ワールドトリガー LOSTCOLARS   作:淫獣撲滅委員

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第四話 旧ボーダー本部

 翌朝。

 ライ・アッシュフォードは、旧ボーダー本部の門前に立っていた。

 昨日、迅から聞いた話では、ここがかつて旧ボーダーの拠点として使われていた場所らしい。

 現在は新たなボーダー本部の建設が進められているものの、まだ組織としての体制は整っていない。

 そのため、旧ボーダーの関係者たちは引き続きこの場所を拠点として活動しているのだという。

「……ここが、旧ボーダー本部か」

 建物を見上げながら、ライは静かにつぶやいた。

 昨日、入隊を認められたばかりの身としては、まだ実感が湧かない。

 これから自分は、ここで戦うための技術を学ぶことになる。

 どんな人たちがいるのだろうか。

 そんなことを考えていると、門の向こうから見覚えのある二人が歩いてきた。

「おっ、ライ先輩! おはようございます!」

 迅悠一だった。

 隣には、昨日の面談で顔を合わせた林藤匠がいる。

「おはよう、迅君。林藤さんも、おはようございます」

「おはよう、ライ君。朝早くからご苦労さま」

林藤は気さくな笑みを浮かべた。

「昨日はよく眠れたかな?」

「はい。少し緊張はしていましたが、問題ありませんでした」

「そりゃよかった。今日はボーダーの基礎から説明するからね。わからないことがあったら、遠慮なく聞いてくれ」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

ライが丁寧に頭を下げると、迅が横から口を挟んだ。

「ライ先輩、そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ。林藤さん、見た目よりずっと気さくだし」

「おい迅。そりゃどういう意味だ?」

「いやあ、褒めてますって!」

「本当かねえ?」

 林藤が苦笑する。

 そんな二人のやり取りに、ライも思わず笑みをこぼした。

「なるほど。確かに、お二人は普段からこういう雰囲気なんですね」

「そうそう。こんな感じで気楽にやっていこう!」

 迅は満足そうにうなずき、建物の中へと歩き始めた。

 ライもその後に続く。

 彼の新しい生活が、いよいよ始まろうとしていた。

 

 旧ボーダー本部・リビング

 建物の中は、外観から想像していたよりも生活感があった。

 廊下を進み、案内されたリビングに入ると、そこには二人の人物がいた。

 一人は、ライより少し年上に見える女性。

 もう一人は、まだ少年と呼ぶべき年齢ながら、落ち着いた雰囲気を持つ少年だった。

「おう、みんな、おはよう。こちらが昨日話していた、ライ・アッシュフォード君だよ」

 林藤が紹介すると、女性が立ち上がった。

「初めまして。林藤ゆりです。よろしくね、ライ君」

「初めまして。ライ・アッシュフォードです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 ゆりはライの丁寧な挨拶に、柔らかく微笑んだ。

「ふふ、ずいぶん礼儀正しいのね。そんなに緊張しなくても大丈夫よ」

「ありがとうございます。ですが、これからいろいろと教えていただく立場ですので」

「真面目だなあ」

 ゆりが感心したように言うと、隣の少年も軽く頭を下げた。

「木崎レイジだ。よろしく」

「よろしくお願いします、木崎君」

「レイジでいい。ここでは、あまり堅苦しく考えなくていいからな」

「わかりました。では、僕のこともライと呼んでください」

「わかった、ライ」

 短いやり取りだったが、ライは二人の人柄を少しだけ理解できた気がした。

 ゆりは親しみやすく、木崎は口数こそ多くないものの、こちらを気遣ってくれている。

「さて、それじゃあ本題に入ろうか」

 林藤が席に着き、ライにも座るよう促した。

「今日はボーダーで使われている技術について、基礎から説明していくよ。まずは、ゆりにお願いしようかな」

「はい、任せてください」

 ゆりはテーブルの上に資料を広げた。

「ライ君。まず、ボーダーの活動を理解するうえで欠かせないものがあるの。トリオンとトリガーよ」

「トリオンとトリガー……」

 ライは資料に目を落とし、二つの言葉を頭の中で繰り返した。

「順番に説明するわね。まずトリオン。これは、人間の体内で生成される特殊なエネルギーのことなの」

「人間の体内で生成されるエネルギー、ですか。筋力や体力とは別のものなのでしょうか?」

「ええ。筋力や体力とは別物よ。トリオンは、トリオンを使うための器官であるトリオン器官によって生み出されるの。人によって、その量には大きな個人差があるわ」

「では、体格や運動能力が優れている人ほど、トリオン量も多いというわけではないのですね?」

「その通り。体を鍛えればトリオン量も比例して増える、という単純なものではないのよ」

 ライはうなずき、資料の余白に簡単な図を書き込んだ。

「なるほど……。人間の体には、通常の身体能力とは異なる尺度が存在している。トリオン量は、その尺度における個人差を示すもの……という理解でよろしいでしょうか?」

「ええ、そんな感じね。理解が早いわね」

「いえ、説明がわかりやすいおかげです」

 ライは素直に答えた。

 ゆりは少し嬉しそうに笑い、説明を続ける。

「そして、トリオンを利用するための装置がトリガー。ボーダーでは、これを使って戦闘や防衛活動を行うの」

「トリガーというのは、誰でも使えるものなのですか?」

「基本的には、トリオンを扱える人なら使うことができるわ。ただし、トリガーの種類や使い方によって、必要な技術は変わってくるの」

「なるほど。道具そのものが強さを決めるのではなく、使い手の技術も重要になるのですね」

「そうね。トリオン量が多くても、使いこなせなければ十分な力は発揮できないわ」

 ライは少し考え込んだ。

「では、トリガーは単なる武器というよりも、トリオンを利用するための汎用的な装置と考えたほうがよさそうですね」

「ええ。いいところに気づいたわね」

 ゆりは資料の一部を指さした。

「現在、私たちが主に使っているのは、戦闘用のトリガーよ。ライ君にも、まずは基本的なものを覚えてもらうことになるわ」

「それは楽しみです」

 ライの表情には、好奇心が浮かんでいた。

 未知の技術を学ぶこと自体が、彼にとって大きな刺激になっているようだった。

 その後も、ライは説明を聞きながら、適宜質問を投げかけた。

 トリオンを消費するとどうなるのか。

 トリオンが尽きた場合、トリガーは使えなくなるのか。

 トリガーの性能は、使用者のトリオン量によってどの程度変わるのか。

 ゆりは一つひとつ丁寧に答え、ライもその内容を自分なりに整理していった。

「……ありがとうございます。だいぶ理解できてきました」

「どういたしまして。ここまで質問してくれると、説明する側としても助かるわ」

 ゆりが笑うと、木崎も口を開いた。

「わからないことをそのままにしないのは大事だ。実際に使うときは、知識が足りないだけで危険なこともあるからな」

「確かに。理解が曖昧なまま使うのは避けるべきですね」

 ライは真剣な顔でうなずいた。

 そんな彼を見て、迅が感心したように声を上げる。

「いやあ、ライ先輩、ほんとに飲み込みが早いですね。昨日の面談でも思ったけど、話を聞いて自分なりに整理するのが得意なんだな」

「そうかな? 知らないことを学ぶのは、昔から好きなんだ」

「それはボーダー向きかもしれないね」

 林藤は満足そうにうなずいた。

 

一通りのトリガーについて説明が終わったところで、林藤が資料を片づけた。

「よし。じゃあ、次はボーダーが何と戦っているのか、という話をしようか」

ライは自然と姿勢を正した。

「ネイバーと、近界についてですね」

「おっ、もう覚えていたのか」

「昨日、迅君から少しだけ聞きました。街を襲った怪物についても、何か関係があるのだろうと思っています」

「その通りだよ」

 林藤はうなずいた。

「まず、俺たちがネイバーと呼んでいるのは、こちらの世界とは別の世界――近界からやって来る存在のことだ」

「別の世界……」

 ライはその言葉を慎重に反芻した。

「つまり、遠く離れた国や地域ではなく、物理的に異なる世界という理解でいいのでしょうか?」

「そういうこと。近界には、こちらの世界とは異なる環境や文明が存在している。そして、そこに住む者たちをネイバーと呼んでいるんだ」

「では、ネイバーは必ずしも、あの日に街を襲ったような怪物の姿をしているわけではないのですね?」

 林藤は、少し感心したように眉を上げた。

「その通り。ネイバーというのは、特定の姿をした生物を指す言葉じゃない。近界に住む者たちをまとめて呼ぶ言葉なんだ」

「なるほど……」

 ライは腕を組み、考えをまとめる。

「では、僕たちが直接見た大型の怪物は、ネイバーそのものというより、ネイバー側が戦闘などに用いる兵器である可能性もある、と」

「いいところに気づいたね。実際、ああいうのはトリオン兵と呼ばれている」

「トリオン兵……」

「トリオンを使って作られた兵器だよ。近界には、そうした兵器を使って戦う者たちがいるんだ」

 ライは、侵攻の日の光景を思い返した。

 建物を破壊する巨大な怪物。

 人々を襲う異形の存在。

 そして、それらに立ち向かった旧ボーダーの隊員たち。

「では、ボーダーの役割は、近界からの侵攻を防ぐこと。そして、こちらの世界に住む人々を守ること……という理解でよろしいでしょうか?」

「基本的には、そう考えてくれていい」

 林藤は真面目な表情で答えた。

「ただし、近界そのものが一枚岩というわけでもない。向こうにもいろいろな国や勢力がある。すべてのネイバーが、こちらの世界を侵略しようとしているわけじゃないんだ」

 ライは少しだけ目を見開いた。

「……そうなのですか?」

「そう。だからといって、危険がないわけじゃない。実際に侵攻してくる連中もいるし、俺たちはこの世界を守らなきゃならない」

「理解しました」

 ライは静かにうなずいた。

「相手のことを正しく知ることと、自分たちを守ること。その二つを両立させる必要があるのですね」

「そういうことだね」

 林藤は、どこか満足そうに笑った。

「君は物事をよく考えるタイプみたいだ。実際に活動するようになっても、その姿勢は大事にしてほしい」

「はい。ありがとうございます」

 ライは、近界とネイバーについての説明を、頭の中で整理していった。

 未知の世界からやって来る存在。

 そこには危険もあるが、単純に敵と味方だけで割り切れるものではないらしい。

 いつか、自分自身の目で確かめる機会があるのだろうか。

 そんなことを考えながら、ライは資料を見つめていた。

 

 説明が一段落すると、ゆりが席を立った。

「それじゃあ、次はライ君自身のトリオン量を測定してみましょうか」

「僕の、ですか?」

「ええ。トリガーを使ううえで、自分のトリオン量を把握しておくことは大切なの」

「わかりました。お願いします」

 ライはゆりに案内され、測定用の機器が置かれた部屋へ移動した。

 機器の前に立ち、指示に従って測定を受ける。

 しばらくすると、数値が表示された。

 ゆりは画面を確認し、目を丸くした。

「……えっ?」

「どうしたんですか、ゆりさん?」

 迅が横から画面を覗き込む。

 木崎も近づいてきた。

 表示されていた数値は――11。

 ゆりは、もう一度数値を確認してからライを見た。

「ライ君、トリオン量は11よ」

「11……。それは、どのくらいの数値なのでしょうか?」

「かなり高い部類ね。少なくとも、入隊したばかりの新人としては十分に恵まれているわ」

「へえ……!」

 迅が感嘆の声を上げた。

「ライ先輩、やりましたね!」

「いや、僕自身はまだ、何がどの程度なのかもわかっていないからね」

ライは落ち着いて答えたが、ゆりは少し驚いた表情を残していた。

「木崎君と同じ数値なのよ」

「俺と?」

 木崎も画面を見直した。

「確かに11だな」

「木崎君と同じ……」

 ライは木崎へと視線を向けた。

 自分よりも先にトリガーを扱い、実戦を経験している少年。

 その木崎と同じトリオン量だというのは、意外な結果だった。

「でも、トリオン量が同じだからといって、戦闘能力まで同じというわけではありませんよね?」

 ライが尋ねると、ゆりはすぐにうなずいた。

「もちろん。トリオン量は、あくまで判断材料の一つよ。戦闘経験や技術、状況判断、トリガーとの相性も関わってくるわ」

「わかりました。数値に満足せず、技術を磨く必要があるということですね」

「そういうこと」

 木崎はライを見て、静かに言った。

「その考え方なら、問題ないだろうな」

「ありがとうございます、木崎君」

「レイジでいいって」

「……ありがとう、レイジ」

 ライが言い直すと、木崎は小さくうなずいた。

 一方、迅はというと、何やら楽しそうに笑っていた。

「いやあ、これは面白くなりそうだなあ」

「迅君。何か?」

「いや、なんでもないですよ!」

迅はあっさりとごまかした。

その様子を見たライは少し首をかしげたが、追及することはなかった。

 

「……んん……」

 そのときだった。

 リビングの上階から、眠たげな声が聞こえてきた。

 続いて、階段をゆっくりと下りる足音。

「……うるさいわねえ。朝から、何を騒いでるのよ……」

 姿を現したのは、小柄な少女だった。

 赤みがかった髪。まだ眠気の残る目。寝起き特有のぼんやりとした表情。

 彼女は階段を下りきると、リビングにいる面々を見渡した。

 そして、何事もなかったかのように欠伸をした。

「……おはよ」

 数秒間の沈黙。

 最初に口を開いたのは、林藤だった。

「おや。ようやく起きたか、小南」

「ほんと、やっと起きてきたわねえ」

 ゆりが呆れたように笑う。

「もう昼に近い時間だぞ」

木崎も淡々と告げた。

「いや、まだ朝でしょ……」

 少女――小南桐絵は不満そうに口を尖らせた。

 迅は肩を揺らして笑っている。

「小南、今日も寝坊かよ!」

「うるさいわね、迅!」

 小南は迅を睨んだ。

「だいたい、あんたが朝から騒ぐからでしょうが!」

「ええっ!? 俺のせい!?」

 いつものことなのだろう。

 周囲の面々は、特に驚くこともなく二人のやり取りを眺めていた。

 そんな中、ライだけが少し違うことを考えていた。

――サクラもこんなふうに寝起きに機嫌が悪くなることがあったな。

 イギリスに残してきた三歳年下の妹。

 朝、起こしに行くと布団から出たがらず、声をかけると不満そうに頬を膨らませることがあった。

 もちろん、小南とサクラは別人だ。

 それでも、眠たげな表情で不機嫌そうにしている姿には、どこか懐かしさを覚えた。

 ライは穏やかな笑みを浮かべ、一歩前へ出た。

「初めまして。ライ・アッシュフォードと申します。朝からお邪魔していて、すみません」

「……え?」

 小南の動きが止まった。

 彼女は初めて見る少年――銀髪のライを、じっと見つめた。

 そして。

「……っ!」

 驚いたように目を見開くと、林藤の背後へ素早く隠れてしまった。

「り、林藤さん! 誰よ、この人!?」

「いや、昨日話しただろう。新しく入ることになったライ君だよ」

「聞いてないわよ!」

「いや、言ったって」

「聞いてない!」

 林藤は困ったように頭をかいた。

 ゆりは口元を押さえて笑い、木崎は小さくため息をついた。

 迅に至っては、腹を抱えて笑っている。

「小南、知らない人がいるからって隠れるなよ!」

「うるさい! あんたは黙ってなさい!」

 ライは、困ったように笑った。

 どうやら、自分が驚かせてしまったらしい。

「小南さん、ですね?」

 林藤の背後から、少女の目だけがこちらを覗いていた。

 ライは彼女を怖がらせないよう、少し距離を取ったまま、体を屈めてゆっくりと話しかけた。

「突然来てしまって、ごめんなさい。僕はライ。今日からこちらで、いろいろと教えていただくことになったんです」

「……ライ?」

「はい。君のお名前を伺ってもいいかな?」

 小南は警戒した様子でライを見つめた。

「……小南、桐絵」

「小南桐絵さん。素敵なお名前ですね」

「……そ、そう?」

 小南の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

「うん。これからよろしくね、小南さん」

「……べ、別に。よろしくしてあげてもいいけど」

 まだ林藤の背後から半分ほどしか姿を見せていないが、先ほどよりは警戒が薄れているようだった。

 迅がにやにやと笑う。

「おっ、小南、もう打ち解けたのか?」

「打ち解けてないわよ!」

「はいはい」

「迅!」

 また始まった二人の言い合いに、ライは思わず笑った。

 この場所には、気兼ねなく言い合える仲間がいる。

 それは、ライにとって少し羨ましくもある光景だった。

 

「さて、そろそろ実際にトリガーを使ってみようか」

 林藤が手を叩いた。

「知識だけじゃ、わからないことも多いからね。ライ君、準備はいいかな?」

「はい。よろしくお願いします」

 一行は、旧ボーダー本部の奥にあるシミュレーションルームへと向かった。

 室内には訓練用の設備が整えられていた。

 ゆりが、ライに基本的な説明を行う。

「トリガーを起動すると、トリオンを使ってトリオン体に換装することができるわ。トリオン体は、戦闘を行うために作られた身体。生身の身体よりも戦闘に適しているの」

「では、通常の身体から、戦闘用の身体へと切り替えるわけですね」

「そうよ。トリオン体なら、ある程度のダメージを受けても生身の身体には直接影響しない。ただし、トリオン体が破壊されれば換装が解けることになるし、何をしても安全というわけではないわ」

「わかりました。過信せず、まずは身体の感覚を確かめることにします」

 ライは手渡されたトリガーを確認した。

 現時点で使用するトリガーは、近接戦闘用の孤月のみ。

「じゃあ、トリガー起動して」

 ゆりの合図を受け、ライはトリガーを構えた。

「トリガー、オン!」

 次の瞬間、ライの身体がトリオン体へと切り替わった。

 視界が変化する。

 身体の感覚が、生身のときとは明らかに違う。

 ライはゆっくりと指を開閉し、腕を動かした。

「……これは、すごいですね」

「どう? 違和感はある?」

 ゆりが尋ねる。

「最初は少しありましたが、すぐに慣れそうです。身体の反応が、普段よりも素直に返ってくるような感覚があります」

 ライはその場で軽く足踏みをした。

 一歩、二歩。そして、軽く跳躍する。着地。

 次に、少し速度を上げて走ってみる。

「……おお」

 迅が感嘆の声を上げた。

 ライはシミュレーションルームの中を走り、急停止し、方向を変え、再び走る。

 その動きは、初めてトリオン体に換装した者とは思えないほど滑らかだった。

 もちろん、まだ戦闘技術を身につけたわけではない。

 だが、自分の身体を把握し、動きを調整する能力が高いことは明らかだった。

「初めてにしては、ずいぶん動けるな」

 木崎が感心したように言った。

「身体の動かし方を理解するのが早いのね」

 ゆりも驚いていた。

 林藤は腕を組み、ライの動きを注意深く観察している。

「これは、少し試してみてもよさそうだな」

 林藤が操作卓に向かった。

「ライ君。これから、トリオン兵を出すから。最初は一体だけだ。戦闘経験のない君に無理はさせないから、まずは動きを見てみよう」

「わかりました」

 ライは腰に差していた孤月を抜く

 手の中に握った刀身を見つめる。

「これが、孤月……」

 軽く振る。

 風を切る音が、シミュレーションルームに響いた。

 ライは構えを取り、正面を見据える。

「準備はできています」

「よし。それじゃあ、始めようか」

 林藤が操作卓を操作した。

 訓練区画の奥に、トリオン兵が一体出現する。

 モールモッド。

 鋭い脚と刃のような前肢を持つ、近接戦闘型のトリオン兵だ。

 ライは一度、相手の姿を観察した。

 脚の構造。重心。前肢の動き。そして、自分との距離。

「……なるほど。単純に正面から斬りかかるより、相手の動きを誘導したほうがよさそうですね」

「おっ、もう分析してる」

 迅が楽しそうにつぶやいた。

 モールモッドがライへ向かって突進した。

 ライは慌てない。

 相手が攻撃に移る直前、半歩だけ横へずれる。

 モールモッドの前肢が空を切った。

 その瞬間、ライは踏み込んだ。

 孤月が閃く。

 モールモッドの身体が両断され、光となって消えた。

 シミュレーションルームに、短い沈黙が落ちる。

「……え?」

 ゆりが目を丸くした。

「今の、初めてよね?」

「はい。実戦はもちろん、トリオン兵と戦うのも初めてです」

 ライは正直に答えた。

「ただ、動きに一定の規則があるように見えたので、それを利用しました」

「いやいやいや……」

 迅が思わず声を上げた。

「初めてでそれは、ちょっとすごすぎません?」

「そうかな?」

 ライは不思議そうに首をかしげた。

 木崎は、先ほどよりも真剣な目でライを見ていた。

「……もう少し見てみたいな」

 林藤も同じ考えだったようだ。

「よし。では、次は二体だ」

 再び、モールモッドが出現した。

 今度は二体。

 ライは孤月を構え直す。

 一体目が接近する。

 ライはその攻撃を受け流すのではなく、距離を調整しながら後退した。

 二体目が横から回り込もうとする。しかし、ライはすでにそれを見越していた。

 一体目を避ける動きの中で、二体目の進路を制限する位置へと移動していたのだ。

 結果として、二体のモールモッドはほぼ同じ方向から接近することになった。

 ライは一体目の攻撃をかわし、その隙に二体目へ斬りつける。返す刀で、もう一体も仕留めた。

「……なるほど。複数相手の場合、敵の数そのものよりも、同時に攻撃される状況を作らないことが重要なのですね」

 ライは戦闘を終えたあと、すぐに自分の動きを振り返っていた。

 林藤が感心したようにうなずく。

「いい視点だね。敵を一体ずつ相手にできる状況を作るのは、実戦でも大切なことだ」

 その後、トリオン兵の数を三体、四体と増やしていった。

 ライは一度も無謀に突っ込むことなく、地形と相手の動きを利用して戦った。

 当然、まだ熟練の隊員のような技術があるわけではない。剣筋にも粗さはあり、動きの選択にも改善の余地はある。

 しかし、戦闘中に状況を観察し、次の行動を決めるまでの速さは際立っていた。

 やがて林藤は、最後の課題として別のトリオン兵を呼び出した。

「それじゃあ、最後はこいつだ」

 出現したのは、巨大なトリオン兵――バムスターだった。

 大きな胴体を持ち、トリオン兵の中でも高い耐久力を誇るタイプだ。

 ライは刀を構え、相手を見上げた。

「……これは、先ほどのものより大きいですね」

「そうだね。単純な斬撃だけで倒すのは、少し難しいかもしれない」

 林藤はそう言ったが、ライは怯む様子を見せなかった。

「では、まずは動きを見てみます」

 バムスターが巨体を揺らしながら接近してくる。

 ライは真正面から受け止めようとはしなかった。

 相手の攻撃範囲を見極め、距離を保つ。

 そして、バムスターが大きく動いた瞬間、横へ回り込んだ。

 孤月を握る手に力がこもる。

 狙うのは、相手の動きが止まる一瞬。

「ここだ……!」

 鋭い踏み込み。

 孤月の刃が、バムスターの身体を斬り裂いた。

 一撃で完全に倒しきることはできなかったものの、ライは間髪入れずに体勢を立て直し、二撃目を繰り出した。

 今度は、相手の動きを妨げる位置を狙う。

 バムスターの巨体が傾く。その隙を逃さず、ライは最後の一撃を叩き込んだ。

 バムスターの身体が光となって消滅した。

 ライは孤月を下ろし、息を整えた。

「……以上です」

 シミュレーションルームが静まり返る。

 迅は満足げにニヤリと笑う。

 ゆりも、木崎も、林藤も、すぐには言葉を発しなかった。

 最初は、基本動作の確認をするだけのつもりだった。

 それが、気づけばモールモッドの複数体を相手にし、最後にはバムスターまで撃破している。

「……これは、予想以上だな」

 やがて林藤が、感心したように息を吐いた。

「トリオン量も十分。身体の使い方も悪くない。それに、状況判断がかなり早い」

「戦闘そのものは初めてなのに、相手の動きをよく見ているわね」

 ゆりも驚きを隠せない。

 木崎は腕を組み、ライを見据えた。

「剣の技術そのものは、まだ基礎から学ぶ必要がある。だが、戦い方を考える力はあるな」

「ありがとうございます。まだまだ、学ぶことばかりです」

 ライは素直に頭を下げた。

 その姿を見て、迅は苦笑する。

「いやあ……ライ先輩、謙虚なのはいいけど、さすがに今のは自信を持っていいと思いますよ」

「そうかな?」

「そうですよ!」

 迅が力強くうなずいた。

 そのときだった。

「……ちょっと!」

 鋭い声が、シミュレーションルームに響いた。

 全員が声のしたほうへ振り向く。

 そこには、小南が立っていた。

 先ほどまで眠たげだった表情は、すっかり消えている。

 代わりに、その瞳には強い興味と、挑戦的な輝きが宿っていた。

「何よ、あんた。初めてトリオン体になったばっかりなのに、ずいぶんやるじゃない!」

「小南さん?」

 ライが不思議そうに首をかしげる。

 小南はずんずんと歩み寄ってきた。

「でも、トリオン兵を倒せるからって、調子に乗らないことね!」

「それは、確かにそうだね」

「……な、何よ。素直に認めるの?」

「事実だからね」

 ライが穏やかに答えると、小南は一瞬だけ言葉に詰まった。

 しかし、すぐに腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。

「いいわ。だったら、私と勝負しなさい!」

「勝負?」

「そうよ! あんたがどれくらい強いのか、私が直接確かめてあげる!」

 小南は自信満々に言い放った。

「言っておくけど、私は強いんだからね! トリオン兵なんかと戦うのとは、わけが違うんだから!」

 そう言うと、小南は自分のトリガーを手に取った。

 その手に現れたのは、通常の孤月とは異なる形状の武器。

 刀身が幅広く、斧のような形をした、彼女専用に調整された特注の孤月だった。

 小南はそれを肩に担ぎ、挑発するように笑った。

「さあ、ライ! 逃げるなんて言わないわよね?」

 ライは彼女の武器を見つめた。

 刀と斧。

 同じ孤月でありながら、形状も扱い方も大きく異なる。

 そして、目の前の少女は、先ほどまでの寝坊助とは思えないほど意欲に満ちていた。

 ライは少しだけ笑みを深めた。

「逃げるつもりはないよ、小南さん。ただ……」

「ただ、何よ?」

「君と戦えるのは嬉しいけれど、僕はまだ、ボーダーのことを学び始めたばかりなんだ。手加減はしなくていいけれど、怪我をしないように気をつけよう」

「~~~っ! あんた、私を子供扱いしてるでしょ!」

「そんなつもりはないよ」

「絶対に負けないんだから!」

 小南は顔を赤くして、斧型の孤月を構えた。

 その様子を見て、迅は楽しそうに笑い、木崎は静かに二人を見守る。

 林藤は頭をかきながら、ゆりへと目を向けた。

「……さて、どうする?」

 ゆりは小さくため息をつき、それでも口元には笑みを浮かべていた。

「こうなった桐絵ちゃんは、止めても聞かないでしょうね」

 ライは孤月を構え直した。

 目の前にいるのは、自分と同じボーダーの仲間になる少女。

 しかし、彼女が手にしている武器は、ライの持つ刀とは違う、特注の斧型孤月。

 一方は、これから経験を積んでいく新入り。

 もう一方は、幼いながらも確かな自信を持つ旧ボーダー隊員の少女。

 刀と斧。

 二人の視線が交差した。

「それじゃあ、小南さん。よろしくお願いします」

「ふん! その余裕、すぐになくしてあげるんだから!」

 こうして、ライ・アッシュフォードの旧ボーダーでの初日は、思いがけない模擬戦へと続いていくのだった。

 

 

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