた。
山へ行き、夜久を伴って帰った。周囲から見れば、それだけでは何も分からない。
「私から、お願いしました」
晴臣は顔を上げた。
「久世家の後ろ盾となり、残された者たちを守っていただきたいと。夜久様は、それをお引き受けくださいました」
「君が提供するものは」
「滞在中の食事と住まい。それから、現代の娯楽をご紹介することです」
蓮司は、すぐには返事をしなかった。
そうなるだろうと、晴臣も思っていた。
「それ以外には」
「今のところ、ございません」
「後になって、対価が増える可能性は」
晴臣は黙りかけた。
ない、と言い切っていいのか。
夜久が何を考えるか、自分がすべて分かるはずもない。
隣を見ることはせず、山で交わした言葉を思い出した。
「私たちにできないこともあると、お伝えしました。その上で、この家の暮らしを見せればよいと仰いました」
「履行できなかった場合の罰則は」
「定めておりません」
蓮司の眉がわずかに動いた。
そのとき、夜久が口を開いた。
「食べたことのない料理を、我の好みに合うまで作り直させよとでも思うておるのか」
晴臣は夜久を見た。
客人は蓮司へ向かって、淡々と続ける。
「知らぬものを見たいと申した。気に入らぬものがあれば、そのように伝える。それだけよ」
「では、歓待に不備があったからといって、久世家へ危害を加えることはないと」
「ない」
晴臣の胸が、少し緩んだ。
自分も確かめたことだった。
それでも、こうして明言されると、まだ不安を残していたのだと分かる。
蓮司は一礼した。
「承知しました」
そして、晴臣へ問いを戻した。
「君自身は、その約束を解きたいと思っていないか」
「思っておりません」
今度は、迷わず答えられた。
「夜久様にお越しいただいたのは、私の判断です」
蓮司は晴臣を見ていた。
長く、静かに。
「……分かった」
*
晴臣の答えに、不自然な淀みはなかった。
蓮司が知る、会議での彼と同じだった。
自分の分からないことを、分かったふりはしない。だが、一度自分の判断だと言ったことからは退かなかった。
術で操られていないと、この場だけで完全に証明できるわけではない。
それでも、疑うために何を見ても疑い続けるのでは、話を聞きに来た意味がなかった。
蓮司は夜久へ向き直った。
「こちらで暮らすにあたり、鎮異院から確認をお願いすることがあります」
「何をだ」
「人への危害や、他の妖怪への攻撃があれば、我々の任務に関わります。滞在中、何か争いに巻き込まれた場合は、まず久世当主を通じてご連絡いただきたい」
「襲われても、待てと申すか」
蓮司は首を横に振った。
「身を守ることまで妨げるつもりはありません。ただ、無関係な人間が巻き込まれれば救助が必要です。事情が分からないままでは、救援に来た者があなたへ攻撃する可能性もあります」
夜久は少し考えるように黙った。
「なるほど」
その返事を聞いて、蓮司は続けた。
「我々の側にも、伝えておく必要があります。そのため、今後、由来やお力について調べさせていただくことになります」
「調べて分かるものなら、調べればよい」
拒絶ではなかった。
だが、協力を全面的に約束した言葉でもない。
蓮司は一つずつ確かめた。
「追加で伺いたいことができた際は、こちらへ連絡を入れます」
「晴臣に伝えよ」
「承知しました」
卓の上には、まだ湯気の残る茶があった。
蓮司は一口だけ飲んだ。
茶碗を置いたところで、廊下から微かな爪の音がした。
灰丸だった。
身体を起こそうとして、うまく力が入らなかったらしい。伏せ直した前足が、床を擦っている。
夜久の目がそちらへ向いた。
「その犬は、外で待たせた方がよいのではないか」
蓮司は返事をする前に、灰丸を見た。
こちらと一緒にいるために、あの場へ留まっている。
退けと命じれば下がるだろう。だが、知らない屋敷の中で、蓮司を残して遠くまで離れるとは思えなかった。
「そうします。私も、今日はこれで」
蓮司は立ち上がった。
聞くべきことは、まだある。
ただ、今ここで相手の力を試すことが、適切な調査になるとは思わなかった。
灰丸がこれほど怯えている理由を、確認する術もないまま押し通せば、何が起きるか分からない。
それを久世家の屋敷で試すわけにはいかなかった。
夜久は座ったまま頷いた。
「また来るのか」
「必要があれば、ご相談します」
「そうか」
晴臣が立ち、襖の方へ進む。
蓮司は夜久へ一礼した。
「本日は、ありがとうございました」
「うむ」
廊下へ出ると、灰丸がようやく顔を上げた。
蓮司が肩へ触れる。
「行くぞ」
灰丸は、今度は動いた。
身体を低くし、足音を立てないように。
客間へ背を向けるまで、何度も振り返っていた。
*
玄関まで来てから、蓮司は晴臣へ声をかけた。
「少し、いいか」
「はい」
宗一郎が察して、少し離れたところへ下がった。
客間からは十分に距離がある。
それでも、聞こえない保証はなかった。
蓮司は声を落とすより先に、言うべきことを決めた。
「今日聞いたことは、そのまま報告する」
「承知しています」
「君の意思で迎えたことも、条件についての説明もだ。ただ、安全だと確認できたという報告にはならない」
晴臣は頷いた。
「はい」
「記録を調べることになる。追加の問い合わせもあるだろう」
「私の方でも、答えられることをまとめておきます」
そこまで聞いて、蓮司はようやく問いかけた。
「怖くはないのか」
晴臣の口が、少しだけ開いた。
すぐには答えなかった。
襟元へ向かいかけた手を、脇へ下ろす。
「怖いです」
小さな声だった。
「今も」
蓮司は、何も言わずに待った。
「でも、ここへ来るまで、ずっと待ってくださいました。山で私が立てなくなったときも、帰り道も。昨日は、怪我をした足を気にしてくださいました」
晴臣は廊下の奥を見た。
「今の灰丸を見て、蓮司さんに外へ出すよう仰ったのも……そういうことだと思います」
「人柄を信じているのか」
「まだ、知り始めたところです」
晴臣は蓮司へ向き直った。
「ただ、怖いからという理由だけで、していただいたことまで疑いたくはありません」
蓮司はその顔を見た。
無邪気に信じているわけではない。
晴臣は自分の恐怖を認めている。
その上で、相手の行動を別に考えようとしていた。
「困ったことがあれば、連絡をくれ」
蓮司は言った。
「それが鷹宮家の方針に関わる話でも、まず聞く」
晴臣は、少し驚いたようだった。
やがて、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
蓮司は靴を履いた。
灰丸は既に玄関の外へ出ている。
門を抜けても、すぐにはいつもの歩き方へ戻らなかった。
*
車のそばで、蓮司はもう一度膝を折った。
灰丸が身体を寄せてくる。
ようやく、耳が少し起きた。
「よく待った」
首筋を撫でる。
契約を通して伝わってくる感覚は、少しずつ落ち着いていた。
蓮司は、久世邸を見た。
瓦屋根も、庭木も、来たときと変わらない。
中にいる客人から、巨大な妖気が漏れているわけでもない。
自分の感覚だけを頼りにすれば、物静かな妖怪と話をして帰ってきただけだった。
だが、灰丸は部屋へ入れなかった。
傷つけられても、術をかけられてもいない。
見ただけで。
蓮司は灰丸を車へ乗せ、自分も運転席に座った。
報告書に、あの客人を何と記すべきか。
力の程度は不明。
敵意は確認できず。
契約妖怪に、強い恐怖反応。
一つずつなら書ける。
けれど、それを並べても、部屋の前で足を止めた瞬間に感じた違和感までは伝わらないだろう。
蓮司は、鷹宮家の記録担当へ連絡を入れた。
「一件、調べてほしい名がある」
*
客間へ戻ると、夜久は畳んでいた案内図を広げていた。
晴臣が座るのを待って、指先で一か所を示す。
「この辺りは、店が多いのか」
「はい。飲食店が集まっています。昼と夜で、開いている店が違うところもあります」
「そうか。では、まずここを教えよ」
晴臣は案内図を見下ろした。
つい先ほどまで、鎮異院への報告と今後の調査について考えていた。
夜久は、来客の話を終えたら説明してほしいと言っていた。
その約束を、待っている。
「……はい」
晴臣は店の並ぶ通りを指した。
「昨日お話しした、外国の料理を出す店もございます」
「うむ」
「ただ、今日はもう遅くなってしまいましたので、実際のご案内は——」
「晴臣」
呼ばれ、顔を上げる。
「我は、今すぐ連れてゆけとは申しておらぬ」
晴臣は口を閉じた。
夜久は地図へ目を戻した。
「今日は、話を聞こう」
「承知しました」
晴臣はようやく、卓へ少し近づいた。
*
夜久には、先ほどの若者がなぜあれほど慎重だったのか、多少は分かった。
晴臣が望まぬ約束をさせられていないか。
この家に危険がないか。
それを確かめに来たのだという。
家同士では、折り合いの悪いこともあるらしい。
それでも、若い当主を気にかけて訪ねてくる者はいる。
悪いことではない。
連れていた犬は、少し気の毒だった。
入らずともよいと伝えたが、主人を置いて下がれなかったのだろう。
律儀な犬である。
次に来るなら、庭から顔の見える部屋で話せばよいかもしれない。
夜久はそう考えながら、晴臣の説明を聞いた。
案内図には、食べ物の名がいくつも並んでいる。
知らないものばかりだった。
山を出て、まだ一日。
帰りを急ぐ理由は、今のところ何もなかった。