世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない   作:Suinovel

11 / 22
第11話 救済の代価

朝、治療所の戸口に置かれた籠には、見覚えのない焼き菓子が二つ入っていた。

布の端に小さな紙片が挟まれ、『昨日は荷車まで付き添ってくださって、ありがとうございました』と書かれている。

差出人の名前はないが、筆跡は丁寧で、最後の文字だけ少し右へ傾いていた。

 

「お前さん宛てか?」

「たぶん、そうだと思います」

「たぶんとは何だ。礼を言われたなら素直に受け取れ」

 

治療所の老人は呆れたように笑い、薬瓶を棚に戻した。

昨日の帰り道、ラウネから避難してきた女性の荷車が溝に嵌まり、通りがかった村人と一緒に押したことを思い出す。

右肩を使えず、ほとんど声をかけるだけだったのだが、女性は何度も頭を下げていた。

紙に書かれた礼が自分へ向けられたものだと分かるのに、その人が今日もこちらの顔を覚えているとは限らない。

 

焼き菓子を一つ口に含むと、焦がした蜂蜜の香りが広がった。

甘さの後から、ラウネの焼け跡で嗅いだ煤の匂いが記憶の底から浮かび、噛む手が止まる。

救われた人がいる一方で、家に帰れない人もいる。

その二つを結びつける理由が見つからないまま、日付だけが増えていった。

 

*

 

昼前、ラウネの時計屋が村を訪ねてきた。

焼け残った部品を修理に出すため、こちらの鍛冶場へ寄ったという。

老人から声をかけられ、治療所の椅子に腰を下ろした男は、手にした革袋を膝の上へ置いた。

 

「前に時計のことを尋ねた旅人だな」

「覚えていてくれたんですか」

「昨日会ったばかりだろう。……いや、そういえば、顔を見たときは誰だったか分からなかったな」

 

男は気まずそうに眉を寄せた。

ラウネで話した内容は覚えていても、相手の顔と結びつくまでに時間がかかったらしい。

記憶の綻びがいつ、どこから始まるのかは、まだ掴めていない。

 

「一つ、気になったことがあって来た」

「時計の針ですか」

「ああ。それと、火事の前に店へ来た男のことだ」

 

時計屋は革袋から煤のついた金属片を取り出した。

薄い円盤の縁に細かな刻みがあり、歯のいくつかは熱で曲がっている。

 

「店に置いていた時計は、どれも同じ作りじゃない。魔石で動くものもあれば、錘を使うものもある。それなのに、火事のあと見つかった三つは、ほとんど同じ位置で止まっていた」

「同じ時刻に止まったとは限りませんよね」

「そのとおりだ。針が熱で動いた可能性もあるし、瓦礫の下で誰かが触ったかもしれん」

 

男はそこで言葉を切り、窓の外へ目をやった。

 

「ただ、火が出る少し前に、見知らぬ男が店へ来た。古い時計を直してほしいと言ってな」

「どんな男でした?」

「灰色の上着を着た、背の高い男だ。年はよく分からん。声が妙に静かだった」

 

店主は両手を膝に置き、何かを思い出そうとするように目を細めた。

 

「修理を頼んだのに、時計は置いていかなかった。代わりに、店の奥に積んであった魔石の箱を見て、『そこは危ない』と言ったんだ」

「危ない?」

「置き方が悪いのかと思った。だが、男は箱の位置を変えてから、もう一度だけ同じことを言った」

 

男が口にした言葉は、『そこではない』だったという。

 

「どういう意味か尋ねたんだが、返事をする前に客が来てな。目を離したら、いなくなっていた」

「箱はどこへ動かされたんですか」

「店の奥の壁際だ。火元とは離れていたはずなのに、そのあたりが一番ひどく焼けた」

 

火災の原因が魔石にあると決まったわけではない。

箱が動かされたことと、そこが強く焼けたことの間にも、説明できる理由はいくつも考えられた。

それでも、わざわざ位置を変えた男の行動には、何か意図があったように思える。

 

「その人を、ほかにも見た人は?」

「店の向かいの仕立て屋が、通りを歩く姿を見たと言っていた。だが、顔までは覚えていないそうだ」

「名前は分かりますか」

「聞かなかった。……聞くべきだったな」

 

時計屋は革袋を閉じた。

 

「火事の前に何があったのか、少しでも知りたいだけなんだ。俺の店だけなら諦めもつくが、隣の家には小さな子どもがいた」

「その子は?」

「助かった。母親が連れ出したんだ。ただ、父親はまだ見つかっていない」

 

短い沈黙が落ちた。

時計屋が語るのは謎ではなく、そこで暮らしていた人々の生活だった。

調べるための手がかりとして聞いていたことが、急にひどく身勝手に感じられた。

 

「……話してくれて、ありがとうございます」

「礼を言うのはこっちだ。聞いてくれる奴がいるだけで、少し楽になる」

 

男は立ち上がりかけ、ふと思い出したように振り返った。

 

「もう一つ。あの男が箱を動かしたとき、店の外にいた連中が、揃って通りの奥を見たんだ」

「何か見えたんですか」

「さあな。馬車でも通ったのかと思ったが、音はしなかった」

 

揃って、同じ方向を見る。

その言葉だけが、ほかの話とは違う重さで残った。

 

*

 

午後には、村の広場にラウネへの支援物資が集められていた。

焼け残った町へ運ぶ毛布や食料を、ガルドと数人の村人が荷車に積んでいる。

手伝おうと近づいたところで、右肩の包帯を見たガルドに追い払われた。

 

「お前は見てるだけにしろ。先生に叱られるのは俺までごめんだ」

「少しくらいなら」

「少しくらいで済まなかった奴の台詞だな、それ」

 

ガルドは笑ったが、しばらくして不思議そうにこちらを見た。

 

「……ところで、お前とは前にも畑で話したっけ?」

「何度か」

「そうか。すまん、最近どうも人の顔が頭に入らなくてな」

 

謝る必要はないと告げると、彼は荷車へ戻っていった。

最初に出会った頃と変わらない親しさが、何も知らないところからもう一度始まる。

慣れたつもりでいても、そのたび胸の内側が小さく削られた。

 

広場の端では、リシアが避難者の子どもに水を渡していた。

少年は片手に木製の小さな鳥を握り、もう片方の手で母親の服を掴んでいる。

ラウネの焼け跡で見かけた子どもに似ていたが、声をかける前に、母親が少年を連れて荷車の陰へ移動した。

 

「怖がらせてしまったかな」

 

独り言のつもりだったが、隣へ来たリシアに聞こえていた。

 

「知らない人が多くて、落ち着かないだけだと思います」

「そうだといいけど」

「……あの子、昨夜も何度も目を覚ましたそうです。火が見える夢を見たって」

 

リシアは広場へ目を向けたまま、声を落とした。

 

「助かったんだからよかった、と言う人もいます。でも、あの子にとっては、まだ終わっていないんですよね」

「うん」

「何かしてあげたいのに、薬だけじゃどうにもならないことが多くて」

 

その横顔には、森で見たときと同じ、誰かの痛みを自分のことのように受け止める真剣さがあった。

だからこそ、彼女を救ったことが別の災厄を呼んだのではないかという疑いを、口にすることはできなかった。

もし証拠もなく告げれば、リシアはきっと自分が生きていることを責め始める。

そんなことをさせるために、森で手を伸ばしたわけではない。

 

「できることを、少しずつやればいいと思う」

「……そうですね」

 

リシアは頷いたあと、こちらの顔を見上げた。

 

「不思議です。あなたと話していると、前にも同じことを言われた気がするんです」

「似たようなことを言う人は多いから」

「そうでしょうか」

 

彼女は考え込むように目を伏せ、それ以上は尋ねなかった。

覚えていないことを無理に掘り返させるより、今この瞬間の会話を大切にしたかった。

 

*

 

夕方、時計屋の話を確かめるため、ラウネから来た避難者たちに少しずつ尋ねて回った。

灰色の上着を着た男を見たという者は二人いたが、一人は荷車の御者だと言い、もう一人は市場の商人だったと答えた。

そもそも同じ人物を見たのかどうかも分からない。

 

ただ、奇妙な証言が一つだけ重なった。

火災が始まる前、通りにいた人々が、何かに呼ばれたように同じ方向へ顔を向けたという。

そのとき何が見えたのか尋ねても、誰もはっきりとは答えられなかった。

鐘楼を見た気がするという者もいれば、空を見上げただけだと言う者もいる。

 

「何か大きな音がしたのでは?」

「いいえ。音がしたなら、覚えていると思うんですけど」

「誰かが叫んだとか」

「それも……たぶん、なかったです」

 

答えてくれた若い女性は、自分の曖昧さに苛立ったように額を押さえた。

無理に思い出させようとするのをやめ、礼を言って離れた。

 

広場の石段に腰を下ろすと、脇腹がずきずきと痛んだ。

ラウネを歩いた翌日よりはましだが、傷が塞がるまでにはまだ時間がかかる。

それでも、今聞いた話は日記に残しておきたかった。

 

人々が同じ方向を見たことには、ありふれた理由があるかもしれない。

火事の前兆を誰かが見つけたのかもしれず、単に通りを走る犬を目で追っただけかもしれない。

証言が似ているからといって、それを世界の異常だと決めつけることはできなかった。

 

だが、時計屋の話を思い返すたび、もう一つの疑問が残る。

もし灰色の男が危険を予測していたなら、なぜ人々に避難を呼びかけなかったのか。

魔石の箱を動かしたのは火災を防ぐためだったのか、それとも、別の結果を起こすためだったのか。

 

考えを巡らせていると、荷車の車輪が石畳を軋ませた。

積み荷の端から毛布が一枚滑り落ち、拾い上げようとしたガルドが手を伸ばす。

その背後を、先ほどの少年が母親を追って駆け抜けた。

 

「危ない!」

 

声を上げると、ガルドは反射的に身体を引いた。

毛布は地面へ落ち、荷車も少年も何事もなく通り過ぎる。

たったそれだけのことだったが、胸の奥に残った緊張はなかなか解けなかった。

 

「助かった。危うくぶつかるところだったな」

「……間に合ってよかった」

 

ガルドは毛布を拾い、少年の母親に軽く頭を下げた。

誰も怪我をしなかったことを確かめると、周囲の人々はすぐにそれぞれの仕事へ戻っていく。

小さな危険を避けるために声を上げることは、村では珍しくもない。

 

その平凡さが、かえって胸に残った。

誰かを救ったからといって、必ず別の誰かが傷つくわけではない。

そう信じたい一方で、森の白い亀裂も、ラウネの火災も、まだ何一つ説明できていなかった。

 

*

 

夜、治療所へ戻ると、老人が卓上の魔石灯に火を入れていた。

淡い黄色の光が壁を照らし、瓶の影を細長く伸ばす。

その光を見て、ラウネの時計屋が語った青い灯りを思い出した。

 

「先生。魔石灯って、壊れる前に色が変わることはありますか」

「ものによる。術式が傷めば、明るさも色も変わるさ」

「じゃあ、青く光ったからといって、特別なことではない?」

「特別かどうかは、何が壊れたか次第だ。ノルドならもう少し詳しいだろうな」

 

旅の修理屋の名前に、少しだけ道筋が見えた気がした。

彼がまた村を訪れるなら、ラウネの魔石灯について尋ねてみよう。

 

寝台へ戻り、日記を開く。

今日聞いた話を、誰が何を見たか分かるように書き分けた。

 

『時計屋の証言――火災前、灰色の上着の男が店の魔石の箱を動かした』

『複数の証言――火災前、通りの人々が同じ方向を見たらしい』

『未確認――灰色の男が何を知っていたのか。箱の移動と出火に関係があるのか』

 

そこまで書き、筆を置いた。

紙の上では三行に収まる出来事の向こうに、焼けた家々と、戻らない人を待つ家族がいる。

それを忘れないため、次の行には火災の被害について聞いたことを書き足した。

 

『失われたものを、調査の材料としてだけ扱わないこと』

 

自分に向けた戒めだった。

 

窓の外では、村の夜が静かに深まっている。

遠くで人の笑い声がして、やがて途切れた。

鐘の音はまだ聞こえない。

 

第6話の森でリシアを助けた瞬間、空に走った白い亀裂。

ラウネの火災、止まった時計、青く光った魔石灯。

それらが一つの仕組みにつながっているのか、それとも、無関係な出来事に意味を見いだそうとしているだけなのか。

 

答えを出せないまま日記を閉じようとして、昼間の光景が蘇った。

ガルドが荷車から身を引いたとき、少年も母親も、何も起こらなかったように歩いていた。

危険に気づいていたのは、声を上げた自分と、振り返ったガルドだけだった。

 

それは当然のことだ。

見ていなければ、気づかない。

 

では、ラウネで通りの人々が一斉に振り返ったとき、彼らは何を見ていたのだろう。

誰も説明できないのは、見たものを忘れたからなのか。

それとも、最初から何もなかったのか。

 

窓を閉めようと身を起こしたとき、外を飛ぶ鳥が一羽、屋根の上を横切った。

その影を何気なく目で追い、すぐに視線を戻す。

夜の村は変わらず静かで、風に揺れる木の葉も、遠くを歩く人影も、普段どおりに動いていた。

 

今はまだ、何も起きていない。

 

そう思ったところで、なぜそんな確認をしたのか、自分でも分からなくなった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。