世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない   作:Suinovel

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第10話 焼け跡の証言

隣町ラウネへ続く街道には、まだ煙の匂いが残っていた。

火災から数日が過ぎたというのに、風が西から吹くたび、焦げた木と湿った灰の匂いが村まで届く。

治療所の窓から見える道を、家財を積んだ荷車が朝から何台も通り過ぎていった。

 

「行くつもりなのか」

「……できれば」

「できれば、じゃない。お前さんの傷はまだ塞がりきっておらん」

 

治療所の老人は包帯を巻き直しながら、露骨に眉をひそめた。

右肩は動かす角度によって刺すように痛み、脇腹の縫い目も長く歩けば熱を持つ。

それでも、ラウネから来た人々の話を聞いて以来、寝台の上で考え続けることには限界を感じていた。

 

「焼け跡を見れば、何か分かるかもしれません」

「分かったところで傷は治らんぞ」

「それは、そうですけど」

 

老人はため息をつき、薬草の匂いが染み込んだ布を脇へ置いた。

 

「荷車なら許す。歩くのは町の中だけ、それも短い時間だ。熱が出たらすぐ戻れ」

「ありがとうございます」

「礼を言うのは帰ってきてからにしろ」

 

言葉は厳しかったが、最後に渡された小瓶には痛みを和らげる薬が入っていた。

蓋を開けると苦い匂いが立ち上り、森で負った傷がまだ現実のものだと改めて思い知らされる。

 

*

 

ラウネへ向かう荷車には、焼け残った道具を引き取りに行くという中年の男が乗っていた。

名をトルマといい、町の外れで木工の仕事をしていたらしい。

彼の家は焼けずに済んだが、仕事場は半分ほど失われたという。

 

「火元は分かっているんですか」

「分からん。市場の裏だと言う者もいれば、南の倉庫だと言う者もいる」

「目撃した人は?」

「山ほどいるさ。ただ、話が合わない」

 

トルマは手綱を握ったまま、乾いた唇を舐めた。

 

「市場が燃えたとき、俺はもう南の鐘楼から鐘が鳴っていたと思う。だが、鐘守は最初の火を見てから鳴らしたと言い張るんだ」

「順番が違う?」

「それだけじゃない。あの日の鐘を、三度聞いたと言う者と、一度も聞いていないと言う者がいる」

 

鐘の音なら、遠くにいても届くはずだった。

風向きや建物の位置で聞こえ方が変わるとしても、同じ町にいた人々の証言がそこまで食い違うものだろうか。

 

「混乱していたんでしょうか」

「そうかもしれん。火事場で正確なことを覚えている人間なんて、そうはいない」

 

その説明はもっともだった。

もっともだからこそ、簡単に退けてはいけないとも思った。

 

*

 

ラウネの町門は、片側の木扉だけが黒く煤けていた。

門をくぐると、焼け落ちた屋根の向こうに白い空が広がり、壁だけ残った家々が歯の抜けた口のように並んでいる。

町の人々は黙々と瓦礫を運び、無事だった井戸の周りでは水桶が絶え間なく行き交っていた。

 

幼い子どもが、壊れた木馬を胸に抱いて立っていた。

母親らしい女性が呼ぶと、子どもは振り返り、木馬を置かずに走っていく。

その小さな背中を見送るうちに、ここで起きたことを自分の疑問のためだけに扱ってはいけないと思い直した。

 

「気になるなら、まず鐘守のところへ行ってみろ」

 

トルマが荷車を止め、町の中心に残った石造りの塔を指さした。

鐘楼の壁は黒く汚れていたが、上部は焼けずに残っている。

礼を言って荷車を降りると、足裏に伝わる石畳の硬さだけで脇腹が疼いた。

 

鐘楼の入り口には、背の曲がった男が腰掛けていた。

膝に古い時計を載せ、針を指で動かしては首を振っている。

 

「鐘守の方ですか」

「そうだが。鐘を見に来たのか、それとも火事の話か」

「火事の話を聞きたくて」

「なら座れ。立ち話をする顔色じゃない」

 

男は自分の隣を空けた。

名前を訊くと、ベルトと名乗った。

 

「最初に火を見たのは、いつですか」

「夕刻の鐘を鳴らす少し前だ。市場の向こうに赤い光が見えてな」

「そのあと鐘を?」

「ああ。火事を知らせる鐘を鳴らした。何度もな」

「何度も、ですか」

「数えられんほどだ。腕が痛くなるまで引いた」

 

トルマの話とは違う。

しかし、ここでどちらかを嘘つきだと決めつける理由もなかった。

 

「時計が止まったと聞いたんですが」

 

ベルトは膝の時計を見下ろした。

 

「こいつは火事のあとで拾った。針が動かんのは熱で中身が歪んだからだろう」

「ほかにも止まった時計があるんですか」

「ある。だが、全部じゃない。動いていたものもあるし、そもそも時計なんぞ持っていない家のほうが多い」

 

その答えに、少し安心した。

町中の時計が一斉に止まったなどという話なら、あまりに都合よく異常を示しすぎている。

 

「ただな」

 

ベルトは時計を裏返し、煤の付いた蓋を指先で叩いた。

 

「止まった時計を三つ見た。どれも、針がほとんど同じところにあったんだ」

「同じ時刻に?」

「正確には分からん。どれも時刻合わせが甘いからな。それでも、妙に似ていた」

 

時計の蓋の内側には、薄く刻まれた数字が見えた。

その数字を手帳に写そうとして、ふと手を止める。

まだ何も証明されていない段階で、似た時刻だけを並べれば、最初から望んでいた答えに見えてしまう。

 

「その三つは、どこにあったものですか」

「一つは市場の時計屋、もう一つは北通りの宿。こいつは南の倉庫からだ」

 

場所も、火にさらされた程度も違う。

それでも、同じように止まっていた。

偶然で片づけるには引っかかるが、偶然ではないと言うには材料が足りなかった。

 

*

 

市場へ向かう途中、通りの角で若い女性が瓦礫の山を前に立ち尽くしていた。

足元には割れた皿がいくつも並び、女性はその一枚を拾い上げては、元の場所に戻している。

 

「何か、お手伝いできることはありますか」

「……皿はもういいんです」

 

女性は顔を上げずに答えた。

 

「母が焼け跡を見たら、きっと探すから。先に拾っておこうと思って」

「お母さんは?」

「まだ、見つかっていません」

 

言葉が途切れた。

手を差し出すことさえ、ためらわれた。

 

「すみません。余計なことを訊きました」

「いいえ」

 

女性は首を横に振り、割れた皿を掌で包んだ。

 

「変なんです。母はいつも夕方になると店の戸を閉めるのに、あの日は閉めなかったんです」

「何か用事があったんでしょうか」

「分かりません。ただ、火が見える前に、母が『まだ早い』って言ったのを覚えています」

「まだ早い?」

「誰に言ったのかも分からなくて。私が訊いたら、母自身も驚いた顔をして……」

 

女性はそこで口を閉じた。

 

「すみません。こんな話、何の役にも立ちませんよね」

「そんなことはありません」

 

そう答えながら、役に立つかどうかを判断する立場ではないと気づいた。

この人が話しているのは謎の手がかりではなく、まだ帰ってこない母親との最後の会話なのだ。

 

「お母さんが戻られることを願っています」

 

ありきたりな言葉しか出てこなかったが、女性は小さく頭を下げた。

背を向けたあとも、皿が石に触れる乾いた音がしばらく耳に残った。

 

*

 

市場の焼け跡では、黒く曲がった金属の枠が地面から突き出していた。

時計屋の看板だったものらしく、焦げた文字が半分だけ読める。

店主は隣家の軒先で小さな部品を選り分けており、事情を話すと、壊れた懐中時計を二つ見せてくれた。

 

「火事の前から壊れていた可能性は?」

「もちろんある。ただ、こっちはその日の昼に直したばかりだ」

「修理した記録は残っていますか」

「帳面は焼けた。だから証明はできん」

 

店主は悔しそうに歯を食いしばった。

 

「こんなことを調べて、何になる」

「まだ分かりません」

「なら、分かってから来いと言いたいところだが……」

 

彼は時計を掌に載せ、煤を払った。

 

「火が回る直前、店の奥の魔石灯が一度だけ青くなった。いつもは黄色い光なのに」

「魔石灯が?」

「ああ。古い灯りだから故障かもしれん。だが、青くなった途端、壁の時計が止まった気がした」

 

魔石灯。

村の雑貨屋や治療所にも置かれている、魔石と術式で光を生む道具だ。

普通の火と違って油を使わないものもあると、旅の修理屋ノルドから聞いたことがあった。

 

「灯りは、今もありますか」

「粉々だよ。見せられるものは何もない」

 

店主の目が、崩れた店の奥へ向いた。

そこには商品も帳簿も、長い時間をかけて積み重ねてきた暮らしも残っていない。

 

「……ありがとうございました」

 

それ以上の質問はできなかった。

 

*

 

帰り道、脇腹の痛みが急に強くなった。

瓦礫を避けて歩いたせいか、足が重く、額には冷たい汗が滲んでいる。

町門の近くの石段に腰を下ろすと、傷の下で鼓動が打つたび、縫い糸が皮膚を引っ張るような感覚がした。

 

目を閉じれば、森で見た白い亀裂が浮かぶ。

あの瞬間にも、時間が止まったように感じた。

けれど、それとラウネの時計を結びつける証拠はない。

 

「顔が真っ白ですよ」

 

声に目を開くと、荷車の脇にリシアが立っていた。

村から届け物を運んできたらしく、手には包帯と薬草の入った籠を抱えている。

 

「どうしてここに?」

「治療所の先生に頼まれたんです。町に足りない薬を届けるようにって」

「そうだったのか」

「それより、怪我人がこんなところで何をしているんですか」

 

怒っているようで、声の端が震えていた。

 

「少し、調べたいことがあって」

「調べることは、今日じゃないと駄目だったんですか」

「……いや」

「じゃあ、帰りましょう」

 

彼女は籠を荷車へ置き、こちらへ手を伸ばした。

その仕草を見た途端、森の中で差し出した手の感触が蘇る。

あのときは命をつなぐために必死だったのに、今は立ち上がるだけの助けを借りようとしている。

 

「ありがとう」

「お礼は、ちゃんと休んでからにしてください」

 

リシアは少しだけ笑った。

目の前の男が森で自分を助けた人だとは、やはり気づいていない。

それでも、傷ついた相手を放っておけない彼女の優しさは変わらなかった。

 

*

 

夕方、村へ戻るころには空が薄紫に染まっていた。

治療所の老人から叱責を受け、薬を飲まされて寝台へ戻ると、身体は鉛のように重かった。

 

それでも、眠る前に日記を開いた。

ラウネで聞いた証言を、まずは話した人ごとに分けて書く。

鐘が鳴った順番、同じような位置で止まった三つの時計、青く変わった魔石灯、火が見える前に「まだ早い」と言った女性。

 

最後の一つを書きかけて、筆先が止まった。

 

『まだ早い』。

 

森の記憶の底に沈んでいた、別の言葉が浮かび上がる。

白い空間で聞いた「まだ、駄目だ」という声だ。

二つの言葉は似ているが、同じ意味とは限らない。

似ているからといって、同じものにしてしまうのは危険だった。

 

日記の余白に線を引き、今日分かったことと、分からなかったことを分けた。

 

『確かなこと――ラウネでは火災が起き、多くの人が家や仕事を失った。鐘と時計について、証言に食い違いがある』

『確かでないこと――火災の原因。時計が止まった理由。森で起きた現象との関係』

 

その下に、もう一行だけ書き加える。

 

『同じ日に起きたからといって、片方がもう片方の代償だとは言えない』

 

書いてから、しばらく文字を見つめた。

そう言い聞かせなければならないほど、胸のどこかでは、二つの出来事がつながっていると恐れていた。

 

窓の外で夜の鐘が鳴る。

村の鐘はいつもどおりの間隔で響き、遠ざかる余韻も変わらなかった。

 

だが、その音が消える直前、ラウネの鐘守が語ったことを思い出した。

鐘を何度も鳴らしたはずなのに、聞いた回数が人によって違っていたという話だ。

 

もし、鐘の音が違っていたのではなく、音を聞いた人々の時間が、わずかにずれていたのだとしたら。

 

その考えを書き留めようとして、筆を止める。

今夜はまだ、推測を増やすより傷を休めるべきだった。

 

日記を閉じると、紙が重なり合う小さな音がした。

それは、遠くの鐘よりも近く、耳の奥で一度だけ響いた。

 

――第10話・了

 

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