第一話 始まり
ボーダー本部。
司令室へと続く廊下を、一人の青年が歩いていた。
黒を基調としたボーダー隊員服に身を包み、背筋を伸ばしたその姿には、年齢以上の落ち着きがある。
すれ違う隊員たちは彼の姿を認めると、自然と道を譲り、ある者は軽く会釈し、またある者は親しげに声をかけた。
「ライさん、お疲れ様です!」
「お疲れ様。今日の訓練、予定より早く終わったんだね」
「はい!ライさんに教えてもらったことを意識したら、前よりうまく動けるようになりました!」
「それはよかった。今度、実戦を想定した訓練もやってみようか。もちろん、無理のない範囲でね」
「はい!」
笑顔で駆けていく若い隊員を見送り、ライ・アッシュフォードは小さく微笑んだ。
そして、再び歩き出す。
向かう先は、ボーダー最高司令官――城戸正宗の執務室だった。
先ほど連絡を受けた際、城戸から直接話があると言われたのだ。
内容については、まだ聞かされていない。
ただ、わざわざ自分を呼び出す以上、何かしら重要な話なのだろう。
(城戸司令からの呼び出しか……。さて、今度は何を任されるのかな)
自分の仕事が増える可能性を考え、ライは苦笑する。
これまでにも、城戸からはさまざまな仕事を任されてきた。
隊員の育成。部隊の編成。戦術面での助言。そして、時には組織の将来に関わる話し合いにまで参加させられることもあった。
もっとも、ライ自身はそれを特別なことだとは考えていない。
自分にできることがあるのなら、力を貸す。
ただ、それだけだ。
しかし――。
(僕が、ここまでボーダーに深く関わることになるなんてね)
ふと、そんな思いが胸をよぎった。
今でこそ、ボーダーの一員として日本を守ることに疑いはない。
だが、最初からそうだったわけではない。
そもそも自分は、ほんの一年ほど日本で過ごすつもりだったのだ。
ボーダーという組織の存在すら知らず、ネイバーという言葉も知らなかった。
ただ、母の故郷を知りたいと思った。
それだけだった。
ライはゆっくりと目を閉じる。
記憶の奥底にしまわれた、あの日々を思い返す。
すべての始まりは、今から六年前。
彼が十四歳だった頃まで遡る。
六年前――イギリス
窓の向こうには、穏やかな午後の景色が広がっていた。
手入れの行き届いた庭園。風に揺れる木々。遠くに見える街並み。
その景色を眺めながら、ライ・アッシュフォードはテーブルに置かれた紅茶のカップを手に取った。
「――というわけで、来年から日本へ留学してみないか、という話なんだ」
向かいに座る父が、そう切り出した。
ライはカップを口元で止め、父の顔を見る。
「日本へ?」
「ああ。お前も来年には十五歳だ。そろそろ、自分の知らない世界を見てみるのもいいだろう」
「なるほど。それで、どうして日本なんだい?」
父は隣に座る妻へと視線を向けた。
ライの母は、柔らかく微笑む。
「私の故郷だからよ」
「母さんの?」
「ええ。あなたも知っているでしょう? 私は日本で生まれて、幼い頃にこちらへ来たの」
「話には聞いているけれど、実際に行ったことはないからね」
ライは頷いた。
母が日本出身であることは知っていた。
ただ、家では主に英語で会話をしていたこともあり、日本について詳しく教わる機会はあまりなかった。
母が時折、懐かしそうに日本の話をすることはあったが、ライにとってそれは遠い異国の話だった。
「日本は、こちらとはずいぶん違うところもあるわ。街の雰囲気も、学校の様子も、人々の考え方もね」
「具体的には?」
「そうね……。実際に行って、自分の目で確かめてみるのが一番だと思うわ」
母は楽しそうに笑った。
「それに、日本にはあなたに会わせたい親戚もいるの。今回の留学では、その方のお宅にホームステイさせてもらう予定よ」
「親戚の家に?」
「ええ。私が日本にいた頃からお世話になっている方なの。あなたのことも、ぜひ預かりたいと言ってくださっているわ」
「それなら、安心だね」
ライは素直に頷いた。
見知らぬ土地で暮らすことに不安がないわけではない。しかし、母が信頼している相手の家に滞在できるのであれば、心強い。
「留学先は三門市。学校も手配してある。期間はひとまず一年間だ。もちろん、お前が望むなら、その後については改めて考えればいい」
「一年間か……」
ライは窓の外へと視線を戻した。
十四年間暮らしてきたイギリスを離れ、日本で一年間を過ごす。
想像してみると、悪くない話に思えた。
新しい土地。新しい学校。新しい人々。
これまでとは違う環境に身を置けば、自分の知らない何かを見つけられるかもしれない。
「分かった。行ってみるよ」
あまりにもあっさりした返事に、父が少し目を丸くした。
「ずいぶん決断が早いな」
「だって、面白そうじゃないか。それに、母さんの故郷なら、一度くらい自分で見ておきたいと思っていたからね」
母は嬉しそうに微笑み、ライの手をそっと握った。
「ありがとう、ライ。きっと、いい経験になるわ」
「こちらこそ。いろいろ教えてくれると助かるよ、母さん」
「もちろん」
こうして、ライ・アッシュフォードの日本留学が決まった。
このときの彼は、まだ知らなかった。
その決断が、自分の人生を大きく変えることになるなどとは。
半年後――出発の日
「お兄ちゃん! 行かないでよぉ!」
「いや、行くって決まってるからね?」
「やだぁ! 私も日本に行く!」
空港の出発ロビー。
ライの腰にしがみついて離れない少女を前に、彼は困ったように笑っていた。
ライの三歳年下の妹のサクラである。
普段はしっかり者で、年齢の割に落ち着いている彼女だったが、兄との別れを前にして、すっかり取り乱していた。
「お兄ちゃんがいなくなったら、誰が私の話を聞いてくれるの!」
「電話でも聞けるよ」
「電話じゃ嫌なの!」
「うーん……」
ライは頭を掻いた。
サクラが自分に懐いていることは、よく分かっている。
彼女が困ったときに相談に乗り、勉強を教え、時には両親に言いづらいことの聞き役にもなってきた。
だからこそ、今回の留学が寂しいのだろう。
しかし、だからといって留学を取りやめるわけにもいかない。
「一年間だよ。あっという間さ」
「本当に?」
「本当。長期休暇には帰ってくるかもしれないし、毎日連絡だってするよ」
「絶対?」
「絶対」
ライはしゃがみ込み、サクラと目線を合わせた。
「それに、僕が日本でどんなものを見て、どんな人たちに会ったのか、サクラにも話したいんだ。帰ってきたら、たくさん聞いてくれるかい?」
サクラは涙目のまま、こくりと頷いた。
「……いっぱい話してくれる?」
「もちろん。もういいって言うくらいにね」
「それは嫌!」
「ははっ、どっちなんだい」
ライは笑いながら、妹の頭を優しく撫でた。
やがて、搭乗開始のアナウンスが流れる。
両親に挨拶を済ませ、サクラをもう一度抱きしめると、ライは搭乗口へと向かった。
背後からは、サクラの泣き声が聞こえていた。
「お兄ちゃーん!」
振り返ると、サクラは両親に支えられながら、こちらへ手を振っている。
ライも笑顔で手を振り返した。
「行ってきます!」
このときの彼は、胸に期待を抱いていた。
異国での新しい生活。
初めて暮らす日本。
そこで出会う人々。
そのすべてが、きっと自分を成長させてくれると信じていた。
日本に到着してから数日後。
ライ・アッシュフォードは、三門市にある中学校の教室に立っていた。
「それじゃあ、今日からこのクラスの仲間になるアッシュフォード君だ。みんな、仲良くするように」
「ライ・アッシュフォードです。イギリスから来ました。日本語は一通り勉強してきたつもりですが、まだ分からないことも多いので、いろいろ教えてくれると嬉しいです。よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる。
教室が静まり返ったのは、ほんの一瞬だった。
「えっ、イギリス!?」
「すごっ、外国から来たの!?」
「日本語めちゃくちゃ上手じゃん!」
「ねえ、イギリスって学校でも制服違うの?」
たちまち質問が飛び交う。
担任教師が慌てて制止するほどの騒ぎになり、ライは思わず苦笑した。
「順番に答えるから、そんなに一度に聞かないでくれるかな?」
その言葉に、教室から笑い声が起きた。
休み時間になれば、ライの席の周囲には自然と人が集まった。
イギリスの学校について聞きたがる生徒。外国の食事に興味を持つ生徒。単純に、海外から来た転校生と仲良くなりたい生徒。
ライは誰に対しても分け隔てなく接した。
相手が何を知りたいのかを聞き、分かる範囲で丁寧に答える。日本の学校のことを教えてもらえば、素直に感謝する。
また、勉強で困っているクラスメイトがいれば手を貸し、運動が得意な生徒には教えを請うこともあった。
特別に目立とうとしていたわけではない。
ただ、相手を尊重し、自然体で接していただけだった。
それでも、彼の周囲には人が集まっていった。
「ライって、なんか大人っぽいよな」
「分かる。落ち着いてるっていうか」
「でも、話してみると結構冗談も言うよね」
「女子にも男子にも普通に話しかけるし、嫌な感じが全然ないんだよな」
そんな声が聞こえてくることもあった。
本人はといえば、すっかりクラスに馴染んだことを喜んでいた。
(いい学校だな。みんな親切だし、思っていた以上に楽しく過ごせそうだ)
日本での生活は、順調そのものだった。
授業にも問題なくついていけたし、友人もできた。ホームステイ先の親戚も親切で、生活に困ることはなかった。
当初の予定だった一年間。
その時間を過ごすには、申し分のない環境だった。
――少なくとも、あの日が来るまでは。
その日、異変は突然訪れた。
轟音。
地面を揺らす衝撃。
遠くから響き渡る、耳をつんざくような破壊音。
「な、何だ!?」
「地震か!?」
「先生、今の音って……!」
教室が一気に騒然となった。
窓の外では、遠くの建物から煙が上がっている。
直後、校内放送が鳴り響いた。
『生徒の皆さんは、先生の指示に従って落ち着いて行動してください。繰り返します――』
放送の声は、途中で乱れた。
教師たちが慌ただしく動き始める。
ライは窓の外を見つめていた。
何かがおかしい。
単なる事故ではない。
そう判断した瞬間、別の轟音が響いた。
今度は、さっきよりも近い。
「全員、先生の指示に従って避難するんだ!」
担任教師が声を張り上げる。
生徒たちは一斉に動き出した。
不安から泣き出す者。何が起きているのか分からず立ち尽くす者。友人の手を引いて逃げようとする者。
混乱は、あっという間に広がっていった。
「先生、何が起きてるんですか!?」
「分からない! とにかく避難するんだ!」
ライは周囲を見渡した。
教師も、生徒も、誰もが不安に駆られている。
自分だって、何が起きているのか分からない。
それでも――。
「みんな、落ち着いて!」
ライは教室中に届く声で呼びかけた。
「慌てて走ると危ない。前の人を押さないで、順番に移動しよう。友達と離れないようにして、転んだ人がいたら周りの人も手を貸して!」
その声に、何人かの生徒が振り返った。
「ライ……?」
「大丈夫。先生の指示に従って、落ち着いて行動すればいい。今は、自分たちにできることをしよう」
ライは近くにいた生徒の肩に手を置き、安心させるように微笑んだ。
その落ち着いた態度に、周囲の生徒たちも少しずつ冷静さを取り戻していく。
避難経路に従い、校舎の外へ。
しかし、外に出たからといって安全とは限らなかった。
街の様子は、明らかに異常だった。
道路には逃げ惑う人々があふれ、あちこちで車が立ち往生している。遠方では建物の一部が崩れ、聞き慣れない警報音が鳴り続けていた。
そして、人々の口から、悲鳴とともに言葉が飛び交っていた。
「化け物だ! 化け物が出たぞ!」
「逃げろ! 早く逃げるんだ!」
「こっちに来るな! 誰か、助けてくれ!」
――化け物。
ライは人々の視線を追った。
建物の向こう側に、見たこともない異形の存在が立っていた。
人間とは明らかに違う。
機械のようにも見えるが、見慣れた兵器とも違っている。
それが街を破壊し、人々を恐怖に陥れているのだ。
「危ない!」
通りの向こうで建物の一部が崩れた。
ライは、とっさに近くにいた子供の手を引いた。
直後、破片が地面に落ち、激しい音を立てる。
子供の母親が駆け寄り、何度も礼を言った。
「ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」
「いえ。それより、早く安全な場所へ!」
ライは周囲を見回した。
倒れた看板。動けなくなった人々。逃げ道を探して右往左往する群衆。
街は混乱の渦中にあった。
教師や大人たちが避難誘導を続けているものの、被害が広がるにつれて、人手が足りなくなっていく。
ライは迷わなかった。
「そこの方、そちらは危険です! 反対側へ回ってください!」
「誰か、怪我人を運ぶのを手伝ってくれ!」
「分かりました! あなたはこの人のそばにいてください。僕がほかの人を呼んできます!」
自分にできることを、一つずつ片づけていく。
怪我をした人がいれば、近くの人と協力して安全な場所まで運ぶ。動揺している子供には声をかけ、親とはぐれた人がいれば、避難場所の担当者へ引き継ぐ。
特別な訓練を受けていたわけではない。
敵と戦う力も、状況を一瞬で解決する力もなかった。
それでも、目の前で困っている人を放っておくことはできなかった。
やがて、避難していた人々の間から、驚きの声が上がった。
「おい、あれ……!」
誰かが街の一角を指さしていた。
ライも顔を上げる。
煙の向こう側。
破壊された街並みの先に、異形の化け物と対峙する人影があった。
「人……なのか?」
ライは目を凝らした。
黒い装備に身を包んだ者たちが、巨大な敵と向かい合っている。
彼らは逃げなかった。
人々を守るように立ち、敵の動きに合わせて素早く展開する。
次の瞬間、一人が踏み込んだ。
閃光。
轟音。
敵の巨体が大きく揺らぐ。
別の者が追撃を仕掛け、さらにもう一人が援護する。互いの動きを理解し、無駄のない連携で敵を追い詰めていく。
その戦いは、ライがこれまで見たどんなものとも違っていた。
彼らはただ強いだけではない。
互いを信頼し、背中を預け、守るべきもののために戦っている。
やがて――最後の一撃が放たれた。
巨大な化け物が崩れ落ちる。
一瞬、周囲を静寂が包んだ。
そして、誰かが震える声で呟いた。
「……倒した、のか?」
続いて、あちこちから安堵の声が上がる。
「助かった……」
「もう、あの化け物は来ないのか……?」
そんな中、一人の男性が戦いを終えた者たちを指さした。
「おい、あいつらは……」
その問いかけに応じるように、黒い装備の人物の一人がこちらを振り返った。
そして、周囲にいる人々へ向けて、はっきりとした声で告げた。
「ここは我々に任せてもらおう、我々はこの日のために準備してきた。」
その言葉には、迷いがなかった。
まるで、こうなる日が来ることを知っていたかのように。
ライは、その人物をじっと見つめていた。
彼らは何者なのだろう。
なぜ、あの化け物と戦えるのだろう。
そして――なぜ、この状況を前にして、これほど落ち着いていられるのだろう。
疑問は尽きなかった。
けれど、それ以上に強く心に残ったものがある。
彼らは、逃げ惑う人々の前に立った。
誰もが恐怖に震える中、自分たちの力で人々を守ろうとしていた。
ライは、無意識のうちに拳を握りしめていた。
「……すごいな」
自然と、そんな言葉が漏れた。
それは、純粋な驚きだった。
そして、まだ名前も知らない彼らに対する、確かな憧れだった。
このときのライは、まだ知らない。
目の前で戦っていた人々が、後に自分の人生を大きく変えることになる存在だということを。
そして、この日を境に、自分の人生が大きく変わっていくことを。
ただ、彼は目の前の光景を、決して忘れなかった。