世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない 作:Suinovel
朝、治療所の戸口に置かれた籠には、見覚えのない焼き菓子が二つ入っていた。
布の端に小さな紙片が挟まれ、『昨日は荷車まで付き添ってくださって、ありがとうございました』と書かれている。
差出人の名前はないが、筆跡は丁寧で、最後の文字だけ少し右へ傾いていた。
「お前さん宛てか?」
「たぶん、そうだと思います」
「たぶんとは何だ。礼を言われたなら素直に受け取れ」
治療所の老人は呆れたように笑い、薬瓶を棚に戻した。
昨日の帰り道、ラウネから避難してきた女性の荷車が溝に嵌まり、通りがかった村人と一緒に押したことを思い出す。
右肩を使えず、ほとんど声をかけるだけだったのだが、女性は何度も頭を下げていた。
紙に書かれた礼が自分へ向けられたものだと分かるのに、その人が今日もこちらの顔を覚えているとは限らない。
焼き菓子を一つ口に含むと、焦がした蜂蜜の香りが広がった。
甘さの後から、ラウネの焼け跡で嗅いだ煤の匂いが記憶の底から浮かび、噛む手が止まる。
救われた人がいる一方で、家に帰れない人もいる。
その二つを結びつける理由が見つからないまま、日付だけが増えていった。
*
昼前、ラウネの時計屋が村を訪ねてきた。
焼け残った部品を修理に出すため、こちらの鍛冶場へ寄ったという。
老人から声をかけられ、治療所の椅子に腰を下ろした男は、手にした革袋を膝の上へ置いた。
「前に時計のことを尋ねた旅人だな」
「覚えていてくれたんですか」
「昨日会ったばかりだろう。……いや、そういえば、顔を見たときは誰だったか分からなかったな」
男は気まずそうに眉を寄せた。
ラウネで話した内容は覚えていても、相手の顔と結びつくまでに時間がかかったらしい。
記憶の綻びがいつ、どこから始まるのかは、まだ掴めていない。
「一つ、気になったことがあって来た」
「時計の針ですか」
「ああ。それと、火事の前に店へ来た男のことだ」
時計屋は革袋から煤のついた金属片を取り出した。
薄い円盤の縁に細かな刻みがあり、歯のいくつかは熱で曲がっている。
「店に置いていた時計は、どれも同じ作りじゃない。魔石で動くものもあれば、錘を使うものもある。それなのに、火事のあと見つかった三つは、ほとんど同じ位置で止まっていた」
「同じ時刻に止まったとは限りませんよね」
「そのとおりだ。針が熱で動いた可能性もあるし、瓦礫の下で誰かが触ったかもしれん」
男はそこで言葉を切り、窓の外へ目をやった。
「ただ、火が出る少し前に、見知らぬ男が店へ来た。古い時計を直してほしいと言ってな」
「どんな男でした?」
「灰色の上着を着た、背の高い男だ。年はよく分からん。声が妙に静かだった」
店主は両手を膝に置き、何かを思い出そうとするように目を細めた。
「修理を頼んだのに、時計は置いていかなかった。代わりに、店の奥に積んであった魔石の箱を見て、『そこは危ない』と言ったんだ」
「危ない?」
「置き方が悪いのかと思った。だが、男は箱の位置を変えてから、もう一度だけ同じことを言った」
男が口にした言葉は、『そこではない』だったという。
「どういう意味か尋ねたんだが、返事をする前に客が来てな。目を離したら、いなくなっていた」
「箱はどこへ動かされたんですか」
「店の奥の壁際だ。火元とは離れていたはずなのに、そのあたりが一番ひどく焼けた」
火災の原因が魔石にあると決まったわけではない。
箱が動かされたことと、そこが強く焼けたことの間にも、説明できる理由はいくつも考えられた。
それでも、わざわざ位置を変えた男の行動には、何か意図があったように思える。
「その人を、ほかにも見た人は?」
「店の向かいの仕立て屋が、通りを歩く姿を見たと言っていた。だが、顔までは覚えていないそうだ」
「名前は分かりますか」
「聞かなかった。……聞くべきだったな」
時計屋は革袋を閉じた。
「火事の前に何があったのか、少しでも知りたいだけなんだ。俺の店だけなら諦めもつくが、隣の家には小さな子どもがいた」
「その子は?」
「助かった。母親が連れ出したんだ。ただ、父親はまだ見つかっていない」
短い沈黙が落ちた。
時計屋が語るのは謎ではなく、そこで暮らしていた人々の生活だった。
調べるための手がかりとして聞いていたことが、急にひどく身勝手に感じられた。
「……話してくれて、ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだ。聞いてくれる奴がいるだけで、少し楽になる」
男は立ち上がりかけ、ふと思い出したように振り返った。
「もう一つ。あの男が箱を動かしたとき、店の外にいた連中が、揃って通りの奥を見たんだ」
「何か見えたんですか」
「さあな。馬車でも通ったのかと思ったが、音はしなかった」
揃って、同じ方向を見る。
その言葉だけが、ほかの話とは違う重さで残った。
*
午後には、村の広場にラウネへの支援物資が集められていた。
焼け残った町へ運ぶ毛布や食料を、ガルドと数人の村人が荷車に積んでいる。
手伝おうと近づいたところで、右肩の包帯を見たガルドに追い払われた。
「お前は見てるだけにしろ。先生に叱られるのは俺までごめんだ」
「少しくらいなら」
「少しくらいで済まなかった奴の台詞だな、それ」
ガルドは笑ったが、しばらくして不思議そうにこちらを見た。
「……ところで、お前とは前にも畑で話したっけ?」
「何度か」
「そうか。すまん、最近どうも人の顔が頭に入らなくてな」
謝る必要はないと告げると、彼は荷車へ戻っていった。
最初に出会った頃と変わらない親しさが、何も知らないところからもう一度始まる。
慣れたつもりでいても、そのたび胸の内側が小さく削られた。
広場の端では、リシアが避難者の子どもに水を渡していた。
少年は片手に木製の小さな鳥を握り、もう片方の手で母親の服を掴んでいる。
ラウネの焼け跡で見かけた子どもに似ていたが、声をかける前に、母親が少年を連れて荷車の陰へ移動した。
「怖がらせてしまったかな」
独り言のつもりだったが、隣へ来たリシアに聞こえていた。
「知らない人が多くて、落ち着かないだけだと思います」
「そうだといいけど」
「……あの子、昨夜も何度も目を覚ましたそうです。火が見える夢を見たって」
リシアは広場へ目を向けたまま、声を落とした。
「助かったんだからよかった、と言う人もいます。でも、あの子にとっては、まだ終わっていないんですよね」
「うん」
「何かしてあげたいのに、薬だけじゃどうにもならないことが多くて」
その横顔には、森で見たときと同じ、誰かの痛みを自分のことのように受け止める真剣さがあった。
だからこそ、彼女を救ったことが別の災厄を呼んだのではないかという疑いを、口にすることはできなかった。
もし証拠もなく告げれば、リシアはきっと自分が生きていることを責め始める。
そんなことをさせるために、森で手を伸ばしたわけではない。
「できることを、少しずつやればいいと思う」
「……そうですね」
リシアは頷いたあと、こちらの顔を見上げた。
「不思議です。あなたと話していると、前にも同じことを言われた気がするんです」
「似たようなことを言う人は多いから」
「そうでしょうか」
彼女は考え込むように目を伏せ、それ以上は尋ねなかった。
覚えていないことを無理に掘り返させるより、今この瞬間の会話を大切にしたかった。
*
夕方、時計屋の話を確かめるため、ラウネから来た避難者たちに少しずつ尋ねて回った。
灰色の上着を着た男を見たという者は二人いたが、一人は荷車の御者だと言い、もう一人は市場の商人だったと答えた。
そもそも同じ人物を見たのかどうかも分からない。
ただ、奇妙な証言が一つだけ重なった。
火災が始まる前、通りにいた人々が、何かに呼ばれたように同じ方向へ顔を向けたという。
そのとき何が見えたのか尋ねても、誰もはっきりとは答えられなかった。
鐘楼を見た気がするという者もいれば、空を見上げただけだと言う者もいる。
「何か大きな音がしたのでは?」
「いいえ。音がしたなら、覚えていると思うんですけど」
「誰かが叫んだとか」
「それも……たぶん、なかったです」
答えてくれた若い女性は、自分の曖昧さに苛立ったように額を押さえた。
無理に思い出させようとするのをやめ、礼を言って離れた。
広場の石段に腰を下ろすと、脇腹がずきずきと痛んだ。
ラウネを歩いた翌日よりはましだが、傷が塞がるまでにはまだ時間がかかる。
それでも、今聞いた話は日記に残しておきたかった。
人々が同じ方向を見たことには、ありふれた理由があるかもしれない。
火事の前兆を誰かが見つけたのかもしれず、単に通りを走る犬を目で追っただけかもしれない。
証言が似ているからといって、それを世界の異常だと決めつけることはできなかった。
だが、時計屋の話を思い返すたび、もう一つの疑問が残る。
もし灰色の男が危険を予測していたなら、なぜ人々に避難を呼びかけなかったのか。
魔石の箱を動かしたのは火災を防ぐためだったのか、それとも、別の結果を起こすためだったのか。
考えを巡らせていると、荷車の車輪が石畳を軋ませた。
積み荷の端から毛布が一枚滑り落ち、拾い上げようとしたガルドが手を伸ばす。
その背後を、先ほどの少年が母親を追って駆け抜けた。
「危ない!」
声を上げると、ガルドは反射的に身体を引いた。
毛布は地面へ落ち、荷車も少年も何事もなく通り過ぎる。
たったそれだけのことだったが、胸の奥に残った緊張はなかなか解けなかった。
「助かった。危うくぶつかるところだったな」
「……間に合ってよかった」
ガルドは毛布を拾い、少年の母親に軽く頭を下げた。
誰も怪我をしなかったことを確かめると、周囲の人々はすぐにそれぞれの仕事へ戻っていく。
小さな危険を避けるために声を上げることは、村では珍しくもない。
その平凡さが、かえって胸に残った。
誰かを救ったからといって、必ず別の誰かが傷つくわけではない。
そう信じたい一方で、森の白い亀裂も、ラウネの火災も、まだ何一つ説明できていなかった。
*
夜、治療所へ戻ると、老人が卓上の魔石灯に火を入れていた。
淡い黄色の光が壁を照らし、瓶の影を細長く伸ばす。
その光を見て、ラウネの時計屋が語った青い灯りを思い出した。
「先生。魔石灯って、壊れる前に色が変わることはありますか」
「ものによる。術式が傷めば、明るさも色も変わるさ」
「じゃあ、青く光ったからといって、特別なことではない?」
「特別かどうかは、何が壊れたか次第だ。ノルドならもう少し詳しいだろうな」
旅の修理屋の名前に、少しだけ道筋が見えた気がした。
彼がまた村を訪れるなら、ラウネの魔石灯について尋ねてみよう。
寝台へ戻り、日記を開く。
今日聞いた話を、誰が何を見たか分かるように書き分けた。
『時計屋の証言――火災前、灰色の上着の男が店の魔石の箱を動かした』
『複数の証言――火災前、通りの人々が同じ方向を見たらしい』
『未確認――灰色の男が何を知っていたのか。箱の移動と出火に関係があるのか』
そこまで書き、筆を置いた。
紙の上では三行に収まる出来事の向こうに、焼けた家々と、戻らない人を待つ家族がいる。
それを忘れないため、次の行には火災の被害について聞いたことを書き足した。
『失われたものを、調査の材料としてだけ扱わないこと』
自分に向けた戒めだった。
窓の外では、村の夜が静かに深まっている。
遠くで人の笑い声がして、やがて途切れた。
鐘の音はまだ聞こえない。
第6話の森でリシアを助けた瞬間、空に走った白い亀裂。
ラウネの火災、止まった時計、青く光った魔石灯。
それらが一つの仕組みにつながっているのか、それとも、無関係な出来事に意味を見いだそうとしているだけなのか。
答えを出せないまま日記を閉じようとして、昼間の光景が蘇った。
ガルドが荷車から身を引いたとき、少年も母親も、何も起こらなかったように歩いていた。
危険に気づいていたのは、声を上げた自分と、振り返ったガルドだけだった。
それは当然のことだ。
見ていなければ、気づかない。
では、ラウネで通りの人々が一斉に振り返ったとき、彼らは何を見ていたのだろう。
誰も説明できないのは、見たものを忘れたからなのか。
それとも、最初から何もなかったのか。
窓を閉めようと身を起こしたとき、外を飛ぶ鳥が一羽、屋根の上を横切った。
その影を何気なく目で追い、すぐに視線を戻す。
夜の村は変わらず静かで、風に揺れる木の葉も、遠くを歩く人影も、普段どおりに動いていた。
今はまだ、何も起きていない。
そう思ったところで、なぜそんな確認をしたのか、自分でも分からなくなった。