大規模侵攻が終結してから、数日が経過した。
三門市の街並みには、いまだ戦いの爪痕が色濃く残っていた。
崩れた建物。ひび割れた道路。街のあちこちに積み上げられた瓦礫。
それでも、街は少しずつ動き始めていた。
行政や建設業者による復旧作業が始まり、住民たちも自分たちにできることを探して動いている。
避難所では物資の配給が行われ、壊れた家屋の片づけに追われる人々の姿もあった。
そんな光景の中に、一人の少年がいた。
「その木材は、こちらにまとめておけばいいですか?」
「ああ、そうしてくれると助かるよ!」
「分かりました。では、こちらの瓦礫も運んでしまいますね」
銀色の髪をした少年――ライ・アッシュフォードは、近隣住民たちとともに復旧作業に取り組んでいた。
学校が休みの日や、放課後に時間があるときは、できる限り手伝いに来ている。
もちろん、十五歳の少年にできることには限りがある。重い資材を無理に運ぶことはせず、危険な場所には近づかない。
大人たちの指示に従いながら、瓦礫の整理や物資の運搬、避難所への荷物の配達などを手伝っていた。
「ライ君、いつもありがとうね。学校もあるのに」
近所の女性が、申し訳なさそうに声をかける。
「いえ、僕が好きでやっていることですから。それに、皆さんには普段からお世話になっていますし」
「それにしたって、よく働く子だねえ」
「そうですか? 僕としては、もっとできることがあればいいのですが」
ライがそう返すと、女性は困ったように笑った。
「本当に、どこでそんな立派なことを覚えてきたんだか」
「両親の教育の賜物でしょうか」
「まあ、口も達者なこと!」
二人の間に笑い声が生まれる。
数日前、この街は突如として現れた異形の化け物によって蹂躙された。
ライ自身も、あの日の光景を忘れたわけではない。
突然の轟音。逃げ惑う人々。そして、化け物に立ち向かった謎の集団。
あのとき感じた恐怖も、目の前で人々を守ろうとする者たちへの憧れも、鮮明に覚えている。
だからこそ、今の自分にできることをしたかった。
戦う力がなくても、街を直す手伝いはできる。
それが、今のライにできる精一杯だった。
「おーい、そこの銀髪の君!」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。
年齢はライとそれほど変わらないように見える。
茶髪にどこか飄々とした雰囲気。人懐っこい笑みを浮かべながら、こちらへ手を振っている。
「君、ここのところよく見かけるね」
「そうですか? この辺りで作業をしていることが多いので」
「学校が休みの日まで手伝いに来てるんだって?」
「ええ。もっとも、僕一人でできることなんて大したことはありませんが」
「いやいや、そんなことないって。人手が足りないときに動いてくれるだけでも、ずいぶん助かるもんだよ」
少年は気さくに笑った。
「俺は迅悠一。君は?」
「ライ・アッシュフォードです。よろしくお願いします」
「ライ君か。うん、よろしく!」
迅はライの顔をじっと見た。
銀色の髪に整った顔立ち。物腰は落ち着いていて、同年代の少年にしてはずいぶん大人びている。
だが、気取ったところはない。
話しかけてみれば、自然と会話が続く。
「ところで、ライ君って外国から来たんだよね?」
「ええ。イギリスからです。母が日本出身なので、こちらで暮らしてみたいと思いまして」
「へえ、そうなんだ。それで三門市を留学先に選んだわけか」
「はい。当初は一年間の予定でした」
「当初は、ね」
迅が意味ありげに繰り返す。
「……何か含みのある言い方ですね」
「そう? 気のせいじゃないかな」
迅は笑ってごまかした。
ライは少し考えたものの、それ以上は追及しなかった。
「迅君は、この復興作業の関係者なの?」
「まあ、そんなところ。街のために、いろいろとね」
「そうなんだ。迅君のような人がいてくれると、心強いよ」
「ははっ、ありがとう」
迅は笑った。
初対面の相手にもかかわらず、妙に話しやすい少年だった。
軽い口調で冗談を交えながらも、こちらの様子をよく見ている。
単なる世間話をしているようでいて、どこか注意深く観察されているような感覚もあった。
もっとも、ライはそれを不快には思わなかった。
「そういえば、ライ君。あの日、街を襲った化け物と戦っていた人たちを覚えてる?」
「もちろんです。忘れられるはずがありません」
「彼らが何者なのか、気にならない?」
「気になりますね。あれだけの相手と戦える人たちですから。いったい、どんな組織なのか……」
「だったら、ちょうどいい話があるんだけど」
迅はポケットから一枚の名刺を取り出した。
そこには、見慣れない組織の名称と連絡先が記されている。
「ボーダーっていう組織なんだけどさ。あの日、化け物と戦っていたのは、ここの人たちなんだ」
「ボーダー……」
「そう。未知の敵‥ああ、ネイバーって言うんだけどね。それから街を守るために活動している組織。まだ一般には知られていないことも多いけどね」
ライは名刺見つめた。
あの日、あの人たちが口にしていた言葉が脳裏によみがえる。
――ここは我々に任せてもらおう。我々はこの日のために準備してきた。
彼らは、あのような事態が起こることを予想していたのだ。
そして、そのために準備を重ねてきた。
「それで、僕にそのボーダーを紹介してくれるということ?」
「話が早いね。実は、ライ君にボーダーへ入ってみないかと思ってさ」
あまりにも唐突な申し出だった。
ライは目を瞬かせた。
「……僕を?」
「うん」
「失礼だけど、僕はまだ十四歳だよ?」
「知ってるよ」
「それに、戦闘訓練を受けた経験もない。あの日も、避難誘導や救助の手伝いをしていただけだ」
「それも知ってる」
「では、なぜ僕なんだい?」
迅はすぐには答えなかった。
代わりに、ライの目をまっすぐに見つめた。
「君は、あの日、怖くなかった?」
予想外の質問だった。
ライは少しだけ目を伏せた。
「……怖かったよ」
嘘をつく理由はない。
「何が起きているのかも分からなかった。自分が助けようとしている人たちを、本当に守れるのかも分からなかった。正直に言えば、今だって、あの日のことを思い出すと怖い」
「そっか」
「それでも、目の前で困っている人がいた。だから、できることをしただけだよ」
迅は静かに頷いた。
「うん。そういうところだよ」
「……どういう意味?」
「さあね。少なくとも、俺は君と一緒に仕事をしてみたいと思ったんだ」
あまりにも曖昧な答えだった。
しかし、迅の表情にはふざけた様子がなかった。
ライは名刺に目を落とす。
ボーダー。
未知の敵(ネイバー)と戦うための組織。
自分が憧れた人たちが所属する場所。
そこに入れば、自分にも何かできるのだろうか。
今よりも多くの人を守れるようになるのだろうか。
だが、同時に考えなければならないこともあった。
自分は留学生だ。
日本に来たのは、母の故郷を知るため。そして、親戚の家で一年間暮らすためだった。
ボーダーへの入隊は、その当初の予定を大きく変える選択になる。
「……少し、考えさせてもらえるかな?」
「もちろん。いきなり決められることじゃないしね」
迅はあっさりと頷いた。
「その名刺に連絡先が書いてあるから。気が向いたら連絡してよ」
「ありがとう」
「うん。じゃあ、俺はそろそろ行くよ。また会おうね、ライ君」
「うん。また」
迅は手を振り、その場を去っていった。
ライはしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
やがて、手元の名刺に視線を落とす。
(ボーダー、か……)
興味がないと言えば嘘になる。
むしろ、知りたいことは山ほどあった。
あの日、戦っていた人々はどんな訓練をしているのか。どのような仕組みで、あの化け物と戦えるのか。そして、自分にも彼らのように誰かを守る力を身につけられるのか。
だが、今すぐに答えを出すことはできなかった。
ライはカードをポケットにしまい、再び復興作業へと戻った。
その日の夕方
三門市の郊外にある、広大な敷地を持つ屋敷。
ライが留学中の住まいとして世話になっている、母方の親戚の家だった。
和風の意匠を取り入れた屋敷は、周囲の景色に溶け込むように静かに佇んでいる。
玄関をくぐり、出迎えた使用人に挨拶を済ませたライは、案内された書斎へと向かった。
「失礼します」
「おお、ライか。入りなさい」
部屋の奥に座っていたのは、一人の老紳士だった。
母の叔父にあたる人物であり、ライにとっては日本での生活を支えてくれている恩人でもある。
年齢を重ねてもなお、その眼差しには鋭さが残っていた。
政界にも強い影響力を持ち、表立って騒がれることは少ないものの、日本の政治や経済に関わる多くの人物と交流を持っている。
ライは丁寧に頭を下げた。
「叔父様、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんだとも。何かあったのかね?」
「少し、ご相談したいことがありまして」
「ふむ。座りなさい」
ライは勧められた椅子に腰を下ろした。
そして、昼間に出会った迅との会話を、順を追って説明した。
ボーダーという組織の存在。
侵攻の際に戦っていた人々のこと。
そして、自分がその組織に入らないかと誘われたこと。
話を聞き終えた叔父は、しばらく黙っていた。
「……なるほど。ボーダーか」
「ご存じなのですか?」
「もちろんだ。あの組織については、わしも以前から情報を集めている」
叔父は机の上で指を組んだ。
「今回の侵攻で、彼らがどのような役割を果たしたのかも把握している。表には出ていない情報もあるがね」
「やはり、そうでしたか」
「それで、お主はどうしたい?」
単刀直入な質問だった。
ライはすぐには答えなかった。
「……まだ、分かりません。興味はあります。ただ、僕が日本に来たのは、もともと一年間の留学のためですから」
「なるほど。留学生としての立場を考えているわけだ」
「はい。それに、ボーダーがどのような組織なのかも、まだよく知りません。興味があるからといって、簡単に決めていいことではないと思います」
「それは賢明な考えだ」
叔父は満足そうに頷いた。
「では、少し話をしよう。君自身のことについてだ」
「僕自身のこと、ですか?」
「ああ。お主は、自分が何者なのか、どこに連なる者なのか。それについて、どこまで知っている?」
ライは首を傾げた。
「イギリスで生まれ育ち、母が日本出身であること。それから、母方の家系が日本の皇家に連なる血筋であることは聞いています」
「そうだな」
叔父はゆっくりと立ち上がり、書棚の前へと歩いていった。
「君の母は、日本の歴史と深い関わりを持つ家の出身だ。そして、君もまた、その血を受け継いでいる」
ライは黙って耳を傾けた。
「皇家という言葉は、単に血筋を示すものではない。長い歴史の中で、人々の暮らしや国のあり方と結びついてきたものだ。君が日本で暮らすということは、そうした歴史の一端に触れることでもある」
「……僕は、そのことをあまり深く考えたことがありませんでした」
「それでよい。生まれた家や血筋だけで、人の生き方が決まるわけではないからな」
叔父は穏やかな口調で続けた。
「ただ、自分のルーツを知ることには意味がある。何を受け継ぎ、何を大切にし、これからどう生きるのか。それを考えるための手がかりになる」
「自分が何を大切にしたいのか……」
「そうだ。お主は日本に来て、初めてこの国で大きな災厄を経験した。そして、今はその復興を手伝っている。そこに何を感じたのか。それを、よく考えてみるといい」
ライは目を伏せた。
あの日、目の前で戦っていた人々。
恐怖に震える一般人。
そして、少しずつ元の生活を取り戻そうと努力する住民たち。
あの光景を思い出す。
「叔父様は、僕がボーダーに入ることについて、どう思われますか?」
「ワシの考えを聞きたいのかね?」
「はい」
叔父は少し考えてから答えた。
「ワシはお主が何を選んでも尊重する。ただし、ひとつだけ覚えておきなさい」
その声は、先ほどまでよりも少しだけ厳しかった。
「人のために何かをしたいという気持ちは尊い。だが、その気持ちだけで進めば、いつか自分自身を見失うこともある。自分に何ができるのか。何を学びたいのか。そして、その選択にどのような責任が伴うのか。それを考えたうえで決めなさい」
「……分かりました」
「それと、お主父母にも相談することだ。まだ若いのだ。自分一人で決める必要はない」
「はい。そうします」
叔父は再び穏やかな表情に戻った。
「焦ることはない。答えは、お主自身の中にあるはずだ」
ライは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、叔父様。お話しできてよかったです」
「なに、これくらいは年長者の役目だ。さあ、夕食までにはまだ時間がある。少し、自分と向き合ってきなさい」
「はい」
ライは書斎を後にした。
廊下を歩きながら、叔父の言葉を繰り返し思い返す。
自分のルーツ。
自分の意思。
そして、自分が選ぶ道。
答えは、まだ完全には形になっていなかった。
それでも、少しずつ見えてきたものがある。
屋敷の一角にある武道場
夕暮れの光が差し込むその場所で、ライは木刀を手にしていた。
幼い頃から、身体を動かすことは嫌いではなかった。
礼儀作法や基礎的な武道を学ぶ機会もあり、今でも気分を整理したいときには、こうして素振りをすることがある。
ライは静かに構えた。
一振り。
木刀が空気を切る。
もう一振り。
余計な力を入れず、呼吸を整えながら、同じ動作を繰り返す。
頭の中では、さまざまな考えが巡っていた。
日本に来た理由は、母の故郷を知るためだった。
一年間だけ暮らし、イギリスへ帰る。
それが当初の予定だった。
けれど、侵攻を経験した今、その予定をただ守ることが、本当に自分の望むことなのか分からなくなっていた。
あの日、旧ボーダーの隊員たちは戦っていた。
見知らぬ人々を守るために。
彼らがいなければ、被害はもっと大きくなっていたかもしれない。
自分も、誰かを守れるようになりたい。
そう思った。
だが、それだけでいいのだろうか。
自分はまだ何も知らない。
ボーダーのことも、ネイバーのことも、戦うということの本当の意味も。
それでも――。
木刀を振るう手が、わずかに止まった。
「……知りたいんだ」
小さな声が、武道場に響いた。
ボーダーのことを。
あの日の戦いのことを。
そして、自分に何ができるのかを。
知らないまま、憧れだけを抱いて終わりにしたくはなかった。
自分の目で確かめたい。
自分の足で踏み出したい。
誰かに言われたからでも、血筋に従うためでもなく。
自分自身の意思で。
ライは木刀を下ろし、深く息を吐いた。
「……決めた」
もう迷いはなかった。
少なくとも、最初の一歩については。
ボーダーに入ろう。
そこで学び、経験し、自分に何ができるのかを確かめよう。
それが、自分自身の答えだった。
夜
ライは自室で通信端末を操作していた。
画面に映し出されたのは、イギリスにいる両親の姿だった。
『ライ、久しぶりね。元気そうでよかったわ』
「母さんも父さんも元気そうで何よりだよ」
『そっちの復旧作業はどうだ? 無理はしていないだろうな』
「大丈夫。できる範囲で手伝っているだけだから」
父は少し心配そうな表情を浮かべたが、ライが笑顔で答えると、ひとまず安心したようだった。
「それで、今日は二人に報告があって連絡したんだ」
『報告?』
「うん。実は今日、ボーダーという組織の人から勧誘を受けたんだ」
両親の表情が変わった。
「侵攻のときに戦っていた人たちが所属している組織らしい。僕にも、そこで活動してみないかと」
『それで、お前はどうしたいんだ?』
父の問いに、ライはまっすぐ答えた。
「入ろうと思っている」
画面の向こうで、母が目を見開いた。
『ライ……』
「もちろん、簡単なことじゃないのは分かっている。まだ知らないことばかりだし、戦う力だってない。でも、あの日のことを知った以上、何もせずに帰るのは違うと思ったんだ」
ライは自分の考えを丁寧に伝えた。
ボーダーで何を学びたいのか。
今の自分に何ができるのか。
そして、将来どうなるかは分からないが、まずは一歩を踏み出したいということ。
両親は口を挟まず、最後まで話を聞いてくれた。
やがて父が、静かに口を開いた。
『……お前がそこまで考えたのなら、父さんから止める理由はない』
「父さん……」
『ただし、危険なこともあるはずだ。自分の命を軽く考えてはいけない。誰かを守ろうとするなら、まず自分自身も大切にしなさい』
「分かっているよ」
母も、優しく微笑んだ。
『ライ。あなたが自分で考えて決めたことなら、私たちは応援するわ。でも、つらいことがあったら、いつでも相談してね』
「ありがとう、母さん。父さんも」
『ところで、学校はどうするんだ?』
「それも含めて、ボーダーの人たちと相談してみるよ。留学先の学校にも、きちんと説明しないとね」
『そうだな。そこは大人の力も借りなさい』
「うん」
ライが頷いた、そのときだった。
『お兄ちゃーん!』
勢いよく扉が開いた。
「……サクラ?」
画面の向こうで、妹のサクラが飛び込んできた。
どうやら、両親がライと通信していることを聞きつけたらしい。
『あら、サクラ。ちょうどよかったわ』
『お兄ちゃん! いつ帰ってくるの!?』
開口一番、それだった。
ライは思わず苦笑した。
「こんばんは、サクラ。元気そうだね」
『そんなことはどうでもいいの! お兄ちゃん、すぐ帰ってくるんじゃなかったの!?』
「いや、一年間の留学だって、最初から言っていたと思うけど……」
『だって、もう何日も会ってないもん!』
サクラは頬を膨らませた。
『毎日連絡するって約束したでしょ! それは守ってるけど、やっぱり直接会いたいの!』
「うん。寂しい思いをさせてごめんね」
『だったら帰ってきて!』
「それは……今すぐには難しいかな」
『どうして!?』
「実はね、ボーダーという組織に入ろうと思っているんだ」
サクラはきょとんとした。
『ぼーだー?』
「うん。日本を守るために活動している組織なんだ。僕はそこで、いろいろなことを学びたいと思っている」
『…それって、もっと帰ってこられなくなるってこと?』
サクラの表情が曇った。
ライは少し考えてから、優しく声をかけた。
「帰れなくなると決まったわけじゃないよ。それに、僕はサクラのことを忘れたりしない。これからも連絡するし、休みが取れたら帰るつもりだ」
『本当?』
「本当だよ」
『絶対?』
「絶対」
サクラはしばらく兄の顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
『…約束だからね』
「うん。約束」
『帰てきたら、いっぱい遊んでね!』
「もちろん。サクラがもういいって言うまで付き合うよ」
『それは嫌!』
「ははっ、前にも似たようなことを言っていたね」
サクラは少しだけ笑顔を取り戻した。
それから、両親を交えて、しばらく他愛のない話をした。
学校のこと。
イギリスの家のこと。
妹が最近覚えたこと。
何気ない会話だったが、ライにとっては大切な時間だった。
やがて通信を終える頃には、心の中にあった迷いはすっかり消えていた。
自分には、帰る場所がある。
心配してくれる家族がいる。
だからこそ、今は前に進める。
ライは端末を置き、窓の外を眺めた。
夜の三門市は、静かだった。
けれど、この街にはまだ、解決しなければならない問題が数多く残されている。
「……明日、連絡してみよう」
そう呟き、ライは明日に備えて休むことにした。
翌日
復興作業を終えたライは、休憩時間にポケットから名刺を取り出した。
そこには、昨日出会った少年――迅悠一の連絡先が記されている。
しばらく眺めたあと、ライは端末を取り出した。
そして、教えられた連絡先へと連絡を入れる。
数回の呼び出し音のあと、聞き覚えのある声が返ってきた。
『はいはーい。お、ライ君?』
「おはよう、迅君。昨日はありがとう」
『おはよう。どうしたの? 何か聞きたいことでもできた?』
「いや。伝えたいことがあって連絡したんだ」
『うんうん』
ライは一度、深く息を吸った。
「昨日の話だけど――」
迷いはなかった。
「ボーダーに入隊したいと思う。」
電話の向こうで、一瞬だけ沈黙があった。
それから、迅の明るい声が返ってくる。
『そっか! よかった。それじゃあ、これからよろしくね、ライ君』
「こちらこそ、よろしく」
『詳しい話は、会って説明するよ。入隊するための手続きもあるし、君の年齢や学校のことも考えないといけないからね』
「分かった。よろしく頼むよ」
『うん。それじゃ、近いうちにまた連絡するよ』
通話が終わった。
ライは端末をしまい、空を見上げた。
まだ、何も始まってはいない。
戦うための知識も、技術も、経験もない。
これから先、どんな困難が待ち受けているのかも分からない。
それでも、自分で決めたことだ。
誰かに強制されたわけではない。
誰かに期待されたからでもない。
自分がそうしたいと思ったから、選んだのだ。
ライ・アッシュフォードの日本での一年間。
その当初の予定は、この日を境に大きく変わり始めた。
彼が歩み出した先に何が待っているのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。