世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
「……あの、どちら様ですか?」
それが、彼女から聞いた三度目の第一声だった。
昨日も、一昨日も会った。
名前を教え、言葉を交わした。
彼女が摘んできた薬草を運ぶのを手伝い、村の井戸端で他愛もない話をし、昨日の別れ際にはまた明日、と笑ってくれた。
けれど今、俺の目の前に立つ銀髪の少女は、見知らぬ旅人に向けるものと寸分違わぬ眼差しでこちらを見つめていた。
「……レイだ」
自分でも驚くほど、声が掠れていた。
「昨日も会っただろう。ここの井戸で」
「昨日、ですか?」
少女は小さく首を傾げた。
朝の陽光が、肩に流れる銀色の髪を淡く照らしている。
薄紫の瞳には困惑が浮かんでいたが、それ以上のものは見当たらなかった。
警戒でも、嫌悪でもない。
ただ、知らない人間に突然親しげに話しかけられたことへの、戸惑い。
「ええと……ごめんなさい。人違いではないでしょうか」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに沈んだ。
怒りは湧かなかった。
悲しみとも、少し違う。
強いて言えば、足元にあると思っていた地面が、音もなく消えてしまったような感覚だった。
「……そうかもしれないな」
俺は答えた。
少女は申し訳なさそうに微笑む。
「お探しの方、見つかるといいですね」
「ああ。ありがとう」
彼女は軽く頭を下げると、薬草の入った籠を抱え直し、石畳の道を歩いていった。
その背中を、俺はしばらく見つめていたが、振り返ることはなかった。
当然だ。
彼女にとって俺は、今朝初めて言葉を交わした、名前も知らない旅人なのだから。
村の中央にある古い鐘楼から、朝を告げる鐘の音が響いた。
カーン、カーン、カーン
その音を聞きながら、俺はようやく理解し始めていた。
これは、単なる物忘れではない。
少なくとも、俺が知っている物忘れとは違う。
この世界は、俺という人間を覚えておくことができない。
*
三日前のことだ。
俺は知らない森の中で目を覚ました。
いや、正確には、目を覚ましたと思った。
最後に覚えているのは、雨に濡れたアスファルトと、視界いっぱいに広がった白い光だ。
劈くような音が耳を刺し、身体が浮いたような感覚があった。
それから先は、何も覚えていない。
死んだのだろう。
久瀬玲司、二十四歳。
どこにでもいる会社員だった。
特別な才能があったわけでも、人生に大きな不満を抱えていたわけでもない。
大学を出て、就職して、朝起きて、働いて、帰って眠る。
そんな日々を繰り返していた。
大きな夢を持たなかったことを後悔していたかと問われれば、そうでもない。
──少なくとも、あの日までは。
そして気づけば、俺は見知らぬ森の中にいた。
高く伸びた木々、湿った土の匂い、風に揺れる枝葉の隙間から、青白い空が覗いている。
身体を起こすと、見覚えのない粗末な服を着ていた。
財布も、携帯電話もない。
靴だけは履いていたが、それも革製の、ひどく古めかしいものだった。
状況を理解するまで、かなりの時間を要した。
夢かと思ったし、死後の世界かとも考えた。
あるいは、事故の衝撃で記憶に障害が生じ、どこか知らない土地へ運ばれたのかもしれない。
だが、どの仮説も目の前の景色を十分に説明してはくれなかった。
木々の間を飛ぶ、翼が四枚ある鳥。
苔むした地面を這う、淡く発光する虫。
そして、遠くから聞こえてきた、獣とも人間ともつかない奇妙な鳴き声。
俺の知っている世界ではなかった。
それだけは確かだった。
しばらく歩くと、森の中に古い石碑を見つけた。
人の背丈ほどの高さがあり、表面は風雨に削られて滑らかになっていた。
文字らしきものは見当たらない。
ただ、中央に細長い窪みが刻まれている。
不思議なことに、その周囲だけ草が生えていなかった。
俺は何となく石碑に触れようとした。
だが、指先が届く寸前、妙な感覚に襲われた。
忘れていた何かを、今まさに思い出しそうになったときの、あの感覚。
喉元まで出かかった言葉が、どうしても形にならない。
そんなもどかしさが、頭の奥に広がった。
結局、俺は石碑に触れなかった。
なぜそうしたのかは、自分でも分からない。
ただ、その場を離れなければならないと思った。
理由のない確信だった。
*
森を抜けた先に、小さな村があった。
石造りの家々が緩やかな斜面に並び、中央には井戸と広場がある。
遠くには畑が広がり、木製の柵の向こうで羊に似た動物が草を食んでいた。
俺はそこで、初めて人間と出会った。
畑仕事をしていた中年の男だった。
「おい、兄ちゃん。そんなところで何してる?」
驚いたことに、言葉が理解できた。
日本語ではなかった。
少なくとも、口の動きも、耳に届く音も、日本語とは明らかに違っていた。
それなのに、意味だけが自然と頭に入ってくる。
「……道に迷いました」
「道に? 森から来たのか?」
「はい」
「そりゃ危ねえ。あそこは魔物が出るぞ」
魔物。
その言葉を聞いて、俺はようやく、自分が置かれた状況を認めざるを得なくなった。
──異世界
そんな馬鹿げた単語が、頭に浮かんだ。
男はガルドと名乗った。
近くの農家で、村の事情にも詳しいらしい。
事情を話すと、彼は眉を顰めながらも、村の宿を教えてくれた。
金がないと分かると、倉庫の片づけを手伝う代わりに食事を用意してくれた。
ありがたかった。
見知らぬ世界で、最初に出会った人間が親切だったことは、幸運以外の何物でもない。
夕暮れには、仕事を終えたガルドが温かいスープを差し出してくれた。
「まあ、何があったか知らねえが、命があってよかったな」
「……そうですね」
「明日も困ったら来い。仕事くらいならある」
俺は何度も礼を言った。
その夜、村の宿で眠る前に、ようやく少しだけ安心できた。
知らない世界でも、人間は人間なのだ。
言葉が通じるし、助け合うこともできる。
これなら何とかなるかもしれない。
暗闇で一筋の光を見つけた、そんな感覚に喜びを隠せなかった。
だが、その喜びは目覚めると打ち砕かれることになる。
*
「……誰だ、お前?」
ガルドは、心底不思議そうな顔をしていた。
昨日と同じ畑。
昨日と同じ作業着。
昨日と同じ、日に焼けた顔。
なのに、その目に俺を知る色はなかった。
「昨日、世話になったレイです」
「レイ?」
「倉庫の片づけを手伝ったでしょう。スープもいただきました」
ガルドは顎に手を当てた。
「倉庫の片づけ……ああ、確かに昨日やったな」
「そうです。俺が手伝いました」
「いや、でもなあ」
男は首を捻った。
「誰かに手伝ってもらった気はするんだが……お前だったか?」
「そうです」
「そうか……?」
その反応は、あまりにも奇妙だった。
嘘をついているようには見えない。
まして、俺をからかっている様子でもなかった。
本当に思い出せないのだ。
だが、倉庫の片づけが終わっていることは覚えている。
誰かが手伝ったという事実も、ぼんやりと残っている。
そこから、俺という人間だけが抜け落ちていた。
それでもガルドは、俺が昨日の作業内容を詳しく説明すると、渋々納得した。
「まあ、俺も歳だからな。物忘れがひどくなったか」
そう言って笑った。
俺も笑った、笑うしかなかった。
その時点では、まだ偶然だと思いたかったのだ。
見知らぬ旅人の顔を、一晩で忘れてしまうことくらい、あるのかもしれない。
だが、その日の午後。
宿の主人も、俺を覚えていなかった。
「部屋を借りたい? 一泊なら銅貨三枚だよ」
「昨日から泊まっているんですが」
「昨日から?」
主人は帳簿を開いた。
そこには、確かに一部屋分の宿泊代が記されていた。
俺が昨日、労働の報酬として受け取った銅貨で支払ったものだ。
主人は帳簿と俺の顔を交互に見比べた。
「……おかしいね。確かに部屋は貸してるんだけど」
「覚えていませんか?」
「悪いねえ。最近、客が多くて」
宿は閑散としていた。
俺以外に泊まっている客がいるのかさえ怪しかった。
それでも主人は、申し訳なさそうに笑うだけだった。
その笑顔を見て、背筋に冷たいものが走った。
ガルドと同じだ。
出来事は覚えている。
だが、俺を覚えていない。
俺は自分の部屋に戻り、扉を閉めた。
そして、ベッドに腰を下ろしたまま、しばらく動けなかった。
窓の外では、子供たちの笑い声が聞こえていた。
荷馬車が石畳を進む音。
遠くで犬が吠える声。
何も変わっていない。
世界は、ごく当たり前に動いている。
異常なのは、俺だけだった。
*
その日の夕方、俺は一人の少女と出会った。
村の井戸端で、水桶を持ち上げようとしていた。
銀色の長い髪。
淡い紫の瞳。
年齢は十七、八歳ほどだろうか。
華奢な身体に似合わず、大きな籠を背負っていた。
「手伝おうか」
声をかけると、少女は驚いたように振り返った。
「えっ? あ、ありがとうございます。でも、大丈夫です」
「ずいぶん重そうだけど」
「慣れていますから」
そう言いながら持ち上げた水桶が、ぐらりと傾いた。
俺は反射的に手を伸ばした。
水が少しこぼれたが、桶は落とさずに済んだ。
「……ほら」
「すみません」
少女は恥ずかしそうに笑った。
「やっぱり、お願いしてもいいですか?」
「ああ」
彼女の名前はリシアといった。
村の外れに住み、薬草を採って生計を立てているらしい。
病人に薬草を届けることもあるという。
水桶を家まで運ぶ道すがら、俺たちはいくつか言葉を交わした。
この村のこと。
近くの森のこと。
最近、森で魔物が増えているという噂。
そして、俺が遠くから来た旅人だということ。
「レイさん、ですか」
「ああ」
「変わった名前ですね」
「そうか?」
「この辺りでは、あまり聞かないので」
リシアは穏やかに笑った。
「覚えておきますね」
その言葉が、妙に胸に残った。
──覚えておきますね
ごく普通の言葉だ。
人と人が出会えば、当然のように交わされる約束。
だが、その時の俺には、それがひどく大切なものに思えた。
「……ありがとう」
「え?」
「いや、何でもない」
彼女は不思議そうな顔をしたが、それ以上は尋ねなかった。
別れ際、リシアは小さく手を振った。
「また明日、レイさん」
俺も手を振り返した。
その瞬間だけは、明日になっても彼女が俺を覚えているような気がした。
根拠など何もなかったが、そうあって欲しいと願った。
*
翌朝、またリシアに会いに行った。
だが、リシアは俺を忘れていた。
予想はしていた。
それでも、実際に初対面の挨拶を向けられると、胸の奥が痛んだ。
俺は昨日の出来事を説明した。
水桶のこと。
薬草のこと。
彼女が森の奥へ行くことを心配していたこと。
リシアは驚いたように目を見開いた。
「……どうして、そんなことまで知っているんですか?」
「昨日、君から聞いたからだ」
「でも、私……」
彼女は困惑した。
俺を疑っているのではない。
自分の記憶を疑っているのだ。
その姿を見て、俺は説明をやめた。
これ以上続ければ、彼女を不安にさせるだけだ。
「悪かった。変なことを言った」
「いえ……」
「気にしないでくれ」
リシアは何か言いたそうにしていたが、結局、小さく頷き去っていった。
その日の午後、俺は村の雑貨屋で紙と筆記具を買った。
この世界の文字は不思議なことに読めたし、書くこともできた。
ただ、自分の名前を書こうとすると、手がわずかに震えた。
俺は最初の一枚に、こう記した。
『久瀬玲司。二十四歳。日本から来た』
次に、この世界で起こったことを、覚えている限り書き出した。
ガルドとの出会い。
宿の主人の反応。
リシアとの会話。
そして、二人が翌朝には俺を忘れていたこと。
書き終えると、しばらく紙を見つめた。
文字は消えなかった。
翌朝も、記憶と同じように消えてしまう、なんとことはなく残っていた。
それが唯一の救いだった。
俺の記憶が正しいという証拠。
俺が確かに誰かと出会い、言葉を交わしたという証拠。
少なくとも、紙の上では、俺は存在していた。
*
三日目の朝。
リシアは再び俺を忘れていた。
そして今、俺は村の広場に一人で立っている。
鐘楼の影が、石畳の上をゆっくりと伸びていた。
通り過ぎる村人たちは、俺を見ても何も言わない。
それ自体は当然のことだ。
見知らぬ旅人が一人立っている。
ただ、それだけなのだから。
だが、俺には分かっていた。
昨日挨拶を交わした老人も。
一昨日、道を教えてくれた女性も。
昨日、パンを売ってくれた店主も。
もう俺を覚えていないのだろう。
もし俺がこの村で十年暮らしたとしても、同じなのだろうか。
毎朝、隣人に自己紹介をする。
毎晩、友人に別れを告げる。
誰かと笑い合い、酒を飲み、肩を叩き合ったとしても、翌日にはすべてが失われる。
結婚をしたら、どうなる。
子供が生まれたら。
その子は、朝になるたび父親を忘れるのだろうか。
そこまで考えて、思考を止めた。
考えたくなかった。
自分が死んだとき、誰も悲しまない世界。
いや、違う。
そもそも、俺が死んだことにさえ気づかない世界。
それが、どれほど恐ろしいことなのか。
俺は初めて理解した。
人間は、誰かの記憶の中にも生きている。
自分の名前を呼んでくれる人間がいる。
昨日の出来事を共有できる相手がいる。
そんな当たり前のことが、どれほど人を支えているのか。
失って初めて分かった。
ふと空を見上げる。
とてもきれいな青空。
雲がゆっくりと流れている。
鳥が鳴いている。
どこかの家から、朝食の匂いが漂ってきた。
世界は美しかった。
その美しさが、ひどく残酷に思えた。
*
宿に戻ると、主人が声をかけてきた。
「お客さん、泊まりかい?」
昨日も聞いた言葉だった。
「……ああ」
「一泊、銅貨三枚だよ」
「知ってる」
「おや、そうかい」
主人は笑った。
俺も、かすかに笑った。
部屋へ戻り、机の上に置いた日記を開く。
最初のページには、自分の名前があった。
久瀬玲司
その下に、
前の世界での年齢
覚えている限りの住所
家族の名前
勤めていた会社の名前
そして、最後に一文。
『俺は、確かに存在している』
その文字を指でなぞった。
紙のざらつきが、指先に伝わってくる。
不意に、奇妙な疑問が浮かんだ。
もし、いつか俺自身が自分のことを忘れてしまったら。
そのとき、この日記は何を証明してくれるのだろう。
俺が書いたという事実すら、失われるのではないか。
しばらく考えてから、俺は新しいページを開いた。
そして、今日の日付の下に書き加えた。
『リシア・エルフェルト。銀髪、紫の瞳。薬草を採って暮らしている。三度会った。三度とも、俺を忘れた』
筆を置いた。
少し迷ってから、さらに一行を足した。
『それでも、明日また会いたいと思っている』
自分で書いたその文章が、妙に情けなく見えた。
なぜ、そんなことを思うのだろう。
彼女が特別な人間だからではない。
出会って三日しか経っていないし、互いのことを、ほとんど知らない。
それでも、彼女は俺の名前を呼んでくれた。
たった一度でも
その事実が、今の俺には必要だった。
俺は日記を閉じた。
窓の外では、夕暮れが近づいていた。
村の屋根が赤く染まり、遠くの森が黒い影になっている。
その森を見たとき、ふと、転生した直後に見つけた石碑を思い出した。
文字のない石碑、中央に刻まれた細い窪み。
そして、触れようとした瞬間に感じた、あの不可解な懐かしさ。
あれは一体何だったのだろう。
俺がこの世界に来たことと、何か関係があるのだろうか。
考えても答えは出なかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
この世界では、何かがおかしい。
そして、その何かは、俺自身と深く関わっている。
俺は再び日記を開いた。
最後のページに、短い文章を書き記す。
『明日、もう一度確かめる』
筆を止める。
少し考えてから、さらに書き足した。
『もし明日も忘れられていたら、この村を出よう』
それが、今の俺にできる精一杯の決意だった。
誰にも覚えてもらえない場所に、いつまでも留まる理由はない。
そう思った、そう思おうとした。
だが、窓の向こうに広がる森を見つめながら、俺はまだ知らなかった。
その森で、一人の少女が命を落とすことになっているということを。
そして、その死を覆すことが、どれほど大きな代償を生むのかということを。
このときの俺は、まだ何も知らなかった。
ただ、誰かに自分の名前を覚えていてほしかった。
それだけだった。