迅と約束した時間まで、あと一時間。
ライ・アッシュフォードは、屋敷の自室で身支度を整えていた。
制服ではなく、動きやすく、それでいて人と会う場にふさわしい服装を選ぶ。
そして昨晩、簡単にだが作った自分についての資料をカバンに入れる。
今日はこれから、自分の進路を大きく左右するかもしれない場所へ向かうのだ。
「……本当に、入ることになるのかな」
独り言を漏らし、ライは窓の外へ目を向けた。
数日前まで、自分がこのような選択をするとは思ってもいなかった。
だが、あの日。
街を襲った正体不明の怪物と、それに立ち向かった人々の姿が、今も脳裏に焼きついている。
自分に何ができるのか。
あの人たちのように、誰かを守ることができるのか。
その答えを見つけるためにも、まずは一歩を踏み出してみよう。
約束の時間
待ち合わせ場所に現れた迅は、ライを見つけると片手を上げた。
「おっ、ライ! こっちこっち!」
「迅君。待たせてしまったかな?」
「いや、俺も今来たところ。じゃあ、行こうか。こっちだよ」
迅に案内され、ライは街の中を歩き始めた。
目指すのは、建設途中のボーダー本部。
まだ大規模な施設として完成しているわけではないらしいが、組織の中心となる場所だけあって、街の一角では大掛かりな工事が進められていた。
道中、二人は他愛のない話を交わした。
学校のこと。復興作業のこと。そして、ボーダーという組織について。
その最中、ふと迅が何かに気づいたようにライを見た。
「……そういや、ライって何歳なんだ?」
「十五歳だよ。誕生日はもう過ぎているけれどね」
「へえ、十五か。俺は十四だから……あれ? ってことは、ライのほうが一つ上?」
「そういうことになるね」
その瞬間、迅の表情が固まった。
「……マジで?」
「うん」
「えっ、俺、年上にずっとタメ口で話してたってこと?」
「ずっと、というほど長い付き合いでもないと思うけれど」
「いやいや、そういう問題じゃないって!」
迅は立ち止まり、居住まいを正した。
そして、先ほどまでの気安い態度が嘘のように、深々と頭を下げる。
「すみませんでした、アッシュフォード先輩! 年上とは知らず、ずいぶん失礼な態度を取ってしまいました!」
あまりに急な変化に、ライは目を丸くした。
「……迅君?」
「これからは、きちんと敬意を払って接します!」
「待ってくれ。そんなに気にしなくていいよ」
ライは困ったように笑い、迅の肩にそっと手を置いた。
「僕は、君の態度を失礼だなんて思っていない。むしろ、あのときも今も、気兼ねなく話してくれることを嬉しく思っているんだ」
「でも、年上だし……」
「一歳しか違わないだろう? それに、僕たちはこれから同じ組織で活動することになるかもしれない。必要以上に遠慮されると、かえって話しにくくなってしまうよ」
「うーん」
迅は腕を組み、しばらく考え込んだ。
やがて、ぱっと顔を上げる。
「じゃあ、態度は今まで通りでいいってことで!」
「そういうこと」
「了解! じゃあ、ライ先輩!」
「……そこは変わるんだね」
「年上だってわかったからね!」
迅は屈託なく笑った。
ライも思わず笑みをこぼす。
ただし、それからの迅は、以前と変わらない気安さを保ちながらも、言葉遣いだけは少し丁寧になっていた。
「それで、ライ先輩。ボーダー本部に着いたら、まずは偉い人たちに会ってもらいます」
「偉い人たち、か。少し緊張するね」
「大丈夫、大丈夫。みんないい人……って言い切れるかは、まあ、会ってからのお楽しみってことで!」
「それは、少し不安になる説明だなあ」
「ははは!」
そんなやり取りを交わしながら、二人は建設現場のそばへとたどり着いた。
そこには、建設中の建物を囲むように作業員たちが行き交い、資材が運び込まれていた。
街を襲った怪物に対抗するための組織。
そして、これから自分が関わろうとしている場所。
ライは建物を見上げ、静かに息を吸った。
「ここが……ボーダー」
「そう。まだ工事中だけどな。じゃ、行こうか!」
迅の案内で、ライは施設の中へと足を踏み入れた。
案内された部屋には、三人の男性が待っていた。
中央に座る、鋭い眼差しの男。
その隣には、威厳と落ち着きを兼ね備えた男。そして、どこか飄々とした雰囲気を漂わせる男がいる。
迅は三人の前まで進み出ると、軽く手を上げた。
「連れてきましたよ」
「ご苦労、迅」
中央の男が短く答えた。
その声には、組織を率いる者としての重みがあった。
迅がライの隣へ戻る。
「じゃあ、ライ先輩紹介します。こちらが城戸さん、忍田さん、林藤さんです」
ライは三人の顔を順番に見つめ、背筋を伸ばした。
そして、丁寧に一礼する。
「初めまして。ライ・アッシュフォードと申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
その所作は年齢に似合わず落ち着いていた。
「迅君からお話があったかと思いますが、僕はボーダーへの入隊を希望しております。まだ何も知らない身ではありますが、皆さんのお話を伺い、僕にできることがあれば、ぜひ力になりたいと考えています」
城戸はライをじっと見つめた。
忍田はその姿勢を確かめるように視線を向け、林藤は興味深そうに目を細めた。
「……なるほど」
城戸が口を開く。
「では、いくつか質問をさせてもらおう」
「はい。よろしくお願いいたします」
ライは資料を渡しながら落ち着いた声で応じた。
最初に口を開いたのは城戸だった。
「迅から、君が侵攻時に民間人の避難誘導や救助活動を行っていたと聞いている」
「はい。自分にできる範囲で、お手伝いをさせていただきました」
「なぜだ?」
単刀直入な質問だった。
「なぜ、危険を冒してまで他人を助けようとした?」
ライはすぐには答えなかった。
あの日の光景を思い返す。
逃げ惑う人々。崩れた建物。泣き叫ぶ子供。そして、恐怖に足がすくみながらも、誰かを助けようと動く大人たち。
自分だって怖かった。
怪物が次にどこへ向かうのかもわからない。いつ自分が巻き込まれるかもわからない。
それでも、目の前で助けを求める人がいた。
「……助けられるかもしれない人が、目の前にいたからです」
ライは静かに答えた。
「もちろん、僕一人でできることには限界がありました。無謀な行動で、かえって誰かに迷惑をかけてしまう可能性もあったと思います」
城戸の目がわずかに細くなる。
「それを理解したうえで、行動したと?」
「はい。自分にできることと、できないことを見極める必要はあると思います。それでも、何もせずに見ているだけという選択は、僕にはできませんでした」
「では、ボーダーに入れば、必ず誰かを救えると思っているのか?」
「いいえ」
ライははっきりと首を横に振った。
「どれほど努力しても、すべての人を救うことはできないのだと思います。どれほど強くなっても、判断を誤ることはあるでしょう」
その言葉に、忍田がわずかに反応した。
「それでも、入隊したいのか?」
「はい。救えない人がいるからといって、救えるかもしれない人まで諦めたくはありません。それに……」
ライは一度、言葉を切った。
「僕は、あの日に戦っていた皆さんの姿を見ました。恐ろしい怪物を前にしても、誰かを守るために立ち向かっていた人たちです。僕も、あの人たちのようになりたいと思いました」
城戸はしばらく黙っていた。
やがて、短く告げる。
「わかった。次だ」
次に質問を投げかけたのは忍田だった。
「ライ君。君は、ボーダーに入隊したあと、何をしたいと考えている?」
「まずは、必要な知識と技術を身につけたいと思っています」
「具体的には?」
「戦闘技術だけではなく、避難誘導や救助活動、組織としての連携についても学びたいです。あの日、僕ができたことは限られていました。だからこそ、次に同じような事態が起きたとき、より適切な判断ができるようになりたいと考えています」
「戦うことよりも、救助活動を重視しているのか?」
「どちらか一方ではないと思います」
ライは少し考えてから答えた。
「敵を倒せば、それで終わりというわけではありません。戦闘中に危険にさらされている人もいれば、戦闘が終わったあとに助けを必要とする人もいます。戦う力を身につけることは大切ですが、その力を何のために使うのかも、同じくらい大切だと思っています」
忍田は腕を組み、ライの言葉に耳を傾けた。
「なるほど。では、君自身の得意分野は何だ?」
「特別に優れたものがあるとは、まだ思っていません」
「剣術などは?」
その質問に、ライは少しだけ目を見開いた。
「……木刀を使った素振りなら、屋敷で続けています。ただ、本格的な実戦経験があるわけではありません」
「誰かに教わっているのか?」
「基礎的なことを教わる機会はありましたが、今は自分で練習している程度です」
「自分の実力を過大評価していないのはいいことだ」
忍田は穏やかにうなずいた。
「ボーダーに入れば、君より年下でも、君よりはるかに優れた技術を持つ者がいるかもしれない。逆に、年上でも経験の浅い者はいる。年齢や立場にこだわらず、学ぶ姿勢を忘れないでほしい」
「はい。肝に銘じます」
「期待しているよ」
忍田の言葉に、ライは再び深く頭を下げた。
最後に、林藤が口を開いた。
「さて、ライ君。今度は少し違うことを聞かせてもらおうかな」
「はい」
「君は、どうして日本に来たんだい?」
「母の勧めです。母は日本で生まれ育った人でして、僕にも一度、母の故郷で暮らしてみてほしいと考えていたようです」
「なるほどね。じゃあ、この資料通りにもともとは一年間だけの留学だったわけだ」
「はい。そのつもりでした」
「それなのに、ボーダーに入ろうと思った。入隊すれば、留学生活も当初の予定とは変わるかもしれない。それについてはどう考えている?」
ライは少しだけ視線を落とした。
自分が日本へ来た理由。
両親との約束。
そして、イギリスに残してきた妹のサクラ。
どれも、簡単に割り切れるものではない。
「もちろん、家族には相談しました。両親も、僕が自分で考えて決めたことなら応援すると言ってくれています」
「妹さんも?」
「……妹は、できれば早く帰ってきてほしいようです」
ライは苦笑した。
「まだ幼いですから。僕が日本へ行くときも、ずいぶん寂しがっていました」
「そりゃあ、お兄ちゃんが急に遠くへ行くんだからね」
林藤は笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「家族と離れて暮らすことになるかもしれない。それでも、ここに残りたいと思う?」
「はい。ただし、家族を大切にすることと、ボーダーで責任を果たすことは、どちらも疎かにしたくありません」
ライは真摯な眼差しで林藤を見つめた。
「どちらかを選んだからといって、もう片方を軽んじていい理由にはならないと思っています。今の僕に、どこまで両立できるかはわかりません。でも、簡単に諦めるつもりもありません」
林藤は、少しの間ライを見つめていた。
そして、ふっと笑う。
「いい答えだね。無理をして格好をつけるでもなく、自分にできることを考えている。そういうのは大事だよ」
「ありがとうございます」
「いやいや。まだ入隊が決まったわけじゃないからね」
「はい。承知しております」
「ははは。真面目だなあ、君は」
林藤は楽しそうに笑った。
三人からの質問がひと通り終わり、部屋に静寂が戻った。
ライは姿勢を崩すことなく、次の言葉を待っていた。
三人とも、彼の返答について考えを巡らせているようだった。
やがて、城戸が迅へと視線を向ける。
「迅。お前から見て、こいつはどうだ?」
「どうって、入隊させるべきかってことですか?」
「そうだ」
迅は、いつもの軽い調子で頭の後ろに手をやった。
「俺は、ライ先輩を入隊させるべきだと思います」
「理由は?」
「この先、先輩はボーダーにとって、ものすごく大きな存在になりますから」
迅はそこで一度言葉を切り、三人の顔を見回した。
「今の能力がどうとか、どんなトリガーが向いてるとか、そういう話だけじゃないんです。この人がここにいることで、いろんなことが変わっていく。ボーダーにとって、必要な人間になるんですよ」
「……ずいぶんと大きく出たな」
城戸の声には、わずかな警戒が混じっていた。
「そこまで断言できる根拠は何だ?」
迅は、にっと笑った。
そして、まるで当然のことを告げるかのように言った。
「俺のサイドエフェクトがそう言っているんだよね」
「サイドエフェクト……?」
思わず、ライは小さくつぶやいた。
聞き慣れない言葉だった。
迅の言葉を受けた三人は、互いに視線を交わした。
短い沈黙のあと、忍田が口を開く。
「迅のサイドエフェクトについては、我々も重視している。その言葉を軽く扱うつもりはない」
林藤も、先ほどまでの飄々とした表情を少しだけ改めていた。
「それに、本人の受け答えも悪くない。少なくとも、今の段階で入隊を拒む理由は見当たらないね」
「……ふむ」
城戸はライを見据えた。
「ライ・アッシュフォードくん」
「はい」
「君の入隊を認める」
その言葉に、ライは一瞬、息をのんだ。
「……ありがとうございます!」
すぐさま立ち上がり、深々と頭を下げる。
忍田も静かにうなずいた。
「私も賛成だ。君がどのような隊員になるのか、これから見させてもらおう」
「よろしくお願いいたします」
「俺も異論はないよ。これからよろしくね、ライ君」
林藤の言葉に、ライは改めて礼を述べた。
こうして、三人全員の賛成により、ライのボーダー入隊が決定した。
一方で、ライの頭には、先ほどから一つの疑問が残っていた。
――サイドエフェクト。
迅が口にした、聞き慣れない言葉。
それが何を意味するのか。なぜ自分の将来について、あれほど確信を持って話せるのか。
尋ねたいことはあった。
だが、ここで聞くべきことなのか判断がつかず、ライはひとまず沈黙を守った。
その様子に気づいたのか、迅がちらりとライを見る。
しかし、何も言わず、意味ありげに笑うだけだった。
「さて、今日はこのくらいにしておこう」
城戸が時計に目をやった。
「もう遅い。ボーダーについての詳しい説明や、今後の手続きについては後日行う」
「承知しました」
ライはうなずいた。
すると、林藤が思い出したように付け加えた。
「そうそう。説明をする場所なんだけどね」
「はい」
「今の本部はまだ建設途中だろう? だから、旧ボーダー本部を使うことになると思う」
「旧ボーダー本部……ですか?」
「そう。今は俺が管理している場所だから、次はそこに来てもらうことになるね」
「わかりました。よろしくお願いいたします」
ライは、次に訪れる場所を心に留めた。
まだ知らないことばかりだが、これから自分が関わることになる場所なのだ。
一つずつ学んでいこう。
そう考えながら、ライは三人にもう一度礼を述べ、迅とともに部屋を後にした。
建設途中の本部を出ると、外はすっかり夕暮れに染まっていた。
赤みを帯びた空の下、二人は並んで歩き始める。
しばらくは、どちらも口を開かなかった。
やがて、ライが先に沈黙を破った。
「迅君。今日は本当にありがとう」
「ん? 何が?」
「君が誘ってくれなければ、僕はここに来ることもなかったと思うから」
「そっか。でも、決めたのはライ先輩自身だろ?」
迅は、いつもの調子で答えた。
「俺はきっかけを作っただけ。入隊するかどうかは、ライが決めたことだよ」
「……そうだね」
ライは小さく笑った。
「それでも、感謝しているよ」
「どういたしまして!」
迅は胸を張って答える。
それから、少しだけ顔を覗き込んできた。
「ところで、ライ先輩。一つ聞いてもいい?」
「何かな?」
「今日、俺が言ったこと。気になってるんじゃない?」
「……サイドエフェクトのことかな?」
「正解!」
迅は楽しそうに笑った。
ライは、やはりそうかと納得しつつ、率直に尋ねた。
「それは、どういうものなんだい?」
「うーん……それはまた今度、ちゃんと説明するよ。今はまだ、知らないことも多いだろうし」
「そうか。わかった」
ライは無理に追及しなかった。
「ただ、君が僕のことをそこまで評価してくれたのは、嬉しかったよ」
「おう。期待してるからな、ライ先輩!」
「期待に応えられるよう、努力するよ」
「いやいや、そんなに肩に力を入れなくてもいいって。まずはボーダーのことを知るところからだな!」
「それもそうだね」
二人は笑い合った。
やがて、帰路の分かれ道が見えてきた。
「じゃあ、俺はこっちだから。また連絡するよ!」
「うん。今日はありがとう、迅君。またね」
「またな、ライ先輩!」
迅は手を振り、夕暮れの街へと駆けていった。
その背中を見送ってから、ライもゆっくりと歩き出した。
ボーダーへの入隊が決まった。
これから何を学び、どんな人たちと出会い、どんな経験をすることになるのか。
まだ何一つ、具体的なことはわからない。
それでも、後悔はなかった。
ライは夕暮れの空を見上げる。
日本で過ごす一年間は、当初思い描いていたものとは、まったく違う時間になるのかもしれない。
だが、それも悪くない。
「……さて、まずは家族に報告しないとね」
小さくつぶやき、ライは帰宅の途についた。